Track 13. 『ビコーズ・アイ・ニード・ユー』ロリータ
僕たちが到着したのは最後で、予約したテーブル二つにはトウジたちの他にはマヤさんとアスカ、ミライ、それから洞木ヒカリ、アズサ母娘、そしてUltraVioletの武藤マヒロに津村トキコ、といった面子が集まって僕たちを出迎えた。
皆は驚いたりあるいは興味深げにユイたちを見ていて、僕はまず先手を打って彼女たちを紹介することにした。
「実は今新しいプロジェクトを考えてる、現役中学生ミュージシャンって感じでな、彼女たちはその候補さ」
ユイとマナは僕の両隣についたまま、軽く会釈をした。
僕は二人を促してテーブルにつかせ、それから乾杯の音頭をとるために立ち上がって皆を見渡した。
「まずはお疲れ様、みんなのおかげで無事に今回の記念ツアーを成功させることができた。トウジ、ムサシ、それからマユミ、みんなよくやってくれた」
皆が拍手で祝福し、あるいは労い、今夜の主役たちを祝っている。
ケイタが二つのテーブルにそれぞれ酒を配り、子供たちにはジュースを配り、皆がグラスを手に持ったのを確かめて僕は杯を上げた。
「ザドアーイントゥーサマー結成15年めの夏に乾杯!」
涼しげなグラスの音が響き、僕はひとつの節目を越えていくことを実感していた。扉を開けろ、それは夏につながっている。これが終われば会社は新たな仕事へ向け動き出していくのだ。CGTの記念アルバムもそうだし、なによりユイたちのことも。僕はユイのために曲を書きたい、音楽を作りたいと思っている。それはYOSHI氏が持ちかけたこのプロジェクトに乗せてもらう形で、僕はユイたちのためにこれから書く曲を捧げたいと思っている。
津村がまず山岸に挨拶していて、それからアスカも交えて三人で話している。トウジとムサシとケイタが三人組みを作って話しに入り、洞木がそれに相槌を入れる、といった形になっていた。
ユイたちはさすがに緊張した様子で、武藤に向かって少々ぎこちない手つきで色紙を差し出していた。若者に人気の女性デュオということで二人にとっても憧れみたいなものはあるのだろう。学校で自慢できるね、と武藤はサイン入りの色紙を抱えたユイの頭を撫で、マナは照れくさそうに手を後ろに組んでいた。こうして並んでみるとユイと津村がだいたい背丈は同じくらいでマナはそれよりひとつ低い、といった具合だ。武藤は意外に高く洞木と同じくらいある。
ミライがユイたちの方を気にしはじめ、アスカが察してミライをユイに向かわせた。
「ほらミライ、お姉ちゃんたちにご挨拶しな」
アスカは僕に目配せし、後で話しに来い、と伝えてきた。わかってる、君には別にちゃんと説明しなければいけないからな。
「はじめまして、惣流ミライです」
夫婦別姓というやつだが、一見すればまるで他人のように見えてしまう。アスカとミライは苗字が同じで、だから親子だとわかるが僕だけは碇、と違う苗字だから言われなければ夫婦だとわからない。家族連れを見分けるときいちばんわかりやすいのが苗字だから、同じ苗字なら同じ家族だと区別しているから、これだけは法律や制度がどうこうではなく長年にわたって積み重ねられてきた感覚だから、そう簡単には変えられない。
「おうミライちゃん、彼女たちぁお前のあたらしいママになるかもしれないひとだからな、ちゃあんと挨拶しとけよ」
「馬鹿ムサシ、何言ってやがる」
小学生相手に妙なことを吹き込まないでくれ、いくらなんでも四つしか歳の違わない義母なんてパソコンゲームの世界じゃあるまいし、僕は冷や汗をかきながら言い返した。ユイとマナと、ミライもさすがに苦笑いしていたが以前アスカが言っていたように、ミライももう子供ではないのだからムサシの言わんとするところの意味ぐらいは想像がついているだろう。
ドラマの中でしか見ないような事件が現実に起こっている、それも自分を当事者の一人にして。それはある意味で達観にも近い感情をこの幼い少女に抱かせているのかもしれない。
ミライがかすかに頭を揺らし、アスカの色を受け継いだやわらかなキャラメルブロンドの髪がなびく。丸い頬に欧米人らしい筋の通った鼻、それでいて瞳は日本人らしい澄んだ黒色だ。
「お父さん、わたしもママも大丈夫だから、はやくよくなってね」
ああ、わかってるよ、きっとまた元気になれるから、
元通りになれるから、とは言えなかった。のど元まで上がってきた言葉が胸につまり、僕は目を細めてごまかした。自分を装うというのは誰もが当たり前のようにやっていることなのだ、こんな小さな子供でさえもが。
洞木がほんのわずかだけ、訝しげな視線を僕に送っていた気がして僕は彼女たちのテーブルを横目で見た。洞木は素知らぬ顔でムサシたちと話しているが、僕の胸の中には少なくない疑心暗鬼が生まれていた。
昔から潔癖症の気が強かった彼女だから、今の僕の状態を知ればいい顔はしないだろう、現にある程度は感づいているからなおさらにだ。
言い合いながら、ケイタが落ち着かなそうにしているのが見て取れた。マナのほうをちらちらと伺っている。ムサシは気にしない振りをしているようだが同じようにどこかそわそわしている風に見えた。
「どうしたムサシ、手洗いならそこを入って右だぞ」
「なんでもねえよ」
割って入るように、マナがムサシに話しかけていた。
「私ザドアーイントゥーサマーではムサシさんがいちばん好きですよ、袖切ったシャツがかっこいいですよね」
「おう、あれはオレのスタイルなんだぜ、わかるかスタイルだ、ただのカッコ付けとは違うんだぞ」
「ムサシ、あんまりコナかけるなよ相手は中学生だぜ」
「わかってらい」
僕は一応釘を刺しておいたが、それでもムサシとケイタはどこかマナを意識しているようだった。
「そういやヒカリ、義姉貴はどないしたんや」
「姉さんはなんかまたライブがあるからとか言って出かけたわよ、ノゾミも夜勤だから、アズサをひとりで置いて来るわけにいかなかったしね」
「そういや今日は青葉サンのプライベートライヴの日やったな、相変わらず追っかけやっとんのかい、わしらの間でも有名やで、ユキはんもゆうとったしの、洞木コダマちゅう熱心なファンのおばちゃんがおるてのう」
「そんなんだからいつまでたっても結婚できねえんだよってなぁ」
「やめてよ、姉さんもう四十路に入ったのよ、父さんももうあきらめてるみたいなんだけど、やっぱりご近所の目とか世間体のことを考えるとうまくないわよ、そのくせ家出る気もないみたいだし」
「いろいろ大変みたいやのう」
トウジと洞木は結婚して独立し、小さな楽器店を営んでいる。洞木の実家は高級住宅地に一戸建てを持つ裕福な公務員家庭で、娘たちはそれぞれにかなり派手な遊びぶりだったそうだ。その中でも生真面目な洞木にとっては、姉や妹の男癖にいつも頭を悩ませていたのだろう。
「青葉サンって、青葉シゲルさんのことですよね、私CD持ってますよ」
「あっマナちゃんもそうなの、私もよ」
マナとアズサが言い、トウジはうれしそうにテーブルに身を乗り出した。
「ほうかほうか、青葉サンはわしらの大先輩に当たる人やからな、最近の若い子にも懐かしのロックちゅうて人気になっとるやろ」
「はい」
マヤさんと同じオペレーター仲間だった青葉さんは特技のギターを生かしてロックミュージシャンとして活躍している。彼が所属するプロジェクトT.T.G.代表のユキ氏とは会社としての交流はそれほどないが、トウジたちとは昔なじみということで個人的な交際が続いている。
「間近で見るとなんだかすごいね」
ユイが僕に顔を寄せて言った。すごい、とは津村の顔の傷のことだ。僕が彼女たちのオーディションに立ち会ったとき、容姿にハンデを抱えているにもかかわらずまったく臆さない彼女の芯の強さと心のたくましさに惹かれて採用を決めたのだ。
ユイの視線に気づき、津村がやや照れの入った微笑を浮かべる。
「テレビやステージだとあまりわからんが、近くで見ると目立つだろう」
「あぁ、それはあたしに言ってんの」
津村の言葉にアスカが悪戯っぽく笑って振り向き、僕は手を広げて返した。
「いや君のことじゃないよアスカ」
アスカにも、津村と同じように顔に傷がある。ロンギヌスの槍に貫かれたものだ。車を持ってきた運転手ということでアルコールはとらないでいるが、それでもいい感じに気分よくなっているようだ。
「アスカも津村も、二人とも傷コンビってな感じか?」
「茶化してんじゃないわよムサシ」
すでに出来上がっているらしいムサシはビールをジョッキでひといきに飲み、アスカが呆れ気味に肩を叩いている。
「私は学生時代には奥様に稽古をつけてもらったのだ、その名残だ」
「へ、へえそうなんですか」
そう笑って歯を見せる津村にユイもさすがに驚いていた。顔に傷のある女、ということでさすがに周囲もまったく無視というのはできないようだった。他の客たちで津村の方を気にしている者が数名見受けられる。
「まああたしは今はもう引退したしね」
結婚してからもかなりの長い間、アスカは町内の剣術道場で師範代をしていた。津村はそこの門下生だったというわけだ。
高校時代、荒れていた津村が更生するきっかけを作ってくれたのがアスカだという。
「ところであれはまだお持ちで?」
「あぁちゃんと床の間に飾ってあるわよ、あれのためにわざわざ和室をあつらえたんだし、やっぱり銘刀にはそれなりのものを用意してあげないとね」
「そうだねお義姉ちゃんもあのころと比べるとほんと変わったよね、だいぶ人当たりもよくなったし」
懐かしそうに武藤が言った。彼女から聞けば、津村は高校の頃は本当に無口で友達の輪にも入ろうとせずクラスで孤立していたそうだ。それを武藤が音楽の世界に誘い、そうしてオーディションに応募しCMRBで歌うようになってから見違えるほどに明るくなってきたという。
中学の頃は僕もそんな感じだった、と言うと津村は最初意外そうにしていたが、付き合いもだいぶ長くなってきたし僕のいろいろな面を見て、少しずつ理解できてきていると思う。
「去年は私たちには初めてのことだったから、ちょっと心配しちゃったけど社長、また元気になれてよかったですね」
「わたしも本当に心配しました」
武藤と山岸がソファから身を起こして言う。僕はつとめて穏やかに返した。
「ああ、君たちにはほんとにすまなかったと思ってるよ、UVというユニットにとっても大事な時期だったしね、だけど本当、周りのみんなが助けてくれたから今の僕があるし君たちがあるんだ、だからみんなには感謝してるよ」
ムサシは相変わらずの調子で、ケイタにツアー先での武勇伝を語っている。アズサが面白そうに聞き入り、時折トウジが突っ込みをいれ、洞木と山岸が嗜めてという変わることのない姿だ。あんなふうに今の姿に満足を覚えられたらどんなに幸せだろうと思う。
ユイとマナが僕の両隣に座りなおし、津村がユイの隣に座った。
ユイたちはだいぶ緊張もほぐれ、UVの二人と楽しそうに話している。
僕は手洗いに立つと断ってから席を離れ、やや時間をあけてついてきたアスカと非常階段の踊り場に向かった。マヤさんが、手にしたグラスで口元を隠しじっと僕の背を見ていた気がした。
わかってる、これから僕は処刑台へ向かう。
「わかってるんだろ?僕のことは」
「僕たち、でしょうが。あなただけの問題じゃないでしょうこれは」
喧騒から離れたとたんに悲しみが襲ってきた。悲しい、僕は悲しいと思ってるのか?酔ったせいもあって自分の感情に信用がもてない。僕はいったい何を思っているんだろう?
「まあ今に始まったことじゃないしあたしももうあれこれ言わないけど、とりあえずいつからなの?」
「1ヶ月くらいかな」
「あの子たちは中学生よね?」
「ああ」
「親御さんだっているんでしょう?」
「そこのところは、二人ともワケアリらしくて実家には住んでないんだ」
アスカは肩を落としてため息をつき、僕に一歩だけ歩み寄った。
「こないだ鳴海くんとマヤが言ってたのが?」
「そうだよ」
「同情とかいうわけじゃあないんでしょうね」
「ああ」
僕はなんて言ったらいいのかわからず俯いた。無意識のうちにアスカに伸ばしていた手を払いのけられてしまい、さらに悲しみが襲ってくる。僕は惨めだ。
すまないと、謝罪の言葉さえ本当に言っていいのか迷ってしまう。
その心配を解くようにアスカは語りかけるように言った。
「今更謝られてもうれしくないわよ。ただあんたがあたしたちを捨てたくてそうしてるわけじゃないってことだけはわかったから。だけどね、半端に情を残すよりはすっぱり切った方が、お互いに後腐れがなくていいと思うのよ、特にあんたはそこのとこいつまでも引きずりそうだしね」
うん、それはあると思う、
「で、どうなの?どう落とし前をつけるか考えはもうまとまってるわけ?」
もう少し時間がほしい、できれば、
言葉を絞り出してようやくそれだけ伝えられることができた。一朝一夕には、簡単には決められないことだからというニュアンスを無意識にこめてしまった。言ってしまった後で、それがただの先延ばしに過ぎないということに気がついて僕はさらに胸を締め付けられる。
もういっそのこと、ここでアスカ、君に捨てられてしまったほうが僕は楽なのかもしれない。とっくに愛想なんて尽きてるんだろう?子供がいるから簡単に離婚できなかっただけでアスカ、君はもう僕に何の愛情もないんだろう?
悲しみの正体は僕自身の自虐だ。自分で悲しいふりをして慰めてるだけなんだよ。
時間がほしいとはつまり、僕が自分の感情をきちんと分けて考えられるようになるだけの冷却期間がほしいということだ。
「別に慰謝料とかそういうのは無理に請求するつもりはないから、その辺り焦って先走らないようにね」
「わかってる…」
アスカの言葉は冷静に事務的に、ふくれ上がっていた僕の感情を萎ませていく。だめだ。俺はなんて情けない男なんだ…
気にするな、という気遣いさえ、僕がそうされなければならない、つまり立場が下に見られているということなんだ。そうだ、浮気をしたのは僕なんだから僕が責められるべき立場にある。僕が自由にできることなんてない、僕が自由を得られるとしたらそれはアスカによって情けを持って与えられるべきことなんだ。
僕は償わなければいけない。
手を離した後、アスカは無意識にか分からないけれども手で袖口を拭っていた。そのなにげない仕草さえが僕を突き刺す。僕は汚れてるんだ。
マヤさんが、
「なによ?」
「マヤさんが言ってただろう、自分のとこで預かってる身寄りのない子たちの世話を手伝ってもらってるって、それが彼女たちのことだったんだよ」
「そう」
だからもしマヤさんが何か言ってきてもそのことだから、なんていうのか、
「マヤがどうとか関係ないのよ、あたしはあんたのことを訊いてんのよ」
声はあくまでも静かに強く、僕はアスカの顔を見ることができなかった。怒っているのか、呆れているのか、それとも蔑んでいるのか、僕は自分がどういう状態に置かれているのか理解できなくなりつつあった。
僕はどうすればいい。
じっと見つめているアスカの視線が痛い。許されざる行いをしたんだ、僕は。遅かれ早かればれるとは思っていたけど、よりによって、こんな形で。避けようと思えば避けられたはずだ、ユイたちを誰にも会わせず、誰にも秘密にしていればよかったのに。どうしてこんなことをしたんだ?わざわざ、妻に愛人を見せつけるような真似をして。
ユイたちが望んだから?パーティーに来たいと、楽しみにしていたから。
だけど僕はそれを断れたはずだ。あとでたっぷり可愛がってあげるから、そう言ってどこかのホテルにでも泊まらせておけばよかったのに。
どうしてなんだよ。
無性な悔しさだけが湧き上がってくる。
アスカは僕を放すと、ひとつため息をついてから言った。
「ともかくあんまり長く抜けてるとまずいでしょう、ほら戻るわよ」
僕は黙って従った。そうするしかできないと思ったからだ。
誰にも言えることなどではない。これは僕が秘めなければいけないことだ。僕が決めなければいけないことだ。そしてアスカ、君に言わなければならないことだ。
「あたしのこともそうだけど、ミライのこともどう思ってるかよ、そこのところははっきりさせてね」
アスカの言葉に僕は心臓を握られたような衝撃を受けて立ちすくんだ。その通りだ。僕が何をしようと、そこには必ず家族に対する責任がついて回る。たとえどんな肩書きがあろうが、生き方をしていようが、僕はひとりの少女の父親であるという事実からは逃れられはしない。アスカとミライは僕のかけがえのない家族なんだ。
代わりは無い。それとも、代わりなど必要ない?
それが恐怖のひとつの正体だったのかもしれない。僕はこれからなにをしようとしている?家族も何もかもを捨ててどこへ行こうとしている?それをはっきりさせなければ、僕は一歩も踏み出せやしない。
そう、僕はまだ何一つやっていない。何も始めてはいない。
だからこれからだ、すべてはこれからなんだ。
アスカの後からみんなの輪に戻り、再び騒がしい話しと飲みに戻った。
「だからムサシ、キミはいつも行く先々でナンパをしているだろうが、すこしは自重しろと言ってるんだ、週刊誌にどれだけ書かれてると思っているんだ?」
「んなの気にすることねえって、オレはむしろこういうキャラで売っていくんだよ」
すこし酔いの回っているらしい津村がムサシに絡み、同じくかなり飲んだムサシが豪快に笑いながら返している。津村はたとえ年上相手でも容赦が無い。
「そんなこと言って、駆け出しの頃いつも誰がお前の尻拭いやってたと思ってるんだ」
すかさず僕も突っ込む。ムサシの女遊びネタはすでに賑やかしの種として定着してしまっている感があるが、若い頃はとにかくトラブルメーカーだった。むしろそのおかげで僕の方にまで雑誌の目が届くことも無かったのかとも思う。
「お義姉ちゃんだって、お兄ちゃんと夜遊びしてるの写真に撮られたりしてるでしょ?」
「こらマヒロ、未成年はアルコール禁止だぞ」
「ふふっ、マヒロちゃんも背伸びしたい年頃なのよね」
「ムサシも社長も、エロスは程々にな」
「若い子達は元気があっていいわねえ」
「あら、アスカだってひとのこと言えないでしょ、旦那のいないすきに若いツバメに熱を上げてたりとか」
「ツバメってヒカリ、あんたいつの時代の人間よ」
膝を叩いてアスカが笑い、洞木が口に手を当ててはにかむ。
さっきアスカと話してきたことを察したのか、ユイたちが見せ付けるように僕のそばにすり寄ってくる。ムサシはニヤニヤ笑いを僕に向け、ケイタは気まずそうにしている。頼むからそこだけには突っ込まないでくれと僕は心の中で祈っていた。
僕はケイタに今後の予定を伝えることにした。
「一条君と霧島君のことは僕が自分だけでやるからそっちは気にしなくていい、形としては僕の自費出版みたいになるから、YOSHIさんには僕から言っておくよ」
「わかりました」
「記念CDのコメントについては来月中には原稿を上げるよ」
「ではYOSHIさんと寺田さんにはそう伝えておきますね」
ケイタは一見堅物だが本当に気の利く男だ、いつもムサシや僕の世話を焼いてそれを苦にする様子も無い。僕は正直なところ彼ほどには人間ができていない、と思う。
もう一度あたりを見回してから顔を寄せてケイタが言った。
「奥さんのことは実際どうされるつもりなんですか」
やはり聞こえていたか、と僕は軽く肩を落とした。
すでに噂などでは広まっているのだろう、僕が援交少女にはまっていると。他の者たちはあえて話題には出そうとしないが、ケイタはさっきの僕たちの様子を見ていたから気になったのだろう。
「まだ決めてないけど、たぶん別れることにはなると思う」
「資産分配などは」
「それはこれからだ、まあ僕も今はこんな状態だし手続きには代理人を立てるだろうよ」
それもあるから、なるべく会社には影響を出さないようにしたいんだ、
ケイタはそこで話をいったん打ち切り、僕は黙ってチューハイの炭酸をのどに通した。
「なあ、正直なところ、僕はどんな風に言われてるんだい」
ケイタはやや考える振りをして僕越しにアスカたちの様子に目を走らせ、それから声を抑えて言った。
「普通の反応ですね、文句半分やっかみ半分ってところです、ただ本当にうらやましがってる人はいるみたいですよ」
具体的に誰がどんな、とは聞かないでおいた。
「いつものことと捉えてる人もけっこう多いですよ」
そうか、と言って僕はもう一度グラスを口に運んだ。
ケイタは利口な男だから、少なくとも僕がいかれてはいないとわかっているのだろう。変に取り繕ったりしようとせず、ただ当たり前に事実を確認した、それだけだ。
「ところで霧島さんのことなんだがなにか気になるところでもあったのかい」
ケイタはさらに周囲に注意を配り、肘をついて腕を組むと声を抑えて言った。
「じつは、彼女によく似た子が僕とムサシの幼馴染で居たんですよ」
「それは初耳だな」
「ええ、僕らが子供の頃戦自の幼年学校に居たって話しはしましたよね、そこでの仲間だったんです。14歳のときに彼女は事故で亡くなったんですが…」
そこまでで言葉を濁すとケイタはもう一度マナのほうへ視線をやった。
僕は再び耳打ちする。
「それで、今になって彼女そっくりの子があの頃の姿で現れた、ってわけかい?」
「まあ、彼女はそのあたりまったく関係は無いんですよね」
「そのはずだけどな」
ケイタはジンのカクテルを一口飲むと頷いて見せた。ユイの事例もあるが、やはりマナもそういった点で誰かしらの心を惑わせる力があるのだろうか、と思う。
2時間ほどしてみんなの話しもひと段落してきたところで、子供を連れてきた洞木がそろそろお開きにしよう、と僕に言ってきた。
アスカがこれから二次会に行こうと言い出したので、僕は勘定を済ませてから外の駐車場にみんなを集めた。
「会場は下見してあるから、どう?」
「ごいっしょさせていただきます」
「ぜひ行きましょう、マヒロ、キミはどうする」
「うん行くよ」
「オレたちはどうしようか?」
「僕はちょっと仕事を残してきたのでこれで」
「私はOKよ」
「アスカおばさん、私も行きたいです」
山岸、津村、武藤、ムサシ、ケイタ、マヤさん、アズサがそれぞれに答え、僕たちはアスカと洞木の車に分乗した。ケイタはタクシーを拾い、一人で事務所に戻った。
アスカが指定した店に着き、女たちを先頭にしてエントランスをくぐる。僕たち男連中は後ろに小さくかたまって続いた。
アンバーの照明に浮かび上がるネオン管が流麗な書体で『キグナス』と綴り、静かな暖かさを表している。いわゆるレディースクラブ、ここでの主役は女たちだ。アスカが先頭になって皆を率い、洞木が遠慮がちに後ろをついていく。津村と武藤もやや緊張気味だ。出迎えたホストたちにマヤさんが挨拶している。ここもマヤさんが所有する店だ。
「マー君、ユウヤ君、元気してた?」
「ようこそ、アスカさん、皆さん。伊吹社長もお疲れ様です」
アスカと洞木、津村、武藤、マヤさんが子供たちを抱えて大テーブルにつき、僕とムサシ、トウジは隣のテーブルにつく。
席が離れてしまい、ユイたちが心配そうにしていたので僕はそばに手招きした。
「ここはあたしが奢るからみんな楽しんでね」
にこやかにアスカが言った。別に僕にあてつけているわけではないのだろうが、年頃にアスカも楽しんでいたのだろうと思う。僕がずっと家を空けていたから、その間の息抜きにといったところだろうか。
グランソラージュとルコントの甘酸っぱい香りが漂い、僕はアスカたちが楽しそうに会話しているのを眺めていた。アスカと洞木、津村と武藤にそれぞれ一人ずつがつき、グラスを傾けている。
ヘルプで呼ばれた若いホストが僕たちにつき、僕は見覚えのある顔だちにソファに埋めていた身体を起こした。
「ケイくんじゃないか、意外なところで会ったね」
相手も驚いたようで、照れくさそうにあごをかいている。
「あらシンジ、知り合い?」
「そうか君のバイト先ってのがここだったってわけか」
「ええ、奥様から碇さんのことはよく伺ってました」
「そうか、じゃあ御礼をしなきゃいけないね、家内が世話になったみたいで」
アスカが意外そうな表情で僕を見て身を乗り出し、ムサシがかったるそうにあくびをしている。僕はケイを隣に座らせた。反対側の隣で、ユイとマナが恨めしげに僕たちを見ている。
「碇さんってやっぱりこういう世界に顔が利くんだね」
「それほどでもないよ」
話しながら、ユイとマナの背中を撫でてやる。ユイはうれしそうに僕にしなだれかかり、洞木がまた怪訝そうな視線を僕たちに注いできた。
「ところでマイさんのほうとは話しは進んでいるのかな?」
「ええ、いちおう夏ごろを目途に」
「ようやくデビューってわけか、おめでとう」
「ありがとうございます、ですからこの仕事もそろそろ切り上げなければいけませんね」
「そうだな、これから忙しくなってくるだろうしね」
二人で飲み交わしながら僕は自分の心の不安が興奮によって覆い隠されているのを感じていた。こうやって仕事に没頭していれば少しは気が紛れるのか、不安になるのは自分の足がかりになるものが無いからだ、何をすべきか分からないから戸惑ってしまうんだと。
去年はそうやって、UVを全国区に売り出したりなど大きな仕事を片付けて、それらが終わった頃には鬱状態が薄れ、なんとか日常生活を送れるようにはなっていた。
「しかしホストクラブで野郎ばっかしちゅうのも変な気分やな」
「アスカもああ見えてけっこう遊んでたんだなあ」
「こらムサシ」
ムサシの印象ではアスカはまじめな主婦といったところだったのだろうか、トウジとムサシはそれぞれに好き勝手なことを言っている。僕はアスカのほうを気にしながら、それでもユイたちと手を握りあっていた。何をやってるんだ俺は、こんな場所でこんなことをして。お互いに愛人と遊ぶ姿を見せ付け合って、そしてどうする?
武藤たちはすぐに雰囲気に慣れたようで、楽しそうに飲んでいる。アスカも手馴れた様子で酒を注文している。
「しかし意外だったね、ケイくんがこういう仕事をしているなんて、女の子は苦手なのかと思っていたけれど」
「ええまあそれはあるんですが、やっぱり自分でもなんとかしなきゃいけないなっていう気持ちがあったのと、あとはお金ですか、稼ぎのいい仕事って考えたときにですね」
お互いに愛想笑いを送りあう。僕はすこしでも彼の成績の足しになればとコニャックのボトルを開けさせた。店内の照明で琥珀色に照らされた液体を口につけ、身体じゅうに染み渡るアルコールの心地よい酩酊にしばし意識をゆだねる。
送り指名にケイを選び、表に出てからマヤさんが僕に言った。
「そういえばシンジ君は彼のこと知ってたんだったわね、歌手デビューを目指してるって」
「ええ、マイさんと少しお話しをさせていただきまして。ですけどまさかこんなところで会うとはですね」
アスカはみんなを連れて帰り支度をしている。ユイとマナが僕たちのそばに来て、一緒に帰ろうと視線で言っている。
「ここの社長さんは知ってるでしょう、島風社長」
「もちろん、僕も昔は世話になりましたし」
「相模ケイイチロウ、彼の母親の旧姓が島風だったのよ」
「なるほどそうだったんですか」
島風社長の仲間たちとは僕も交際があった。彼の妹、つまりケイの母親が見初めた男というのがかつてこの街でホストをしていた島風社長の親友だった、というわけだ。息子は父親の背を見て育つというが、ケイもその例に漏れず、父親の居た世界を知りたくてこの道を選んだのだろうと思う。
「だから断らなくてよかったと思うよ、ケイがうちで働きたいと言ってきたときにね」
仕事に戻るケイの後姿に思いを馳せて島風社長が言った。
アスカたちを先に帰らせ、僕とユイとマナとマヤさん、島風社長は通りに面した街灯の下で話していた。かすかなそよ風が時折通り過ぎていく。
マナがライターの口火を手で覆ってタバコに火をつけ、一息ふかした。
「彼がミュージシャンを目指してるというのはご存知だったのですか?」
僕が訊くと、島風社長は軽くため息をついてから話し出した。
「ああ、オレとコウイチも昔はちょっとかじってたからな、結局売れるところまでは行かなかったけど、気づいたらこっちが本業になってたというわけさ」
「そのあたりの顛末も彼は知ってるんですよね」
「だろうな、ケイはあの頃はまだ小さかったから、覚えてはいないと思っていたがやはり蛙の子は蛙だよ」
「一条さんたちにはちょっと分かりにくい話しかな」
ユイたちの方を見て言うと、彼女はううん、と首を横に振った。
「碇さんたちの話し聞いてるとなんだか落ち着くよ」
「そうか」
「自分がこういう世界に居るんだっていう認識が確かなものになるから」
ユイたちは中学生、所詮中学生と言うこともできるがこの場では違う。ユイとマナは、一条ユイと霧島マナは立派な僕たちの仲間だ。僕は彼女たちに惚れているしユイもマナも同じようにだ。僕は彼女たちの望みを叶えたいと思うし、僕も彼女たちに望んでいることがある。他の誰でもない、ユイ、マナに対してだ。
自己の認識とは自己を知ることだ。周囲の人々、自分を取り巻く人間関係、それらを知っていく中で人は自分というものを理解し受け入れていく。ユイも、マナもそれを当たり前のように行い、自分がどういうものかを彼女たちなりに理解している。
僕にとってそれは音楽であり、CMRBというレーベルであり、CGTという企業グループであったわけだ。僕はこれからひとつの仕事に向かう、それはCMRBの15周年という記念イベントであり、それはつまり僕の人生がひとつの節目を迎えてから15年という区切りをつけ、それを確かめる作業だ。そして僕はそのイベントにユイたちを参加させようとしている、つまり僕の人生の中に彼女たちを立ち入らせようとしているんだ。僕はそれをはっきりと認識しなければいけない、僕という自己を支えるものが音楽であれば、それにユイたちも加わるということだ。一条ユイ、僕が愛していると言える少女、彼女が僕の人生に係わってくる。
人生、という言葉を使ったがこれは僕が今まで生きてきた中で得た自己の認識の集合だ。たとえば少年時代には親戚の家に預けられていた。特務機関NERVに所属し、エヴァンゲリオンのパイロットをしていた。ストリートチルドレンとなって荒れた街を渡り歩いていた。そして、レコード会社を立ち上げて音楽活動を始めた。それらすべての物語の、主人公は僕、僕にとっての主役は僕自身であったわけだ。
幼かった日のケイは何を見て、そうして何を思っていたのだろう。
そして僕も同じようにだ。一人置き去りにされ、僕は遠ざかっていく父さんの背中を見ていた。
ミライは何を見ている?同じように、去ろうとする僕の背中を見ているのだろうか。
両手につないだユイとマナの手をもう一度、握り返してやる。今僕たちはこうして一緒に居る、一緒に。それは僕たちのたしかな意思によってだ。
これからのことを僕はユイたちに話し、そして決めなければならない。
解散した後、ユイとマナが両側から僕の上着の裾を引っ張ってホテルに行こう、と言ってきた。マヤさんが苦笑いを僕たちに向け、島風社長も所在無さげな笑みを送っている。僕が彼女たちとどうなろうと知ったことではない。
アスカとあんなことになった後だというのに俺は何をやってるんだ?
酔って疲れた頭ではまともに思考できそうにない。気持ちだけは冷静なつもりでいるが何をしてしまうか自分でも分からない。
別れ際、ミライが僕の顔を見て手を振っていた。バイバイ、おやすみ、その程度の意味だったのかもしれないが、僕はにわかにそれが別れの挨拶なのではないかという思いが浮かんできていた。もうお父さんとは会えないからせめて笑顔で、ミライはそんな風に思っていたのだろうか?俺はなんてことをしてしまったんだ、血の気が激しく、上ったり引いたりを繰り返す。
マヤさんに今から連絡しようかと考えて、なんて言って話せばいいのかと僕は携帯をつかもうとした手を戻した。今更なにを言う、僕はもうユイたちとの関係にどっぷりと浸かってしまっている。
逃げられなどしない、
ともかくユイたちに、時田氏の言っていた第3新東京市跡の調査をするという話しを伝えようと僕は思った。場所はどこでもかまわない、他の者に見られない場所なら。
手近の安いラブホテルを探しチェックインする。そうだ、出会いはあんな形だったけれど、もうユイもマナも僕の愛人なんだ。アスカは僕の妻だが、それは血縁関係を結んだというだけの話しなんだ。子供もいる、ミライ、彼女はアスカの血と僕の血を受け継いでいる。いるが、だがそれがいったいなんの縁を持つのかと考えたときにこれは本能的に浮かび上がってくる意識の束縛なのだと思う。
ミライはまだ10歳なんだ。世の中のことなどわからないしこれから理解していかなければならないというのに、僕がこんなことをしていていいのか?
問いかけはどこまでも無限に。僕は彼女たちを──アスカとミライだ──愛し、そして導いていかなければならない。それは男として父親としてなすべきことだ。そのはずなんだ、そのはずなのに、僕はこんなに浮ついてしまっている。
ユイ、僕は初めから君と付き合う資格なんて無かったのか?
今まで何度も僕を悩ませた問いかけが再び頭をもたげてくる。何度も自分自身に問いかけ、そして答えの出なかった問いに。
「碇さん?」
ユイの声、無邪気な声が僕を打ちのめす。
笑ってくれ、これが俺なんだよ。家族を捨ててまで、俺は二人の少女にのめりこもうとしている。
割り切ることだってできたはずなんだ、表面だけの付き合いなら、どちらも過不足なくこなして渡り歩いていけたはずなんだ、だけど僕はそれをしなかった、いやできなかった。割り切ることができなかったんだ。ユイに、マナに、どこまでものめりこんでいってしまった。だから今、こんなに苦しんでいるんだ。
いや初めからそういう思いがあったのかもしれない。
僕の仕事は普通の賃金労働者と単純に比べることはできないが、それでも忙しいことに変わりはない。仕事にかまけて家庭をおろそかにしていても、それは意味としては同じだ。養育費や生活費はきちんと出してはいたがそれだけだった。僕は父親として娘に接することができなかったんだ。
何ひとつ変わりはしない、僕は父さんと何ひとつ変わりはしない。
「いやなんでもない、ちょっと考え事をしてたんだ。それじゃいこうか、一条さん、霧島さん」
建てつけのあまりよくない場末のホテルのドアをくぐり、ユイたちが先になってベッドに身体を弾ませた。
「それで話しってのは?」
僕はごくりとつばを飲み、呼吸を整える。
ベッドの上から僕を見上げる4つの瞳を見つめなおし、僕はベッドにゆっくりと腰を下ろした。ユイたちはすかさず僕の身体に絡み付いてきた。
「前に、君たちから夢の話しを聞かせてもらったよね、世界の終末みたいに見える夢を」
「うん」
「じつはそれを研究している科学者が居るんだ、僕の知り合いでね」
「そうなんだ」
「で、今月の末に第3新東京市跡に調査隊が向かうんだけど、その隊に僕らもゲストとして連れて行ってもらえることになったんだ。それで君たちにもと思ったんだよ」
ユイたちはあくまでも冷静だった。驚いてはしゃいだりということはせず、それがかえって、待っていたのではないか、僕が答えを言うことを期待していたのではないかというように思えた。
もっと聞かせて、とユイが僕の腕を取った。マナも寝そべって僕の腰に抱きつき頬を擦り付けている。僕は両手で二人を抱き愛撫しながら、ゆっくりと、ひとつずつ話しを伝えていった。
時田氏によれば、人類補完計画によってヒトの細胞に刻み込まれた種族記憶とでもいうべき遺伝子情報が、あるなんらかのきっかけによって発露し人々に共通の夢を見せるのだという。僕は腰の上にユイを跨らせ、顔面でマナの股間を支え、血色のよいマナの陰部を間近に見ながらそう話した。
セックスの間の会話はとても苦しかった。僕はユイとマナの奥底、しかしまだ底の見えない本当に深くにまで立ち入ってしゃべっている。僕はもともとベッドの上では饒舌なたちではない。時田氏の簡単な紹介と彼の研究内容、そして僕が聞いた限りでの彼のたてている仮説をユイたちに話した。嬌声をこぼしながら、ユイはすがるようにうん、うんと相槌を打っていた。マナはずっと僕の身体の敏感な部分を小さな囀りの音を立てて舐め続けていた。吸い上げられるのが分かる、ゆっくりと、ゆっくりと登っていく。でなければ冷静に会話のできる時間がなくなってしまう。膝の上に抱いたユイの乳首に口付けながら、僕は背中に回した手で彼女の身体を支えた。
君たちはきっと、いつか話してくれた君たちと同じ夢を見るという子供たちはきっと新人類なんだと思う、新しい種類の人間だ、これから未来を作っていくんだ。君たちは将来の夢ってあるかい?悠々自適の仕事をして、毎日を穏やかに、そして大切な人を見つけて幸せを築いて、そんな風に考えるかもしれない、形は変わらないかもしれないけど、ヒトの形は変わらないかもしれないけど人類は確実に変化しつつある、新たな種類の人類が生まれつつあるんだ、僕みたいな古いタイプの人間はもう表舞台から降りるんだ、君たちが未来を作っていくんだよ。
ユイ、マナ、君たちが未来を作るんだ。
僕がまだ知らないのは未来の出来事だ、これから先に起こる出来事。しかし僕の知らない昔のすでに起こった出来事を何らかの方法で目にし、知ることができたとしたらそれは未来なのか?過去と未来の区別はあいまいだ。時間というのは人の数だけ存在するのだ。
遊び疲れて眠ってしまったユイとマナの手を握りながら、僕はずっと心の中で繰り返していた。
携帯の液晶ディスプレイは今の時間を午前1時と伝えている。僕は片手で薬のシートを破って一錠を取り出すと、水なしで唾液に溶かし飲み込んだ。ロヒプノールのほのかな苦味が舌を震わせ、口の中とのどの奥に広がっていく。もう十数分もすれば眠剤が効いて僕も眠りに落ちるだろう。
呼吸に合わせて、マナの柔肌を覆う毛布がかすかに上下している。
ユイの穏やかな寝息がとても愛おしかった。
+続く+
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