刻印

粒子案


 シンジは、手に持った半田ごてを、白くて適度な固さと、柔らかさを持った二つの膨らみの、左側へ押し当てた。

「くっ!」

 微かに物の焦げる匂いと音、そして、少女のうめきが部屋に流れ出る。

 それと同時に、布の擦れる音と、何か、そう、例えば、ロープがよじれるような音がする。

 そして、当てた半田ごてをそっと垂直に降ろして行く。

「あぁぁ」

 一旦収まった少女のうめき声は、シンジの手の動きを受けて、殺風景な部屋に満ちた。

 一瞬の躊躇の後、シンジの手は再び動いて、一旦離した半田ごてを、さっき自分の作った垂直に引かれた焦げ後の中程に当てがい、右斜め下に向かって動かした。

「くっ!」

 再びの躊躇の後、シンジは半田ごてを脇に置き、電気の力で熱せられた焼き印を掴み、そして、右の膨らみへ通し当てた。

「くぁぁぁぁ!」

 さっきとは比較にならないほど強い、少女のうめきが部屋を支配した所で、シンジは諦めたように作業を中断した。

「綾波?」

「はぁはぁ。・・・。なに?」

 視線の角度を変えて、一緒にいるレイの方を見ると、普段の無表情の彼女の紅い瞳をもろに見てしまった。

「お願いだから、変な声出さないで」

 隣に佇むレイへと向き直り、思わず頭を下げて懇願してしまう。

 もちろん、レイは制服を完全に着込んでいる。

 そして、何故か荒縄を束ねた物を手に持ち、それをねじっていたりもする。

「どうしてそう言う事言うの?」

 かなり疲れたシンジは、さっき途中であきらめずに、レイを説得しておくべきだったと後悔したが、文字通り、後の祭りだ。

「お饅頭に名前書くのに、この部屋を使ってるのは僕だけど、お願いだからその声は止めて」

 そう。シンジの目の前に有るのは、紅白饅頭。

 使徒の脅威が去り、死んだと思われた加持が奇跡の生還を果たした後、ミサトと結婚する事を決意したのは先月の事。

 この手の話は速い方が良いと言い張るアスカの行動力は凄まじく、式は明後日に迫っているのだ。

 そして、今シンジが作っているのは、二人の結婚式の引き出物の一つ。

 紅白のお饅頭に、リョウジと、ミサトと書かれた物と、寿と言う焼き印を押したもの。

 さっきまでは紅い方のお饅頭に、せっせと焦げ後を付けていたのだが、今は白い方をやっているのだ。

 しかも、シンジが住んでいるマンションは、ミサトの荷物が反乱し、とてもこの作業をする事は出来ない。

 だから、レイの部屋に機材を持ち込み、ここで作業をしているのだが、始めた途端に、レイの意味不明のうめき声が聞こえ始めたのだ。

 もし、これで、声が色っぽかったりしたら、途方も無く困った事になったのだろうが、幸か不幸か、レイの声は相変わらず抑揚や感情の起伏が感じられない。

 とは言え、さっきの様な調子の声を、三時間にわたって聞き続けたシンジの精神的な疲労は限界に達していた。

「こう言う事をすると、碇君が喜ぶと言われた」

「・・・。誰に言われたの?」

 見当は付く。

 こんな事をやらせたがるのは、ミサトさんかリツコさんぐらいだろう。

「碇司令」

「は?」

 シンジの予測は完全に外れ、髭面の中年男が、ニヤリと笑う姿がシンジの意識を占領した。

「な、なんで?」

「解らない」

 最近は、会話をしていると時々感情の起伏を感じる事が出来るようになったとは言え、相変わらずレイの行動は理解に苦しむ。

「はあ。・・・。お願いだから、声は出さないで」

「? 解ったわ」

 理由は解っていないだろうが、取り合えず了承してくれた事でシンジは安心し、理解不能な量のお饅頭との格闘戦を再開する事にした。

 

「碇君」

 結婚式を明日に控え、トウジとケンスケの悲鳴を聞きながら帰り支度を始めたシンジに、レイから声がかかったのは非常に珍しい事だ。

「なに?」

 これから、レイの家に行き、紅白饅頭を完成させなければならない。

 何しろ、明日の午後には引き出物として大勢の人達にふるまわれるのだから。

「昨日はごめんなさい」

「え? ああ、良いよ気にしないで」

 昨日の声の事を詫びているのはすぐに解った。

 シンジが帰ろうとした時のレイは、少し落ち込んだ雰囲気を持っていたから。

「碇君が腹を立てるのは当然だわ。あんなあられもない声を、長時間聞かせられたら、不快に思って当然だもの」

 その一言のせいで、その時教室にいた全員の動きが完全に止まった。

「あ、あやなみ?」

 第三東京市に来て以来、危険な目に会い続けたシンジの本能が、逃走経路の確保を告げている。

「ごめんなさい。でも」

 そこで一旦言葉を切ると、わずかに俯きながらシンジから視線を外し、頬を桜色に染めた。

(ああ。綾波ってやっぱり可愛い)

 などと、その仕草に見とれたのが運の尽きだったようだ。

「碇君の手の動きが、とても繊細で、素敵だったから」

 男子生徒の殆どの視線が、プログナイフの切れ味を持って、シンジの身体に突き刺さってくる。

(し、しまった)

 逃げ遅れた事に気が付いたシンジには、既に選択の余地は無い。

「今日、続きするんでしょ? 先、行くから」

 そう言うと、スキップしそうな雰囲気とともに、教室から歩いて出て行ってしまった。

「シンジ?」

「碇?」

 トウジとケンスケが、帰り支度を終えたシンジの両脇を固めた。

「あ、あ、あの?」

「綾波と、ずいぶんと仲ええやないか」

「男なら、涙を流して喜ぶべきだよな」

 二人の手が、シンジの肩を押さえる。

「あ、だ、だからね」

 だが、事態はシンジに言い訳の時間など用意してくれていないらしい。

「シンジ?」

「マナ?」

 焦茶色の髪と、やや垂れ気味の瞳をした少女が、その瞳に涙をためて佇んでいるのだ。

「マナ。ご、ごかいだよ」

 しどろもどろになるシンジの言い訳など、誰も聞いていない事は解り切っているが、条件反射と言う物だろう。

「いくら私の胸が小さいからって、綾波さんまで弄ぶなんて、そんなの酷いよ」

 マナを弄んだ記憶は無い。

 いや。マナどころか、誰かを弄んだ記憶は、シンジには無い。

 ミサトなどに弄ばれる事は多いけれど。

「そんなの最低よ。外道よ。鬼畜よ。変態よ。そんなの、そんなのシンジじゃないよ」

 そう言うと、両手を顔に当てて、泣き崩れてしまった。

 もちろんの事、マナの告発を聞いた生徒達からは、ポジトロンライフル(ヤシマ作戦時)並の威力の視線が突き刺さり続けている。

 シンジが殲滅されるのは、時間の問題だ。

「だから、誤解なんだよ。誰か僕の話を聞いてよ!」

 絶叫するシンジの話を聞く人間は、2-Aの教室には誰一人としていないのだから。

 その証拠に、シンジを包囲した輪が、徐々に小さくなっている。

 彼が生き残れる確率は、第三使徒が来る前の、初号機の機動確率よりも低いだろう。

 

 冬月は、シンジの映るモニターを見つめながら、どの辺で救出作戦を発動させるかを検討している。

「しかし、レイもずいぶんと成長した物だな」

 冬月は、昨日司令室で起こった事を回想して思わずニヤリ笑いを浮かべてしまった。

 

「司令。お話が有ります」

 ミサト達の結婚式を明後日に控えたネルフ本部の司令室に、レイが訪れたのはかなり遅い時間になってからだ。

「なんだ?」

 いつもの調子のゲンドウだが、冬月が見る限りにおいては、僅かに頬が緩み、喜んでいる事が解る。

「はい」

 何の躊躇も無く、レイがゲンドウに近付いているが、様子がいつもと違う事に、冬月は気が付いた。

「司令」

 何かを隠すように、両手を後ろに組んでいるのは、彼女らしからぬ態度だろう。

「なんだ?」

 シンジ辺りだったら、威圧されているとしか感じられない態度だが、流石に慣れているレイは、机を回り、ゲンドウの眼前一メートルの所に迫っている。

「?」

 何故、自分は今レイが迫っていると思ったのだろう?

 冬月がそんな事を思った次の瞬間。

「ぐわぁぁぁぁぁ!」

「!」

 いきなり天地を揺るがせる、猛獣の様なゲンドウの悲鳴が、無闇に広い司令室を揺るがせた。

「レ、レイ?」

 視界の中央では、額に手を当てたゲンドウが椅子からずり落ち、床の上で悶絶している。

 レイの手には、何かの金属の棒の様な物が握られているが、薄暗い部屋の中でその正体を見極める事は至難の業だ。

「そう。だめなのね」

 その姿を見ているのかいないのか、冷静に一言呟くと、踵を返して部屋から出て行こうとしている。

「レイ。私を裏切るつもりか?」

「私は、あなたの人形じゃない」

「待ってくれ、レイ!」

「駄目。碇君が呼んでる」

 何が有ったかは不明だが、二人が決別したらしい事だけは間違いないだろう。

「たのむ。待ってくれ、レイ。救護班を呼んでくれ」

 そう言うゲンドウの声を無視したレイは、淡々と司令室を後にした。

「碇。レイにこだわり過ぎだな」

 自分もいるのだから、頼めば良いだろうにと思うと、そんな独り言を言ってしまった。

「ふ、冬月先生。救護班を」

「解っている。少し見せて見なさい」

 久しぶりに先生と呼ばれたので、やや機嫌を直した冬月が、ゲンドウの額に当てられた手をどけ、皮膚の状態をみた。

 その昔、潜りの医者をやっていたほどだから、多少の怪我なら自分にも治療できる。

 だが、事態は冬月の想像を遙かに超えていた。

「ぷっ!」

 思わず吹き出してしまったのは、仕方が無いだろう。

「ど、どうしたと言うのです?」

 未だに自分に何が起こったか解っていないこの男を、どう処理すべきか考えた冬月は、一つの結論に達した。

「私が診ても良いのだが、赤木君の方が適任だろう。連絡を入れておくから、そっちに行くと良い」

 言いながらも、水に濡らしたハンカチを額に当て、本人も含め誰にも見られないようにしてから、なかば追い出すようにゲンドウを赤木研究室へと送り出した。

「くくくくく。碇の奴」

 今後の展開を予測した冬月の笑いは、明らかに危険極まりない物だが、それでもそれは、人なつっこい印象を人に与えるだろう。

 かなり悪趣味だが、結果は多分良い事なのだから。

「しかし、寿印の碇か。味を想像するのは辞めておこう」

 そう。レイがゲンドウの額に押し当てたのは、技術部で極秘に作られていた、寿印の焼き印。

 それは、今シンジの手元に有り、明後日の結婚式の引き出物のために、使われているはずの物なのだ。

 なぜレイがそんな物をゲンドウに押し当てたのかは、おおむね想像が出来ると言う物だ。

 

 ちなみに、赤木研究室を訪れた寿印のゲンドウは、リツコに美味しく頂かれてしまったらしい。

 そう。冬月の思惑通りに。

 










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