Track 18. 『イエスタデイ』チェリー





 スーツを着た時田氏とセーラー服を着たユイが並んだ姿はとても違和感のあるものだった。祖父と孫娘に見えなくもないし、かといって援助交際をしている女子高生といった風でもない、やはり金持ちの老人とその高級な愛人、に見えると僕は思っていた。

 時田氏が指定したホテルのロビーで僕たちは落ち合っていた。手短に挨拶し、すぐさま取引のための交渉に入る。

 ホテルマンはあくまでもビジネスライクに応対し、怪しげに訝しげに僕たちを見るというようなことはしない。カウンターの向こうからこちらを見つめる視線もない、彼らもプロなのだから当然のことだ。チェックインの手続きを待っている他の客たちもこのホテルの格に見合った高級な者たちだけで、下賤の民のように興味本位に僕たちを見ようとはしない。

 僕は自分が何者なのだろう、と今更に思っていた。

 あたかも、金持ちの長者に女を紹介するポン引きにでもなったかのような気分だ。

 僕はユイたちに心配ないと言い、ユイはそれに笑顔で答えた。その笑顔は僕を安心させると同時にこれ以上なく強く惹きつける。

 ユイたちはこれから、普通の子供が踏み込まない領域へ身を投じる。時田氏による新人類の研究、ユイたちはその対象となるのだ。そして僕は彼女たちが恋する男。僕は自分がここにいることに違和感を覚え始めていた。俺は部外者だぜ、用を済ませたら早いとこ消えろよ。
 同時に、僕は自分をもがこの謎に満ちた世界に足を踏み入れているといった感覚も覚え始めていた。国家レベルのプロジェクトに俺も参加する、俺は一般人とは違う。

 僕はセーラー服の襟をなびかせてステップを踏むユイの姿に見とれていた。

 綾波、君はきっとわかっていたのだと思う、

 僕は心の中で彼女に語りかけた。それは僕の自己満足に過ぎないかもしれないが、心の中では僕は綾波と同居していた。
 新たな人類として、人々を導くために自分は女神になる。そんな想いが、彼女を男相手の仕事へと駆り立てたのだと思う。家庭事情ももちろんあったが、もしそれがなくても彼女はいずれ似たような環境に身を置いていただろうと思う。そして僕に出会い、恋をし、そして僕をこのプロジェクトへと導いただろうと思う。

 綾波、今度会うときは僕とも踊ってくれ。

 時田氏は報酬の前払いだと言って僕に封筒を渡した。中身は分厚い、決して少なくない額の紙幣が入っているのがすぐに分かった。僕はそれを慎重に、自分のスーツのポケットにしまう。

 僕は彼女たちを売った?

 まさか、そんなわけないだろ。この金は正当な対価だ。金なんかに意味はない、あるのはそれは互いの信頼の証だ。

 ユイの頬を見つめる、マナの後れ毛を見つめる。

 僕は数日前にユイから知らされた。

 答えは決まっている。女ならレイ、と名づける。
 それが彼女の、接触者としての使命であると僕は思い、そして彼女も同じように思っているだろう。彼女が体内に感じるという生き物は彼女たち自身の心の投影として、自らの姿を似せて彼女を導いていたのだ。

 ユイは、綾波の記憶を使徒によって伝えられた。
 マナは、渚の記憶を使徒によって伝えられた。

 二人ともが彼らの生まれ変わりであると思う。

 第拾六使徒、第拾七使徒。
 彼らは僕に伝えようとしていた、それは今になって叶えられた。僕は彼らの願いを聞き届け、そして叶えようとしている。
 それが時田氏に彼女たちを紹介することであり、そして時田氏は彼女たちの願いを叶えるだろう。

 僕にできることはここまでだ。

 僕は1年後には39歳になるし、その頃にはユイとの家庭を築いていると思う。ユイ、一条ユイ、綾波レイ。綾波レイ。

 許されることではないと分かってはいるが、それでも僕たちにとっては十分だ。

 彼女に宿った新たな命を、僕は育てていこうと思う。

 想い出が昨日のことのように思い出される。
 イエスタデイ、想い出は昨日のことのように。あの手紙で第3新東京市に呼び出され、ミサトさんと出会い、父さんと再会し、綾波レイと出会い。それから約一年間の想い出が昨日のことのように思い出される。想いに距離はあるが、それはこうやって簡単に動かすことができる。僕は綾波との想い出を昨日のことのように思い出し、それはユイたちとの距離を縮め、そして綾波への想いをも蘇らせてくれた。

 ユイとマナが時田氏にエスコートされてエレベータの中に消える。
 僕はユイたちを見送ってからホテルのエントランスを出た。ロータリーにはいかにも高級そうに磨きこまれたハイヤーが群れを成し、僕はその中に紛れ込んだ自分の車が場違いなところに迷い込んだように思えて笑みをこぼした。
 今更のように、僕はユイに対して感謝の念を抱いていた。僕を無気力から救ってくれた少女としてだ。ユイに出会ったことで僕は自分と向き合うことができたのだ。ユイに出会い、綾波を思い出し、それが僕の意識をもう一度過去へと向けさせ、綾波への思いを確かなものに変えさせ、そうして今は未来へ向けて、僕はユイとの未来へと歩みだそうとしている。
 S2000に乗り込み、キーを回してスターターボタンを押す。起動したエンジン音は金属を震わせるように響き、僕はしばしの間サウンドを味わってからゆっくりと車を発進させた。ハイヤーの運転手たちはそれぞれに、車の中で居眠りしたり窓を開けてタバコをふかしたり、音楽をかけたりしている。僕はそんな彼らと一つも変わりはしない。僕はこれから多くの人間たちの群れの中へと紛れ込む。

 同じ人間なんだ。何も変わったことなどあるわけない。

 やっていることが違う、仕事が違う、くぐった修羅場の数が違う。
 その認識が人間を形作るし、だから今の僕がある。僕は自分自身の事を忘れかけていた。風化しかけた想い出によって無気力に落とし込まれ、自分を見失いかけていた。それは覆しようのない事実として認めなければならない。三十代も終わりに近づいて、それでもなおこんな絶望感に浸っている自分自身を認めなければならない。

 絶望、という言葉に僕は引っかかるものを感じていた。
 希望とはなんだ?未来への希望、人類の希望。そんなものはどこにある?あるのはただ、日々降り積もる絶望だけだ。それが事実なんだ。絶望によってこそ人は生きることができる。ユイたちの姿を見ていればなおさらに分かることだ。彼女たちの生き様に希望などない、あるのはもろく儚い想いの交錯だけだ。
 未来はいつも絶望とともにやってくる。その未来に恐れることなく立ち向かい、いや、恐れるとかそういう感覚を持つこと自体が間違いなのだ。すべてを受け入れてそうして初めて正しく向き合うことができる。考えてみてくれ、将来に希望がある、未来はバラ色、そんな妄言を本気で信じることのできる人間がどれだけいるのか?僕は少なくともできない。あるのは不安だけだ。ユイが時田氏の研究によって何某かの真実を手に入れたとしてもそれが僕にとってなんの力になるわけではないし、新曲を出したところでそれが僕の心を埋めてくれるわけでもない。心を埋めていくのはただ、ひたすらに自分は無力なんだという絶望だけだ。
 無力だ。この歳になってまでそんな事を感じるとは思わなかった。僕は無力だ。ユイとのことでさえ、彼女の真実をつかむことは時田氏でなければできないだろうし、僕の新曲も彼女なしには書くことができなかった。僕でさえそうなのだ。会社という組織を経営し、自他共に認められる社会的権力、経済力を持っている僕でさえそうなのだ。
 ましてや他の多くの人間たちが無力なのは当たり前だ。
 エゴ、見下し、そんな言葉が思い浮かぶ。
 僕は38歳という年齢になってようやく、自分が少年時代に抱いていたやり場のない思いの正体を知ることができたのだ。自分の本当の姿に気づくには、人の一生というものは余りに短く儚い。
 それが無力の正体なのだ、とおぼろげに思う。
 人が本当に自分の力でどうにかできることなどごく限られている。だから人は仲間を探すし、目的を共にする仲間ないしライバルを求める。それがごく自然な姿であり、そこから逃げていては人は次第に狂っていってしまう。

 自分が鬱にかかった理由がなんとなく分かる気がする。結局、人は他人を信頼しなければ生きていけないのだ。僕は自分の会社を持っているが、それは社員たちの力があってこそ成り立っているものだ。音楽を作っているが、それはコンテンツを買ってくれる客があってこそ成り立つのだ。ユイたちにしろ、身体と引き換えに金をくれる相手がいるから援助交際をしていた。それらすべてに共通する概念とは他人同士の信頼であり、約束だ。ジュンヤが言っていたようにこの世とは約束でできているのだ。それを信じることができなければ、結局何もできはしない。
 だから僕は人を頼ることができなくなり、自分を追い詰め、そして心を挫けさせてしまった。それだけのことだ。
 鬱はどこまでも甘美で、そして妖艶だ。僕は自分の鬱の原因を自分の外にも、中にも見出せずにいた。そこに答えなどありはしない、僕はその状況に甘んじていた。家族と別れたり、財産を処分したり、僕はそれが自分の身を削る代償行為だと思い込んでいた。僕は自分の意志で何一つ決めてはいない、すべては周囲の人間たちとの関係があったから選択肢を決めただけだ。しかしそれこそが人間の生きる姿なのであり、それが社会生活の基本であると言える。それに気づいていながら、受け入れることができなかったから僕は鬱にかかったのだ。これほど厳しいことはない、何もかもを自分の力だけで解決しなければならない、それこそが思い上がりで自惚れだ。人は他人なしには生きていけない、僕は24年前にそれを選んだはずだった。しかし僕自身はなんら変わることができず、24年間という長い年月を経てようやくそのことに気づきつつあった。
 そんな僕の前に現れた一条ユイ、彼女こそが僕を導いてくれた。彼女のおかげで僕は自分というものに気づくことができたしそして、自分というものにようやく向き合うことができたのだ。

 僕はこれから始めなければならない。

 僕はまだ何すらも始めてはいない、ユイたちが検査を受けるのはこれからなのだし、記念盤もまだ発売されていない。僕はまだ何も始めてはいないんだ、すべてはこれからだ。

 思案に耽りながら僕は、過去の記憶というものを持て余していた。僕が夢のように感じていた過去の再現、それが実際にあったことなのかどうかを確かめる術は無く、ただ個人個人が認識する事実だけがそれを現している。ユイは綾波の記憶を受け継ぎ、サードインパクトを迎えた第3新東京市を夢に見た。マナも同じように、在りし日の第3新東京市の姿を夢に見ていた。彼女たちが覚えていた、受け継いだ記憶こそが彼女たちを特別な人間たらしめているのだと思う。人類補完計画、父さんやゼーレがどんな姿を望んでいたのかは僕には分からない、だけど僕にとっては、今このときこそが望んだ姿であると言える。ユイが僕の望んだ姿になって、僕は彼女を愛することによって自分の望みを叶えることができる。綾波の言っていた永遠の魂、それこそが今ユイとマナによって実現しているのだと思う。

 僕は渋滞の列に紛れ込み、明滅するテールランプを眺めながらユイの事を思い浮かべていた。信号が変わるごとに車の列は赤色灯の点滅をリレーさせ、赤い光の帯を作る。僕は自分がその中の一台に過ぎないということに実感がわかなかった。
 何をしていようとも、それは僕が今考えていることと直接関係ないのだから。僕が考えているのは自分とユイとのことだけだ。

 翌朝になれば、僕は彼女たちを迎えにまたあのホテルに行く。

 そのとき彼女たちはどんな表情を僕に見せるだろうか?

 あの微笑をもう一度、あの笑顔をもう一度僕は見てみたいと思う。綾波の微笑み、ユイの微笑み、マナの微笑み。それは彼女たちの僕への想いの証であると信じたい。

 笑えばいいと思うよ。

 僕が涙ながらに訴えた想い、それは生きていればどこでだって幸せになれる、そんな母さんの想いと共通していた。

 S2000のグローブボックスを開け、しまってあったCD−ROMを取り出してカーステレオにかける。まだ発売されていない、会社にも送っていない記念盤のマスターロムだ。フェブラリー・ザ・フィフス・イズ・トゥー・レイト。タイトルはSF小説家としての顔も持つ有名な天文学者、フレッド・ホイルの小説からとったものだ。
 10月1日では遅すぎる、僕はそれがユイたちと出会ってからおよそ半年の区切りであることに気づいて軽く笑った。
 イエスタデイ、想い出は昨日のことのように。
 時系列などに意味はない、想いとは相手までの距離こそがすべてなのだ。24年前、先生の家に預けられていた少年時代、第3新東京市でアスカや綾波、ミサトさんとともに過ごした1年間、使徒との戦い、サードインパクト、ストリートチルドレンとして過ごした数年間、大学で再会したかつての友人たち、会社を興して始めた音楽活動、すべての想い出は僕の中で共存している。それらがいつ行われたかなどに意味はない。
 かき混ぜられる想い出と時の流れの中で唯一、不断に貫いていた僕の心の軸といってもいいもの、それが綾波への想いだ。
 リリスが、そしてアルミサエルが僕に書き込んだ補完プログラムは2016年への時間逆行を実現させ、そして僕の記憶していた歴史と違う戦いを見せ、そうしてもなお僕の想いを守り、具現化してみせた。それはどれだけ世界が狂おうとも僕の綾波への想いだけは決して誰にも曲げることなどできないのだと、僕にもう一度確かめさせてくれた。

 一条ユイ、そして彼女こそが、僕たちの想いを繋いだ使徒アルミサエルの擬人化した姿であり、綾波の生まれ変わりである。

 ユイ。

 彼女は綾波の映し鏡などではない、彼女自身こそが綾波だ。

 空になったCDケースのメモ書きを僕はしばし見つめた。あの夜、ユイと初めて出会った夜にうっかり言いそうになった僕の芸名がそこにはサインペンで走り書きされている。
 日本の音楽業界で確固たる地位を築いている、ダンスミュージックの大家。
 コモレビ・ミュージック・リージョン・ビジネス、CMRBのボス、それが僕だ。
 作詞・作曲・プロデュース、COCONO。宙に浮いた日常生活の中でも忘れることのなかった、僕を繋ぎとめていた僕の名前だ。

 もう一度確かめる。僕は自分の音楽活動を自分の支えにしていたのだと。だからそこにユイを参加させるのは、僕と彼女と二人で生きていこうとする何よりの誓いなのだと。

 僕はこの曲をユイに捧げたい。

 母さんと同じ名前の少女、一条ユイ。
 僕は遠くない将来、彼女と結婚しようと想う。

 幸せになれる、それは僕たちが生きているから。

 綾波レイがこの世に確かに生きているから。







+終わり+


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