Track 11. 『イッツ・ホリデイ』ヌアージュ





 ユイとの待ち合わせまでの時間を潰すため、僕は近くにあるネットカフェを探して3時間のオーダーをした。簡素なついたてで仕切られた席に着き、革張りの椅子に座って緊張を抜くようにため息をつく。据え付けられた古めかしい17インチモニターは店のホームページを賑やかに映し出している。

 しばらく画面を眺めながら椅子を揺らし革のきしむ音を聞いた後、おもむろにキーボードに手を伸ばし検索ボックスに綾波、と放り込んだ。
 わずかのリアクションタイムの後に、ネットワークから拾い上げられたキーワードが画面上に並べられる。
 出てくるのは綾波姓のアイドル、はっきり言えばAV女優たちだ。もちろん源氏名であるとわかってはいるが、それでもいい気分はしない。逆に考えれば、父さんはどうして綾波に、レイに綾波姓を名乗らせたんだろう?胸の圧迫が可笑しさに裏返り、息を漏らして軽く鼻を鳴らす。
 子供の頃からの癖を思い出すように、手のひらをゆっくり握って開いてを繰り返す。指が震え、手相が小刻みにひくついているのが見て取れる。僕の神経は碌なことになっていない、もう何年も前からこうなっている。鬱で神経と脳がやられてしまい、老人のように身体が思い通りに動かない。もはやそれが当たり前の状態だ。
 楽器演奏だけは、長年の勘があるし鈍ってはいない、しかしそれ以外はまるきり自信がない。台所に立って包丁を握るなど危なっかしくてとてもできない。

 いくつかのページを開いた後、ブラウザに直接アドレスを打ち込みCGTのサイトを表示させた。参加レーベルリストの下から2番目にCMRBはある。主な所属アーティストはザドアーイントゥサマーを筆頭にUltra_Violet、フキノトウ、紅の男爵、イオリ、など。僕がケイタに伝えた決定は今頃マネージャーを通じてUVの二人にも伝えられているだろう、トウジたちの帰りを待って僕は次の仕事にかからなければいけない。
 携帯を開いてアドレス帳を出し、カーソルを上下させながら僕は電話することを躊躇っていた。話す内容はあるが、話す気力がわかない、僕は自分がどれだけ腑抜けになってしまっているのだろうかと思い立って意識がさらに沈んでいくのがわかった。最近出した曲は収録はスタジオのスタッフ連中に任せ、僕は書いた曲を会社のサーバーを通して渡すだけだった。顔は合わせていない。会えばまた、MAHIROは遊びに行こうと僕を誘うだろう、無邪気に、誰とでも気兼ねなく仲良しになれるのが彼女の持ち味だ。
 今度は検索ボックスを使い、UV関連のページを出す。ネット通販サイトのページが上位に来る。人気なのはファーストアルバム『振り向かない』と、それから彼女たちがOPソングを歌ったアニメのサントラだ。一枚だけ、ユーロのカバーをやらせたことがあったがこれはもともとタマ数が少ないので上位には出てこない。サントラの方のページを眺めながら、MAHIRO入魂の作だと言っていたアニメヒロインのコスプレ衣装を纏った二人のピンナップを思い出す。彼女ならデザイナーとしてもやっていけるだろう。
 モニターを見つめすぎて疲れ気味の目をこすり、冷たい机に顔を伏せる。
 僕はなぜ、こうも追い詰められているのだろう?落ち着いて状況を整理すれば、何も急ぐことなどないはずなのに、追われることなどないはずなのに、なぜこうも焦りだけが募っていくのだろうか。
 硬い塩化ビニールの机にささやき声を響かせて、口ずさむのはヌアージュのヒットソング『イッツ・ホリデイ』。比較的新しい時期のデビューだった彼女だが、その曲調は流行の激しいビートの効いたものではなく、どこか懐かしさを含ませた艶やかなものだった。アスカは彼女の歌真似が得意で、僕が仕事でイタリアに出かけたときも現地のアーティストたちとよく話題にしたものだ。

 瞳の中で通じ合う、それが休日(ホリデイ)。あなたが私のものになる夜を、私はずっと夢見てる。

 現実という日常の狭間に、幻想という休日が待っている。
 ユイに会いたい。その思いさえ信用できない、それは欲望の発現だから。僕は何を求めて彼女に会うのだろう、日常のストレスを発散するため?そのストレスというのはどこからやってくる?いい加減に認めろ、それが男の生理なんだと。状況が許すならどこまでも女を貪っていける。僕は病気なんだ。
 人に会うことが辛い、誰にも会わずに生きられたらどんなに楽だろうとは思うが、そういうわけにはいかない。
 こんな体たらくでパーティーに出られるのだろうか、いや大丈夫、大丈夫だって。かすれ気味に呟く声は気休めだ。そう、ユイ、マナ、彼女たちがいればきっと大丈夫だ。僕は助けを求めている、僕を支えてほしいと思う、僕の翼になってくれ。空高く、飛んでいける、だけど僕は太陽に焼かれて翼を失う、ギリシャ神話のイカロスだ。
 辛い、苦しい、そんな圧迫を解放してくれるのがユイ、君だと思う。泣きたくもなるだろう、僕の身体は自分がどれだけ傷ついているのかわかっているのだろうか。それとも僕の心がそうさせているのだろうか?ユイと約束した、今夜はもう一度会う。
 正直になれ、ユイを抱きたいと。何をしたいわけでもないのに、肉体とも精神ともつかない不思議な何かの力が僕を駆り立てている。
 腹の中を生き物が動いていく。左から右へと、内臓の中なのか皮膚の下なのか、這い回るように動き、僕の身体は抵抗しようと筋肉をのた打ち回らせ、それが微妙な痛みとくすぐったいほどの違和感として僕に感じ取られる。
 いっそのことこいつが使徒だったらいいのに、僕は人外になれる。
 だとしたら素晴らしい、僕は24年もの間、体内に使徒を寄生させたまま共存してきたというのだ。今は亡き、リツコさんなら目を輝かせて僕を調べようとするだろう、僕の腹を切り開いてその堪え難いほどに魅力的な生き物の姿を一目見ようとするだろう。
 そして僕は綾波のところへ行く。
 素敵な妄想だ、と大きく息を吐く。

 時間はまだ残っていたが僕は早めに席を立ち、料金を支払って店の外に出た。外の空気を吸って、歩き回って気分を紛らわしたかった。
 僕が店を出てから5分としないうちに携帯が鳴った。ポケットの中でいきなり動き出したバイブレータに心臓をすくみあがらせ、胸の鼓動を抑え込みながら僕は電話に出る。

 ユイの声はどこか急いていた、走ってきた後のように息が上がっている。

 どうしたんだい、僕は努めて落ち着いた声で言った。

「今夜のことなんだけどさ、あっ、ちょっと待って」

 受話器に手を被せる音が聞こえた。何事かと思っていると、ドアを叩く音、乱暴に開け閉めする音、何かを投げてそれがぶつかる音、それらが飛び交って、中年の女の声、そしてユイの声、うるせえんだよババア、まるで彼女らしくない少女の怒声がくぐもったスピーカー越しに聞こえてきた。
 暫しの静けさの後、足音が遠ざかり、ユイの声が戻ってきた。

 家にいるのか?

「うんごめんね、ちょっとあって」

 大丈夫か?お母さんなんだろ、今の、

「気にしないで」

 興奮と、焦りと、苛立ち、そして怒りと悲しみが混ざったユイの声が痛々しく揺れる。
 なんのことはない、彼女だって普通の人間となんら変わりない少女なんだ。どんな感情だって持っている。
 この胸の不快感は僕が大人だからだ。

 迎えに行くよ、

「うんわかった、それじゃあのコンビニでいいかな、私たちが最初に会った」

 ああ、

 僕はユイに対して怒っているのだろうか?親に反抗する子供、もう何年かしてミライが年頃になったら同じことを自分に対して言われる、それを恐れている?
 自分を産み育ててくれた親に対して何を言うんだ、と。
 どこまで傲慢になれば気が済む?問いかけは僕自身にだ。そして僕の背後にいる無数の人間に対して。
 別に理解者を気取るつもりはない、だけど、同時に歯痒さを覚えていたことも事実だ。家族の絆というやつは無条件の愛情を生み出すと同時に、振り切ることを許されない憎しみも併せ持っている。家族は同時に他人でもあるから、他人のままだけでいられた方が幸せな時だってある。
 そうだ、だから僕は独り暮らしを選んでる。
 そして、きっとユイも同じように。マナとはどれだけ親しいといっても所詮他人であるからそんなしがらみなんて無い。
 僕はどうすればいいんだ。迷っていても仕方ない、今はとにかくユイに会いたい。彼女の声を聞きたい、彼女の顔をひと目見たい。

 ファミリーマートの駐車場で落ち合った僕たちは会話もそこそこに、車に乗って街の大通りに紛れ込んだ。日は落ちて辺りは薄暗くなり始め、オレンジ色の夕日がビルの谷間から差し込んでいる。念のため僕は色つきの伊達眼鏡をかけて顔を隠している。湿っぽく煙った哀愁がにじみ出る、窓ガラスに映った僕の顔と表情はかつての父さんにあまりにも似すぎていた。

 ユイの頬はいつもと変わらずに白く、健康的な肌色をしていた。泣き腫らして赤くなっているとかいうことはない、けれど、僕は安心できてはいなかった。早く抱きしめてやりたい、この腕の中に包み込んでやりたいという想いが湧き上がって今にも胸を突き破りそうになっている。
 僕はユイを、女として好きになっているのだろうか、それとも守りたい子供としてだろうか。両方だ、と思う。
 学校制服の少女をホテルに連れ込むなんて、冷静に考えればなんて危なっかしい行動をしているんだろうと思う。マヤさんの後ろ盾が無ければとてもじゃないができない。なにもラブホテルじゃなくたって、一般のホテルで構わないのに、父娘連れに見えなくもないし、別々に二部屋とってしまえば後は何をしようがわからない。UVとしてデビューする前の二人を連れて泊まった時のことを思い出してしまった。俺の馬鹿野郎。

 僕がベッドに座り込んで自己嫌悪に浸っている間にユイはシャワーを浴びて戻ってきていた。バスタオルを身体に巻き、僕の隣に肩を寄せるようにして座る。

「嘘ついたな」

 ユイはかすかに肩を震わせて、床に視線を落とした。黒く艶やかな髪が耳たぶから零れ落ち、頬を撫でる。
 僕はそっとユイの腰を抱き、胸に寄りかからせた。小さな身体が倒れるように傾き、彼女は自分の支えを僕に委ねる。

「別に怒ってないよ、誰だって言いたくないことはあるもんな」

 親と喧嘩してきた、理由はまあ想像はつく。ユイは最初、家庭に問題があるわけではないと言っていたがさすがにそんなわけにはいかないだろう。

「今はさ、うち母さんと父さんいるんだけど、父さんってほんとの父親じゃないんだ」

 慎重に言葉を選ぶように、ユイはぽつりぽつりと話し始めた。再婚家庭で女の連れ子、それがユイ。僕は幼い頃に母親を亡くし、親戚に預けられて育った。ユイはいつ頃からなのだろう、気にはなるが、何を話すかはユイに任せる。

「母さんだってもう四十とっくに過ぎてるってのに、二十そこそこの男と懇ろになっちゃって結婚なんだよ、もう信じられないよ。ほんとの父さんと離婚したの、あたしが小学校低学年の頃だからあんまり覚えてないんだけど、パートで働きながらさ、その職場も転々として、そんでいろんな男あさってたんだ、だから家ではほとんど独りだったんだ」

 話しながら、ユイはひざに置いた拳を固く握り締め震わせていた。若い男は信用できない、それはそうだろう目の前で見ているんだから、そして自分も身をもって味わったとなればなおさらだ。
 自分自身のことならそれほどでもないにしても、やはり親の、実の親のそういった姿を見せられて平静でいられる人間などいない。

「でも、その新しいお父さん、彼はどんな人なんだい、悪い人なのかい?」

 ユイは顔を逸らし、わかんない、と吐き捨てるように言った。

「挨拶はしたよ、だけどそれっきり、私もその頃にはもう家にあんまり帰らなくなってたし、中学に上がってね、どういうつもりか知らないけど聖霊に行くって言ったときも何にも言わなかったしさ、うちってそんなに金持ちじゃないのにだよ、まあ、結局は一年の頃の学費は相田先生がほとんど払ってくれたし、二年になってからは自分で払ってるけど、んでその男ね、なんか自分で起業するって言ってるみたいなの、その時点でもう怪しいでしょ?母さんもそんなやつの何がいいんだか知らないけど、起業の資金だとか言ってさんざん貢いで、クレカとか使いまくって親戚からもたくさんお金借りてるのにさ、あげくに私にまでお金せびるんだよ、もう何なのって、大人になって働いてるんだったらともかく私まだ中学生だってのに、それってつまり私が稼いでるって知ってて言ってるんだよ、そんでさっきはキレちゃったの」

 僕はうん、うんと小さく頷きながら聞き続けた。何も言えない、ただ黙って聞き続けるだけだ。それしかできない。

「だからもうできればあの家には帰りたくないよ、マナだってそうだったからわざわざこっちまで出てきて聖霊に通ってるんだし」

「霧島さんも?霧島さんはこっちの出身じゃないのかい」

 ユイは大きく肩で息をつき、つばを飲んでから再び話し始めた。

「うん、鹿児島なんだって。マナんちはなんか酷かったらしいんだ、父親が無職の引き篭もりのロクデナシでさ、若い頃に遊びすぎてものすごい借金つくっちゃって、本人はもう歳で身体ボロボロで働けなくて、母親ががんばってたみたいなんだけどもういつ夜逃げするか一家心中かってくらいだったんだって。そんで小学校の卒業式、じゃないな終業式か、バックレたその足でこっちまで来て、で伊吹社長んとこに身を寄せて、戸籍とかどう誤魔化したんだか知らないけど聖霊の寮に入って暮らし始めたんだって」

「酷いな」

「うん、それに比べれば私なんてまだましなほうだと思う、けどだからってなんか言われる筋合いなんて無いよね、あんなところにいたってダメになるだけだもの」

「それはもちろんだ」

 他人事ではあるが、マナの父親の有り様を聞いて僕は身が引きちぎられる思いだった。僕だって一歩間違えばそうなっていてもおかしくはない。会社はケイタのおかげで、楽ではないにしろ順調に回っている、しかし気を抜けばどこで転んだっておかしくはないのだ。自分の身体だって、今も危うい、このまま鬱状態が続くならいつ崩れても不思議はない。まだ壮年のうちに入っているからいいが、これから歳をとっていけば加速度的に病み膿みは増していく。
 そしてなによりも、僕がユイたちと関係を持つことでアスカやミライを放り出してしまうのなら、それは彼女たちを、ミライをユイやマナと同じ目に遭わせてしまうってことなんだ。矛盾、限りない矛盾だ、あるいは僕がユイに近づくことそれ自体が間違っている。
 それとも、今まで愛人関係のようなことをしてきた空ろな女たちと同じように、ユイたちともいずれは別れなければならない、いずれは捨てなければならないのだろうか?
 考えたくない。許してくれとアスカに土下座でもするのか。そんな行為に意味などあるわけがない。僕がいなくなったらミライはどうなる?単に経済的な問題、世間体の問題だけではない、僕は人を裏切ろうとしているんだ、それだけは忘れちゃならない。

 まあうすうす思ってたとおりではあるね、そう上の空で呟いて僕はユイを放しベッドに手をついた。だらしのない大人を間近に見て、そして気の遠くなるような金の問題。これは遠い世界の話しではない、ごくごく身近な問題だ。誰もが嵌る可能性のある落とし穴、そこから這い上がれる力が無ければ、あとはひたすら堕ちていくしかない。
 いくら自分が頑張ろうが、親がそんなことでは自分も引きずられていってしまう。家族とは社会の中でのコミュニティの最小単位であるから、子供にとってはまず最初に所属する世界、すなわち多くの運命を共同にする集団、その世界からしてが腐っていては何をするにもまず一歩を踏み出すことすらままならない。そんな奴らとは縁を切れ、と言ったところで力のない子供がどうやって生きていくかと考えれば、今僕の目の前にいる少女がそのひとつの答えであるといえるだろう。

「碇さんが私たちぐらいの歳の頃って、ちょうどサードインパクトがあったんだよね」

 まあな、ただ関東地方以外はそうでもなかったらしいけど、第2東京や近隣の大都市には難民が押し寄せたんだ、僕みたいに身寄りの無くなった人々がね、まあ終戦後とまではいかないが同じくらいなもんだ、大学に入るまでは施設暮らしだった、つっても君と同じように街を流していたけどね、

 そっか、とユイは小声で言い、ベッドに上がって足を抱えて座った。
 僕は腕枕をして横になり、ユイの小さな背中を見上げる。

「実際、儲かるの?」

 かすかにユイの髪が揺れる。こんな話しになって、さすがに暢気にやれる気分ではない。ただ時間だけが気を紛らわしてくれる。

「ふつーに実家に住んで学校通ってる子たちは知らないけど、うちらだと学費も生活費も自分持ちだし、社長んとこに納めるぶんもあるからそれでかなり飛ぶよ、あと病院代もばかになんないし、服とかもそれなりのもの着なきゃいけないから、まあそういうのは買ってもらうこともあるけど、どっちにしろ普通に言われるほど遊ぶお金って残らないよ」

 言葉を交わすごとに、その場を動いていないのにお互いの距離が広がっていくような気がしていた。
 ユイはただ訊かれたから答えただけで、別に助けてほしいなんて思っていない、僕は知りたいと思ったから訊いただけだ。なのに、恐れという感情が僕たちの距離を押し広げていく。

 こんなこと、普通はべらべら喋ったりしないよな、

「そりゃもちろん、訊かれても適当に誤魔化すよ、だけど」

 だけど今はとてもそんな気力なかった、とユイはさらに俯いて、今にも消え入りそうな声を震わせた。

「やめて」

 僕の手が肩に触れるとユイは身をよじって拒んだ。肌はすっかり湯冷めしてしまっている。湿ったバスタオルを解こうとするとユイは胸元の合わせ目をきつく握り締め、振り返って僕を睨み上げた。

 目の前で君みたいな可愛い女の子に裸でいられたら、俺だって男なんだ、我慢できるわけないだろ、

 潤んで震えるユイの瞳を真っ直ぐに見据える、感情が切り離されてどこかへ飛んでいくのがわかる。ユイはやがてゆっくりと身体の緊張を緩め、そして静かに目を閉じた。僕はそれを待ち、彼女の腰と太ももの下に手を入れて抱き上げ、ベッドに寝かせた。冷たく柔らかい少女の肌、人形のように冷え切った肌。それは女だからだ。僕はそれが堪らなく愛しい。

 他にこの追い詰められた精神を解放できる方法がわからない。ユイ、許してくれよ。僕はこういう奴なんだ。

 ユイの裸体を眺める暇もなく僕は覆いかぶさっていた。
 腕の中に抱きしめきれないほどに細く華奢な彼女の身体をベッドの上で転がす。胸に触れる唇の感触がくすぐったく、そして切ない。嫌がってる、あるいは警戒する動物のようにうなり声を立てる。

「お願いだからやめて」

 僕にしがみついて懇願する、いや冷たく言葉をぶつけてくる。僕はどうすればいい、胸の中の不安や焦りといったもやもやが全部、実体の無い性欲に姿を変えて下半身に集中しつつある、こいつを解放しなけりゃ僕は狂ってしまうよ。

「私はただ碇さんと触れ合ってたいだけなの」

 それは君の都合だろ、俺はそうじゃない、
 違うんだ。俺は男でユイは女で、だからユイの望みの方が優先されるべきなんだよ。俺はいつだってユイのために、そうじゃなけりゃいけない。
 だから許してくれユイ。俺は君とやりたい。

「いやっ、あっ痛っ!!」

 悲鳴にごくわずか遅れて、脱ぎ捨てたユイの制服のポケットから電子音が鳴り出した。気勢を削がれた僕が力を抜くと、ユイはのそのそとベッドを這い降りて電話を取った。携帯のディスプレイに表示された発信者名を見てあからさまに顔をしかめ、最大限に不貞腐れた声で電話に出る。僕の前では見せたことがない、不良な女子中学生の姿。僕のイメージから自分を引き離そうとしている、わざとこんな姿を見せることで僕の中の綾波の記憶と、自分のイメージとの剥離を図っている。
 嫌われたんだな俺は、そんな想いが、傾けたグラスから零れ落ちるワインのように甘酸っぱい香りを携えて浮かび上がってくる。意識を遠ざけようとしても、怒ったユイの声が僕を逃がさず容赦なしに突き刺さってくる。胸が痛い。

「はぁ?だからもう掛けてくんなっつったっしょ。うぜーんだよオマエ」

 強い口調で電話の向こうの相手を制し、ユイは携帯を制服の上に放り投げた。ベッドに戻り、マットレスを弾ませて寝転がる。滑らかな白い肌が揺れ動き、僕は自分の腰を手で覆った。

 それからしばらく沈黙が続き、何度目かに僕がユイの細い腰つきを眺めると彼女は僕に背を向けたまま話し出した。

「碇さん」

 なんだい?

「さっきの電話なんだけどさ、クラスに一人、私に付きまとってる男子いるのよ」

 ストーカー?
 ユイは不敵に鼻で笑い、違う、と肩をすくめた。

「そんなんじゃなくてほら、ちょっと正義はいっちゃった感じの。私がこんなことしてるのを見てさ、ぼくが助けなきゃいけないんだ〜とか、そんな風に思ってるのよ」

 ユイは壁に向かって話しかけるように、胸を隠していた手を放して身体を見せつける仕草をした。

「それはまた」

「だからちっとヤバイかも、今なんか近くまで来てるって」

 何の気なしに相槌をうとうとして、身体中から血の気が引いていき声が途切れてしまった。近くまで来てる、それはつまり僕たちの逢引が見られてたってことか。
 車のナンバーを押さえられていたら拙い、洒落にならない。
 そこまで頭回らないでしょ、とユイは言ったが僕は心臓が飛び跳ね冷や汗がどっと吹き出ていた。もしトラブルにでもなればパクられるのは俺の方なんだぞ、焦燥の裏側から悲しみが顔を出す。ユイ、もう君と逢えないかもしれない、初めから、許される仲なんかじゃなかったのかもしれないけれど、俺は君を好きだった。

「マヤさんに相談しようか?」

 冗談半分本気半分だったが、ユイは冗談と受け取ったようで吹き出して苦笑いした。機嫌が直ったのか、ともかく、ユイは少しだけ表情を緩めて僕の方に向き直った。
 横になったユイの身体が艶かしくしなり、つんと張った乳房は垂れ下がることなく薄紅色の乳首を尖らせている。僕は見下ろし、ユイは見上げ、互いの腹の内を探るように微笑を交わす。

「どっこに、中坊シメるのにバック呼んでどうすんのよ」

「まあ、どっちにしろうまいこと逃げないと」

「放っとけばそのうち帰るって」

 だからもうすこし遊ぼう、ユイはむくりと起き上がると僕の肩に手を置いて寄りかかってきた。今度は僕も取り乱したりしない、穏やかに抱きすくめてやる。かすかな化粧の匂いがして、僕はユイの肩を甘噛みした。人肌の味、熟れきらない少女の味。ユイは愛おしそうにのどを鳴らす。
 君の身体のすべてに触れたい。僕の膝の上で舞う妖精に。
 好きだ、ユイ。君が愛しくてたまらない。
 僕が囁くたびにユイは喜びをあふれさせ、幸せと切なさを絡ませた濡れた表情を余さず僕に見せ付けてくる。

「初めて名前で呼んでくれたね」

「そうだっけ」

「私も、シンジさんって呼んでいい?」

「ちょっと恥ずかしいな」

 また電話が鳴る。ユイは舌打ちをしていったん離れ、ディスプレイを光らせている携帯を一瞥するとシカトしよう、と言って再び僕に向き直った。
 私たちの声聞かせたら面白いことになるかもね、とユイは意地悪な笑みを浮かべ、絡みつくように僕の首元に舌を這わせた。
 電源切っとけよ、それか着信拒否か、
 すこしだけ相手の子が可哀想な気もしたが僕が言っても仕方の無いことだ。僕たちがやっているのは許されないこと、それはなぜ?僕は大人でユイは子供だから、18歳未満との性行為は何とやら、だ。だけどその男の子にしたって、心の中ではどうだかわからない、学校で目に焼き付けたユイの姿を、体育の時間のブルマ姿を、ふとした隙に見えた肌や下着を思い浮かべながら自慰をしているかもしれない。そいつだってあわよくば君とやりたいと思ってるぜ、ユイ。

「うちは体操着はハーフパンツなんだけどね」

 抱き合いながら、身体を揺すって微笑む。

「碇さんとこうしてるとすごく安らげるよ、どうしてだろうね、他の誰とやったってここまでならないのに」

 僕もうれしいよ、そこまで言ってくれるなんて、
 何をやるのも自由、だけど、もしそうすることによって追われる理由があるのなら跳ね除ければいい。その力はあるはずだから。
 5分近くの間、3回に渡ってコール音を鳴らし続けていたユイの携帯がようやくおとなしくなった。その間に僕たちは数え切れないキスを交わしている。
 心の中の檻に囲われた空隙が圧力に押し広げられ、その圧力とは僕の感情、想いだ、いつか突き破ってあふれ出す。僕は僕の中で『生き物』と向かい合う。胎児の成長を早回しで見ているようにそいつは姿を変えて、14歳の僕の姿になった。君はいつからそこに居たんだ?ずっと前からだよ。僕は本当は気づいているはずなんだ。だけど今はまだわからない。その理由もいずれ目の前にやってくるから。
 自分に向き合う、それは僕に果てしない切なさをもたらす。僕が想いを向けているのはユイだから、この少女だから。僕のユイに向けた思いは、生き物が姿を変えた僕を通して僕自身に跳ね返ってくる。
 そしてそれはユイも同じようにだ、僕を想うユイの気持ちは、ユイの中の生き物が姿を変えてユイ自身に見せ付けている。逃げるな、目を背けるな。そんな漠然とした概念ではなく、知ったかぶりの格言でもなく、ただ自分の中にある事実として。疑いようの無い自分自身の姿こそがすべてを迷いなく見せてくれる。

「私は綾波さんのこと、先生や碇さんから聞いてやっぱりどこかで嫉妬してたんだと思う、私がどんなにがんばっても勝てないんだって、だから綾波さんみたいになれば認められると思ってた」

 ユイが僕を惑わす、その力にはどんな由来がある?

「素直でいたかった、だけど、誰もそのままを認めてくれなかった、変われって、人は変わるものなんだって、だけどそれはただ自分の思うがままに他人を操りたかっただけなんだって、今になってようやくその言葉が見つかったの、小さい頃はもやもやした思いがあってもどう表現したらいいのかわからなかった、ひたすら自分を閉じ込めるしかなかった、装って、受け答えや会話の理屈に従って言葉を処理すればそれでいいと思ってた、それができるようになることがみんなの間でやっていく方法だと、処世術だと思ってたよ、いつだって我を通せるわけじゃないってのはわかってたから、だから自分を引っ込めようとしてたのに、だけど大人たちは言うの、本当の君が見えない、だから君は胡散臭い、生き方が姑息なんだよって。その瞬間から私は人を信用できなくなった、勝手すぎるから、他人の心まで思い通りに作り変えて決め付けて踏みにじれるのかって、それが偉くなることなのって、それまで心を許してた人たちまでもがそうやって変わっていくのがとても悲しかった、周りの人間すべてが人形に見えてきた、私は人形じゃない、そう思うようになったころから生き物が私に語りかけるようになったの、そのおかげで私は自分を装うことができるようになった、なんとかやっていけるようになった、だけどマナはもっと凄い、私はマナみたいに要領よくやれないから、いつも傷ついちゃう、普通の人だったらなんでもないはずのことにもすぐ傷ついちゃう、何もかもが歯痒かった、別にすべてを思い通りになんかできなくていいのに、ただ私の本当の気持ちを守っていたかっただけなのに」

 俺と同じか、僕はユイを抱きしめたままそう小さく、かすかに呟いた。
 認めたくないかもしれないが君は病気だよ、俺と同じな。君は自分と相手だけの独占関係をほしがってるんだろう、そして愛されることと捨てられることを極端に恐れている。共依存ってやつだ、弱い自分を忘れたいからこんなことしてるんだぜ。
 胸の中で言葉を組み立てていくにつれ僕は愛しさと悔しさが身体を突き破りそうになってユイのなめらかな背筋を何度も撫でていた。僕の愛撫に瞳を蕩けさせ、それでも最後の一線で踏みとどまるように心の距離をとって僕の腕の中にある、切なげな表情をユイは僕に見せ付けている。
 どれほど凄絶なセックスに溺れてみたところで君を本当に満足させられる男には出会えなかったんだろうな、それとも俺の自惚れなのか。

 僕はもはや記憶の彼方に消え去ろうとしていた補完計画の姿を思い出していた。人が人として存在する限りすれ違いや軋轢は消えることがない。それはゼーレやNERVが進めようとしていたオカルトじみた教義の中に限らず、こんな当たり前の日常生活の中にさえ深く深く入り込んでいる。
 僕たちにとっては目の前に迫っていた果てしなく深く巨大な恐るべき闇、しかし、世界のすべての、そうすべての人間にとってはある日突然やってきた夢。それを記憶していた人間はこの世に存在しない、そのはずだった。しかし人々の記憶に刻まれたプログラムは遅かれ早かれ確実に走り出し、人間をヒトでないものへと作り変えていく。歪み壊されていく心を抱え、現代人はかつてない変化にさらされようとしている。
 そういった言説を捏ねくり回す一部の物書きたちにとっては単なる飯の種でしかない、しかし、現実にそういった人間は存在する。ここでようやく僕は気づいた。僕はまた、日常という現実から切り離されたファンタジーの世界に迷い込んでしまったのだと。最初にそこへ立ち入ったのは第3新東京市で暮らした半年あまりの間、そして今、もう一度だ。さしずめユイは僕を導いた接触者という役どころだろう。
 僕が抱いている少女、一条ユイ、彼女は現実と幻想の境界。ユイはもちろん現実に存在する少女で、自分の名前を持ち、身分を持ち、人間関係を持ち、そして自分の生活を送っている。それは僕となんら変わり無い一人の人間としての姿だ。そして僕は少なくとも、彼女の言う苦しみを理解できる。自分も経験してきたことで、今でも覚えている。それに抗い、自分なりの向き合い方を彼女は見つけ、身をそこに置いている。もちろん、それが万人に認められるものであるとは限らない。しかし僕だけは、少なくとも僕だけは、彼女を認め、受け入れ、愛したいと思う。

 そして最も大切で忘れてはならないことは、僕がこうして当たり前のように抱く感情を、他の人間も同じように持つとは限らないということだ。
 あの統合失調の極地を思わせるような思念の奔流にユイも今浸かっているのだ。幻聴、幻視、五感だけでは現しきれない激しい侵食。僕自身、音楽を生業にしていたこともあり幻聴にはかなり長い間悩まされた。そんなことも慮ることなく勝手に動きぶつかる、周囲の人間たちの言葉や感情や存在を、はっきり知覚できる圧力として心に受け取る。そうなったとき、もはや心の構造すらを作り変えなければ対応できない、少年の頃の僕でさえそう感じていた。今はどうか?数々の経験によって耐性をつけることで対応している。しかしそれはあくまでも、自分の力を自覚しどうにかできると学習したからであってそれを越える事態に直面したら同じように壊れてしまうだろう。そしてそれを越える事態というものに一生のうちにめぐり合う確率はおそらく相応に低い。それに気づくことのできる人間というのは本当にごくわずかだ。僕ですら本当に理解はできていないだろう。いったいどれだけの人間が、強さというものを誤解して身に付けているのだろうか?
 ユイは知っている。知っているから生き物という姿を見出している。
 だから僕は、どれだけ感情に振り回されようとも心の底で彼女を崇めているのかもしれない。あどけない少女の顔をしていても、社会という構造に負けて泥をかぶっていても、彼女の本当の素晴らしさは揺らぐことがない。
 君に出会えて良かった。
 今までに何度か口に出したかもしれないが、改めて言った。

「今度のパーティー、マナもつれていくよ、楽しみにしてたよ」

「こちらこそ大歓迎だよ」

 トウジたちにさんざん質問攻めに遭うことはわかってるから、今からなんと答えるか考えておこう。
 ユイはそんな僕の心配を見透かしたように意地らしく言う。

「マナってさ、自分で詩書いたり曲作ったりするんだよ」

「それはすごいな」

 今度聴かせてくれるかな、と言うとユイはもちろん、と満面の笑みを浮かべた。ユイもいっしょに歌ってみせたりしてそれを録音して、ミキシングもマナが自分でやるという。独学ながら、フリーウェアソフトなどを駆使して中学生なりに楽しんでいるようだ。僕も昔はそうしていた。今ではプロユースの専門的な設備を揃えてやれるようになったが、制作の楽しみはもちろん変わることがない。

「期待の若手シンガーソングライター霧島マナ、ってところかな」

 そんな大げさなことでもないじゃん、ユイは口に手を当てて微笑む。
 ともかく何か言われたらそのセンでいこう、と僕たちは打ち合わせた。ユイとマナは路地裏のストリートミュージシャン、そして僕はそんな彼女らを見初めたプロデューサー。学校の放送部や演劇部にも曲を提供しているというから、全部がハッタリというわけでもないはずだ。

 そうしてしばらく睦みあった後、僕たちはそれぞれシャワーを浴びて汗を洗い流した。外はすでに夜の帳が下り、仕事帰りの人々が慌しく歩く時間帯になっている。
 僕はユイを車に乗せてヘッドライトの列に紛れ込んだ。誰かが見ていたとしても、僕たちを追いかけることはもうできない。ユイはしばらくの間、後ろを振り返ったり辺りを気にしていたがやがて安心したように携帯を取り出し、マナと同じようにメールを打ち始めた。僕からはディスプレイを見ることができないが、おそらくは年頃の少女らしい、絵文字や顔文字を織り交ぜた可愛らしい文章を綴っていることだろう。僕の知っているユイの姿、そして綾波の想い出とのギャップが感情をくすぐり、僕は自然に顔を綻ばせていた。

「碇さん、明日土曜日だよね、私朝イチでまた出かけるから」

「仕事かい」

「うん、だから今夜は早めに」

 僕はユイを寮へ帰すか、それともどこかに宿を取ろうかと考えた。僕の家でもいいがすこし遠い。
 パーティーには仕事が終わったら直で行く、とユイは言った。マナも途中で合流するという。僕は会場の店からやや離れたコンビニの駐車場を待ち合わせ場所に指定した。万が一にもアスカたちと鉢合わせないとも限らない。

 また近いうちに会おう、できれば君が休みの時に。心行くまで楽しもう。

 どうしたんだ僕は?僕のこの気持ちはいったいなぜわいてくる。今更、この想いに疑問を持つのか。

「うれしいよ、碇さんから誘ってくれるなんて」

 ユイは頬を赤らめて、心の底から幸せそうな濡れた瞳を僕に向けてきた。

「あんまり僕に構いすぎても、仕事に支障が出たらまずいんじゃないのかい?」

 どうすればいい。逃避のはずがいつの間にか苦しめられている、いや違う、苦しいのは最初から後ろめたい思いがあったからなんだ。
 幼い少女と夜を共に過ごす。少女とはいってもユイはもう立派な、女といって差し支えない。大人ではない、女だ。僕はユイとなら辛いことも忘れられる気がする。家に、アスカたちの待つ家に帰ったところで僕は自分の居場所に自信がなかった。気兼ねせず過ごすことのできる場所、それが当たり前の姿のはずなのに僕はどうして、こんなにも浮ついてしまっているんだろう。
 ユイはきゅっと唇を引き結んで僕を上目遣いに見た。言いたいことはわかってる、僕はもうユイにとって特別な人間なのだ、そういう想いを持っている。それは僕も同じだが、僕はまだどこかで迷っている、はっきりと意思を持ってのめりこむことを躊躇っている。なにも、恋人扱いされるのをうざがってるとかかったるく思っているというわけではない、そのはずなのに、僕はユイにのめりこむ自分を思い浮かべることができなかった。ユイだけではない、誰かにこれだけ心を傾けることが最近の僕にあったか?いつも、冷静なふりをして遠くから見ていただけだ。その距離の測り方だけは経験によって巧くなってきてはいる、しかし、それが本当にいいことなのかどうか、少なくともユイに向き合うことに限って言えばわからない。

 最後まで迷ったまま、僕は聖霊の女子寮の前にS2000を停めユイを降ろした。
 暖かみを含んできた夜の空気が僕たちを緩やかに包み、撫でている。

 声に出さずに心の中で呟くことしかできない。ユイ、愛してる。言葉に出してしまえば、僕はその責任を取らなければいけない。僕にはすでにアスカという妻が居るから、だ。
 いやなにも、特定の一人にしか使ってはいけないという言葉でもないはずだ。だけどやっぱり言えない。
 言葉に出す代わりに僕は、これで今夜は最後にするつもりでユイをきつく深く抱きしめた。僕の腕の中に完全に収まった、君のすべてが僕の腕の中にある。ユイ。今はこれで許してほしい。もしいつか、君に本当に僕の想いを伝えられるのなら。風の息吹と虫たちの囁きだけが僕たちを囲んでいる。腕と胸に感じる暖かさ、ユイの小さな体温が僕の身体に染み渡り、ぬくもりは僕がいかに情けないか、不甲斐無いかを突きつけてくる。

「ダメ男だな、俺」

 そんなことないよ、とユイはすかさず言葉を制した。
 碇さんは私なんかよりずっと大人なんだから、私はほんとに尊敬してるよ、
 たしかにそうだ、一般的に見れば、そして年下であるユイから見れば、僕の方がより経験を積んでいるから彼女に諭し、導くことができるだろう、しかし当の僕にとってはそれが足枷にしかなっていない。
 ユイ、僕はまだ君に本当に向き合う勇気が無い。いつか、そう初めて君を抱いた夜だ。あの時は興奮と勢いに任せて言ってしまったが、僕自身まだ自分の言葉にけじめをつけられていないんだ。僕はいずれ選ばなければいけない。君と、そしてアスカと、他の多くの人間たちとを。

 別れ際にユイは手を振って微笑み、僕を見送った。
 僕はユイの笑顔を直視できなかった。なぜなら綾波の笑顔を思い出してしまったから。あの満月の夜、第五使徒を倒した時に一度だけ、見せてくれた微笑み。僕はなんてくだらないことにとらわれているんだ。綾波はもう居ないんだ。いやくだらなくなんかない、僕にとっては大切な想い出だ。その想い出をこんな劣情で汚していいのかよ。ユイ、僕は君に惑わされている、いや僕が勝手に戸惑ってるだけだ。ユイには何の罪も無い。そう、ユイはあくまでも一条ユイという一人の少女でしかない。それなのに僕は、自分で勝手に違う女の面影を重ねて、彼女の気持ちを利用して自分を慰めている。

 言ってくれよ、私は綾波レイですって、僕を知ってたって、ずっと会える日を待っていたのって、そう言ってくれよ!君が言ってくれたらどんなに楽になれるだろう、僕が会いたかったのは綾波なんだよ。だけどユイ、君は本当になんの関係もないただの女の子なのか?僕はあまりにも君に囚われすぎてる、君が綾波だったら、君こそが綾波の生まれ変わりだったら!

 聖霊学習院の建っている丘を下りたところの道端に車を止め、僕はドアと窓を閉め切ってシートにうずくまり、声を漏らして泣いた。
 涙なんてとっくに枯れきったと思っていたのに、俺は何をやってるんだよ?いくら嘆いてみたところでどうにもならないことぐらいはわかっている。僕は自分の想いと義理に縛られて、身動きが取れなくなっているんだ。妻、そして家族としてのアスカへの気持ち、ユイへの想い、そして綾波への思慕。そのすべてを両立させられる方法があるのなら教えてほしい。38年も生きてきたのに僕は答えを見つけられない。いや本当は答えはすでにある、いくつも僕の前に並んでいる。しかし僕はそれを選びたくない、ただそれだけのことなんだ。

 もう疲れた。
 僕は半ば意識を喪失したまま家に戻った。寝巻きに着替えてベッドに入ったが、不安と悲しみが胸の中で渦巻いていて三十分がんばっても寝付けなかった。常夜灯をつけ、枕元にポータブルのMDとイヤホンをセットすると、僕は薬箱から睡眠薬のシートを取り出してシーツの上に置いた。それからしばらく思案した後、二重底の下にしまっていたアロマリキッドのボトルを取り出して一息に飲み、空になったプラスチックのボトルをゴミ箱に捨ててから二重底を元通りに戻した。本来はカップルで一瓶を分け合って飲む分量なのだが、迷ってはいられない、躊躇いが起きる前に決めてしまう。昔、まだ僕が元気だった頃はアスカと楽しんだものだが今は一人遊びにしか使い道がない。不特定の相手に使わないのは僕なりのコードだ。
 神経に染み渡っていく苦味に身体を震わせ、高音域にブーストがかかって歪みはじめる音楽に身を任せる。
 ストレンジャー・イン・ザ・ナイト、ボレロ・ラプソディー、スーパー・セックス・シンボル、僕がお気に入りに揃えた曲がノンストップメドレーに編集されてこのMDに収められ、僕は一定の拍を刻むビートに心臓の鼓動がシンクロしていくのを感じていた。BPMはおよそ130から140弱、興奮している人間の心拍数に、あらゆる音楽の中で最も近い。だから僕は最も心に響いてくると思う、他のダンスミュージックにはない特徴だ。キングダム・オブ・ロック、デジャ・ヴ、僕は以前にもここへ来たことがある。
 トライ・ミー、そうだ僕を試してくれよ。
 ドクター・ドクター、このセクシーな薬で。
 沈んでいた意識がむりやり引き上げられ昂ぶっていく。冷静さは寒気に変わり、僕はベッドの上で奇妙な笑いを漏らしていた。軽めのやつだから平気だろうと思っていたが、予想以上に効いてる。
 いいんだ、これで、今夜くらいは勘弁してくれよ。
 疑問を持ってはいけない、今だけは。思い浮かぶ人間たちの顔を意識の外へ追いやり、そうすれば僕はまた独りになれる。だけど怖くも寂しくもない、それはきっと懐かしい想いだ。アスカ、ミライ、彼女たちに悪いなんて思ってはいけない、許しとかそういう概念をそもそも持ってはいけない。
 視界の端からじわじわと、部屋の中の風景が七色の蛍光に侵食されていく。この光にすべてが埋め尽くされたら今夜はタイムオーバーだ。また明日が来れば僕は戻っていかなきゃならない。
 時計を確かめて安心すると僕は眠りに落ちていった。

 瞼の裏でユイが優しく微笑み、マナが凛々しい瞳を輝かせ、アスカが僕たちみんなを見守っていた。






+続く+




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