桜舞う
第三話




三月の下旬、シンジはシアトル国際空港の正面玄関に立っていた。

外の様子は静かだった。

ここからはっきりと見える町並みが、日本のそれとまったく違うことに、

シンジは心細さを覚えた。

すぐにでも引き返して、日本に飛んで帰りたいような思いにかられた。

シンジはふと空を見上げた。

そこには、日本の空と同じ、青い空が広がっていた。

思いがけず飛び込んできた、その見慣れた風景が、シンジを勇気づけた。

(綾波!)

シンジは心のそこに秘められた面影に呼びかけた。

綾波に手紙を出して始めてから、まもなく一年になる。

シンジは彼女に会いに行くと決めてから、一心不乱にバイトをした。

そのことも、シンジには苦にはならなかった。

綾波に会えると考えるだけで、どんな困難も乗り越えられる気がした。

そしてようやくこの春休みを利用して、二週間のアメリカ滞在が決まった。

綾波には日本をたつ一週間前に、アメリカに行くことを手紙で告げてある。

おそらく彼女は昨日までにはその手紙を受け取っているはずだとシンジは思った。






シンジはバスに乗った。

ここから目的地までは三時間ほどかかる。

シンジは後ろから二列目の席に座った。

止まっていたバスが、ゆっくりと動き出した。

過ぎてゆく町並みを見ていると、その土地の人々の生活の営みが伝わってきた。

そしてうえのほうに目をやると、赤みがかった空にいくつかの雲が浮かんでいた。

シンジはそのうちのひとつをじっと見た。

初めは犬のように見えていた雲が、次第に形を変えて、ついには消えてしまった。

そのような雲の移り変わりを見ると、シンジは

(はかないなぁ・・・。)

と思った。

シンジは自分が感じたその言葉が、自分自身や綾波にも向けられたものだという気がしてならなかった。






目的地に近づくにつれて、多かった家の明かりが、数えるほどに減ってきた。

そのさびしげな風景が、綾波の心をあらわしているようで、シンジは心苦しくなった。

バスが、ゆっくりと止まった。

シンジはハッとして声を出した。

「お、降ります!」

聞きなれない言葉に、バスの運転手は怪訝な顔をしたが、なんとなく伝わったようだ。

シンジはスーツケースを片手にバスを降りた。

久しぶりにすった外の空気は、ひんやりと冷たかった。

目の前に広がる真っ暗な空間に足がすくむ思いがしたが、かまわず歩き出した。






シンジはホテルに荷物をあずけて、その足で病院へと向かった。

ここは三月とは言いながら、ひどく寒かった。

しかしシンジはその寒さをほとんど感じなかった。

彼の頭の中にあるのは、病床の綾波の姿だけだった。

ホテルから病院までは歩いて十分もかからない距離にある。

それだけに、気持ちを落ち着ける時間が少ない。

彼女にかける言葉を考え終えないうちに、目的地が見えてきた。

その病院は、町の規模の割には大きかった。

シンジはその場で立ち止まった。

(ここに綾波がいるんだ・・・。)

シンジは彼女に早く会いたいと思っていたが、足が前に進まなかった。

心のどこかで、逃げ出したい気持ちがあった。

(ここまできたら・・・もう後戻りはできない・・・)

シンジは前に進んだ。






中に入ると、すでに日が落ちたからであろうか、広いロビーにはほとんど人影がなかった。

シンジは辺りを見回して、その薄暗さに寒気を感じた。

頭に浮かぶ粘っこい不安を振り切りながら、シンジは受付らしきところに向かった。

「あの・・すいません・・・じゃなかった。エ、エクスキューズミー。」

すると受け付けのナースは微笑んで、

「あら、日本人の子ね。」

と言った。

よく見ると、どうやら日系人のようだった。

シンジは久しぶりに心が落ち着くのを感じた。

「誰かのお見舞い?」

「あ、はい。こちらに綾波レイっていう患者さんが入院していると思うんですけど・・・。」

「ちょっとまってて・・・綾波レイさんね・・・。」

こう言いながら、彼女は脇にあるパソコンで調べているようだった。

「・・・はい、確かに。綾波レイさんはE−015号室に在室中です。
ところで・・・あなたは彼女のご親戚かなにかかしら?」

「いえ・・・親戚でもなんでもないんですけど・・・。」

シンジはなんといっていいか分からず、口どもってしまった。

「・・・そう。・・・あの、ちょっと言いにくいんだけど、E棟の患者さんは、
ご親類以外の面会をお断りしているの・・・。」

シンジは一瞬、彼女の言葉が理解できなかった。

「え・・・、そんな・・・。」

「わざわざ遠いところを・・・悪いんだけど・・・。」

シンジは目の前が真っ暗になった。

(綾波に・・会えないのか・・?)

シンジが何とかしようと受付に詰め寄ったとき、

「・・・もしかして、碇君?」

とふいに後ろから声がしたので振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。

清潔感があるその姿に、シンジはある懐かしさを覚えた。

「あの・・・あなたは・・・?」

そう言うと、彼女はクスリと笑って、

「あら、覚えてないかしら。あなたとは一度会っているのだけれど・・・。」

と言った。

シンジは自分の記憶を探った。

そして綾波を最後に見た日、彼女の後ろに立つ母親らしき人物を思い出した。

「もしかして・・・綾波のお母さんですか?」

すると綾波の母らしき人物はにっこりと笑った。

「ふふ・・、そうよ。よく覚えていてくれましたね。」

その笑顔は、あの日の綾波の笑顔と心なしか似ていた。

「お手紙は昨日受け取りました。さぁ、行きましょう。きっとレイも喜ぶわ。」

「あの・・・でも・・・。」

シンジは受付のほうをちらりと見た。

するとそのナースは

「ふふ、親の許可があればOKよ。じゃ、この紙に名前を書いてね。」

と微笑んだ。

「あ、ありがとうございます。」

シンジははやる気持ちを抑えて、名前を書き終えると、綾波の母の元へ行った。

彼女は近づいてきたシンジの顔をじっと見つめた。

「本当に久しぶりね、碇君。もうすっかり男らしくなっちゃって。」

「あ・・・いえ・・。」

シンジは何故か未来の綾波と一緒にいるような気がして恥ずかしくなった。

そんなことを話しながら、二人はエレベーターに乗った。

「小学生のころだったかしら・・・。レイったらね、学校から帰るたびに碇君の話ばっかりするのよ。
碇君が話しかけくれたとか、碇君と何回も目が合ったとか、碇君と一緒に遊んだとかねぇ。
私はそれがおかしくておかしくて・・・。
でもね、そんな話をしているときのレイの笑顔と言ったら、とてもかわいらしい笑顔でね。
私は今でもその時のあの子の顔が、目に焼きついてる・・・。」

綾波の母の頬に、一筋の涙が流れた。

彼女はそれを指でふいて続けた。

「けど、ここに来てから、レイはほとんど笑わなくなっちゃって・・・。」

シンジはこの言葉を聞くと、背筋が寒くなった。

五年以上も病んでいる綾波は哀れではあった。

日本で描く幻の綾波の姿は確かに可憐だったが、今思うとそれは現実と大きく違っているような気がした。

「でもね、去年の今頃だったかしら、碇君から桜の押し花をいただいたでしょう。
そのときのレイは本当にうれしそうでね、久しぶりに笑ったわ。
まるであの頃に帰ったような気分だった・・・。」

綾波の母の目は、シンジにはどこか遠くを見ているように写った。






シンジは綾波の容態を聞きそびれた。

綾波の部屋に近づくにつれ、シンジの口は重くなった。

綾波のやせ衰えて、青ざめた顔が目に浮かぶようだった。

五年以上も病気であれば、どんな慰めもそらぞらしく聞こえるに違いないと思うと、

会ってなんと励ましていいかわからなくなった。

一日二日の風邪で寝込むのさえ、つらいものだ。

五年越し、しかもここ一年ほどは来る日も来る日も寝ているということは、どんなにつらいことだろう。

まして若い女の子なのだ。

シンジは胸がふさがる思いがした。

「そこのつきあたりにある部屋よ。」

と、綾波の母が指差した。

「きっとレイも待ちかねていると思うわ。」

一歩一歩、その部屋までの距離が短くなっていく。

(何て言って慰めたらいいんだろう・・・。)

シンジは幾分固くなりながら、後に従った。

綾波の母は取ってに手をかけ、ゆっくりと扉を開けた。

「レイ、碇君よ。」

その声がひどく優しくて、シンジの胸を打った。

「碇君・・・。」

シンジはその声にはっとして立ち止まった。

シンジがかつて聞いた彼女の声とまったく変わっていなかった。

病室の窓際に、綾波はか細い体を横たえていた。

しかしその顔は、シンジがいまだかつて見たことのないような、明るい輝きに満ちていた。

「綾波・・・。」

シンジはそう言ったまま、その場に座った。

こんなに細くなって、しかも寝たきりの生活の中で、なんてにこやかな顔をしているのだろうと、

シンジは心打たれて言葉が続かなかった。

「・・・碇君・・・疲れた・・でしょ。・・・ここは遠い・・・から。」

可憐な声が、子供のようにあどけなかった。

シンジはちらっと綾波の花嫁姿を思った。

ふと目をやると、綾波の寝ている壁に、押し花がずらりと貼られてある。

桜も、スミレも、梅も、それぞれに受け取った月日を小さく書き込んで貼ってあった。

シンジは胸が熱くなった。

「・・・碇君の送ってくれた花・・・こんなにいっぱいになった・・・。」

綾波の母はすでに席を立ってここにはいない。

シンジは何か胸の締め付けられるような思いがして、あらためて綾波の顔をじっとみた。

そのシンジを、綾波は静かに見返した。

恐ろしいほど澄んだ目だった。

と、その目のさっと涙が走った。

だが次の瞬間、綾波はニッコリと笑っていた。

「・・・私・・ほんとうに押し花・・・うれしかったの・・・。」

笑ったその目から、ほろりと涙がこぼれた。

その涙を細い指でぬぐいながら、

「・・・変。・・・うれしいときでも、涙が出るのね・・・。」

と、綾波は恥じらった。

シンジはその綾波を見つめながら、心の底から綾波をいとしいと思った。

この可憐な綾波のために、どんなことでもしてやりたいような思いがした。

自分ができることであれば、綾波を喜ばすためには、どんな努力も惜しまないと思った。

長い間、日本で描いていた綾波とはまったく違ったその明るさに、シンジは感動した。

それは自分が健康な者としての哀れみに似た思いではなく、尊敬とも言える感動であった。

シンジは自分の手の中に入ってしまいそうな綾波の手を見た。

その手を強く握り締めたいような思いに耐えながら、

「綾波、また明日来るよ。僕は長い時間ここにいるから、今度は押し花じゃなくて、
いろいろな花を持ってきてあげるよ。」

と言った。

綾波の目はみるみる涙でいっぱいになり、その瞳がきらりと光った。

ガラスが風でかすかに揺れた。






それからシンジは必ず毎日朝から病院に顔を出して綾波を見舞った。

二人はいろいろなことを語り合いながら、ともに笑った。

シンジが綾波に対する思いを口にしなくても、お互いの心はいつしか通じ合っていた。

綾波といるときが、シンジには一番充実した時間のように思われた。






シンジは、外の景色や、学校での出来事などをよく語って聞かせたが、

綾波はいつも心から喜んで聞いた。

そしてまたどんな見舞いの品でも、たとえば道端の花一本もって行っても

綾波は喜びを顔いっぱいに表した。

いつも寝ていて、何年も外を見ることのない綾波には、

ありふれた花一本にも、いろいろな風景が目に浮かぶらしかった。

だがそれにもまして、自分を喜ばせようとするシンジの気持ちを、

いつも鮮やかに感じ取ってくれるのだった。

そんな綾波を、シンジはつくづくかわいいと思い、優しいと思った。

人の好意を受け取ることに関しては、綾波は天才的ですらあった。

ほんのちょっとした好意でも、それを綾波が受け止めるとき、

言葉すくなだが、限りない豊かな想像を加えて、

またひとつの楽しい思い出となった。

りんごやみかんを買っていくと、綾波はそれを手にとって飽かず眺め続け、

そして無邪気に笑って喜んだ。

見舞ったものの方が、かえってうれしくなるほど喜んでくれた。

いつも綾波が喜ぶものだから、

シンジはつい何を見ても綾波に見せたいと思った。

特に山陰に沈む夕焼けや、桜の並木を見せてやりたいと思った。

どんなに喜ぶだろうと想像するだけで、

シンジも綾波とともに見ているような気持ちになった。

こうして綾波を見舞い、語り合うことはシンジの大きな喜びであり、

心の支えとなっていった。






それだけに、いつかは日本へ帰らなければならないということが、

次第にシンジの心の大きな重荷となっていた。






最後の日が来た。

その日にシンジが見た朝日は、いつもより鈍い光を発していた。

顔を洗い、歯を磨くときでも、シンジは綾波のことを思った。

これまでの二週間、とても充実した毎日だった。

いろんな話もできたから、シンジはそれで十分ではないかとも考えた。

何かもやもやした思いのままに、シンジはまっすぐ綾波の病院へと向かった。






病院へと続く道を歩いていても、シンジは綾波の姿を思った。

いつもは早く病院に行こう、綾波に会いに行こうと急ぐのだが、

今日に限って、ずっとつかなければいいのにと思うこともあった。

逃げ出しそうにもなったが、シンジはそれを思いとどまった。






シンジは病院の敷地内に入った。

今日でここに来るのが最後かと思うと、何気ない風景一つ一つが感慨深いものに思えた。

ロビーへと続く通路の脇にある庭に、シンジはふと目をやった。

そこにはここに来た当時には感じられなかった、春を思わせる色鮮やかな花が咲いていた。

その一角に、綾波の母が立っていた。

彼女はそこに咲いている花のひとつに水をやっていた。

すると彼女はシンジに気づき、水をやるのをとめて、シンジを見て微笑んだ。

その顔を見ると、シンジは急に切なくなった。

「あら、碇君おはよう。いつも早いわね。」

シンジは綾波の母の顔をみず、うつむいたままだった。

「あの・・・、実は今日で日本に帰らなければならないんです。」

出会うなりシンジは言った。

「・・・え、今日で?もう?」

綾波の母はさっと顔をこわばらせて、綾波の部屋のほうをうかがった。

シンジも綾波の部屋のほうをうかがった。

「もう帰らなきゃならないのね・・・。でも碇君が来てやっと二週間たったばかりじゃないの。」

「はい・・・でも、学校があるので・・・。」

シンジはやっとの思いで口に出した。

この時ほど学校が余計なものに感じたことはなかった。

「そう・・・学校ね・・・。」

綾波の母は、その細い手をぎゅっと締めて、涙声でつぶやいた。

シンジはその母の様子を見ると、急に不安になった。

この人でさえ、こんなに悲しむなら、当の綾波はどうなることかと、心配でならなくなった。

この一年間、綾波の体は徐々に衰弱していったが、

ここ二週間は、それがうそのように体調がよくなっていった。

せっかくよくなりつつある体にさわりはしないかと思うと、帰国を告げるのは、いかにも残酷に思えた。

「まあ・・・仕方ないわね。引き止めるわけにも行かないものね・・・。
でも碇君、レイにはあなたから言ってくれない?
私からじゃとてもいえそうにないから・・・。」

普段の姿に似合わず弱気だった。

シンジは仕方なく綾波の部屋に向かった。

いつも通りなれているはずの道が、やけに長く感じた。






「おはよう・・、碇君。・・・私・・昨日・・流れ星を見たの・・・。とってもうれしかった・・・。」

輝かしいほど明るい綾波の表情に、シンジはいっそう気重になった。

この部屋を、自分は何度訪れたことだろう。

何度訪れても、綾波は一度として不機嫌だったことはなかった。

この分なら打ち明けて大丈夫かもしれないと、

心を奮い立たせながら、シンジは綾波の枕元に座った。

「・・・綾波。」

あらたまったシンジの声に、綾波は不審そうに澄んだ目を向けた。

その目を見ると、シンジはやはり言い出しかねた。

何ていったら、一番驚かさずにすむか、悲しませずにすむかと、シンジは言葉を捜していた。

「・・・どうしたの?・・・とても難しい顔をしてる・・・。」

「・・・うん、・・ちょっとね・・・。」

シンジは少し笑った。

自分がここを去っても、綾波はここにこうして、ただ寝ているより仕方がないのだと思うと、

直ちに帰国を告げるのはできなかった。

「綾波。」

シンジは思わず綾波の手を取った。

細いやわらかい手が、シンジの両手に素直に握られた。

とけてしまいそうな柔らかなその手を握っていると、

綾波の細々と命がじかに感じられて、シンジは胸が詰まった。

もし帰国を告げたなら、この手は本当に生きる力を失ってしまうのではないかと、

シンジはその手をそっと包むように握りなおした。

「・・・何?・・・なんだか・・・いつもの碇君と・・・違う・・・。」

手を握られて、綾波は赤くなっていた。

「あのね・・・綾波・・・。」

シンジは思い切って言った。

「僕は今日、日本に帰らなきゃいけないんだ・・・。でもね、またすぐ会えるから・・・。」

じっとシンジの顔を見ていた綾波のつぶらな瞳が、みるみるぬれていき、

いっぱいに見開いたその目に涙が盛り上がった。

と思うと、涙がこぼれるように両頬を流れた。

綾波は一言もしゃべらなかった。

そっとシーツを胸元まで上げ、次に首まで隠し、最後にはすっぽりと顔まで隠してしまった。

シーツがかすかに動き、綾波はその下で、声を立てずに泣いているようだった。

シーツを持っていた細い手が、シーツの中に隠れた。

その細い手が、涙をぬぐっているのだろうと思うと、シンジは胸が締め付けられるようだった。






どれほど時間がたったのだろうか。

やがてシーツの中から綾波が顔を出した。

目を真っ赤に泣きはらしたまま、綾波はそれでもシンジを見てニッコリと笑った。

「・・・変、・・・私・・・涙がないって思ってたのに・・・。こんなにたくさんの涙・・・
どこに隠れてたのか・・・わからない・・・。」

笑った目からまた涙がこぼれた。

そこまで言うと、唇をぎゅっと締めて、綾波はまた涙をぬぐった。

シンジも自分の涙をぬぐった。

「でもね、綾波、一生の別れってわけじゃないんだよ。
・・・また夏になったら、見舞いにこれるから・・・そんなに泣かないでよ・・・。」

「・・・ありがとう・・・。でも・・・そのうち・・・碇君は、私のこと・・・忘れるかもしれない・・・。
でもそれは・・・碇君のためには・・・いいことだと思う・・・から・・・。」

「綾波・・・それはあんまりだよ・・・。僕は声に出して、自分の気持ちを言ったことはないけど、
綾波はわかってくれてると思ってたのに。」

「・・・でも・・・碇君は・・・健康だから・・・。」

「・・・いい機会だから、はっきりと言っておくよ。実はね、綾波、僕は高校で告白されたことがあるんだ。
・・・けど僕は断った。」

シンジは深く息を吸った。

「それはね、綾波、僕には綾波という人がいるからだ。」

綾波は驚いてシンジを見た。

「必ず、綾波はよくなる。そして僕のお嫁さんになるんだ。どんなにかかっても、必ず治ってくれなきゃ困る。
けどなおらなければなおらないで、僕は一生ほかの人とは結婚しない。」

シンジは初めて自分の想いを綾波に告げることができた。

そして本当に、この可憐な綾波以外の誰とも結婚すまいと、あらためて心に誓った。

「・・・そんな・・・もったいない・・・。」

「何がもったいないんだ。僕のほうこそ、綾波のような心の美しい人と、
こうしていられるだけで、どんなにもったいないことか。」

シンジはひざを正して言った。

「綾波・・・僕と一生をともにしてほしい・・・。」

再び綾波の目から、涙があふれた。

綾波はゆっくりと首を横に振った。

「・・・いけない・・・。碇君は・・・健康な人と一緒になって・・・。
私を・・・かわいそうだと思わないで・・・。」

シンジは綾波のそばに寄った。

そして手で綾波の涙をぬぐいながら、シンジは言った。

「綾波・・・人間にとって一番大事なものは、体だとでも言うの?
僕はそうは思わない。僕には体よりも心が大事だ。」

「・・・ありがとう・・・。でも・・・。」

「なにが「でも」なんだ。人間が人間であることのしるしは、その人格にあるはずだ。
手がなくても、目がなくても、口がきけなくても、人間として大事な心が立派なら、
それが立派な人間だっていえるんじゃないか。
病気のことなんて、決して悪く思っちゃだめだ。
綾波には誰にもまねできない優しさや、純粋さがあるんだから。」

「・・・うれしい・・・。碇君にそんなふうに言ってもらえて・・・。・・・でも・・・。」

「・・・またでもか。もうでもなんて、言うなよ。」

「・・・でも・・・。」

そのとき、シンジは覆いかぶさるようにして、綾波のぬれた唇に唇を重ねた。

綾波は驚いて、抵抗することができなかった。

やがてシンジが顔を離した。

綾波は目を見開いて、かすかに震えていた。

胸が大きくあえいでいた。

「綾波・・・。」

シンジはそっと綾波を呼んだ。

綾波は両手でシーツをつかんで、再びそれで顔を隠してしまった。

しばらくしてから、綾波はシーツを口元まで下ろして、真っ赤になった顔を覗かせた。

その姿がシンジにはとてもかわいらしく写った。

「・・・あの・・・碇君・・・その・・・。」

綾波はなんといっていいかわからず、口が上手く回らないようだった。

そしてちらりとシンジのほうを見ると、すぐにまた顔を赤くして、視線をそらした。

「綾波・・・僕はずっと待ってるから・・・心配しないで・・・。
そしていつか綾波がよくなって、日本に帰ってきたとき、その答えを聞かせてほしい・・・。
綾波・・・約束・・・だからね。」

そう言ってシンジは笑った。

綾波は顔を半分シーツで隠しながら、こっくりとうなずいた。

二人は黙って顔を見合わせた。

窓ガラスが風にがたがたと鳴った。

「・・・二週間。」

ぽつりと綾波が言った。

「ああ、僕がここに来てから?」

「うん・・・。ちょうど十四日・・・。」

綾波は何かを考えているようだった。

「それで?」

「うん・・・。たった二週間でも、・・・何だか・・・、
私の過ごしてきたすべての楽しかったことを全部集めても・・・、
この楽しさには比べられないって・・・思ったの・・・。」

綾波はニッコリと笑った。






これがシンジが病室で見た綾波の最後の笑顔だった。






ホテルに帰って、シンジは荷物を整理しながら、綾波の病室でのことを思った。

(どうして僕はあんなことをしたんだろう・・・)

そう思うたびに、シンジの胸は高鳴った。

仕方がないとはいえ、一時の感情に身をまかせてしまったことに、シンジは後ろめたさを感じた。

けど心のどこかで、自分の思いをつたえられたことに対する満足感があった。

そして綾波の見せてくれた笑顔を思うと、シンジは綾波の病気がすぐにでもよくなるような気がした。

荷物を整理し終えると、シンジはこの部屋から見える外の風景に目をやった。

そこから真っ赤な夕日が沈むのが見えた。

(また今度の夏・・・ここに来よう・・・)

そう思って、シンジはスーツケースを手に取り、部屋を後にした。






チェックアウトをすませ、時計を見ると、まだバスが来る時間までには余裕があった。

シンジはその間に少し周りを散歩しようと思い、いつもと違う道を歩き出した。

ここに来た当時よりも、そこの町並みは緑が多くなっており、春が感じられた。

シンジは心地よい空気を感じながら道路わきのベンチに腰を下ろした。

ふっと綾波の笑顔が目に浮かんだ。

足に何かがあたった感触がしたので、目線を下にやると、赤いボールがそこにあった。

道路の向こう側から来たものらしかった。

顔を見上げると、子供がこっちに向かって走りよってきた。

とその時、大きなクラクションがしたかと思うと、一台の大きなトラックが、近づいてきた。

「危ない!」

シンジは道路に向かって駆け出した。

ほかに何も考えられなかった。

やっとの思いで、子供を手で突き放した。

そのとき、なぜか再び綾波の姿が目に浮かんだ。





綺麗な花嫁姿だった。





ドンっと鈍い音がした。

その場所には、泣き叫ぶ子供と、トラックと、

真っ赤に横たわる少年の姿だけが残った。






+つづく+





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