薄暗い室内には、コンピューターの明かりだけがともっている。研究員は目の前にある水槽をちらりと見遣り、不愉快そうに視線を剥がした後、キーボードに指を這わせた。enter keyを押せば全てが終わる。妻も子供も助かり、なおかつ現在猛威を振るっている疫病の治療薬も手に入れることができるのだ。人ひとりの命か、それとも愛するものの命か。迷う必要もない。
 少しだけ残っている良心の呵責とやらを紙屑のように捨て、彼はenter keyを押した。
 −−…カチャ、
 水槽に満たされていた液体は、赤色に衣を変え、内部の人間は徐々に消滅していく。
 彼は廊下に出、暗闇の中を歩いていった。狭い通路に、渇いた足音が反響する。もう彼は、ここに戻ることはないだろう。
 
 水に漂い、自身の境界が曖昧になっていくのを、シンジは知覚した。肉体から魂とでも言うものが飛び出し、世界が際限なく広がっていく。神になったようだ。ふいに、一つの方向へ引かれていく。混沌の渦に抱かれ、その奔流を一身に受けた。気を持とうとこころみたが、既に五体は砕かれ、脳も身体も失ったシンジには、抵抗する術がない。あるいは、抵抗するという選択肢を選ぶことすら出来ないというべきか。混濁した意識は指向性を持ち、長く短い旅路へつく……。
 残された水槽の底に、こつりとカードッチップが落ちた。
 もはや室内には誰も存在しない。コンピューターのうねる音だけが、ゆったりとひろがる。


第一話 


 「で、そのシンジとか言うやつは、エヴァに取り込まれたってわけね」
 アスカは初号機を視界に入れながら、リツコに言葉を返した。
 彼女は日本に来て早々、この場所に連れてこられていた。本部の人間と顔を合わせた後、サードチルドレンがエヴァンゲリオン初号機に取り込まれた状況のビデオを見せられ、その足でこの場所へ来たのだ。
 「そう、零号機が可粒子砲の盾になった後、シンジ君のシンクロ率が400%を越えてエヴァに取り込まれたのよ。その後、ATフィールドで可粒子砲を遮断、後は一方的に使徒を屠ったわ。S搭@関を自らとりこみながら、ね」
 「でもなんで、一気にシンクロ率が上がるのよ」
 アスカにとって、一番重要な問題はそれだった。まだ顔を合わせても居ない同僚の状況よりも、シンクロ率上昇の理由を解明し、その方法を身につけることのほうが先決である。アスカにとって、シンジの存在は壁以外のなにものでもない。
 「それは多分、零号機を守ろうとしたからね」
 アスカは眉根を寄せ、怪訝そうにリツコに向き直る。
 「どう言う意味?ただの感情だけでシンクロ率が上がるとでも言うわけ?」
 それならば、自分の方が何倍も上のはずだ。写真で見る限り、碇シンジは弱々しい体裁をしている。しかも、初めてエヴァに乗ったのが、ついこの間だと聞いている。自分は碇シンジよりもエヴァへの執着が薄いと言われたようで、腹立たしい。アスカはリツコを睨みつけた。
 口惜し気に臍を噛むアスカを、リツコは流し目に見た。 アスカは、努力の末に現在のパイロットの席を与えられたと思っている。そして、努力次第でどうとでもなると考えているのだろう。しかし、人には与えられた天賦の才能があるのだ。もしくは、資質と言うべきか。それを認知させるためには、今事実を伝えるべきなのであろう。今後、アスカが潰れないためにも。リツコはため息をつき、話を続けた。本来の仕事を怠っている、作戦部長を少し恨みながら。
 「いいえ、誰も彼もがシンジ君のようにエヴァ本来の力を引きだせる訳ではないわ。むしろ、彼が特別なのよ。これは予想だけど、多分エヴァの側からではなく、シンジ君の側からの働きかけがあったのね。普通シンクロは相互の同調を計っているようでも、エヴァの側から選ばれなければならないのよ。エヴァからの侵食みたいなものね。でも、シンジ君の場合は……」
 「自分から侵食されていった…ってこと」
 「御明察。もしくは、取り込んでいったとも言えるわね。これは、シンジ君の才能よ。…代償は大きかったけど(シナリオにもないことですもの)」
 初号機は依然拘束具をつけられぬまま、醜悪な素顔を晒し、白痴的な笑みを浮かべ、鎮座している。矮小な人間を嘲っているのだろうか。
 「で、話は変わるけど、何であの娘があそこにいる訳?」
 「さあ、知らないわ。ここのところずっとよ」
 「そう……」
 アスカは踵を返し、ケージから出ていった。自然と手に力が入る。
 (負けてられないのよ、私は)
 リツコはアスカを見届けると、マヤを呼び出し、初号機完装の手はずを伝えた。蒼銀の髪の少女は、彫像のように初号機を見つめている。そこには、どんな感情も写っていない。彼女がシンジの側につけば、ゲンドウは私を見てくれるだろうか、などと言う生娘地味た考えが浮かび、馬鹿げたことだと頭を振った。その際に、処分を決行するのは、じぶんなのだから。しかし、自分の寵愛を受けている少女が、自分の息子を選んだら、ゲンドウはどんな顔をするのだろうか。それを見てみたいとも思う。リツコは自分がどんな選択をするのか、自分自身でも分からないでいた。

 レイはいつものように無表情だったが、内心は千々に乱れ、戸惑っていた。何故自分が戸惑っているかにすら、戸惑いを覚えていた。喜ばしいのか、悲しいのか、任務失敗を悔やんでいるのか、それとも彼の現状を心配しているのか、そのどれもが真実のようで、また同時に違和感を覚えた。確かなのは、今の状況に不安を感じているということだ。
 そう、不安。レイにとって世界は揺るぎないもので、単調な事柄がつみかさなったものだった。それは、衣食住全て変わらず、ただひたすら生きていくというだけ。これまでもそうであったし、これからもそうであるという確信に似た何かがレイの思考を覆っていたのだ。しかし、彼はよくも悪くも、自分に関わろうとしてきた。そして自分自身も初めは嫉妬と言う感情を彼に向けていた。彼を自分とゲンドウの関係を疎外する人物として、憎んでいたかも知れない。はからずも、綾波レイの心に碇シンジと言う人物の存在をゆるしたのだ。
 レイが嫌悪しているにもかかわらず、自分を守るようにシンジはエヴァに取り込まれていった。
 メビウスの輪を這う虫のような思考が、裏と表を彷徨い続ける。早くシンジに会いたいとレイは思った。そうすれば、この不安が解消されることを何故だか確信していたから。

 それから五日後、完装作業中の初号機が突如起動。コアの中からシンジが浮かび上がり、大量のLCLと共に排出された。シンジは昏睡状態に陥っていたため、集中治療室に運び込まれた。その三日後、病状が安定したため一般病棟に移ったのだった。しかし、シンジはまだ目覚めなかった。

 シンジは夢の中でこちらのシンジの記憶を追体験していた。幼き日に捨てられ取り残されていく自分、叔父夫婦からの精神的な疎外、孤独な学校生活、第三使徒、葛城ミサトとの同居生活、第四使徒との戦闘、家出、友人、綾波レイ、第五使徒、…………。
 うなされ、眼が覚める。真っ白な天井が視界を覆い、湿ったシーツが素肌を撫ぜた。起き上がり、窓の外を眺める。夏の強い日射しが照りつけ、神が白い絵の具を垂らしたような雲が蒼い空を突き抜けていた。時折吹く風は白いカーテンをはためかせ、消えていく。都会のスモッグに満ちた不透明な空とは違い、飛べそうだ。
 枕の上に頭を落とすと、また急に睡魔が踊りかかって来た。シンジはされるがままに眠りに落ちていく。今は動かなければならない時ではないのだから。

 



+続く+




後書き 
初めまして、shushluidと言うものです。初めての投稿、しかもかなり長くなりそうなので気長におつきあい下さい。あと、間違いの御指摘や文句、お褒めの言葉等、お待ちしております。なんとか観賞(鑑賞か?)にたえる作品にしたいので……。
 それでは。 


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