もどる

Wounded Mass - ss:26

残酷な天使の運命

 青葉シゲルの声はそれでも冷静さを失っていなかった。「パターン青、使徒です」
 「なんてこと…」葛城ミサトは歯ぎしりしていた。「こんなときに、ねらいすまして…」
 レイは零号機を納めたケージのある階に降りるため、エレベータに向かった。
 「出撃します」レイは言った。
 葛城ミサトは振り向いた。「レイ、あなた一人なのよ」
 「事実です」
 「使徒接近、現在高度約二万メートル、降下中。もうすぐ映像を出せます」日向マコトが
計器板を操作した。
 巨大な円形の、ドーナッツを連想させる外観を持った使徒はまっすぐに第三新東京市の
ネルフ本部に向かって降下していた。
 葛城ミサトは言った。「がんばって」
 「はい」
 レイはエレベータに乗り込んだ。
 「綾波」シンジの思考が届いた。「僕達が帰るまで持ちこたえるんだ、決して無理しないで」
 「わかった」レイはシンジにきつく接触した。「これからのこと、全部見ていてね」
 「うむ」シンジは歯噛みするように応えた。
 エレベータが止まり、扉が開いた。
 眼前に零号機が出撃準備を整えてレイを待っていた。
 レイは整備員に軽く目礼しながらエントリープラグに向かい、両腕を入口にかけて、
逆上がりの要領でエントリープラグの内部にはいった。そして、座席に自分の身体を固定し、
ベルトの止め金を音を立てて閉じた。
 入口からのぞきこんだ整備員に無言でうなずく。
 整備員は握った手の親指を上に立てて合図すると姿を消した。
 エントリープラグの扉が閉じると、一瞬の暗闇の後内部が光につつまれ、LCL液が充填された。
 LCLの水位が上がって来るのをレイは黙って見つめた。
 いつもの見なれた光景だった。
 これから始める行動もまた、いつもと同じ作戦行動なのだ。ただ、隣に初号機がいないだけだ。
 レイはLCLがあごに届き、そのまま水位が上昇してすっかり全身が水没すると、上を向いて
肺の空気を吐き出した。
 プラグの内側全体が映像表示装置になっている。今、それまで何も映していなかった
その表面に、白い背景に黒い影が尾を引いて正面から背後に向かって何本も流れていった。
 「シンクロニティ開始」
 レイは全神経を集中した。何かがレイの体内ではじけ、それをエントリープラグそのものが
受け取ったような感覚がレイに伝わり、レイは零号機の起動手順が開始されたことを知った。
 レイの心と身体の境界線がだんだんと希薄になって行き、零号機との融和が進んでいった。
 画像は抽象的な模様から零号機の見る風景に変わり、殺伐としたネルフの格納庫の内部を
表示した。
 続いて画面は作戦司令部の巨大スクリーンと同じ映像を映し出した。
 使徒は、新芦の湖の上空に滞留し、自ら光を発していた。光の光度や色は不規則に変化した。
 待っている、とレイは思った。使徒はエヴァが出て来るのを待っている。
 音声が聞こえ始めた。零号機の直接観測している音だけでなく、信号線を伝わって来る
作戦本部の葛城ミサト以下操作員のやりとりも直接聞こえるようになった。
 「絶対境界線まであと五…三…一…絶対境界線突破、エヴァ零号機起動しました」伊吹マヤが
報告した。
 レイは自分の右腕(と認識している零号機の右腕)を軽く動かした。
 腕はレイに忠実に従った。
 「出撃準備完了」レイは言った。
 「第一一四射出口より出撃。パレットライフル準備」葛城ミサトが命令した。
 「射出順路決定」青葉シゲルが応えた。
 「パレットライフル準備よし」日向マコトが応えた。
 「エヴァ零号機、出撃準備完了」伊吹マヤが応えた。
 「零号機、射出」
 レイは加速度の圧力に耐えて歯を食いしばった。
 何度か零号機の身体が大きく揺れて、上昇中に別の通路に移動したことが分かった。そして
最後の防壁が開き、レイは地上に出た。
 第一一四射出口は第三新東京市を右に見下ろす小高い位置にあり、そこから眼下に
第三新東京市の市街と、正面の新芦の湖、その上に遊弋する使徒の姿がよく見えた。
 「綾波、こちらから手を出すな…様子を見るんだ」シンジの思念がレイに届いた。
 「わかった」レイは同意の思念を送った。
 「レイ、先制攻撃は避けて」葛城ミサトの命令があった。「様子を見て、できるだけ時間を
かせいでちょうだい。もしもうまくいけば、帰還中の三機が間に合うわ」
 「はい」レイは答えた。
 「使徒、外側直径約五十メートル内側約四十メートル、高さ約十メートルのほぼ真円の
円環面構造です。方向性を示唆する突起その他の外装物はありません」
 零号機は第三新東京市をはさんで使徒と対峙していた。
 使徒はすでに零号機の存在を探知している、とレイは思った。
 使徒は新芦の湖の上空を離れ、ゆっくりと零号機に向かって接近を開始した。使徒の発する光は
それまでまったくの不規則な輝きだったが、今は意味のあるくり返しの法則にしたがって点滅して
いるのがはっきりと分かった。
 「使徒、発光パタンに変化」青葉シゲルが報告した。
 「マギはパタンの解析を開始しました」伊吹マヤが報告した。
 「モールス信号ではないわね」葛城ミサトのつぶやきが聞こえた。
 「レイ、使徒が接近して来るわ」
 「はい」
 「長距離ビーム砲で牽制攻撃してみる。日向君、市街地に被害の一番少ない、地上からの
攻撃位置はどこ」
 「第四三砲台です」
 「第四三砲台」葛城ミサトは呼びかけた。
 「はい、こちら第四三砲台」操作員が答えた。
 「使徒に対し、攻撃してもらうわ。中性子ビーム砲とN2ミサイルの同時攻撃よ」
 「了解、中性子ビーム砲、N2ミサイル発射準備よし。目標捕捉」
 「これより使徒に対し陽動攻撃する。総員反撃に備えよ。第四三砲台は攻撃後防護壁を上げて
第二地点に移動のこと」
 「了解」
 「てっ」
 巧妙に擬装された砲台から中性子ビーム砲が発射され、同時にN2ミサイルが使徒に向かって
貪欲に突進した。
 ビームはATフィールドにより中和された。目も眩むような発光がビームを包み込み、
蛇が食餌を飲み込むように痙攣しながらやがて消えていった。
 ミサイルはATフィールドにからめ取られ、進路を失って新芦の湖に墜落した。そして湖底で
爆発し、大量の水と蒸気を吹き上げた。
 「ATフィールド以外の手の内を見せる気はない、ってか」葛城ミサトはつぶやいた。「しかも、
砲台に対する反撃すらしないとは…」
 使徒は進路を変更せず、ゆっくりと零号機に接近していたが、高度を下げて零号機の
頭の辺りまで降下すると、約五十メートルの距離で停止した。発光は止まず、ただそのくり返しが
何度か変わり、そのたびに迎撃側には緊張が走った。
 「発光パタンの解析進みません」伊吹マヤが報告した。「MAGIはパタンに意味があるか
どうかについて疑義を申し立てています」
 「綾波、注意して」シンジの思念がレイに注意を喚起した。「奴はきっと仕掛けて来る…
方法はわからないけど、きっと」
 「ええ、私もそう思う」レイは思念を返した。
 シンジの思念の向う側に、息を潜めてふたりの会話を聞いているヒカリとトウジがいるのが
わかった。
 三機のエヴァはさらに加速して地球に向かっていたが、さすがに四十万キロの距離は遠く長く、
到着までまだ一時間以上かかることは必至だった。
 「最近の使徒の行動にはなんらかの目的が感じられる」葛城ミサトはみずからの考えを口に
出していた。それは命令でも確認でもない、葛城ミサトの心の内そのものだった。「前の前の
使徒はアスカに精神攻撃をかけた。それが有効だとわかっていたのに、前の使徒は精神攻撃は
しないままに初号機に敗退した。これ、どういうこと…まるで行き当りばったりにともかく
ネルフ本部を潰そうとしている…そのためにありとあらゆる手段で攻撃して来るというのに、
学習効果がまったく見られない…それは何故?」
 「使徒の創造者が何者であれ、それほど頭がよくないということじゃないかしら」
赤木リツコが葛城ミサトの傍らにしつらえられた喫茶用の机に向かって座ったまま、煙草を
ていねいにもみ消しながら言った。「過去の記録など参照もせず、思いつきで攻撃の方法を
変えて来る。それはほとんどの場合失敗して来たけれど、相当にうまくいってエヴァにかなりの
打撃を与えたこともあったわ。でもその方法を学習し踏襲している形跡は見られない」
赤木リツコはさめてしまったコーヒーに手を伸ばした。「それとも、使徒は本当にエヴァを
倒すために、ネルフ本部、第三新東京市そして地球を破滅させるために送り込まれて
来ているのか、それすらも疑問がもてるわ」
 レイは葛城ミサトと赤木リツコの会話ともいえない独白を聞きながら、使徒の動きに変化が
ないか最新の注意を払って観察していた。
 「来る」レイはつぶやいた。第六感とも言うべきか、それとも単なる勘と言うべきか。
それは正しかった。
 使徒の本体から何本もの綱のような突起物が伸びた。突起物は何かを捜し求めるような動きで
あちこち方向を変えながら、確実に零号機に向かって伸びて来た。
 レイは一番近くまで伸びた突起を片手でつかみ、パレットライフルを打ち込んだ。
 一秒間に三回ずつ規則的な発射音が響き、突起物はライフルの弾丸に細切れにされて本体から
切断された。切断された先は光を失い、死に絶えた灰色の巨大な蛇のように零号機の左手から
垂れ下がった。
 一本の突起を始末する間に第二派第三派の攻撃が零号機を襲った。
 レイは左手の突起を捨てるとすぐに次の突起をつかんだ。そしてパレットライフルで同じように
突起を打ち砕いた。
 しかし、その間に他の突起部の先端が零号機に突き刺さった。
 傷みはなかった。
 レイはその事実に恐怖した。
 「使徒が零号機に接触しました」日向マコトが叫んだ。「そのまま零号機の体組織と融合して
いきます」
 「なんですって」葛城ミサトが叫ぶように答えた。「どういうこと、その『融合』って」
 何かがレイの体内に侵入していた。
 切り裂かれれば痛みがある。それが常識だ。その痛みがないまま、零号機は何本もの突起物を
受け入れていた。
 「使徒が零号機と物理的融合を試みているとしか思えません」日向マコトの緊迫した声が流れた。
「といっても僕の仮説に過ぎませんが」
 「MAGIは日向さんの意見に合意しました」伊吹マヤが報告した。「このままでは零号機は
使徒と化します」
 レイ(実際は零号機の体内)の体内に突起物が深く、深く侵入し、その先端が分裂してレイ(実際は
零号機)の体組織と一体化して行くのがレイにはわかった。
 零号機の体表面は、侵食された部分から赤黒い溝が穿かれ、逆に盛り上がって伸びていった。
 零号機は今や自ら動くこともかなわず、何本もの突起が零号機をその場に貼り付けていた。
 レイは自らの身体もまた零号機と同じような盛り上がった溝が全身に広がっているのに
気づいていた。
 これが実際にレイの身体にまで使徒の影響がおよんでいるのか、それとも零号機との緊密な
同期でこのような身体的な影響を受けているのかレイにはわからなかった。
 ただ、レイには自明のことが一つあった。
 この戦いは負けだ。
 このまま使徒の体組織に取り込まれ、零号機を使徒と化してしまうことをむざむざと許すしか
方法はないのか…レイは単刀直入にその場でとれる最善の策を取った。レイはそれまで一度も
触れたことのなかった、操縦桿の外側に取りつけられている、紫色の梃を握った。
 レイは歯を食いしばった。
 本当に自分にできるのか…他に何か方法はないのか…レイは自問自答した。答えは、不可能。
 レイは握った梃を手前に引いた。
 かちりと音がして、エントリープラグがその操作を受け入れたことを示した。
 「零号機自爆装置第一安全弁開放」青葉シゲルが報告した。「エヴァ零号機、自爆体勢に
はいります」
 紫色の梃はそのまま手前に回転しながら倒れ込んでいった。そして床から黄色の梃が現れ、
紫色の梃の位置についた。
 「なんですって…レイ、止めなさいっ」葛城ミサトは叫んだ。「今ここであなたを失う
わけにはいかないわ、使えるエヴァがなくなってしまう」
 「この機体はもうエヴァではありません」レイは答えた。「使徒に侵食されてしまったわ」
そして次の黄色に塗られた梃を手前に引いた。
 「自爆装置第二安全弁開放」青葉シゲルが報告した。
 エントリープラグ内の照明の色が桃色に変わり、警報音が流れた。合成された音声が注意を
うながした。
 「零号機自爆体勢に移行、搭乗員は脱出せよ」
 そんなこと、できるわけない、とレイは思った。自爆させるためにはまだまだ通過しなければ
ならない段階がある。今はATフィールドの臨界点を解放したに過ぎない。
 黄色の梃も紫色の梃の後を追った。続いて赤い梃が姿を現わした。
 「綾波っ、やめて、やめてよそんなこと」シンジの悲痛な思念がレイを打った。「そんなの、
だめだよ…綾波がいなくなったら、僕らはどうしたらいいの」
 「碇君、今は他に打つ手がなくなってしまったのよ…大丈夫、私が死んでも代わりがいるもの」
 「綾波、君が何を言っているのかわからないよ」
 「碇君の中の私に聞いて」この会話はふたりの間だけの極めて緊密な思念の交換で行われ、
内容はヒカリもトウジも知ることはなかった。
 「綾波、だめだよ、なんとかなるよ、僕がそこに着けば…」
 「アンビリカブルケーブル強制排除」葛城ミサトが叫んだ。
 「了解」日向マコトが答えた。「ケーブル、強制排除しました」
 「零号機、内部電源に切り替わりました」伊吹マヤが報告した。「活動停止まで百八十秒」
 「だめだ間に合わない」葛城ミサトの声はくやしさに震えていた。
 「止めて、止めて、レイ、止めてー」葛城ミサトは絶叫した。「あなたにはまだ知らなきゃ
いけないことがいっぱいあるのよ、生きなきゃいけないのよ、レイ、自らその可能性を
閉ざすことだけは、お願いだから止めてっ」
 「私は使徒を倒すために生かせられていたんです」レイは操作の手をゆるめなかった。
 レイは眼前に使用可能となった赤い梃を力一杯手前に引いた。
 「自爆装置最終安全弁開放」青葉シゲルの声には力がなかった。「エヴァ零号機、自爆体勢
整いました」
 「だめーっ、命令よっ、自爆してはだめーっ」葛城ミサトの声には嗚咽がまじった。
「レイお願いだから止めて、それだけはやめてーっ」
 赤い梃は床に消え、最後の黒い梃が取って代わった。これが最後の梃だ。
 「綾波っ」シンジの思念もまた悲痛だった。
 レイの心をシンジとの記憶が走馬灯のように去来した。ふたりで買った椅子、ふたりで買った
台所用品、一緒に食べた食事。シンジとの交合、アスカとの、トウジとの、ヒカリとの交わり。
 シンジの教えてくれたこと、個性のこと、自分自身であること、他人との付き合いのこと。
 そして、シンジとふたりで過ごした夜。愛することのすばらしさ、心地よさ、そして大切さ。
 何もかもが一度に思い出され、レイの心一杯に広がった。
 「もう一度、碇君とひとつになりたかった」レイは心底からの思いを乗せた思念を送った。
 「綾波っ」通信回路経由のシンジの一言をレイはどんなに名残惜しく聞いたことか。
 「さよなら」
 レイは最後の黒い梃を手前に引いた。
 梃は何の抵抗もなく動き、零号機全体の体組織を変化させながら自爆体勢にはいっていった。
 零号機の機体はゴムのように伸びて使徒に取りつき、全体を包み込んだ。そして限界を
解放されたATフィールドが零号機を使途もろとも包み込み、内側に向かって全てのエネルギーを
解放した。
 エントリープラグの奥底から強烈な振動がわき上がった。制御系統が死に絶え、点灯していた
灯がすべて消えた。無音の闇の中で内部の温度が爆発的に上昇したのが分かった。一瞬の後、
新たな衝撃とともにエントリープラグに裂け目がはいり、そこから周囲を圧倒する轟音とともに
差し込んだ目も眩むような強烈な光が内部を照らし出した。LCL液体が噴き出し
エントリープラグの内部は入れ代わりに外部から侵入する高圧の蒸気に満たされた。
レイは口や鼻から液体をはき出したがむせる暇もなかった。液体は急激に腰まで引き、
さらに減っていった。次の瞬間、固定紐が引きちぎられ、レイの身体は激しく前方に投げ出された。
レイの眼前に裂けたエントリープラグの内壁が迫った。
 レイの最後の記憶は真っ赤だった。





+続く+




◆マイクさんへの感想・メッセージはこちらのページから◆