■ HOPE  第拾伍話 「Rei」





結局行くとこの無いシンジはレイの後についてきてしまった。

コンビニに寄った後、レイの部屋に入ったシンジは唖然とする。


「僕……前に綾波さんの部屋来たことあるの?」

「………ないわ。なぜ?」



打ちっぱなしのコンクリートの壁、切れて半分つかなくなっている照明。

パイプベッドとその脇のチェスト、小さなテーブルと椅子。

ベッドの横のダンボールには、いわくありげな血のついた包帯。

小さな冷蔵庫の上には医療用の飲み薬とビーカーが数点。


なんとなくレイが普通の女の子ではないというのは雰囲気でわかっていた。

しかしこの部屋は……質素を通り越してやや異常である。



「……どうしたの?」

レイは体半分こちらに向けてシンジを見ている。



「……入らないの?」


「あ、うん……お邪魔……します」


靴を脱いでスリッパに履き替える。

掃除はマメにしてあるようで床はあまり汚れていない。

部屋の中に進み、テーブルの椅子に買い物袋を引っ掛け、ボストンバックを床に置く。


なんとなく落ち着かない。

やや特殊な部屋ではあるものの、今まで同い年の女の子の部屋に来たことなんてあったのだろうか。

記憶がないのでそれはわからないが、自分の性格からしてあったとしても数回程度だろう。

しかも目の前にいる綾波レイはとんでもない美人である。

失礼だとはわかっているが、シンジはキョロキョロ見回してしまう。



「……碇君」

シンジはビクッとレイを振り返る。



「シャワー先に使って……」

「あ、うん。でも綾波さんは?」

「……後でいい」

「そう?……それじゃ、お言葉に甘えて……」


ボストンバックから着替えを取り出し、アコーディオンカーテンの中へと入る。

シンジは手早く着替えを脱ぐとバスルームに入った。


レイのお風呂はユニットバスだった。

湯船には仕切り用のカーテンがしかれていて、湯船には使った形跡がない。レイはいつもシャワーで済ましているのだろう。

記憶はないが、シンジにとっては お風呂=湯船 という認識がある。

ゆっくりと湯船に浸かりたかったが、普段レイが使ってないものを無理に使うのも気が引ける。

それに次にレイがお風呂を待っているのでこれは我慢することにする。



蛇口を開いてシャワーを浴びる。

暖かい湯が頭から降り注ぐ。

目を閉じてその心地よい感覚に身を任せる。



シャワーの中、髪を両手でかきあげる。

「あ〜……気持ちいい……」




すごいことになっちゃったな……。

家出した上に綾波さんの家に……。綾波さんはミサトさんにこのことを報告するんだろうか。

……するよな……普通に考えて。




女の子の部屋に泊まるなんて……。

なんだかすごくいけないことしてるみたいだな。

どうして綾波さん僕のこと部屋に入れてくれたんだろ……。




不意にレイの言葉が思い出された。

『シャワー先に使って……』



そ、そういえば……綾波さんが部屋に誘ったんだった……。

シャワー浴びてって……まさか……





両手で顔をゴシゴシ洗う。

……何考えてんだ僕は。

せっかく綾波さんが行くあてのない僕を拾ってくれたのに。




石鹸しか置いてなかったので、それで手早く体を洗うとシンジは外に出た。

振り返って粗相がないかチェック。

石鹸は元の位置に戻したし……体毛も落ちてない。OKだ。


洗濯機の上にバスタオルが何枚か置かれていたので、それで体を拭かせてもらう。

代えの着替え。ハーフパンツに平常心と書かれたTシャツ。

数日は帰る気になれそうもなかったので、着替えを持ってきて正解だった。




アコーディオンカーテンを開けると、レイはテーブルに向かって本を読んでいた。

「綾波さんあがったよ。ありがとう」

「……そう」

レイはすっと立ち上がる。


「バスタオル使っちゃったんだけど良かったかな?洗濯機のカゴに入れておいたんだけど」

「構わないわ……」


レイがカーテンの奥に消える。

しばらく布の擦れる音が聞こえた後、水の流れる音が聞こえた。




とりあえずは……。


シンジは買ってきた買い物袋の中を開ける。

パンとマーガリンと紅茶。それにパッケージされた野菜サラダ。


シンジが冷蔵庫を空けると、そこにも液体の入ったビーカー。

何のために置いてあるのかはわからないが、勝手に手をつけるわけにもいかない。

端に寄せてマーガリンと野菜サラダを入れる。



紅茶のティーパックを取り出して台所へ。

台所も使った跡がほとんどない。

戸棚にはコップが一個とお皿が少々。

……そしてやっぱりビーカー。

「……困ったな。マグカップもないのか」


ヤカンを火にかけて沸騰を待つ。

振り返って部屋の様子を見る。




本当に質素だな……。

でもなんとなく綾波さんらしいのかも……?

こんな部屋で寂しくならないのかな。



本来四本入るべき棒型蛍光灯。二本しか点いてないので、部屋は薄暗い。

窓の外から風が入り込みカーテンを揺らす。

シンジが少し身をかがめると、窓の外に月が見えた。


ピーッという噴き上げ音を鳴らし、ヤカンが沸騰を告げる。

カップがないので仕方なくビーカーにお湯を注ぐ。



後ろでカーテンが開く音がした。

「あ、綾波さん。今紅茶いれ……うわあ!!」

振り向くとそこには全裸のレイ。

首からタオルを下げている。


「ご、ごごごごめん!!!」

シンジが慌てて背中を向ける。


ドキン……ドキン……!!


心臓の鼓動が早鐘を打つ。

先ほどの妄想が頭にチラつく。


やっちゃった!やってしまった!

なんで僕はこうバカなんだ!


シンジは両手をぎゅっと握り締める。


しかしレイはシンジの様子にはあまり感慨を抱いてない様子。

チェストから新しいワイシャツを取り出すとそれを羽織り、綺麗な白い指で一つ一つボタンをとめる。

それが終わると台所にいるシンジを見る。



「……何?」

「え、ああ……うん、えっと、なんだっけ……。ああ、そう、紅茶!紅茶を!!」


声がうわずってしまった。

顔が赤くなっているのを感じる。

落ち着け……落ち着け……



シンジはビーカーに入れた紅茶を机の上に置く。

椅子は一つしかなかったので、レイの勉強机の椅子を持ってきた。




「これ……紅茶……」

「う、うん……カップがないから、それで……」


レイはビーカーを両手で包んでいる。

「綺麗な色……」

「うん……そうだね」



レイの蒼銀の髪はまだ濡れていて、髪の先に水滴がついている。

水もしたたる……なんて言葉があるが、今のレイにはぴったりの言葉だ。

透けるように白い肌、綺麗な指でビーカーを両手で包み込み、紅い視線をその中に落とす。

初めて会った病室でも感じたが、とても神秘的な女の子だ。


綺麗だな……。


シンジはレイの姿に見とれてしまう。


よく見ると……レイは裸の上にワイシャツを一枚羽織っているだけで下着をつけていないようだ。

胸の突起が透けて見えそう。

シンジは思わず目を逸らす。





「初めて……飲むわ……」


「ええ!?ほんとに?」


シンジは驚いてレイを見る。

紅茶を飲んだことがないなんて、一体どういう環境で生活しているのだろうか。



「僕は紅茶好きだよ」

「記憶、戻ったの……?」

「……ううん。でも、好きなことは覚えてるよ」

「そう……」


レイがビーカーを口につける。

シンジも同じように口をつける。


「あ、そういえば砂糖忘れちゃったね。ちょっと苦いや……」

「……でも、暖かいわ」

微かに、ほんの微かにレイの口元が緩む。

綾波さん、笑ってる……?




「うん……そうだね。あったかい」

















レイはベッドに入り、掛け布団を持ち上げてシンジを見ている。

「……どうしたの?」

「え、いや……」

「……入らないの?」

「ま、まずいよ。綾波さん……いくらなんでも……」

「なぜ……?」


レイは紅い瞳でシンジを真っ直ぐ見ている。

布団の隙間からレイの白い太ももが見える。

シンジは目を逸らす。


「綾波さんは……そういうの平気なの?」

「……そういうの?」

「だって、僕男だし……一緒に寝たら……その……」

「…………なに?」

「………………」







「その……恋人同士とかじゃないのに……一緒に寝るのはおかしいよ……」

「…………よく、わからない」

「…………」



「なら……どうするの?」


シンジは部屋を見渡す。

ソファーはないし、椅子も背が高いタイプ。座って寝るのは難しそうだ。


「床に寝るよ……」

「……風邪ひくわ」

「でも…………」





レイが少し目を伏せる。

何やら考えこんでいるらしい。

どうやらこれが彼女の考える時のクセのようだ。



「………碇君は私と一緒に寝るのが嫌なの?」

「いや!!違う!そうじゃなくて…………綾波さんが……」



「……私は構わない」


「…………」


そう言われるとシンジも口どもってしまう。

女の子と一緒に布団に入るなんてのは、シンジとしては躊躇してしまう。

一緒に布団に入ったとしても、ぐっすり眠れるのだろうか。

それ以上にレイに嫌われるようなことはしたくない。

だがレイが構わないというのなら構わないのではないだろうか……?


それに……レイに強がって言ってみたものの、この冷たい床の上で寝るなら公園のベンチのほうがまだマシだろう。



「……………」

シンジはおずおずとベッドの中に入る。

少しレイの体に足が触れてしまう。


「あっ!ごめん!!」

シンジが慌てて足の位置をずらす。


恋人同士が腕枕などで密着するのならばともかく

この小さなベッドの上で二人で寝るということ自体に無理がある。

体が接触してしまうのは仕方が無いと言えよう。

シンジはできる限り体を縮みこませてレイとの間に隙間を作り、背を向ける。

……かなり体勢がきつい。




布団に入ると女の子独特の甘い香りがシンジの鼻腔をくすぐる。

こんな状態で眠れるのだろうか……。



「…………」






レイは仰向けで気をつけの姿勢で目を閉じる。

シンジは半身になって背中をレイに向けている。

力を抜くとシンジの背中にレイの腕が当たってしまう。



布団の中で悶々とするシンジ。



「あの……綾波さん……さっきはごめん」


レイは少し目を開けた。


「シャワー……その、着替えて出てくると思ってて……

 別に変なこと考えてたんわけじゃないんだ!それで……」


「…………なにが?」


「………………」









何を話せばいいのだろう。

着替えのことにしても、家に泊めてもらったことも、こうして今一緒に寝ていることも……。

ありがとう、ごめん。どっちを言えばいいのだろうか。






しばらくするとレイのほうからスヤスヤと寝息が聞こえ始めた。


綾波さん……よく寝れるな……僕男って見られてないのかな……。


「…………」

シンジはしばらく目を閉じてみる。

しかし……




…………眠れない。


……仕方ないな。

シンジはベッドの下に置いておいたS-DATを手に取って音楽をかける。

この体勢と状況で寝るのは難しい。

音楽を聴けばすこしは気が紛れるし、今日は徹夜になっても明日眠ればいいだろう。

どうせ行く所なんてないのだから。




目を閉じて、しばらく音楽に聞き入るシンジ。

だんだんとこの状況にも慣れてきた。

体を力むのにも疲れてきたので、少し力を抜いてみる。

レイの柔らかな二の腕が背中に当たる……。


「…………」


綾波さんの体……やわらかいな……。

シンジは恐る恐るレイのほうを見る。






綾波さん…………。



レイの安らかな寝顔。

少しシャギーの入ったレイの蒼銀の髪。

月明かりを反射してキラキラ光っている。

色の薄い白く、滑らかな肌。

きゅっと閉じられたピンク色の唇。銀色のマツゲ。

呼吸に合わせて上下するレイの胸。

ワイシャツの下には何もつけられていない。


綺麗だ……。

月光を浴びるレイの横顔。


まるで天使みたいだな……。


どこまでも現実離れしているレイの美しさ。

この瞬間、本当は人間でなく月の女神、妖精でしたと言われてもシンジは何も疑わないだろう。

むしろそのほうがしっくりくるような、完璧な美しさがレイにはあった。


この無機質な部屋はレイを閉じ込めている檻のように感じる。

すこし常識外れな生活はこの檻のせいなのだろうか。




シンジはレイの寝顔を見つめる。



触れてみたい……。


この少女に。

このピンクの唇は触れれば暖かいのだろうか。やわらかいのだろうか。


この真っ白な少女を自分のものにしたい……。


だめだ!そんなことをしたら…………。





レイは目を閉じ、スヤスヤと眠っている。




触れるだけだ……。

起こさないようにやれば……。



シンジはS-DATを止めて、完全にレイのほうに体を向ける。



レイの両脇に肘をついて組み伏せる。



キスしたい…………。



静かに上下するレイの胸。

ピンク色の唇に目が惹きつけられる。


ゆっくりとレイの唇に顔を近づける。

こうするとはっきりとレイの香りを感じる。


レイの唇までもう後数センチ。

レイの吐息が顔にかかる……。



シンジの鼓動が高鳴る。

触れ合いたい。綾波さんと……




唇と唇が近づく…………









シンジはバッとレイから離れた。



何やってるんだ僕は……

綾波さんが寝てるところに…………最低だ…………。




これ以上綾波さんを見てたら本当に襲っちゃいそうだ。

強引にでも、もう寝よう。



レイの横で仰向けになる。

肩と肩が触れ合う。


ごめん……。

シンジは心の中で謝った。






ごめんね、綾波さん…………。

S-DATのスイッチを入れる。


まだ悶々としていたが、今日は家出で心身ともに疲れていたからか、数十分もすれば眠気が襲ってくれた。


…………










シンジが寝静まった頃……。

レイが静かに目を開けた。

上半身を起こしシンジの寝顔を見る。

口を半開きにして眠りについているシンジ。


窓を見上げれば、悪魔が爪で夜空を引っ掻いたような、細い三日月。満月には程遠い。

レイはシンジの寝顔に視線を戻すと、そっと前髪を撫でた。


























シンジはひさしぶりに夢を見た。

とてもとても懐かしい夢。

木漏れ日の中、母の腕に抱かれている夢……。


母の顔は逆光になっていて見えない。

見えないのだが、微笑んでいることがわかる。

そしてこの女性が母親だということがわかる。

どうしてだろう……。



見えていないのに感覚的に「見える」。

最近もそういう感覚をよく味わっていた気がする…………が、それが何なのかは思い出せない……。




なつかしい匂い。

母の腕の中の暖かさ、母の胸のぬくもり。

何もしない。何の言葉もいらない。

全てがわかる。

ただただ無条件に注がれる母からの愛。



シンジの心は満ち足りている。


こんな気持ちになるのはいつ以来だろうか。






もっと深くそれを感じるために、胸の谷間に顔をうずめる。

やや低い体温。心臓の鼓動。人のぬくもり……。

ゆっくりと髪を撫でられる。

心地よい……。



シンジは少し身じろぎした。




「…………起きた?」









シンジが顔を上げると、そこには紅い双瞳。

「は……え……?」



頭が急激に覚醒していく。

シンジはレイに抱きしめられている。

レイの胸の谷間からレイの顔を見上げているシンジ。



「ふぅわぁああ!!」

シンジが驚いて飛びのこうとするが、うまくいかない。


それもそのはず。

抱きしめていたのレイではなく、シンジがレイの体をがっしりと抱きかかえていたのだった。


慌ててその手を離し、ベッドから飛びのく。


「ご、ごごごごごめん!!!!」


「…………」

レイは体を起こす。



「ち、違うんだ!か、母さんの夢を見てて、それで綾波さんが母さんに……だから!これは変な意味じゃなくて!」

この状況ではまるで説得力がない。



「……思い出したの?」

「へ?」


慌てるシンジとは対照的にレイは至って冷静。


「お母さんの夢を見ていたって……」

「え、あ……そういえば……」



シンジは少し考え込む。


「……ダメみたい。母さんの夢見てたと思ったんだけどなあ……」



「……そう……あなたは夢を見るのね……」

レイは少し目を伏せる。

「え?綾波さんは見ないの?」

「…………」














チンッ!

旧式のトースターから食パンが二枚飛び出す。


マーガリンと野菜サラダを冷蔵庫から取り出す。

二つのビーカーには昨晩と同じ紅茶。


「昨日、コンビニでこれしか買ってこなかったから……」

「…………」


レイは元々口数が少ない。

シンジもレイのことをあまり知らない。

必然的に食卓に会話は少ない。

食パンを小さくちぎって口へ運ぶレイ。


綾波さんって何やってても綺麗だな……。

シンジはまたしてもレイに見とれてしまう。


「紅茶……」

「あ、うん。綾波さん気に入ってたみたいだから。またいれてみたよ」


レイはビーカーを両手で包む。

「……あたたかいわ」


シンジはそんなレイを見て小さく微笑んだ。





食事が終わるとレイは冷蔵庫からタッパと液体の入ったビーカーを取り出す。

テーブルの上でそれを開ける。その中にはたくさんの医薬品。

手馴れた手つきでそれをシャーレの上に次々と置いていく。

シンジはそれを呆然と見ている。

「それ……薬だよね?そんなにいっぱい……。綾波さんどこか悪いの?」


シャーレの上には既に錠剤とカプセルが十個近く置かれている。

レイはそれらを一気に口に入れ、ビーカーに入った液体でそれを流し込む。

少しくるしそうだ。ゴクリと喉を鳴らして飲み込む。

「…………」

シンジはレイの様子を凝視している。


少し息をつくと、レイが口を開く。

「………サプリメントと体の維持に必要な薬」

「維持に……?あ、そう言えば綾波さんってアルビノなんだよね?だから?」

レイは何も言わず冷蔵庫にそれらを戻す。



「あ、食器、僕洗うよ。泊めてもらっちゃったからね」


お皿とビーカーを持ってシンクへ向かう。

今日は土曜日。学校も休みだ。

どちらにせよ、休みでなくても行く気はなかった。今クラスメイト達に囲まれて過ごす生活は、とてもじゃないが耐えられない。

NERVの訓練もあるのだろう。もちろん、それには行くつもりはないのだが……。





シンジが手を拭きながら台所から戻ってきた。

レイはベッドの上に腰掛けている。


「あ……」


こうしてレイが座っているとよくわかる。

朝日を浴びてワイシャツが透けている。

ワイシャツの裾から覗くレイの太もも。

大きく開いた前からは、レイが少し動けばその先も見えてしまいそうだ。


見えそうだよって言ったほうがいいのだろうか。

自分からそんなことを言ったら軽蔑されてしまうだろうか。

でも見ていたい気も……



「………何?」

「え?」




「さっきから私の太ももばかり見ているから……」

「ち、違うよ!あの、綾波さん、その格好……その、着替えないのかなあ……って思って……」


イタズラが見つかった子供のように、ドギマギしてしまう。

ドキン……ドキン……



レイはしばし自分の格好を見つめる。

「……そうね」

すっと立ち上がるとアコーディオンカーテンを開けてお風呂場の中へ行った。





シンジは胸を撫で下ろす。

ベッドの上で仰向けになり、S-DATを耳につける。

「はぁ〜〜………………」


僕ってこんなスケベな奴だったのか……。

昨日から綾波さんに失礼なことしすぎだよ……。



風呂場からシャワーの音が聞こえる。

出てきたらまた裸かもしれないから気をつけないと……。





案の定レイは裸にタオルで出てきてチェストの前で制服に着替え始めた。

シンジはそれを見ないように入れ替わりにシャワーを浴びたのだった。











とりあえず朝食とシャワーが終わりひと段落。

レイは椅子に座り、シンジはベッドの上に座っている。

「綾波さん、今日どうするの?」

「……12:00からシンクロテスト。サードチルドレンも」

「……僕は行かないよ……サードチルドレンにはならないから」

「……そう……」



「まだ時間あるね。どうしよっか?」

レイはチラッとシンジを見る。

「…………何が?」

「どうやって過ごすか」

「……別に……」

「別にって………」

「…………」




「あの、綾波さんは普段、休日はどうやって過ごしてるの?」

「……こうしてるわ……」

「こうして……?」

レイは椅子に座って壁を見ている。



こうしてって……ただ座って壁見てるだけだよな……。

…………。

ま、まさか……ほんとにそうやって休日過ごしてるんじゃ……

でも綾波さんなら本当にやってそうな気がする……。


「ほ、ほかには?」

「……本を読んだり……」

「…………。そっちのほうがいいと思うよ」




「あ、僕はね、たぶんこれだと思う。」

シンジはS-DATを取り出しレイに見せる。

「これ結構使い込まれてるから、たぶん前もこれでよく音楽聞いてたんだと思うよ。今も結構聞くの好きだし」


S-DATの再生ボタンを押す。

朝にふさわしい、ゆったりとした曲調の音楽がイヤホンから流れる。



「綾波さんは音楽とかどういうの聞くの?」

「……そういうの、わからない……」


「わからない?」

「………………」


アーティストの名前とか知らないのだろうか。

音楽に疎いってこと……?



「あ、これ聞いてみる?」

シンジはイヤホンをはずしてレイに手渡す。


レイは両手で受け取ると、しばしそれを見つめていた。

髪を掻きあげ両手でイヤホンを耳に当てる。

髪をあげるという、レイの何気ない仕種に、シンジはまたドキリとさせられてしまう。



「…………どう?」

「………………」



「……ごめんなさい、よくわからないわ」

レイは目線を下げる。

もしかしたら残念がっているのかもしれない。


「別に謝ることないよ。曲がダメだったのかなあ……」


シンジはレイからS-DATを受け取ると、もう一度片方の耳にイヤホンを当てる。

早送りボタンを押して何曲か飛ばす。


「あ、綾波さん、これはどう?」


シンジがレイを手招きする。

レイは椅子を立ち上がりベッドの上、シンジの隣に座る。

シンジはレイの髪を掻きあげた。

「あ……」


やわらかい……。

綾波さんの髪ってこんなにやわらかいんだ。

レイの耳の中にイヤホンを入れようとするも、手が震えてしまった。


レイは不思議そうに小首を少し傾けてシンジを見る。


「あ、ごめん。なんでもないよ」

再生ボタンを押す。


その曲はオルゴールのみで演奏されるシンプルな曲だった。

なぜそんな曲をシンジが入れていたのかは、記憶が無い今わからない。


「どう……かな?」


レイは少し目を伏せる。


「少し……」


「少しだけど………わかる……」


「わかる?」

「……ええ……」




何がわかるのかはわからない。

けれどレイが共感してくれたなら、シンジは満足だ。



一つのイヤホンを二人で分け合い、ベッドの上でレイとシンジはしばらく音楽に耳を傾けていた。

無機質な部屋の中、二人の間に言葉は無い。

だがそこには穏やかな空気が流れていた……。










レイは制服のポケットから携帯を取り出すと、液晶を見る。

もうそろそろNERVに行く準備を始めなければいけない。

イヤホンをはずし、レイがベッドから立ち上がる。


「……時間よ」

「あ、もうそんな時間か……」

シンジは残念そうにイヤホンをはずす。

「綾波さん泊めてくれてありがとね」

「………別に」

「それじゃ、僕も出て行くよ」



レイは半身になって振り返って、シンジを見る。

「………どこへ?」

「わかんないけど……なんとかなるよ」

「………なぜ?」

「え?」



「……なぜ出て行くの?」

「なぜって……そりゃ、綾波さんにこれ以上迷惑かけられないし……」

「……別に迷惑だなんて思ってない」

「いや……、でも……」

シンジは俯く。







レイはしばしシンジを見つめていたが、完全に体をシンジに向ける。




「………あなたが望むならここに居ればいい……」

シンジは顔を上げる。


「……それをあなたが望むならば……」


レイはそっとシンジの頬に触れる。

「ぁ………」

シンジの顔が赤く染まる。





レイはまっすぐ紅い瞳でシンジの目を見つめる。

全てを見透かすような、全てを悟っているような、深い深い赤。


「………あなたはここに居ていい。望めばここが居場所になるのよ。碇君」



レイはゆっくりと微笑んだ。





「綾波……さん……」

初めて見る、レイの綺麗な笑顔。

シンジは吸い込まれるようにレイの目を見つめる……。



レイはシンジの頬から手を離す。


「……行ってくるわ」


レイはカバンを掴むと踵を返してと、玄関から出て行ってしまった。


シンジはレイに触れられた頬に手を当てる。

少し冷たい彼女の体温が印象的だった。







マンションを出るとレイは携帯電話を取り出した。

短縮ダイヤルを押して耳に当てる。

数コール後、相手が出た。

「………綾波です」























昨日使ったバスタオルと昨日着ていた服を、旧型二層式の洗濯機に放り込む。

洗濯カゴにはレイが使っていた制服と下着もあった。

勝手に触ったら怒られるだろうか……。

いいよな。ほっとくよりは……。

なるべく見ないようにして、それらも洗濯機に入れる。



レイが出て行った後、シンジは考える。

出て行くべきか、ここに留まるか。

レイの優しさに甘えていいものなのだろうか。

レイはああ言っていたが、普通に考えれば出て行くべきなのだろう。



先ほどの様子が思い出される。

『あなたはここに居ていいのよ』

レイの笑顔。

顔が熱くなる。胸の鼓動が高鳴るのを感じる。


綾波さん……。


なぜレイはあんなことを言ったのだろうか。わからない。

だがあの時シンジは、自分の心が温かくなるのを感じた。

自分に決定的に足りない物、求めて止まない物が満たされていく暖かさ……。

よく思い出せないが、昨晩見た夢の中で同じような気分を味わっていた気がする……。

今の自分が無意識に求めているもの、その全てを内包するような、そんな言葉だった。

なぜ自分がそう感じたのか、シンジにはわからない。

理由がわからないが、なぜそう思ったのか、その理由をどうしても知りたい、という欲求に駆られる。



そして、もう少し……綾波さんのことも知りたい……。

迷惑かけちゃうかもしれないけど、もう少し綾波さんのお世話になってみようかな……。




部屋を見渡す。

レイが帰ってくるのは夕方になるだろう。

それまで何をして過ごすか。

NERVに行くつもりはない。

掃除でも……しとくかな。

記憶がなくともこういった配慮をするのがシンジらしい。


掃除機を探すが見つからない。

仕方ないので雑巾を水で濡らし拭き掃除をする。

レイはそこそこ掃除をしているらしく、それほど汚れてはいなかった。

台所。冷蔵庫。テーブルと椅子。丁寧に拭いていく。レイの勉強机を拭いた時に手が止まった。

そこには何冊かの本が並んでいた。


いくつかの文庫本と専門書。

『形而上遺伝工学』

『思春期における少年少女の心理』

『月の観察』

…………


詩集や哲学書のようなものもあった。

その中の一冊を取って中をパラパラとめくってみる。

なんとなく医学書であることはわかるが、中身は外国語で書いてあって読めない。少なくても英語ではなさそうだ。

綾波さんこんなの読むんだ。頭いいんだな。

本を閉じて元あるところに戻す。


こうして部屋を掃除していると、いくつか足りない物があることに気づく。

掃除機や洗剤、シャンプーリンス、夕飯の食材と、砂糖も。

買ってこようかな。


洗濯物を脱水機から取り出し、ベランダに干すと、シンジはサイフを持ってレイの家を出た。






















「……そう。わかったわ。あなたはこのままこっちに来てちょうだい」

ミサトは携帯電話を閉じた。

NERV本部、リツコの部屋にミサトはいた。


少し息を吐きコーヒーに口をつける。

「誰?加持君?」

パソコンのディスプレイに向かったままリツコが尋ねる。

「違うわよっ!……シンジ君の居場所、わかったの」

「あら、そうなの?で、どこにいたのよ?」

「それがねー……」

ミサトはちょっと言いにくそうに言葉を濁す。

「なんか……レイの部屋にいるらしいのよ」

「レイの………?」

リツコがいぶかしげに目を細める。


同い年のチルドレン同士、交流があっても不思議ではない。

しかし相手はあのレイだ。

リツコは古くからNERVで、保護者としてレイを見ていた。

保護者と言えど、プライベートに口を出したりしたことはない。

実際は上官、そして担当医として接してきた。

だからこそ逆にわかることもあるのだ。レイは必要のない行動や、命令以外の行動をほとんどしない。

ではなぜレイがシンジを部屋に入れたのだろうか。

シンジの捜索保護を命令の一環として捉えたのだろうか。


「そんな顔しないでよ。わたしにも訳わかんないんだからさ」

ミサトはリツコの机によりかかる。

「今電話きたの、レイからでさ。昨日夜中の公園にいたところ保護したって言ってたわ。

 シンクロテストに来ること、促したらしいんだけど……、サードチルドレンになるのを拒否してるらしいのよ」

数日前のシンジの言葉を考えれば無理もない。

記憶を無くしてナイーブになっていたシンジに対して、チルドレンとしての能力を求めたミサト。

言葉が足りなかったことは自覚している。しかし、決してただ単にエヴァへの搭乗だけを求めていた訳ではなかった。

シンジと暮らして一ヶ月も経っていないが、それでも少しずつ家族としてシンジと過ごしてきたのだから。

機会があればなんとか誤解を解きたい。

シンジの記憶が戻ればそれも容易いだろうが、戻る保障はない。

それに今のシンジはミサトのことをはっきりと拒絶している。



「それで、どうするつもりなの?無理矢理連れてくる?」

ミサトは腕組みして考え込む。

「今……無理矢理乗せたところで、逆効果かもね……」

「そんなこと言って……。あと数日もしたら司令が帰ってきちゃうわよ?」


司令が帰ってくるということは、シンジの居場所がゲンドウの耳に入るということだ。

リツコもミサトも、いや、NERVの職員ならば、レイがゲンドウのお気に入りなのは周知の事実。

NERV総司令碇ゲンドウ。その寵愛を実の息子以上に受ける謎の少女。

ミサトもレイを部下として扱ってきた一方、それほど深く関わっていなかった理由の一つがこれだ。

まるで腫れ物でも触るように、レイに関する事はタブーとされている傾向がNERVにはあった。

それを象徴するように、レイの資料のほとんどは抹消とされている。

シンジがレイの元にいることなどゲンドウが許すはずがない。

その責任を問われるとするならば、チルドレンの監督者としても、今回の使徒戦にしても、ミサトしかいないだろう。

今度こそクビになりかねない。

「そうなのよねー……」

「…………」

「……とりあえずは様子をみて、なんとかシンジ君を説得するしかないわ……。

 私が言っても逆効果みたいだし……。レイに頼んでみようかしら」

















シンジは駅前の百貨店を回っている。

サイフにIDカードが入っていたので、銀行で現金を引き出してみたところ、そこにはとんでもない金額が口座に入っていた。

サードチルドレン、エヴァのパイロット。その報酬は一介の中学生にとっては破格の金額だ。

以前ミサトから見せられた資料によると、使徒はシンジが来て以降二回襲来しているようだった。

うち一回は暴走ではあったものの、初号機が殲滅。賞与が与えられている。

それ以外にもNERV所属のパイロットとしての基本給も出ているので、かなりの金額だ。

自分のお金ではない気もするのだが、パイロットになるつもりはもう無いのだから、別にいいだろう。

利用明細を見ても、ほとんどが手をつけられていない。

ならば、今こそ使う時だ。




シンジは百貨店を周り、とりあえず掃除機と夕飯の食材、日用雑貨を買い込んだ。

この時点でだいぶ荷物が増えてしまっている。


「あと買うものは…………」

棚にあるシャンプーが目に止まる。

そう。昨日レイの風呂場には石鹸しか置いてなかった。

レイはそれで頭からつま先まで洗っていたのだろう。

レイがシャンプーやボディーソープを使いたくないから、という可能性もあるが

昨日レイと一緒に過ごした生活から想像するに、正解はその存在を知らない、または興味がないからというほうが正しいのだろう。

やや高めのところに陳列されているシャンプーに手を伸ばす。

しかし手に持った掃除機や食材の袋が邪魔で、なかなか届かない。

「よっ……」

つま先立ちで背伸びをして右手を伸ばす。



その時パッと誰かがシャンプーを取った。

「ほら、これが取りたかったんだろ?」

振り返ると見たことがない大柄の男。

シンジの買い物カゴにポイとそれを入れる。

「あ、ありがとうございます」

「いいさ。久しぶりだなシンジ君」


シンジはその男の顔を見るが、見覚えが無い。

記憶がないのだから当たり前なのだが。

「そうか、記憶喪失だったな」

「………………」

シンジはキョトンとした顔でその男の顔を見る。


「俺は加持リョウジ。君の友人だ。改めてよろしく、シンジ君」

加持はニカッと笑って見せた。











公園のベンチで加持とシンジは座っている。

陽が傾き始め、遠くの空がオレンジ色に染まり始めている。


「あの、加持さんってNERVの人ですか?」

「ああ、諜報部所属だ。以前シンジ君がこの街に来た時も、こうやって挨拶したな。そう言えば」

「そうなんですか?」

「ああ。……シンジ君は……なんでもレイちゃんの家にいるんだって?」


「………僕を連れ戻しに?」

加持はタバコに火をつける。

「そう見えるかい?」

「………………」


「ま、そりゃそうだよな。でも違う。俺は君の友達として話をしにきたんだ」

「友達……ですか?」

「ああ」

「加持さんとはかなり歳離れてるみたいですけど……」


加持は声を出して笑う。

「ひどいなあ。友達に歳は関係ないだろう?」

「あ、いや、すみません」


加持は一度目を閉じ、タバコを深く吸い込む。

片目を開いてシンジを見る。

「葛城とケンカしたんだって?」

「…………」

シンジは俯く。


「結構堪えてたみたいだぞ?葛城」

「………ミサトさんは僕にエヴァに乗れって……」

「みたいだな……。最初に君と話をしたのも、そのことについてだった」

「え?そうなんですか?」

「ああ……」



「どうしてもわからないんです……、僕は記憶があったとしても、パイロットに乗るとは思えません」

「そんなことはわからないだろう?記憶が無いって言うのは……シンジ君には気の毒だが、それほど深刻なことなんだよ」

「そうなんですかね……」

「ああ。何もわからないことだらけだろうが、一番深刻なのは自分がわからなくなるということだ」

「…………」

そう、だからこそシンジは悩むのだ。

他人の中のシンジ、自分が思い浮かべる、いや、思い浮かべることすらできないシンジのイメージのギャップに。

自分が何者かわからない。本当の自分ならどういった判断をするのだろうか。

だが自分らしくしようとすればするほど、背伸びせざるを得なくなる。

それ以前に自分らしさとは何なのか。わからないことがわからない。

思考の渦にのまれる悪循環。


「俺もシンジ君から詳細を聞いていたわけじゃないから、詳しくはわからないが

 少なくても自分の意思で乗ることを決めていた。乗らないよりはマシだと言っていたよ」

「なんだか、信じられません……」

「そうかもしれないな……」

「…………」


「葛城は後悔してたよ。シンジ君に無神経なことを言ってしまったと」

「……いいんです。それがミサトさんの仕事なんですから……」

加持はシンジを横目で見る。


「葛城は、確かに君にエヴァに乗ることを望んだ。だが同時にシンジ君を家族として見ている」

「……そんなこと……信じられませんよ……」

「そりゃそうさ。君は葛城と話そうとしたのか?」


「思った以上に人ってのは不器用な生き物なのさ。思ってても言葉にできない。だが言葉にしなければ何も伝わらない」

「………………」





「………帰るときは、記憶が戻った時だと思います……」

加持はシンジの横顔をみて顎を擦る。


「そう悠長なことは言ってられなそうだぞ。使徒のこともあるし、碇司令が帰ってきたら君はあそこには居られなくなるだろう」

「父さんが?」

「そうさ。レイちゃんはチルドレンだからな。シンジ君はチルドレンにはならないのだろう?

 一般市民と貴重なチルドレンの、それも同い年の男の子との同居なんて認められるわけないだろう」

「……どうしたらいいのか、わかりませんけど………でも、僕はエヴァに乗るつもりはありません」

「……それでいいのか?」


「……もう、サードチルドレンの真似をするのは、止めにしたんです」

「そうか……」

加持は目を閉じる。



「使徒がきたら……レイちゃんも戦いに行くんだろうな……」

シンジは顔を上げる。

「レイちゃんがなぜエヴァに乗るのかは知らないが……、少なくても嫌々乗っているわけじゃなさそうだ。

 戦えば、死ぬかもしれない…………」

シンジは目を見開く。

「そ、そんな…………」

「こんなことは言いたくないが、事実だ。シンジ君はどうするつもりなんだ?

 使徒が来た時、シェルターの中で無事を祈るのか?」


シンジは加持を見上げる。

「なにもレイちゃんやアスカのために乗れとは言わないよ。だが、終わった後に後悔するようなことをしてはダメだ。

 失ってから気づいたんじゃ遅いんだ。俺はシンジ君に後悔してほしくない」


「加持さん……」


「……なんてな。……実は以前、シンジ君に言ったことと、同じことを言ってるだけなんだけどな……」

加持はクスリと笑って空を見上げる。



「葛城は君を待っている。あいつも不器用なとこあるからな、どんな顔してシンジ君に声をかければいいのかわからないんだろう。

 上司と家族の狭間でいつも悩んでいたからな」

「…………」


「葛城は君を家族として付き合いたいと思ってる。それは信じていい。俺が保証する。

 一度話をしてみてもいいんじゃないか?」


シンジは加持の横顔を見つめる。



「よし、俺はそろそろ行くよ」

加持はベンチから立ち上がる。


「あ、あの加持さん!」

加持が立ち止まる。


「僕と加持さん……本当に友達だったんですか?」

「……少なくても俺はそう思ってた」

加持は小さく微笑む。


「あの……話せて……良かったです」


加持はニッコリ微笑むと肩越しに手をあげた。



















NERV本部、ミサトの部屋のインターホンが来客を告げた。

ミサトが手元のスイッチを押す。

「開いてるわ。どうぞ」

プシュ


軽い圧搾音の後、入ってきたのは、少し髪を濡らした制服姿のレイ。

「ああ、ごめんねレイ。座ってちょうだい」

レイは勧められた椅子に腰を下ろす。


「シンジ君見つけてくれたんだってね。ありがとう」

「……いえ……」

いつも通り無表情で素っ気無い返事。

ミサトはもう慣れてしまっているので気にしない。


「……それで、シンジ君何か言ってたかしら?」

「……何かとは、なんでしょうか」

レイの率直な物言いは、こういう時に対応に困る。

察して欲しい所だが、レイにそれを望むのは無理だろう。



「えーと……わたしのこととか……」

「………葛城二尉の家には戻らないと言っていました……」

「……そう……」

ミサトは少し目を伏せる。

「…………チルドレンになることも拒否していました……」

「…………」




「ねえ、レイ……あなたに……お願いがあるんだけど」

レイはミサトの顔を見る。

「なんとかあなたからシンジ君にパイロットになるよう、説得してもらえないかしら?

 わたし、シンジ君とケンカしちゃってて……今わたしが色々と出しゃばると、シンジ君はまた嫌がると思うのよ」

「…………それは命令でしょうか?」

「いえ、命令じゃないわ……お願いよ。やってもらえないかしら?」




レイはやや目を伏せ考えこむ。






「拒否します」

「え?」

ミサトは目を見開く。レイが拒否する所を見るのは初めてだ。

「ど、どうして?」

「……彼はチルドレンになることをはっきり拒否しています。私が彼を説得できるとは思えません。

 作戦上、彼の協力が必要ならば、『徴発』すべきだと思います」

もっともらしいレイの答え。

普通に考えれば当然のことだ。

レイの普段の姿を見れば、とても繊細なシンジをうまく説得できるとは思えない。


シンジがレイの部屋にいるという事実から、もしかしたら二人は何かしらの心の交流があるのではないか、とミサトは期待した。

そこで、レイから頼んでもらえればと思ったのだが、レイの口から出たのは、いつも通りのレイらしい答え。

ミサトが期待していたようなことはなかった、ということだろうか。

だとしたら、はっきりと拒絶の意思を表す、シンジの心に分け入って説得するという作業は、レイこそ最も向いていない人物と言える。


ミサトはやや肩を落とし、息を吐く。

「わかったわ……。引き止めてわるかったわね、レイ。帰っていいわ」

「……失礼します」

レイはミサトに一礼すると部屋から出て行った。























夏の日差しがまぶしい太平洋上空。

抜けるような空の青と、日差しを照り返す海の青に挟まれ、物々しい戦闘機の一団が編隊を組んで飛行している。

その翼にはUNの文字。

プロペラ式の輸送機が数機と、それを取り巻くようにセカンドインパクト世代の旧型ジェット戦闘機が10数機。


その編隊の中心には、一際目を引く巨大な銀色の逆三角形。

『EVANGELION-04』

ゆっくりと上下するそれは、太陽の光を反射してキラキラと輝いている。


『四号機よりネオパン400。第14次定期報告。P-SS機関出力安定、A10神経接続問題なし』

『ネオパン400確認。視界良好、天候安定。到着時間を遵守されたし』

『四号機了解』


その巨大な三角形は、まるで鳥か何かがそうするように、全翼式の翼を一度羽ばたかせると、僅かにそのスピードをあげたのだった。























「あ、おかえり」

レイが玄関の扉を開けると、エプロン姿のシンジが掃除機をかけていた。

「………何?」

「掃除。綾波さんの物には手つけてないから」

部屋を見渡すと、隅々まで綺麗に掃除されている。

照明も四本全てに蛍光灯が入っていて明るい。


「洗濯物も……、失礼かなとは思ったんだけど、洗っといた。ワイシャツはチェストの上から三番目」

「…………」

レイは目をぱちくりさせている。

「あ……、やっぱりマズかった?」




レイは消えそうなぐらい小さな声で呟く。

「…………ありがとう……」

微かだが頬が紅潮しているようにも見える。




「え、あ、ううん!ぜんぜんこのぐらい!」

初めて聞くレイからの感謝の言葉。かわいらしい仕種にシンジの方があたふたしてしまう。


「綾波さん、疲れてない?夕食の下準備、できてるんだ。シャワー浴びてくれば?」

「……うん……」

レイは制服のリボンに手をかける。

「ま、待って!着替えはカーテンの奥でしてよ」

レイはしばしシンジを見ていたが、着替えを持つとカーテンの奥に消えた。



掃除機を片付け、台所に立ち鍋に火をつける。

今日はカレーだ。困ったことにレイの家には炊飯器がない。

炊飯器とお米を同時に買うと、さすがに持ちきれなくなりそうだったので、そこは冷凍物でごまかした。

小さな円形の丸型テーブルに食器を並べる。

今日買ってきたばかりの、折りたたみ式の簡易パイプ椅子を設置。

これでわざわざ勉強机の椅子を使わずに過ごせそうだ。



そうこうしているうちにレイがシャワーから出てきた。

やはりワイシャツ一枚。


「あ、綾波さん。これどっちがいい?」

そこにはピンクとブルーのマグカップ。

「……何?」

「今日買ってきたんだ。紅茶飲むときにビーカーじゃどうかと思って。どっちがいい?」

レイはブルーのカップを指差した。

シンジはちょっと戸惑う。普通に考えれば女の子はピンクのほうを選ぶんじゃないだろうか。

これではシンジがピンクを使うことになってしまう。しかしレイに聞いたのはシンジのほうなので、今更ブルーを使いたいとは言えない。


今日はティーポットなどの紅茶セット一式も買ってきた。もちろん砂糖も。

ティーパックではない、本格的な紅茶をいれられそうだ。

ティーポットに紅茶を注ぎ、マグカップと一緒にテーブルに運ぶ。


「じゃ、食べようか。いただきます」

「…………」


カレーを口に運ぶシンジとレイ。

シンジとしては、初めての手料理をご馳走するので、レイの反応が気になってしまう。

レイは黙々とカレーを口に運んでいる。

「あの……綾波さん、どうかな?」

「……何が?」

「僕の……料理」

レイは少し小首を傾ける。

「まずかった……かな……?」

「…………別に……」

「…………」

レイらしい答え、シンジは少しだけ肩を落とす。

だが、そう落胆することもない。昨日一日だけだがレイと過ごしてわかったことがある。

素っ気ないながらも彼女の「そう」や「別に」には他意はない。

さらに、よく注意して聞いていなければわからないが、ほんの少し、イントネーションの違いのようなものがあって

そこにはレイの感情表現が僅かながら感じられた。

今の「別に」もまずくない。つまり結構いける、という意味なのかもしれない。

さすがにそこまで細かいことは、シンジにもわからないのだが。



「そういえば……今日加持さんと会ったよ。知ってる?加持さん」

「……セカンドチルドレンの随伴で本部へ配属。現在諜報部所属」

「あ、うん。なんか……ミサトさんと話をしてみろって言われたよ」


「……今日葛城二尉からあなたをパイロットになるよう説得しろと、お願いされたわ……」

「え、そうなの!?」

「………ええ」

シンジの顔に落胆の色が浮かぶ。

加持と話して、ミサトと一度話してみようという気が起き始めていたのだが、ミサトはレイをダシに使うつもりだったらしい。

レイは同じチルドレンなのだから、ある程度予想できる事態ではある。だが、やはりいい気はしない。


「………拒否したわ」

「え?どうして?」

レイはカレーから目を離しシンジを見る。


「受けておいたほうが良かったの……?」

「え、いや……」

「…………」


レイはまたカレーを口に運ぶ。


そんなレイを見て、シンジはあることに気づく。

レイが食べているカレー。その具材の中の肉が、お皿の端に寄せられているのであった。



「綾波さんもしかして……肉ダメなの?」

レイの手が止まる。


「……ええ……」

「そうだったんだ。ごめん。気がつかなくて」

「……別に……」


しかし今日突然手料理をご馳走することになったのだ。

食べられないものを知らなくても仕方がない。


「他に食べられないものとかあるの?」

「肉類は嫌い……。野菜は食べられるわ」

「魚は?」

「……あまり好きじゃない」

「そうなんだ」

ベジタリアンなのだろうか?ひどい偏食だ。

この部屋で野菜中心の食生活。そしてあの大量の内服薬。

レイでなくとも虚弱体質になりそうだ。





食事が終わるとレイはまた大量の薬剤を飲み干した。

シンジから見ると、少々痛ましい光景である。

食器を片付け、紅茶に手をつける。

ティーポットから、二つのマグカップに紅茶を注ぐ。


「綾波さんは角砂糖いくついれる?」

「……わからない…」

「ん〜、あまり甘いのは好きじゃない?僕は二個入れるけど」

「……なら、私もそれでいい……」

「そう?」

シンジはレイと自分のカップに角砂糖を二個いれ、ティースプーンでかき回す。





「……おいしい……」

レイは表情を和らげる。


「ほんと!?それ、ちゃんと紅茶の葉からいれたんだ」

普段無表情なレイがこういう、やさしい顔をしてくれると、シンジも嬉しさが込み上げてくる。

少し高価ではあったのだが、紅茶セットを買ってきた甲斐があったというものだ。


「ティーポットとかも買ってきたから、これからはいつでも飲めるよ」

「……そう……」







シンジはカップを少し揺らし、部屋の照明をゆらゆらと反射する水面を見ながら、話を切り出した。


「……それで…さ……。今日加持さんと話したんだけど……。綾波さんは使徒が来たら戦うの?」

「……そうよ」

レイも両手で包んだ、紅茶のマグカップを見つめている。

「死ぬかもしれないのに?」

「……前も同じこと言ってたわ……」

「……そうなんだ……」

「…………」



「僕は……綾波さんには……死んでほしくない……」

レイはシンジを見る。


「僕……パイロットになるべきかな……」

「…………それはあなたが決めることだわ……」

「……そうだね……」




「……でも、綾波さんがもし死んでしまったら……僕は後悔すると思う」

「……なぜ?」

「なぜって……そんなの悲しいに決まってるじゃないか」

「……どうして?……」

「………………」


どうして?レイは本当にわからないのだろうか。

こうしてレイと話していると、シンジはたびたび感じるのだ。

レイには決定的な何かが足りない。少し大げさな言い方をすれば、人として必要なもの。

それがなんなのか……、喉まで出掛かっているが、それを言葉にしようとするとイメージが霧散してしまう。

まだ言葉にして概念化に耐えるほど、シンジも理解、整理しきれていない。

とにかく、とても、大事な何かだ。


まあ、今の「どうして」は、そんな大げさなことではなく、ただ単にシンジの口から理由を聞きたかっただけなのかもしれないが……。






「…………迷い始めてるんだ」

レイはシンジの顔を見つめる。

「……死ぬかもしれないわ……」

「うん……」

「………………」




「加持さんと話してさ………なんとなくだけど、どうして僕が以前パイロットを引き受けたのか、わかった気がするよ」

レイは顔をあげてシンジを見る。

シンジは紅茶に視線を落とし、俯き気味だ。


「加持さんが言うには、僕は乗らないよりはマシって言ってたみたい……。でもたぶん、それは嘘だと思う……」

「…………」

「誰かを守るとか、誰かのためにとか……僕はそんなことで命をかけられるようなやつじゃないよ。記憶がなくても、それぐらいはわかる。

 だから……本当の理由は……、僕が乗らなかったために誰かが死ぬと思ったら、怖くなったんだと思う……。

 僕はそういう奴だから……」


「……………そう……」

「……うん……」







レイは視線を落とす。


「……私は死んでも構わないわ……」

「なっ!どうして!?」

シンジは思わず声を荒げる。

先ほど霧散していたイメージが、また固まり始める。

レイは紅茶に視線を落とし、その問には答えない。





「……でも……あなたには死んで欲しくない……。

 ……だから……あなたはサードチルドレンにならなくてもいいと……思ってる……」


綾波さん……?


「………なりたくないのなら、ならなければいい……。使徒とは私が戦うわ……」






















電気を消えた部屋の中、シンジとレイはベッドに入り横になっている。

微かに聞こえる虫の声。窓からは夜風が吹き込みカーテンを揺らす。

その奥には細い三日月が覗いている。



「……綾波さんもう寝た?」

レイは微かに目を開く。

「………起きてるわ」





「……ごめんね。綾波さん寝にくくない?」

今日はシンジもレイと並んで仰向けで寝ているため、肩と肩が触れ合っている。

「………別に」

「…………」








「………綾波さんは優しいね……」


「……別に……優しくなんて、ない……」

シンジは横目でレイを一度見ると、また目を閉じる。


「……優しいよ。綾波さんは……」

「…………」





昼間のレイがかけてくれた言葉。

『あなたはここに居ていいのよ』

レイの笑顔。



レイが投げかけたもの、それはシンジの心への波紋……。

シンジが求めているもの。それは『居場所』そのものだ。

誰からも虐げられず、そこにいることが許される、自分の価値が認められた場所。

小さい頃から、周りから、そして父親からも居場所を与えられず、愛情も受けられずに育ったシンジ。

そこに居るだけで疎ましがられ、それゆえ自分を出すことを許されない。

嫌われぬよう、拒絶されるぬよう、人の顔色を伺い、他人の居場所と他人の居場所、その僅かにできた隙間に身を縮めて過ごすしかなかった。


求めてやまないもの、それは存在肯定。己の価値の尊重。愛。

シンジに欠けているもの、それは自分らしさを表に出すこと。


ただ誰かに側にいて欲しかった。

誰かに言って欲しかった。ここに居てもいいんだと。


しかしながら、他人を恐れ、嫌なことから逃げ、己の内面からも目を逸らすシンジは、それを認識することができなかった。

それゆえ、あの時、なぜ自分の心が温かくなるのか、シンジにはわからなかった。


だが今こうして加持やミサトの話を思い出すと、ぼんやりとそれが見え始めてきたのだ。

周りが自分に望んでいることと、レイが自分にしてくれたことの差が。

記憶があった頃から、自分は色んな人と出会ってきたのだろう。だが誰一人として、そうしてくれた人はいなかった。

もし居たのなら、あの時公園のベンチなどには、居なかったたはずなのだから。



『……でも……あなたに死んで欲しくない……。

 ……だから……あなたはサードチルドレンにならなくてもいいと……思ってる……』



昼の時も、先ほども、なぜレイがそう言ったのかはわからない。

だが、これが優しさでないとすれば、一体なんだというのか。

チルドレンとしてのシンジを望まず、ただそこに存在すればいい。

それは、シンジからしてみれば初めて感じる感情。

『愛』とは違うのかもしれない、がしかし、それにとてもよく似た感情であった。


綾波レイ。

シンジに圧倒的な何かを与え、決定的な何かが欠けている。

同い年の女の子。




「……ありがとね」


「…………何が?」


「ずっと一緒にいてくれて……」

「………………」



「誰かに側にいて欲しかったんだ……」

「…………そう……」



シンジが少し手を動かすと、微かだが小指がレイの手に触れた。

ほんの少しだけだったが、今はそれだけで十分だった。







おやすみ。綾波さん……。


シンジは目を閉じた。









+続く+






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