Track 6. 『トライ・ミー』ロリータ





 約束の時間きっかりに件のファミレスの駐車場にS2000を停め、車から降りて一服しているとほどなくユイとマナが二人連れ立って歩道の向こうから歩いてきた。
 マナは羽の生えたハートの絵がプリントされた水色のTシャツと黒いヴィンテージジーンズに銀のチェーンを垂らし、ユイはデニムジャケットにフリルのついたロングスカート、という出で立ちだった。なんだかこうして見ると姉妹みたいだね、そう言うと二人ははにかみながら肩を寄せ合っていた。

「碇さん、タバコ吸うんだ?」

「たまにだよ、家じゃ娘が生まれてから止めさせられたからね」

 車のドアを開けて備え付けの灰皿に吸殻を捨てる。

「もしかして君たちもかい?」

「うん、私は吸わないけどマナはけっこうやるよ。ヤニ臭い女の子は嫌われるよって、社長からは何度も言われてるんだけどね」

「いいじゃん、ちゃんと臭いは消すようにしてるから、それにそんなに本数はやらないって」

 香水の匂いか、それともシャンプーか、甘い香りが流れてきて僕たちを包み込んだ。僕は二人を促して店内に入り、また前回と同じように窓際のテーブルについた。
 注文を済ませ、待つ間、僕はさっそくずっと気になっていたことを切り出してみることにした。

 実は、訊こうと思っていたことがあるんだけど、

「なに?」

 一条さん、君によく似た子が出演しているDVDを見つけたんだ、

「ああー、あれ?何だ知ってたんだ、恥ずかしいなあ」

 ユイはそう言ったものの、本当に後ろめたさなど何も感じていないようなからっとした笑顔で頭をかいた。僕はその反応を見て、身体の中から何かがずるりと膿を絞りながら抜け出していく感覚を味わっていた。

「いや僕もたまたま最近見かけただけなんだ、やっぱり君だったのかい?」

「ええ何よユイ、そんなのあったの?」

 背の低いマナが下から覗き込むようにしてユイを見上げる。

「相田先生が撮ったやつだよね、マナ、ちょうどあなたと会った頃の話よ。ちょっと誘われてね。そうそう、その先生の伝手で伊吹社長と知り合えたのよ」

 碇さん、もしかしてそれ、買ったとか?

「まあ、ね」

 ユイは手を握って口元に当て、吹き出し笑いを堪えていた。数秒後かに彼女が再び顔を上げたとき、そこには僕を鋭く射抜く冷たい瞳がある。

 次はどちらの人格で攻めてくる?
 ついさっき、家を出る前に見ていたDVDの映像が頭の中によみがえる。たとえばそれは、相手や場の状況によって態度を変えるとか、その場に応じた振る舞いをするとか、それが演じてるってことなのかもしれないけど、そうじゃない、言われたことやされたことに対してどういった感情を抱くか、返答を選ぶ基準、ひっくるめてすなわち思考の構造、そういったものがある一つのプリセットのようになっていてその中からどれを選ぶか、同じ88鍵盤のシンセサイザーでも組み込むプログラムによってまったく違った表情の音色を奏でるように、そして今、僕はユイの姿を見失っている。再び彼女に出会うためには心をガードしている壁を解放して、彼女がどんな言葉や態度をぶつけてこようがそれを受け入れなければいけない、僕はそれを望んでいる、そうしなければならないと思っている、なにげないユイの仕草に僕はここまで心を揺り動かされてしまっている。それを改めて認識していた。

「それは、私に興味を持ってくれたってことでいいのかな」

 ああ、

「先生が言ってたのよ、君は天才だって、このまま埋もれさせておくのはもったいない、カメラマンとして君に出会えたのは生涯最高の幸運だってね、私は別にモデルとかアイドルとかに興味も無かったしそれまでだったんだけど、先生は少なくとも他の男たちよりは私のことをより深く見通してたと思う」

 ケンスケの奴もなかなか口が上手いな。僕は呆れつつも彼がユイに対して僕と同じように、他の少女たちとは違う何かを見出していたんだと感心した。

「こないだ霧島さんにはすこし話したんだけど、体内に感じる生き物とか、そいつが見せる夢のことだね、たぶんケンスケも、いや相田先生、彼もそれに気づいてたんじゃないかな」

 実は彼とは中学の同級でね、今はすっかり疎遠だけど、といちおう付け加えておく。

 そこでちょうど僕の注文したスープと野菜サラダが届き、僕はウェイトレスにユイたちの分がいつ届くかを確かめてから再び彼女たちに向き直った。

「その、DVDのタイトルになってる名前、綾波澪のことだけど、それについては何か言ってたのかい?」

 ユイはお冷やを一口含み、濡れた唇と結露したコップを持った指についた滴が店内の照明で煌いて見えた。
 話に加われないマナが不満そうにしているようだったが、仕方ない、すこしだけ我慢してくれと心の中で呟く。

「ううん、そうだね、いちおうちょっとしたストーリーっていうか設定は作ってたみたいで、その女の子の名前だね、綾波澪、昔の知り合いからとった名前だっては言ってたよ」

 そうか、まあそれで間違ってはいないね、

「どういうこと?」

 ユイ自身の口から紡がれた名前、彼女の声でアヤナミレイと名前を言う、激しい違和感が脳の奥にねじ込まれる。

「その綾波澪、って子なんだけど、実は僕らが中学のときに同じクラスだったんだよ」

「へえそうなんだ、その綾波さんって人、今はどうしてるの?」

 そこまでは教えなかったのか、と思いながら僕はゆっくりと言葉に出す。

「彼女はもう、亡くなってるんだ」

 それを聞いたユイはさすがにすまなそうな顔をして口をつぐんだ。横からマナが肘でこづいている。

「気にしなくていいよ、昔のことだし、ケンスケはあえて言わなかったんだろ?」

「あ、でもさ、ってことは碇さん、その綾波澪って子にユイが似てたから気になったとか、そうなの?」

 マナが身を乗り出してくる。ユイはちらっとマナを見やり、僕の目の前、テーブルの中央で視線が交錯するのがわかった。

 ようやく彼女たちの注文したピッツァとスパゲッティが届き、三人で食べ始める。

「しいて言えば髪形がちょっとだけ似てるかなって感じなんだ、ちょうど一条さん、君がその髪の長さでグラデーションを入れたらかなり近いと思う、あと色をちょっと抜いて銀っぽくしたらね、だけど似てるってのはそういうことじゃない、一条さん、君にはもしかしたら悪いかもしれないけど、僕は最初に君と会ったとき、真っ先にその綾波澪、いや彼女は漢字の澪じゃなくカタカナ名だったんだけどね、レイのことを思い浮かべていたんだ、顔立ちとかもそうだけど印象だね、雰囲気っていうか、そういうのが驚くほど、似ているっていうよりは思い出させられるような感じだったんだ、だからきっと君のことが気になっていたんだと思う、君自身よりも、君とレイとの間に何かつながりがないかとか、そういうことを考えていたんだと思うんだ、その辺りはきっと霧島さんが言うとおりだよ」

 そこまで言って一息つく。
 フォークに巻きつけたパスタを口に運び、唇についたナポリタンソースをナプキンで拭ってからユイはしっかりと僕を見据えて言った。

「まあなんとなくはわかるよ、何十年も前に別れた彼女があの時のままの姿で現れた、そんな感じでしょう?そういうお客はいるのよ、誰某の格好をして付き合ってくれ、ってね、私もよくやるからそういうのはわかる」

「もしかしてケンスケもそう思ってたのかもしれないね」

「たぶんね、最初からあの作品を撮るために会ったんじゃなくて、うん、先生と出会った頃って私はまだ実家にいて普通に中学生やってた、んでほら、こないだ私が碇さんに初めて会ったときみたいに話しかけてね、ほんとにたまたまだよ、付き合ってみないってことになったの、たぶんその時にもうわかってたんだろうね私のこと、その綾波さんって人に似てるってことね。その頃ってちょうど、生き物、マナたちと連絡とるようになってより強く感じ始めてて、生き物の扱いを決めかねてた頃だったんだ、そいつが、白い虫みたいな奴だけど、そいつが夢の中で私の姿を真似るっていうのをよく感じるようになったの。それで私も生き物が教えるように、いろんな架空の人間を演じて遊ぶっていうようなことしてたのね、一人遊びだけど、でもほら、ああいう芸術系の仕事してる人って変わった趣味もってる人多いじゃない、それで私にその、綾波さん、ちょっと彼女を演じて、そう演技だね、ロールプレイっていうの?架空の人物になりきって遊ぶやつね、それやってくれって言われたのよ。んで試しにやってみせたらそれがえらく気に入ったらしくてさ、まあエッチしたのは最初の二回だけだったけど、それでオレのプロデュースで作品を作ってみないかって、そういう流れ。まあそれからは先生を通じて社長と知り合って、ちゃんとケツモチしてもらってマナといっしょに今の仕事始めたってとこかな」

 嫌だったのかい?

「そういうわけじゃないんだけど」

 あなた何もわかってないのね、そんなニヒルな笑みを浮かべる。
 光沢のある木の洋椅子に背を深く預けて座るユイの姿が、とても眩しく見える。俺のような下衆で低俗な男が見ていい姿じゃない、神々しい、いや、俺は本当に期待している、ユイが命じれば今すぐにでも彼女の前に跪いてみせる、どんな辱めでも受け入れることができる。そんな高揚した気分が、湧き上がってくる寸前で押しとどめられて僕はレタスを噛み砕いた。

「相田先生はああいう仕事やってるわりにはすごく真面目なほうだったと思うよ、アシスタントさんやメイクさんたちの信頼もすごくあったし、女のヒトとのつき合いはそりゃあ仕事柄多いだろうけどね、線引きはちゃんとしてるって感じだった、あれ先生って独身だったっけ?」

 一度結婚はしてたけど三ヶ月ちょっとくらいで別れたって言ってたな、

「そうだったね、でいつだったか話してくれたんだけどね、カメラで売れるようになってからいろんなものを手に入れることができたわけだけれど、豪華なマンションに住んで高価い外車を乗り回して、芸能界のパーティーにも出るし高級な店に通って派手な女たちと遊んで、だけどいつしかそれをすごく空虚に感じるようになって、オレを本当に満足させるものには出会えなかった、成功とか名誉とかいうのはただの幻想だったんじゃないかって、オレが求めてたのは物質的な充足じゃないって、だから私にはずいぶん入れ込んでたよ、付き合ってたのは半年くらいだったかな、その間は私立中学の高い学費も出してくれたし住むところの面倒も見てくれた、だけどそれ以上に、私をどう扱えばいいのか困ってたみたい、それであのDVDが出来上がってからは自然に別れるような形になった」

「それが私と同居始めた頃かな?」

 マナに横目で頷き、ユイは話を続ける。

「うんだいたいね、たぶん先生の中ではあのDVDを完成させることがひとつの区切りだったんじゃないかな、そうすることで自分の気持ちにケリを付けられるって、ほんと、だからそのあとのことは知らない」

 なるほど、ケンスケらしいな、あいつは昔からそういう冷めてるっていうか、一歩身を引きがちなところがあるんだよ。

「っつーか、まあ、わかるでしょ?そこまで私によくしてくれた人ってのは、先生が初めてだったからさ」

「ああ、すまないね。わかった、その話はこれくらいにしようか」

 苦そうに微笑んだユイを、マナはからかうように指先で突っついている。僕はそんな二人をいっしょに眺め、過去がどうあれ、今この場で俺はユイといっしょにいる、今この場でユイといっしょにいるのは俺なんだ、と自分に言い聞かせていた。

 意外だね、

「何がだい?」

 やや細めた、色っぽさを意識して出しているとわかる目をしてユイが言った。それを追いかけるようにマナが言葉を補う。

「そでしょ、だって普通さあ、私たちぐらいの歳の女の子がこんな話したら男の人って引くもんじゃない、私たちだって自分がやってることがどういうことなのかはわかってるつもりだし、一般っていうか社会倫理的に見たら褒められたもんでもないでしょう?でもなんか碇さんぜんぜん普通にしてるから」

「いや僕だって全然平気ってわけじゃあないさ、驚いてるよ、でもまあ、そういう人間をそれこそ何十人何百人と見てきてるし、慣れてるってのはあるかな」

 まったく意識しないということはできない、さっきユイはごく当たり前のように言葉を流した、ケンスケとは肉体関係があった。それは対価を支払った上での交際だから、そこに特別な感情があったわけではない、その時点では、しかし今でも彼の話を意識にとどめていることからもわかるようにケンスケは、いや写真家相田剣介はユイにとって他の大勢の人間よりも一段上の存在である、意識上で、だから俺はユイの中で少なくとも彼と同等以上になりたい、という感情を抱いていた。

 俺は何を願っているのだろう?
 ユイの言葉を意識の中で反芻すると同時に、腹の中がぬるぬると、ゆっくりとしかし激しく蠢きはじめているのを感じていた。不安感や虚脱感が酷いとき、何もする気力が無くなるとき、そういった肉体の挙動に敏感になる。今、この俺の身体は何を求めているんだ。
 身体の中に自分以外の存在を感じる、それは俺にとって不安要素でしかなかったはずだ、それは明らかに健常な人間とは違う異質な存在であるから、だけど今、俺は身体の中の生き物に自分を乗っ取って欲しいと願っている、なぜならそれがユイと共通の、そう共通の領域を手に入れられる方法だと思っているからだ。領域とはたとえば普段の生活圏、何処に住んで何処へ仕事に出かけ、仕事はどんな業界なのか、どんな業種と関わりがあるのか、いつも買い物に行く店は、いつも遊びに出かけるのはどこか、そういった毎日の暮らしが通る道筋、その重なりだ、最初俺とユイが出会ったのはこの第2東京近郊の学園都市に点在するコンビニの一店舗で、毎日そこに買い物に来る人間はどれだけいるだろう、その何百人かの中のたった二人、俺とユイだ、最初俺たちはそこで出会った、しかしそれ以外の時間は別の場所にいて別なことをしていた、それは別な領域だから、俺はレコード会社の社長でユイは中学生で、生活圏がまったく違う、だけど俺はユイに自分のお気に入りの曲が入ったCDを渡し、俺たちは同じ曲を聴き、共有し、それが俺たちの領域をほんのわずかだけ重ねてくれた。
 そして今ユイの隣に座っているマナ、彼女と話したことで俺は自分が感じている生き物を、同じようにユイも感じているのだとわかった、それは他の人間には理解しがたいもの、だから周囲の誰にも話すことはできない、マナや、他に何人かいるという同じ夢を見る少年少女たち、そんなごく限られた仲間にしか話せない、そしてユイは俺にそんな心の内を教えた、そう、だから俺はそれを取っ掛かりにより深くユイの懐へ踏み込もうとしている。はたして彼女はそれを許してくれるだろうか?

 切り分けたピッツァをつまみながらマナが話を振る。

「碇さんって、もしかしてけっこう危ない系?そういえば社長言ってたよね、元ホストとか、てことはそっち方面に顔利くとか」

「元なんとかってのは違うけど、似たようなことはしてたよ」

 今は休んでるけどちゃんとした仕事はある、CMRBは知ってるかな、霧島さんは詳しいらしいからわかるかな?そこで曲書いてるんだよ。

「CMR、ああ、あそこ!?そうだったんだ、碇さんそうなのかあ、すごいなあ」

 すごいなあ、とマナは何度も感心したように頷いていた。

「コモレビ?」

「ほらザドアーイントゥサマーとか、UVとかが所属してるあそこよ。あと洋楽のコンピレーションも出してるよね、ユイ、あなたが碇さんから貰ったCD、ジャケットの裏んとこに書いてるでしょ?CMRB−TUNEって、碇さんの会社から出てるCDじゃないの」

「んー後で見てみるよ、ともかく凄いんだね」

 得たり、といった顔でまくしたてるマナに対しユイはあまり興味なさそうにしている。僕としては自分の手がけた作品のことを話題にしてもらってほっとしたというか、胸が温かくなるうれしさがあった。
 同時に、周囲の客に聞き耳を立てられていないかということも気になりだす。
 僕自身のメディアへの露出は少ないけれど、それでもよからぬ噂の種にならないとは限らない。マナに目配せし、すこし抑えてくれ、と伝える。マナはすぐに察してくれたようで椅子に腰を落ち着けておとなしくなった。

「ところで、その相田先生とやってたロールプレイってやつだけど」

 僕が言葉を発した瞬間、ユイの表情が明らかに不機嫌なものに変わるのがわかって僕は心臓を槍で貫かれたように、感情による痛みを感じた。

「先生の話はやめるって言ったでしょ」

 馬鹿みたいだけどその、なんつうか青臭い思い出?ってやつなのよ、振り返るってのはあんまりしたくない、ユイは椅子に大きく座りながら言った。背は僕より低いはずなのに見下ろされているような気がして僕は思わず言葉を尻すぼみさせてしまう。

 いや俺が気になったのは彼のことじゃなく、その、人物を演じて遊ぶっていうプレイの方だ、知ってるとは思うがそれは性風俗の一形態だよね、

 ともかくユイの機嫌を損ねないように、取り繕わなければならないという思いに突き動かされて僕は言葉を吐き出していた。今ここで話しているのは僕とユイとマナ、三人のはずなのに僕たちではない別の生き物が、僕たちの身体を借りて話をしている、そんな錯覚が襲う。

「嫌いじゃない、けど、できれば思い出さずにいたいんだ、あたしの、はっきり言うけど弱みだと思う、本気でのめりこんでいける相手を選りすぐれるほどあたしは大人じゃない、だから全部を受け入れるか全部を突き放すか、今はそれしかできない、だから今は話したくない」

 俺はどうなんだい?

「俺のことも受け入れられないか、突き放すしかないのかな?」

「それは、碇さん次第」

 わずか数秒のこのやり取りの中で、僕はユイの表情がほとんど一瞬のうちに裏表へと変わっていたのを感じていた。どちらが本当の姿なのだろうか、そもそもそんなことに意味などないのか、ユイの身体の中にはたくさんの人格が住んでいて、時に応じてこんなふうにして表に現れてくるのだろうか。

「仕事は月に三、四回とかそんなだけど、相手のあることだからね、今夜みたいにいつでも時間とれるってわけじゃないよ」

 わかってる、俺もそこまで欲張りじゃないさ、

 口の中に残った野菜の欠片を飲み下し、水で洗い流してすっきりさせる。僕とユイとの間に緊張があるのにもかかわらず、隣のマナはおいしそうにチーズとピザソースをぱくついていて、僕は緊張をすこしでも緩めようと息を吐き出した。

「ああでも、私も気になるよ、だってユイ今まで全然言わなかったじゃないそんなこと、グラビアアイドルみたいな感じなんでしょ?それって」

 ピッツァの最後の一切れをほおばり、リスのように頬をふくらませてマナが言った。喋りきってからのどを大きく鳴らして飲み込む。

「そんな大したものじゃない、どっちかといえばプライベートフィルムに近い感じに最終的にはなったよ、販売も出版社の知り合いに頼んでこっそりやるって言ってたし」

 それを俺が手にしたのはかなりの奇跡だったのかな、

「どうして?」

 ユイが呆れたような笑みを浮かべる。奇跡って、別にそれがいいことってわけじゃないんだし何か意味でもあるの?
 吊り上がった頬の丸みが照明の光を反射して艶やかに見えた。

 あのDVDを見つけてなかったら俺はここまで君に囚われていないよ、ただの通りすがりで忘れてたかもしれないぜ、

 ユイは椅子の上で姿勢を直し、改めて僕を見上げてきた。

「ロールプレイで人物を演じるってとこで気づいたんだけど、一条さん、君は演技力っていうのかな、凄くあると思うんだ。ケンスケが君は天才だって言ったのはそのことだと思う、現に今僕も驚かされっぱなしだよ、君ひとりから何人もの視線と圧力を感じるんだ、たくさんの人物を使い分けて僕を取り囲んでる、そんなふうに感じるよ」

「うん、先生もそんな感じのことを言ってた」

「それでだ、彼とプレイしたってのはどんな設定でやったんだろう?綾波澪で?」

「まったく別のキャラだよ」

 碇さんもそうだと思うけど、先生も彼女に対しては特別な感情持ってるみたいだから、そういう対象にはできないみたい、いっぺん撮影の後に身体預けたまま誘ったら嫌な顔されたよ、それは先生の中で彼女が、綾波さんがそんなことをするのが想像できなかったからだと思う、私は渡された写真見てあとは生き物に任せるだけだし、どうしてだろうっては思ったけどやっぱり男の人にとっては難しい気分なんだろうと思ったよ。

「生き物に任せる?」

 それは自分の意識とはまったく別になっちゃうのかな、たとえば別の意識が表に出てきて君自身と入れ替わるとか、

「それじゃただの二重人格だよ、そんなんとはまた違ってね、そう、演じたいキャラを生き物に見せると、私自身の目で見るんだけどね、するとたとえばこんなことをされたらこういう反応を返すとか、そういうのが本当に身体じゅうに染みこむようにして伝わってくるんだ、だから普通にしてるだけでそのキャラならどういう言動をするかとかがごく自然にわかる、私はそれに従うだけ」

「なるほど、興味深いね」

 見るのは写真だけ?文章もあるかな、たとえば小説の登場人物のように、

「動く映像があればいちばんいいけど、あとは声とか、小説ってのはあんまりやったことないからわからないけど、できなくはないと思う」

「女優になりたかったとか、演劇が好きだとかいうわけではないんだよね」

「興味ないってゆったっしょ」

 鼻で笑うユイを見ながらも、やはり彼女は演じることが、誰かのために演じることが好きなのだろう、と僕は思っていた。何も舞台や映画などで役柄を演じるというわけではない、相手が何を求めているか、すなわちどんな女とつき合いたいのか、それを読み取って相手の望む女として振舞う、ユイはそれが好きなのだと。
 だけど同時に変えたくない自分とのせめぎあいに悩む事もあっただろう、会話の端々に見え隠れする葛藤を僕は探り当てていく。

 よかったら教えてくれないかな、

「何を?」

 ケンスケはどんなキャラをやらせたんだろう、あのDVDを観ていて思ったんだが常に綾波澪になっていたわけではないよね、ところどころ君の素顔が見えていた場面があったよ、

「ほんと、碇さんってなんでもわかるんだね。あれは私からも挑発するつもりがあったのよ、そこまで入れ込むなんてどんな女だろうと思ってね、だけど自分でも澪はかなり気に入った、だから今でもいっしょにいるよ」

 綾波澪と綾波レイではまったく性格が違う。もちろんユイ自身もだ。おそらくだが、ケンスケはあえてそういった性格付けを考えたのだろう。もし綾波本人にそのままの性格を演じさせていたらこっちが耐えられなかったに違いない、だけどユイは鋭くもそれを見抜き、撮影のさなかに突然思い出したようにそんな仕草を表出させていたのだ。
 ユイの表情の向こうに綾波の横顔が重なって見える。イメージの中で見比べれば、それほど顔のパーツ一つ一つが似てるというわけではない、どちらかといえば面長な綾波に対しユイは丸顔だ、だけど、僕の印象にもっとも強く働きかけるのはその振る舞い、つまり人格、意識、言葉、など、しかしそれはクールだとか皮肉屋だとかそういった一般的なカテゴリーには収まらない、同じ個人であってもさまざまな一面を持っているのは彼女たちに限らずごく当たり前のことだから、だからこそ僕はユイたちのなにげない言動にさえ激しく揺さぶられてしまう。

「いっしょにいるっていうのは?」

「うん、気に入ったキャラはたまにひとりでなりきって遊ぶ時があるの、マナと一緒のときもあるけど、今いるのは澪の他にはカオリ、メグミ、チカ、かな」

「ケンスケとやったのはその中には入ってるのかな」

 ユイの唇が再び吊り上がり、重い圧力を持った冷笑が浮かぶ。真っ先に思い浮かんだのが、いつだったか僕が父さんのことで愚痴った時に綾波が見せた、嘲るような皮肉な笑みだった。
 そんなに心配しなくても俺は司令を奪ったりはしないさ、足元をすくわれる思いがして胸の中で心臓を支えている綱が切れそうになる感覚を味わう。

「入ってないよ、あれはちっと危なすぎ」

 ユイにつられてマナも苦笑いする。何度も語って聞かされたことがあるのだろうか、また始まったよとマナが僕に流し目を送る。

「設定をね、テレビゲームかなんかの企画書みたいにして書いて見せられたんだけどもう凄いのよ、親に虐待されてセックス狂いになった少女っていうのよ?こいつやべぇ、って最初は思ったんだけどね、読み込むうちに妙に引き込まれちゃって、抑圧してた何かがわき出てくるっていうの?その頃の私にも重なるところあったから、さすが、経験積んだ大人の男は違うなって、そんときは単純に感心した」

 それが何の因果かこんな仕事やるようになっちゃったってんだから、わかんないよね、椅子の背もたれに腕を掛けて言い放つ。今彼女の意識は自分自身に向けられているのか、それとも俺か、この場にいない別の誰かか。丸い瞳を絞り込むように細め、すると綾波レイの表情がにじみ出る。

「名前はアヤネっていうんだ、名家の血筋らしいけど、あれ、母親が夫じゃなくそいつの父親に孕ませられて生まれた娘で、そんで一族から爪はじきにされてたっていうね。そんで家に居られなくなって身体売って生計立ててたって、まあ、この手のハナシとしちゃよくあるネタっしょ」

 一条さんも実家には帰ってないんじゃなかったっけ、

「バカ言わないでよ、うちはそんなに酷くない、親が変な宗教に嵌ってるわけでも借金抱えて追われてるわけでもないし、だけどものすごい放任っていうか、面倒さえかけなけりゃ何しても文句は言わない、逆になんにも構ってくれないっていうか、普通の家庭がどうなのかは知らないけど私は小さいころからずっとひとりだったんだよ、今でこそマナといっしょに人並みにおしゃれしたり遊んだりとかできるようになったけど、昔はそういうのにぜんぜん無頓着っていうか、勝手がわからなくて、小学校の頃なんてクラスじゃ浮きまくってたよ、無口で暗くてね、周りのみんなが『マーガレット』とか『ASUKA』なんかの漫画雑誌や芸能人とかドラマの話してても会話についてけないし、いっしょに遊べる友達もいないしグループにも入れなくてね、遠足や修学旅行なんかで班分け決める時とかも私だけ最後に余ってさ、そのくせ反抗心だけはいっちょまえにあるもんだから先生も手を焼いててね。あ、先生ってのはガッコの担任ね、相田先生のことじゃないよ、そんな感じで生活に不自由してたわけじゃないのにものすごく満たされないっていうか、とにかく何かが足りない、自分は不完全なんだっていう焦りがあった、だけど10歳かそこらの子供に自己分析なんて無理な話でしょ、だからある意味この道に進むのは自然なことだったのかなって、今じゃ思えるようになった、都合よく言い聞かせてるだけかなっては思うけど、少なくとも今のところいちばん違和感がないとは思ってる」

 なるほど、しかし境遇はともかくとしてそういう心理みたいなものが、近いものがあると思ったんじゃないかな、

「アヤネの話だけど、たしかにそれはあると思うね、自分で考えてても自分自身のことってなかなかわかりにくいっしょ、だけど他の人に見てもらうと案外すんなり言葉が出てきたり、気づかなかった見方とかできるじゃない、そんな感じで私は先生の書いた設定を自分に取り込むことができた、先生と付き合う日はアヤネになって、で彼女が写真家の先生に誘われて作品を撮る、プライベートでは恋人未満のまま、そういうちょっと変わったつき合い、つってもその頃の私にはわからないことだらけだったけど、まあおかげで今の私があるわけだからね」

 いつも会ってたわけじゃないよね、

 コップの氷が溶けてまどろんだ水が溜まり、僕はそれで唇を湿らせる。冷たい水を口に染みこませるとすぐに僕の身体の中に溶けていく、緊張と興奮で熱くなっているのがわかる。
 ユイは指先でジャケットの襟を正し、喉元を軽く撫でた。滑らかに走るユイの指に僕は目を奪われ、ほんの少しの間、注意が途切れる。

 俺は何をやってる、俺は何をやりたい。

「先生も有名な写真家だから、忙しいしね、二週に一度ってとこだったかなあ、でも会うたびにけっこうなお金をくれたよ、何度も言うけど私はまだソッチ方面の知識は無かった頃でね、相場とかもわからなかったし、くれるっていうのを黙って貰うだけだったんだ、お返しはしたかったんだけど、どうやればいいのかもわからなかった、だから別れるのが、関係が終わっちゃうのが怖かったね」

「今の君からは想像もつかないな」

「だから言ったじゃん、けつの青いガキだったって」

 でもなんだかんだでけっこういい思い出なんじゃないのかい、今でもこうして話せるんだし、

 緊張感のかたまりがユイから僕へ飛び、隣のマナに燃え移る。
 表情と視線を硬く固定してユイは僕を見つめてきた。僕も激しいプレッシャーを感じ、腹のあたりがひくひくと脈動するのがわかった。昂ぶってる、あの生き物が。腹の中で蠢いてる。腹から全身に、血管か、その中を通ってミミズ腫れみたいに全身を動き回っていく。

「私ひとりだけだったらたぶん堕ちてたよ、マナがいてくれたから立ち直れたし身を崩さずにすんだと思う」

 そうか、いい親友にめぐり合えたんだね、

 僕は頭の中で文章を考える時、最初友達、と浮かんだが親友と言い直した。マナは僕とユイを交互に見やり、そしてユイに見えない角度で僕に視線を送り、すぐに戻した。どう思うマナ、君にとってこの一条ユイはどんな人間なんだ、この仕事での後輩か。

「ユイったら、そんなに改まることないじゃない」

 マナの照れ笑いの中に粘つくものを感じる。生き物は相変わらず臍から下のあたりを這いまわっている。

「キャラになりきる、つまりロールプレイ、それをやってる間は生き物たちはどうしてるのかな」

 どうしてるって?

「俺は震えてるよ、今すごく激しく動いてるのがわかるんだ。君たちといるとなんというか、惹きつけられるんだよ。だから君たちはどうだったんだろうって」

「ああそういうことか、うん、なりきり遊びを覚える前はどうしていいのかわからなくて、生き物の存在に怯えてどうにもならない時がしょっちゅうあったんだけど、そう、演技をしてる時は落ち着いてる」

 安心できるっていうのかな、

 たぶん私と共存しようとしてるんだと思うんだ、そいつは、夢の中では私の姿を真似るけれど、私も碇さん、あなたと同じようにそいつが血管の中を這いずる感触を覚えるよ、だけどそいつは細い管に入れるような小さなものじゃなく、特定の姿はない、だから私の姿になれるし私にいろんな人間の姿を見せてくれるんだと思う、

 頷き、いったん目を伏せて僕は胸に手を当てた。激しく不規則に打ち続けている。いつ止まってもおかしくない、という恐怖がこみ上げる。

 俺は思ったんだ、生き物っていうのは普段は押さえ込んで隠している不安とか焦燥とか無力感とかいうものを掘り出して見せつけてくるんじゃないかって、俺が、言っちゃうけど俺は去年医者にかかって鬱病だって言われたんだ、俺が突然不安に襲われて何もできなくなって、原因はわからずじまいで、それはつまり俺が無意識のうちに目を背けてた自分のマイナス要素が俺の喉元につき付けられたってことなんじゃないかと思うんだ。

「だけど聞いてくれるかい、変な話だけど俺は一条さん、君に出会ったことで救われるんじゃないかと思っていたんだ、一条さん、君とこうして話したり君のことを考えていると、俺の中で暴れてた生き物がまるで餌を貰った動物のように落ち着いて俺は癒されることができたんだ、理屈はわからないけれど俺は君といたい、いっしょにいるべきなんじゃないかと思うようになったんだ」

 喋りながら、背中やわきの下に脂混じりの冷や汗がどっと噴き出ていた。俺はとうとう言ってしまった、胸のうちを曝け出してしまった。どうする?
 俺はもう三十代の終わりに差し掛かり、身体も衰え始め、鬱なんていうやっかいな病気のせいで妻や娘と過ごすのが億劫になって、仕事も休んで自堕落な引き籠り生活をしている、金だけは貯めこんであるが、それが余計に無力感を誘う、肩書きだってもう役に立ちはしないのだ、そんな俺が中学生の娘に何を縋ろうっていうんだ?しかも相手は援交少女だぞ、いやそんなチャチいものじゃない、立派に手練の娼婦と言っていいくらいだ、俺はそう思ってる。

 頼む、何か言ってくれ、俺からはもう何も言えない、喋れない、君が導いてくれ。

 思考の手綱を放しそうになってしまったその瞬間、ユイが顔を上げた。

「あたしもそれはよくわかる」

 そっくりだったからさ、あまりにも。相田先生と付き合ってた頃のあたしに。同じ想いを持ってたんだって。

 僕は何か相づちをうったはずだが、どんな言葉いや声が出たのかはわからなかった。

 狭まった視野の影でマナが僕を睨んでいた。

「碇さんの話を聞いてやっとわかった気がするよ、私がどうして先生にあんなに囚われてしまったのか、今でもそのことを抱え込んでいるのか」

 世の中にはいろんな種類の人間がいて、何十年かの人生の中で人は数え切れない出会いをするわけだけれど、すべての人間がすべての種類の出会いを経験できるとは限らないんだ、それは君のような若い子でも、俺のようなオヤジでも関係ない、だから、

「ん、つき合いたいわけ」

 それは、

 息をのんで言葉を途切れさせた僕をユイが見上げている。冷めてる、寒気がするくらいにわかる、俺を思い切り引き寄せておいてギリギリで突き放す。やられた。俺は引き返せない。

「それはプロ同士のお付き合い、って意味だよな」

「高いよ?」

「大丈夫だ」

 僕の返事を聞き、ユイは口笛を吹くように、あるいはキスをするように唇をすぼめて軽く鳴らした。まん丸だった瞳がはっきりと艶っぽく細められ、僕はそこに危うげな女の匂いを感じ取る。

 ユイは右手を掲げて指で3、と示した。

「そうそう、こうやって唇を鳴らすのもアヤネの癖なんだよ」

 既に三人とも食べ終わっていたので、食器を揃えてから席を立つ。僕は早く外の空気に触れたくて、上の空で勘定を済ませて店を出た。駐車場に降りてから、通りから流れてくる生温かくて淀んでいる空気に撫でられて僕はしばしの間呆然となってしまった。

「んじゃ、次の店いこっか、マナはどうする?」

「うん私も行くよ、そうだ、カラオケなんてどう、私たちの歌披露するのもいいじゃない」

「あ、それいいね、なに歌おっか?やっぱUVの最新ナンバー『ウルトラ・ストライプ』は外せないよね」

 さっきものすごい顔で僕を睨んでいたのが嘘のように、マナは楽しそうにユイに話しかけていた。どっちみち、今夜は二人ともを相手にしなきゃならないんだろうな。
 僕は二人に気取られないよう深くため息をつき、気を入れなおしてユイの手をとった。

「なあ、さっきアヤネの癖だって言ってたけど、今はどうなんだい?アヤネになってる、それともユイのままなのかな」

 ユイは僕を見上げ──いや、ユイと呼んでいいのかわからない、

 ユイは思わず見違えるほどの、今までに見せたことのない生気に満ちた笑みをいっぱいに浮かべ、通りの騒音にもかき消されることのない明るい声で言った。

「一条さん、でいいじゃん」





+続く+




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