Track 17. 『ゴールデン・エイジ』マックス・コヴェリ





 僕はもはや見慣れてしまった自分のベッドの上の情景を眺めていた。
 隣にはマナの茶髪が、もう片方の隣にはユイの黒髪が見える。少女二人の柔肌に毛布をかけてやり、僕はダイニングへ向かった。
 コーヒーメイカーに挽きたての豆を入れ、モーニングコーヒーを淹れる。厚みのある苦味と風味が漂い、僕の鼻をくすぐる。上等なコーヒーの香りは味を含んだ空気となって舌を湿らせている。

 ユイたちとの交際を続けて半年くらいになるだろうか。
 僕はそれまでの間に、新曲を作ったり、時田氏の第3新東京市の調査にオブザーバーとして同行したり、といった生活を続けていた。このまま変わることのない生活を続けていけたら、と思うがそうもいかない。

 アスカとはあれきり連絡を取っていない。ミライも、アスカに止められているのだろう、僕への電話はあれきり一度も来なかった。

 それでいいんだ。僕は家族を捨ててまで選んだ道がある。

 時田氏によれば、第3新東京市跡の奥深くに鎮座しているターミナルドグマ、すなわちリリスは現在も機能を続けているのではないかという。だからこそ、ユイたちのような少年少女たちが不思議な夢を見るのではないか、リリスからの何らかのメッセージを受信しているのではないかという。

 僕は自分が何をしようとしているのか、その意味を図りかねていた。ユイたちは僕にとっての恋人、愛し合える人。それ以上の意味とは、となったとき、それはかつての第3新東京市とそしてNERVとを結びつける依り代として、だと僕は思っている。

 やがて時田氏から連絡が来た。
 今回、いよいよジオフロント内部へ潜水艦を突入させて探査を開始するという。それに僕とユイたちも同行してほしい、ということだった。

 新箱根湾の水深50メートルに潜航したいそなみ級攻撃型潜水艦『たつなみ』からマーク46魚雷4本が発射され、かつて第拾四使徒ゼルエルが穿ったジオフロントの装甲板が大きく抉り取られた。
 亀裂になだれ込む海水の流れはすぐに止まり、そこから先に海ではない空間が続いている事を表していた。

 下方スキャンソナーの硬質な反響音を響かせて、僕たちを乗せた『たつなみ』はゆっくりとジオフロント内部へ進入していく。海に沈み、ゆがんだ装甲板のきしむ音が聞こえるような気がした。それでも潜水艦はあくまでも静かに、無音に、粛々と任務を遂行していく。

 やがて旧ジオフロント内の湖面に『たつなみ』は浮上した。N2爆雷によって吹き飛 ばされた天井部の、さらに一階層下の空間だ。海底での発掘作業はジオフロントの表面を浚っているに過ぎない。その下にいまだ人類が到達していない空間があった、それがここだ。地下にこれだけの空洞が、今もなおその形をとどめて存在する。空気は閉じ込められているが、空調装置は今もどこかで活動を続けている。でなければ人間や生物が活動可能な環境は維持できないだろう。傾いたピラミッドと山々の稜線が、このジオフロントにかつてすさまじいまでの傷跡を残していた事をありありと見せ付けていた。その傷跡は日本地図上に新たな湾を書き込んだ。

 懐かしい、と僕は正直に思っていた。

 懐かしい。

「すごいね」

 ユイたちはセイルから降ろされたゴムボートの上でそう呟いた。海底の地下にこれだけの空間があるなどにわかには想像しがたいことだ。

「懐かしいと思う?」

「よくわからない」

 僕はユイたちが本当に綾波なら、ここの風景も当然覚えているだろうと思っていた。だからその答えにはかすかに落胆したが、まだ望みはある。

 僕たちは時田氏とともに、戦自の陸戦隊がエスコートしながら進む後ろをついていった。

 第拾六使徒アルミサエルは零号機と初号機にともに侵食し、二体のエヴァンゲリオンを融合させた。僕が何度も見た夢の中で彼はそう繰り返し、そして僕が2016年へ時間逆行した際にも同様の行動を見せた。
 それはいかなる意味を持つのか?
 一条ユイが綾波レイであるとの紛れもない証拠、それを彼アルミサエルは示して見せたのだと思う。
 僕はこれで幸せになれた?
 なれたと思う。
 ユイは無邪気に僕と手をつなぎ、マナも反対側の手をつないでいる。幼子のように、楽しそうに彼女たちは僕に接している。
 そんな彼女たちは僕にとって娘のようにさえ思えた。ミライとこんな風に遊んでやったことがあっただろうか?あったはずだが、思い出せなかった。僕の中ではそれがその程度でしかなかったと、現実はつらいがそう見せ付けている。僕はそういう男なんだ、そういう男なんだ。繰り返すといっそう自分がそういう男なんだという認識ができていった。
 ユイやマナはそんな僕を好いてくれている。僕にはその資格があるのか?
 もちろんある、それはユイたちが与えてしかるべきものだ。

 やがて僕たちはこのジオフロントを上下に貫く巨大なメインシャフトの前にたどり着いた。エレベータの電源は生きていた。それはこの巨大なコロニーがいまも生き続けているという紛れもない証だ。宇宙に出て何千年と旅をする前提で生まれたこのコロニーはサードインパクト、あの程度の被害などものともしない。

 ユイたちの瞳が吸い込まれるように、メインシャフトの空洞を見下ろしている。

 どこまでも深い、奈落の底を思わせる闇が眼下に続いている。

 僕が夢の中で時間逆行した、このNERV本部は今もなお生き続けている。
 あの約一年間にわたった使徒戦役、それは24年後の今になって僕たち、碇シンジと一条ユイを引き合わせてくれた。これがなければ僕とユイは出会いもしなかっただろう。
 運命だ、と僕は思っていた。
 運命だ、もう一度心の中で繰り返す。
 僕たちが今こうしてこの場に立っていること、これも運命だ。僕たちは導かれてここへ来た、運命に導かれてここジオフロントへ来たのだ。
 それは24年前のあの日も同様に、そして今日のこの日も同様に。

 ユイが僕に寄り添う。マナも反対側へくっつき、僕は二人の少女に両側から挟まれる格好になった。

「こわい?」

 僕が訊くと、ユイとマナはぎゅっと僕の袖口を握った。

「すこし」

「大丈夫だよ、僕がついてる」

 調査隊の隊員たちがゴンドラを設置し、吊り下げていく。
 時田氏が螺旋階段の途中に立ち指示を出している。

 作業着の上に白衣を羽織った姿はかつてのリツコさんを思い出させる。

「生き物は今どうしてる?」

「すごく騒いでる、暴れだしそう」

「霧島さんは?」

「私も、でもなんか帰りたそうにしてるみたいなの」

「帰る?どこへ」

 そう言うとマナは空洞の底を指差して見せた。

「あそこ、あの奥になにかがあるみたい」

「その通りだよ」

 地下にはリリスが今もなお眠っているはずだ。綾波と融合して巨大化したそれは成層圏をも超える高度に達し、ジオフロントを生命の卵として全世界の人類をLCLへと還元させた。しかしそれは僕の意思によって遮断され、人々はまた元通りの生活を取り戻した。しかし元通りにならなかったものがある、それが人々の精神体に刻まれたプログラムだ。ユイやマナたち、少年少女にサードインパクトの夢を見せ、従来の人類を超えた高次元の精神を発現させる、そのプログラムがリリスによって刻み込まれている。

「僕がいた頃にはね、あの奥にあるものが安置されていたんだ。それは人類すべての母と言ってもいいような凄まじいものでね、ここでは詳しいことは言えないけれど、きっとそいつが君たちを呼んでるんだと思う」

 僕は時田氏に聞こえないようにユイたちに小さくそう言った。
 ユイたちは使徒が生み出した落とし子、きっとそうなんだ。だから体内に生き物を感じ、いや、それは使徒たちが人類に補完プログラムを書き込んだからそれを生き物と認識しているのだろう。

 僕たちはやがてメインシャフトの底まで降り、広がった巨大な鍾乳洞のような地下空間を歩いていた。向こう岸が霞んで見えるほどの湖の中央に、明らかに人の手によるものではない十字架が聳え立っている。高さは100メートル近い。かつてリリスが磔られ、ロンギヌスの槍が突き立てられていたその十字架だ。
 サードインパクト以来、ここまで人類が踏み込んできたことはなかった。今回のことは誰にも口外などできないだろう、それはある意味でセカンドインパクトと同じように、人々の記憶から風化されて忘れ去られるべきことだ。時田氏が政界に通じているように、今回の調査というのは国家レベルの重大なプロジェクトだ。参加する者たちは十分なチェックを重ね、緘口令を敷いているのだろう。僕やユイにしてもだ。
 外の海は戦自の潜水艦部隊が厳重な警備体制を敷き、アメリカやソ連、中国の侵入を防いでいる。そんな中で僕たちは守られ、この場に立っているのだ。

 ユイたちの額に汗が浮かんでいた。

「どうした、大丈夫かい?」

「すごく震えてる」

 生き物のことだ、と僕は理解した。
 このジオフロントの中心部に近づくにつれ、ユイたちは強い何かの波動を受けているのだろう、身体を震わせ怯えるようにしている。

「引き返すかい?」

「ううん、大丈夫。さっき碇さんが言ってくれたよね、ここに人類の母がいたって、それは私にもよく分かるよ、生き物は私にそれを知らせようとしてたんだと思う、だから私を小さい頃からずっと呼びかけ続けて、人を装うことを覚えさせて、そうして今の私を形作っていったんだと思う、だから今はきっとうれしいんだよ、ようやく帰ってこれたってうれしく思ってるんだよ」

「でも僕らは調査が終わったらここを出なきゃいけないよ、それでも大丈夫なのかい?」

「うん、それは私も分かってるし、生き物と私自身は別物だから、大丈夫、意識をのっとられたりなんてことはないよ」

 ユイは微笑んで見せた。
 その微笑みは綾波のものとそっくりだった。僕はユイにしばし見とれ、やがて意識が穏やかに落ち着いていくのが感じ取れた。ユイ、やっぱり君は綾波の生まれ変わりだよ。

 生き物の正体が使徒だというなら、ユイたちの体内には使徒が寄生しているのだろう、僕も含めて。それが人類補完計画によって得られたプログラムを遂行する手段として、現代の若者たちを不思議な夢へと誘っているのだろうと思う。

 戦自の高官たちの相手をしていた時田氏が彼らの元を離れ、僕たちのほうへやってきた。彼らが興味を持っているのはあくまでもNERVの兵器であって僕たちではない。

「どうかねシンジ君、具合のほうは」

「ぼちぼちですね、やはり時田さんの説は当たっていると思いますよ」

「そうか」

「ものすごいざわめきを感じるようです。やはり地下のリリスは生きています」

 十字架には誰もいない、何もない。リリスはサードインパクトの際に綾波と融合し巨大化したが、その後崩れ去ってしまった。
 それでもどこかにその生き残りがいるということらしい。
 オレンジ色の湖に、錆付いた船が浮かんでいる。

 リリスとは何だろう?
 人類の母、すべての人間の大元をたどると彼女に行き着く、そんな存在なのだろうか?地球上の人間は須らくこのリリスから生まれたと、そういうことなのだろうか?

 なぜジオフロントが箱根に存在するのかなどということはどうでもいい。

 僕は自分の中で少しずつ仮説を組み立てていく。

 自爆直前に見た夢、時間逆行をしてまで見た第拾六使徒戦、アルミサエルは僕と綾波のすべてを繋いだ。そこで僕は互いの想いを知り、そして綾波が自爆して三人目となっても、それは肉体が代わっただけで魂はそのままなのだという事を知った。
 これが一番重要だ、セントラルドグマのバックアップ装置を頼らずに記憶を受け継いでいた。それはつまり、使徒の力によってこそ人類補完計画は成功するということだ。
 父さんもゼーレも思いもしなかっただろう、使徒とは人類の別な可能性、人類にできない事をやってのける力がある。あるいはそれこそがゼーレの思惑だったのかもしれない。
 僕とユイたちは十字架に近づいていった。六角形のブロックが積み重なってできているように見えるが、材質はどうやらごく普通の金属のようだ。ところどころに錆が浮いている。

「ここにいたんだ」

 呟くようにユイが言った。

「なにがだい?」

「私たちを呼んでたもの。私たちの母たる存在」

 ユイの言葉は上の空のように、あるいは綾波の言葉のように聞こえた。
 胸騒ぎがする、そうユイは言う。
 隣に立った時田氏が言った。これはずっと封印しておくべきものだと。

「シンジ君、わたしもうすうす思っていたことではあるのだ、これは決してわれわれ旧い人類が手をつけていいものではないのだとね。今回われわれはジオフロント内部の調査として内閣直属の指令を受けている。ジオフロント内部に眠るであろう超技術を奪取せよとね。兵装ビルの一部でも、ポジトロンライフルの一丁でも持ち帰れば上は納得させられるだろうが、われわれはそうも行かない。意味は分かってるね、一条君も霧島君も」

「はい」

 二人は揃って答えた。
 僕はただの傍観者だ。手出しも口出しもできないし、する力もない。

「リリスはすでに個体としては存在しない。しかし、いまや全世界の若い人類の体内にはリリスの分身が眠っているはずだ。一条君、霧島君、君たち若者の身体の中にはリリスの分身が含まれているのだよ。これがわたしが長年研究してきた成果だ」

 あわただしく、しかし慎重に調査を進めていく研究員たちと戦自隊員たちを尻目に、僕たちは得体の知れない世界へと踏み込もうとしている。

「それが私たちの感じる別の生き物なのでしょうか」

「おそらくはね」

「でも、私たちは皆さんと同じ人間です。皆さんと同じ姿かたちをしていて、何も変わったことなどありません」

 マナがはっきりと答えた。
 ユイはじっと瞑想するように俯いている。

「プログラムの起動はヒトの手によってではなく、時が経てば運命が動かすものなのだろうとわたしは考えている」

 時田氏の言う、人類補完計画の最終段階だ。
 ヒトはリリスの分身によって新たな精神を手に入れる。それは社会活動や普段の生活を送るうえでは何の変化ももたらさないかもしれないが、確実に人間の精神構造を変えより高次元のものにしていくだろうと予想されている。僕たちはそのとき、どうなる?僕たち旧い人類は取り残されてしまうのだろうか?

「そこなのだよ、問題は」

 時田氏は一呼吸おいて言った。

「シンジ君、もしよろしければ一条君たちをしばらくわたしに預けてくれないかね」

 僕は一瞬その意味を図りかね、もう一度聞き返していた。

「それはどういうことなのでしょうか?」

「精神分析などいろいろ方法はある、彼女たちを直接調べてみたいのだよ。これは貴重な機会であり材料だと思っている」

 僕は迷った。ユイたちを手放す、そんなことなど恐ろしくて考えたくもない。研究資料として差し出す、そんな事を僕ができるだろうか。
 ユイたちはモルモットとして扱われる?まさかそんなことはないだろうとは思うが、それでも彼女たちが研究員に取り囲まれて弄繰り回される光景が頭の中を駆け巡って、僕は言葉を詰まらせていた。

「しかし」

「彼女たちが君にとって大切な人間であることはわたしも十分承知している、その上でお願いしたいのだよ」

 僕はじっと考え込む。ユイたちとまったく会えなくなるというわけではないが、会えない時間は確実に増えるだろう。そして、僕がユイたちの事を心配する時間も確実に増えるだろう。それでやっていけるか?僕は考える。

「他の子達では駄目なのでしょうか、一条さんたち以外にもそういった子はいるんですよね」

「いることはいるが、これは彼女たちでなければならないと思うのだよ、シンジ君、君と出会ったことでわかったと思うが彼女たちがこのリリスに最も近い存在であると言える、いちばん手元に近い位置にいるのが彼女たちなんだ」

 わかるかね、と時田氏は言った。

 発掘されたポジトロンライフルの銃身がワイヤーで吊るされ、曳航用のフックを掛けられて潜水艦の艦尾に繋がれた。

 僕たちはその様子を横目に、息の詰まるような駆け引きを続けている。
 言うことは簡単だろう、たまに検査を受けに来てくれればいいと。しかしそのためにどれくらいの時間が費やされるのかはわからない。
 費やす、と言ったがその感覚自体が間違っているのではないか、消費するわけではない、大切なことのために使うのだからけっして無駄にしているわけではない。費やす、ではなく使う、だ。

「いいですよ」

 ユイはこともなげに言った。
 僕は血の気が引くのを堪えながらユイの方へ振り向いた。

「大丈夫なのかい?」

「でもそうしてほしいんだよね、時田さんは、私は大丈夫だよ」

「それはそうだけど」

「碇さんは心配なの?」

「そりゃあね」

 ともかくここではなんだし、後日改めて話をしよう、ということになった。
 場所は新歌舞伎町のとあるクラブだ。

 僕たちは『たつなみ』に戻り、懐かしいジオフロントを離れる。

 約束の夜、時田氏は僕と初めて会ったときと同じ明るいグレーのスーツで現れた。

 僕はまず挨拶をしてから時田氏に向かった。
 ユイたちを調べるとは具体的にどんな事をするのか、僕はまずそれをはっきりさせたいと思う。
 逆行催眠による記憶の発掘がその主なものだと言う。
 危険はまったくないというわけではないが、安全性は高いから安心したまえと時田氏は言った。

 僕は改めてユイたちの姿を見た。

 白いセーラー服、聖霊学習院中等部の夏季制服だ。真っ白なセーラー服は清楚さを現している。

 だがユイたちは、途轍もないほどに甘美で淫靡な雰囲気をかもし出している。それは僕が彼女たちの真実を知っているからだ。グレーのスカートに寄った皺の向こうに白い脚が見え、僕はそれに堪えようもない色情を感じていた。

 そんな彼女が人類の未来を握っている。

 僕はいまや、ただの援交オヤジではなくなってしまったのだ。

 一条ユイ、彼女はやはり綾波レイの生まれ変わりである。ケンスケがそう感じたように、また日下氏の著書にあったように、魂は肉体が滅んでも存在し続け、ある条件によっては新たな肉体に宿ることができる。それがいわゆる輪廻転生だと。そして使徒はその媒介となり、アルミサエルは消え去るはずだった綾波の魂を守り運んでくれていた。
 ユイは綾波だ。

 ユイの性格、これは綾波が真っ当な成長をしていたらそうなったであろう姿だと思う。しぐさの節々に何気なく現れる綾波の面影、僕はそれに惹かれていた。

 だけど今、何度かの時間逆行と夢を経験して僕はそれがユイへの思いの証だと感じるようになっていた。
 想い、だ。

 一条ユイ、君はきっと真実に気づいている、いや初めから知っていた。だから僕に声を掛けたのだし、僕と付き合おうとしたんだと思う。

 僕はただそれに乗っただけだ、でなければユイと付き合おうなどとは思わなかっただろうし、あのコンビニで僕たちはそれきり別れていたはずだ。

 僕は自分が何者なのかを忘れかけていたのだと思う。

 碇シンジ、綾波レイ、それが僕たちの持つ名前だ。ユイももちろん僕の仲間だ。

 だとするならなおさらに僕は迷う、時田氏に彼女たちを差し出していいのか。ユイもマナも僕を信頼しているからそう言えるのか、そうだと思う。僕は信用されるような人間か?そのとおりだとユイは答えるだろう、マナも。
 僕は背景でしかない他の客たちを横目に見ながら、自分が彼らとどれだけ違うのだろうと考えていた。
 僕は音楽会社の社長で、しかしこれに意味などない、少なくともこの場では。僕はユイの彼氏、それだけだ。
 そう思ったとき、重要になってくるのは僕はどれだけユイたちの事を想っているのだろうという問いだ。これはすぐに答えることができる、僕もそこまでになっていた。自分の気持ちを信用できている。僕を救ってくれたのは他でもないユイなのだ。

「わかりました」

 時田氏の依頼に僕はそう答えた。
 ユイたちを彼に預ける。いつまで、とはっきり期間は示さなかったが、それまでの間まったく会えなくなるというわけではない。僕たちはお互いを信頼しあっているから、こんな約束もできる。約束だ。いつかジュンヤが言っていたように世の中というのは約束でできているのだ。僕が会社のみんなと交わしているのも、アスカたちと交わしたのも、ユイたちと交わしたのもすべてが約束だ。

 僕はユイたちを幸せにしたいと思う。

「わたしは彼女たちを人類の希望だと考えているのだよ、わたしの大学のゼミの連中はなかなかに面白い者たちばかりだが、やはり一条君や霧島君のような子、となるとなかなか居ないものなのだよ。シンジ君、君はどう思うかね?最近の若い者は、などと歳をとると言うようになるが、わたしはそうは思わん。たしかに社会通念やそういった観点から見ると若者というのは不真面目に見えるだろうが、問題はそういうことではないのだ、彼らが心の底で何を思っているか、何を思い日々を生きているのかということなのだ。それはたとえば憧れのあの子と添い遂げたいとか、かっこいい車がほしいとか、スポーツ選手になって活躍したいとかいろいろあるだろうが、それらの根底に流れる自分を認めてもらいたいという欲求だ、それらがより強く発現してきてはっきりと自分の精神に影響を及ぼす、そうなるのが新たな人類だと思うのだ、若者たちはそれをごく当たり前のように行っているだろう、それが変化といえるのだろうし、現代の若者たちはみな自己主張を行っている、そういうふうに変化してきている。無気力な若者などと我々の世代では言われていたが、現代はそうではないのだ、分かるかね?シンジ君、君の扱うミュージシャンたちもそうだろう、気づいているはずだよ、サードインパクト以降に生まれた者たちというのはわたしらのような年寄りとは違う、生命力の種類が違うのだよ」

 時田氏は僕にそう語り、そして自らも認めて見せた、自分がもはや旧いタイプの人間であると。そしてそれは僕にも同じように認めろとそう言っているという意味だ。僕は鬱にかかったが、もちろん若者たち皆すべてがそうとは言わない、中にはこぼれ落ちる者もいるだろう、しかし若者たちと年寄りたちの差というのはそこなのだ、自分を主張するというエネルギー、自分が何者であるかという認識、それらの根底が違っている。
 それらは年齢を重ねるにつれて蓄積されていくものだが、普通はそうだが、現代ではそれが違っている。若者たちがどれだけファッション誌に踊らされ無茶を重ねていようとも、それは僕たち年寄りには無かったものなのだ。

 母さんが目指していた人類補完計画と、現実に成功した僕たちの人類補完計画ではそこが異なっている。

 永遠の生命などは手に入れられないが、しかし永遠の魂は手に入れることができる。ユイや、マナがその証だ。ユイは綾波の生まれ変わりだ。いずれ、綾波だった頃の記憶も取り戻すことだろう。
 時田氏の研究所がそれを確かなものにしてくれるはずだ。
 僕はそれを信じて、ユイたちを預ける。







+続く+




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