Track 12. 『ロミオ&ジュリエット』ロリータ





 部屋のカーテンから光がこぼれている。携帯で時間を見るともう10時過ぎだった。受信フォルダに恐ろしい量のメールがたまっていて、驚いて開けてみると全部マナからだった。後の方になるほど件名の顔文字が泣きそうになっていて思わず吹き出した。昨夜は悪いことをしてしまったか、だが、僕にだってたまにはこんな夜もあるさ。僕はマナからのメールすべてに目を通し、彼女がどんな顔をしてこの文章を打っていたのだろうかと想像した。僕のユイとの関係をからかう冗談も交え、文章のそこかしこで僕が援交にはまったおじさんであることを強調し、そして最後にまた会いたい、と遠慮がちに付け加えられていた。

 僕はベッドから降りて部屋のカーテンを開け、外は雨が降っていて薄暗かったので部屋の明かりをつけた。汗がしみこんでべとついたシャツと下着を換え、軽くシャワーを浴びてからハッピーフォーメンをつけ、クロゼットに吊るした普段着の中からカーキ色のカーゴパンツとベルベットのストライプシャツを選んで着た。それから冷蔵庫の中を探してよく冷えたスポーツドリンクを一缶飲み干した。そこまでしてようやく意識がはっきりしてきて、空になった缶を握りつぶしながら背伸びをして関節を鳴らした。リビングの窓から見える山が雲をかぶって白く煙っていて、雨だれが窓ガラスを静かに濡らしていた。まばらに落ちる雫を見ていると心がどこまでも穏やかになっていき、現実の不安や心配事などをきれいさっぱり忘れられそうな気がした。だがもう数時間もすればぶり返しの鬱が襲ってくるだろう、頭に浮かんでくる疑念を振り払おうと僕は唇を吊り上げていた。

 なんで今頃、思い出したりしたんだろう?
 久しぶりのトリップは少なくとも感覚的には身体を爽快にさせてくれた。思い出すごとに、意識が途切れる瞬間はあったとしてもつながった連続した時間なのだと身体が覚えていて実感できる。

 意識の中に重い質量を持った空間が広がっていく。物質とは粒子の塊ではなく、粒子どうしが反発しあって作る空間なのだ。空虚。どこまでも、ひたすら、反発力だけが満ちた空虚が広がって僕の頭の中を埋め尽くしていく。手足が身体から離れてばらばらになってから再びくっつく。僕の185センチの身長の中に無限の距離が生まれ、いくつもの記憶とそれを携えた意識がばらばらになり思い出が分解写真のようにずれて広がって薄められていく。

 どうなんだ、答えろアスカ!!

 声が聞こえる、誰の声だ、僕の声?アスカの声?それとも誰かの歌か?終末の賛美歌が響く。声、声、歌声、天使の歌声。しかしそれは僕の知らない言葉だ、文字に表せないのに、跳ね回る見たこともない文字が僕を切り刻んでいく、声、それは日本語でも世界中のどんな言語でもない、人間の発音できない音が綴られて何かの意味と結び付けられて僕の中に押し込まれる。声、音だ、軋む音、頭の中がねじれて壊れていく音だ。

 素晴らしいってどういうこと?

 天使って、なんだ?

 使徒。

 使徒、天使、神の御遣い。
 有史以前よりこの星に根付く純粋かつ無慈悲な機動戦闘端末たちよ、君たちは知ってたのか。教えてくれようとしていたのか?違う、ただ遭遇して衝突しただけだ。見せろ、君たちの持っている何かを、俺に見せろ!
 沈む、
 沈む、しかし底が見えない、沈んでいく意識がどこまでも覚醒している。これ以上沈んだら落ちる、その境界がなくなって、眠っているのか起きているのかわからない。
 綾波が何かを言っている、だけど、僕には言葉がわからない。見ることしかできない、だけどこうやって触れることはできるんだ。綾波。

 もう一度、触れてもいい?

 ユイ、君がいなければ僕は綾波に会えなかったんだ、僕に思い出させてくれたんだ、そうだよな。君がいなくなったら僕はまた一人ぼっちだ、どこへ戻るんだ?戻れないかもしれない、それなのに、僕は後悔なんてしてない。してないから。
 だから僕は、僕に邪魔をさせない。突進してくる初号機が見える、携えたパレットライフルが火を噴く前に、その前に叩き割る。ユイ、そっちはどうだ!
 綾波、今行くから!
 君を死なせはしない、僕と一緒に来るんだ、君はこっちに来ることができる、僕たちと一緒に来ることができる!
 君の抱えた想い出が僕たちの世界だ、ほらこうして形に表すことができる。第三使徒から第拾五使徒まで、君と僕が共に見てきたすべてを、そこに限っては揺らぎなんかない、確かな存在なんだ。

 涙は、過去の僕のために遺しておいてくれ。

 今の僕にはそんなもの、必要ないから。

 ギター・リフが変形してスクラッチサウンドを連ね、MDの再生トラックが11から12へ切り替わった。僕はベッドの上で大の字になったまま、手元のリモコンを探して音量を絞った。ロリータ『ロミオ&ジュリエット』、もちろんかの有名な戯曲とは関係ない、ただタイトルを取っているだけだ。

 ロミオ&ジュリエット、私たちは共に永遠に。誰も私の世界をいじれやしない。
 こうして改めて聴けばほんの数分間の曲でしかないのに、それが何時間にも、永遠にも引き伸ばされて感じた。人間の脳ってのはそれだけ、短い時間を凝縮してより深くまで潜っていくことができる。人生さえ、たとえば死ぬ間際に走馬灯のように思い出を見ることがあるように、人間の感じる時間は瞬間と永遠を共存させている。

 身支度を整えて家を出た僕は待ち合わせまでの時間を本屋で過ごすことにした。新刊のコーナーには今日も変わらず若手作家の小説が積まれていて浮いたような煽り文句が短冊に吊るされていた。洋書のコーナーに足を運び、ゆっくり歩きながらぼんやりと背表紙のタイトルを眺める。隣にあるサブカルチャー関連の棚に目が移り、その中の紫色の表紙をした本が目に留まった。
 変性意識、とゴシック体のアルファベットでタイトルが綴られ、暗闇に浮かび上がる稲妻かプラズマのようなものがそれを取り囲んでデザインされていた。
 著者の名はこの類の題材を扱うライターとしてはよく知られたもので僕はすぐに内容の想像がついて、重いハードカバーの本を手に取り開いていた。幻覚性植物やケミカル・ドラッグによるサイケデリクスについての考察は、世界各地の宗教儀式や風俗文化と絡めて展開されなかなかに興味深くそしてそれ以上に、漂う空気というのか、読んだ者を不思議な気分にさせる本だ、と僕は思っていた。音楽との関連についてのコラムもあり、そこではインドネシアはバリ島の伝統楽器、ケチャとガムランが紹介されていた。これらのエスニック系楽器はシンセサイザー機器の規格では音色番号105番以降に割り当てられていて、一般的なポップスの中ではアクセント的に使われることが多い。こういった音色をバックグラウンドで鳴らし続けると同じ曲でも不思議なほどに印象や意識へのプレッシャーが変わることがあり、それはこれらの楽器が人間の精神に働きかける特徴のある波長を持っているのだと、僕が感覚でなんとなく捉えていたことをそのコラムは理論立てて書いていた。波長、周波数、波形、すなわちすべては波だ。音の波は空気の振動で、光をはじめとした電磁波は粒子の振動。波とは振動、つまり物質が、世界を構成する要素が揺り動かされているということだ。それがある特定の領域で強められたとき、人間の肉体も精神も大きく影響を受ける。言葉とか知識とか、唯物論でしか物事を考えられない人間にとっては理解しがたい、しかし、こういう力というのは現実に存在するのだと僕は思う。エヴァにしても、神経シンクロにしても、ATフィールドにしてもそうだ。これらの技術は現在でもオーバーテクノロジー扱いでサイエンスフィクションの領域を出ることはないが、現在研究・実用化が進んでいる第七世代有機コンピュータなどはかつてのMAGIシステムがベースとなっている。同様に、使徒たちが持っている能力も決して人間の手の届かない魔法、神の所業などではなくもちろん精神世界の世迷いごとでもなくれっきとした科学技術であるのだと。ロジックは厳正にして存在する、ただそれがひといきには掴めないほど複雑であるというだけのことだ。僕やユイやマナたちに起きている変化、従来の人間と違う不思議な感覚、今までだったら精神病の一種とされてきたこれらの症状もあるいはそんな影響の表れかもしれない、そう静かな興奮の中で思う。

 立ち読みに夢中になっていると突然斜め後ろから声をかけられ、僕は驚いて顔を上げ身体を引きつらせながら振り向いていた。そこには大人と子供の境目にいる少女が、穏やかでいてかつ若者らしい元気な笑顔を湛えて僕を見上げていた。

「探したよ、ここの本屋広いからなかなか見つからなかったよ」

 マナは以前マヤさんの地下クラブで会った時と同じ黒いキャミソール姿で、肩や胸の白い肌を惜しげもなく見せていた。むやみに化粧などせずとも生まれ持った瑞々しさが最大限に艶と張りを出しているとわかる、ある意味でユイ以上に美しい、と思う。微笑むマナの頬がとても柔らかそうに見えて、ちらりとのぞく舌に弾かれた唇が滑らかにきらめく。僕は思わず腰をかばって一歩後退った。これは誘ってるんだ、そう気づいたときにはもう遅くて、僕の身体はマナに欲情してしまっていた。昨夜のトリップの余韻が残っているせいなのか、マナから目を逸らすと店内にいる他の客たちの姿が目に入り、今日は土曜だからいつもより客も多い、周りの人間たちの視線が痛く苦しく、卑しい自分が晒し者にされている気分が沸き起こってきた。
 落ち着けよ、彼女は子供、中学生だぞ?それとも俺はやっぱり、ジュンヤが言うようにロリコンなんだろうか?いや、そこらの女子中学生を見たって別になんとも思わない、マナだから、ユイだから、彼女たちが他の連中よりも抜群に色っぽいってことだろ。
 本を棚に戻そうとするとマナが歩み寄ってきて、僕に寄り添いながらハードカバーの中身を覗き込んだ。傘を差さずに外を歩いてきたのか、髪がわずかに濡れていてうなじに水の雫が伝い落ちていた。甘くしっとりとしたマナの匂いが僕にまとわりついてきて、思わず腰がすくみそうになった。

「へえ、碇さんってこういうの好きなの?」

 黒い光沢紙に浮遊するオーブのCGが描かれ、それに重ねて白い文字で記事が組まれている。黒い宇宙にマナの茶髪がかぶさっている。

「嫌いではないよ、まあ読み物としては楽しいっていうか、そんなところだね。どっちにしろあんまり大っぴらに見せられるものでもないし」

「私も好きだよ」

 僕はマナの姿をなるべく視界に収めないようにして本を棚に戻し、軽くため息をついた。どっかでお昼にしようかとマナを誘い、とにかく外へ出たくてやや足早に店の出入り口ゲートへ向かって歩く。
 歩きながら、ユイから聞いたマナの身の上を思い出してみる。苦しい家庭に生まれ、辛い思いを重ねてきたのだろう、それなのに、いやだからこそ、彼女は残酷なほどに熱く黒い激情を胸に秘めている。笑顔の影に渦巻く想いを僕は恐れていた、彼女にはとてもかなわない、跪くしかできない、僕はどうすればいい?仕事を頼もうか?僕の懐には彼女に渡せる小遣いは有り余っているが、何もせずにただ金をやるのはプライドが許さない、お互いに。それなりの対価、商品を与えて初めて取引が成立するんだ。
 だがそれにしても、僕はマナに同情以上の思いを抱いてしまっていることを否定できない。事情を知った上で金を援助するというケースは実際にはどれくらいあるものなんだろう、マナの性格からして仕事相手に話しているとは考えにくい。事実、そんなお涙頂戴などせずとも彼女の魅力は男を誑しこむには十分すぎるほどだ。そしてそんな身の上話しに頼るほど、マナは自分を安売りなんかはしていない。ある意味で清らかとすら思えるほどに、この点ではユイ以上だと思う。
 僕はマナに見下されているのか、それも仕方ないかなと、意識が沈められてしまう。

「ユイとはもうヤリまくりなんでしょ?」

 喋ってるのかよ、

「冗談だって」

 僕は焦って口を滑らせ、マナは肩を震わせて笑っていた。たしかにユイとの関係は事実だが、こうして他人に指摘されると耐え切れないほどの衝撃がある。そういえばマナとはまだ身体を合わせていない。マナの小さな厚めの唇が僕の自身を咥え舐めている想像をするとどうしようもなく腰の奥が疼き、換えたばかりのトランクスが濡れてしまいそうだ。ごくわずかの間だけ、想像の中でマナを抱き中出しする。笑いたければ笑え。俺は卑しいやつだ。もし隣にいるのがユイだったとしても、俺は同じ想像をできるのか?

 駅前にあるデパート最上階のレストランで食事にした。ただなんとなしに選んだ席だったが、注文をして待つ間、マナがこっそり指差して僕に目配せしてきたので横目をやると僕たちから少し離れた窓際のテーブルに着いたユイの姿があった。いつもの学校の制服ではない、珍しく薄着で、雨よけのジャケットを羽織った下にデニム生地のホットパンツと肌に密着したきつめのTシャツという服装だった。向かいには、僕たちから顔は見えないが濃緑のポロシャツを着た30歳前後くらいの男が座っている。
 マナはひらひらと手を振り、ユイも気づいたようだが相手の男に気取られないように、こっそりと二人で愛想笑いを送りあっていた。僕は背を向けているために振り向くと気づかれてしまいそうだったので軽く手を上げた。
 こういう場所で食事を取るとき、僕は店内のBGMに聞き入ることが多いのだが今回はユイたちの会話に聞き耳を立てていた。

 こんなふうにニアミスすることってあるのかな、

 マナはクスクスと声を抑えて笑い、地域はある程度ずらすからまずないよ、と言った。自然と小声になり、顔を近づけて話しているところにウェイトレスが品を持ってきて僕はあわてて振り向いた。白いメイドエプロンを身につけたウェイトレスは茶髪にすこし枝毛が混じっていて、たぶん学生の頃は遊んでいたのだろう、消耗して荒れた肌を化粧で繕っているのが見て取れた。向き直ってマナを見れば、若い少女ならではのみずみずしい白い肌が輝いている。マナやユイももう何年かすればさっきのウェイトレスのようになってしまうのかと思うとかすかに悲しくなる。

「やっぱり若い女の子には目がないのかな?」

 いやそういうわけじゃないよ、

 微笑み返し、皿にスプーンを置いてジュースのストローを口に含む。マナも同じようにし、僕はストローを咥えたマナの唇に視線を注いでいた。

「男なら誰だって見るくらいはするさ」

 ユイたちはゆっくりと食事をしながら会話を楽しんでいたようだったが、途中で相手の男に何かを断って席を立った。僕たちはその間に手早く勘定を済ませて店を出、すぐそばのエレベータホール脇にある手洗いに向かった。土曜日なので最上階の飲食街や玩具売り場には家族連れの姿が多く、僕たちはそんな人々を遠目に見ていた。

 少女が洗面台に手をついてうずくまっている姿が見えた。嘔吐をこらえる呻き声がタイルの壁に反響しているが、店内のBGMと雑踏の騒音にかき消されて外までは聞こえてこない。ユイに向かうマナの背中がかすかに強張ったような気がして、僕は一瞬声をかけるのをためらってしまう。

 どうした、と僕が言うよりも早く、マナが呆れ気味の声を浴びせかけた。

「ユイ、あんたまさか」

「んなわけないっしょ」

 最後まで言い切らないうちにユイは荒い口調で返し、水で濡れた口の周りを拭った。瞳が浮ついて顔色も心なしか悪い。

「ちっと疲れてただけだって」

 僕たちを押しのけてトイレを出ようとしたユイを、マナが肩を掴んで引き止める。

「ユイ」

「だいたいなんでマナ、あんたたちがここにいんのよ」

「偶然立ち寄っただけだよ」

 二人ともそれくらいにしとけ、僕は周囲に気を配りながら抑えて言った。マナはしぶしぶ手を放し、ユイは何度も肩で大きく息をしていた。
 僕はそんな二人を見て少なからずショックを受けていた。ユイもマナも、人並みにいろんな表情を持っている、僕に見せていた表情だけがすべてではない、僕が彼女たちのすべてを手に入れられていたと、それこそは思い込みで自惚れで思い上がりでしかなかったのだと。僕の部屋で、ラブホテルで、ベッドの上で僕に甘えていたユイ、だけど今は心を鋭く尖らせ僕を拒んでいる。
 当たり前だ、今のユイは男に見せ掛けの愛を売る娼婦の姿。僕の前で見せていた純情な少女の姿ではない。僕ごときが仕事の邪魔をするわけにはいかないだろう。

「早く戻らないと彼が心配するぜ」

 わかってる、そう短く言ってユイは顔を伏せ足早に去っていった。
 マナはその背をじっと目で追い、それからおもむろに僕のほうに向き直ると笑顔に切り替えて僕の腕を取った。

「ゲーセンで遊ぼうよ、プリクラ撮ろう」

 促されるままに、僕は騒がしいゲーム機の群れの中に迷い込んでいた。ユイのことが気がかりで、マナのはしゃぎ声がどうしようもなく浮ついて聞こえる。

 苦しかったのはなぜなんだろう、あの男と付き合うのが嫌だったのだろうか?でもユイだってずっとこういうことを続けてきたんだし、いまさらそんなことがあったりするものなのだろうか、僕にはわからない。思い出せ、何を基準にして考えればいい?
 昔、アスカと再会する前だ、大学の傍らジュンヤの仕事を手伝っていた頃には、彼の指図で女たちの相手をすることがしょっちゅうあった。もちろんそれなりの報酬は貰う。ジュンヤが扱う女たちは下は女子高生から上は熟年の人妻まで様々だったが、僕は決まって彼女たちが男相手の仕事をしてきた後の慰みをやらされていた。やらされて、というよりもむしろ僕が望んでいた節もあったのはどうでもいい話しだ。借金の形に売られたり、色情狂の気があったり事情は様々だったが僕は憚ることも無く彼女たちを誑しこんでいった。暴力的なあるいは甘美なセックス、薬を使うことだって躊躇わない。僕という餌を貰って、代わりに自分を売れ。圧し掛かる現実、それは自分がどこまでも弱く惨めで浅ましいということ、苦しいのは自分の弱さのせいだという現実を見せつけ思い知らせ、絶対的服従を誓わせること。そうした後に自分の力で歩け、と言えばそれは彼女たち自身の意思になるってわけだ。
 あの頃の僕はまだ、今のように心を挫けさせてしまうことも無く、若さと無知ゆえの強さがあったと思う。飼っている女がトラブルに巻き込まれれば、相手のもとに乗り込んでヤクザまがいの立ち回りをしてみたり、リンチして海に捨てた人間もどれほどいたかしれない。
 今の僕にそんなことが出来るか、と訊かれればそれはとてもではないが無理だと思う。もしユイの身に何かがあれば僕はかつて無いほどに怒り昂るだろう、しかしそうなった自分を想像できない。僕にとってユイがその程度だという意味ではない、気にかかること、自分の行動による影響を考えすぎてしまって躊躇いが行動をねじ伏せてしまうのだ。

 マナは出来上がったばかりの写真シールを携帯に貼り、僕にも一枚差し出してくる。手書き調の花と蝶で囲まれた僕たちの写真は、傍目に見れば普通のカップルと変わりないように思える。
 だけど、僕はまだ迷ってる、このままでいいのか、何かをしなければいけない、何かを変えなければいけない。
 もしユイがまた僕のもとに帰ってきて、僕に泣きついてきたなら僕は応えてやるべきだろうか?それとも、そんなことぐらいで挫けるなと嗜めるべきか?ユイ、俺は君のことが心配なんだ。君が苦しむ姿を見るのはつらい。僕は君を信用できていない?見くびらないで、僕のイメージの中でユイが睨みつけている。

「一条さんのことだけど」

 あんなふうに具合悪そうにすることってあったのかい、

 ライドゲームの筐体の影で僕たちは話した。他の客たちはみなゲームに夢中で、僕たちのことなど気にも留めない。ひな壇の上にスロットゲームが列を成して並び、薄暗い照明と趣味の悪いレーザーに纏われながらまがい物のメダルを買ってギャンブルもどきに時間を潰している男が数人いる。そんな彼らと僕とにはいったいどれくらいの違いがある?
 何も出来ない、焦りと苛立ちと不安。

「最近は調子よさそうにしてたんだけどね、碇さんと付き合いだしてからもうほんと、肌つやつやって感じで、だから大丈夫なんじゃないのっては思うけど」

「避妊はしてるんだよな、俺はともかく仕事では」

「それはもちろん」

 まさか本当にそんなことはないだろう、と僕は自分を安心させようとしていたが、まったくありえない話しではない、たくさんの男たちと寝るうちに、父親のわからない子供を身ごもってしまってなどというのは今時ドラマにもならないほど腐りきってしまった話しだが、当事者にしてみれば限りなく辛いことだ。
 生でやらせろなんていう男だって居るだろう。
 もしユイがそうなっていたら、俺はどうする?手術代やその後の身体のケアなどを世話してやるか、それとも。
 冗談はよしてくれよ、俺は世捨て人か?
 マナは笑みとも嘲りともつかない微妙な表情で僕を見上げている。

「ユイもあれで気ぃ弱いとこあるからね、たまにはへこんでる日もあるでしょ」

 マナはあくまでも軽く見ているようだったが、僕はひとつの推測にたどり着いていた。それは昨日、ユイを抱いたときに思ったように、彼女も僕と同じく心に病を抱えているのではないかということだ。
 これはマナに訊くわけにはいかないしここで僕がしゃべっても仕方の無いことだ、と僕は思いを胸のうちに秘める。
 もし薬を処方されているのならきちんと飲むようにしてくれ、足りないと思ったら医者に言って処方を変えてもらえ。僕も最近は危ないんだ、抑えきれずにあふれ出してくる闇がどこまでも止まらない。ユイ、君と触れ合っている間は安らげるかと思ったけど、それも結局は僕の、僕たち自身の弱さが逆に自分を傷つけてしまっている。特効薬なんてものはない、ただ薬を飲んでればなんとか日常生活を送れるほどには落ち着けることができる、それだけのことなんだ。愛情も、友情も、憎しみさえも何の役にも立ちはしない、だからどこまでも感情を殺して、ひたすらにニュートラルでいることを求める。そうやって僕は今までなんとか生きてこられたんだ。ユイ、君の前にある未来は長すぎる、果てしなく長く感じることだろう、だけど歩いていくしかないんだ。だから少しでも負担をやわらげられる方法があるならそうして、死なないように生きていくしかない。

 碇さん、とマナが僕の袖を引っ張っている。

 マナはどうなんだろう。僕のように、心の病に苦しんでいるふうには見えない、人並みの強い心を持ってしたたかに生きている、そう見える。
 しかしマナもユイと同じように不思議な幻夢を見たり、生き物を体内に感じることがあるという、だけどそれにどうやって向き合うかとなった時、マナは怯えず、逃げずに立ち向かっている、そんなふうに見える。
 羨望、それともイメージの押し付け?マナだってもしかしたら、必死で自分を保ち、気丈に振舞って見せているだけなのかもしれない、努力しているのかもしれない、それなのに俺がこんな身勝手な、一方的な羨ましさを抱いていいのかよ。
 ジュエリーやアクセサリーに飾られたマネキンが並ぶフロアを手をつないで歩きながら、僕はこの衆人環視の中でマナに跪きたいという衝動を持て余していた。専門の風俗嬢がやるSMプレイのように、女王様にひれ伏す奴隷、自分のプライドとか尊厳をことごとく打ち砕いてマナに、この少女に奪われてしまいたい。
 俺は何を考えてる、想像を振り切りながらマナの手を握りなおした。
 いっそのことこのまま死んでしまいたい。
 突然目の前に空虚が広がったようになって、僕はヤバイ、と思ったがその冷静な意識すら遠くへ、相容れない速度で遠ざかっていってしまった。
 僕はどこかの寂れた町を歩いてる。道の向こうからユイが歩いてくる。ぼろぼろの服と煤けて汚れた髪と、深い哀しみをたたえた表情で。ひとりぼっちだよ。どうしてこんなことになったんだ?町に人が誰もいない。みんな出て行ってしまった。僕たちは取り残されたんだ。貧乏だからどこにも行けないんだよ。後ろで自転車のブレーキが軋む音がして、でも振り返っても誰も居ないんだ。誰もいない。ひとりだよ。誰も助けてなんかくれないんだよ。誰もいない遠くへ行こう。空はどこまでも深い、海はどこまでも深い、蒼い白い空はすべてをかき消す、青い黒い海は何もかもを飲み込む、この海に飲まれたら僕はおぼれて死ぬよ。そうだ、死ぬんだよ…
 死ぬんだよ。
 死ぬんだよ。
 死んでしまいたい。
 僕が死んだらユイたちはどうなるだろう?アスカは?ミライは?僕がいなくなったらこの世界はどうなるんだろう?
 どうもなりはしない、
 頭の中から僕を構成するいろんなものが溶けて流れ出していく。穴だらけの僕の身体はもう水をためておけない、僕の感情も、大切なものも何もかもが散り散りになっていく。何ひとつ守れやしない、何ひとつ、自分の命さえ、僕の心は自分の命さえ繋ぎ止められない、僕は死ぬんだ…

 どうやって歩いてきたのかわからないが僕はエレベータホールわきの非常階段の踊り場でうずくまっていた。マナはいない。姿が見えない。
 非常な孤独感と恐怖感が襲ってきて激しく息を吐き始めたとき、マナがポカリスエットの缶を持って小走りに戻ってきた。自販機から買ってきたばかりの缶は結露してマナの小さな白い手を濡らしている。

 大丈夫?とマナは缶を差し出して言った。

 僕はどうにか、細い245ml缶を受け取ったが手が震えてプルタブに指をかけられず、マナが僕に手を添えてようやく開けることができた。一口すすって口の中を湿らせ、しかしそこまでであとは飲めなかった。水さえのどを通らない。

「こないだもこうなってたけど」

 今日はもっと酷いよ、とそれだけ言い返した。マナは僕の隣にしゃがみこみ、背中をさすってくれている。マナに触れられている、手のぬくもりが僕の意識を外に向けてくれている。内側にしか意識が向かなくなっていては歯止めが利かない。僕はまともにものを認識できない目をあきらめ、手探りでマナを捜した。

「ごめんな、こんな奴で」

「ううん気にしないで、碇さんは悪くないよ、病気なんだもの仕方ないよね」

 胸に手を当てると激しく脈打っているのがわかった。首筋の動脈が震えるのが脳を叩きつけているかのように、血が押し流れる音が耳に直接響いている。
 時おり通りがかる人が不審にこちらを見るが、すぐに目を逸らしてどこかへ行ってしまう。どうしたんですか、と心配して声をかけてくる人などいない、むしろ僕たちが怪しげなことをしようとしているのではと通報される心配をしたほうがいい。マナはそんな人々の視線から僕を守るように隣に身を寄せ、肩を合わせてきた。マナの髪とうなじからとても懐かしい、甘い匂いがする。幼い少女でも、着飾ったギャルでもない、暖かい母親の匂い、そんな気がした。

「俺たちみんな病人ぞろいか」

 マナは黙って僕を撫で続けている。

「霧島さん、こんなロクデナシ男で本当にごめんよ、マヤさんに頼まれて引き受けたことだけど、僕なんかが君や一条さんのためになれる自信が無いよ、病気持ちで薄情者で、若い頃からずっと悪さばかりしてきたのに、いまさら取り返そうったって遅いんだ、僕は人に優しくなんかできやしない、アスカだって勢いで孕ませてなし崩しに結婚したようなもんだ、実際もう何年もほったらかしだよ、最低の男だよ僕は」

「いいのよ、私は気にしないよそんなこと」

 マナが何かを言っているが僕の耳には、いや僕の心には届かない。激しい幻聴がする。耳元でざわめきが、テープリバースのように何度も繰り返される。

「僕といたって君たちを不幸にしてしまうだけだ、蹴落としてきた人間だって、陵辱して壊した女だってたくさんいるんだよ、でも僕は君たちを同じ目に遭わせたくない、だからもう」

「いいのよそれでも、私は碇さんといっしょならそれでいいの」

 幻聴をかき分けてマナの声が聞こえる。もうすこしで手が届く。

「どんな過去があったって関係ないよ、碇さんの代わりになれる人はいないんだよ、最初に会った夜に言ったでしょ、私も同じだから碇さんの気持ちがわかるって」

「…あるのか?」

 声がかすれて、もう一度言い直す。

「霧島さんは人を殺したことがあるのか?」

 大声を上げそうになった僕の唇を、すんでのところでマナがふさいだ。押し付けられた唇に、僕はやがて絡みついた感情を解き身体の力を抜いていった。
 時間にして10秒くらいだったか、それでもこの状態を人に見られたらまずいと思って僕は何とか身体を奮って立ち上がった。防火扉の陰に倒れこむようにして隠れ、僕は壁に背をもたれてマナを抱きしめる。わずかの間離れて、その瞬間さえも惜しむようにマナは再び唇を突き出してきた。背が低くて背伸びしても僕に届かないマナを抱き上げ、もう一度キスを交わす。

「思い出させないでよ」

 のどを鳴らし、こぼれた唾液の糸も拭わずにマナは僕を見据えて言った。

「男なんて馬鹿なもんだからね、ユイから聞いたでしょ、私がここの出身じゃないって」

「ああ…、鹿児島だっけ?」

 多くは言わない、言う必要も無い。お互いにそれで通じるから。頬をひくひくと震わせているマナを見て、僕は彼女もやはり僕やユイと同じだと思っていた。切れたら歯止めが利かないタイプ、欝方向に行かないため、ふつうに社会生活を送っているぶんにはわかりにくいがひとたびそのマグマが噴出すれば恐ろしいことになる。

 血の匂いがする、心の中でつぶやく。
 こぼれ落ちたキャミソールの肩紐をつまみ、僕はマナを再び抱きしめた。初めて心から彼女を愛しいと思えた。胸の痛みが心地いいくらいに、僕は汚れた愛情を浴びてるんだと涙に濡れた想いを吐いている。

「外出よう、ここの駅ビルの陰にいい場所あるから」

 乾いた笑いを交わして、僕はどうにか心を落ち着けることが出来ていた。それでも、人と付き合うというのは今の僕には負担が大きすぎる。それはマナやユイであっても例外ではない、ただその負荷が快感でごまかされているだけなんだと思う。
 車に戻り、ピルケースに常備していた抗精神薬を飲むとどうにか落ち着いてきた。同時に押さえつけられていた思案が立ち上がってくる。
 なんて意志の弱いやつなんだ俺は、
 やけになっているのかとも思ったが、S2000のサイドシートで満足げな顔をして寝息を立てているマナを見るとそんな自虐も吹き飛んでしまい、僕は穏やかに微笑みながらマナの寝顔を撫でていた。

「碇さんのエッチ」

「一条さんから聞いたよ、君は作曲とかDTMやるんだって?」

 ヘッドレストに頭をもたげたまま、ゆっくりと瞼を開けたマナはきらめく微笑を僕に向ける。

「まあ趣味レベルだけどね、耳コピはそんなに得意じゃないからアレンジでごまかすけどさ、UVの曲とか、『I Will Follow』はお気に入りだよ」

「オリジナルの曲も作るのかい」

「少しね、うんジャンルでいったらダンス系かなやっぱり、詞も英語で書いてさ、さすがにちょっと恥ずかしいけど」

「いやでもすごいよ、中学生でそれだけやれるなんてさ、僕が本格的に始めたのは大学入ってからだったし、それまではいちおうチェロを習ってはいたんだけど、ただ練習曲弾くだけでそれほどたいしたものじゃなかったからね」

 そうなんだ、意外だねとマナは表情を綻ばせていた。会社を興してからの武勇伝の方がイメージが強いためか、チェロをやっていたと言うとたいてい驚かれる。たしかにディスコ少年ではあったし、そっちの方がキャリアも長いけれど、それでも僕の音楽の原点ではあるから大切にしていきたいと思っている。

「ああでもなんかそんな感じはするよ、碇さんの書く曲って、クラシックっぽいっていうのかな、ほかのダンス系とは違ってさ、ただノリがいいだけとかテンポが速いだけっていうのとはまた違う感じがするんだ」

「なるほど」

 やっぱりさすがだよ霧島さんは、これは天性の才能ってやつなのかな、

「技術的なことじゃないんだよね、ハートっていうのかな、パッション、情熱、そんな感じの想いがこもってる気がするんだ、聴く人を昂らせるっていうの、心がすくい上げられる感じ」

 これは僕の考えだけどね、特にユーロビートってのは人間をいちばん興奮に誘いやすいリズムとテンポを持ってると思うんだ、テンポってのは拍の速さだね、リズムは拍の叩き方だ、そのパターンというか、旋律かな、それが人間の生理にいちばんシンクロしやすい、これはユーロに限らない、世界中のあらゆる音楽がそうだ、人間にとってのテンポっていうのは心臓の鼓動だから、ダンスなら興奮してる速い脈拍、クラシックならゆったりと落ち着いた、そんなふうにテンポに身体がついていくってことがつまりその音楽を印象付けてるってことだと思うんだよ、

「そっかあ」

 マナは身体を起こし、上目遣いに色っぽく微笑んだ。

「だからかな、碇さんのエッチが身体の芯まで響いてくるのは」

「音楽に喩えるっていうのかい?僕はそういうのはあまり考えないけどね」

「ただ上手ってだけじゃないんだ、私の頭じゃそれくらいしかわかんないけどやっぱりあると思うよ」

「言うまでもないことだけどセックスは自分とパートナーとの共同作業だ、エッチじゃなくてセックスだよ」

 笑っているマナの首筋と肩の筋肉が震えていて、僕はそれが堪えようもないほどに扇情的だと思っていた。成熟した女ではどんなにがんばっても得ることのできない穢れなき肉体、マナはそれを持っている。

「たとえば君が何某かの同情を僕に持ったとしよう、だけど僕はそれをチャンスとは考えないんだ。お互いに与え合えなきゃセックスとはいえない、僕も貰う、だけど君にも与える。いつでもどんなときでもそれだけは忘れないでいるつもりだよ」

 そうだね、とマナはうなずき僕に手のひらを重ねてきた。軽く撫であってから、そっと握りしめる。

「気持ちいい」

 手のひらを胸に当て、マナの頬がみるみる上気していくのがわかる。

「好きって気持ちがあふれてくるのがわかるよ、胸がこんなに切ないの、痛いくらいに、碇さん私すごく気持ちいい」

「僕もだ」

 つないだ手を何度も握って確かめあい、シートの上で身体を寄せ合う。
 なんて愛しい、可愛らしい、そして畏ろしい。拭えない油のように絡み付いてくる恐怖の下で、僕は自分がこの少女にどうしようもなく惹かれていくのを他人事のように眺めていた。ユイも、マナも、二人ともが僕を虜にする力を持ってる。僕は彼女たちを手に入れる力を持っているだろうか?持っているさ。そう信じたい。僕はまだ若いといえるのか、それとももう十分すぎるほど生きたのか。もし僕がこのまま立ち直れなかったなら、僕はそれまでの命だったということか。違うだろ、今の僕にはユイがいる、マナがいる。彼女たちのために僕は生きようと思える。僕の感情というやつは残酷なほどに、僕自身を、僕自身の意思を変えてしまう。
 僕は彼女たちを愛している。
 否定しようもない。いまさら否定してどうなるという。僕の頭の中にうすうす生まれていたその選択肢が、具体的な形を伴って浮かび上がってくる。

 アスカと別れよう。

 頭の中に響く声をかき消したくて、僕はマナの唇を奪っていた。少女の小さな唇が僕にねじ伏せられ、強硬な舌に陵辱される。マナがのどを鳴らす音が聞こえる。
 いったん唇を浮かせて舌を絡ませあい、それから再び深く交わる。やわらかな頬が大きくふくらんだりしぼんだりを繰り返し、悩ましげに細められた瞳と睫が、マナが欲情しているのだということを僕に伝えてくる。

「ねえ、碇さんは私に何をしてくれるのかな?」

 僕を見据えるマナの瞳はゆるぎない強さを持っている。疑うわけでもない、詰問するわけでもない、ただ僕の真実の思いを見ようとし、それを信じている。

「いろいろあると思うよ」

「ユイは何か言ってるのかな?」

「きっとね、一条さんは君の前ではそんな素振りは見せないのかい?」

 マナは僕のうなじに手を回して抱き寄せ、もう一度キスをした。マナのキスはとても甘い味がして僕はのどを鳴らしてつばを飲み込む。
 怖いかもしれない、
 マナはぽつりと言った。表情は照れくさそうにしているけれど、それは誤魔化しの装いだ。マナにだって怖いことはある。それは自分が底なしの奈落に落ち込んでいく恐怖。

「もし誰かを本気で、ううん心の底から、なんていうのかな、自分のすべてが注がれるくらいに好きになっちゃったら、自分を保っていられる自信がないよ、もしダメだったときにはどうなっちゃうんだろう、どうしたらいいんだろうってね」

「僕も同じだよ」

 そんなだからこの歳になってもいまだにウジウジしてるんだけどね、
 マナの優しい微笑みがたまらなく僕を愛撫する。どんなに幸せだろう、苦しまずに人を好きになれたら、欲望だけを満たすことができたら。それは間違っているのか?

 ユイは言う、本気にならなければそれはいいサービスとは言えない、相手にはちゃんとわかるから。
 マナは言う、本気になるってのは自分を壊す覚悟がなければできない。

 その結果が僕だ。たくさんの人を傷つけ、甚振り、苦しめてきた。それはけっして消すことのできない僕の罪だ。そんな僕が、この二人の幼い少女を抱え込めるっていうのか?マナが今僕に言っているのは、そういう深い覚悟無しで、ただのセックスフレンドなら苦しまずに欲望だけを満たせるだろうと。たしかにそれで身体は落ち着くかもしれないが、心の底に溜まった澱は解けることはない。襲い掛かる不安の鬱積をついには避けきれずに爆発してしまうことは遠からず確実だ。

 一休みしよう、そう言って僕はシートに頭をもたれて目を閉じた。2シーターのS2000ではシートを倒せないのでこういったときだけは少し不便だな、とかすかに思う。マナと手をつないで微睡むととても心が落ち着いた。薬が効いてきたのもあるだろう。なんとかこの調子を保てればいい、と思う。

「たとえばの話だ、もし僕たちが別れなきゃならないってことになったらどうするだろう?なんだかんだ言って僕は妻子持ちだしな、マヤさんだってどうしても無理だっていうなら僕に強制はしないと思う」

「そうなったらやっぱり悲しいよ、でもいずれは立ち直って新しい人を見つけるだろうね」

 わずかの間を取ってマナは答えた。
 それは内容としては至極真っ当なはずなのだが、どうしようもなく、僕たち二人の心を抉る。この場にいればユイも同じように思うはずだろう。
 どれほどかけがえのない人だと思っていても、失ったら代わりを見つけなければならない。もしそこですべての望みを失ってしまうとしたら今頃この世に人間なんて一人もいなくなってしまう。
 だけど、だからといって想いの価値がその程度だったなんていうことはない。
 ここだけは間違えちゃいけないと、僕はずっと思うようにしていた。誰かを想うなら、その悲しみは想いを向けることの代償だ。それが嫌なら初めから人を好きになる資格なんてない。あの少年時代、トウジやアスカを傷つけ、綾波を喪い、そして渚カヲルを、人の姿をした使徒をこの手で殺したこと。今でも忘れてはいない。トウジたちとはもう、あれは若いころの無茶がさせたことだと笑いあえるようになった。しかし綾波は、今でも僕の心の中にあの頃の姿をとどめている。
 だからなんだ、あの頃の綾波と同じ年頃のユイたちに僕が心惹かれるのは。
 それだけか?
 もちろん違う。ユイたちと付き合ってみて、僕はその思いが単なる憧れとか郷愁だけではないのだとわかった。だからこれからしていかなければならないことというのは想いを確実にし、確信を深めていくことだ。

「そうだろうね、君たちはまだこれから先の人生があるんだ、たかだか14歳で将来を見切ることなんてないよ」

 だけど、

「だけど少なくとも今に限って言えば僕たちはお互いにかけがえのない人間だ、それは確かだよね」

 うん、とマナは頷いてみせる。冷ややかな小悪魔の微笑みと、あどけない少女の笑顔、その両方を溶かし合わせてマナは僕の心を捕らえる。
 逃げられやしないんだよ、僕は心の中で自分を笑ってる。
 アスカと別れることに本当になったなら、僕はどれだけの支出をしなければならないだろう、そんなあざとい勘定さえを冷静にできてしまう。僕はどうしようもない男だ。だけどそうすれば少なくとも、僕がユイたちを想うときに引っかかる迷いのひとつを解消できるはずだ。
 矛盾と思うかもしれないがたしかにそうだ。
 縁というのは何を確証にして存在するのだろう?婚姻届、出生届、戸籍、そんなものはただの紙切れに過ぎない。過ぎないが、ただ家族だという認識を持つだけでは感情は納得しない、もちろんその逆もだ、両方が揃って初めて絆は確実なものとなるし、どちらか片方を失えばいずれは崩れていってしまう。初恋が実らないっていうジンクスはもしかしたらそれが理由かもしれない。想いだけでは突っ走っていけない、それを支える何か──何でもいい、共通の目標とか、二人の思い出の品とか──があって初めて成り立つ。もちろん両方が揃っていても想いが叶わないことはいくらでもありうる、しかしだ。

「僕のできることなら喜んでするよ、君たちと一緒にいられるなら僕はできるだけは君たちを助けたい。見返りがどうとかは気にしなくていい、だから安心していいよ」
「うん、ありがとう」

 助けたい、というのは決して苦界から救いたいという意味ではない。それはマナだってわかっている。

「ユイにも同じことを言う?」

 僕は瞼を開けて隣のマナを見た。もちろんさ、そう小さく言う。
 マナは頷きを隠すように顔をそらした。

 話の流れがそうなっただけで言うのは君が初めてになったけど、もちろん一条さんに対しても同じように思っているよ、

「親友なんだろう?それとも僕のことは譲れないとか思うのかい?」

「かもしれないね」

「正直だね、霧島さんは。それも強さの一つだと思う」

「そうかな」

 もう一度僕を見たマナの表情はかすかに濡れていた。
 微笑み返してやる。マナ、僕は君たち二人を平等に愛したい。わかってくれよ、君たち二人ともを僕は好きだから。勝手かもしれないけどわかってくれ。君もユイも僕にとっては大切な人だ。

 しかしそれなら、アスカと別れなきゃならない理由もないだろう?二人が三人、四人になったところでたいした違いはないのに。

 そう、一度はそう思った。
 だけどそれではやっぱりやっていけないと思ったから僕はまだ迷っているんだ。

 一条ユイ、霧島マナ、この二人を愛していることだけは迷いではない。確かなことだ。それは何度も確かめたし、今はその上で周囲のことにどう片をつけようか、それを考えている。僕がこれからやらなければならないことだ。

「今夜は早めに行くかい?それとも少し遅らせようか」

 誰かが来るたびにいちいち説明するのもかったるいだろうし、後から行ってみんなに一度に紹介しよう。
 僕は携帯でトウジに電話し、すこし遅れるかもしれないからみんな集まったら適当に始めててくれ、僕が来たところで改めて乾杯にしよう、とそう伝えた。UVの二人も来るからとトウジに言われ、わかってるさ、武藤と津村にはうまいこと言っておくからと苦笑いを返した。

 立体駐車場に西日が差し込み始め、街は午後のけだるい空気を満たしている。

 古いジャズをカーステレオに流しながら僕たちは大通りの車の列に溶け込む。待ち合わせ場所に行ってユイと落ち合い、それから歩いて会場に着いた頃には日は暮れて夜の帳が下りていた。
 駐車場の奥から二番目のスペースにはアスカの車が止めてあり、皆がすでに来ていることを確かめてから僕たちは店に入った。
 週末を楽しむ人々たちがそれぞれにテーブルを囲んでいる。そんな人々を後目に僕はユイとマナを両手に連れて、予約しておいた席に向かった。思えばもう彼らとは何ヶ月顔を合わせていなかったのだろう、どこか不思議な懐かしささえ感じられる。そう、今はこの現実を確かめろ。ファンタジーに浸かるのもいいけど、今は少しだけ現実に戻って来い。騒がしい人々の喧騒がそう言っているような気がしていた。





+続く+




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