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Wounded Mass - ss:30

(最終話)人は倒れまた起き上がる

 英雄的な行為が要求されるとき、最初に動くのはいつも鈴原だ、とレイは思った。
 「葛城三佐、命令を」トウジが敬礼して言った。「出撃命令をお願いします」
 葛城ミサトは無言で大画面を見つめていた。
 「ミサトさん…あのエヴァにも、パイロットが乗っているのかな…」シンジは思わず
口に出した言葉に後悔して口ごもった。
 簡単なことなのに、とレイは思った。量産型エヴァのエントリープラグに思念を
飛ばせば分かることだ。答えは、無人。
 自立型又はダミー・プラグに相当する機能による遠隔操縦と分かる。
 葛城ミサトはそこまで知っているのだろうか、とレイは思った。
 葛城ミサトは腕を組み大きく深呼吸した。そして「エヴァンゲリオン全機出撃、
目標は十二体の量産型エヴァ。全機殲滅してください」
 チルドレン全員が答えた。「了解」
 トウジはヒカリの手を引きながら更衣室に向かった。アスカが先を急ぐように続いた。
 「綾波」シンジに呼ばれてレイは答えた。
 「はい」
 「初号機には綾波が乗ってよ」
 「シンジ君、それどういう意味」レイが応えるより早く葛城ミサトが言った。「なぜ、
あんたはどうするつもりなの」
 「ミサトさん、僕にはほかにやることがあるんです」そしてレイに振り向いた。
「たのんだよ」
 「分かった」レイは言い置いて更衣室に向かった。
 「シンジ君、説明しなさい」葛城ミサトは明らかにいら立っていた。「私はあんたに
対する指揮権があるのよ、命令を拒否するつもりなの」
 シンジは葛城ミサトと視線を合わせず、斜め下を眺めながら言った。「僕はこれから
セントラル・ドグマに降ります。そこで、人類補完計画の発動を完全に、そして永遠に、
阻止します」
 葛城ミサトはぎょっとした表情になり、今のシンジの発言を操作員のうち誰が
聞いただろうと視線を世話しなく左右に動かした。そして身をかがめて
シンジの耳元で言った。「シンジ君…どうしてそれを…」
 シンジは頓着していなかった。「ミサトさん、拳銃、貸してもらえませんか」
 葛城ミサトは沈黙した。
 そのためらいが何を意味するのか、シンジの心とつながっていたレイにはよくわかった。
 「阿賀野さん」葛城ミサトは操作員の一人に声をかけた。
 「はい」阿賀野カエデが席を立ち、ヘッドセットをはずして答えた。
 「シンジ君を補給部につれて行って、拳銃を渡してやって。コルト22一丁、
装填したマガジン二個。射撃訓練室で使い方を教えてからもどって来て。
シンジ君はその後特務につくのでそこで別れて」
 「了解」阿賀野カエデはシンジがついて来るのを確認しようと振り向いた。
 「ミサトさん、ありがとうございます」シンジは葛城ミサトに言った。「僕は…
報告しますよ、もどって来たら」
 「ええ」葛城ミサトは答えた。「待ってるわ」その視線は刻一刻と近づく白く光る機体を
写しだす巨大画面を見つめていた。
 「行きましょう」見かねて阿賀野カエデがシンジをうながした。
 「はい」シンジは阿賀野カエデに従った。
 「シンジ君」葛城ミサトが呼びかけた。
 「はい」
 「プラグスーツの方が動きやすいんじゃない」
 シンジは首を振った。「プラグスーツを血で汚したくないです」
 そしてふたりは作戦本部を後にした。
 最後にカヲルが残った。
 「では僕は戦況を直接観測できる位置に移動します。よろしいですね」その言葉には
はっきりとした意志が込められていた。「そこからケーブル接続の弐号機を支援します」
 「任せて、いいのね」葛城ミサトは相変わらず視線を巨大画面に向けたまま確認した。
 「僕の命にかけて」カヲルはそう言い置いた。「では」
 「待って」葛城ミサトは振り向いた。「その服装では」
 カヲルもまた、シンジと同様に第壱中学校の制服のままだった。カヲルはうつむいて
口元に微笑を浮かべながら首を横に振った。「おかまいなく、僕は大丈夫です」
 そしてエレベータ・ホールに向かって歩を進めた。
 チルドレンのいなくなった作戦本部で、残された葛城ミサトは歯を食いしばり、
今にも溢れ出ようとする涙を必死にこらえていた。
 「作戦は」トウジはチルドレンに思念を送った。「ワシら出撃はええとして、
どの得物持ってどう展開するんかい」
 「ああ、それは葛城三佐から命令が出ると思うよ」カヲルはエレベータで上昇しながら
答えた。「僕はピラミッドの頂上付近にあるテラスから弐号機を支援する。アスカ、
ケーブルが切断される可能性は考えなくていいよ、僕が守るから。ただし、
地上を引き回すからね、千五百メートルの範囲で行動してくれたまえ」
 「了解、カヲル」アスカはレイの隣で制服を脱ぎながら答えた。「でもどうやって?」
 「まあ一目見てもらえればわかることさ。大船に乗ったつもりで戦ってくれたまえ」
 「ふふん、アンタらしいわね」
 プラグスーツに着替えた女性軍三名は、エレベータ・ホールでトウジと合流した。
 四人となったチルドレンはエレベータに乗り込み、下降してまずレイとアスカが
初号機と弐号機を収めた階でエレベータを後にし、ヒカリとトウジはもう一階下の
四号機と五号機のある階に向かった。
 レイは初号機のエントリープラグに手をかけた。「私に応えてくれる?」
 初号機はすでに起動待機状態だったが、その問いかけに何の反応も示さなかった。
 レイはそのままエントリープラグのハッチに両手をかけ、逆上がりの要領で
自分の体をプラグ内部に引き上げた。そして、着席して自らの身体を固定し、
ハッチが閉ざされてLCL液体に包まれるいつもの作業手順をだまって受け入れた。
 そしてシンクロが開始された。
 レイは他の三機がシンクロ率による起動困難な状態になることは心配していなかった。
 ただ、自分の乗る初号機だけが心配だった。
 最後に初号機を借りてロンギヌスの槍をセントラルドグマに降ろし、アダムと
呼ばれる使徒の残骸を再び壁に貼り付けにしたとき、初号機とのシンクロ率は
起動するのがやっとという低い値だったのだ。
 そして今、起動手順を進めていくうちにシンクロ率は起動に必要な値までのびては
いかなかった。
 レイは歯を食いしばった。「もう、だめなのね…」
 そしてレイは自分の心の内なるシンジに呼びかけた。
 「碇君、私のかわりに初号機を操って」
 レイは自らの意識を退かせ、ずっと共生していたシンジの意識を前面に押し出した。
 「初号機、シンクロ率上昇」伊吹マヤが報告した。「初号機、絶対境界線を突破します」
 葛城ミサトはうなずいた。
 「アスカ」葛城ミサトはアスカを呼び出した。「あんたはヒートロッドを持って出なさい。
空中戦で墜落した機体の掃討をやってもらうから」
 「了解、任せて」
 ヒートロッドと呼ばれる高熱の刃を持った武器は両腕に装着して使用する。
格納された状態では手首までの長さしかないが、超高温・高圧のエネルギー刃を
伸ばすことができる。そのエネルギーは装着具に内蔵されたケーブルを経由して
弐号機本体から得る。プログレッシブナイフと使用方法はよく似ていたが
作動原理は全く違い、桁外れの破壊力を持っていた。
 「鈴原はブレードジャベリン、レイはプログレッシブナイフ、それからヒカリ、
あんたには特製の長距離砲を準備したわ」
 「了解」
 その時、特務機関ネルフの本部ピラミッドの直上で大爆発が起きた。第三新東京市
全体が身震いするような衝撃があり、熱波と衝撃波が静まったとき、そこには巨大な
空洞が残された。
 「N2地雷の爆発です」日向マコトが報告した。「奴ら、ここをむき出しにする
つもりなんだ」
 「どうやってこの地下都市に侵入してくるつもりかと思ったが、しゃらくさい」
葛城ミサトは戦闘にはいる心の高揚を押さえきれないように啖呵を切った。
「反撃に移る。ピラミッド上昇開始」
 「了解」
 日向マコトと青葉シゲルはそれぞれの制御卓の右上にしつらえられた黄色い
プラスティックの板を押し割った。内側には赤と緑の丸い押しボタンが上下に
並んでいる。
 「準備よし、秒読みどうぞ」青葉シゲルが日向マコトに言った。
 「三、二、一」日向マコトが号令をかけ、ふたりは同時に赤のボタンを押した。
 「ピラミッド上昇開始…全機能、異常なし」
 特務機関ネルフの全機能を納めた黒い巨大なピラミッドが全身を震わせて上昇を
開始した。周辺の公園緑地に亀裂が走り、簡易舗装されていた玄関前の車寄せも
紙細工のように飛び散った。
 ピラミッドの地中に隠れていたより広い裾野は、それだけで地上施設に匹敵する
高さがあった。そしてその全貌を表わしたピラミッドはさらにそのままの規模を
維持したままで上昇を続けた。ピラミッドを頂上に頂く高層建築はあたかも天をも
貫くように延びて行った。
 上昇の轟音はピラミッド全体を包み、命令や報告の声さえもかき消されそうになった。
 「上昇速度50…60…安定しました」伊吹マヤが精一杯の大声で報告した。
 「ピラミッド頂上部、地表にでます」青葉シゲルが良く通る声で報告した。
 「穴の大きさはどう」葛城ミサトは日向マコトの耳元で聞いた。
 「あつらえたみたいにぴったりです」と日向マコト。「これは、情報が伝わっていますね」
 葛城ミサトはその発言をいなした。「想定内よ、内通者がいることは」
 「ピラミッド全体地表にでました。上昇中止しますか」
 「停止させなさい」
 「了解」日向マコトが緑のボタンを押すと、ピラミッド全体を包んでいた轟音が止み、
周囲は再びかき消されていた小さな電子音に包まれた。
 「ピラミッド上昇停止」
 葛城ミサトは口を真一文字に結んで息を詰めた。
 「エヴァ四号機、五号機、準備は」
 「完了」
 「完了」
 「エヴァ四号機、五号機、発進」
 「了解」
 「了解」
 「準備できしだい、初号機、弐号機、発進」
 「了解っ」
 「了解」
 エヴァは強烈な加速度とともに上昇し、ピラミッドの中腹あたりにしつらえられた
射出口から空中に出た。
 全ての天井都市は地下に沈み、さらに分厚い装甲板で被われていた。その金属の
荒野が今回の戦場だった。
 ヒカリの五号機はすでにピラミッドの頂上上空で迎撃体勢を固めていた。
両肩に各二本、両わきの下にも各二本の長くとがった長銃身のビーム砲を装備していた。
 トウジの四号機は両腕で長い刃を持った槍を持ち、今レイとアスカが地上に出た
反対側の位置で待機していた。
 レイは初号機がATフィールドで軽々と空中に浮揚し、弐号機の赤い機体がどんどん
小さくなっていくのを見つめた。
 初号機は片手で扱うプログレッシブナイフを右手に構えた。
 弐号機は短い跳躍で地上に降り、ケーブルを引きずってピラミッドの正面に移動した。
そして、いったんケーブルを落とすと、あらかじめ準備されていた外部作戦用の
ソケットに差し込まれて地上に露出していたプラグに刺しなおした。
 発進用のケーブルはずるずると引き戻されて行った。
 ビラミッドの頂上付近、やや下がった場所に手すりのついた展望台があり、
そこに渚カヲルが立っていた。
 「五号機、ヒカリ」葛城ミサトは呼びかけた。「あんたに持たせた装備は八機の
量産型を一度に叩けるわ。ただし発砲は一回のみ。打ち終えたら装備は捨てて残る
四機のうち一機を叩いて。レイはやはり一機、鈴原は二機よ。コアを見つけて
破壊しなさい。そうでないと自立修復機能で生き返るわ、それもおそらくあっという
間にね。だからアスカ、あんたは地上に落ちた機体をできるかぎり迅速に破壊するのよ」
 「コアってどこよ」
 「コアは頭の中だよ、アスカ」カヲルの声が響いた。怪しまれないように有線の通話装
置を持っていたが、同時にチルドレン全員に思念でも伝わってきた。「頭を完璧に
潰すんだ、そうすれば自立再生はできない」
 「さっすがあ」
 アスカは弐号機を前進させた。
 弐号機の背後、ピラミッドの上からカヲルがアスカを見守り、その上空のはるかな
高みにヒカリの五号機が、そしてカヲルの左側に四号機が、右側に初号機が待機した。
 この形が、カヲルを中心とした巨大な十字架を形成していることに
何か意味があるのだろうかとレイは思った。
 第三新東京市を取り巻く稜線に装甲車両の影が姿を現わした。
 「戦略自衛隊の機動部隊を確認、戦車八十両、装甲車百二十台、第三外環道路を占拠、
当市を包囲しています」
 「ほっときなさい」葛城ミサトは命令した。「N2の直撃を百発浴びたって
このピラミッドには傷一つつけられないことくらい向うも承知しているわ」
 葛城ミサトは作戦本部で足を開いて立ち、両腕を組んだまま、
量産型エヴァンゲリオンの接近をじっとながめていた。
 「量産型接近中、距離二千」
 「青葉君、距離千五百になるまで読み上げて」
 「了解」
 「ヒカリ、照準合わせ準備」
 「了解」
 「距離千五百で照準合わせ、捕捉と同時に全弾発射」
 ヒカリは間髪を入れず操作にはいった。「中央の八機を狙います、よろし?」
 「任せるわ」
 「了解」
 青葉シゲルが読み上げた。「千八百…千五百」
 「照準合わせ、目標捕捉、発射!」ヒカリが手順をまちがえないように確認しながら
操作した。
 たった一機のエヴァから八条のまばゆい光が流れ出し、八機の真っ白な機体を捕らえた。
 四機は翼だけを残して跡形もなく消え去った。
 残る四機のうち三機は大きな打撃を受けて落下した。
 一機はかろうじてATフィールドを展開したがヒカリの発射したビームはこれを
やすやすと打ち砕き両方の翼を千切り取って飛翔不能状態にした。
 五号機は八本の銃身を振り捨てた。八本の銃身はあるいは対になりあるいは単独で
地表に落下した。
 遠くから、量産型の白い機体が地表に接触したにぶい音とともに地響きが伝わった。
 「突撃ーっ」アスカは真っ赤な機体の両腕からヒートロッドを突きだして墜落した
白い機体に接近した。そして最初に接触した機体の、大きく開いた口に両腕を差し入れ、
両側に向かって切り裂いた。
 白い機体はのどの奥で胴体と頭部が引き裂かれた。アスカはその頭部を両手でつかむと、
その全力を振り絞って押しつぶした。真っ赤な液体が四方八方に飛び散った。
エヴァ弐号機の指は真っ赤な血肉の中をまさぐり、血まみれで、それでもにぶい銀色に
光る球体を探り当てた。
 「コアって、こいつか」アスカはつぶやくと、片手でそれを握り潰した。
 周囲を圧倒するような絶叫が響き、潰されたコアがもはや二度と生き返らないことを
明示した。
 その時、稜線に並んだ戦自の車両が一斉射撃を開始した。目標は、弐号機。
 「何すんのよーっ」アスカはいら立ったように叫んだ。
 しかし、直撃確実な砲弾の一発も弐号機に打撃を与えることはなかった。
 ケーブルのソケットから弐号機に至る空間が真っ赤に発色して、
そこがATフィールドに被われていることを示した。
 ケーブルやソケットを狙った攻撃もすべて阻まれた。
 「カヲル、ダンケ!」アスカは改めて戦闘態勢を整え、ATフィールドの操り主に
感謝の思念を投げた。
 「どういたしまして」カヲルは涼しい思念を返した。「言ったでしょう、
大船に乗ったつもりで戦ってくれと」
 戦自の砲撃が止んだ。さすがに物を考える能力のある指揮官がいるのだろう。
彼我の戦力の差を理解したのだ。
 その間に自立修復をおえた二機の量産機が弐号機に迫った。
 アスカはためらわなかった。素早く状況を把握し、より近くにいた量産機に向かって
突進した。
 量産機は両腕に見なれない形の武器を構えていた。それは槍ににてもっと刃が長く、
長剣に似てもっと持ち手が長かった。もっとも良い比喩は長刀と言えたが、
それがどのような能力を持っているのかは分からなかった。
 それでもアスカは弐号機を突進させて再生したばかりの量産機に襲いかかった。
全身で体当たりし、量産機の構える得物を使わせる隙を作らせなかった。
そしてそのまま押し倒し、倒れた量産機に馬乗りの姿勢でまたがり、
量産機の両腕をつかむと、無造作に引きちぎった。そして傷口から吹き出す真っ赤な
液体を浴びながら、さらに大口を開いた量産機のあごを両手でつかむと上下に引き裂いた。
 又しても大量の赤い液体が飛び散り弐号機の機体を汚した。
 アスカは構わず引きちぎった頭部を両手で確保すると先程のように片腕を切断した
断面から真っ赤な体組織の中に差し入れ、まさぐってコアを引きずり出した。
そして潰した。
 その間に、再生したもう一体の量産機が弐号機の背後に迫っていた。
 アスカはそれに気づいていなかった。目先の獲物のコアを潰すことに集中していた。
 背後から弐号機に突進した量産機は、弐号機を守るATフィールドに行く手を阻まれた。
量産機はATフィールドを中和しようと自らもATフィールドを逆位相で発生させたが、
対するATフィールドの出力は桁外れで、弐号機を遮断するATフィールドを
どうすることもできなかった。
 その時点でアスカは背後の敵に気づき、振り向くと両腕を伸ばして相手の頭部を
つかんだ。そしてそのまま両側から容赦のない力で頭部を挟み込み
万力のように押し潰した。はじけた機体の白を内側から吹き出す赤がみるみるうちに
染め上げていった。
 量産機は抵抗したが、ATフィールドは量産機を包み込み、一切の抵抗を封じていた。
 残る一機はやっと自己修復したところだった。
 「やらせるかーっ」アスカは絶叫して最後の目標に向かって突撃した。
 量産機はATフィールドを展開してこれを阻止しようとした。
 弐号機は自ら逆位相のATフィールドを発生させ、強制的に中和化していった。そして、
ついに相手のATフィールドに孔を開けて固定し、そこから両腕のヒートロッドを
最大長まで伸ばして突き刺した。
 ヒートロッドは量産機の機体を難なく突き通し、アスカの腕の動きに合わせて相手の
機体を切り裂いた。
 そしてくり返すコアの探索と破壊が続いた。
 「ミサト、アタシのノルマは達成よっ」アスカは上気した声で報告した。
 「ご苦労様、上空でも戦闘は終了よ」葛城ミサトはほっとした口調で応えた。
「量産機はすべて殲滅、こちらには損害なしか、上出来ね。全機、帰還して」
 四人のパイロットは「了解」と回答し、ピラミッド裾野の回収用にしつらえられた
一角に向かった。そこは、戦闘中でもエヴァンゲリオンの収容や出撃が可能な何重にも
遮蔽された区画の一番外側で、ヘリコプターや総司令の専用機「ミサゴ」の発着も
可能だった。
 初号機、五号機がゆっくりと着地すると、真っ赤な液体を全身から滴らせた弐号機が
一歩一歩近づいてきた。
 そして最後に四号機が慎重に着地し、四機のエヴァンゲリオンはまとめて遮蔽され、
地下の格納庫に向かって降下していった。
 「みんな、よくやったわね」葛城ミサトの激励に答る声はなかった。「どうしたの?」
 「パイロット全員、意識を喪失しています」
 「なんですって」
 「外傷なし、血圧正常、脈拍正常、体温正常、酸素飽和度正常、脳波異常なし。
気を失っているだけです、命に別状ありません」
 葛城ミサトは安堵のため息を漏らした。「それにしても何故全員が…カヲルは?」
 一枚の画面がピラミッド上部テラスの内側通路に横たわる渚カヲルを映し出していた。
 「ここから状況が分かる?」
 「呼吸している肩の動きを検知」
 「赤外線観察による体温は正常値」
 「警備員はC八十八番通路の渚カヲルを医療部に収容してください、
医療部より一人現場に同行させるのよ」葛城ミサトは命令を続けた。
「エヴァーのパイロットは全員意識を失っています。エントリープラグ排出後、
速やかに医療部に搬送してください」
 そして命令を続けた。「第一種戦闘体制続行、戦自が
どんな手を打ってくるかわからないわよ」

 レイは戦闘中、初号機の操縦を自らの内なるシンジに任せて、自分は碇シンジと
行動を共にしていた。
 生身のシンジは阿賀野カエデに案内され、補給部の窓口で拳銃を受け取った。
 「思ったより、小さいですね、これ」シンジは射撃訓練室に移動する間、
阿賀野カエデにそう言った。
 「小さくても、銃です。危険性は同じよ」阿賀野カエデは注意深く答えた。
「さあ、着いた。ちょっとだけ練習しましょう」
 「はい」シンジはうなずいた。
 「小口径の銃なので、発砲の反動は少ないけれど、距離が離れれば威力は落ちます。
それでも、相手が人間なら、傷つけることはもちろん、当たり所によっては
死なせてしまうこともできます」
 シンジは無言でうなずいた。
 「銃を持つ手を左手で支えるのがいいと思うわ。両足は軽く開いて中腰に、
両腕は自然に。大体自分の心臓の高さで構えてね」
 「こう、ですか」シンジは弾のはいっていない銃を構えた。
 「ここのところ、もう少し下げて…両肩の力を抜いて…そう、そんな感じ」
阿賀野カエデはシンジの姿勢を直した。「じゃあ弾倉を装填して」
そして自らが腰に提げていた拳銃を抜いた。
 「こうして」と銃身の上部を前後に動かし「最初の一発を薬室に装填します。
これで引き金を引けば弾が出るわ」
 シンジは弾のはいった弾倉を慎重に装着し、阿賀野カエデの手つきをまねて装弾した。
 「構えて、目標はあの」と阿賀野カエデは訓練室の奥にある同心円の模様のはいった
的を示した。「真ん中の黒いところを狙うと、多分発射の反動で上に当るわ。だから、
気分目標の下を狙って撃ってみて」
 「はい」シンジは両足を軽く開いて中腰になり、右手の拳銃の銃床を左手で支えた。
「撃ちます」
 引き金を引くと、周囲を圧する発射音が響き渡り、シンジは初めての銃の発射に
よろけた。「うっ」シンジは軽く悲鳴を上げた。
 阿賀野カエデは言った。「的からどれくらいはずれたか分かる?」
 シンジは首を振った。
 「一発でいいからあの的に当てるまで練習しましょう、でなければ銃を持ってもらう
意味がないわ」阿賀野カエデは自分の銃の薬室から弾を捨て、銃を腰にもどした。
 「はい」シンジはもう一度姿勢を直し、先程の銃の反動を思い出しながら目標を
狙って発射した。
 「悪くない」阿賀野カエデは客観的な感想を述べた。「もう一発、今度こそ当てるのよ、
的のどこでもいいから」
 シンジはうなずいて構えた。そして発射。
 「当たり」阿賀野カエデは満足そうな声でシンジを賞賛した。「満点ではないけれど、
三発目で的に当てたのはなかなかのものよ」
 「ありがとうございます…指導がよかったかな、なんて」シンジは頭をかいた。
 「安全装置は、こう」と阿賀野カエデは教えた。「今、薬室に弾丸がはいっているか
どうかを常に意識してね、それにより銃の安全性と速射性は互いに影響しあうの、
わかるでしょ」
 「ええ」シンジはうなずいた。「今は薬室に装弾されていますから、安全装置を
解除すれば銃身のスライドによる装弾は必要ない、これでいいですか」
 阿賀野カエデはうなずいた。「葛城三佐の命令は遂行したわ」そして、
少し前かがみになりシンジに顔を突きだした。
 「な、なんですか」
 「碇…シンジ君、あなたがこれからその銃でどんな任務を果たすのか、私は知らない。
だけど、きっと生きてもどって来てね、それはネルフ全職員の総意だということを
伝えておくわ」
 シンジは頭を下げた。「ありがとうございます、期待に応えられるように全力を
つくします」
 「約束よ」阿賀野カエデは涙ぐんでいた。
 「はい」シンジはうなずいた。それ以外にどんな対応が出来たろう。「では、ここで」
 「私は作戦司令部にもどります」阿賀野カエデは軽く鼻をすすってから言った。
「気をつけてね」
 「ありがとう」シンジは答えた。
 阿賀野カエデはなんどか口ごもったあと、シンジの両腕を取り、
シンジをかすかに抱いた。
 「シンジ君…覚えておいてね…わたし達オペレータはみんな、あなたのこと大好きよ」
 「ああ…あの、ありがとうございます…どうしたらいいのかな…こういう時、つて」
 「笑えばいいのよ」阿賀野カエデは涙目で微笑した。
 「そうでした…そうでしたね」シンジもうなずいて微笑した。
 ふたりは並んでエレベータホールに向かった。
 ひとりは上に、ひとりは下に。別れのエレベータがそれぞれを出迎えた。
 別れの言葉はなかった。
 ふたりはそれぞれのエレベータに乗り込んだ。
 阿賀野カエデは一人になるとエレベータの中であたりはばかることなくいつまでも
嗚咽を漏らし、溢れ出る涙をぬぐおうともせず立ち尽くした。
 本来ならば、葛城ミサトがやるべき役割なのだ。代役を命じられたことが、
うれしくもあり切なくもあり、何より悲しかった。
 阿賀野カエデはそれがシンジとの今生の別れになることを悟っていた。

 エレベータの中で、シンジはズボンの右ポケットに拳銃を、左側に装填した交換用の
マガジンを入れた。
 シンジはエレベータで降りられる最下層でエレベータから降りた。
 レイからもらった知識は、次にどこに進んだらセントラルドグマに進めるかを教えて
くれた。
 直接降りられるエレベータは生体認証を必要としていて、
シンジはそれを突破できないだろうと思った。
 そこで、廊下にずらりと並んだ非常口の中から、迂回路として指定された非常口を
見つけ出すと、金属製の重い扉を、丸い取っ手をぐるぐると回して開ける状態にして
手前に引いた。重い扉はゆっくりと開いてシンジを迎え入れた。
 薄暗い通路はすぐに階段にかわり、シンジはゴム底の靴で音もなく階段を降りて
いった。
 階段は定期的に百八十度向きを変え、踊り場ごとに二股、三つ股に分かれていた。
下る階段もあれば、通路も、登る階段もある。
 一つでも選ぶ階段をまちがえれば、地下の巨大な迷路をさまよい歩いた末に
待ち受けるのは疲労の死であることをシンジは知っていた。実はこの迷路は実に簡単に
正しい通路を得られる仕組みになっていた。
 最初に降りはじめた向きから、踊り場では必ず百八十度回る階段を選べば
よいだけなのだ。
 どのくらい降りたのか、足が疲れてきた頃、シンジはレイから教えられた階に立った。
 階段は、さらに下に伸びていた。
 シンジは非常口の丸い取っ手を回し、押し開いた。
 シンジは今、セントラルドグマへの入口に立っていた。
 夕暮れから夜にはいる時のような、うすい暗闇が眼前に開けた。その空間ははるか
彼方まで広がっているようでもあり、またすぐそこの闇でとぎれているようでもあった。
 正面にその光の源となる中空の筒があった。筒の上下には何本もの絡み合った
チューブがまとわりついていた。色も太さもさまざまなチューブは互いに
絡み合いながら筒をその上下で固定していた。筒はガラス張りで中にLCL液体が
はいっていることがわかった。
 シンジは一歩踏み出すと足元はもはやそれまでの通路のタイル張りでも舗装でもなく、
細かい砂が浮いた固い地面だと気づいた。
 シンジはレイの記憶をたよりに育成槽に向かった。
 その向こう側にアダムと呼ばれる使徒がロンギヌスの槍に貼りつけにされた場所、
セントラルドグマの中心があるはずだった。
 やがて、薄暗がりの中に浮かび上がるように育成槽が見えてきた。濃い黄色の付いた
LCL液体の中に、いつか綾波レイの身体になるかもしれない肉体が無数に漂っていた。
 その、自我を持たない身体は、何も見ず何も聞かず、ただ網膜に写しだされる光景を
あるがままに受け入れ、それに対する興味も好奇心も関心もなく、時間のすぎるままに
身を任せていた。
 シンジはしばらくの間、育成槽の前に立ち、レイの姉妹たちの姿を何の感情もなく
眺めた。
 そして、育成槽を後にすると、何枚かの白いカーテンのついたつい立に囲われた
寝台のわきを通り過ぎ、槍と貼りつけになった使徒に向かって進んだ。
 やがて大地がゆっくりと下がり勾配になり、濃い橙色の水が音もなくさざ波を
引いてはかえす湖のほとりに出た。
 わずか十メートル余りの距離を隔てて人工物と分かる壁がそそり立ち、
そこに七つの目を持つ使徒が槍に貼りつけにされていた。
 シンジは足を濡らしながらその浅瀬を渡り、巨人の右側を回り込むとそこには
やはり人工の桟橋があって、舫い綱が一本、途中で朽ち切れたようにぶらさがっていた。
 シンジは桟橋を右に見ながら岸に上がった。
 「誰だ」誰何の声があった。
 「ぼくです、父さん」
 「シンジ…なぜおまえがここにいる」
 いつもこれだ、とシンジは思った。
父さんはどんな時でも言葉に感情を表わすことがない。
 「人類補完計画を阻止するために来ました」
 「許さん」
 「父さん一人のエゴのために全人類を巻き添えにするわけにはいきません」
 「議論の余地はない」碇ゲンドウは暗闇の中から姿を現わした。
 ふたりは互いに拳銃を構えて向かい合っていた。
 「私はレイを呼んだのだ、お前に用はない」
 「綾波は今ごろ初号機に乗っていますよ、そして量産型エヴァと戦っているはずです」
 「なぜお前が来たのだ」
 「副指令と一緒にニューヨークにいるはずの父さんが今ここにこうしている…
その後ろの暗闇の中に、物質移動の装置があるんですね、ニューヨークにも
同じ装置があるんでしょう」
 「それがどうした」
 「ニューヨークで父さんはミサトさんの放送を見た、それですぐに国連の動きを
察知して人類補完計画を発動するために、そして身柄の拘束を逃れるためにもどって
来たのでしょう、その装置で…副指令はどうされたのですか」
 「冬月は残った、老人共に対する我々の説明役として」
 「人類補完計画を発動させるための担保という訳ですか」
 「必要もないことなのにな、老人共は疑り深くていかん」
 「つまり人類補完計画はゼーレとの共同計画ではなくあくまでも父さんが計画し
推進するものだと?」
 「答えるまでもない」
 「でも…もしも父さんになにかあっても…人類補完計画はゼーレの指導の元に
発動されるのですよね」
 「もはやレールは敷かれている、止めることは誰にもできん」
 「そうでしょうか」
 「シンジ」
 シンジは強力な思念を送って碇ゲンドウの行動の自由を奪った。
 それは決して簡単なことではなかった。
 このときまでチルドレンが碇ゲンドウに思念の接触を控えてきたのは、実は大変に
賢明なことだった。
 碇ゲンドウもまたチルドレンと同じく思念を自由に操る能力を持っていたのだ。
それは、碇ユイを起動実験で失った失意の七日間で、人類補完計画を草案したときに
自ら手に入れたものだった。チルドレンが性交渉の快楽の絶頂を通して得たその能力は、
碇ゲンドウの場合、はかり知れない絶望と喪失感がその鍵だった。そして、
その能力はこれまでの人生で自分をも凌ぐ大物のゼーレの委員達と取り引きを
続けていく過程でより強力により邪悪に成長していた。
 碇ゲンドウがこの力をチルドレンに向けなかったのは、ひとえに碇ゲンドウが
チルドレンの潜在能力をあなどり、単なるエヴァンゲリオン操縦のための
駒としか見ていなかったためだった。
 こうして、方や用心深く自らの力を隠し続け、方や己の地位と能力に溺れて
周囲への警戒を怠ってきた対抗勢力は、互いに見舞えて初めて互いの能力を知り、
驚愕しながら戦いに身を投じたのだった。
 ふたりは黙って拳銃を向けあったまま、互いに全く動かずに精神力の格闘を続けた。
 このとき、はるかな地殻の向う側で戦闘を終了し回収ケージにはいり、
エヴァンゲリオンを操縦する必要のなくなったチルドレンと渚カヲルの思念は、
自らの肉体の生命維持に必要な最低の力を残し、統合された一つの意識体となって
シンジを全力で支援した。
 シンジはこの意識体に自らの意識を同調させた。
 「父さん、これがあなたの望んでいる世界…人類補完計画だけが実現可能と父さんが
信じていた世界の一端です」
 「おお…」碇ゲンドウは思わずため息を漏らした。
 ふたりの身体は互いを銃で狙い合ったままぴくりとも動かず、ただ大量の思念が
互いを凌駕しようとぶつかり合った。その、物理的な存在のないはずの思念が
今や狭い空間で火花を散らし、あたりの大気までが熱を帯びてきたようにさえ思えた。
 ふたりとも相手の攻撃を防ぎ、相手を凌駕するために全力を振り絞り、
そのために関係のない雑念が、今まで他人に知らせないように隠していたものや
周知の事実などの雑多な想いがバケツの水をぶち撒くように辺りに流れ出していった。
 その中にはゼーレ委員会の名簿があった。
 ふたりの周囲を取り囲んでいたチルドレンの意識はすばやくその名簿を確保した。
 「待てっ」碇ゲンドウは思わず叫んだがそれは遅すぎた。
 「これは…人類に対する許しがたい罪を…食い止めるための…必要な…処置なんだ…」
シンジは歯の間から絞りだすように言った。「そのために…ぼく達は…罪を犯す…
より小さな…それでも、罪は、罪…ぼく達は生きているかぎり…その罪の意識を…
忘れない」
 チルドレンの意識統合体は名簿を参照してゼーレ委員を一人ずつ特定した。
全世界に散らばる、政界・財界の大物、決して犯罪歴など残さずに大量の血を
流させながらその地位をむしり取って来た人々。現在も人類社会を見えない手で操り、
富を蓄積し、快楽に溺れ、その代償として無辜の人々から一層大量の血を流させて
一顧だにしない人々…その多くは以前レイとアスカ、それにシンジが探知した
チルドレン候補者と同じ都市に居住していた。
偶然だろうか、それともそれは残酷な神々が誘導した運命だったのだろうか。
 チルドレンの意識集合体は、北京、カラチ、チュニス、マラケシュ、アッシジ、
ポルト、アナハイム、ラパス、ヌメア、クライストチャーチのチルドレン候補者を
見つけた都市、さらに加えてキエフ、ニュルンベルグ、ボン、アントワープ、ダブリン、
ケープタウン、ワシントンDC、リオ・デ・ジャネイロにゼーレの委員を特定した。
 「シンジ、止めろ」碇ゲンドウはそれだけ言うのがやっとだった。少しでも自分の
防御の手をゆるめればあっという間に思考を制御されてしまう、その危機的状況は
もはや打破不能だった。
 チルドレンの意識集合体はゼーレの委員全員に対して何の予告もなしに一斉に
攻撃をかけた。
 微小なATフィールドを発生させ、その力で脳内の水素原子を極限まで振動させたのだ。
 水分を含む血液と脳髄液が沸騰し、ゼーレの委員たちは瞬時にして脳を焼き切られ、
廃人と化した。
 この、殺人よりも罪の重い行為にチルドレンはむしろ自分たちの心を
焼き殺してしまいたいという背徳感に襲われた。しかしゼーレの行為を看過して
人類補完計画を発動させることはもっとできなかった。
 「残ったのは、父さんだけだ」シンジはチルドレンの報告を聞きとりささやいた。
 銃声が響きシンジの身体が大きくはねた。
 シンジと碇ゲンドウの精神対決は唐突に終わり、シンジは口から血を吐き出しながら
拳銃の引き金を引いた。その反動でシンジの身体は糸の切れた操り人形のようにもつれ、
半回転してゲンドウに向かってあおむけに倒れ込んだ。
 碇ゲンドウはシンジの一撃を胸に受けてその場にうずくまった。
 「あなた」赤木リツコが白衣をなびかせて硝煙の匂いとともに駆け寄った。
 「余計なことを…しおって…」碇ゲンドウは顔を上げ、赤木リツコにそう言うのと
同時に赤木リツコを撃った。「私の息子を…後ろから撃ったな…」
 赤木リツコは自分の身体から流れ落ちる血が自らの白衣を
真っ赤に染め上げていくのを他人のものの様に唖然としてながめていた。
 「そんな…わたし…」
 そして三人は重なり合って倒れた。

 レイは医療区画の大部屋に並べられた寝台で目を覚ました。
 五人のチルドレンが並んで寝かされていた。
 「レイっ」葛城ミサトの声が聞こえた。「レイ、大丈夫なの」
 レイは首を回して葛城ミサトを見ると、黙ってうなずいた。「ここにいるみんなは
大丈夫です」
 葛城ミサトは言外の意味を素早く読み取った。「じゃあ…シンジ君は…」
 レイの両眼から涙が溢れ出た。
 「碇君は…死にました…セントラルドグマの中心で…」
 葛城ミサトは斜め下を向いて歯を食いしばった。涙が頬をつたった。
 「…そう、あなたには、それが分かったのね」
 「碇君は、人類補完計画を阻止するために自分を犠牲にしたんです」レイはそれだけ
言うのがやっとだった。「碇指令の計画を、どうしても自分自身の手で
阻止したかったんです…それが碇君の…意地でした」
 「そう…」葛城ミサトは又しても愛する者との別離を自分の手で確認することが
できなかったくやしさに肩を震わせた。そして、鼻をすすり、深呼吸すると、
次々に意識を取り戻し、目を開くチルドレンに言った。
 「みんな、ニューヨークの冬月副指令と連絡が取れたわ。特務機関ネルフは現在の
組織のまま使徒迎撃に備えて待機、および、必要ならば使徒発生場所の調査を
任務として遂行することが決定されたそうよ」そして一端言葉を切った。
「当分の間は冬月副指令が昇格して指揮を取ることになるわね」
 歓びの声はなかった。
 「みんなには予備役としてこれからもエヴァーのパイロットを務めてもらうわ…まあ、
月一回のシンクロ試験くらい、もしかしたらもっと減らせるかもしれない」
 「ワシら、日常生活に戻れちうことですか」トウジがぼそりと言った。「センセイの
おらん日常か…すぐに慣れてしまうんやろな」
 「トウジっ」ヒカリが肘をついて上体を起こし、とがめた。
 「すまん…」
 気まずい沈黙が全員をおおった。
 チルドレンの意識が戻ったことに気づいた看護士が集まり、てんでに患者に
装着していた脳波計や心電図の端末、血圧測定用のバンドなどをはずしていった。
 「作戦は終了しました。解散してください」葛城ミサトはそう言い残して病室を
出ようとした。
 「ミサト」アスカが声をかけた。「今夜、もどりは?」
 葛城ミサトは振り向かないまま答えた。「アスカ、残務処理があるから遅くなるのは
確実だわ…セントラル・ドグマに降りて、死体の回収や現場検証も必要だし…
もしかしたら戻らないかも」
 「そうお」
 葛城ミサトは出ていった。
 総司令とシンジの他に、赤木リツコの死体を見つけたとき、葛城ミサトは
どうするだろうとレイは思った。
 「ヒカリ、行こか」トウジがうながした。
 「ええ」
 ヒカリは残るチルドレンに声をかけた。
 「着替えましょう、さあ」
 皆、黙って従った。
 更衣室でも誰も口を利かず、診療着を脱いで第壱中学校の制服に着替えた。
 エレベータホールで五人はまた合流し、いっしょにエレベータに乗り込んだ。
 エレベータの中でも会話はなかった。
 ピラミッドは再び沈下して元の位置に戻り、今は上空に穿かれた巨大な空洞から
夕方の淡い光が射し込み、はるかな森からセミの声が物悲しく流れていた。
 今はあんなに大きく開いた孔だが、ネルフはすぐにまた埋め戻して閉ざして
しまうのだろうとレイは思った。自分の心の穴もそうして埋まっていくのだろうか。
レイには確信が持てなかった。
 起動車両のホームでも皆無言だった。
 待ち時間の路線にチルドレンの影が長く伸びた。
 帰宅のラッシュアワーにはまだ早く、三人分の空席が並んでいた。ヒカリ、アスカ、
レイが座り、トウジとカヲルは三人の前に立った。
 ヒカリとトウジは最初の駅で降りた。
 トウジはカヲルの背中を軽く押し、ヒカリの立った席に座るよううながした。
 「ワシ、ヒカリを送って帰る」トウジが残る三人に言った。「また、明日な」
 「じゃあね」ヒカリは三人に別れを告げた。逆光でヒカリの髪は真っ赤にそまっていた。
 余りにまぶしすぎるヒカリはトウジとふたりで輝いてみえた。
 扉が閉まり、車両は次の駅に向かった。
 「アスカ、送らせてもらえるかな」カヲルはアスカに言った。
 「お願いするわ」アスカは少しうつむいて答えた。「どこなの、あなたの部屋は」
 カヲルはいつもの笑顔で答えた。「まだ、もらっていないのさ。本部の仮眠室だけ」
 「じゃあ、アタシのために…ありがとう」
 「どういたしまして」
 レイが降車する番だった。レイは黙って席を立った。
 「じぁね、ファースト」
 「おやすみ」
 「さよなら」レイはいつもの口調でふたりに別れを告げた。
 金と銀の髪は並んで去っていった。夕方の薄暗がりの中で、
金と銀はいつまでも輝いてみえた。
 ふたりはこれからどうするのだろうとレイは思った。ふたりでどこか、静かな店で
食事をするのだろうか。それとも、いっしょに食事をするための食材を買うのだろうか。
 その後、部屋まで送られたアスカはカヲルに何というのだろうか。
 葛城ミサトは今夜戻らないかもしれないと言ったのだ。
 レイは首をかしげてその問題を考えるのを止めた。ふたりの問題なのだから、
レイが気づかう必要はない。
 本当に一人になったのだという心細さを、心の内のシンジが慰めてくれた。
 「ありがとう」レイは自らの心のシンジに礼を告げた。
 まだ残る熱気に、レイはまだ汗をかいていないひたいを手のひらでぬぐった。
 改札口を抜け、一人で歩く。
 道すがら、レイは無意識に片手で下腹を押さえていた。
 汗ばみはじめた下着と皮膚が密着して、重い、という感触があった。
 今そこで新しい命が創り出されようとしていることにレイは気づいていた。
 シンジの残してくれたもう一つの形見だった。やがて時が満ちて生まれてくる子供、
それが男の子だということをレイは確信していたが、レイはその子供にシンジの記憶を
全部流し込むつもりだった。
 そうして、また、ふたりの生活が始まるのだ。





++完++




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