桜舞う
第一話




市立第三小学校、五年一組の副委員長は、三票差でシンジになった。

特に成績が良い訳でもなく、頼られているわけでもない。

しかし、誰もするものがいないので仕方なく推薦となったとき、なぜかシンジが選ばれたのだった。

今、黒板の前で、委員長になった女の子が何かあいさつをしている。

だが、その声はシンジの耳には入っていなかった。

彼は肩肘をつきながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

満開の桜の花びらが、風で上空に舞っているのが目に入った。






ある日授業が終わって学校から出たシンジは、校庭の端のほうに立っている桜の木の下に
同じクラスの集団を見つけたので、気になって近づいてみた。

「こんなところで何してるの?」

「知らないの?北校舎の三階のトイレに女の髪の毛があったんだって。そして血がいっぱい落ちているんだって。」

重大そうに答えたのはクラスの委員長だった。

「知らないな。」

「そしたらね、夜、女の泣き声が聞こえるんだって。オバケがでるんじゃない?」

彼女の友達が恐ろしそうに付け加えた。

「いったい誰がその泣き声を聞いたのさ。」

シンジは落ち着いていった。

「知らないわよ。知らないけどほんとらしいよ。ねえ。」

委員長がみんなの顔を見た。


みんな一斉にまじめな顔でうなずいた。

シンジはばかばかしそうに笑った。

「うそだよ、そんなの。」

「うそだって、どうして碇君にわかるの?みんなはほんとうにオバケが出るって言ってんのよ。」

委員長の言葉に、そうだ、そうだ、と言うように、生徒たちはうなずいた。

シンジは少し困ったが、言い返した。

「だって、オバケなんかいないって、お父さんがいってたよ。」

「うちのお父さんは、オバケを見たことがあるんだって。」

「うん、うちでも、オバケはほんとうにいるって、いつでも言うよ。」

みんな口々にいるいるといった。

「そんなものいないよ。」

シンジが言い張った。

「そう・・・。じゃあ、ほんとにオバケが出るかどうか、今夜八時にこの木の下で集まりましょうよ。」

委員長が言った。みんなだまってしまった。そっとどこかに行くふりをして離れた人もいた。

「どうする?集まらないの?」

委員長が返事をうながした。風が吹いて、うつむいている生徒たちの上に、桜の花びらが降りしきった。

「みんなで集まるんだから、こわくはないわよ。」

「そうだ、みんなで集まるのはおもしろいぞ。」

シンジと同じ副委員長の相田ケンスケが委員長の意見に賛成した。

「碇君はもちろん来るわよね?」

委員長は逃がさないぞという顔をした。

「来るよ。今夜八時にここで集まるんだよね。」

シンジは副委員長らしい落ち着きをみせてうなずいた。

「よし。じゃあ、もちろんみんなも来るわよね。どんなことがあっても。」

委員長はそういって一同を見回した。

みんな口々に「うん」と言った。






夕食のときになって、雨がぽつぽつ降りだしていたが、七時を過ぎたころには、雨に風をまじえていた。

「お母さん、ぼくこれから学校に行ってもいい?」

さっきから、暗い外を眺めていたシンジが言った。

「え、これから学校にどんな用事があるの?」

ユイはおどろいて、シンジを見た。

「つまんないことなんだけど・・・。そうだ、行ってもつまらないから、やめようかな。」

シンジは再び外を見た。

雨の音が激しかった。

「何かあるのか。」

新聞を見ていたゲンドウが顔を上げた。

「学校のトイレに夜になると女の泣き声がするんだって。みんなで今夜集まって、
それがオバケかどうかみるんだって。」

「オバケなんてこの世にはいないわ。そんなことで雨の中出かけることなんてないわよ。
ねえ、あなた。」

ユイはおかしそうに笑った。

ゲンドウは腕を組んだまま、少し難しい顔をしていた。

「うん、ぼく、行かないよ。こんなに雨が降ってきたら誰も集まらないに決まってるよ。」

「そうか。やめるのはいいが、シンジはいったいどんな約束をしたんだ?」

「今夜、八時に桜の木の下に集まるって。」

「そう約束したのか。約束したが、やめるのか。」

ゲンドウはじっとシンジをみつめた。

「約束したのはしたけど、行かなくてもいいんだ。オバケがいるかどうかなんて、つまらないから。」

こんな雨の中を出て行かなければならないほど、大事なことではないとシンジは考えた。

「シンジ、行ってこい。」

ゲンドウはおだやかに言った。

「うん。・・・でも、こんなに雨が降ってるのに。」

「そうか。雨が降ったら行かなくてもいいという約束だったのか。」

ゲンドウの声がきびしかった。

「ううん。雨が降ったときはどうするか決めてなかった。」

シンジはおずおずとゲンドウを見た。

「約束を破るのは、犬猫以下だ。犬や猫は約束などしないから、破りようもない。
人間よりかしこいようなものだ。」

(だけど、大した約束でもないのに。)

シンジは不満そうに口をとがらせた。

「シンジ。守らなくてもいい約束なら、はじめからしないことだな。」

シンジの心を見透かすようにゲンドウは言った。

「はい。」

しぶしぶとシンジは立ち上がった。

「私も一緒に行くわ。」

ユイも立ち上がった。

「ユイ。シンジは五年生の男だ。ひとりで行けないことはない。」

学校までは一キロある。ユイは困ったようにゲンドウを見た。






外に出て、何歩も歩かないうちに、シンジはたちまち雨でずぶぬれになってしまった。

暗い道を、シンジはつま先で探るように歩いていった。

思ったほど風はひどくないが、それでも雨にぬれた。

真っ暗な道は歩きづらい。

五年間歩きなれた道ではあっても、昼の道とはまったく勝手が違った。

(つまらない約束をするんじゃなかった。)

シンジは何度も後悔していた。

(どうせ誰も来てないのに。)

シンジはゲンドウの仕打ちが不満だった。

ぬかるみに足を取られて、つまづきそうになった。

春の雨とはいいながら、ずぶぬれになった体が冷えてきた。

(約束って、こんなにまでして守らなければならないものかな・・・。)

わずか一キロたらずの道が、何十キロもの道に思われて、シンジは泣きそうになった。






やっと校庭にたどりついたころは、さいわい雨が小降りになっていた。

暗い校庭はしんと静まり返って、何の音もしない。

誰か来ているかと耳を澄ましたが話し声はなかった。

ほんとうにどこからか女のすすり泣く声が聞こえてくるような、不気味な静けさだった。

「・・・誰?」

と、ふいに声がかかった。

シンジはぎくりとした。

「い、碇だ。」

「・・・なんだ・・・碇君か。」

女の子のような声だが、委員長の声とは思われない。

近づいてみると、シンジの前の席に並んでいる綾波レイだった。

彼女は普段目立たないが、落ち着いて学力のある生徒だった。

「ああ、綾波か。ひどい雨なのに、よく来たね。」

誰も来るはずがないと決めていただけに、シンジはおどろいた。

「・・・だって、・・・約束・・・だから・・・。」

淡々とした彼女の言葉が大人っぽくひびいた。

(約束・・・だから・・・。)

シンジは綾波の言葉をつぶやいてみた。

すると不思議なことに、「約束」という言葉の持つ、ずしりとした重さが、シンジにも分かったような気がした。

(ぼくは父さんに行けといわれたから、仕方なく来たんだ。約束だからじゃない・・・。)

シンジは急に恥ずかしくなった。

綾波が一段えらい人間に思われた。

日ごろ、副委員長としての誇りを持っていたことが、ひどくつまらなく思われた。

「・・・みんな、来ないみたいだね。」

シンジは言った。

「・・・うん。」

「どんなことがあっても集まるって約束したのにね。」

シンジはもう、自分は約束を守ってここに来たような気になっていた。

「・・・雨だから・・・仕方ない・・・。」

綾波が言ったその声に、自分は約束を守ったぞというひびきはなかった。

シンジは綾波をほんとうにえらいとおもった。






その日以来、シンジは綾波に目をやる機会が多くなった。

彼女は休み時間は外で遊ばずに、いつも本を読んでいた。

一度シンジは何の本を読んでいるのか聞いてみたが、

彼女はシンジの目を見ると、すぐに目をそらして、何事もなかったように本に視線を向けた。

シンジは気にとめなかったが、それから彼女と目が会う機会が多くなった。






五月の中ごろになって、桜の花も散り、すっかり暖かくなった。

ある日の昼休み、委員長の提案で、放課後にかくれんぼをすることになった。

「じゃ、授業が終わってすぐにいつもの木のところに集合ね。」

シンジはどうしようか迷ったが、「副委員長として参加すること」と委員長に言われた。

「もうすぐチャイムがなるぞ。」

と言われ、シンジは席に戻ろうとした。

そのときふと綾波と目が合ったが、彼女はまたすぐに目線を本に戻した。

シンジはなにか思いついて、綾波の席の前まで行った。

「綾波も一緒にかくれんぼしようよ。」

「・・・いい。」

本に視線を向けたままそう答えた。

「だめだよ、綾波っていっつも本読んでばっかだろ。たまには外で遊ばないと。」

綾波はじっと本を見ていたが、しばらくすると本を閉じ、うつむいたまま口を開いた。

「・・・碇君も・・・来るの?」

「うん、僕も行くよ。」

「・・・わかった・・・私も行く・・・。」

「よかった。じゃあ、約束だからね。」

そういうとシンジは小指を出した。

綾波もおずおずと自分の小指を出してシンジのものと結ばせた。






放課後になり、木の下に集まったのは男女あわせて十人ほどだった。

「じゃ、最初は碇君が鬼ね。」

「え?何で僕なの?」

「決めたの。」

「誰が?」

「私が決めたの!」

委員長の声は何故か怒りをふくんでいた。

シンジもあの待ち合わせの日以来、彼女の態度が変わったのを感じていた。

シンジは不満に思ったが、仕方なく鬼になった。






「次はケンスケが鬼だな。」

「もう遅いし、これで最後ね。」

空を見ると、もう日が落ちようとしていた。

「いくよー。いーち、にーい、さーん・・・」

シンジはすぐに駆け出して、校舎の裏にある小さな物置に入った。

「・・・ここならみつからない。」

扉を開けてみるとそこは大人一人が座れるほどの隙間しかなかった。

シンジは中に入って扉を閉めた。

上を見上げると濃いオレンジ色の光が壁にあいてある穴から差し込んでいた。

「・・・きゅーう、じゅう!もーいいかい。」

「まーだだよー。」

「いーち、にーい、さーん・・・」

委員長の声だな、とシンジは思った。

すると急に目の前の扉が開いた。

「わ・・。」

綾波がビックリした様子で立っていた。

「綾波か・・・。」

「碇君・・・ここに隠れていたのね・・・。」

綾波は周りを見渡して他に隠れる場所を探しているようだった。

「もう時間がないよ。はやく、ぼくの後ろに隠れて。」

「・・・でも・・・。」

少し戸惑った綾波だが、こっくりとうなずいて、彼女はシンジのそばに寄った。

「はーち、きゅーう・・・」

もう数え終わりそうなのを聞いて、シンジは綾波の腕をつかんで物置の中に押し込んだ。

そして自分も再び入り、扉を勢いよく閉めた。

「・・・じゅう!もーいいかい。」

「もーいいよー。」

「間に合った。」

シンジはふーっと息を吐いた。

二人が座った物置の中はほとんど隙間がなくなっていた。

「見つけた、トウジ。」

どこかでケンスケのはずんだ声が聞こえた。

薄暗い物置小屋の中で、シンジと綾波は座ったまま顔を見合わせて首をすくめた。

その時、シンジは綾波を抱きしめたいような、へんに胸苦しいような気がした。

「綾波。」

シンジはそっと呼んだ。

「・・・何?」

綾波もそっと答えた。

青いふわふわした髪の下の澄んだ眼も「なあに?」と言っている。

「ううん、なんでもない。」

(いつまでも見つからないといいな。)

シンジは綾波と二人でそっと隠れているのが楽しかった。

今まで、かくれんぼをして、こんな風に何か甘っ苦しいような楽しさなんかシンジは知らなかった。

「・・・楽しいの?」

シンジは綾波に自分の心を見透かされてる気がしてひどく恥ずかしくなった。

「楽しいよ。」

「私も・・・かくれんぼがこんなに楽しいなんて、知らなかった・・・。」

シンジはこの言葉をきいて何故かうれしくなった。

「・・・このまま見つからないといいね。」

「・・・うん。」

シンジにとってこのかくれんぼは今までの中で一番楽しいものとなった。






月日は流れて七月になった。

シンジは相変わらず綾波を見ていたが、眼が合ったときに先にそらすのはシンジの方だった。

シンジは綾波と一緒にいることを避けるようになっていた。

彼女といると、自分の体温が上がっていくのを感じ、それがクラスのみんなに分かってしまうような気がした。

しかしシンジの心は綾波を避けるたびに、何故かさびしくなっていた。






一学期の最後の日、終業式も無事に終わり、あとはホームルームを残すのみだった。

シンジは席に座り、これから始まる夏休みのことで、心がはずんでいた。

ふと綾波に目をやったが、彼女はじっと前を見ていた。

シンジと目が会うことはなかった。

教室の扉が開き、担任が入ってきた。

「はいはい、静かにしなさい。」

その言葉に、クラスはすぐに静かになった。

「さて、みなさんに通知表を渡す前に、ちょっと悲しいお知らせがあります。
綾波さん、前に出てきて。」

「・・・はい。」

シンジは綾波を目で追っていたが、彼女はずっと遠くを見ているようだった。

「綾波さんは、両親の都合で海外に行くことになりました。
ですから綾波さんがこのクラスの一員なのは今日が最後になります。」

「え〜さみしい〜。」

「海外ってどこ?」

「お手紙書くからね。」

みんな口々に別れの挨拶を言ったが、シンジには何も聞こえなかった。

夏休みのことなんてすっかり忘れてしまっていた。






ホームルームも終わり、生徒たちはこれから始まる長い夏休みが待ちきれないように、校庭を駆け出していた。

シンジはゆっくりと校庭をあるいていた。

自分が今何をしているのか分からなかった。

校庭がどこまでも続くような気がした。

横に目をやると、一本の木が立っていた。

それを見るとシンジは、急に泣きたくなるような、走り出したくなるような気になった。

「・・・碇君。」

シンジははっとして後ろを振り向いたが、彼女はいなかった。






家についても、シンジは自分が何をしているのか、何がしたいのかわからなかった。

シンジの心は、いままで感じたことのない胸が締め付けられるような気分だった。

窓の外を見た。空は真っ青で、おおきな入道雲が一つあるだけだった。

シンジはあの木の下で綾波と一緒に過ごしたことを思い出した。

綾波と一緒に物置小屋に隠れたことを思い出した。

青いふわふわした髪と、澄んだ目を思い出した。

シンジはもう駆け出していた。






シンジの家と綾波の家は、学校をはさんで一、五キロほどだった。

シンジは何も考えずに走っていたが、まっすぐに綾波の家に向かっていた。

途中、小石に引っかかって転んだような気がしたが、かまわず走り続けた。

そしてついに彼女の家までやってきた。

目の前では、すでに二台のトラックが荷物を運び終えて、今にも走り出そうとしていた。

(綾波・・・)

心の中でそう唱えながら周りを見渡したが、彼女の姿はなかった。

もう行ってしまったのか、とシンジは思った。

そう考えると、泣きたくなるなるのを、もう我慢できそうになかった。

「・・・碇君?」

シンジは背中が急に温かくなるような気がした。

目を袖でぬぐっても涙は止まらなかったが、かまわず振り向いた。

「・・・やあ、綾波。」

「・・・泣いてるの?」

シンジは自分が泣いてることが恥ずかしかった。

「泣いてないよ。」

シンジはもう一度、袖で顔をぬぐった。

「・・・ほら。」

そう言ってシンジは笑おうとしたが、顔がくしゃくしゃになってしまった。

「・・・うん。」

綾波はシンジの顔をみると、うつむいてしまった。

彼女の手には、いつも学校で読んでいた本が握られていた。

「・・・碇君。」

彼女はうつむいたまま呼びかけた。

「何?」

シンジはぬぐってもぬぐっても湧き出てくる涙に手を焼きながら答えた。

綾波は自分の持っていた本をシンジに突き出した。

「・・・これ・・・碇君に・・・あげる。」

シンジは彼女がこの本をいつも大事そうに持っているのを思い出した。

「でも・・・これは綾波の大事な本じゃないの?」

綾波はずっとうつむいていた。

「・・・あげる。」

「・・・いい・・・いらない。」

「・・・あげる。」

「いらないってば。」

「あげるったらあげるの!」

綾波はそう言うと、シンジの胸に本を押し付けた。

シンジは綾波の大きな声に驚いたが、

それよりも綾波があげたその顔の目に涙があふれていたのにびっくりした。

彼女の手は少し震えていた。

「・・・うん、ありがと。」

そういうとシンジは本を受け取った。

二人はその場に立ったままだった。

ふいに綾波の家の前から声がした。

「レイ、行くわよ。」

シンジは彼女にどう声をかけていいか分からなかった。

自分のこの心のもやもやが言葉にできないことがくやしかった。

「・・・さよなら。」

綾波は顔を再びうつむけて、シンジの脇を通り過ぎた。

シンジは振り返ろうとしたが、足がうごかなかった。

(・・・さよなら。)

シンジは心の中でその言葉を繰り返した。

「・・・綾波。」

シンジはそっと彼女の名前をつぶやいて、自分が握っている本を見た。

「綾波!」

いつの間にかシンジは綾波のそばに駆け寄っていた。

彼女の目は涙でいっぱいになっていたが、驚いたように目を見開いていた。

「・・・また、一緒にかくれんぼしようね。」

「・・・。」

「・・・約束だからね。」

「・・・約束。」

「そう、約束・・・。」

「・・・わかった。・・・約束。」

綾波は小指をシンジの前に出した。

シンジも小指を出した。

小指を結ばせた時の綾波の顔は、涙でぬれていたが、

その表情は、シンジが見たこともないほどの美しい笑顔だった。





+つづく+





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