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Wounded Mass - ss:22

赤の喪失

 恐怖は自らの力で制御できないから生じるのだとレイは思った。
 使徒は人類の力では出現を阻止することも撃退することもできない。
 ただ、エヴァンゲリオンだけがそれを可能にする。そしてエヴァを操縦できる者は
チルドレンだけ。
 レイはプラグスーツを身にまとい、零号機のエントリープラグで漠然とそんなことを
考えていた。
 「使徒の動きは」「高度六千キロ上空を飛翔中、コース・高度とも変更なし」
「エネルギー反応なし、全波長帯クリア」「推定全長五十メートル、
推定全幅百五十メートル」
 「ミサト、どうする気なのよ、このままエヴァを錆びつかせるつもりじゃないで
しょうねえ」
 アスカは明らかにいらだっていた。
 「まあ待ちなさい」葛城ミサトは作戦司令室の巨大スクリーンに写しだされた使徒を、
腕を組んでみ上げながらぽつりと言った。
 もちろんアスカだけではなく特務機関ネルフの操作員、使徒を観測する戦自、
関係機関の全員が使徒の動きを注意深く観測していた。
 「待ちなさい、ってアタシがここに待機してもう1時間よ、何故使徒はあんな手の
届かないところから動かないのよっ」
 「零号機、弐号機、四号機は出撃準備。五号機は待機」
 「はい」
 「了解っ」
 「ハイハイ」
 「了解です、でもどうして私だけ?」
 「ヒカリさんはまだ完熟訓練が終了していないからね。今回は観測してなさい」
 「了解しました」
 「全部観測して記録するのよそれが今回のあなたの任務」
 「はいっ」
 「で、アタシ達は何をすればいいの、あれが降りてくるまで待てと」
 葛城ミサトは迷っている、とレイは思った。このまま戦局を膠着状態にするのは一番
よくない選択肢なのだ。時間が経過するほどに特務機関ネルフの能力に疑問を
持たれることになる。使徒が動かなければ、動かさなければならない。そして使徒を
殲滅しなければならないのだ。それが特務機関ネルフの使命なのだから。
 「アタシが出る」アスカが言った。「誘い出すのよっ」アスカはたたみかけた。
「このまま手をこまねいているつもりなのっ」
 「エヴァが目標になるだけかもしれない」
 「それでも戦局は動かせるでしょ、使徒があすこにいる限り、アタシ達はなんにも
できないのよ」
 「アスカ」
 「それにね、今のアタシにできることはそれしかないってこと、ミサトだって
承知しているんでしょ。ケーブル引きずってるかぎり、アタシはもう戦闘の第一線には
立てないのよ。そんな機体の使いみちといったら威力偵察しかないじゃない」
 この発言に至るアスカの心境は痛々しくてたまらなかった。レイはそんなアスカに
ある種の尊敬の念をいだいた。
 この時局で最善の策を取れる指揮官がはたしているのだろうか。葛城ミサトは迷って
いた。しかし、同時に何かしなければならないこともまた明白だった。
 「総司令」葛城ミサトは振り向き、一段高い位置に座る碇ゲンドウを見上げた。
「よろしいですか」
 「君に任せる」
 この一連の会話はすでに何度もくり返され、今では儀式と化しているとレイは思った。
 葛城ミサトは再び巨大スクリーンの使徒を見上げた。
 「弐号機、発進準備。超長距離ライフル準備。エヴァ弐号機、第三六ゲートに射出」
 レイは僚機が轟音とともに射出されるのを見送った。
 前回もそうだったが、使徒はエヴァに自分たちの武器を、手の内を見せなくなりつつ
あるとレイは思った。逆にエヴァから情報を取ろうとしているような雰囲気もあった。
今回の使徒もまた、単純な破壊と攻撃のためだけではなく、もっと別の目的を持って
現れたのではないだろうか。
 レイは映像情報だけにたよらず、アスカと弱い思念を交わして情報を収集していた。
 「気をつけて」
 「まかせときってねー」
 弐号機を掩蔽している扉が開き、アスカは市街の大通りに踏み出した。
 市民はすでに戒厳令下避難壕に収容ずみで、辺りに人の気配はなく、戦自の
対空火器が市街地を取り巻くように配置されているのが見えた。
 あの角度が下がれば、第三新東京市がそのまま標的になる。レイはそんな不吉な
思いを懐いた。
 その中心に弐号機は立っていた。
 弐号機のかたわらで掩蔽壕の扉が開き、武器を提供した。射程は全くたりないが、
特務機関ネルフの持つ最も高性能の長距離狙撃砲だった。
 弐号機は武器を構えると、使徒の接近に備えた。
 しかし、使徒は高度を下げなかった。
 そのかわりに、使徒は弐号機に対して細くて明るい、収束した光線を浴びせかけた。
光線は弐号機全体を包み込むくらいの半径で、一見すると探照灯で弐号機を照らし
出しているだけの様に思われた。
 「ぎゃああああああぁぁぁぁぁぁ」アスカの悲鳴が作戦本部をゆるがせた。
 「何なの、あの光線は」
 「不明です、エネルギー反応なし、熱も何も検知しません」
 「思考波だ」とレイは思った。使徒はアスカに精神攻撃をかけてきたのだ。
 「弐号機制御不能、パイロットの意識が混濁しています」
 「やめてーっ、アタシの心をー、心をのぞかないでーっ」
 「まさかあの距離で直接攻撃して来るなんて…」
 「ワシの出番ですか」
 「そうね、出てもらうわ。適当な武装は何にするか…白兵戦用の何か」
 「何や、頑丈な物の方がええな、プログレッシブナイフみたいなちゃちなもんやなく」
 レイは迷っていた。この精神攻撃はチルドレンの能力を振り絞れば防御し撃退できる。
しかし、もしそれを実行したら、チルドレンの思考の秘密を暴露してしまわなければ
ならなくなる。
 「助けてーっ、アタシの心が、アタシの心が汚されるーっ」
 「レイ」碇ゲンドウが直接命令を下した。
 「はい」
 「地下に降りて、槍を使え」
 「はい」
 レイは零号機を射出台から降ろし、セントラルドグマに通じる斜行エレベータに
向かった。
 セントラルドグマは特務機関ネルフの本部最下層に広がる巨大な地下空間の一角を
占めていた。
 そこはレイの生まれた寝台のあるのと同じ階で、方角は反対側だった。申し訳程度に
白い布の貼られたついたてで仕切られた一角が視線のわきをかすめた。思い出も
何もない殺風景な場所だった。
 レイはセントラルドグマの中心に進み、壁に張り付けられている上半身だけの
真っ白な巨人の前に立った。
 巨人は五つの目を持っていたが、うつろな瞳は何も見ていなかった。
 その胸に深々と打ち込まれた長い槍。槍は、途中からふたつに分かれた平行な刃を
持ち、その両方が巨人を壁に張り付けていた。空中に伸びる柄は二匹の蛇がからみあった
模様が彫り込まれていた。
 「ロンギヌスの槍」レイはつぶやき、零号機の両腕で槍をつかむと、力一杯引き抜いた。
 張り付けにされていた白い巨人はぐずぐずと壁を滑り落ち、床に横たわった。その姿は
骨のない軟体動物のようで、レイはいつか海岸で見たクラゲの屍体を連想した。
 そして、右手で槍を捧げ持ち、再び戦場への道を進んだ。
 「いやーっ、止めてーっ、私の心から出ていってーっ」
 「どういうビームなの、分析結果はまだ出ないの」
 「弱い光がレーザー状に収束している以外、検知できるエネルギー反応はありません」
 作戦司令部正面の巨大スクリーンは弐号機のエントリープラグ内のアスカを
写しだしていた。アスカは両手で頭を被い、背中を丸めてうずくまっていた。これでは
弐号機の操縦など全く不可能だ。
 「ダミープラグで遠隔操作できないかしら」
 「弐号機はダミープラグの受け入れを拒否しています」
 「どういうこと、拒否って」
 「…原因は不明」
 「零号機が四号機に槍を渡しました」
 「四号機、最短距離で射出、ただちに離床して使徒を迎撃」
 「了解」
 レイは反対側の僚機が轟音とともに消え去るのを見送った。
 「お願い、間に合って」レイの思いが届くかどうか、それは誰にもわからなかった。
 四号機はカタパルトの射出エネルギーを使い、ミサイル発射のようないきおいで
掩蔽壕から空中に飛び上がった。そして、不可視のサーフボードを操るような姿勢で
使徒に向かって急速に上昇を開始した。
 それは、翼こそ持たなかったが、あたかも黒い悪魔のように見えた。
 翼もなく、ジェットの噴射もなく、ただ巨大な半生命体が重力を軽々と無視して
去って行く。
 それは、それまでの人間の理解を越えた超科学、或いは魔法の力に思え、その姿を
見守る誰もが心の奥底に恐怖心を抱いた。
 何という不条理。今、人類の希望と未来を託されて、悪魔が使徒を迎撃し
殲滅しようとしているのだ。
 「四号機上昇開始」
 「推定速度毎秒二キロ…五キロ…加速中…7キロ…十キロ…依然加速中」
 「トウジ君、あなた大丈夫なの」
 「平気ですわ、舌噛みそうなだけや」
 「一五キロ…三十キロ…速度安定。三十五キロで使徒に接近中」
 「弐号機パイロットの心拍数低下血圧降下」
 「急いで」
 「使徒との接触想定時間あと百八十秒」
 「アスカ、あと三分、がんばって」
 「やめてーっ、アタシの心がー、観ないでーっ」
 「弐号機パイロット、精神錯乱しています」
 「いやーっ」アスカは抱えこんだままの頭を左右に振ってもがいていた。
 「だめ間に合わない」
 「トウジ君、直接攻撃の時間はないわ、そこから投擲姿勢にはいって」
 「そうか、投擲やなっ、了解しましたっ」
 「四号機姿勢変更、速度変化なし…四号機投擲射程内に侵入」
 「投擲っ」
 「シッ」
 槍は吸い込まれるように使徒に命中した。トウジの狙いはあまく、最初の軌道では
当らないのではないかと思われたが、槍はあたかも自らの意志を持つもののように
向きを変え、使徒の中心部を貫いたのだ。
 「…ロンギヌスの槍、使徒に接触」
 「命中…使徒の消滅を確認」
 「弐号機パイロット心停止」アスカを観察していた操作員が叫んだ。
 「CV」赤木リツコが命令した。心停止に対する電気刺激だ。
 「了解。充填、一、二、三…蘇生を確認」
 「除細動に注意して、一回ではまだ危険よ」
 「了解」
 「脳波昏睡状態」
 「苦痛に耐えかねて神経を自分で遮断したのね」
 「レイ、弐号機を収容するわ、手伝って」
 「はい」
 零号機が射出され、レイは零号機が地上に昇る圧力に耐えた。
 「四号機、そのままの速度を維持しつつ、下降にはいれ、必要な情報を転送する」
 「了解です、地球を一周ですか」
 「そうだ、それが一番早くて確実だ」
 「安心して一周して。人工衛星や地上局でずっと追跡しているから」
 「惣流はどうですか、間に合いましたか」
 「アスカは生きてるわ、安心して」
 「つまり、重傷ちうことか」
 「…否定はしないわ」
 「ロンギヌスの槍は」冬月コウゾウがたずねた。
 「槍は地球重力を離脱して飛行中、使徒との接触で飛翔エネルギーのほとんどを
失っており…月軌道に遷移しつつあります…こりゃすごい偶然だ」
 「回収は無理か」冬月コウゾウは身をゆらし、背をかがめて碇ゲンドウの耳元で
ささやいた。
 「しかたがない、あれを使わなければ使徒は倒せなかった」碇ゲンドウがぽつりと
言った。
 「老人達には何と説明するかな」
 「説明はなんとでもなる、今は使徒の殲滅が優先だ」
 ふたりは沈黙した。
 レイは自走式の収容車両に弐号機を乗せる手伝いをした。
 弐号機のパイロットは失神していて操縦の役にはたたなかった。
 レイはアスカの意識をさぐってみた。アスカは完全に意識を失っており、レイの
思念の呼びかけにも答えなかった。もっとも深い眠り…それは限りなく死に近い状態
だった。
 植物人間…嫌な響きだ、とレイは思った。肉体は生きていても心が死んでしまったら、
それは果たして生きる人間と呼べるのだろうか。レイは首をふってそういう悪い考えを
振り捨てた。
 赤い機体は屍体のようだとレイは思った。そして、弐号機に後ろから接近しケーブルを
はずすと、両腕を弐号機のわきの下に入れて固定した。収容車両のクレーンが弐号機の
両足をつかみ、台車に乗せ始めた。レイは地上の作業員の指示に従ってゆっくりと
弐号機を降ろし、台車に積みこんだ。
 弐号機の全体が弛緩して両手両足が伸びた。すかさずクレーンで固定された両足が
拘束され、上半身の拘束がそれに続いた。内部電源が停止し、弐号機は完全に機能を
失った。
 「ご苦労さん、レイ、もどって」
 「はい」
 東の空から四号機の黒い機影が轟音とともに降下してきた。すでに十分に減速しており、
その姿はみるみるうちに大きくなってきた。そして、零号機のかたわらにまるで
重量などないように軽々と着陸した。黒い機体には摩擦熱で生じた焼けこげの後が
あちこちにできていたが、機体そのものに対する影響はないように思われた。
 「四号機、帰投しました」
 「トウジ君、ご苦労様。どうだった地球を一周した気分は」
 「もう最高ですわ。アメリカなんか、護衛機まで随伴してくれようとがんばって」
トウジはくっくっと笑った。「ものの二秒で視界から消えましたわ」
 二機の前方に、斜行エレベータに通じる扉が開いた。
 「大丈夫、容量はあるから二機同時に乗ってちょうだい」
 「はい」
 「了解」
 斜行エレベータは一度に二機のエヴァを収容できるだけの容積と施設があった。
 二機は順番にエレベータに乗り込み、拘束具が音を立てて機体を固定した。そして
二機は地下に向かって降下を開始した。
 斜行エレベータの中でふたりは思念の会話を交わした。
 「使徒は思考波でセカンドを攻撃したわ」
 「ああ、あれはATフィールドでも防ぎ用がないんかな」
 「わからない、わたし達はATフィールドについてほとんど何も知らされていないし、
全体を把握している大人も多分いない」
 「リツコはんでもか」
 「多分」
 「惣流は」
 「一番深い眠りの状態。呼びかけても返事しない」
 「そうか」
 エレベータは轟音とともに格納庫に到着した。
 エントリープラグが引き出され、ふたりはLCL液を吐き出しながら外に出た。
 私服に着替えをすませたヒカリがふたりを出迎えた。
 三人は更衣室に向かって歩いた。
 歩きながらヒカリが口を開いた。
 「いいニュースと悪いニュースよ、どっちから聞きたい?」
 「ええ方やな」
 「碇君、もうすぐ目が覚めるって。検査ではどこも異状ないそうよ」
 「悪いほうは」
 「アスカ…意識がもどらないの。命に別状はないということだけど」
 「ワシらどうするかな、惣流の見舞いはできるんか、面会謝絶とかそういう話しは
ありか」
 ヒカリは首を振った。「誰でも会えるわ…ただ、目を覚まさないだけだから」
 「眠り姫かいな、碇の口づけで目ぇ覚させるいうのはどうや」
 「すずはら…っ」ヒカリは首筋まで赤くなった。
 「ワシにも一応、教養ちうもんがあるちうことや」
 ふたりは更衣室にはいった。
 レイはプラグスーツを脱ぎ、念入りにシャワーを浴びてLCL液を落とすと、
第壱中学校の制服に着替えた。
 更衣室を出ると、ヒカリはいつもの黒いジャージに身を包んだトウジと並んで
レイを待っていた。
 「アスカの容体は変ってないそうよ」
 「そ」
 「ワシら先に帰るわ。綾波、お前は碇のことみてやってくれ」
 「分かった」レイはうなずいた。「じゃ、さよなら」
 「碇君が目を覚ましたら、よろしくね」
 ふたりはレイを残してエレベータホールに向かった。
 レイは黙ってふたりを見送った。ふたりがレイを残したのは精一杯の思いやりだと
レイには分かった。
 レイはスカートをひるがえし、医療部に向かった。
 レイは看護士詰め所でシンジとアスカの病室を教えられた。
 壁一面に並ぶ映像の一つにアスカの寝姿が映し出されていた。
 「少し血圧が低いので、念の為に点滴しているの」と女性の看護士が言った。「いつ
目が覚めるか、この脳波ではねえ…ずっと深い昏睡状態が続いているから」
 レイは黙って看護士に頭を下げ、シンジの病室に向かった。
 病室の扉は閉じていたが鍵はかかっていなかった。
 レイはそっと扉を開き、寝ているシンジのわきに折り畳み椅子を出して座った。
 シンジの存在感があらためてレイを包み込み、その快感にレイは目を閉じて身を
ゆだねた。
 これでは、どちらが看病しているか分からない、とレイは思った。癒されているのは私。
レイは鼻をすすり上げた。
 シンジはその小さな音に反応したように目を開いた。
 ふたりの視線が交差した。
 レイの口から、自分でも予想もしていなかった言葉がもれた。
 「おかえりなさい」
 「…ただいま」
 それは、次の使徒に対する宣戦布告だった。





+続く+




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