ベットに座り、雑誌を読んでいたシンジは、むこう側で活動していたミュージシャンを見つけた。あちら側の彼は、反体制的な曲を、「ロックンロールだ」などと言い放ち、稚拙な演奏で歌っていたが、此処では体制への不満などは更々無く、わけのわからない歌謡曲地味た歌を歌っているらしい。どちらにしても軽薄な人間だが、何故彼はこちら側にも存在しているのだろうか。
 この仮想空間内から現実世界へ移した人間はただ一人、シンジだけだと聞かされていた。もし彼等が事実を告げているのであれば、こちら側とむこう側は酷似していることになる。同じ年代に、同じ人物が全く別の理由で存在するとは考えにくい。では、むこう側にも「碇シンジ」は存在したのだろうか。科学的な処理を受けず、人類がその子孫を残す為におこなう行為の末に父と母から生まれ、愛され、シンジ自身が一度も恩恵を賜ったことのない世界で暮らす、「碇シンジ」が一一。
 一一馬鹿らしい………。
 シンジは掛け布団をはね除け、洗面台の蛇口をひねった。


第三話


 一一波瀾に満ちた船旅でしたよ……。やはり、これのせいですか? 
 加持は厳重に保管されて運ばれた「荷物」を取り出した。
 一一既にここまで復元されています。硬化ベークライトで固めてありますが……生きています。間違い無く。
 胎児のように丸くなっている「それ」は、鈍色の眼差しで彼を睨み付ける。
 一一人類補完計画の要ですね。
 触れてはならないもの。独特の雰囲気はアクリルの様に固められたベークライト越しにもひしひしと伝わってくる。
 一一そうだ。
 ゲンドウは眼にしたものを愛おし気に眺め、鬚をなで下ろした。
 一一最初の人間、「アダム」だよ。
 
 昨日の出来事を反芻し、加持は足を止め、病院内にも関わらず煙草に火をつけた。アルコール消毒の匂いが染み付いた壁面に身をしなだれかける。気味の悪いもの、おぞましい醜悪さなどとうに見慣れてきたはずの加持だが、荷物を運び終えた後も胸のむかつきが取れない。それと共に奇妙な高揚感も感じた。まるで、そう……
 一一葛城を抱いた後のような……。
 青臭い感想だ、とでも言うように加持は苦笑した。
 加持にとって葛城ミサトは、自分自身の不可能性の象徴とも呼べる女性であった。自分自身が決して到達出来ない地点で佇むヒト。登れない高みで彼女は手を伸ばし続け、握りしめたその手は、刹那の温もりだけを残し、消えた。叶うことのない願い、幸せを一時だけ共有した人物……一一。
 一一若かったんだな。あの頃は……
 加持は靴の底で煙草を揉み消し、歩き出した。

 碇シンジの病室前に着くと、先程とは別の高揚感が頭をもたげる。計画どうりに進むと、彼がキーパーソンになるのだ。自分自身の半分にもみたない子供が、世界の有り様をきめるのである。本来の加持であれば、個人的な接触は避け、観察に徹するだろう。だが、何故だかシンジとは深く関わりたい、と、加持は思いはじめていた。まるで、加持自身も計画に組み込まれ、見えない糸に手繰り寄せられるように……。

 扉が開き、シンジの前に無精髭の男が立った。二十歳後半であろうか、伸ばした髪を後ろで束ね、細身の体に鍛え上げられた筋肉を纏っている。
 「君が、碇シンジ君かい?」
 半分にやりと笑い、飄々とした態度と裏腹に、鋭く眼差しを投げた。
 「貴方は?」
 「こりゃ失礼。俺は加持リョウジ。もう君は退院できるから、新しい家への案内役さ」
 「それは……わざわざどうも」
 資料には載っていなかった顔だ。だとすれば、「碇シンジ」とのかかわりは薄かったのかもしれない。
 「着替えはベット脇の戸棚に入ってるから、早速着替えてくれ」
 分かりました、と、言おうとすると、突然静寂を切り裂くようなサイレンが鳴り響いた。
 「使徒?」
 加持の呟きに、シンジの背筋に悪寒が走った。

 「本日午後三時五十八分十五秒第七使徒甲と乙によりエヴァ弐号機零号機共に活動停止。午後四時〇三分をもってネルフは国連第二方面軍に指揮権を移譲。同〇五分新型N2爆雷により目標攻撃。これにより抗生物質の28%の焼却に成功。再度進行は時間の問題……と、此処までは良いかい?」
 加持はバインダーから眼を上げ、腰を掛けたシンジに眼をやった。
 「要するに、負けた、ということですね」
 シンジの顔は心持ち青ざめている。加持は無視して先を続けた。
 「そこで君にネルフ参謀部からの要請だ。至急初号機とのシンクロテストを実施してもらいたいらしい。科学部の方は調査が終わっていないって渋ったけれど、まあ、非常事態だからね。しょうがないさ」
 「分かりました」
 シンジは、蒼白な顔のまま頷いた。

 「ひとつ、聞いていいかい?」
 更衣室へ歩いている最中、加持が唐突に切り出した。
 「何ですか?」
 「君は以前の事は何も憶えていないと言った。本当にまったくもって憶えてないのかい?」
 「いいえ。ただ、自分が体験したようにおぼえていないと言ったんです。良く出来た活動写真を眺めるようにしか記憶していません」
 「活動写真とは、レトロな言葉を使うんだな」
 「そうですか?」
 「そうさ。その言葉、久し振りに聞いたよ……。それじゃあな」

 シンジにとって、実際にエヴァンゲリオン初号機に搭乗するのは、これが初めてである。訓練と称する、疑似体感装置を使用してでの擬似的な搭乗は何度となくこなしてきたが、現実にシンクロするには不安を隠せない。
 深く息を吐いたシンジは、プラグスーツを収縮させ、歩き出した。

 「彼、大丈夫かしら?」
 ミサトは、ふらふらとエントリープラグ内に入っていくシンジを眺めながら、リツコに呟いた。
 「身体的には健康そのものよ」
 リツコは作業に追われ、イライラしながらも律儀に答えた。
 「何よ、アイツ。てんでダメじゃない。乗る前からふらふらしてちゃ、使徒とも戦えないじゃないの」
 「アスカ。そう言うなよ」
 アスカの暴言をミサトが窘めようとすると、加持が割って入ってきた。曲がりなりにも家族であった相手を庇うことも出来ず、屈辱感から唇を噛み締める。
 『僕の家族は、貴方じゃない』
 シンジは病室で、こうミサトに言い放った。無表情のままミサトを見つめていた眼は、以前のように柔らかくなることがあるのだろうか。
 ミサトは、沈黙している初号機を凝視した。

 「何で司令や副司令まで来てるのよ」アスカは不愉快そうに、加持に話し掛けた。「そんなに特別な訳? 碇シンジって」
 加持は顎に手をあて、無精髭を摩りながら答えた。
 「まあ、今まで彼が主戦力だったからな。上が顔を出せば、志気もあがるだろうし」
 「全く、あの人形女まで来てるなんて……」

 レイは眉根を寄せ、初号機に見入っていた。
 一一なぜ、私は此処にいるの
 分からない。
 一一彼が「心配」?
 分からない。
 レイは初めて苛立ちを感じていた。答えの出せない自分に対してと、不可解だが、碇シンジにまでも。

 「エントリープラグ挿入。プラグ固定完了」
 マヤの声が部屋に響く。
 「さて、吉と出るか、凶と出るか。見物だな」冬月は手を組んだまま動かないゲンドウを見下ろした。
 「どちらにしても、変わりはしない」
 ゲンドウは唇をつり上げた。

 「始めて宜しいですか? 先輩」
 信頼し切った眼で見つめるマヤを見ると、リツコの心証は曇るばかりである。安全であるか、危険なのか、それすら判断が着かない。S2機関を取り込んだことは確かだが、影響がどの程度のレベルで表れるかようとしてしれないのだ。しかし、使徒が依然として存在している今、止める訳にはいかない。このテスト如何で、今後の戦略も大きく変わるのだから。
 「ええ、始めて頂戴」

 「第一次接続開始。エントリープラグ注水」
 つま先の方から徐々に橙色の液体が音もなく流れ込んでくる。シンジの肺から空気を追い出した液体は、喉に奇妙な圧迫感を与え、記憶と寸分違わず吐き気を催させた。
 「エントリープラグ内、LCL注水完了」
 伊吹マヤの声がエントリープラグ内で反響した。
 「主電源接続」
 
 「全回路動力伝達確認」
 
 「起動スタート」
 
 細胞の一つ一つが弾け、泡立っていく。境界は緩やかに広がり、浸透する異物。魂の混合がそこにはあった。これが、母に包まれる実際の感覚なのだろうか。
 「お母さん?」
 呟いたとたん、視界が消える。


 眼を開くと、夕闇に彩られた旧式の電車内にいた。目の前には五〜六歳であろう黒髪の少年がシンジの前に座っていた。
 『君は?』
 『僕は君さ。いや、「君」の記憶から構成された人物かな? 姿形だけだけれどね』
 『此処は何処なんだ』
 『エヴァの中だよ。君はエヴァに乗り込んだだろう』
 一一変です。シンクロ率の上昇、止まりません!
 『で、俺の模造品は何故姿を表わしたんだ』
 『御挨拶だね。僕は「碇シンジ」の幼少時代の背格好だけれど、中身は君よりも年寄りなんだよ。少し、口を慎んだ方がいい』
 『質問に答えろ。何の用だ』
 一一200、250、300、350……350%近辺でシンクロ率停滞しました。パイロット、モニター出来ず!
 『君を一目見ておきたくてね。それに、君の記憶操作が成功しているかどうか気になったんだ』
 『俺の、記憶操作?』
 『次の使徒は何だか憶えているかい』
 『それは……憶えていない』
 『では、この人物は?』
 少年の横に、赤毛の少女がふいに出現した。不釣り合いなことに、制服を着ているが、違和感はなかった。まだ幼さの残る体つきをしているからかもしれない。
 見覚えのある顔だが、シンジには彼女の事を思い出せなかった。
 『……どうやら成功しているようだね。今僕と合ったことで、少しだけ残っていたむこう側の記憶も消えたよ。予定どうりだ』
 笑みを浮かべた少年と、無表情の赤毛の少女は、うっすらと視界から消えはじめた。シンジは狼狽し、叫んだ。
 『むこう側の記憶って何だ! 何故俺の記憶を消したんだ! 答えろ!』
 『そのうち分かるよ』
 ぐらぐらと景色が揺れる。

 「シンクロ率低下。300、250、200、150、115……115%で停止しました。パイロットモニター出来ます」
 マヤ以外の人物達は、一様に息をのみ、冷や汗を流していた。禁忌のもの、決して触れてはならないものの具現。それは恐怖を引き起こし、空気を淀ませた。まるで、荒れ狂う獣が目の前に突如現れたとき、硬直した体で血によごれた臭気を感じるように。
 「起動、成功です」マヤはリツコの方を怪訝そうに見た。「先輩、大丈夫、ですか?」
 リツコは正気に返り、シンジに声を掛けた。
 「シンジ君、大丈夫?」
 顔を伏せていたシンジが正面を向き、答えた。
 「ええ、大丈夫です」

 歓声の上がる中、未だに無言の五人は、眉をひそめ、各人各様の思いで初号機を見据えていた。






+続く+




 お久しぶりです。shushluidです。
 続きを期待して下さっていた方々、遅れて申し訳ございません(そんな人いるのか?)。色々忙しく、まったくもって書けませんでした。
 さて、この作品はバットエンドになる予定です。まだ、終わるかどうかも分からない作品ですが、一応報告だけしておきます。もしハッピーエンドの方がいいという人がいれば、その旨をメールで送ってみて下さい。変わるかも知れませんので。
 それでは、また。


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