Track 14. 『シュガー・ベイビー』アレクシス





 それからの僕たちは何事も無く日々を過ごしていた。医者にはアルコールのとりすぎだと注意されたりしたし、僕は6月6日の誕生日を過ぎて38歳になったが今更祝うことなど何も無く、ユイとマナと、家族たち、それから会社の仲間たちからバースデイメッセージが届いただけだった。

 ケイタにはあれからそれとなくマナのことを聞いてみたが、やはり彼女がケイタたちの知る幼馴染の少女ではない、という結論に落ち着いていた。なによりも年齢が違いすぎるし、自分たちは彼女の亡くなった現場をはっきりと覚えているからそれが夢だったとか幻だった、嘘の記憶であったなどではないということだった。

 時田氏にユイたちを連れて行く旨を伝え、僕は作曲と並行して調査隊に参加する準備を進めていた。スケジュールは一週間で、実際に探査艇を潜らせるのはそのうちの3日目と5、6日目だ。それ以外の日は海上からソナースキャンによって詳細な海底図を作成する。まだ探査の進んでいない南東部を今回は集中的に調査するという。
 僕が以前、時田氏の研究室を訪れたときに見せてもらったエヴァシリーズの残骸は、ちょうどジオフロント直上に位置する直径1キロの円内に規則正しく並んでいたという。それは補完計画実行のためのフォーメーションであると想像される。兵装ビルの残骸や未使用の砲弾などはクレーター内の全域に散らばり、そしてクレーター中央部にさらに深くへつながる空洞があるらしい。ジオフロントはその先に、いまだ原形をとどめて存在すると考えられている。

 僕が再び時田氏の研究室を訪ねると、彼は電話で誰かと話した後たくさんの資料をかばんに詰め込み、時間があれば同行してほしいと僕に言ってきた。僕はそれに応え、彼とともに新永田町のとある料亭に向かった。
 時田氏は今でも政財界に太いパイプを持っている。万田元総理の甥で次期官房長官と目される万田ワタル氏、防衛庁事務次官にして元戦略自衛隊幕僚長の矢矧サブロウ氏がこの集まりに同席していた。日重共は戦自や在日国連軍の兵器製造を一手に請け負っているから、時田氏とは皆昔からのよく知った仲だという。

 僕は自分が一人だけ場違いなところに迷い込んでしまったと思っていたが、時田氏が皆に僕のことを紹介するとその心配は一気に吹き飛んでいった。

「こちら、元NERVサードチルドレンの碇シンジ君です」

「よろしく」

 万田氏と矢矧氏はそろって深く礼をし、改めて座敷のテーブルに向かいなおした。女中が料理を運んできて退出すると、手をつけるのも早々に時田氏と彼らとの話が始まり僕は黙ってそれを聞いていた。

「確かシンジ君、君の奥さんも元チルドレンだったかな」

「そうです、アスカはセカンドチルドレンでした」

「惣流アスカラングレー君、そしてこの碇シンジ君、彼ら二人が、現在この地球上において、サードインパクトの真実を唯一経験してきた者たちという訳ですな」

 高級なスーツの渋い匂いに鼻がかすかに震えた。

「戦場が結んだ愛といったところでしょうか」

「ええ、まあ」

 矢矧氏の軽い冗談に僕も笑い返した。
 サードインパクトによって生じたクレーターは箱根山麓のほぼすべてを吹き飛ばし、富士山は裾野を大きく削られた。旧神奈川県と静岡県はその面積を半分ほどに減らしている。ジオフロントは現在わかっている限りでは直径は少なくとも20キロ以上に達し、それはこのクレーター、すなわち新箱根湾の奥底に今も眠っている。

「ゼーレに関してはここ二十年間、目立った動きはないとのことです。新たな行動を起こす力が無いのか、あるいはすでに目標を達成してしまったからなのか、時田さんのお話しを聞く限りですと後者である可能性が高いですな」

 万田氏がそう言ってお絞りで手を拭いた。

「そこのあたりはシンジ君はどう考えるかね?」

「僕が知っている限りではゼーレの目的とは人類を一個の生命体へとまとめることです。すなわち人類補完計画ですね、その目的はある意味では達成されていると考えられるでしょう、時田さんがおっしゃったように、ある共通した不思議な夢を見る若者たちが現れているということが本当であればそれはゼーレの補完計画の影響が今になって現れてきたと考えるべきかと、僕はそう思います」

「アメリカやソ連はもはや日本近海に戦力を展開する余裕がなく、わが戦自が極東の盟主たる地位を保っているのはもはや周知のことだろうと思います。そこでなんですが、わが戦自の水上部隊、潜水部隊をもって大規模な調査を行ってはどうかと、委員会に諮っているところです」

 矢矧氏は皺の寄った顔を奮わせてそう言った。戦略自衛隊はサードインパクトに際してNERV本部の制圧を行ったが、同様にそれによって戦力の大半を失っている。ゼーレが日本政府にかけていた圧力はもはや無く、現在は政府独自の判断で積極的に戦力の拡充と展開を行っているという。
 新箱根湾については水没したクレーターという地形と首都に近い日本の奥座敷ともいうべき地理条件から、米ソの潜水艦隊も乗り込んでくることはできない、いわば聖域というような場所になっている。

「時田君の調査隊には今回、碇君も同行するそうだが」

「ええ、まあ今回はとりあえず少し見せてもらうだけといったところですけど」

「碇君はかつてのジオフロント、NERV本部に通じている唯一と言っていい人材だ、この機会だからぜひ我々のプロジェクトに協力してはもらえんでしょうか」

 テーブルの上に腕組みをして言った矢矧氏に僕は一瞬ためらってから怪訝そうに答えた。

「プロジェクトとは?どういうことなのでしょうか」

「しかし矢矧君、ここで碇君に言ってしまっていいものかね?これは我々だけではなくひいては日本政府そのものにも関わってくる問題だぞ」

 要約すれば、現在日本政府は新箱根湾に眠るNERVの遺産を掘り出そうとやっきになっている、ということらしい。NERVが保有していた兵器など、現在の政府体制では持つことの難しい強力な兵器技術、それらがあの海の奥底に眠っている、そういうことらしい。もしそれらが実用化できれば、日本はアメリカ、ソ連を抜いていっきに軍事力で世界のトップに立てることになる。

「僕も今ではすっかりその関係からは離れてしまいましたし、ましてや一般人である僕にそんな話しをしてよいのでしょうか?」

 素朴な、しかし当たり前の疑問をぶつけてみる。こういった国家機密に関わる問題は、そうそう簡単には人に話せることではない。

「その点は心配要らないよ、碇君、君の素性については時田君からよく伺っていたし、信用に足る人物だと我々は思っている」

 万田氏がそう言い、僕たちはそこでようやく料理に手をつけ始めた。鍋の火はすでに小さくなり、蓋の隙間から湯気が立ち上っている。
 矢矧氏が持ち込んできた大量の書類に一枚一枚目を通しながら、僕は人々が知らないだけで日本は今も大きく動いているのだという実感が少しずつできていった。サードインパクトから1年もたたないうちに日重共を初めとした企業グループがジオフロントの調査に乗り出し、そして海ではサードインパクトの被害を免れた潜水艦隊が米ソの原潜群と熾烈な戦闘を繰り広げていたのだ。そうやってかつてのNERVの秘密は守られている。

 しかしNERV本部跡に沈んでいるのはあくまでも兵器であり、財宝などではない。日重共以外の企業や好事家たちは早々に手を引き、現在は日重共と戦自が共同で調査に当たっていると、そういうわけらしい。以前時田氏が僕に言ったとおりだ。

 日本政府としてはぜひともジオフロントの調査を完遂し、そこに眠る超兵器の技術を我が物としたいらしい。
 もともと、戦略自衛隊とは東アジアにおける脅威に対抗するためにつくられた組織だ。陸、海、空の各自衛隊がヴァレンタイン条約によって国連に吸収されてしまった以上、自前の戦力を持たなければならないという防衛族議員の強力な後押しによって発足したのがこの戦略自衛隊、いわゆる戦自だ。西暦2003年の南沙諸島紛争はもちろんのこと、東シナ海は中国、朝鮮、そしてフィリピンなどの東南アジア各国が熾烈な領土争いにしのぎを削っている。日本はそこでの権益を確保すべく、早急な軍事力の整備が必要なのだ。
 ムサシたちが言っていたように、人員や兵器の不足に悩む戦自は幼年学校を設立しエリートの育成に当たっている。ムサシとケイタは除隊したが、彼らの同期や先輩後輩たちは現在でも戦略自衛隊で戦っているという。

「日重共の調査活動はマスコミでも大々的に報道されていますから僕のような一般人でもよく知っていますが、それに戦自も一枚かんでいるとなるとこれは問題ですね。諸外国の圧力なども当然あるでしょう」

 僕の疑問に、矢矧氏は額の脂汗を拭いてから言った。

「それはごもっともです、我々も大規模な護衛艦隊を派遣するのは難しい。現在はもっぱら潜水艦による海底調査と、先ほど時田さんが言われましたような民間の調査隊の護衛ですな。まあ、野党の一部には官民一体の陰謀計画だなどと息巻いている連中もおるわけですが、しかしあの新箱根湾は水没したクレーターという形状もあり米潜やソ連潜もどうにか水際で食い止めているといった状況です」

「中国についてはいかがでしょう?僕がNERVに居たころは、中国でもエヴァンゲリオンの建造が行われていました。ですから彼らも当然、新箱根湾にNERVの遺産が眠っていると考えるのが自然でしょう」

「そちらももちろん、しかし中国潜は現在のところ沖縄より東方へは侵入した形跡はありません、まああちらさんも老朽艦ばかりですからそれほど無茶はできないというのが実状でしょう」

 料理をつつきながら書類を一枚ずつめくっていく。僕の頭では内容はほとんどわからないが、その中で一枚興味を引かれる記事があった。
 戦略自衛隊の潜水艦とドッキング可能な小型潜水艇のデータだ。表向きには深海救助艇だが、明らかにそれは日重共の探査艇と同様のスケール、スペックを持つものだった。すなわち戦自と日重共が共同で作戦行動を取るというなによりの証拠となる。

「矢矧さん、このDSRVは」

「現在調達中のいそなみ級攻撃型潜水艦に搭載予定の艇です、こいつを使えば海底での高速航行がより有利になるでしょう、従来の深海救助艇DSRVとは搭載ソナーとコンピュータの精度が違いますからな、第七世代有機コンピュータを搭載しております。これによって新箱根湾のより精密な調査ができることでしょう」

「いそなみ級といいますと、現在はやまなみ、たつなみ、うらなみ、あやなみの4隻がオン・ステージしていますね」

「そのとおりです、現在ドック入りしているまきなみとしきなみ、たかなみも含め、いずれこの8隻全艦にこの調査艇を配備する予定であります」

 いそなみ級とは戦略自衛隊が誇るディーゼル潜水艦の最高傑作だ。全長92メートル、基準排水量は4700トンに達し、これは米海軍主力のヴァージニア級攻撃型原子力潜水艦に匹敵する大きさだ。通常動力潜水艦としては文句なしに世界最大最強を誇る。艦尾には先ほどの新型調査艇をはじめ、各種装備を搭載格納するためのスペースがあり艦型はこれまでになく大型化している。しかし静粛性は世界中のどの潜水艦よりも優れているという。5番艦あやなみが僕の想う彼女と同じ名前を戴いているということもあり、軍事関係にはあまり興味のない僕だがこの艦にはそれなりの思い入れがある。
 これらの潜水艦は太平洋に展開し、それぞれ米潜、ソ連潜、中国潜の監視を行っている。

「そこでどうだねシンジ君、我々のプロジェクトにひとつ、協力してはくれないかね。NERVのことを知りたいと思っているのは君だけではないのだ、我々もぜひ君にと思って今回呼んだのだよ」

 時田氏の言葉には熱意だけではなく僕を揺さぶろうとする気配が混じっていた。
 もし僕が拒否すればこれから先、何があるのだろうと考えると背筋が寒くなる。僕のことはもはや政府の人間に知られている、目をつけられているのだ。

「君の言っていた一条君たちのこともあるだろう、話してはみたのかね?」

「ええ、興味はありそうにしていました。彼女たちもやはり自分に起こっている変化の正体を突き止めたいのでしょう」

 そうだ、ユイだ。ユイたちのことを僕は時田氏に喋ってしまったから、彼女たちのことを持ち出されると僕に拒否できる材料がなくなってしまう。
 ユイたちの夢の正体を突き止めるには、今回の調査に同行し、彼女たちが幾度となく幻夢に見てきた第3新東京市をその目で見ることが必要なのだ。だから時田氏は僕たちのために船室を開けてくれたのだし、僕たちが調査に同行することを許した、いやそうさせたのだと思う。
 僕は期日を確かめ、予定のブッキングが無いことを確かめると肯定の返事をした。逃げられない、と思ったからだ。僕はいずれ、忘れようとしていた過去をもう一度思い出して向き合わなければいけない。

 万田氏と矢矧氏の言った内容には当然機密事項も含まれているだろう、僕はそれを誰にも言うことはできない。僕は自分が違う世界へと引き込まれていく感覚を味わっていた。永田町の人間、政府の人間、僕たちとはまったく主義条理を異にする世界の住人たち。僕は彼らとともに歩き出さなければならない。それは恐ろしい闇へ足を踏み入れていくことだ。僕ははっきり言おう、恐れている。
 時田氏にしてもだ、僕は最初彼を人当たりのよい老人だと思っていた。だがしかし、この会見の場で見せた表情にはまぎれも無い、修羅場を潜り抜けてきた怪物の仮面が浮かび上がっていた。

 もう一度言う、僕はもう逃げられない。

 曲の荒書きには二週間ほどかかった。
 それまでの間もユイたちとはメールを交わしたり電話で話したり、あるいはホテルで寝たり、そしてユイたちの暇を見て歌のリハーサルをしたり、といった生活を繰り返していた。作曲作業の一部にはマナも手伝ってもらい、彼女の書いた旋律も曲の中に織り込まれている。
 僕は収録のため予約していたスタジオにユイたちを連れて向かった。今回はUVとのコラボレーションということで、津村たちが先に来て待っていた。
 曲のタイトルはフェブラリー・ザ・フィフス・イズ・トゥー・レイト、ヴォーカルを務めるのはユイと津村だ。山岸については後ほど別にレコーディングする。さしずめコモレビ・オールスターズといった面々だ、CDに載せるクレジットにもそのように書くつもりでいる。

「よろしくお願いします」

「こちらこそ、ユイちゃんマナちゃん」

 ユイと武藤がそれぞれに挨拶をし、津村とマナもそれに返す。

 機材の準備をしている間、ユイたちの方を伺ってみたが彼女たちは互いにおしゃべりする様子も無くじっと黙っていた。

「社長、今回は愛人を4人もいっぺんに連れてきてどうしたんですか」

 ミキシングをやる長髪の男が茶化す。僕は違うよ、と短く言ってからアンプのスイッチを入れ、それからAW2400を起動した。
 スタジオの中では武藤がギターを構え、ベースと併せて音出しをしている。
 ユイとマナは手にした楽譜をめくりながら歌詞を暗唱している。

「しかし珍しいですね、社長が作曲から作詞までぜんぶやるなんて」

「僕もたまには身体を動かさないといけないと思ったのさ、いつまでも引きこもっていたら鈍っちまうからね」

 収録自体は3時間ほどで終わった。ユイたちはさすがに疲れていたようなので僕は買ってきた缶ジュースをみんなに渡した。

 ユイたちが部屋に戻ってくると、空気がにわかに緊張の度合いを増した。とても中学生とは思えないほどのプレッシャーをユイたちは放っている。それは僕に限らずスタッフたち全員も思ったようだ。
 ユイは警戒しているのだ、歌っていた間は役柄に没入していたが今は違う、ひとりの女子中学生に戻ってしまっている。そんな中でこれだけ大勢の大人に囲まれて、ユイは警戒心をあらわにしている。もちろん仕草や態度には表さないが、ただその場に居るだけでこの緊張は部屋中に伝わり僕たちの精神に働きかけている。
 ウエーブをかけた髪を振って、水沢という名のバックコーラスの女が緊張を振り払うように僕に話しかけてくる。これからどこかでお昼にしようとかそんな内容だと思ったが僕は聞いてはいなかった。ただユイたちに意識を釘付けにされ、そしてみんなが同じようにユイたちに惹きつけられ、そしてそれを意識したくなくて軽口を叩いたりあるいは話題を振ろうとしたりしていた。
 スタッフの一人がマナに彼氏は居るのか、と話しかけていた。マナは苦笑しながら居ません、と答えていたがその笑顔さえが僕たちの不安をさらに高めていく。
 ユイは恐ろしい。
 僕は改めて実感していた。
 シンセサイザーを担当していたポニーテールの男がユイに話しかける。とたん、空気が破裂しそうなほどに緊張感が増した。
 誰もが気づいていた、ユイたちはとても自分たちの手に負える女ではないと。
 しかし彼女たちは所詮中学生、そんな思いがあったから彼らは板ばさみになっているのだ、見下す思いと恐れる思いとにだ。

 邪魔しないでよ、と水沢がシンセサイザーの男に食って掛かる。皆、ユイとマナから意識をそらしたくて、他に不安と緊張をぶつけられる相手を探している。
 津村は手洗いに行くと言って早々に部屋を退散し、残された武藤が所在無さげに備え付けの椅子に腰を下ろす。武藤の見上げる視線と、ユイたちの不思議そうな表情が合わさって僕たちを更なる混乱へと叩き落していた。
 長髪の男がミックスダウンの作業をひと段落させて記録装置のスイッチを入れると立ち上がり、水沢とシンセサイザーの男の間に割って入った。
 やめろよ、俺たちは喧嘩をしに来たんじゃないんだろう、
 ユイとマナは二人並んで武藤の隣に座った。
 武藤も何を言っていいかわからず黙ったままだ。それが余計にみんなを不安にさせる、僕も含めてだ。

 ユイはすばらしい歌手だと思う、そしてマナもすばらしい作曲家だと思う。
 彼らは自分が音楽に携わる者として、突然現れた才能に恐れあるいは嫉妬していたのだ。だからスケープゴートを探し、卑小化し叩くことで平静を保とうとしている。バックコーラスの女がそうしているように。
 僕がやめろ、と言うよりも早く、水沢は長髪の男の肩をどついていた。彼女はもう歳も20代の終わりに差し掛かり、ヴォーカルとしてステージに立つことを長年夢見ていたがそれはとうとうかなわなかった。それが今、目の前にいきなり現れたこの少女がステージに立つという事実を見せ付けられ焦っていたのだ。嫉妬し、憎悪とさえいえる感情を抱いていた。自分はこれだけ努力してきたのに、どうしてこのぽっと出の小娘に従わなければいけないのだ。水沢はヒステリックにわめき立てている。僕は話の内容を理解できず、いや、理解することを頭が拒否していた。

 結局それから罵声を何度かぶつけ合った後、水沢は顔を真っ赤にして、帰ると言って部屋を出ていってしまった。
 長髪の男が項垂れて、すみませんでした、と僕に言った。
 ポニーテールを揺らして、シンセサイザーの男は最後まで不機嫌そうにしていた。部屋の隅でタバコをふかして空中に吐き出す。かすかな煙の匂いが僕たちを包み、それをきっかけに僕は会話を再会した。

 ユイたちは終始気まずそうにしていて、僕はまた今夜にでも彼女たちを慰めてやらなければならないなと思っていた。

 僕は仕上げの作業をするためにディスクを受け取り、ユイたちを促してスタジオを後にした。津村と武藤については彼女たちのマネージャーに任せる。

 スタジオを出てから、廊下を歩く人目を気にしながら僕はユイに話しかけた。

「ごめんな、あんな騒ぎに巻き込んじゃって」

 気にしてないよ、とユイが言った。

「本当ならもっと和気藹々とやれるかとは思ってたんだけど、やっぱりこういう仕事してると世間と感覚がずれてくるものなんだよ」

「私が子供だったからかな?」

「それもあると思う」

 ビルを出るとき、ロビーの長いすに水沢が座っているのが見えた。彼女は僕たちを一瞥するとすぐに顔を背け、持っていたファンタグレープをのどに流し込んだ。結露した水滴が彼女の細腕を滑り落ちる。

「あの人たちにも悪いことしちゃったかもしれないね」

「君が気にすることじゃないよ」

 聖霊学習院ゆきのバスに揺られながら僕たちは話していた。

 あとは僕が、収録した音声データをもとに編集して曲を完成させればいい。これからまたしばらく家にこもる日々が続くかと思うと、息抜きにユイたちと遊ぶのもいいかもしれないという思いが浮き出てきた。

 それからまもなくして、時田氏の調査隊の出発の日がやってきた。
 僕はユイとマナを連れて待ち合わせの場所に向かい、時田氏のメルセデスと僕のS2000に分乗して新横須賀の港へと向かった。
 僕たちは艦尾側の一室をあてがわれ、甲板の手すりにつかまりながら海を見下ろしていた。この深く青い海の底に、僕の思い出が眠っている。僕たちの戦いの証拠が、僕たちの交わした想いが、すべてがこの海の底に眠っている。

 潜水艇による調査では、これまで不明な点が多かった第3新東京市南東部の兵装ビルやゴンドラ型砲台などを確認することができた。第四使徒戦で投入されたこの砲台はほとんど効果が無かったが、このように既存の建造物に偽装して兵器を組み込むというのはなかなか真似できるものではない。兵装ビルもなおさらだ。砲身だけではなく、弾薬庫や給弾装置を収めなければならないため、それらの設備も大掛かりなものになる。ただ普通のビルに大砲を取り付けました、というわけにはいかないのだ。軍事的にはかなり技術的価値のあるものだと思う。

「シンジ君、あれはなんだと思うかね」

「ロープウェイ用のトンネルですね、普段はあそこに砲台を隠しています。もちろん観光用の通常のロープウェイとしても運用が可能です」

 第3新東京市は要塞都市と言ってもいいほどの重武装を施された兵装ビルがあちらこちらに林立している。今はそのほとんどが崩れ去ってしまったが、北側のこの近辺にはジオフロント内へ太陽光を送るための集光ミラーが聳え立っていた。まぶしい常夏の光が輝いていたのを覚えている。それも今は海の底でヘドロにまみれている。
 やがてリニアレールの射出口のひとつが見つかり、研究員たちがあわただしく解析作業に入った。
 僕はそれが34番ルートであると伝え、第3新東京市内では比較的郊外の、山岳地帯から発進するためのルートだと言った。

「リニアレールは直線ではないのだね」

「ええ、あくまでもリニアモーターによる走行というだけです。ジオフロント内から地上までは時速600キロでおよそ1分というところでしょうか、ジオフロントが球形をしているのはご存知かと思いますが、その外縁をぐるりとらせん状に回る仕組みになっているのです。この34番のように市内に近いゲートの場合、途中でいったん減速してから進路を上向きにし、まっすぐ地上へ出てくる、といった具合です。第3新東京市から離れた場所へ送るような26番ルートなどの場合はそのまま横向きに出てきます、ちょうど仰向けに横たわった形になって射出されることになります」

「ふむ、なるほど」

 時田氏は部下たちに指示を出しながら、調査艇の送る映像を食い入るように見つめている。

「もしよろしければ一条さんたちにも見せてあげたいのですが」

「かまわんよシンジ君、今からでもつれてくるといい」

 僕はいったんブリッジを出て、船室に待たせていたユイたちの元へ向かった。

 ユイたちは僕が入ってくるのを認めると、飛びつくようにして抱きついてきた。僕は両手でユイとマナの身体を支え、それから一度抱きしめる。

「会いたかったよ、碇さん」

 切なげな声色でユイが言った。
 僕はユイたちの声に女を感じていた。発情した雌の匂いとでも言えばいいか、こんな場所でなかったらすぐにでもベッドに寝転がっていただろう。

「この場所、なんだか懐かしい気がするんだ」

 マナはそう言って甲板から海を眺めていた。

「懐かしい?」

 僕が繰り返すと、マナはうん、と頷いてから話し始めた。
 マナは鹿児島の出身で海に接する機会はほとんど毎日のようにあったはずだが、それでもこの新箱根湾には不思議な既視感を覚えるという。

「海を見てると歌いたくなるんだ」

 そうか、

「歌ってほんと、いいものだと思う。人類の生み出した文化の極みだと思うよ」

 文化か、

「碇さんもそう思わない?」

 それがきっと夢の正体だよ、

 僕はマナの言っていた夢の内容を整理していた。
 目もくらむような閃光と共に白い巨大な人型が現れる。地面や建物、車などといった人間の作り出したものはことごとく打ち砕かれ、残骸には赤い世界が広がっていた。その舞台となったのは自然が美しい湖のほとりの町で、特徴的なデザインのビルが建っていた。
 それらは紛れも無い第3新東京市の在りし日の姿だ。僕の思い出をはっきりしたものに変え、より確信を深めさせたのはマナだ。

 管制室にユイたちを連れて行き、画面を見せてみた。ユイたちは興味深そうに映像を見つめている。

「あっ、あの亀裂っていうか谷みたいなのって」

 ユイの呟きに時田氏が反応した。

「よく気づいたね、あの穴がジオフロントへとつながるといわれているんだ、ただそう予想されているだけで実際に確認はされていないがね。ガンマ・ホーンズと呼ばれている、あの狭さでは潜水艇を潜らせるのも難しい」

「場所的に考えるとこれは第17装甲板のあたりでしょう、あそこは結局最後まで修復されることはありませんでしたから」

 第拾四使徒ゼルエルの砲撃によって開けられた装甲板の穴はサードインパクトによってNERV本部が全壊するまで修復されることはなく穴が開いたままだった。

「それが、あの使徒とか言う怪獣のことなのかな」

「だね」

 使徒の存在に関しては表立って公表されてはいないものの、ほとんどの人間が知っている。元第3新東京市民などなら間近で見たという者もいるだろう。もちろん、公式には存在しなかったことになっている。使徒も、NERVも、ゼーレという組織もだ。
 しかし証拠は、刻まれた爪痕だけは誰にも触れられることなく残っている。
 第拾四使徒のガンマレーザーによって穿たれたその巨大な亀裂は今もなお残り、使徒との戦いのすさまじさを物語っている。
 モニターに映る濁った海には魚が泳ぎ、瓦礫には水蘚がびっしりとこびりつき、海藻が色の透けた葉を揺らしている。
 これは過去の出来事なんだという実感がますます強調された。
 もうよみがえることは無い、過去の思い出だ。人は思い出を忘れることで生きていける。僕の言葉ではない、僕が人から教わった大切な言葉だ。

 ユイの肩が触れる。
 彼女は綾波レイとは別人なんだ、そう思わなければいけない。
 もし彼女に綾波を重ね合わせ、同じように接するならそれは彼女への侮辱以外の何物でもない。ユイ、一条ユイ、彼女は一条ユイという名のひとりの少女なんだ。

 マナは時田氏と話し込んでいる。

 ジオフロントは完全な球体で、発見されたときにはそのほとんどが埋まっていたと従来は言われていた。しかし僕はこれはあえて埋まっていたように見せかけていたのではないかと思い始めていた。ターミナルドグマにしても、あれだけの巨大な空間が自然にできるとは考えにくい。ジオフロント地上部の構造こそが人工的に作られたものなのではないかと思う。

 調査が終わって港に戻ってから、僕たちは時田氏と少し話す時間がないかと持ちかけられていた。
 ユイたちも交えて話しをしたいのだという。

 僕はユイたちの時間を確かめて、OKの返事をした。

 時田氏のメルセデスが会場に選んだホテルのロビーに着くと、すでに到着していたらしい政府や日重共の重役たちの姿が見えた。彼らに混じって一般客の姿もある。ただし、こちらも普通の一般市民ではない、かなりの金持ちと見受けられる者たちばかりだ。
 ユイも仕事でこういったホテルを訪れることは多いらしく、雰囲気に飲まれることもなく平然としている。

 マナによれば、時田氏はマナたち、つまりユイや他にいる不思議な夢を見る少年たちはやはり新しい種類の人間だと考えているということだった。
 マナも時田氏にあの夢のことを話したのだろうか、そして彼はそれを聞いてなんと思っただろうか。これは誰にでも言える話しではない。僕やケンスケ、時田氏のような限られた人間にしか話せない。それはもちろん、先日の会見で同席した万田氏や矢矧氏などでも同じだ。彼らに今、ユイたちをぶつけるわけにはいかない。

 ケンスケが見た綾波の面影というのは、決して外面にはっきりと浮かび上がるものではない。彼女の本当の内面に目を向けて始めて分かることだ。
 あのパーティーのとき、ユイは自分を装い本当の姿を隠していた。だからアスカも洞木もトウジも、誰も何も言わなかった。ユイはあくまでも僕の連れてきたひとりの少女であって、決して綾波の生まれ変わりなどではないと、そう思っていたに違いない。

 だが僕は違う、僕はユイと綾波に同種の感情を抱いていると思う。
 それは単なる性欲とか恋人を求める感覚などではなく、もっと深い何かだ。サードインパクト、人類補完計画、その当事者としての仲間意識だ。これはアスカにも持っているし、綾波や渚、トウジにも同じように持っていた。しかし、洞木やケンスケにはそれがない。ただの同級生、クラスメイトとしてだ。
 インパクト当時にはまだ生まれていなかったはずのユイやマナに同じような感情を持つというのはどういうことだろう、そう考えたときにユイたちの見るという夢が一つのつながりを表していることに気づいた。
 ユイが見た夢というのは紛れもないサードインパクトの光景だ。飛び立ったジオフロントが箱根を吹き飛ばし、そして巨大リリスが生まれ、しかし崩れ落ち、海を紅く染めた。それが僕たちに知られるサードインパクトの姿だ。一般には巨大彗星が激突してできたとされているが、真実を知るものはもはやこの世にはいない。アスカはともかく、洞木やトウジ、ケンスケでさえサードインパクトの真実は知らない。マヤさん、青葉さん、そして僕、知っている者はそれくらいだ。リツコさんやミサトさんはインパクトの最中に死んでいるし、ましてや父さんもだ。日向さんは行方不明になったままだ。青葉さんによればどこかでひっそり暮らしているだろう、彼はまじめだから、ということだったが僕にとってはどうでもいい話しだった。

「一条君たちの話は実に興味深いよ」

 ゆったりとした毛皮のソファに座っていちばんに時田氏はそう言った。
 ユイたちは大きなソファをもてあまし気味に腰を下ろしている。

「知り合いの物書きを紹介できるがどうするかね?」

「それは、遠慮させておこうと思います」

 僕はすこし間を取って言った。
 ユイは僕のものであって他人に触らせるのが嫌だという感情が働いたのかもしれない。

「ううん碇さん、私は大丈夫だよ、話してみようと思う」

「そうか、霧島さんはどうするかい?」

「私も大丈夫」

 僕は軽くため息をついた。やはり僕は現状が動くのを怖がっているのだと思う。もしユイたちが僕の手を離れてどこかへ行ってしまったらどうしようと、それが怖いのだ。
 安心させるようにユイは僕の手を握ってきた。僕もやわらかく握り返す。
 マナはソファから身体を起こし、テーブルに肘をついて言った。

「その物書きの人ってのは有名なんですか?」

「ああ、日下シンイチ君と言ってな」

 そこで僕は彼の名前に気づいて身体を跳ね起こさせた。

「日下さんが?」

「シンジ君はご存知だったのかね?」

「いえ、彼の本を昔はよく読んでいたといったところですが」

 以前、そうパーティーの日の朝方に本屋で立ち読みしていたサイケデリクス関連の本、その著者が先ほど時田氏の言った日下シンイチ氏だったというわけだ。彼も時田氏とはつながりがあり、とすれば彼は自分の著書にもかなり確実なソースの情報を書き込めるのだろうと思う。

「そっか、それなら安心かな」

 呟くようにマナが言った。自分が子供で力が弱いということを自覚しているから出てくる言葉だと思う。

「僕も同行してかまいませんでしょうか」

「ああそれは問題ないよ」

 もう1ヶ月ほど、マナたちが夏休みに入るのを待ってから日下氏との話しを進めていこうと思い、僕は時田氏にそう伝えた。
 後日改めて、僕から日下氏に連絡を入れると彼はぜひ、と乗り気に言ってきた。出版業界へのコネクションは今までの僕にはほとんどなかったので不安もあったが、彼は僕のそんな心配を吹き飛ばすように笑っていた。

 約束の日は朝から夏の日差しが強く差し込み、汗ばむ陽気だった。
 ユイもマナも日焼け止めのクリームを塗った肌に薄いキャミソールを纏っていた。僕は日下氏がいつも仕事場にしている高級ホテルのロビーに着き、彼の担当編集員からの連絡を待つことにした。
 前もって電話で話したときには彼はじつに興味深そうにユイたちのことを聞いていた。僕は彼女たちが世界の終末のような夢を見るとだけ伝え、すると彼は声を抑えてささやくように言った。同じような事例はすでに数多くあり、それは皆ユイたちと同じ年頃の子供たち、少年少女たちだという。

「じつは私もそれで一冊書こうと思っていたのですが、今回時田さんから連絡を頂きましてまさに渡りに船といったところですよ」

「僕としては彼女たちをあまり表舞台には出したくないのですが」

 ユイたちが歌手としてCDを出す、この場合にあまりオカルトチックな話題に彼女たちをさらすわけにはいかない。もっともユイたちは継続して活動するというわけではなくあくまで今回の記念盤のみに、というつもりだがそれでも悪い噂を立てられては困る。

 担当らしき若い女は縁なしの眼鏡をかけ、ベージュ色のスーツをぴっちりと着こなしている。
 彼女は僕とユイたちとを交互に見やり、それから挨拶した。
 やはり僕のような中年男が少女を、それも二人も連れているというのは傍目には怪しい男以外の何者でもない。

 日下氏の著書は僕が先日立ち読みしていた変性意識のほか、ドラッグや夢分析などサブカルチャー関連のものが多い。
 僕は彼のわずかに皺の寄った口元を目にし、やはり彼は本物だ、と思っていた。彼なら時田氏同様、ユイたちの夢の正体を見抜けると思っていた。

「早速ですが碇さん、寄生虫妄想というのをご存知でしょうか?」

「いえ知りませんが」

「これは私も専門外なのですがね、つまり身体の中に蚤などの小さな虫がいると思い込んでしまう症状なのですよ、彼女たちの話しを聞く限りでは腸内に寄生するサナダムシとかそういった類のものかと見受けられますが、それが精神に影響を及ぼしているのではないかと私は思うのです、彼女たちが言う、生き物が自分の精神を乗っ取るというのはその寄生生物によって意識が乱されているからではないかと思うのです」

「つまり多重人格とかそういったものだと?」

「断言はできませんが、しかし私の思う限りではそうです」

 僕はマナのほうを見た。ただの多重人格ではないと、二人はそう言っていた。もっと別の、ひとつの身体を別の魂が間借りしているとかそういった感覚だと言っていた。

「そうなるとやはり形而上生物学の管轄になりますね」

「やはりですか」

 僕は軽く落胆していた。
 日下氏でさえ、専門外のことではどうにもならない。この場合、時田氏にも協力を仰ぐのがいちばんだと思う。
 編集者の女が僕たちを見ていた。いや、彼女が見ていたのはユイたちだ。僕は軽い苛立ちを覚えていた。なぜお前が僕たちの話に口出しをする?女は何もしゃべってはいないが、ただその場にいるだけで僕たちを監視しているかのような印象を放っていた。

「日下さんは形而上生物学では確か一冊書かれてませんでしたか?」

 編集者の女があからさまに僕に不機嫌な視線を向ける。なにをくだらないことを言っている、自分はこんなことのために時間をつぶすわけにはいかないんだよ。きつい印象の縁なし眼鏡がそうにらみつけていた。

「ええ、魂の輪廻、がそうですね」

「僕はそれを読んだんですが、魂というのは肉体が滅んでも存在し続け、ある条件によって新しい肉体に宿るとそういった内容でしたよね」

「そうです、これはいわゆる生まれ変わりとか、つまり輪廻転生、そういった内容を扱いました。前世、と言ったほうが分かりやすいかもしれませんね」

「一条さんや霧島さんがそうだ、とは言えないのでしょうか」

「私には断言しかねますね、しかし彼女たちの見た夢が事実であるとするなら、そのサードインパクト当時に生きていた誰かの魂が彼女たちに宿り、夢を見せている、そう考えることもできるでしょう」

 魂が転生し新たな人間に宿る。
 僕はひとつの可能性に行き着いていた。ユイはやはり綾波だ。綾波レイの魂が、サードインパクトを経て一人の少女に宿った、それがユイなのだ。
 僕はそう信じたい。いや、そうであってほしい。
 しかしユイは綾波のことを知らない、以前ケンスケが綾波澪として撮影し、綾波の話しをしていたにもかかわらずユイは何にも気づきはしなかった、それは綾波のことを直接的には覚えていない、知らないからだ。自分が生まれる10年も前に死んだ人間のことなど知るはずもない。それなのに、ユイは綾波の面影を見せて僕を惑わせていた。
 ユイは自分の中にいる生き物がそうさせるのだと言っていた。
 それはきっと、今でも僕を慕っている綾波がそうさせたんだと思う。

「先生、そろそろお時間ですが」

 編集者の女が僕たちの話に割り込むように言った。彼女の名は木之本というそうだ。

「ああそうだったね、シンジ君、残念だけど私では君たちの力にはなれそうにないよ、今回はお引取り願えるかな」

「それは僕たちが不確かな情報しかもっていないからと、そういうことでしょうか?」

 僕が持ち込んだ情報というのはユイとマナが見る夢の話しだけだ。どこかの企業や秘密結社が隠していた書類とか、そういう現物を持ち込んだわけではない。
 木之本がうざったそうに僕たちを見て、ユイがそれに睨み返していた。
 何よこのおばさん、えらそうに、ユイはそんな風な感情を視線に乗せてぶつけている。

「いえ、あくまでも私の手には負いかねるということです。彼女たちは実にすばらしいと思っています、興味深い情報をくださいました。しかし私では力にはなれません。これは決して仕事にならないとかそういうわけではなく、私のキャパシティを超えてしまっているとそういうことなんです。一条さんや霧島さんにはきっともっとふさわしい人物が待っているでしょう、それは碇さん、あなた自身だと私は思うのです」

 僕がですか?
 訝しげに聞き返すと日下氏は手で額の汗を拭い、シャツのボタンを緩めてから話し始めた。ブルーグレイのネクタイがかすかに滑り落ちる。

「ええ、碇さんご自身も思い当たる節があるのではありませんか?自分の中に何か別の意識があって、それに身体が乗っ取られるような、自分では意識していないのにふとまったく別の光景を思い出してしまうとか、そういうことはありませんか?」

 僕は冷や汗をかいた。それはまさに日下氏の言うとおりだと思う。
 あの夢、綾波を失った第拾六使徒戦、アスカが精神汚染をされた第拾五使徒戦。それらの記憶を今までに何度となく夢に見てきた。それが日下氏の言ったように魂の転生によるものだとするなら、僕はずっと昔から使徒に寄生され続けていたのだということになる。背筋がぞっとして、そしてすぐにそれがある種の安堵につながった。僕は精神を壊されてなどはいない、ただ僕の中に住んでいる誰かが僕に記憶の映写機を見せてくれていただけなんだ。
 あれから24年が経つ。第3新東京市に暮らし、使徒と戦っていたあの日々からもう24年が経ってしまった。
 長い年月は記憶を風化させていく。今では覚えているのは、爆発した零号機と苦悶する弐号機、そして無数の槍を突き立てられた弐号機の姿だけだ。
 僕は忘れてしまったのだろうか?いや、記憶というものは基本的に消えることはなく、ただ記憶の引き出しが開かなくなっている、思い出せなくなっているだけなのだということはよく言われている。だとするなら、その生き物が僕たちの忘れられた記憶を引き出す鍵になっているのではないだろうか。
 そういう結論に達したところで、木之本女史がお時間です、と言った。彼女は僕たちを促してホテルのエントランスまで送ると、それでは、と事務的な挨拶だけをして戻っていった。

「ごめんな」

「どうして碇さんが謝るの?」

 マナが不思議そうに言った。僕は自分がせっかく彼女たちを連れてきたのに何もできなかったと言う悔しさと落胆があった。

「あの人、日下さんと木之本さんのことだけど何か不思議なところでもあったのかな?彼らはずいぶん長いことコンビを組んでいるという話しだけど、やはりよく知った仲だとそういうことなのかな」

「うん、それともちょっと違う感じ」

 ユイが言った。別に恋人同士だとかそういうわけではない。日下氏は僕より4つか5つ年上で、木之本女史は30歳前後といったところだ。日下氏はずっと独身でいる。木之本女史も仕事ばかりで男の噂はほとんどないらしい。

「なんていうかね、きょうだいみたいな感じなの、日下さんってけっこうスレスレな内容の本書くじゃない、だから精神的にもちょっと、なんていうのかな電波受信気味なところあると思うから、だからそんなときに支えあってるんじゃないかなって思ったんだ。木之本さんがあんなふうに私たちを警戒してたのはそのせいもあると思うよ」

 ユイの分析は鋭いと思う。分析というよりは直感だ。
 直感であそこまで見ることができるというのは、やはり体内に寄生しているという生き物がなせる業だと思う。ユイはロールプレイで演じることが好きだと言っていた、だから木之本女史や日下氏の振る舞いを見てすぐに自分の中に取り込めたのだと思う。

「ほんとそんな感じだよ、なんていうか見た瞬間、部屋の中の立ち位置だけでわかったもの。ああこの人たちってお互いに依存しあってるんだなって」

 僕はタクシーを拾い、聖霊の寮までユイたちを送った。
 ユイたちはまたね、と手を振って歩いていった。僕は彼女たちを見送りながら、どうしようもない感傷に浸っていた。
 僕はこれからどうすればいい?時田氏の調査に同行すれば、ジオフロントの詳細とともにユイたちの見る夢の正体もわかるかもしれない。日下氏の仮説では人類補完計画によって人々の中に交じり合ったある種の魂が夢を見せるのだという、そして時田氏が言うにはサードインパクトより後に生まれた人間だけがその夢を感じることができる。

 結局僕は蚊帳の外なのか、という思いが脳裏をよぎっていた。

 真実を知りたいなら踏み込まなければならない。塀の向こうへと、川の向こう岸へと、海の向こうへと漕ぎ出さなければいけない。
 僕はまだ何ひとつ始めてはいない。
 シュガー・ベイビー、僕は何者なんだ?

 家に戻ってから曲作りを再開し、それから1週間ほどで大まかなところはまとまった。ユイと津村のヴォーカルはきらびやかさと太さを同居させ、派手なバック演奏に負けることなく響いている。
 数日たってから山岸の担当するパートも録音した。
 僕はスタジオの機材を眺めながら物思いに耽っている。

 僕はこのまま音楽の世界でやっていけるのだろうか。
 あるいは、時田氏や日下氏についていきサードインパクトの真実を解明する旅に出るべきなのだろうか。

 ユイがその答えになってくれると僕は思っていた。

 しかし、現実は違っていた。ユイは僕の音楽活動に参加してくれたし、そして時田氏の話しにも興味を持っている。両方ともにだ。僕はどちらか片方を選ばなければならなかった。両方を一度にこなすことはできない。
 僕はケイタに再び、しばらく会社を空けるから後のことを頼むと伝えなければいけなかった。携帯を取り出し、会社へのコールをしてケイタにその旨を言った。

「それはある意味で離婚騒ぎよりもたちが悪いですね」

 ああ、それは俺もわかってるよ、

 ミキサーのつまみを上下させながら足を組み替え、携帯を肩で支えケイタと話す。2kHz、と書かれたつまみと目盛りが印象的だった。

「ともかくわかりました、記念盤に関してはYOSHIさんの管轄ですし、UVは武藤君にがんばってもらいましょう。ザドアーイントゥサマーはトウジ君がいるから大丈夫だとは思います」

 武藤マヒロの兄はUVのマネージャーをやっている。彼もまだ若い駆け出しだが熱意と行動力は誰にも負けない。

 僕は電話を終えてから酷い虚無感に浸っていた。
 俺はこれからどうやって生きていこう?会社の仕事はオフにしてしまった。ユイたちに会いに行く?彼女たちだって学校があるだろう。僕は本当に何もできなくなってしまった。

 ともかく薬を飲んで精神を落ち着ける。考えるのはそれからでも遅くはない。

 僕は予定表を確かめた。
 時田氏の調査隊が再び新箱根湾に向かうのは2ヵ月後、これは今は考えなくてもいい。日下氏との予定はキャンセルになってしまったからこれもない。記念CDの原稿の締め切りが一週間後で、これは既に書き上げてあるから後は会社に送るだけだ。

 マイ氏からはケイのことについての連絡があり、彼のデビュー曲発表が7月末に決まったという。ファーストアルバムは秋ごろをめどにリリースするという。僕はケイにメールでおめでとう、と送った。しばらく後になってからありがとうございます、とメールの返事が届いた。

 僕はいよいよもって決断しなければならない。
 ユイたちをあきらめ、会社の仕事に専念するべきなのか。
 それとも仕事を放棄してでもユイたちとの時間を作るべきなのか。
 両方をうまく立ち回らせていけるならそれがいちばんだと思う。わかりきってはいることだが、今の僕には難しかった。
 会社のことをケイタに任せると言ったのは、それは僕が仕事のすべてを投げ出してやっていく自信がなかったから、怖かったからなんだ。もしものことがあればいつでも戻ってこれるように、そう保険をかけていたんだ。

 珍しくジュンヤを誘って飲みに行った店で、彼は大学時代の話しを僕にした。何かをやろうとするってのはそれ以外の何かを捨てるってことなんだ、器用に立ち回ろうとしてもそれは上辺だけになってしまうんだと。上辺だけでやっていけるうちはいいがそれでは遠からず破綻する。上辺の付き合いだけでは人間ってのは関係を保てないんだ、シンジ、お前はどうなんだ?

 ジュンヤの問いに僕は言い淀んでしまった。

 僕はまだユイたちにすべてを賭ける自信がない。それはユイたちへの、何よりも僕自身への裏切りでもある。
 アスカはどうする、というジュンヤの問いに僕は別れるつもりだ、と答えた。

「シンジ、それはお前が彼女たちの世話を見きれる自信がないからだろう、お前はその程度だってことなんだよ」

 たしかにそうかもしれない、俺は、

「こんな話しを知ってるか?これは俺が大学のときの同期生の話しなんだ、ちょうどアメリカから交換留学生が来ていてな、ウィルとかいう名前だったんだ。そいつんちってのが親が離婚した家庭で、そいつは奨学金をもらって学校に行っていたんだ。まあそんなことはどうでもいいが、大事なのはここだ、そいつの母親ってのが元気な子供を生んで幸せな家庭を築きたい、それが小さい頃からの夢だったって言うんだ。しかし生まれてきた子供、ウィルは神経障害持ちだったんだよ、そしたらその母親は離婚してしまったんだ、つまり結婚したら幸せな子供を持てるって夢を裏切られたからなんだ、夫の方はその夢を叶えてやると言って結婚したんだ、しかしそれは叶わなかった、それで結局ウィルは親戚に預けられて育ったわけなんだよ。それを聞いたときに俺は思ったんだよ、世の中のすべては契約でできているってな」

 ジュンヤは僕の肩を叩き、眉にかかった短い銀髪をかき上げて言った。

「俺にとってはアスカが…そうだっていうのか?」

「お前と結婚したときアスカさんは何を求めていたかわかってるのか?覚えているのか?」

 そこで僕はようやくジュンヤの言わんとすることが理解できた。アスカとは出来ちゃった婚だった、生まれてくる子供の世話をするために僕はアスカと結婚したんだ。それがすなわち僕たちの契約だった。
 僕は仕事ばかりで、あるいは鬱にかかって家庭から離れたり、およそジュンヤのいうところの結婚という契約を履行できていたとは考えられない。

 だから必然なんだ、僕がアスカと別れるのは。
 アスカの実家は経済的にも裕福だから僕がいなくてもミライの養育費くらいはなんとかなるだろう、両親はいい顔はしないだろうが、それでももしものときのために僕はアスカたちのために貯金をしておくべきだろうか?

「いいかシンジ、オレが言ってるのはお前の気持ちのことなんだ、お前は少しでもアスカさんに同情する気があるのか?だとしたらそれはとんだ甘ちゃんだぜ、わかってるのか?お前は一条と霧島に入れ込んで、オレは詳しくはわからないが彼女たちの真実をつかみたいと思ってるんだろう?だったらそれくらいの覚悟を決めてみろって言ってるんだよ」

「ああ…」

「もしお前が同情からアスカさんに何かしようと思ってるんならそれは違うぜ、そんなのはあの人だって望んではいないはずだ、わかるだろう?自分のことなんだ、シンジ、お前はそこのところが弱いんだよ」

 わかってる、わかってるよ、だからもう勘弁してくれ…

 心拍が上昇し、胸が激しく脈打っているのが感じ取れる。
 額と鼻の頭に脂汗がにじみ出て、僕は手で拭った。
 僕はアスカときっぱり別れるべきだ。養育費などの事後処理に関わるものは最初にまとめて払い、それっきりにする。その方がアスカも言っていたように、お互い後腐れもないだろう。

「ところでジュンヤ、話は急に変わるんだけど君は確か戦自幕僚長の八杉ヘイハチ氏と知り合いだって言ってなかったか」

「オレが、っていうよりもオレの同級生がだな、それがどうしたんだ」

「実は、これは僕が君を信頼してるから言うことなんだが、こないだ元幕僚長の矢矧さんと少し話したんだ」

「マジかよ、そりゃまた」

「詳しい内容は言えないが、ジュンヤ、君の持ってるコネクションがほしいんだ」

「オレの、と言ってもな」

 無理にとは言わない、出来る範囲でいい、

 ジュンヤの同級生の門倉マキオ氏は国内最大を誇る講談銀行の専務として政財界とのつながりが深く、民政党所属の国会議員、城木氏や美濃原氏ともコネを持っている。
 先日の時田氏を交えた会見では、予算獲得のために門倉先生にお願いできないかという話も出ていた。民政党の主な支持基盤である港湾都市の企業に利益を分配するために、日重共の調査活動を大々的に行うことで民間企業を活性化させようというのだ。

「親父どのに頼むほうが早いよなあ、そりゃあ」

「わかってる、だからジュンヤ、君に言ったんだよ、君だったら門倉君を通して親父どのに直接話せるだろう」

「まあともかく言うだけは言ってみるぜ、ただあまり期待はするなよ」

 ジュンヤはそう言ってオンザロックのウイスキーを飲んだ。キグナスでは、僕たちが来ると決まってケイが担当につくようになっていた。今夜もケイと僕たちは話している。

「ケイ君はここの仕事はいつ頃まで続ける気なんだい?」

「そうですね、まああと1ヶ月ってことですか、かれこれ半年になりますし」

「そうか、でもこれはいい経験になるだろうと思うよ」

「ありがとうございます」

「せっかくだから女の子連れてくればよかったかな」

 ソファに大きく背を持たれたままジュンヤが笑いながら言った。
 ケイは照れくさそうに微笑む。僕は彼が本当に女の子に人気が出るならすばらしいことだという感情が生まれていた。羨んだり、嫉妬したりといった感情ではない、それはまるで息子の成長を喜ぶ父親のようにだ。

「そういえばケイ君はいくつだったのかな」

「19です、本当は21歳ってことにしてあるんですけどね」

「ははっそうか、それじゃあ僕とは倍も歳が違うってことになるね」

「ええ、今では固定客も何人かつきましたし仕事はいい調子です」

 ケイの柔らかそうな茶髪は昔の僕を思い出させる。僕はかつての自分を思い出してケイに重ね、僕はなんて荒れた生活を送っていたのだろう、自分の身体を傷つけていたのだろうと思っていた。

「やっぱケイ、お前、シンジの若い頃に似てるぜ」

 ジュンヤが言った。僕は革のソファから身体を起こし、テーブルに肘をついて腕組みをしてから言い返した。

「おいおい、僕なんかに似てたっていいことないだろ」

「そうじゃねえよ、わかんねえか?このヤサ男っぷりがよ、ケイ、君も年取ったらこいつみたいになるぜ、チョイ悪オヤジってやつだ」

 ジュンヤが親指で僕を指差した。
 僕は笑いながらガラスのテーブルを叩き、グラスに注がれた酒の水面に小さな波紋が浮かんだ。

 ヤサ男はともかくとしてチョイ悪ってのはどういうことだよ、

「見たまんまだろ、お前確かもう38になったんだよな、それでこれだぜ、いかにも外国映画に出てるハンサム男優って感じの渋い格好じゃねえかよ、普通これくらいの歳になればあちこちくたびれて弛んで見る影も無くなるんだぜ、それがシンジの奴は今でもこの通りだ、つまり渋い大人になれるってことさ」

 ケイも僕も苦笑いし、ジュンヤは子供のような悪戯っぽい笑みを浮かべてもう一度グラスを口に運んだ。

 確かにジュンヤの言うとおりではあると思う。以前に母さんの実家から古いアルバムを引っ張り出してみたところ、今の僕の顔かたちは若い頃の父さんにそっくりだった。目つきが多少やわらかくなり鼻筋もゆるやかになっているのは母さんの遺伝だろう。僕は自分が父さんと同じ道をたどっていることをひしひしと実感していた。妻とは別れ、子供はほったらかしにして、愛人を作り、そして自分の夢見る計画へと邁進している。思えば、小さい頃の僕というのは親への恨み言などかけらも思わず、つまりこんな親にだけはならないぞという思いを持たず、ただ自分の主張だけを通そうとしていた。それは父さんと結局何も変わりはしなかったというわけなんだ。

 僕は振り返っていられなどいない。
 ユイもマナも待ってはくれない。時田氏の調査隊も既に次の探索に向けて動き出しているし、政府も動いている。防衛庁は太平洋での哨戒活動のために『あやなみ』を含む潜水艦隊8隻をオン・ステージさせ、新箱根湾を守るように陣を布いている。

 僕はまず曲を先に片付けてしまうことにした。もし時田氏による調査で何かが見つかれば僕はそちらにかかりきりになってしまうだろうし、そんなことで記念盤の発売を遅らせるわけにも行かない。
 僕はそのように時田氏に連絡し、ユイとマナに新しくレコーディングする部分を頼んでから再びスタジオに向かった。
 今回は僕とユイたちだけで行う。

 ユイの澄んだ歌声と、マナの溌剌とした歌声がミックスして希望に満ちた音楽へと混ざり合っていた。

 僕は彼女たちを大切にしなければいけないと思う。
 そのためには今やっている仕事、音楽を作るという仕事に没頭してそれに全身全霊を傾けなければならない。
 とてもではないが無理だ。僕はそこまでは自分を飛び込ませる勇気がない。
 それが僕の甘さであり、弱さなんだと思う。

 アスカは、少女時代にエヴァンゲリオンのパイロットに選ばれそれでエースの座に着くことが自分のすべてだった。だからエヴァのことにだけすべて、全身全霊を傾けていた。
しかしそれでも力及ばずとなったとき、他に支えの代わりがなかったためにあっという間に崩れてしまったのだ。代わりは常に用意しておかなければならない。
 マナがいつか言っていた、心の底から誰かを好きになったとしても、もしその誰かとだめになったときには代わりの人を見つけるしかないんだと。そこで世を儚んで死んでしまうようではそれは強い人間とは言えない。
 それはある意味で不誠実と取られるかもしれないが、マナは決してそんな意味で言ったのではない。もし自分や、自分の大切な人に何かがあったときに代わりがいなければ、つまり余裕がなければ人はあっという間に壊れてしまう。
 そういうことなんだ。
 人間の関係とはそういうことなんだ。人間は周囲にいくらでもいる。もちろんその中で付き合うことの出来る人間というのは限られているが、それでも常にこの次は誰、と順列を決めておかなければいざというときに対応できない。
 一人の人間にだけ、のめりこんではいけない。マナはそれを僕に教えてくれた。
 蜜のように甘い恋、マナは僕に教えてくれた。

 その蜜が吸い尽くされたとき、花は萎れてしまう。

 僕はユイとマナへ、また三人で遊ぼうと誘っていた。
 場所はいつものホテルだ。

 返事はすぐにやってきた。OK、こちらこそ願ってもないことだと。
 僕は携帯を手に持ちながら自然と顔がにやけているのを感じていた。誰にも見られてはいないはず、そのはずだよなと心の中で繰り返す。そのたびに口元が引きつるのが分かった。このときようやく、僕はユイたちを少女ではなく愛人として認めたのだ。

 僕の中では確実に何かが変わり始めていたと思う。

 それは、もはや後戻りのできない変化だ。





+続く+




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