「はぅぅぅ。碇君が天使みたいだって言ってくれたぁ。嬉しいぃ」
キャァァァ♪ 花畑だし、恥ずかしいし、頬が熱くなったから両手を当てて転がっちゃうぞぉ。
『そう、良かったわね』
何処かから聞こえてくる冷静な声は無視する事にしちゃおぅ。
「明日会ったら、まともに顔が見られないかも。変の娘だと思われたらどうしよう」
あぁん。耳まで熱くなって来たから、イヤーンなポーズを決めちゃおぅ。
『そう』
再び冷静な声が聞こえたけど、これも無視しちゃう。
「また、天使みたいだねって言ってくれるかなぁ?」
えへへへへ。そうしたら嬉しいなぁ。
『元々天使じゃない、リリス』
その一言に、私の熱かった体は一気に冷たくなった。
「・・・・・・」
何も考えることができない。
『・・・・・・』
声の言っている事に、私は固まってしまったのだ。
「え?」
やっとの事で声を絞り出した。
『知っているんでしょ。リリス』
冷たくなった体をようやっと動かして、声のした方をむいた。
「碇君は、私を天使みたいだって言ってくれたの!」
『そう。リリスだもの、当然でしょう』
冷たいその声で、私の体は更に冷たくなって行った、
「い、碇君だったら、きっと解ってくれるわ」
『そう、なら、何故、今言わないの?」
「え、だって」
言えないよぅ。折角優しくしてくれるのに。一緒に居てくれるのに。
『そう。恐いのね』
「違うもん!」
私はその言葉に涙を流しながら、必死に否定した。
今にも壊れそうな物を、必死に守りながら、私は声の限りに叫んだ。
『そう。そうなのね』
「そうよ!」
でも、本当は恐い。
いつか、きっと話さなければいけないから。
もし、私を恐いと思われたら。嫌われたら、私はあの寒い部屋に戻らなければ行けないから。
それは嫌。
『碇君を自分の物にしたいのね』
「え?」
でも、声は私とは違う事を思っていたらしい。
自分の物にするって? それって?
『今、彼に話せば、嫌われて拒絶されて、今までの生活に戻るだけ』
私はついさっきの想像を思い出して、身震いしながら自分の肩を力の限り抱きしめた。
『もっと親しくなって、彼が一人で居られなくなったら、自分の正体を教えて、碇君を壊したいのね』
何を言っているの? 貴方は?
「違う!」
壊れた碇君を自分の物にする。
私は、その恐ろしい想像に吐き気がした。
『壊れた碇君を自分の物にしたいんでしょ』
「違う!」
咽が張り裂けそうなほどの絶叫で、声をかき消そうとした。
『自分が人形だから、自分の人形が欲しいのね』
「違う! 違う!」
『いいえ。違わないわ』
目と耳を塞いで、声の限りに叫んでいるのに、その声は最初と変わらずに聞こえてくる。
「こ、ここは?」
冷たい風を感じて、つぶっていた目を開けると、いつの間にかそこは、暗く冷たい、石ころだけの世界に変わっていた。
『ここは、本来いるべき場所。ここで生まれたのだから、ここに居るべき』
「い、いや。私は、碇君のそばにいたい」
『そうね。彼をここに連れてきましょう』
声はまだそんな事を言っている。
「だめ。碇君のそばに行きたいの。ここに居たくないの!」
『それは望んではいけないこと。解っているでしょ』
「いやぁぁ。私はいや」
でも、解っている。私はここに居なければいけないと言う事が。でも、碇君を連れてくるなんて出来ない。
「う、えっく、う。あ、貴方は誰? 何でそんな酷い事言うの?」
何度叫んだだろう? とうとう私は力尽きてしまった。
両手をついて体を支えながら、声のした方を見た。
『私は、綾波レイと呼ばれている物。そして、貴方。だから、貴方の欲しい物が解るの』
そう。そこに居たのは私自身だった。
「違う。私は貴方じゃないもの」
『いいえ。私は貴方。だから考えている事が解るの』
感情の無い紅い瞳と、抑揚の無い声が私を責め立てる。
「いやぁぁ。私は、私よ!」
私は、目をつぶり、耳を塞いで、もう一人の私を名乗る物を拒否しようとした。
『私は、貴方のもう一つの顔。貴方のもう一つの形』
でも、それは出来なかった。
どんなに頭を振っても、目をつぶっても、耳を塞いでも、もう一人の私は消える事は無かった。
『碇君を、自分の人形に出来たら、毎日が楽しいでしょうね』
「嫌だよそんなの」
叫ぶ事も出来なくなった私は、自分の中の声に震えながら、自分でも聞き取れないほどの声で否定する事しか出来なかった。
ふと目を覚ますと、最近引っ越して来たが、いつもの天井が視界を占領していた。
(あぁ、夢だよな)
青色のカーテンを通して、朝の光が部屋を照らし始めている。
(何で僕が綾波になる夢なんか見たんだろう?)
シンジはもう少し眠ろうと、寝返りを打った。
(ちゃんと僕が居るじゃないか)
視線の先には、幸せそうな寝顔の自分が見える。
(なんだか、可愛いな。僕って)
そっと、左手を延ばして、頬を突いてみた。
微かに身じろぎしながらも、まだ目覚める気配は見せない。
(僕の頬って、柔らかいんだ)
そんな事を思いながら、左手を戻した時、肘のやや上辺りに、妙な柔らかさを感じた所で、体を被う違和感に気が付いた。
(ちょっと待て。何で僕の寝顔を、僕が見られるんだ?)
ようやっと、ここで自分の置かれている事態の異常さを認識した。
なんだか、体が妙にふにゃふにゃしている。おまけにバランスがいつもと違う気がする。
硬直ぎみの左腕を胸の前に持ってくると、大きくはないが、柔らかい脂肪の固まりに触れた。
(こ、これって?)
それは、背中や胸に時々感じる、レイの胸の感触そっくりだ。
一度鷲掴みにしたこともあるので、間違いはないだろう。
さらに、嫌な想像が頭の中を駆け巡る中、手を下に伸ばして行った。
(無い!)
股間を素通りした手が、空しく太ももの感触を伝えてくる。
(まさかね)
今度は手を上に持って行き、髪の毛を数本つまんで、視界に入れてみた。
そこには、柔らかな蒼銀の髪の毛が。
「うわぁぁぁ!」
悲鳴とともに起き上がると、やはりそこは自分の部屋だ。
慌てて胸に手を当ててみる。
「無い」
そのまま下に手を持って行くと。
今日も元気だった。
「夢、だよな」
一気に脱力したシンジは、仰向けにベッドに倒れ込んだ。
「どうしたの?」
「悪い夢を見たんだ」
ひんやりして気持ちの良い物が、左の頬に触れた。
「どんな夢?」
「綾波の夢」
「・・・。悪い夢?」
その声に視線を向けると、脅えたような紅い瞳と出会った。
「あ? え、違うよ。僕が綾波になって、綾波に責められる夢」
「私が碇君を攻めるの?」
潤み始めた瞳を見たシンジは、自分の言葉のまずさに歯噛みしながら、出来るだけレイを傷つけないような言い方を探した。
「僕の事で喜んでいる綾波を、もう一人の綾波が虐めているんだ」
「そう」
「うん。だから、綾波は全然悪くないよ」
納得したのかはよく分からないが、さっきまでの切羽詰まった雰囲気は何処かに消えていた。
その代わりに現れたのは、穏やかで幸せそうな微笑。
「もう少し時間があるから、眠ろう?」
「ええ。かまわないわ」
そう言って、レイはシンジの左腕に抱きついて来た。
(綾波って、可愛いよな、やっぱり)
シンジも右腕をレイの左肩から背中にまわした。
「そう言えば」
「何?」
と、ここまで事態が進展してから、シンジは今の状況を理解した。
「綾波って、なんで僕のベッドにいるの?」
「暖かいから」
シンジの疑問に対する、それは即答。
「・・・・・・」
幸せそうに目を細める少女を見つめる自分。
一度は憧れる光景だろうが、シチュエーション的には、十四歳の男の子には刺激が強すぎた。
「え、っと、あ、その」
「何?」
慌てふためき、どうやって現状を打破しようか、それを考えるべき頭脳は、完全にパニック状態だった。
「あ、あの。若い男の布団に、若い女の人が入るのは良くないよ」
「問題ないわ」
「い、や、えっと、問題あると思うけど?」
確実に問題なのは本人も理解しているのだが、押しが弱いシンジには、この辺が限界だろう。
「問題ないわ。だって、これはベッドだもの」
「・・・・」
確かに布団ではない。
「あ、えっと、上にかけてるのは布団だし」
論点がずれている事に気が付いているが、シンジは今この場を乗り切る事に全力を傾けていた。
「そう?」
だが、レイはそんなシンジの努力をあざ笑うかの様に、シンジの左腕に体を密着させて来た。
「あ、あ、綾波」
「何?」
「放して!」
「嫌」
シンジの渾身のお願いは、あっさりと否決された。
「ヒィィ」
性別不明な悲鳴を放ったシンジは。
(襲っちゃ駄目だ。襲っちゃ駄目だ。襲っちゃ駄目だ。襲ったら責任問題だ)
心の中でそう唱えながら、必死に暴走しようとする本能を押さえつける事だけを考えた。
レイがこんな行動をとった責任は、教育した周りの大人達がとらなければならないだろうが、シンジのとった行動の責任をとるのは、間違いなくシンジの役目だ。
まあ、いつかはきっちりと形を整えたいと思うが、いかんせん時期が早すぎる。
ともあれ、そんなシンジの災難は、目覚まし時計が鳴るまで続くことになる。