Track 10. 『ノーバディ・ノウズ』ジノ・カリア





 授業を半日でフケたマナに付き合わされて、僕はまたあの古本屋に来ていた。店員が僕の顔を覚えていてじろじろと見られているような気がして、あの時少女のグラビアを買っていった男が今日は本当に女の子を連れてきた、そう思われているかもしれないと考えると連れてきたのがユイでなくてよかった、と皮肉にも安心できた。

「碇さんは何か買うの?」

 精算を終え、買ったCDを入れたビニール袋をバッグにしまいながらマナが訊いた。
 いやいいよ、この辺のは僕はみんな持ってるしね、と答えるとそうだね、碇さん自分とこで出したやつだもんね、と目を細めた。
 マナの笑顔に思わず戦慄する、何かを企んでいるんじゃないか、腹に一物あるんじゃないか?ユイは昨夜のことを秘密にしているのか、マナに喋ってはいないだろうか。もし喋っていたら、それを聞いたマナはどう思うだろう、あくまで他人事に、やったじゃんと称えるか、それとも嫉妬の感情を抱くのか?後者だとしたら恐ろしい、僕はこれからどうなってしまうんだろう。

 車で移動する間、助手席に座ったマナはずっと携帯でメールを打ち続けていた。忙しいんだね、と言うと、今夜も二人と会う予定、とこともなげに答えた。

「私のこと聞きたいの?」

 携帯をしまって、マナは僕を見上げてきた。

 言ってもしょうがないと思うよ、マナはあくまでも距離を保とうとしているように見えた。ユイとは逆の反応に、僕は肩透かしを喰らったような気分を味わってため息をつく。
 自分のことを伝えたくても、それをきちんと受け取ってくれる、受け取りたいと思っている人間に出会えなかった、それだけだろう。僕は言葉に出さず胸の中で呟く。僕はどうだ?少なくとも、僕はマナのことを知りたいと思っている。生い立ちは、小さい頃の思い出話とか、そういうのを聞きたいと思う。
 あるいは、本当に話したくもないようなことばかりを経験してきたのだろうか。

「ね、ユイは何か言ってたのかな。碇さんと会ったんでしょ?これからどうするかとか」

 心臓が捻り潰されそうになる。

 僕の身体はばねに弾かれるようにマナの方へ振り向き、そのまま固定された。マナは何を望んでいる、何を狙っている?あどけなさと無邪気さを装った表情に悪魔の微笑みが隠されている。

「いや、特に何も」

「そっかあ、まあたしかに、碇さんちってずっと郊外の方なんだよね、通学にもちょっとかかっちゃうし」

「うちに来るつもりでいたのかい?」

 悪戯っぽく笑って舌を出し、マナは肩をすくめて見せた。

「やっぱだめだよね」

「いや、僕としては大歓迎だけどさ。そこまでする程でもないだろ」

 ユイもマナもちゃんと寝床は確保しているわけだし、生活に困っているわけではない。その辺りの世話は自分でできているから、僕がやるべき事というのはこうやって交際相手になってやることだ。会いたいときに会えるひと、友達でも恋人でも、そういう相手がいるというのはそれだけで人間の精神状態を大きく左右する。
 同じようにだ、僕がこんな精神状態になっているのは僕自身のことだけが原因ではない、自身とはすなわち僕と僕の周りの人間たちとの関係であり、交際であり、それが僕にさまざまな感情を抱かせ利害を生じさせ、それが僕の精神を作り出す。
 僕はすこしでも心の重しを取り除きたくて、苦しみを和らげたくて、ユイたちと付き合うことを選んだ。だけどそれは言ってみれば逃避だったのではないか?考えて選んだように見えていて、実はただ楽な方へ流され、先に破滅が待っているとわかっていながら流されてしまっただけじゃないのか?しかしかといって、他に選択肢があっただろうか、まともな人間なら、気合を入れ直して仕事に向かえと、彼女らに別れの挨拶をして忘れろと、そう諭すのかもしれないが、僕にそう言ってくれる人間はいなかった、僕がそれを避けた。ユイは僕の救いになれる、その裏には妾を囲いたいという欲望がある。妻アスカはその役目を果たせない、もちろんそれは僕に求める権利などない、すべて僕の勝手だ。そうだ、僕は自分で選んだんだ、こうなることを。

 医者に言って薬を増やしてもらわなければならないかもしれない、ついに肥大する精神の圧迫から歩くことすらおぼつかなくなって僕は道路端の縁石に腰を下ろして顔を伏せた。マナは僕の隣に座り、心配そうに覗き込んでいる。

「大丈夫だよ、たまにこうなるんだ、まあ最近はそうでもなかったんだけどね」

 やがて重い足取りで立ち上がった僕の手をマナはそっと握ってくれた。際限なく降り積もる気だるさの向こうから手を差し伸べてくれる、たまらない。
 どうにか車まで戻り、エンジンをかけずにステレオだけをかけて静かなBGMを楽しんだ後、どちらからともなく僕たちはキスをしていた。スポーツ車特有の起伏の深いフロアトンネルごしに僕たちは繋がる。

 帰ろうか、と言うとマナは小さく頷き、もう一度僕の目を見上げた。
 怖い。他人と目を合わせるというのはそれだけでも強い精神的負担がある、だけど、僕はマナの目を見ずにはいられない、怖いもの見たさに似た感情が転がりだし、僕は仕事や趣味や他の何とも違う不思議な意欲がかすかに湧き出し始めていた。
 なにもする気が無くなって動けなくなってしまう、それなのに、魂が身体から抜けて飛んでいくようにマナのそばにいられる、と思う。
 浮ついた情欲に沈みそうになるその直前で、マナにはすべて見通されているんじゃないか、わかっていて僕は遊ばれているのではないかと気づいて僕は意識を叩き落される。
 身体を引いた僕を残念そうにあるいは愛しそうに見上げる、マナが笑っているような気がする。

 じゃあね、そう言ったつもりだったが言葉尻が震えたかもしれない。
 昼下がりの黄色い太陽光を背に浴び、聖霊の正門前に停めたS2000からマナを見送る。授業を早く終えて部活もない生徒たちがちらほらと帰路に着き始め、しかし彼らは僕たちのことなど目に留めはしない。

 僕は意を決し、時田氏にユイたちのことを話そうと電話をかけた。彼ならば少なくとも僕よりは理論的に説明できるだろうと、研究者なのだし、コール音を纏いながら思いを確かめる。

 時田氏によれば、来月か遅くとも再来月までに、日重共の所有する調査潜水艇を新箱根湾に送るという。これは年におよそ三回のペースで行っている海底調査で、都合がつけば僕も乗せていってくれるそうだ。もちろん艇に乗れるのは研究員たちだけだが、母船のモニターで僕も海底の様子は送られてきたデータで見ることができるという。

「そういえば、船ってしばらく乗ったことないですね」

「ほう、シンジ君、ときに君は海外旅行はどれくらいするかね?」

「もっぱら飛行機ですしねその場合は、まあ普通ですよ、ハワイと香港と、インドネシア、オーストラリア、あと嫁の実家がありましてドイツにも何度か、仕事ではイタリアによく行きました、うちで輸入してる洋楽レーベルの関係で」

 海に縁のない生活を送っていたというわけではないが、心のどこかで避けていたと言っても嘘ではない。あの紅く染まった海を覚えていたから、そして元の蒼い海に戻ってしまった悲しみを覚えていたから、あえて近づこうとしなかった。
 しかし、今、思い出は海の底に、新箱根湾の奥深くにだけ眠っている。
 すべてを飲み込むほの暗い水に覆い隠されて眠り続けている。
 そのことを知っているのはごく限られた一部の人間だけだ。時田氏の研究所の人間にしても、自分たちが浚っているものがいったいなんなのか、真実を知っている者はどれだけいるだろうか?特務機関NERV、人類補完委員会、そして秘密結社ゼーレ、現代ではほとんど名を聞かなくなったオカルト世界の住人たち、彼らは今もこの地球上で活動しているのだろうか。

「せっかくだからまた会って話してはみないかね、先ほど君の言っていた少女たちの事もそうだし、なにより君は数少ないわたしの同志だからね」

 たしかに、真実を知りたいという思いから見れば同じだ、だが、

「ええ、僕も今は暇人ですし、なんなら今夜でもどうです?」

 だが、僕は時田氏ほどにはのめりこんでいける勇気がまだ無い、と思う。自分の力がそれに足るかどうかもわからないし、なによりも、そうすることで失うものの大きさ、周囲の人間への影響の大きさを考えてしまうと若い頃のように無思慮に走り出す、というわけにはいかない。

 僕は場所を指定して時間を確かめた。
 太陽は西に傾き、その場所に着く頃には夕方になっているだろう、そう、夕暮れの海岸、あの時と同じように、あの日と同じように。
 そんなことを考えながら待っていると、ほぼ時間きっかりに湾岸道路の駐車帯にガンメタのメルセデスがやってきた。

「待ったかね」

「女の子とのデートだったら幾らでも待ちますけどね」

「すまなかったねこんな爺で、だがシンジ君、君の言っていた一条君だったかな、彼女とは既に?」

 察してください、と僕は苦笑しつつ言葉を濁した。

「わたしももうすこし若ければ大学の子たちと遊べるのだがね、いかんせん寄る年波には勝てなくてね」

「その話しはまた別の機会にしましょう」

 僕がNERVに居た頃で既に四十代にはなっていたはずだから、現在の時田氏はもう七十を越えているはずだ。それでも、元気に脂の乗った老人といった趣きで少しも衰えを感じさせないように見える。情熱を持つということはこれだけ人を力強く見せるものなのか、僕は今年で38だが、精神が萎えてしまっている僕は年齢以上にくたびれて見えるだろう、と海の向こうに視線を投げながら目を細める。

「ちょうど2週間前ですね、その日もだいたい今ぐらいの時間にここで海を眺めていて、その帰りにコンビニでたまたま会ったんです。最初は驚きましたよ、なんていうか、綾波──ファーストチルドレン、と言った方がわかりますか、彼女の容姿も髪型だけなら別に珍しくはないし同じ髪型をした子は何人も見たことありますが、一条さんだけはもう本当に特別で、見た瞬間くぎづけになりましたからね、綾波の生まれ変わりかと思いました。そのことも話したんですけどね、彼女は仕事上で僕みたいな中年と付き合うことが多くて、そんなふうに昔の想い人を重ねられるってのはよくあるそうなんです。まあ、あまり興味はなさそうにしていました」

 時田氏は僕と同じように海を見て、腕を組んで頷いていた。

 やがて彼は僕に向き直り、改めてじっと視線を据えて言った。僕は自然と緊張が高まり、頭の中のイメージや文字や声といった記憶が積み木を崩すように動き出していくのがわかった。

「シンジ君、ファーストチルドレンの彼女、綾波レイ君、彼女のことを覚えている者は世界にどれだけいると思うかね?」

 さあ、と僕は考え込み、順番に関係をたどっていく。
 まず僕やアスカなど、第壱中のクラスメイトたちは覚えているだろう、それとマヤさんなど元NERV職員もだ。

 だがそれ以外で、となると途端に心当たりが無くなる。
 あの頃の僕たちの生活圏といえばほとんどが第3新東京市内だけで完結し、行く場所も限られていた、日用品の買い物をするスーパー、遊びに行くゲーセンやCDショップ、交通機関としての駅やバス停、そして一日のほとんどを学校かNERV本部のどちらかで過ごしていた。他に何をしていた、と言われるととっさに思い浮かばない。
 そう、それがすなわち領域の違いなのだ。一見、近いところにいると思ってもこの領域が違うだけで人間の関係というものは劇的に変わってしまう。嫌でも顔を突き合せなければならない、逆に一緒にいることを許されない、そんな障害は日常のどこにでもいくらでも転がっている。
 そして、僕とユイの領域が重なるところ、それこそが綾波レイの想い出だ。
 僕はユイに綾波の面影を見出し、だから声をかけた、付き合おうという意志が生まれた。それがなければ僕たちはお互いを見初めることもなく、それぞれの生活を送っていたに違いない。
 僕は鬱から抜け出せず、ユイは援交を繰り返し、想像してみても行き着くところが見えない。
 僕とユイが共に歩む時、その先に見えてくるものは何なのだろう。僕はユイに出会ったことで、綾波の面影を思い出したことで、少年時代の真実を知りたいと思うようになった、NERV、人類補完計画、その真実を突き止めたいと思うようになった。その意味では時田氏に出会った事も奇跡だろうか、あるいは僕がユイのことを知って変化していたから、僕が時田氏の目に留まったのだろうか。

 ユイの周りにいる人間たち、学校の友達がほとんどだろう、夜の街を流しているといっても仕事相手以外の人間に無闇に接近はしない、クラスメイトたち、彼ら彼女らにとってユイは同じ子供、隣の席の女の子、それだけでしかない。彼女に特別な意味を見出すのは僕たちだけだ、綾波レイの面影を、それを認識しているのは今のところ僕だけ、ケンスケとマヤさんもそうだろうが、実質には僕だけだ。僕の他に綾波のことを知っている人間にユイは出会ったことがない、アスカや、ヒカリ、トウジ、彼らの前にユイが立ったとき、彼らはどんな目でユイを見るだろう、記憶の中にあるはずの綾波の姿を思い出して関連付けるのか、それとも何も気づかないか。

 誰も知らない。綾波のことはもう、誰も知らない。
 当時子供だった僕たちはともかく、元NERV職員たちは存命中の者も少ないだろう。いちばん若手の部類だったと思われるマヤさんでさえ、まもなく50を越える。それでなくても、成層圏から墜落したあの黒き月の中で生きていられた人間などごくわずかしかいないはずだ。マヤさんも、同じオペレーター仲間だった日向さんたちなどのことはどうなったか知らない、と言っていた。

 誰も知らない、もう一度胸の中で呟く。

「その通り、彼女の存在を覚えている者は少ない、すなわち彼女が存在したという事実を知っている者は少ない、これがどういう意味だかわかるかね?歴史から忘れ去られたものというのは、それはある意味で存在していないも同じことなのだよ」

 少しだけのどの奥が痛む。熱い唾を飲み込めず僕は手を所在無さげに震わせる。

「綾波君に限ったことではない。君は第壱中学校でのクラスメイトの名を全員言えるかね?わたしも、自分の学部以外の生徒たちの名前はさすがに全員は覚えられない。それがすなわち、一人の人間の力が及ぶ領域の限界というやつだよ、わかりやすい事例で説明すればね。しかし、」

 しかし、そう言って時田氏は一度咳払いをし改めて話しを続ける。

「われわれには知識というものがあるだろう、人から人へ、言葉によって伝えることが出来るだろう。今は通信手段も発達しているからより多くの情報を共有することが出来る、すなわちより多くの人間が、記憶を共有できるということなのだ」

 僕は頷く。たしかに、現代ではWEBに検索をかければたいていの情報は手に入る。ただ実際のところ、綾波と入力しても出てくるのは同姓の別人か、旧世紀の軍艦の情報だけだが、僕は時折思い出したようにそうやって情報を、言い方を変えれば記憶を探っていた。
 コンピュータ・ネットワークは人間が作り出した人工物であり、自然のものではない、人間の記憶は生物の基本機能、違いはあるにせよ、人がものごとを記憶しコミュニケーションによって記憶をやりとりするのと大差はない。しかし人間が自分の目で見聞きできる範囲には限りがあるし、自分の足で移動できる距離には限りがあるし、だから乗り物を発達させ、さらに効率の良い情報伝達手段として通信技術が発達していった。しかし、逆に人間自身の情報伝達能力をより高次元のものへと改良することが出来たら?
 言葉や、文字、記録、それらに頼らない伝達手段があるとしたら。

「まあ、それも形而上生物学のひとつの研究テーマではあるがね」

「それがあの時言っていた、若者たちの見る不思議な夢だと?」

 断定はできないがね、と前置きして時田氏は言った。
 仮にそうだとしても、まだ自覚できない夢やイメージといった形でしか発現しないならそれは不完全なものであるのだろう。ただ従来の人間より少し敏感になったというだけで、そんな人間が現れる割合が従来より少しだけ増えた、というだけだ、今のところは、だがユイやマナ、彼女たちがそうだというなら僕は何をするべきだろうか?
 マナはサードインパクト時の第3新東京市を夢に見たと言っていた、ならばそこに当時居た人間たちの事も見ることが出来るのか、そこには僕が居たし綾波レイが居た、マナはそれを見ていた?同じように、ユイも見ていた?知っていた?いや、歴史の記憶に、自分が生まれるよりも前の記憶に、誰かの記憶にアクセスすることが出来た?僕は自分が生まれる前のことを知らないが、しかし、たとえば親や親類などから人づてに、そう人づてに聞いて知ることが出来る、しかしそれはあくまでも言葉であり、書き表せば文字になる、書物を読む事となんら変わりはない。人間はそうやって世代間の情報を伝え、それが寄り集まって史書となり、それが体系化されて歴史というものが積み重ねられてきた。過去に学ぶ、それが積み重ねであり、そうやって纏められた知識を僕たちは学校で習うことで、過去数千年の人類世界がどんなものだったのかという概要を知ることが出来る。

「たしかに他の連中にしてみれば、NERVの人間以外にしてみれば、綾波レイという少女もただの名も無き同級生の一人、近所の女の子、でしかなかったのかもしれません」

「われわれも決してNERVに対して無知というわけではないのだ、綾波君が、NERVそしてゼーレの進める人類補完計画にとって重要な鍵となる人物であることは調べてあった、何よりも君にとっては大切な人間のひとりであるから、今更気に病むことでもあるまい、わたしもそれは理解してやれるつもりではいるよ」

「そうですね。ただ、僕はやはりどこかで忘れたがっていたと思います、最後にはあんなことになってしまいましたし、所詮手の届かなかったものなんだと、そういう思いがありました」

 その代わりをユイに求めていたのか、僕は。それは誰に責めることが出来る、僕を知る者たちすべてに。僕は許されないことをしている、そう思っているのは誰よりも僕がそうだ。一条ユイ、僕は君が何者なのかを知りたい、君が言っていた限りでは、君はこの第2東京の一般家庭に生まれた女の子で、放任の親に反発して家出し、出会ったさまざまな人間と付き合ううちに今の姿になっていった。知るということは、僕の認識する世界の中に情報を追加するということだ、それは僕の中のすべてに少なからず影響を及ぼす、僕が関わる人間たちにも間接的に、それが人を知るということだ、僕にその勇気があるか?気にしない人間にとってはなんでもないことかもしれない、多くの人間にとってはなんでもないことかもしれない、ただ街で見かけた可愛い女の子に声をかけて誘い、デートを楽しんで身体も、だが、それがどこにどんな影響を及ぼすのか、考えたことのある人間など少ないだろう、そんなことをいちいち気にして生きていられるほど世の中は緩やかではない、毎日決まった時間に仕事に通って暮らしている多くの人間たちにとっては、朝起きて出かけ仕事をして食事をして夜眠る、それが普通の生活のはずだ、僕は普通じゃない?僕やユイやマナは枠を外れている、そんな気がしていた。毎日、決まった道を歩き決まった電車に乗って決まった職場に通い、すこしでもその道筋を外れるだけでこれほどまでに足元が不安になるのか、たとえば今日は違う道を通ってみようとか一駅歩いてみようとか、そんな気分転換どころではすまないこの疎外感と不安定さが僕を空に飛ばしている。

 僕はユイに対して責任を取らなければいけないだろう、つまり、彼女のこれからをきっちり面倒を見てやり、助け、見届けてやることだ。そしてユイが望むならば、これは僕の望みでもある、ユイと共にありたい。
 言葉にすればこれほど簡単だが、行動に移すとなればこれほど難儀な事もない。恋愛映画よろしく逃避行などするわけにはいかないのだ、僕は僕の、ユイはユイの、それぞれの関わりの中できちんと手続きを踏まなければいけない。僕には妻も娘もいるし、世話をしている社員たちも大勢いる、仕事で付き合っている業界関係者も、契約先もいくつもある、それらをまったく無視してしまうことなどできはしない。もちろんユイにだって、マヤさんを初め世話になったたくさんの人々がいる、彼らに手間をかけさせるようなことがあってはならない。

 ともかく、まもなく帰ってくるトウジたちとのパーティーの心配を今はしなければならない、アスカもミライも来る。久しぶりに僕たち家族三人が揃う。マナは来たいと言っていたしユイにも聞いてみると言っていた、たぶん来るだろう。彼女らをどうやってアスカに紹介しよう、いっそのこと秘蔵のアイドルの卵とでも言うか?いずれうちからデビューさせる、まあそんなことにユイもマナも興味はないだろうが。

 時田氏は自分の権限で船室は確保できるから気が向いたらいつでも連絡をくれと僕に言い置いて帰っていった。とりあえずの出発予定は来月の25日、およそ一ヶ月弱後、天候によっては前後する。
 24年ぶりに帰る、そんな気分だ。アスカやみんなには話さないでおこう、これは僕だけの問題だ、僕たちだけの、だからユイたちにだけは話しておこう、専門の研究者がいるということはユイたちにとっても朗報だろうし、僕たちが会うことはきっといい意味がある、そう信じていたい。

 翌日にはオフィスに電話しケイタと仕事の打ち合わせをした。
 YOSHI氏の企画というのはCMRB設立15周年の記念盤を出そうということだった。そのために一曲書いてくれ、ということだったが、それは僕も前々から考えていました、と言うと彼は嬉しそうに膝を叩いていた。
 僕のCMRBを含め、CGT系列の各レーベルにも声をかけて歴代のヒット曲を集め、ディスク三枚組み120曲くらいの規模にしたいとYOSHI氏は言っていた。これは往年のSEBシリーズに匹敵する。それだけに氏の意気込みは盛んなようだ。僕は手元の端末でスケジュールを確認し、ザドアーイントゥサマーについてはすぐに都合はつかないがUVは曲目が決まれば新規録音でやってもいい、と答えた。
 リリース時期はおよそ半年後を目途に、ブックレットへのコメントも予定しているという。詳細は追って詰める、ということで僕は了承した。
 電話を置いてから、やはり僕は音楽が好きなんだ、と今更に確かめ直していた。作品を手がける、そうしている間がいちばん充実していると。学生の頃は、仕事になんかしてしまってはとても楽しんでいる余裕なんかないだろう、と思っていたが、逆に今のように状況さえ整えば楽しむ場所はあるのだとわかった。
 きっかけはなんだっていい、とにかく自分の考えているものを形にしたいという思いがあれば意欲を高めていくことは出来る、幸い僕にはそれだけの力が残っていた。
 新曲のイメージは既にある、僕がユイに出会ったときの感情を、昂ぶりを表す。こんなに歳を取ってから出会ってしまったけれど、躊躇ってなんかいられない、持っている力を遺憾なく発揮して突き進め、と。それは自分自身に対する激励でもある、僕はそういう自分の赤裸々な想いというやつを曲を書く原動力にしてきた、もちろん表立って喋りはしないが、僕を知る人間にとっては隠しきれずに伝わってしまうものらしい。
 それでいいだろう、と僕は思う。

 ケイタが最後に言っていたことが気になって僕はほぼ1ヶ月ぶりに会社の入っている新北区のホクマビルへ向かった。よく晴れた青空がガラス張りのビルに反射し、腕を掲げて空の色を見る。眩しい太陽の下に出て、穏やかな熱と光に身体がほどよく焙られていくようだった。たまには外に出ようぜ、そんなことを呟いてから僕は冷房の効いた地階ロビーに入る。
 東側のステンドグラスの下でその二人はテーブルを挟んで向かい合っていた。
 僕が歩み寄ると、濃いシルバーブルーのスーツを着た青年が僕を見留めて振り向いた。彼と話していたのは大学生くらいの青年でこちらも痩せ型の端正な顔立ちをしている、と瞬時に僕は見定める。

「どうも、碇さんお久しぶりです。浅利さんからお話は伺いましたでしょうか」

 ええ大体のところは、マイさんは今日は面接ですか?

 チェックのポロシャツを着た青年は僕を見て軽く会釈した。僕はマイ氏の隣に少し間隔をあけて座る。

「YOSHIさんが今回は大々的に宣伝を打ってましてね、わたしの方へもひとつ宜しくということだったんですよ」

 なるほど、

「碇さんが休業したって噂を聞きましてうちの方でも残念がってる者がけっこういましてね、わたしも心配していたんですが」

 そんなに大げさではないですよ、ただちょっと充電期間というか、リリースは通常どおり続けていますしね、まあ今回の仕事でようやく上向いてきたというところです、

 僕のCMRBと、マイ氏の率いるアルカディア・レコードは同じダンスポップ系で競合する面が多かったが、人気シリーズになったアーケードの音楽ゲームに共同参加するようになってからは親交が深まっている。ジャンルを問わずライトで幅広い年齢層にアピールすることに成功したアルカディアは現在ではJ−POP界の一角を占めるほどに大きく成長していた。

 改めて、青年に挨拶する。ケイタのことだから、新進のアーティストに触れることで気合を入れ直させようという魂胆なのだろうか、さすがに僕のことをよくわかっている、と思う。

「はじめまして、相模ケイイチロウです。みんなはケイって呼びます」

 マイ氏から、彼の持参してきたデモテープを渡されて聴いてみた。彼自身による演奏と歌は、飾っているとあえてわからせることである意味で残酷なほどに現実感のある情動を呼び起こさせてくるものだった。これほどのパワーを持った新人はなかなかいない、と僕は率直に思い、そう言った。彼はひどく照れた様子で自分なんてずぶの素人ですから、と謙遜していた。その焦りも装いのひとつだろう、と僕は熱い冷静さで彼を見る。

「マイさん、この後よければ彼ちょっと借りていいですかね」

「ええどうぞ、碇さんでしたらいくらでも」

 不敵な笑みを送りあって言葉を交わす。僕はケイに昼飯を奢る、と言って駅前の飲食店街へ連れ出した。人ごみの中を歩くのはずいぶん久しぶりで、僕は人の流れが向かってくるごとに胸に圧迫を感じていた。ひとつひとつは小さな重みでも、積み重なればいつかは押し潰される、心に病気を抱えるということはそれだけ大変なことだ、病気だということをしっかり認識して対策を講じなければならない、それはアスカにも言われたし自分でもわかっている、けれど、僕は認めることが弱さだという若い頃の強がりを思い出していた。あと2年すれば僕はまたひとつの年齢の節目を越える、そうなればまた一段と弱くなってしまうだろう、そうすればいくらかは割り切れるか、三十代になった時もそうだったから。だから同じことだ、繰り返しだ。通り過ぎていった12トントラックの排気ガスを浴びながら思う。
 僕たちは交差点の角に面したロッテリアで軽食をとった。
 君はなんとなく昔の僕に似ている気がするよ、そう言うとケイは少し驚いたふうに顔を上げた。

「ケイくんは大学生なんだったかな?」

「ええ、新帝都大の文学部で、社会心理学を」

「なるほどそれじゃあ僕の後輩か、まあ僕は中退みたいなもんだけどね、今の会社を始めたから」

 学校は続けるつもりなのかい、と訊くと、実は今休学してるんです、と答えた。
 意外だね、ああでもやっぱりなんだかんだで忙しいのかな、学業との両立は難しいだろうし、僕もそうだったしね、

「そんなところです」

 スーツのポケットが震え、携帯がメールを受信したことを知らせる。取り出して確認するとユイからだった。わずかに唇が綻んだのをケイは見逃さなかったようで、これは若さによらず鋭いところがあるな、と僕も微笑む。
 メールの内容は今夜会えないかと、それとマナから聞いたというパーティーの話だった。僕はケイに断ってから短くOKの返信を打ち、食事を再開する。

「あの、碇さんってやっぱりもてるんですか」

 僕は思わず吹き出しそうになってお冷のコップを揺らした。
 真面目で真っ直ぐな瞳を軽いファッションに装い話しかけてくる。捨て鉢さと一本だけの通したい自分の筋がせめぎ合っているのだとわかる、だからこそあんな曲が書けるのだろうか。

「今のメールかい?まあちょっと色々あってね」

「あちこちから聞くんですよ、マイさんも言ってたんですが碇さんって今もたくさんの愛人を抱えていると」

「待ってくれ、それの情報ソースはどこなんだい?週刊誌は好き勝手に書きすぎなんだけど、というか世間的に俺はどれだけタラシっていうことになってるんだい」

「あ、いやあのそういう意味じゃ、ただやっぱり、僕から見てもそんな気するんですよ、この人は違うなっていう」

 メディアへの露出が少ないせいで僕に関してはそれほど悪い話も無い、といったところだが、事実は事実ではある。
 この際だから、内緒にしておいてはくれよ、今の子は中学生でね、いや別に変な意味はないよ、
 ケイはさすがに言葉を詰まらせて口を覆っていたが、すぐに持ち直す。

「つまり未成年って」

「そうなるね、はは、でもケイくんは見かけによらず真面目なのかい?君だってさぞかし女の子には人気ありそうに見えるけど」

「いや、そんなことは、ただどうしてもワルになりきれないっていうか、軽薄になっちゃうところあるんですよ、もともとの性格なのかもしれませんけど、だからせめて、ってわけでもないんですけど」

 いやわかるよ、僕もそういうところがあったからね、

 時代は違うけれど今でも暗黒の部分が無くなったわけではない、ジュンヤによればセンター街には今でも細々と集まってくる人々はいるという。

「時間はあるかい?見せたいところがある」

 電車を乗り継いで僕たちはマヤさんのクラブまで行った。ケイはこっち方面に来ることはあまりないらしく落ちつかなそうに辺りのビルを見回していた。僕は逆に、まばらな人通りに落ち着いていた。やはり僕はまだ人の中に混じることが苦しいのだ、と思う。
 昼間でまだ営業が始まっていないため、外だけをかるく見て回ったあと路地裏の角で休憩を取った。砂とゴミが転がる路上で煙草を吸う、などは今時はマナー違反もいいところだが、ここでは平気だ。
 時折吹き込むビル風が淀んだ煙を攫っていき、静かで乾いた独特の空気を作っている。

 新歌舞伎町なんかここの隣だけど、最近の流行りじゃないのかい?

「ええ、今はどっちかといえばアークヒルズ方面が強いですね」

 あんまり綺麗なところじゃないけどね、ちょうどここから線路を挟んだ向こうに昔は国連軍の払い下げた宿舎街があったんだ、昔の言葉でいえばハウスってとこかな、わかるかい?僕が学生の頃はそこに住んでた、僕はこの街で育ったってわけさ、

「つまり、その頃の…?」

 まあそんな感じだ、僕が当時世話になったオーナーは今もここでクラブを経営してる、あの当時から変わらずにだ、そういう店はもうほとんど残ってないんじゃないかな、移り変わりの激しい世界だしね、

 昔はあんなにでかいビルもなくて、それこそこういう雑居ビルがひしめいてる感じだったんだ、建築基準法なんて違反しまくりの増改築でね、週に一度はどっかが火事になってたね、粉塵なんかも飛びまくりでさ、上っていう言葉があったんだ、上ってのはつまり地上のこと、遊ぶ若者たちはみんな地下へ行ったのさ、公安の目を逃れる意味もあってね、地上に住むのは貧困層ばかりってわけだ、

「16の頃だからまともに生きてれば高校生だ、君はまだ生まれたかどうか、ってくらいなのかな」

 ま、年寄りの昔話と思ってくれていい、

 肩をすくめて振り返ると、ケイは真っ直ぐ立ってしかし熱い眼差しを宙に向けていた。

「いえ、なんていうか…少しわかったような気がするんです、やっぱり経験って大事だなって、あんまり大っぴらに言えることじゃないとは思うんですけど、碇さんはそうなんですよね」

「まあな、環境が違うって言っちゃえばそれまでだけど、堕ちた奴壊れた奴って嫌というほど見てきたし、俺自身もだ、女衒まがいのこともやってたし薬に手を染めてたこともある、っつーか今でも振り切れてないよ、こんな歳になってもな」

「僕は実家出てこっちでバイトして暮らしてるんですけど、なんていうか、本当に毎日の生活に起伏がない感じで焦っていたんですよ、ほら最近テレビなんかでもよく言われるじゃないですか、ニートとか、オタクとか、正直僕はそんなのにはならないっていう気持ちはあったんです、実際友達や知り合いとまめに出かけて遊ぶように心がけていましたし、だけど、音楽やろうって思ったときに初めて気づいたんですよ、ああオレって本当なんにも無えんだな、なんにも自分のものにできてなかったんだなって、そういうある意味でヤケクソな気持ちをぶつけるつもりで書いたんです、だから、売れなくても仕方ないっていうか、はっきり言えば自己満足ですよね、マイさんはこれ良いよっては言ってくれたんですけど、やっぱり今活躍してるプロの人たちにはとても敵わないなって」

 一言一言が僕に突き刺さる、そしてケイ自身も自分の言葉で自分を突き刺しているのだろう。その正直さが君の力だ、と僕は思う。

「いや君は正しいさ、少なくとも間違ってはいない。俺だってほとんど似たようなもんだぜ、さっきマイさんが言ってただろう、俺が休業したってな、あれだって本当は鬱入っちまって家からほとんど出られなくなってたんだ、今でこそすこしずつ快くなってきてはいるけどね、あの子にも力を貰ってる、彼女と付き合い始めたおかげで俺の気持ちは救われてきている、だからケイくん君のその気持ちを大切にして、信じていけばいい、俺もマイさんと同じ意見だよ」

 僕はケイの肩に手を置いて言った。
 見た目以上に華奢で線の細い男だ、メンタリティも含めて、厳しい芸能界で生きるには辛いものがあるだろう、だがそういう人間でなければ表現できない領域は確実にある、だから彼は積極的にサポートすべきだ。
 あとでマイ氏にもそう伝えておこう、と僕は思った。

「俺みたいなオヤジだともうすっかり荒んじまってるからさ、逆に若い頃を思い出すって楽しみ方もあるだろう、だがやはり若い子たちには受けると思うよ、だから自信持って」

「はい。今日はどうもありがとうございました」

「そうだ、曲のタイトルはなんていうんだい?」

「あ、そういえば言ってませんでしたね、タイトルは」

 ケイを駅まで送った後で、僕は彼から聞いた言葉を反芻する。あの装った表情、わかっていた、君はきっと僕に近い心を持っているのだと思う。同じ種類の焦燥と不安とを抱えている、そしてそれを率直に、激しく形に出来る君の力は本物だ。
 つぶしは利かないだろうが…と、そこで思考を打ち切った。
 彼はあくまで彼そのままでやっていく方がいいだろう、
 彼のおかげで僕もまた自分を見つめなおすことができた。いつだったかユイも言っていたように、他人という目を通すことで自分では気づきにくい自分自身のことを意外なほど見通すことが出来る、ユイの場合はケンスケの作ったキャラを演じたことで、僕の場合はケイの書いた曲を聴いたことで、同じように。

 電車が通り過ぎていき、しばしの間人通りの収まるホームに背を向けて僕は彼の曲を再び呟いた。

「ラプソディー…俺も人のこと言えねえな」

 気持ちを切り換えようと、僕はまた自分の好きなダンスミュージックを口ずさむ。

 誰も知らない、笑うことも泣くことも。
 誰も知らない、愛を知らない、君が試さなければ。

 誰も知らない。

 僕は改めて、学校の授業時間が終わっていることを確かめてから今度はメールではなく電話のコールをユイに送った。
 今ちょうど第2東京都内に出ているから、今夜は僕の家じゃなく他の所で過ごそう。
 それなら、とユイは嬉しそうに、行きつけのラブホテルの名を示してきた。
 僕は表情を送るように言葉に間合いを取り、もちろん大丈夫だ、と答えた。

 誰も知らない、嗤うことも哭くことも。

 誰も知らない。





+続く+




◆霧島 愛さんへの感想・メッセージはこちらのページから◆


■BACK