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Wounded Mass - ss:09

ヒトの価値もなく

 三つの欲が満たされて、初めて満足な生活という実感がするのかな、とレイは思った。
 ミサトのおごりで食べたラーメンは味はそこそこで、ともかく満腹したことにレイは感
謝した。感謝するという感情もまだあまりなじみのないものだったが、レイはこういうと
きにすべきだということはわきまえていた。
 「ごちそうさま」レイはわりばしを置いてミサトに向いた。
 「どういたしまして、レイ」ミサトは上機嫌だった。「このくらいなら、いつだっていい
わよ」ミサトはティッシュの箱から優雅な手つきで一組のティッシュを抜き取ると口元を
ぬぐい、どんぶりに放り込むと両手をついて立ち上がった。「帰ろっか」
 「さよなら」レイは鞄を持った。「私こっちだから」
 「送ろうか、綾波」シンジが心配そうな顔で言った。「もう暗いけど」
 「大丈夫よ」ミサトが笑顔でシンジに言った。「安心して、ちゃんと」
 ミサトは言いよどんだ。
 「そぅか」シンジはあいまいにうなずいた。「じゃ、綾波、気をつけて」
 「みんなも」レイは歩き始めた。
 「さ、あたし達も帰ろうか」
 後ろでミサトの声がした。
 レイはミサトの心の中が手に取るように分かった。アスカの言っていたことは本当だっ
たのだ。
 ミサトはサイフの中身が思ったよりも減らなかったことに喜び、思わずチルドレンにつ
いている諜報部の存在を漏らしてしまいそうになったことをどう繕うかに一生懸命だった。
 レイは自分に諜報部の護衛がついているのはすでに気がついていたし、その件について
シンジと話したこともあった。それが護衛なのか保護なのか、それとも監視なのかは
二人とも判然としていなかったが、少なくともその全部を目的にしていることでは意見が
一致していた。その優先順位については考えないことでも意見は一致していた。
 ぽつり、ぽつりと街灯の明かりが照らす道をレイは歩いた。地上車がレイを
置き去りにし、轟音を残して走り去った。一台、また一台。対向車はなく、
赤い尾灯が小さくなって消えた。
 レイは暗闇の中に潜んでいる諜報部員のことを考えた。徒歩だろうか、自動車だろうか。
多分自動車だろう、どんな場合にも対応できるようにしているに違いないから。
 そして、ねっとりとした夜気のぬるい風を頬に感じながら、心の触手をあてどもなく
伸ばしてみた。
 これまでは、その対象は自分の心か、そうでなければシンジだった。それからアスカが
加わった。
 今夜初めて触手をミサトに伸ばしてみた。
 ミサトは心を覗かれていることなど最初から最後まで想像も意識もしていなかった。
 先程のその記憶を思い起こし、レイは眉をひそめた。
 ミサトの心は確かに読めた。その、感触が余りに違っていたことにレイは
とまどったのだった。シンジやアスカ、そしてレイ自身の心と比べると、ミサトの心は
チルドレンに足る潜在能力の存在に疑問を持たざるを得なかった。どう、違うのかを
レイは考えた。
 無垢、単純といった単語が表れ、消えていった。そして最後にレイの得た結論は、
ミサトがチルドレンの持っている心のつながりの能力を、鱗片も見せていないと
いうことだった。
 レイは、シンジから得た、アスカの最初の記憶の滲み出しの時の状態を思い出し、
ミサトの心と慎重に比較した。
 アスカはまだ自分にそういう能力があると自覚していない時だったのにもかかわらず、
心の奥底には、すでにふたりとの心の交流を可能にできると示唆している隠れた構造の
存在を示していた。
 ミサトにはそれがない。レイは自分の捜し方が足りないせいかと思った。
 しかし、ミサトにチルドレンの素質があると言ったのはシンジで、今思うとそれは
想像に過ぎない。
 レイはそこから必然的に導かれる結論の裏づけを求めて心の触手を伸ばしたのだった。
 レイは片手に鞄を提げ、いつもと同じ歩調を保つようにつとめ、平静を装いながら心を
あちこちにさまよわせた。
 確固たる目標や目的があったわけではない。しかし敏感になっていたレイの心には
レイの名前を思い浮かべている心の持ち主が次々に飛び込んできた。心を同調させるのは
シンジやアスカに比べると簡単ではなかったが、ミサトで体験済みだったので
やり遂げることができた。
 その四人全員をレイは知らなかったがそのことに驚きもしなかった。
 それでは、私を護衛してくれている人は、今は最低四人いるというわけね、とレイは
思った。
 四人全員の心を一度に読むのはレイの手に余った。そこで、特に理由はなくひとりを
選んで心の触手をいっそう伸ばしていった。
 狭い場所の冷房は気分がよくないラーメンの匂いがここまで漂ってくるじゃないか暗い
対向車に気をつけて昨夜の女はあれはよかった目標は異常なし定時報告まであと十一分打
ち込みよし渇いた喉ビール煙草煙草煙草後で後で後で目標は移動中暗い対向車のライトま
ぶしい冷房もう少しきつく交代まであと一時間半次の監視位置に移動開始左右確認発進注
意信号機緑緑緑緑後方確認計器確認異常なし昨夜の女は最高目標移動中目標移動中異常な
し右足が重いガム踏んだかな尾行確認お前モバイルブラボーの位置確認してるな止まれの
標識制限速度確認視力落ちてる要検査交代したら筋トレか
 レイはあやうく目がくらんで倒れそうになった。
 ちょうど交差点で信号待ちになったのを幸い、レイは何気なさそうに電信柱に身を
持たせかけて平静を装った。
 自分が見られている対象に異変を気取られてはならなかった。こんなことになると
分かっていたら、部屋にもどってから試したのにとレイは後悔したがすでに遅かった。
レイはこの新しい体験に夢中になっていた。
 これまでのシンジとアスカとの交流はある意味注意深く規制された交流で、地上車の
運転にたとえれば免許をもって公道を順法運転しているようなものだった。互いの心の
奥底の、隠された内容に立ち入らないような慎み深さを前提にして、それでも互いに
自分自身を納得の上でさらけ出し、記憶や感情を時系列、あるいは発信側の優先順位に
したがって交換しているといった秩序だった統制、管理があった。
 ミサトの心を覗いたときはもっと違った緊張感とより強い好奇心があった。ミサトは
最後までレイがミサトの心を見ていることに気づかなかったし、レイもまた、ミサトが
その時その時に持つ最も関心の強い話題がなんの脈絡もなく浮かんでくる心の表面を、
まるで谷を挟んだ反対側の尾根から双眼鏡でのぞいているような注意深さで
観察していたのだった。
 今はそれまでの経験とは全く違った、もっとあけすけで強引な、観察というより
査察といってもいいほどの容赦ない接触だった。
 逆にその強引さで取り込んだ諜報部員の感情の大波がレイの心の中に轟音とともに
うずを巻いてなだれ込み、そのいきおいにレイは圧倒されてしまったのだった。
 信号が変った。
 レイは寄りかかっていた電信柱からむりやり身体をひきはがすと、何事もなかった
ように白と黒のまだらの横断歩道を渡った。
 交差点に信号を待つ地上車はなく、レイと同じ方向に向かう地上車が一台、積載量に
押しつぶされそうな排気音を残してのろのろと走り去っていった。
 信号を待っている間に、レイは何とかこの情報の狂暴な奔流を整理して管理し、
感情の激流に押し流されないようにすることができるようになっていた。そして、
自室に向かう最後のゆるい坂を登りながら被験者とした情報部員の記憶を端から
全部吟味していった。
 諜報部の上部組織はネルフ司令官で、直属の組織だった。構成員は五百名余り、
大部分は全世界をいそがしく飛び回って情報収集に務めている。チルドレンには一人
あたり十六名が専従となっていて一日三交代で勤務している。
 レイは情報部員がレイ自身に対して個人的な興味をみじんも持っていないことに
感心した。極めてよく訓練された職業軍人なのだ。
 これだけの人数をどうやって調達したのか、その背景は入手できなかった。
情報部員は自分自身の戦略自衛隊出身の過去については何一つ隠さず明かしたが、
二台の地上車に分乗している残りの同僚や、その他の部員に関する素性を一切
知らなかった。興味もなく、話しあったこともない。ただ、諜報部に異動するに
あたって受けた訓練と、その状況は興味深いものだった。
 情報部員は選抜と称して他の何人かの同僚とともに北米の基地でいろいろな国の
軍人と供に数ヶ月間に渡る、相当数の脱落者を出すような厳しい訓練を受けていた。
その地で、教官から伝えられた内容は、次のようなものだった。訓練員はみな原隊から
選抜された最も有能な隊員であり、これまではそれぞれの属する国家と国民のために
戦うための訓練を受けてきたが、これからは全人類を等しく守るための最も崇高な
義務に己を捧げることを要求されているのだ、と。この任務につくことのできる人間は
全世界の軍隊全体の中でわずか千名を下まわる人数でしかなく、したがってこの訓練に
耐え抜いた者は皆、精鋭中の精鋭兵であり、それに誇りを持たなくてはならない、と。
ここにいる者は従って選ばれた者であり、これから就く任務は選ばれた任務である。
諸君はこの任務を遂行することにより選ばれた目的を全うできるのだ。
 情報部員は自分が完全に洗脳されていることに全く気づいておらず、その正しい
目的のためならどんな行為も正当化されることを信じて疑わなかった。
 レイはそこまで読んだところで吐き気がしてきたが、がまんしてアパートの玄関を
くぐり、エレベータを呼んだ。
 目標建物内に移動異常なし警戒続行
 やはり建物の外から警備していて、内部までは監視していないことがあらためて
確認できたのは収穫だった。
 レイはエレベータの壁に背をもたせかけてあごを上げ、大きくため息をついた。
そして口を閉じ、あらためて息をついた。
 エレベータが目的の階に到着して扉が開くとレイはあごを引いて廊下に出た。
 いつものように廊下は無人でレイ一人がいろいろな方向に短い影を引いて立っていた。
 レイは無言で自分の部屋に進んだ。
 玄関の扉を開いて中にはいると、暗闇の中に天井灯の淡い灯が光っていた。
後ろ手に扉を閉じ、靴を脱ぎ捨てて室内灯を点ける。
 こもった熱い空気がレイを包んだ。
 レイは室内に進み、窓と雨戸をいっぱいに開け放った。
 外気も決して涼しくはないが室内よりはよほど気温は低く、その生暖かさでさえ
レイは心地よく感じた。
 目標窓雨戸開放
 ああ、あなたこちら側にまわったのね、とレイは思った。
 急に脱力して、レイは服を着たまま寝台に倒れ込んだ。
 諜報部員の心を分析するのに体力を使いはたしてしまったのだった。レイは寝返り
を打つ気力もなく、半身の姿勢でしばらく動けなかった。
 そして、そんな状態でも、まだ先程の諜報部員の心をしっかりとつかんで放さず、
諜報部員の心に浮かび上がってくる取り留めのない思考の流れを、放送を聞くように
聞き耳を立てて受け止め続けた。
 しばらくしてレイは片ひじをついて上体を起こし、のろのろと制服を脱いで床に
落とした。そして、シャツや下着も順番に全部脱ぎ捨て、大きく深呼吸すると浴室に
向かった。
 シャワーを浴びる気力もなく、レイは浴槽に身を伸ばして湯を落とした。
 湯はレイの後頭部のわきから流れ出て両肩を叩き、背中に沿って浴槽の底に溜まって
いった。
 レイは頭を前に下げて首のつけ根に湯を浴びながら、情報部員の記憶をさらに深く
走査した。
 しかし、レイはその情報部員の心を人の心はこれほど狭いのかと驚かされるほどに
簡単に全部汲みつくしてしまった。
 レイは自分の心やシンジの記憶と比較してこの情報部員がどれほど刺激の少ない単調な、
いわばつまらない人生を送ってきたかということに驚いた。過去の蓄積は完全に
忘れ去られ、どんなに細かくどんなに詳しく調べても痕跡も残っていなかった。
 レイはやっと膝を覆うくらいまで溜まった湯に両手を差し入れ、少しすくって顔を
濡らした。
 ずっと顔の表面にこびりついていたねばつく汗の感触が洗い流され、それといっしょに
自分の頭の中の霧がかかっていた部分が晴れたような気がした。
 レイはより明敏になった感覚で改めて情報部員の記憶を調べなおした。この記憶の
欠落はあまりに不自然なのだ。レイ自身決して刺激の多い生活を送ってきたわけではない。
特に育成槽から出されてしばらくの間、エヴァンゲリオンとのシンクロテストを始める
までの間は、育成槽の前を申し訳程度のつい立で仕切られたベッドが世界のほとんど
だった。
転校という名目で第壱中学校に通うことになり、このアパートを指定されて住むように
なってからまだほんの数ヶ月にすぎない。
 それでもレイの記憶は育成槽から出されて目を覚まし、自分と、自分を取り巻く世界を
意識したときから今日の今まで途切れることなくつながっていた。
 一方この諜報部員には、過去の記憶がなかった。
 信じられない思いで、レイはもう一度諜報部員の記憶を注意深くさかのぼっていった。
そして、戦略自衛隊に入隊する直前の時点で、それ以前の記憶が注意深く消し去られて
いる場所に気づいた。そこはあたかも自然に忘れてしまったように見せかけられて
いたが、レイは残された記憶の不連続な断面から、人為的に処理されたものだということに
確信を持った。
 方法は分からなかった。おそらく薬品か、電気療法も使われただろう。そして、何度か
くり返して実施された処置のために、それより以前の過去はあたかも存在していなかった
かのように消し去られてしまったのだ。処置の場面は何度かおぼろげな記憶となって
残っていたが、諜報部員はその処置を命令した者も知らず、処置を実行した医師と
思われる白衣の人々も面識がなかった。その目的も分からなかった。
 両親や親族も知らず、家族もおらず、親友も幼なじみもいない、孤独な生活。社会に
出る前の学生時代の記憶も放課後の遊びも忘れ、家族との団欒の記憶もない。あたかも
レイ自身のように、育成槽から出てきた複製品のように。
 いつのまにか両方の目から涙があふれ、両頬を伝って湯の中に溶けていった。
 レイは湯栓を閉じ、静かになった浴室で、頭を後ろにそらし、浴槽のふちに乗せて目を
閉じた。涙は止まらず、レイは鼻をすすりあげた。
 人間として生を受けたはずの存在が、自分のような単なる複製の人格よりも人間から
遠い存在になっている事実がレイを打ちのめした。自分よりも不幸な身の上でありながら
そのことに気づいていない存在が、レイには信じられず受け入れられず理解できなかった。
人間が同族に対して尽くせる暴力の限りにレイは恐怖し嫌悪し憎悪した。何が人間性か、
人類が数千年にわたって育んできた倫理観とはこんな薄っぺらいものだったのか、
それともこの残酷さこそが人類の本質だということなのか。使徒は何者なのか、何故
侵攻してくるのか。このような忌むべき存在を地球上から消し去るための尖兵なのか。
人間は存在すら認められない罪人なのか。誰が裁くのか、いかなる権限で裁定を下すのか。
自分はこんな最低な存在を使徒から、裁きの主から守るために命をかけているのか、
なんと虚しいことだろう。レイはもう耐え切れなかった。
 「助けて…」レイはシンジに呼びかけた。
 「綾波」シンジすぐに応えた。「綾波、呼んでくれるの待ってたよ…綾波の心が
あんまり激しくゆれるから、ここまで届いてた。何をしているか全部分かったよ」
 「碇君、私そんなことしていたの」レイは涙でうるんだ目をこすりあげた。
 「ファースト、しっかりしなさいよ」アスカが割り込んできた。「アンタには
アタシ達がいるんだから」
 「ええ…」レイはもう感情を抑えきれなかった。言葉があふれ出た。「碇君…セカンド…
私もうだめ…支えて、そこからでいいから、一人にしないで。忘れさせて今夜のこと」
 「…綾波」
 「フロにはいってるんでしょ、全身の力ぬきなさいよ」

 その夜、レイの嘆きは全世界を覆い尽くしたが、それに気づいた者は二人だけだった。
レイにとって一番大切な二人だったことが唯一の慰めだった。





+続く+




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