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Wounded Mass - ss:18

愛のかたち

 碇シンジが極限にまで昇ったエヴァンゲリオン初号機とのシンクロ率という記録を
残して、エントリープラグの中から物理的にも精神的にも消え去ったとき、レイは自分が
シンジから見捨てられたような気持ちがした。なぜシンジはあれほど簡単に消えて
しまったのだろうとレイは思った。レイはシンジのことを世の中で一番必要としていると
信じていた。レイは、シンジはレイのことをそういう風には考えていなかったの
だろうかと疑いたくはなかった。
 レイの中のシンジはこの問いかけに本当に困ったようだった。そして、その問いに
答えることなく沈黙してしまった。
 レイは零号機の処理を作業班にまかせて作戦司令部に来ていた。今は葛城ミサトの後ろ、
隣にはプラグスーツを身にまとったままのトウジとヒカリが並んで立っていた。
 ふたりはレイと視線をかわし、何も言わなかったが心ではレイと同じ思いを伝えていた。
 「シンジの奴、どこに行ってもうたんやろ」
 「碇君…本当にもどって来るわよね」
 「…わからない」レイはそれだけ答えるのがやっとだった。
 正面の巨大スクリーンは初号機を映し出していた。
 今は初号機は自ら動こうともせず、特務機関ネルフの派遣した回収用の車両に横たわり、
車上に固定されるままになっていた。
 「碇君…」レイはもう一度呼びかけた。
 レイにも、隣のふたりにも、シンジの存在は確かに感じ取ることができた。それは
非常に希薄で弱々しく、今にも消えてしまいそうな存在感だったが、それでも
まちがいなくシンジだった。
 そして、レイの呼びかけは、これまでならかならずシンジに届いているはずだった。
 しかしシンジは答えなかった。
 巨大スクリーンは今度は弐号機を映し出した。
 弐号機は両腕と胴体が別々に回収され、車台に固定されていた。
 アスカの思念は昏睡状態を示していて、命に別状はなさそうだった。
 一晩休めば回復するだろうとレイは思った。
 「零号機と弐号機、どちらの修理を優先するか」葛城ミサトは隣の赤木リツコに
向かって言った。その視線は正面の巨大スクリーンを見上げたままだった。
 「初号機の装甲もあるわ」赤木リツコも正面の巨大スクリーンを見つめたままで答えた。
「とにかく全機回収中だから、そろったら順番に調べましょう」
 「零号機の腕と足も忘れず回収して」葛城ミサトはそれに答えず続けた。
 「回収班は作業中です」青葉シゲルが答えた。「足の回収は終了して、腕の回収作業に
かかるところです」
 「いいわ」そして時刻を表示するスクリーンを横目でちらりと見つめ、「日向君、
ドイツからの連絡が来るはずよ」
 「はい」日向マコトは片耳に手を当てた。「今はまだ何もはいっていません」
 「来たらすぐつないで」
 「了解」
 「ドイツから…」レイは思わず口に出した。「何の連絡ですか」
 「四号機よ」葛城ミサトは姿勢を変えないまま答えた。「このいそがしい最中に、
受け入れ態勢を整えないといけないって訳」
 「そろそろ格納庫も手狭になるし、最終整備も起動試験もここでやらなきゃ
いけないわね」赤木リツコが言った。「もう、松代は使えないから」
 「ええ」葛城ミサトは正面を向いたままうなずいた。「トウジ君、頼むわよ」
 「はいっ、葛城三佐」トウジは誰にも見られていないにもかかわらず、気をつけの
姿勢で葛城ミサトに敬礼した。
 「四号機と五号機には、下の階を割り当てることにするわ」赤木リツコは言った。
「射出用の施設は上の階と共用だから、同時には出られないけれど、まさか
五機同時出撃なんてことは想定しなくても大丈夫よね」
 「任せるわ。こちらはその体制で運用を考えるから」
 「ありがとう、葛城三佐」
 レイは赤木リツコの、葛城ミサトを階級で呼んだ口調にほんのわずかな皮肉がはいって
いるのを感じた。
 「葛城三佐、ドイツ支部からです」日向マコトが葛城ミサトを呼んだ。「話したい
そうです」
 「回線ちょうだい」葛城ミサトは受話器を取り上げた。「Hallo, wie geht es Ihnen?
Ich bin fein, danke」
 相手の声は聞こえず、ただ葛城ミサトの声だけが低く響いた。会話はひとしきり続き、
最後になった。
 「ja ... Ich verstehe. Versuchen Sie bitte Ihre beste Bem? hung ... 
danke, Auf Wiedersehen」
 葛城ミサトは受話器を置いた。
 「四号機の到着は明日一三〇〇。整備班はそれまでに受け入れ態勢を整えて。
向こう側でも十分過ぎるほどの検疫を実施しているし、これまでニ体の使徒が同時に
襲来したことはないけれど、参号機の二の舞だけは絶対に回避しないとだめよ」
 「初号機の収容が完了しました」青葉シゲルが報告した。「現場から
エントリープラグの処理について指示をあおぎたいそうです」
 「エントリープラグを排出してシンクロ試験格納庫に収めるのよ、回線接続以外の
操作は一切しないで。LCL排出はしない、当然ハッチも開放しない」赤木リツコが
答えた。
 「了解」青葉シゲルは命令を復唱した。
 「弐号機、十八番経由で収容します」伊吹マヤが報告した。「零号機の腕と足、
弐号機の収容後、同じく十八番経由で収容します」
 レイは自分が落ちつきをなくしていることに気づいていた。シンジともっと確実に
連絡を取りたいし、そのためには一人きりで誰にも見られない場所に行きたかったが、
一方ではエントリープラグの内部が実際にどういう状態になっているのかを映像でも
確認したかった。
 ともかくシンジとの接触を切らないようにしないといけないとレイは思った。
 「碇君、どうして答えてくれないの、どこにいるのか知らないけれど、そこがどうして
そんなにいいの、あたしといっしょにいるよりいいというの」レイは歯を食いしばった。
 「シンジの奴、よほど向こうが気に入ったんやな…」トウジの思念がわり込んだ。
「そんな気に入る相手というたら」
 「まさか」レイは思いもよらなかった指摘に動揺した。「碇ユイさん…」
 「ユイさんを直接知っている人から情報をもらう必要があるわね」ヒカリの思慮深い
思念が続いた。「綾波さんあなた言ったわね、赤木博士は危険だって…碇司令は論外、
とすると」
 「冬月副司令か、しかし、大丈夫かいな」
 「冬月先生の元々の専攻は形而上学的生物学」レイは知っている全ての知識から答えた。
「赤木博士とどちらが危険かしら」
 「実務を担当しているのは赤木博士だから、私は赤木博士の方が危険だと思う」
ヒカリの思念には確信が込められていた。「何が起きるかわからないけれど、それでも
私は冬月副司令の方がいいと思う」
 「実行は、いつがええかな…今夜か」
 「今はだめ」レイは鋭い思念を送った。「まだだめ」
 「なしてや」トウジの思念にはとまどいがあった。「ワシら三人では力不足か」
 「ええ」レイは肯定した。「あなたたちはまだ心の扱いになれていないから。
セカンドが復帰するまではなにもしないで」
 「しゃあないなあ」トウジは同意した。「それまでは互いの心で練習か」
 「練習、いいじゃない」ヒカリも賛成した。「苦手なんでしょう、練習。いいクスリだわ」
 「かなわんな」
 レイは心の中で微笑した。
 「初号機のエントリープラグ、処置が完了しました」青葉シゲルがどなった。
「プラグ内部の映像、出します」
 作戦司令部内に動揺の声が上がった。
 レイは映像の中にシンジの姿を捜し求めたが、写しだされているのは、着るものの
いない青と白のプラグスーツだけだった。スーツは打ち捨てられたように透明な液体の
中に所在なげに浮いていた。
 「シンジ君…どこに行ってしまったというのよ」葛城ミサトが信じられないという
口調で言った。
 「LCLのサンプルを採取、そうね五ミリリットルでいいわ」赤木リツコが指示した。
「すぐに私の部屋に送って。一ミリリットルずつ分離して成分分析し、さらのLCLと
比較表を作成する」
 「今のところ、ここでやれることはなさそうね」葛城ミサトはため息をついた。
「パイロットは解散、時間があればアスカを見舞ってあげて。トウジ君、あなたは明日
午後二時に格納庫に出頭して、四号機の起動試験を実施します。リツコ、なるべく早く
報告書をちょうだい、アイデアメモだけでも構わないわ。整備班は収容したエヴァの
損害を見積り、復旧の工程の短いものから順番に作業にかかること、他に何か必要なことは
あって」
 「完璧ね、葛城三佐」赤木リツコは答えた。「では大至急報告書をまとめるわ。できたら
連絡する」
 「よろしく」葛城ミサトは腕を組んだ。
 レイは葛城ミサトの指が真っ白になっていることに気づいた。葛城ミサトは今、
緊張の極地にいるとレイは思った。
 「行きましょ」レイはふたりに声をかけた。
 「む…ああ」トウジはまだ初号機のエントリープラグ内を漂うプラグスーツの映像から
目を離せないでいた。
 ヒカリがそっとトウジの腕をとった。
 「弐号機収用完了、パイロットを医療区に搬送中」伊吹マヤが報告した。
 「アスカ、大丈夫かしら」ヒカリが心配そうに言った。
 「葛城三佐に言われたわ。行きましょ」レイはくり返した。「医療区へ」
 「うむ」トウジもうなずいた。
 「葛城三佐、私達、アスカの見舞いに行きます」ヒカリが葛城ミサトに呼びかけた。
 「頼むわ」葛城ミサトは姿勢を変えなかった。
 この問題が一段落するまで、銅像のように立ち尽くしているつもりなのだろうかと
レイは思った。
 「こっちよ」レイはふたりを更衣室につれて行った。「プラグスーツはもういらない」
 トウジと別れて、レイとヒカリはプラグスーツを脱いだ。
 「何色にするつもりなの」レイは単なる興味からヒカリに聞いた。「支給される
プラグスーツの色」
 ヒカリは首を振った。「まだそんなこと考えてもいなかったわ」
 レイは脱いだプラグスーツを処理孔に落とした。
 スーツは小さな音を立てた。
 「そ」
 「まず、シンクロ率を上げるのが先決だわ」
 ヒカリも同様にプラグスーツを処理した。
 「あなたは大丈夫」レイは制服を着ながら宣託を下した。「私には分かるわ」
 ヒカリははにかんだように微笑した。「だといいんだけど」
 「戦うのが好きなの、あなた」レイはヒカリの発言に少し驚いた。
 ヒカリはうつむいたまま首を振った。「トウジと一緒にいられるから」
 レイは黙ってうなずいた。ヒカリの気持ちは痛いほどわかった。同時にヒカリが
好戦的な性格を隠し持っているのではないこともわかった。そして、ヒカリが着替えを
終え、制服のしわも伸ばしたのを確認して、何も言わずに更衣室を出た。
 廊下でトウジが待っていた。「まったく、女ちうのはなんでこう時間ばっかり
かけるんかいな」
 「女を待つのは男の仕事でしょ」ヒカリは受け流した。「さあ、行くわよ」
 三人は廊下でアスカを診察して来た医師に会った。今は眠っているだけ、明日には
退院できるでしょうと医師は三人を安心させた。病室はこの先、赤の五号室、もちろん
はいってもかまいませんよ、でも静かにして起こさないように。
 三人は医師と別れ、指示された部屋の扉に取りつけられた小窓から中をのぞき込んだ。
 アスカはあおむけの姿勢で眠っていた。
 「起こしてしまうといけないから、今日はここから見るだけにしましょう」ヒカリが
提案し、ふたりはうなずいた。
 「帰ろか」
 三人は本部の建物を後にした。
 「ふうっ」トウジは思わず言った。「まだあっついな」
 陽は沈んでいたが、熱気は残っていた。
 三人は軌道車両の駅にはいり、車両に乗り込んだ。そこだけささやかな冷気が三人を
包んだ。三人は黙って空いた座席に並んで座った。トウジの左側にヒカリ、右側が
レイだった。あっという間に軌道車両はレイの降りる駅にすべり込んだ。
 「綾波、ここやったな、ワシら次や」
 「さよなら」
 「気をつけてね、綾波さん」
 レイは黙ってうなずいた。ヒカリは心配ない。トウジが自宅まで送るとわかっていた。
諜報部員が三人を保護しているのもまた確実だった。
 レイはふたりの乗った車両を見送ることもせずホームから改札口を抜けた。
 建設機械の音はすでに止まり、宵闇の中に耳をすますと虫たちの発する小さな鳴き音が
流れていた。
 レイは歯を食いしばって歩いた。
 シンジの思念は相変わらず弱く薄く、何の感情も伝えずにレイの心の一番奥底に残って
いた。レイはそれが実は今はもう存在していないのに自分がまだそこにあると錯覚して
いるだけなのではないかと不安になった。すると、急にあたりの暗闇が自分を包み込んで
しまうような恐怖感に捕われた。
 街灯はぽつりぽつりとしか存在せず、道のりは歩くほどに遠ざかるような気さえしたが
レイは涙を流しながら歩き続けた。
 「碇君…碇君…」レイはそっと口に出してみた。
 返事はなかった。
 レイの部屋のある建物がいつのまにか眼前にあった。レイは建物にはいる前に
立ち止まり、建物を見上げた。
 真っ暗な空の中に、ほとんど電灯のともっていない建物は、屋上のあたりを空の中に
とけ込ませてしまったように思えた。その建物がぐらりと揺れたような気がしてレイは
思わず手がかりになるものをもとめて、道路際の電柱に片手を伸ばした。
 電柱に片手をつき、あらためて建物に向かってふりむくと、建物はたった今
崩れ落ちそうに揺らいだことなどまるでなかったかのように黒々とそびえ立っていた。
 レイはしばらくそのままの姿勢で深呼吸をくり返した。胸の動悸がだんだんと
落ちついてくる。上下する肩の動きがゆっくと止まった。
 レイは電柱から手を離し、けわしい表情で建物を見上げると、今度はまっすぐに建物に
はいって行った。
 エレベータは一回り小さくなったような気がした。ひとりで乗り込み、昇って行く
エレベータの速度はあきらかにいつもよりも遅かった。
 レイはときおり鼻をすすり上げ、変っていく表示階の値をじっと見つめて耐えた。
 やがて短い呼び鈴の音とともにエレベータは停止し、レイの降りる階で扉を開いた。
 レイは駆け出すようないきおいで廊下に出た。すばやく左右を見渡す。誰もいなかった。
当然だ。
 玄関の扉を閉じた時、レイは初めてこの扉に内側から掛け金をおろした。
 シンジの喪失感は、シンジが使徒に飲みこまれて完全に存在感を消してしまったとき
よりも、もっと気分が悪かった。
 あの時は、ある意味、あきらめることができたのだ。全てを黙って受け入れてきた
人生の、それはもうひとつの別れに過ぎなかった。レイはあの時、シンジを失った
ことを一時的にせよしかたのないこととして受け入れたのだった。
 しかし今回は全然違うのだ。
 レイは疲れ切って鞄を玄関に落とすと、靴も脱ぎ捨てて廊下の電灯を灯し、むっとする
熱気のこもった居間に進んだ。帰ってきたという安心感からか全身に汗がふきだした。
 レイは窓を開いて風が抜けるようにした。
 生ぬるい夜気が少しずつ部屋の空気を入れ換えて行った。
 レイは制服もシャツも靴下も下着も全部床に脱ぎ捨てて浴室に向かった。昼食を最後に
何も食べていなかったが食欲はなかった。レイはからの浴槽で熱いシャワーを浴びたあと、
身体を浴槽に長く伸ばして横たわった。シャワーの湯はそのまま浴槽にためていた。
そして、湯栓に切りかえて温度も下げ、くつろごうとした。
 レイはあごを上げて頭を浴槽の端にもたせかけ、天井を向いたまま目を閉じて涙が
あふれでるのにまかせた。
 ぬるい湯が少しずつ肌を昇ってきた。
 やがてたまった湯はあふれて排水口から流れ出はじめ、レイは湯栓をひねって湯を
止めた。
 シンジは行ってしまったのだ。自らの意志でレイを捨ててしまった。
 「すぐに帰ってくる」とシンジは言った。
 それは嘘だとレイは思った。シンジは初号機といっしょにいることを選んだのだ。
肉体の必要ない世界を自らの意志で選んだのだ。レイが行きたくても行けない世界に
行ってしまったのだ。
 初号機と接触しよう、とレイは思った。初号機がどんな状態であれ、そこには
シンジがいるはずだ。
 「こんばんは」
 「綾波さん」
 「委員長…鈴原君」
 「ワシ今ヒカリの家からもどったところや。今夜はどないに遅うなってもワシは構わん、
とことんつき合うで」
 「ありがとう」レイは心からの感謝の念を送った。「すぐにしたくするわ。準備が
できたら教えて」
 「ワシはいつでもええで」
 「私も」
 「わかった」レイは浴槽の中で立ち上がった。全身からしたたるしずくが床をぬらした。
湯を落とし、バスタオルで身体を拭いながらレイは居室に戻った。
 そして、生暖かく、少し湿気の残る風が室内をゆっくりとかきまわしているのを
感じながら寝台に横たわった。
 楽な姿勢を取るとレイは二人を呼んだ。「委員長、鈴原君」
 「おう」
 「はい」
 「行くわよ」
 レイは短く言って初号機に接触した。
 初号機は使徒の肉を食らってからというもの、眠ったように動かなかったが、
それまでとは違って完全に停止することなくエネルギー反応を送り出し続けて計器の
値をうごめかせていた。初号機は眠っているかのようだった。
 レイは慎重に初号機の気配を探った。
 すぐに手応えがあり、初号機との接触の感覚は今日初めて試みた零号機との接触の
感覚によく似ているとレイは思った。
 それは同時に使徒との接触の感覚にもよく似ているということだった。
 「なんや、えらい変った気分やな」トウジがのんびりした思念を送ってきた。
 レイにはトウジのその姿勢がせいいっぱいの努力の結果であることがよくわかった。
 「いいのよ、もっととまどって」レイは答えた。「私も、初めて使徒と接触したときは
もっと恐かったわ。もっと、ずっと恐かった」
 「綾波さん、勇気あるのね」ヒカリの賞賛の思念がとどいた。
 レイは静かに否定した。「勇気なんてない。碇君をみつけたかっただけ」
 「それが勇気ちうやつのことや」トウジはヒカリを援護した。「信念を貫くためなら
オノレの命を惜しまんことが勇気やないか」
 「そ」レイはもう否定しなかった。「行きましょ」
 そしてレイは初号機の心の奥深くに身を沈めた。「碇君、どこ」
 初号機の心は、いってみれば存在自体が希薄で輪郭があいまいな、捕らえ所のない
ものだった。
 それでも心の目をこらして観察すれば、それが今日の戦闘の記録であるとか、使徒の
肉を食いちぎり飲み下して得たS2機関の構成要件だとか、その行為を突き動かした
自己保存の欲求であるとかが読み取れた。
 「かなわんな」トウジが唖然とした思念を送ってきた。「初号機は自立行動可能になった
ちうことか…もうあのケーブルが不要なんや」
 「そのようね」レイは賛成した。
 「初号機は使徒の無限動力発生装置をあんな方法で自分の体組織に取込んだんだわ」
ヒカリの思念はぶるぶるとふるえていた。伊吹マヤがたまらずえずいたときの酸っぱい
匂いを思い出しているのだ。「今は外部からの電力供給がないのに、わたしたちは
こうして初号機と接触できている」
 「碇君、どこ」レイはまた呼びかけた。
 シンジの存在感はずっとあった。しかしそれはまるで広く薄く引き伸ばされたさざ波の
ような思念で、そこから何か意味を取り出すことはできなかった。
 「碇のやつ、どういうこっちゃ」トウジの困惑した思念が伝わった。「なんや、初号機の
心と混ざりあっとるような」
 「そうね」ヒカリも賛成した。「碇君は初号機と柔らかく一体化している、そんな気が
する」
 「思考の境界線がとてもあいまいだからひとつに感じるのよ」レイは否定した。
「よく観察すれば別々の存在だとわかるはずだわ」
 「碇君」レイはもう一度呼びかけた。「返事して、碇君。あなたの存在を感じるわ」
 三人は無言で思考の触手を伸ばした。
 「あ・や・な・み」
 「碇君っ」
 シンジの思念はほとんど機械的で、全くといっていいほど感情がこもっていなかった。
眠っているようでもあり、何か別のことに集中している上の空の時のようでもあった。
 「碇君言ったわね、すぐに帰ってくるって…いつまで初号機と一緒にいるつもりなの」
 シンジはしばらく返事をしなかった。聞こえていないようでもあり、
答えを捜しているようでもあった。
 レイはシンジの存在のさざ波が少しだけ大きな波になることがあるのに気づいていた。
シンジは少なくともレイのことを無視してはいないとレイは思った。
 「あかんなぁ、シンジの奴」トウジの落胆した思念が届いた。「もうワシらに興味も
感心もないんかいな」
 「鈴原君よく観察して」レイは答えた。「碇君の思考、さっきより振幅が強くなっている
部分があるわ」
 「ワシにはわからんがなあ」トウジの答えはレイを落胆させた。
 「心の扱いは慎重に繊細にしないと大切なことを見落としてしまう」
 「トウジ、あなたこれを見分けられないと本当にまずいわよ」ヒカリがたたみかけた。
「よおく見て」
 トウジの急に切迫した思念が伝わってきた。「これか…ワシにはほとんど同じに
見えとったが…よお気づくな、自分」
 レイはヒカリとトウジの観察力に感心した。そして、賞賛の念だけふたりに送りながら、
自らはそのつぎ目に自身の思念をねじ込み、初号機とシンジの合体した思念のかわりに
その内側のシンジだけと接触しようと試みた。
 レイの思念をふたりが取り囲んだことがわかった。初号機やそのほかの雑音を遮断して
くれているのだとわかって、レイは感謝した。
 レイはあらためて思念を集中し、シンジの存在を確認した。「碇君…私のこと
わかるかしら、碇君」
 「綾波…」
 シンジの存在の手応えはやや確かになったものの、その意識はやはりもうろうと
しているように思えた。
 レイは歯ぎしりした。
 「碇君しっかりして碇君っ、約束を守って、すぐに帰ってくるって言ったでしょ、碇君」
 「綾波、ええ…ああ、そこにいたんだ、綾波」
 「碇君、何言ってるの、私ずっと呼び続けていたのよ、聞こえなかったの、碇君」
 シンジの意識はほとんど変化がなかった。
 「綾波もこっちおいでよ…僕は…」
 「何、碇君、碇君は、なんなの?」
 「…あたたかい…」
 レイはシンジの思念の一番はっきりした部分にまとわりついた。「あたたかい?あなた
あたたかいの、碇君」
 「綾波はあたたかくないかい、だったらあたためてあげるよ」
 シンジは初めてレイに積極的な反応を示した。
 レイはシンジの誘いに応え、心の結びつきをより強くできたことにほっとした。「碇君、
それどういう意味なの、あたたかい、って」
 シンジの答えは途切れた。
 また、答えを捜しているのだろうかとレイは思った。
 どうしたらいいのかレイにはわからなかった。待てば何か答えてくれるのだろうか、
答えを促す方がいいのだろうか、それとも別の質問をしたほうがいいのだろうか…
 「綾波、自分でためしてみてよ」
 シンジはついに返事をくれてレイを悩みから解放した。
 「自分でためす、って…どうやって」
 「おいで…」
 シンジは初めて自発的にレイに対する行動を起こし、レイをさそった。
 レイはシンジの心がレイに向かって開かれた部分に接触した。
 「これで、いいのかしら」
 「おいで」シンジは再び招いた。
 レイは従ってシンジとの交流を密にした。
 レイの心に、正にあたたかい感情が広がってきた。「これは…碇君なの」レイはとまどい、
うろたえた。意志のないあたたかさ。それは、レイには想像のつかなかったものだった。
シンジはこのあたたかさのシャワーの中でまどろんでいるのだ、痛みも、悩みも、悲しみ
もなく。ただ、安寧に。レイはその感情を全部受け入れた。シンジがいた。レイは
幸福感を感じた。シンジといっしょにいられるだけで満足だった。何もいらない、
望むものはない。レイは自分自身がシンジと溶合い、輪郭がぼやけ、シンジと一体に
なっていくのがわかった。
 さらにその奥には初号機の心がたゆたい、ふたりと一体化していった。初号機の心は
広く深く、ふたりの心をあたたかく迎えた。
 ただいつまでもこのままでいられればそれでいい。レイの心はおだやかだった。
 やがて、レイ自身の意識はシンジと初号機とまじりあい、自分が誰なのか、どこまでが
自分なのかの意識が遠ざかっていった。
 「綾波」
 「綾波さん」
 レイははっと我に返った。
 ヒカリとトウジがレイを包みこんでいた。
 「委員長…鈴原君…」レイは口ごもった思念を送った。「私…」
 「あんまり長いことなんもせえへんから、どうしたんかと思うてな、声かけてもうた。
一応ヒカリと相談はしたんやで」
 「心配したのよ、私達」
 「ごめんなさい、ありがとう」レイは後ろ髪を引かれる思いで自分自身を再構成した。
「碇君、私といっしょに来ない?」
 シンジは返事をしなかったがレイはそれを半ば予想していた。
 「あなたたちがわたしを包んでいてくれたから、帰って来られたわ」レイは
シンジとの接触を切った。「本当にありがとう」
 「ええことしたんかいな、ワシら」トウジの思念には照れがあった。
 レイはそんなトウジが好きだった。
 「わかったわ」レイは報告した。「碇君がどんな状況なのかよくわかったわ」
 「教えて」ヒカリが先をうながした。
 「碇君は今、初号機の愛に包み込まれてその中に安住しているのよ。あらゆる欲望が
満たされた夢のような世界が、碇君には現実のものになっているのよ」
 「碇の奴、そこから帰りとうないちうわけやな」
 レイは肯定した。「どうしたら碇君を現実にもどる気にさせることができるのか、
見当がつかないわ」
 「愛しているのでしょう、綾波さんだって。碇君のこと」ヒカリが指摘した。
「アスカだってそうよ。明日になってアスカが動けるようになったら、二人でもう一度
呼んでみれば」
 「わからない」レイは考えた末答えた。「私達の愛は求め合う愛、そして初号機の愛は
包み込む愛。そして碇君は包み込む愛を選んだ。おそらく私達の愛では碇君を
呼び戻すこと、できないと思う」
 「明日また、やってみんかい、四人で」トウジがとりなすように提案した。
 レイは同意の意志を送ったが、その心は暗かった。





+続く+




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