桜舞う
第二話




シンジは制服に身を包み、カバンを片手に持ちながら玄関に立っていた。

「じゃ、行ってきます。」

そう言うと、シンジはドアを開けて外に出た。

中学を卒業し、高校生になってから数日がたった。

高校は家から電車を使って二つ目の駅のすぐそばにある。

シンジはもっぱら電車を使って登校していた。

駅に向かう途中、シンジはかつて通っていた小学校に目をやった。

小さな子供たちが、元気よくあるいている。

僕もそんなころがあったんだなぁと思いながら、シンジは立ち止まって校庭に立つ一本の木を眺めた。

それを見ると、昔の記憶がおぼろげながらもよみがえって来る。

少ししてからシンジはまた歩き始めた。

今、その木は桜が満開だった。








学校の帰り、シンジは駅前の書店に寄った。

シンジは店内に入ると、真っ直ぐ目的地へと向かった。

そしてとある場所で立ち止まった。

(この本を眺めるのは何度目だろう。)

シンジは本棚に手を伸ばした。

そのとき、同じ本をとろうとしていた別の手に触れた。

「あ・・。」

シンジははっとして隣を見た。

澄んだ目をした、色白の女性だった。

昔の記憶がまたかすかによみがえった気がした。

シンジはじっと彼女を見つめ続けた。

彼女が顔を赤くしてうつむくと、やっと自分のしていたことに気がつき、シンジは恥ずかしくなった。

気まずくなってしばらく沈黙が続いた。

「あの・・。」

彼女が口を開いた。

「あなたが、先だったから。」

「あ・・・、い、いえ。僕はこの本を持ってますから・・・。」

彼女と再び目が合った。

シンジは逃げ出したくなった。

「あの・・・僕はこれで・・・。」

シンジはそういうと、彼女をおいて書店を出た。






翌日、シンジは学校へいつも通り登校してきた。

「なあシンジ、知ってるか?」

ケンスケがシンジに話しかけた。

彼とシンジは高校でも同じクラスだった。

「何が?」

「今日さ、転校生がうちのクラスに来るらしいよ。」

「へぇ・・。」

「それがさ、何でも帰国子女って噂だよ。」

シンジは胸が高鳴るのを感じた。そして何故かあの本のことを思った。

「はぁ・・・どんな子かなぁ。かわいかったらいいよなぁ。うちのクラスの女子はぱっとしないし。」

「お・・女の子なんだ・・・。」

シンジの手が少し汗ばんだ。

「ばか、帰国子女って言ったら女だろ。」

「はは・・・。バカはお前だよ。」

そうしているうちにシンジ達は学校の門をくぐった。






(帰国子女らしいよ・・・)

シンジは彼の言葉を心の中で繰り返しながら階段を上った。

(・・・バカか、僕は・・。何を期待してるんだ・・・。)

そう思って落ち着こうとするが、心臓は言うことを聞かなかった。

(・・・約束・・・)

ふいにこの言葉がシンジの心に浮かんだ。

「・・・ンジ、シンジ!」

シンジは我に返った。

「な、何?」

ケンスケはシンジの目をじっと見た後、あきれ気味でこう言った。

「ったく。何考えてたんだ?お前もつくづくやらしい奴だよな。」

「うん・・・ゴメン。」

「おいおい、何認めてんだよ。ほんとに大丈夫か?」

「大丈夫だよ。」

そう言うと、シンジは教室に入り、窓際にある自分の席に着いた。

ふーっと息をはき、青い空を眺めた。

雲ひとつない青空だった。






「今日は転校生を紹介します。」

担任の一言にクラスがざわついた。

「親の都合で、ドイツに住んでいたらしいんだけど、小学校までは日本で暮らしてたみたいなので、
言葉の問題はないでしょう。」

この言葉を聞くと、シンジはいよいよ胸が高鳴るのを抑えられなくなった。

「じゃ、入ってきてちょうだい。」

クラスが一瞬シーンとなり、扉が開いた。

「おぉ・・・。」

「美しい・・。」

「髪きれい・・・。」

「スタイルいいよな・・・。」

ほかの生徒が口々に反応する中、シンジは思わず自分があっと言いそうになった。

(昨日本屋であった女の子だ。)

「自己紹介、お願いね。」

「はい。」

そう言って彼女は教壇に立った。

「惣流・アスカ・ラングレーです。親の都合で少し帰国が遅れてしまいましたが、
そんなことは気にせず、今日からこのクラスの一員として皆さんと仲良くしたいと思います。
よろしくお願いします。」

ハキハキとこう言うと、彼女はニッコリと笑った。

そして男子のため息と、女子の殺気がクラスを覆った。

「じゃあ惣流さんの席は・・・碇君の隣ね。」

シンジは彼女と目が合った。

「あ、あなたは昨日の・・・。」

アスカがこう口を開いた瞬間、クラス中の男子が殺気を含んだ目でシンジをにらみつけた。

(碇・・・昨日何があったんだ・・・)

(オ・・オレの惣流さんに何を・・・)

(碇・・・殺す)

シンジは言いようのない寒気を感じた。

「あら、二人はもう知り合いなの。惣流さん良かったじゃない、知ってる人がいて。
シンジくん、彼女を大事にね。」

(先生・・・余計な真似を・・・)

シンジは自分が冷や汗をかいていることに気づいた。

「じゃ、惣流さん、席について。私はほかのクラスで授業があるからこれで・・・。」

担任が教室から出た後、アスカは優雅に机の間を歩き、シンジの隣の席に着いた。

「よろしくね、シンジ。」

彼女はニッコリと笑った。

「あ・・・うん、よろしく、惣流さん。」

すると彼女の顔は何故か不機嫌気味になった。

「あのさぁ、アタシがシンジって呼んでるんだから、
シンジの方もアタシのことをアスカって呼ぶのが筋ってもんなんじゃないの?」

「いや、それは・・・。」

「何よ、アタシの名前を呼ぶのがそんなに嫌なわけ?」

「そうじゃないけど。」

「じゃあいいじゃなーい。言っとくけど、シンジがアタシのことアスカ以外で呼びかけても
無視するからね。」

「わ、わかったよ・・。」

(何なんだこの子は・・・)

「よ、よろしく・・アスカ。」

「うん、よろしい。」

と言って彼女はニッコリと笑った。






一時間目は英語だった。

その時間中シンジは片肘をつきながら、窓から見える空の景色を見ていた。

彼はアスカが教室に入ってきた瞬間、自分が少しがっかりしていたことに気がついていた。

(期待した僕がバカだったのか・・・そんなこと、あるわけないのに・・・。)

シンジは自分自身がおかしくて少し笑った。

そして目線を落とし、校庭へと続く道沿いに咲いている桜の花を見た。

そのとき、桜の木の下で、ぼんやりと影が見えた。

目を凝らしてみてみると、どうやら女の子の姿のようだ。

木に持たれかかりながら、誰かを待っているように顔をうつむけている。

ビックリして、目をこすり、もう一度見てみると、女の子の影は何事も無かったように消えていた。

シンジはしばらく、その何も無い空間を眺めていた。

(そうだ・・・。あの時も彼女が桜の木の下で、ずっと待っていたんだ・・・。)

シンジはくすりと笑った。

(そうか・・・、そうだったんだ・・・。やっと気づいた・・・。会いに行くのは・・・僕のほうだ。)

シンジはもう一度空を見た。

澄んだ青い空の中を、二羽の鳥が横切った。






綾波を探そうとしたシンジだが、何からすればいいかまったくわからなかった。

困り果てた末にとりあえず、インターネットで「綾波レイ」と検索することにした。

(こんなことでわかれば苦労しないけど・・・)

そう思いつつエンターキーを押した。

(17件も引っかかった・・・)

シンジは少し不審に思い、とりあえずそのうちのひとつをクリックした。

それは過去のニュース記事だった。

「心臓に重度の障害を持つ患者、ドナーを求めて渡米」

シンジは指が震えるのを感じた。



「重い心臓病で入院していたW県の綾波レイさん(11歳)が米国で移植手術を受けるため、
支援団体が集めていた募金が九日までに、目標を上回る一億千五百万円に達し、
二十日に両親らとともに渡米することが決まった。
六人の医師団も同行。受け入れ先のシアトルの小児病院で、臓器提供者が現れるのを待つ。
募金は街頭などで集めたほか、これまで子どもの海外移植手術を試みた六家族から、
それぞれが集めた募金の余剰金計六千八百万円も寄せられ、
渡航や手術費など目標の八千万円を上回った。
この日、W市役所で記者会見したレイさんの父親(38)と母親(33)は
「感謝の気持ちでいっぱいです。必ず元気になって戻ってきます」と話した。
レイさんは今年五月、移植以外に治療法がない拡張型心筋症と診断された。
国内では未成年者の臓器提供などが認められないため、両親が米国での移植手術を希望。
知人らが支援団体を結成し五月から募金を呼び掛けてきた。
                         20××年 7月14日」



シンジはほかのページも調べた。

綾波は、もう生きていないかもしれないという思いが何度も頭をよぎったが、シンジはそれを振り払った。

そして「現在も療養中、ドナーはいまだ現れず」

という言葉を見つけ、シンジは胸をなでおろした。






このことを知ってからのシンジは2、3日眠れなかった。

夜の闇が急に怖くなった。

自分が何もできないことを、認めたくなかった。

(僕が力になれることは・・・必ずあるはずだ。)

シンジはようやく手紙を書こうと決めた。

しかし、いざペンを持ってみると、何を書いていいのか分からなくなった。

自分の中に渦巻くいろいろな感情を文字で表すことがこれほど難しいなんて、彼は夢にも思わなかった。

結局昨夜は何もかけなかった。

一晩中机に向かっていたが、心に浮かぶどの言葉も、綾波の力にはならない気がした。






シンジはいつもの道を駅へ向かって歩いた。ふいに一本の木が目に留まった。

桜は散りかけていた。

その様子が綾波の命を表しているようで、胸が締め付けられる思いがした。

その花が生き長らえば、綾波の命もその分、行きつづけるような気がした。

するとある考えがシンジの頭をよぎった。

(そうだ・・・。桜の花を押し花にして送ろう。)

綾波が入院している海外の病院には、桜は咲いていないだろう。

そんな中で見る桜は、彼女を勇気付けるに違いない。

そう考えて、シンジは歩き出した。

一歩一歩進むごとに、綾波が桜の押し花をもらって喜ぶ姿が目に浮かぶようだった。






手紙を送ってから二週間が過ぎた。

シンジは家に帰るとすぐに自宅のポストを覗いた。

するとシンジ宛に海外かららしき分厚い手紙が来た。

シンジはそれを持って急いで自分の部屋に行き、すぐさま封を切った。

中から出した手紙を広げると、美しい字が目に付いた。綾波の母からの手紙だった。



「碇君、あなたの送ってくれた桜の押し花を、レイはどんなに喜んだか、
文字では書き表せないぐらいです。その日はちょうど吹雪で、ガラスが真っ白でした。
吹雪の中で見る桜の押し花は、あなたが想像しなかったほどレイを慰めてくれました。
このごろのレイはずっと寝たきりです。
胸のほうはそんなに痛んでいないみたいだけど、脊椎がやられたらしく、
歩くとよろけてしまうので、仕方なくずっと寝ています。」



この手紙のほかに、綾波の手紙の入っていた。

その文字は彼女らしく、丸みを帯びていた。



「碇君、桜の押し花、ほんとうにありがとうございました。
あまりに何度も眺めていたから、お母さんに笑われました。
私は桜の花を見るまで、生きていけるような気がしませんでした。
だからこの押し花を見たとき、私ものすごくうれしかった。
何だかあと一年ぐらい生きていけるような気がします・・・。」



そんなことが綾波の手紙に書いてあった。

シンジはそれから花を見るたびに、押し花にせずにはいられなくなった。

チューリップも、ユリも、タンポポも、小さな花も大きな花も、押し花にして綾波に送った。

そのたびに綾波から簡単だが、心のこもったお礼の手紙が来た。

シンジはその手紙を一通一通大切に机の中にしまった。

学校にいても、花に目が止まると、ふっと白い綾波の顔が目に浮かんだ。

綾波の病気が恐ろしいと思ったのは、初めのうちだけだった。

いつ助かるかも知れない綾波が、なんとも言えず憐れだった。

もう来年まで、生きていることのできないような気がして、シンジは綾波の心になって花を見た。

すると、バラひとつ、菜の花ひとつにも、涙がにじんでくるような気がした。

アスカと話をしているとき、楽しそうな彼女の顔を見ても、シンジは綾波を思った。

アスカはこの先何十年も元気に生きていけるかもしれない。

しかし、綾波は、あのまま十五歳の命を閉じるかもしれない。

そう思うと、ついまた机の前に座ってペンを握らずにはいられなくなった。

何か一言でも話しかけてやれば、それだけ綾波の命が永らえることができるような気がした。






綾波からの手紙はいっそう短くなっていった。

それはまさに、彼女の命が次第に残り少なくなっていくような、

そんな心もとない感じだった。

こうして綾波のことを考えているうちに、

いつしかシンジも命という問題について、まじめに考えるようになっていた。

道の途中で見かける元気な小学生を見ても、

(この子達もやがて死ぬんだ・・・。)

とふいに考えることがあった。

学校で人に気に入らないようなことをされても、こう思うとすべて許せるような気がした。

「行ってきます。」

と母親に言ったとたん、今日再び生きて家に帰ってくるかどうか、何の保証もないんだ、と思うこともあった。

とにかくシンジの命に対する考え方が、単なる「考え事」ではなくなってしまっていた。






ある日、シンジは父親のゲンドウに尋ねた。

「父さん、人間は、死んだら何もかも終わりだよね。」

シンジは綾波のことを思いながら言った。

ゲンドウは、突き詰めたようなシンジの表情に、しばらく黙っていたが、

「シンジ、私は死がすべての終わりだとは思っていない。」

と落ち着いた声で言った。

「だって父さん、死んで何がはじまるって言うのさ!死んだ人間にも未来はあるって言うの!?」

シンジは声を荒げた。

ゲンドウは静かにうなずいた。確信に満ちたうなずき方だった。

「どんな未来があるっていうの?」

「シンジ、私もお前のような年のころ、同じ悩みを持っていた。
死んだら何もかも終わり、だったらなぜ生きているのか、というようなことをいつも考えていた。
そんなときだ、親父が死んだのは。私はショックだった。
あれほど厳格で、無口な親父が、昨日まで元気だったのに急に死んでしまうんだからな。
それから私は何に対しても無気力になった。何もかもがどうでもよくなった。
だがある日、もし親父が生きていたら今の私の姿を見てどう思うかと考えた。
そのとき気づいた。
親父は死んでもなお私に影響を与え続けていると。
死んでも人の心はほかの人の心に住み、そしてその人に影響を与える。
私と私の親父がその例えだ。
そして私自身が死んでもまたほかの人に影響を与える続けるだろう。
それも一人じゃない。
私という人物を記憶しているすべての人にだ。
そうやって人々の思いは続いていく。
そう考えると、私は自分が生きている意味を見つけたような気がした。
死を考えることは、生を考えることと同じということだ。」

ゲンドウはそう言った。

シンジはなんとなく釈然としなかった。

父が自分とは違う遠い世界にいるような気がした。

そう思いながらも、あの死を目の前にしている綾波が、

「確かに死はすべての終わりではない。」

と信じることができたなら、それはどんな大きな力になるだろうかとシンジは思った。

そして、自分では信じていないその言葉を、

綾波に告げてやりたいような気がしてならなかった。






七月になった。

シンジの綾波を思う心に変わりはなかったが、しかしこのごろシンジの中に少しずつ変わっていくものがあった。

学校の生き帰りに見かける女性の姿に目を奪われることが多くなってきたような気がする。

髪を後ろに束ね、袖をまくりあげてガラスを磨く若い女性の白い二の腕や、

セーラー服を着て、靴音を立てて歩く女性の姿などに、シンジはつい目を誘われてしまうのだ。

制服のネクタイを胸高に結んで、颯爽と歩いてくる女子高生の群れにも、

シンジはやはり興味をそそられた。

以前は、母と同じ年頃の女性でも、恥ずかしくて真正面から見ることができなかった。

どこで、どうして、このように変わっていくのかと思うと、ふっと不安になることがある。

(人の心は変わりやすい・・・)

そんな言葉が胸に浮かぶ。

まだまだ自分の心が思いもかけない方向に行ってしまうような気がする。

心の底ではやはり綾波を思っているのだが、考えてみると、それは綾波を思っているというより、

若い女性というものを、綾波を通して愛しているような気もした。

必ずしもシンジにとって、相手が綾波でなければならないというほど、強いものではないような気がした。

シンジは流れる雲を眺めながら、人間の心の不確かさにいまさらのように驚いていた。

(あの雲のように、自分もまた、どこから来てどこへ行くのかわからないんだ・・・)

シンジはそんなことを思うと、ひどく寂しかった。

何の目的もなく流れている雲と、何の目的もなくこの人生をさすらっているような自分が、

あまりにも同じように見えてならない。

何だか生きていることがむなしいような気がした。






「シーンジ、一緒に帰ろ!」

学校からの下校途中、アスカが後ろから話しかけてきた。

「あ・・うん。」

するとアスカは、シンジの脇から顔を覗かせて、じっとシンジの顔を覗いた。

シンジはアスカと目が合うと、すぐに視線をそらした。

「な・・何?」

「シンジこそどうしたのよ、そんな辛気くさい顔して。」

「別に・・・アスカには関係ないよ。」

「何よそれ・・・。変なシンジ・・・。」

そういうと二人とも黙り込んでしまった。

ただアスカはずっとシンジの隣を歩き続けていた。

シンジはチラッとアスカを見た。

彼女は黙ってうつむきながら歩いていた。

何か彼女も考えているようだった。

「ねぇ・・・シンジ・・・。」

アスカが口を開いた。

「何?」

シンジはアスカを見ずに答えた。

「シンジってさ・・・彼女とか・・・いるの?」

「・・・いないよ。」

答えてから、シンジは綾波を思った。

おそらく治ることのない綾波とのことを、シンジは考えたことがなかった。

もちろん手紙でもそのような思いを伝えたことはない。

もし付き合っている人がいるかではなく、好きな人がいるかと尋ねられたなら、

シンジはためらわずにうなずいたかもしれなかった。

「そっかぁ・・・。」

シンジは彼女の真意をはかりかねていた。

「じゃあさ・・・アタシが・・・その・・彼女になってあげても・・・いいわよ。」

シンジは言葉の意味が一瞬分からなかった。

「え、何?」

シンジは歩くのをやめた。

アスカはシンジの前に回りこんだ。

「もう!二度言わせるんじゃないわよ!アタシが彼女になってあげよっかって言ってんの!」

シンジは呆然として彼女を見た。

彼女の顔は、夕焼けの逆行になって、よく見えなかった。

ただその手は震えているような気がした。

「・・・そんな、突然・・・。」

シンジはどう答えていいか分からなかった。

「・・・ふん。まあいいわ。答えは待っといてあげる。それまでアタシに話しかけるんじゃないわよ!」

そういうと彼女は首筋まで真っ赤になって、逃げるように駆け出した。

鞄を手に持って、制服をなびかせて走っているその姿が、

初めて彼女を見たときよりもずっと魅力的に見えた。

別にどこといって、とりたてて嫌うべき所はない。

むしろつやのある髪と、上目遣いのまなざし、形のいい口元など、心惹かれるものはあった。

しかしそれだけのことであった。

第一、高校ですぐに彼女を作る気もなかった。

そのくせふっとアスカの顔が胸に浮かぶことがある。

生まれて初めて告白された相手だから、

シンジにとってそれだけでもアスカは刺激的な、そして心にかかる存在であったかもしれない。

このまま友達としてアスカといるのも、なんとなく寂しい気がする。

といってまだ付き合う気にもなれない。

一方綾波のことも決して忘れてはいない。

時々書く手紙には、今日は暑いとか寒いとか、体の具合はどうだとか、

不器用なシンジはいつも決まりきった言葉を書いているのだが、

綾波の返事はいつも穏やかだった。

その文字を見ると、何となくシンジの心は静かになる。

どこにいるときよりもそのときの自分の顔が、シンジは好きだった。

もし自分が、いまアスカと付き合ったら、綾波はどう思うだろうと思ったりする。

案外何も思わず、ひっそりと生きていくような気もする。

しかし自分のほうは、そうたびたび綾波に手紙を書くことができなくなるのではないか。

そう思うとずいぶん寂しい思いをするのだろうかと考えたりもする。






その日の夜、シンジは長いこと自分に禁じていた欲望に一人身をまかせた。

激しい嵐のような一時が過ぎると、シンジはいっそう寂しく味気ないように感じた。

自己嫌悪とむなしさの中で、シンジは生まれて初めて、もう一人の自分の顔を見た気がした。

それは真面目で自制的な、そして向上しようとする自分の姿ではなく、

どこまでも堕ちて行きたいような、幾分ふてぶてしい、すさんだもう一人の自分の姿だった。

それは、今までシンジが自分の中に気づかなかったもう一人の自分の姿だった。







それに気づくと、シンジは布団を跳ねのけて、ガバッと飛び起きた。

シンジは家を飛び出して、無我夢中で走った。

七月にもかかわらず、朝の風は涼しかった。

シンジはぎゅっと唇を噛みしめながら、川沿いまで来ると、やっと自分自身に戻ったような気がした。






「シンジ、具合が悪そうだぞ。」

その日の朝、ケンスケが話しかけてきた。

「いや、別に体調が悪いわけじゃないんだけど・・・。ちょっとね、告白されちゃったんだ・・・。」

「ほー、さすがはシンジだな。」

そしてケンスケは探るように言った。

「・・・やっぱりアスカか?」

「え!?何で分かるの?」

「・・・ふぅ、やっぱりお前、まだ分かってないのか。」

「え?何のこと?」

「まあいいさ・・・。で、どうするんだ?」

「・・・どうしようか。」

「そりゃシンジの心持ち次第さ。」

「それが・・・よくわからないんだ。」

シンジは自分のアスカに対する気持ちを語った。

「なるほどねぇ・・・。シンジ、お前はまだ、女の子と付き合ったことがないんだろ?」

ずばりとケンスケがいった。シンジはたじろいだ。

「シンジ、実はおれもな、付き合ったことが無いから、なんとなく会った女の子、会った女の子が妙に魅力的でね。
だからちょっと知り合えば、手放すのが惜しくって・・・。思い切りが悪いんだよ。シンジと同じさ。」

シンジはうなずいた。

「けどなシンジ、俺は告白して振られたことがあるからなぁ。何となく気が重いよ。
なるべく女の子を傷つけないように、早く答えを出してやれよ。
いらんおせっかいかもしれないけど、とにかく、いいとおもったら付き合ってみろよ。」

ケンスケらしいおおらかな言い方だった。

女の子を傷つけないようにという言葉が、何か心に痛いまでしみ通った。

そしてシンジは、自分でも思いがけない気持ちが湧き上がってくるのを感じた。

(おれはやっぱり、綾波が好きなんだ。)

何故かそのことが今はっきりと、シンジ自身にもわかったような気がした。

いまシンジの心を占めているのは、あのアスカではなく、綾波の病床の姿だった。

今後告白されるたびに、少しは迷い、心を動かすことがあるとしても、

結局は綾波を見捨てて、他の女の子を選ぶことはできないのではないか、とシンジは思った。

(そうだ!俺は綾波のそばにいよう。たとえ一生待つとしても!)

顔を上げると、空がいつもより青く見えた。






その日、アスカは休みだった。

シンジはアスカが学校に来るまで自分の気持ちを告げるのを待とうと思ったが、

学校から帰るその足で、アスカの家に向かった。

シンジはチャイムを押した。

しばらくするとドアが開いた。

そこにはパジャマ姿のアスカがいた。

「・・・何しに来たの?」

「あの・・アスカ、昨日一日考えたんだけど・・・その・・・。」

シンジはどういっていいかわからず、口が思うように動かなかった。

そしてシンジが戸惑ってるうちに、先にアスカが口を開いた。

「・・・ちょっと待ってて。」

そういうとアスカはドアを閉めて家の中に入ってしまった。

(どうしたんだろう・・・)

シンジは不思議に思ったがしばらくそこに待っていた。

すると、ドアが勢いよく開いた。

「お待たせ。」

アスカは淡い黄色のワンピースに身を包んでいた。

「さあ、行くわよシンジ。」

と言うと、彼女はシンジの腕を取り、シンジを引っ張るように進んだ。

「い、行くってどこへ?」

「デートよデート!決まってるじゃなーい。」

「デートって・・・けど僕は・・・。」

「いいの!その先は言わなくて・・・。あんたの気持ちぐらい・・・わかってるんだから・・・。」

シンジは自分の腕をしっかりと握っているアスカを見た。

「まったく、アンタには同情するわ!こーんなに可愛い女の子の申し出を断らなきゃいけないんだから。」

アスカは歩きながら続けた。

「・・・いるんでしょ?」

「え?」

「・・・好きな人。」

シンジが少し動揺すると、アスカが顔を覗き込んだ。

「こんな顔してたら、誰だってわかるわ。」

アスカは少し笑った。

「・・・誰なのか教えなさいよ。」

「え・・、けどアスカは知らないとおも・・」

「いいから!答えなさいよっ!」

アスカはそういうとシンジの腕をつねった。

シンジは仕方なく綾波の名前を告げた。そして現在の状況も話した。

「ふーん、で、もし良くならなかったらどうするのよ。」

「・・・治るまで待つよ。」

「アンタバカァ!?今どきそんな人、いないわよ。」

「・・・うん。」

シンジがそういうと、アスカはあきれるように言った。

「・・・ほんとにバカね。・・・けどちょっと悔しいな・・・。あの女にシンジを取られるなんて・・・。」

「え!?綾波を知ってるの。」

「・・・ふぅ、やっぱりあなた、まだ分かってなかったのね。」

アスカはシンジの腕を抱き、遠くを見ながら答えた。

「五年生ぐらいのころかな・・・。アタシがクラスの委員長やってたとき・・・、
シンジ・・・あなた副委員長だったでしょ。」

シンジは過去の風景を思い浮かべた。

そして思い出したような顔をしてもう一度アスカを見た。

「アタシね、そのころからシンジのこと好きだったんだけどなぁ・・・。」

二人は腕を組みながら歩き続けた。

空はもう真っ赤に染まっていた。






+つづく+





◆先生さんへの感想・メッセージはこちらのページから◆


■BACK