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Wounded Mass - ss:23

戦士たちには一夜の休息を

 シンジが退院するのに三晩かかった。
 赤木リツコがシンジを検査漬けにして手放さなかったためだった。シンジの身体に
どんな変化が現れているかを、顕微鏡的な偏執さで測定しようとした。
 しかし、あらゆる数値が誤差の範囲でシンジの身体に変化がないことを示し、
赤木リツコはシンジの退院に渋々と同意したのだった。
 午後三時という、まだまだ真昼の暑さが第三新東京市を焦がす中、シンジは新調した
第壱中学校の制服で特務機関ネルフの医療部から解放された。
 レイは外来受け付けの待合室のいすに座り、シンジが出て来るのを待っていた。
 そして、シンジを見つけると立ち上がり、その場に立ち尽くしてシンジが近づくのを
待った。
 シンジの笑顔がまぶしかった。
 心の奥底から込み上げて来る暖かいものがレイの全身を包み、その一部は涙となって
体外にあふれ出た。
 シンジはレイの正面に立ち止まり、この上なく晴れやかな表情で言った。
「綾波、元気かい」
 「ええ」レイはうなずくのがやっとだった。「碇君も…」
 「医療部の検査は生まれてからこっち、これほど徹底的だったことはなかったよ、
それで健康体さ。安心して」
 レイはうなずいた。
 「行こうか」シンジはレイをうながした。「ここは病人のいるところだ、僕たちの
場所じゃない」
 「ええ」
 ふたりは並んで医療部を後にした。
 エレベータホールに向かう道すがら、すれ違う特務機関ネルフの職員とあいさつを
かわしたりしながら、ふたりはどちらともなく手をつなぎあっていた。
 シンジの暖かみが伝わって、レイは心臓の鼓動が聞こえるのではないかと思った。
 「あっついなあ」シンジは特務機関ネルフの通用口から一歩踏み出して
まだ汗の出ていない額をぬぐった。「帰ろうか」
 「ええ」レイはうなずき、ふたりは軌道車両の駅に向かった。
 ふたりは黙って歩いたが思念を交換していた。
 「碇君、私、うれしい」
 「ありがとう綾波。ぼくはもどってくるかどうか最後まで決められなかったんだ」
 「セカンドが呼んだわ」
 「うむ、アスカが呼んでくれて心が決った。でも、その時だれからもじゃまされずに
決めることができたのは綾波がかばってくれていたからなんだ」
 「初号機の意識構造は私と同じだった」
 「みんな、元は母さんの意識だってことさ」
 「碇君」
 「綾波、綾波は綾波だ、母さんじゃない」
 「そう思ってくれるの」
 「だってそうじゃないか」
 「ありがとう」
 ふたりは黙って改札をくぐり、ちょうどやって来た軌道車両に乗り込んだ。
 半端な時刻で車内は閑散としておりふたりは空いた席に並んで座った。
 「また、こうして現実世界にいるっていうのは、なんだか変な気分だな」シンジが
ぽつりと言った。
 「そ」
 「うむ…」シンジは両の手のひらをながめた。「一度は失くした身体だし」
 レイはだまってシンジに身をもたせかけた。そして一瞬でお互いの記憶を交換した。
 「…」初号機の揺りかごから、現実世界に帰って来ることがどれほど
つらい決断だったかレイには想像もつかないほどだった。
 レイは黙ってシンジにあやまった。ごめんなさい、安寧の地からむりやり血生臭い
戦場に引き戻してしまって。
 シンジはひざの上にあったレイの手に自分の手を重ねた。
 レイは視線を上げシンジを見た。
 シンジは微笑していた。何もかも忘れさせてくれる、暖かい微笑だった。
 「忘れないで」シンジは笑顔で言った。「僕がエヴァに乗るのは
綾波を守るためだってこと」
 レイは黙ってうなずいた。
 軌道車両がふたりの降りる駅に停車した。ふたりは並んで車両を降り、改札をくぐった。
 建設機械の発する定期的な騒音とむせ返る暑さに包まれてふたりは歩いた。
 「お茶、飲んでいって」レイは自室のある建物の前で立ち止まり、シンジをさそった。
 「いいね、そうしよう」
 ふたりは建物の一階に入居するコンビニエンスストアにはいってペットボトルの
茶を買った。
 払いはレイがした。退院したてのシンジは、特務機関ネルフの身分証明書しか持って
おらず、これは軌道車両の通行証には使えるが現金の決済機能は持っていなかった。
 そして、白い袋に二本のペットボトルを入れてもらうと、シンジがその袋を下げて
ふたりはコンビニエンスストアを後にした。
 エレベータでも相客はおらず、ふたりは並んで出口に向いて立った。
 レイはつないでいた片手を離してシンジの腰に回した。
 自由になったシンジの片手もまたレイの腰にまわった。
 ふたりはどちらからともなく顔を寄せ、唇を合わせた。
 儀礼的にすませて目的階に到着するチャイムを聞くと、ふたりはエレベータを後にし、
誰もいない廊下をならんで歩いた。
 レイはスカートのポケットから鍵を出して玄関を開けた。
 「鍵、かけるようになったんだ」
 「おどろいた?私、碇君が初号機に取り込まれたあと、不安を押さえきれなくなって
しまって。これ」と鍵をシンジに渡し「持っていて、私の分は別にあるから」
 「分かった、じゃ預かるよ」シンジは鍵をズボンのポケットに入れた。「帰ったら、
失さないように何か工夫しよう」
 ふたりは向かい合って食卓に座った。
 新しいいすにはレイが、古いいすにはシンジが座った。そして、汗をかいた
ペットボトルの栓をひねり、てんでに飲んだ。
 室内にも建設機械の規則的な音が小さいが確実に響き、それに合わせてほんの少しだが
建物も揺れていた。
 飲み物を飲む間、ほんのわずかな沈黙があった。
 シンジが先に言った。「シャワー、使いたいな」
 そしてレイと視線を合わせた。
 「私も」
 「じゃ、いっしょに」
 そしてそういうことになった。
 ふたりは順番に服を脱いだ。
 いつものようにシンジは脱いだ服をきちんとたたんでいすの背に掛け、いつものように
レイは床に脱ぎ散らかした。
 シンジは裸体のレイをまぶしそうな目つきでながめた。
 「綾波…きれいだ」
 「そ」
 そしてふたりは浴室に向かった。
 レイが扉を開いて先にはいり、シンジが後に続いた。
 一番奥のシャワー付き浴槽はふたりには少々狭かったがふたりは気にしなかった。
 レイはシャワーの栓を開き、一瞬の冷水の後心地よい温度の湯がふたりを包んだ。
 「石けん、使う?」レイはシンジに聞いた。
 「む、シャンプーあるかな…病院では頭洗うひまがなかったんだ」
 「はい、これ」
 「ありがとう」
 耐水性のカーテンを引き込んだ浴槽は本当に狭くて、ふたりは身体をぶつけあいながら
身体を洗った。
 そして石けんの泡が浴槽の底の排水口にわずかに残る頃、ふたりはシャワーの下で
抱き合い、唇を重ねていた。
 全身を打つシャワーの湯が心地よい刺激となり、レイは両方の胸をシンジに押しつけ、
さらに刺激を求めて自分から胸を振り、こねまわした。
 シンジの両手はレイの背中から尻に伸びて自分自身に押しつけるようにしながら
ゆっくりとした円を描くような手つきでレイをなでまわした。
 レイはシンジ自身が臨戦体勢にはいって自分の内股に触っているのを感じた。
レイは片手でシンジに手を添えると片足を浴槽のふちにかけてひざを開き、
自分自身に導いた。
 「あぅ」レイは小さな悲鳴を上げたが、シンジが侵入して来るのを拒みはしなかった。
 シンジのしなやかな前後動でレイはたちまち快感の大波に洗われ、
両腕をシンジの首の後ろに組んで身体をあずけた。
 シンジもレイの姿勢を直すようにわきの下から片手で腰を抱いた。もう一方の手は
開いた足の側の尻を抱えてレイをささえた。
 「ふっ」レイの全身がびりびりと震えた。「碇君っ」
 「綾波っ」
 レイの身体は一ヶ月間の禁欲のために敏感過ぎるほどになっており、シンジは
レイの中で簡単に果てた。
 ふたりは余韻を楽しむようにそのままの姿勢でシャワーにあたった。
 それからシンジはゆっくりと、惜しむようにレイから身体をはがし、
まだ快感の余韻の残る自分自身をレイに示して「続きはむこうでしない?」と聞いた。
 レイに異存はなく、うなずいてシャワーを止めた。
 レイは棚の中から大きなバスタオルを出すと、一枚をシンジに渡し、一枚を自分に
まきつけて胸の上でとめた。
 ふたりは湯気の立ちこめる浴室を後にした。扉を閉じると内側からこもった音が
響き始め、除湿しているのが分かった。
 「この寝台もなつかしいな」シンジはぽつりと言った。
 「そ」
 「やっぱり、もどって来てよかったと思うよ」
 「よかったわね」
 ふたりは寝台のわきに立って、タオルをまいたまま抱き合い、唇を重ねた。
 シンジの鼻から出る息が、レイの濡れた膚を冷たく刺激した。
 「ああ」レイは唇を合わせたままため息を漏らした。
 シンジはレイを寝台に横たわらせた。バスタオルは下からはだけて下半身を露出させ、
とめている両方の胸だけを隠していた。シンジはレイの傍らに腰を下ろすと手を伸ばして
そっとタオルをほどいた。
 レイはがまんできなくなり、両手をシンジに差し伸べた。
 シンジは身をかがめ、レイの乳房に口づけした。
 レイの全身を衝撃が走った。「ああっ」
 レイはシンジのタオルをはがし、シンジを引き寄せ、自らも身体を起こし、
強く抱き合った。そしてシンジが隣に横たわるとそのままシンジの身体の上に身を
乗せかけた。さらにシンジに乗りかかったままで身体を動かして刺激を続けた。
 レイの全身がぶるぶると震え、シンジは下からレイの腰をずり落ちないようにささえた。
 レイは膝を開いてシンジの腰をさぐり、ゆっくりと自らの中に迎え入れた。
 大きく深呼吸。横隔膜の動きに合わせてシンジがはいってくる。
 「ふぅ…」
 快感の波が大きく、あるいは小さく、広く、浅く、熱く、レイの足の指先から
耳たぶに流れる。動悸がシンジの脈拍と同期する。この感触。なつかしさと快感が
交錯して涙があふれ出る。
 「あやなみ…泣いてるの」
 「うれしくて」
 シンジが腰を動かして応える。
 「あぁぁ」
 ふたりの時が溶合う。快感が交錯しふたりをより深い結合に導く。
 そして溶合った心が一つになりふたりは満足のため息をつく。
 汗にまみれ、肌は上気し、呼吸は荒い。
 ふたりは並んで横になり、全身を弛緩させて天井を見上げた。
 「綾波」
 「碇君」
 「アスカにも帰ってきてもらおうか」
 「ええ」
 ふたりはアスカの心に潜って行った。
 荒れ果てた荒野のような心、サボテンやころがり草も生息しない砂漠のような
心だったアスカの心は今はもっとずっと生気に満ちていた。しかし、そこには主人が
いないのだった。
 ふたりは手を取りあって下草と木々に被われた森の中を進んだ。
 森を抜けるとそこはアスカが故国で過ごした部屋だった。
 広くて天井が高く、厚いカーテンの下がった窓が二つ並んでいて、カーテンは開かれ、
外の景色が見えた。郊外の一戸建住宅が木々の間からのぞいていた。
木々は厚く葉を茂らせて冬の寒さに備え、視界をさえぎっていた。
 壁には木製の大きな本棚が並び、学術書が並んでいた。机がひとつ、堅い椅子と
組を作って窓際に置かれていた。机の上には何枚かの紙が乱雑に広げられていて、
数式といっしょに子供の描くような落書きがならんで書き込まれていた。
床のじゅうたんは厚くはなかったが十分に柔らかく、実用本位の非人間的な空気が
ただよっていた。
 扉が二つ並んでいて、ひとつは廊下に、もう一つは寝室につながっていた。
 レイとシンジは(精神の中で)顔を見合わせた。
 この部屋は無人だが、隣の寝室には人の気配がした。
 まぎれもなく、男女の性の営みが行われている。
 「どうしよう…」
 「わからない」
 ふたりは廊下に通じる扉を抜けて(実体ではないので開く必要もなく)寝室の扉を
通り過ぎ、階段を降りて階下の玄関前の広間に出た。正面には玄関の大きな扉が
閉じてあり、左側には食堂、右側は応接間のようだった。食堂から音がした。
 ふたりは食堂に向かった。
 アスカの母親と思われる女性が食事をしていた。女性は一人で、給仕もいなかった。
金髪の髪を結い上げていたが、ところどころほつれてだらしない感じがした。
食卓越しには下半身は見えなかったが、清潔そうな薄い桃色のシャツを着ていた。
シャツは長袖でひだがたっぷり取ってある古い体裁のものだった。女性は今、
スープを飲みおえ、ちぎったパンをほおばったところだった。
 ふたりが食堂にはいると、女性は視線を上げ、食べるのを止めるとナプキンで
口をぬぐい、ゆっくりと立ち上がった。濃い紺の少しきつめの長いスカートと黒い、
低いかかとの靴の姿だった。
 「これはめずらしい、お客様ね。その年格好だと、アスカのお友達かしら。
アスカは今、ちょっととりこんでいるけれど、時間があるのでしたら向こうの
部屋でお待ちになれば」
 「あなたは…」
 「アスカには友達ができなくて。お二人も一度に訊ねてみえるのには驚いたわ」
 「あなたはアスカのお母さまですか」
 「アスカは養女です。主人の連れ子なの。主人はいい人なのですが、すこし
だらしないところがあって」
 「今、この家に僕たちのほかにはアスカの家族しかいないんですよね」
 「おっしゃるとおりよ、使用人も雇っていないから」
 「二階でどんなことが起きているか知っていますか」
 「知っていますとも」
 「止めないんですね」
 「なぜ…あれは主人とアスカの問題で、私には関係のないことですもの」
 「親子なんでしょう、もう少し気を配ってあげたらどうなんですか」
 「あれは主人の子よ」
 「なんて人だ…あなたにはアスカの母親を名乗る資格なんてないっ」
 「碇君」
 「いいんだ綾波…行ってすぐ、あれをやめさせなきゃだめだ、さもなければ」
 「さもなければ、なにかしら」
 「あなたの存在を許さない」
 女性は首をかしげた。シンジの言った意味が理解できないという風情だった。
 「それは、どういう…」
 「こんないい家に住んで、綺麗な服を着て、おいしい食事を食べて、
なんの不自由もない生活を送っていられるのはあれに目をつぶっているせいですか、
そうなんでしょう」
 「私は医師ですよ、誰の助けもいらずに生活できるわ」
 「ではそうしてください」その言葉と同時にシンジのからだは姿を変え、
巨大なゴム風船のように膨らんでアスカの母親に巻きついた。そしてぐるりと回転して
その身体をすっかり包み込んでしまった。
 レイはぎょっとしてその光景をながめた。シンジの攻撃の仕方は、あれは、
使徒そのものだと思ったのだ。使徒だとしたら、次の瞬間に自爆する。
 女性は悲鳴を上げたが声は漏れださなかった。
 「あなたは永遠にこの小さな暗い空間の中ですごすんだ…何も見えず何も聞こえず
何もさわれずどこにもいけない空間の中で誰にも聞こえない悲鳴を上げ続けるんだ。
身体の輪郭は消してしまうけれど、叫ぶための口だけは残して置いてあげよう」
 「碇君…」
 「これでいいんだ…アスカの心がこんなに傷ついているのは一つにはこの人の存在を
忘れることができないからだ。一番助けてほしいときにこの人が
何もしてくれなかったからだ。だからこの人はアスカの心の中に存在すべきじゃ
ないんだ…でも、消してしまうわけにもいかない。本当に、現実に存在していて、
現実世界ではアスカの母親なんだから…だから閉じ込める。存在はしていても
もう何もできないように、どんなとげのある言葉も発せられないように、
どんな無関心な態度も取れないように、ただそこにいるだけの存在にしてしまうんだ」
 「碇君はどうするの…ずっとその人を抱え込んでおくつもりなの」
 「そんなことはないさ」
 シンジはみるまに元の姿に戻った。
 女性の姿は消えていた。
 「どこに行ったの」
 「テーブルの上か、どっかそのへんだと思う。極小にまで小さくつぶして僕の思念で
包んでしまった。もう二度と出られない」
 「碇君、じゃあ次は二階なのね」
 シンジはうなずいた。
 「行きましょう、ここはだんだんと存在感が薄れてきたわ」
 ふたりは輪郭のぼやけた食堂を後に、玄関にもどった。
 振り向くと、食堂は灰色に染まり、食卓も並んだいすも徐々に姿を消そうとしていた。
 「行こう」
 シンジはレイの腕を取った。
 ふたりは並んで階段をのぼった。
 のぼりおえた階段は順番に消えて行った。
 ふたりが二階の廊下に立ったとき、周囲の景観は全て消え、ただ寝室に通じる扉だけが
ふたりの前に残っていた。
 ふたりは顔を見合わせた。
 シンジは扉の取手に手をかけゆっくりと押し開いた。
 真っ赤な空間がふたりを迎えた。
 天井も壁も床も、どす黒い血の赤で彩られ、乾ききっていない血溜まりからは
雫がこぼれ、壁をはい、床の模様の輪郭を変えていた。
 真っ赤な部屋の中央に真っ白い天蓋のついた寝台があって、男女の身体がからみあって
いた。
 アスカは目をきつく閉じ、両手もこぶしを作って自分の胸の上あたりをかばっていた。
曲げたひざは大きく開いて男を迎え入れていた。
 男の腰が動くたびに寝台の厚い床が大きくゆれた。
 アスカは激しく首を振り、その拍子に目を開いてレイとシンジを見つけた。
 「いやーっ」
 アスカは悲鳴を上げた「見ないでっ、お願い見ないでっ」
 男はアスカを押さえつけたまま振り向いた。額に汗がにじんでいた。
 「おお、これは取り込み中で失礼」そしてまた腰を動かした。
 「いやーっ、出てってーっ」
 「何を言う、こんなに深くくわえこんでいるお前の腰はもっとくれとせがんでいるぞ」
 「うそっ」
 「口では何とでも言える、ではなぜこんなに濡れているんだ、溢れ出て来るぞ」
 「ちがうっ…こんなこと…こんなことっ」アスカは横目でふたりを見た。
「見ないでっ、あっち行ってっ」
 ふたりは動かなかった。
 アスカの身体に変化がおこった。表情が幼くなり身体も一回り縮んだようにみえた。
 「だれ、あんたたち、だれなのっ、出てって!アタシを見ないでっ」
 「記憶を退行させて私達のことを忘れようとしている」
 「やめてよ、もう」
 「こちらが満足したらな」男は振り向きもしなかった。
 シンジは前に進み出、片手で男の肩をつかんだ。そしてそのまま後ろに引いて
むりやりふたりを引きはがした。
 「何をするっ」
 アスカの体内から男の性器がずるりと引き出されてきた。それは巨大で長く、
今までアスカの体内で体液にまみれていたためにぬらぬらと淫猥な様相を見せていた。
余りに大きくてそんなものがアスカの中にはいっていたとは信じられないほどだった。
それはアスカの主観に基づいた描写なのだ。
 シンジと男はほとんど倍の身長差があった。シンジは男に向かいあって立ち、
だらりと下げた両腕にこぶしを作った。
 レイはふたりを迂回するようにアスカに向かった。そして、血溜まりなどものともせず、
小学生の体格のアスカの前にひざまづいた。
 アスカは両腕で自分自身を抱きひざを引いて丸くなった姿勢で目を固く閉じていた。
 レイは片手を伸ばしてアスカのほほに触れた。
 「いやっ」
 「大丈夫、安心して」
 「いやっ」
 「なんだね君たちは」男はふたりを見下ろして言った。
 「あなた方の存在はアスカに負担になっていると思います」
 「それがどうしたね」
 「だから、消えてもらいます。奥様は先に処理しました」
 「なんだと」男の表情がけわしくなった。「何が問題なものか、あれはキョウコの
連れ子だ、キョウコはあれの相手に精子バンクを選んだんだぞ、私はあれとは
何の血のつながりもない」
 「だから陵辱していいという理屈にはなりませんよね。アスカは傷ついている、
あなたの存在、あなたの行為、あなたの言動に」シンジは片手を振った。
「ご覧なさいこの部屋を。血にまみれているではありませんか。全部アスカの流した血だ、
あなたが流させたんです、奥様と協力して。
 「アスカの心の傷、そして身体の傷を癒すにはあなた方はじゃまなんです」シンジは
ここで言葉を切った。
 「だから消えていただきます、アスカの心から、永遠に」
 「やれるものならやってみるがいい」男は胸を張った。まだ臨戦状態にある巨大な
性器がシンジの眼前につき出された。
 はじまる、とレイは思った。レイは両手をアスカの肩に当てて引き寄せた。
 「さわらないでっ」
 「大丈夫、私が守るから」
 シンジは何の前ぶれもなく自分の体を変形させ、食堂でやったように相手の身体を
包み込んだ。しかし、今度の相手は前よりも大きく、シンジは前の行為で体力を失っていた。
シンジは相手を完全に包み込むことはできたがそれで精一杯だった。
 「これがどうした」男は笑い声を上げた。「こんなもの簡単に引きちぎり、
剥ぎ取ってしまうぞ」
 「できますか」
 そしてシンジは全身の力を振り絞って相手を攻撃した。身体の内側に膨大な圧力を
かけて中の存在を圧縮したのだ。
 勝敗は一瞬で決った。
 かつて巨人だった存在はシンジの体内で全ての力と肉体を奪われ、概念だけの存在と
なった。
 シンジは手のひらに乗るくらいの大きさの、石炭のようなかたまりを握り締めて
真っ赤な床にひざをつき、そのまま倒れ込んだ。床に触れた身体が見る見るうちに
返り血に染まっていった。
 「碇君っ」
 「だいじょうぶ…綾波…ちょっと疲れただけだから」
 レイはアスカとシンジのどちらのめんどうを見たらいいのかわからなくなり、
最後に自分の体をふたつに分離して片方でシンジの介抱をした。
 シンジは弱々しく微笑し、片手に握った黒い石のようなかたまりに目をやった。
 「これが…そうなの?」
 シンジはうなずいた。「もう、何もできない。意識はあるが、アスカに対してどんな
刺激も伝えられなくしたから…アスカはどう、だいじょうぶかな」
 「身体がますます若返っていく」もう一人のレイがふたりを見て言った。
 「まだ他にも思い出したくないのに思い出させられてしまった過去があるんだ」
シンジは立ち上がろうとしてよろめいた。
 レイはシンジに肩を貸し、寝台までいくと待っていた身体とひとつになった。
 「血の色が薄れていく…アスカの記憶からこの忌まわしい思い出が消えて行こうと
しているのかしら」
 「多分…そうだといいけど」
 血塗られた部屋はぼんやりとした輪郭となって消えていき、変って鉄格子のはまった
窓が現れた。
 窓のまわりに景色はなく、見上げる角度からそれはアスカがまだ幼くて自分の意識が
集中している部分しか覚えていないことを示していた。
 窓は素通しで中の様子が見え、音も聞こえた。
 寝台に一人の女性が座り、人形を抱いていた。
 「アスカのお母さんだ、キョウコさんだ」
 「ママー」幼女のアスカは力なく叫んだ。「ママー、見て、アスカを見てー」
 女性は何も聞いていなかった。ただ人形を力なく抱き、小声で人形に話しかけていた。
 「人形を…アスカだと思ってるんだ…」
 「ママー」アスカは泣き叫んだ。
 レイは背後から幼女のアスカを抱いた。何と言ったらいいのかわからなかった。
 シンジはかがみこんでアスカの頬をなでた。
 「アスカ…ママは、今はちょっと気分が悪いんだよ…病気なんだ…きっとよくなって、
またアスカのことをいっぱい愛してくれるよ」
 「嘘よ」アスカは短く吐き出すように言った。
 鉄格子のついた扉が開き、一時的に内部が見えなくなった。
 そして扉が開ききったとき、その女性は天井のパイプからぶらさがる紐で
首を吊っていた。
 「ママは死んじゃったのよ…もう帰って来ないのよ」
 「ママはあなたの心の中にいるわ」レイは反射的に言った。「ママの死んだ事実は
受けれなければいけないけれど、あなたにはママの思い出があるでしょう。
その思い出を大切に、忘れないようにして」
 「ああーっ」アスカはレイの手を振りきって寝台に突っ伏し、泣き声を上げた。
その姿がまた変化をはじめ、幼女はやがてアスカとシンジの見知ったアスカにもどった。
 アスカは目を閉じ、鼻をすすりあげながらやがてまた深い眠りに落ちた。
 「僕たちは帰ろう…もう他にできることはないよ。後はアスカが一人でやらないと
いけない」
 「わかった」
 ふたりは、すっかり血の色が落ち、さらには輪郭もなくなっていく部屋に、真っ白な
寝台で眠るアスカを後にした。

 「目を覚ますかしら」
 「もちろん…それも、ずっと早くね」
 「だといいけれど」
 並んで横になったふたりは、空調のきいた部屋ですっかり汗が引き寝乱れた敷布に
くるまっていた。
 陽は沈み、建設作業は終了して、最後のセミの声が遠くから響いていた。
 悲しい声だった。
 「綾波」
 「何」
 「今夜、泊まっていっていいかな。疲れちゃった。もう、歩きたくないよ」
 「いいわ…碇君の寝相、知りたいから」
 シンジは微笑した。「僕もだ…起きたらふたりともベッドから転げ落ちてるんじゃないか、
なんて」
 「ミサトさんに、なんて言うの」
 「別に。疲れたから泊めてもらったって本当のこと言うだけさ。使徒の迎撃に
必要なんだ僕たちは。何をやってもあのひと達には僕たちを止めることはできないよ、
特にプライベートでは」
 「そう…そうなのね」
 その晩ふたりは抱き合って寝た。
 レイは、眠ることがこんなにも自分を癒すのだということを初めて知った。





+続く+




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