Track 5. 『デジャ・ヴ』デイヴ・ロジャース





 僕は時田シロウの名刺をしばらく指先に弄んだ後、再び札入れにそれをしまった。僕が覚えている限りでは、彼は自分が開発したジェットアローンの暴走事件以降表舞台からは退いていた。しかしその後も精力的に活動を続け、現在はかつてのNERVが遺したオーバーテクノロジー──エヴァやMAGIシステム、ジオフロントなど──の発掘、研究を行っているらしい。というのは、その後調べてわかったことだ。

 それよりも気がかりだった事柄を片付けてしまおうと、僕は第2東京にいる大学時代の友人に電話した。既に午前三時を過ぎていたが、彼は今が起きて仕事をしている時間だ。会社を立ち上げてから仕事以外で会うことはめったになくなったが時候の挨拶は欠かしていない。

「シンジかどうしたよ急に、ここんとこ全然見かけねえからまぁた女囲って引きこもってんのかと思ったけど」

 似たようなことになりそうだよ、

「それで何の用なんだ、どっか店紹介して欲しいのか?けどいつかのユウコみたいな奴ぁ勘弁だぞ、入って2日で店の金持ち逃げしてバックレやがったんだ、いつも思うんだがお前ってほんと女運無ぇよな」

 違う、ちょっと確かめたいことがある、

 僕はあくまで簡潔を心がけて彼女たちの名前のみを言った。
 電話口の向こうでため息が漏れ、話し口が送話器からやや離れるのがわかる。

 どうかな、ジュンヤなら知ってると思ったんだけど、

「今はオレは関わってない。あいつらのことは社長に投げたからな」

 社長って、

「伊吹社長だよ、彼女の個人的な手駒、ってことになってる。実際がどうだかはしらねえけどよ」

 直接のバックは社長ってわけか?

「そうだ」

 安堵とも疑念ともつかない不思議な感情が僕の胸のうちに湧き上がって、表面には現れてこないけれどもそれは心の底を支配するようにどろりと広がっていくのがわかった。

「なにか厄介ごとに首突っ込んでんのか?」

 いや大丈夫だ、ありがとう、こんな時間に済まなかったなと僕は話を切り上げた。今度京都の伏見酒を送るよと言ったら苦笑いをしていたのが聞こえた。
 受話器を置いてから、僕は胸が浮き上がりそうに軽くなっているのを感じていた。
 とりあえずユイのバックについてはわかった、思ったよりずっとやりやすそうだと安心できた。仮にそのスジの人間が絡んでいたとしてもジュンヤに頼めばたいていは大丈夫だったろうが、マヤさんなら僕だけでもなんとかなる。地下クラブで会ったときはぼやかしていたが、やっぱり子猫ちゃんだったんだなと笑いながら僕は廊下を歩いた。自分の寝室に戻るまで僕はずっと笑い続けていた。
 もともとはマナがひとりでやっていて、そこにユイも加わったというところだろう。もう何年かして彼女たちが成人したら、マヤさんの持っている店に生え抜きで入店するんだろうなとすこし思い浮かべたがコトはそんなに悠長ではない、と僕は枕元に勢いよく腰を下ろす。弾んだ毛布を手で押さえ、スタンドに置かれた家族の写真を手にとってしばらく見つめた。ミライが生まれた時にもうこんなことからは手を引こう、と心に決めたつもりだったのだが結局僕はずるずるとこの世界にパイプを繋いだままだ、いや最初に考えたのはアスカの妊娠が発覚した時だっただろうか。
 会社の方はレーベルをひとつ作る事もできたし僕としては充分だった、僕はどちらかといえば経営よりも作品制作の方が好きだったな、トウジのようにステージに立つという方向には行かなかったけれど。対外交渉は僕自身が出なければならない事もあったが基本的にオフィスワークはムサシの連れだった浅利ケイタに任せていた。彼はムサシと違って本当に大人しく生真面目で、昔は彼をよく夜遊びに連れ回してやったものだ。

 回り続けていられるうちはいい、回り続けていられるうちは、

 そう繰り返して呟きながら僕はベッドに身体を投げ出した。
 アスカだって僕の知らないところで何をやっているかわかったものではない、表面化していないだけで問題は常に僕らの周りに付きまとっている、だけど問題を抱えていない人間の方が珍しいのではないか、自分は潔白だなんていうのはただ単に気づいてないふりをしてごまかしてるだけか、それか単なる馬鹿だ。
 さっきジュンヤに京都土産を送ると言ったことを思い出して、そういえば母さんの実家にもしばらく顔を見せていなかったな、と僕は天井を仰いだ。

 約束の土曜が来るまでの間、僕はずっと家の掃除をしたりまたいつものように音楽を聴いたり洋酒を飲んだりして過ごしていた。毎朝、起きてまず一番に納戸を開けて吊り棚に並べられた酒の瓶を一つ一つチェックしていき、魚の形をしたペッシェヴィーノ・ロッソの瓶の残りが半分になったとき、ユイとマナと約束をしてから三つの夜が過ぎていた。
 待ち遠しい、それは同時に焦りでもあり、楽しみに待つということは同時に精神を不安定にもさせる。しかし薬で不安を打ち消すことは同時に楽しみを薄れさせてもいく。土曜日の朝になって、僕はふと思い立って時田氏に連絡を取ってみることにした。あの名刺を取り出して電話番号を確かめる。これは自宅のものだろうか、それとも大学の、番号からして少なくとも携帯ではないようだが。

「あ、すみません時田シロウさんでしょうか?先日古書店で会った者ですが」

 わずかの逡巡の後、僕が緊張に息を吐くと同時に時田の返事が来た。

 時田シロウはあの古本屋で会ったときと同じように勢いよく早口でしゃべり、口調ははっきりしているものの僕はまた話の内容を追うことだけで精一杯だった。講義でもこんな感じなのだろうかと思ったが、ともかくも相手に耳を傾けさせるということに関してはかなり上手なのだろう。

 僕は一度つばを飲みこんでから呼吸を整える。

「実は今ちょっと暇を貰っていまして、そちらにお伺いしようと思うのですが」

「そうか構わんよ、いやわたしもぜひ君とじっくり話をしたいと思っていたのだ。大体いつ頃来れるかね?わたしは閑職だからね、都合はいつでもつけられるよ」

 そう言って時田シロウは第2東京にある新帝都大学のキャンパスの位置を、首都高速のインターチェンジを降りてからの道順を何度も繰り返し僕に説明した。
 僕は黙って聞き続け、では今から出ます、と言って電話を切った。

 家を出てからいつも使っているエネオスのガソリンスタンドに寄って給油した。別に今日往復するぶんは残っているのだが、ちょうどいいし、こうやって用事を片付けていくのは心の準備になる、と思った。
 茹で上がってしまうかと思うほどの首都高速の混雑を抜けて下道に出ると、涼しげな並木道が僕を出迎えてくれた。春ならばここは満開の桜でいっぱいになる。今は葉桜が、あざやかな緑を振りまいて道路を潤していた。もうすこし涼しくなったなら幌をあけてオープンで走るのも悪くないな、とも思った。どうしてだろう、僕は屋根の無い乗り物は嫌いだったはずなのに。

 フロントガラス越しの第2東京の街が煙を被せたように色彩が鈍く見える。
 たとえば人間の感覚の80パーセントを占めるのは視覚だといわれている。だから身体の調子が悪くなるとすぐ目に影響するんだろうと僕は考えて、それならアスカはどうなんだろう、とため息をついた。他の人間の半分しか見えない、それなら残り半分には何が見えているのだろうか。自分にとって当たり前に見えるものが他人にとってはそうではない、色彩感覚などはとくに個人差が大きいとよく言われるように、僕が見ているものも他人には同じように見えることはない、だから僕がユイの中に何を見たとしても、それは僕だけのものであって他人に通じることではないのだ。

 もしアスカに彼女たちを会わせたらなんと言うだろうか。
 僕が見えなかったものをアスカはぴたりと言い当ててみせるのだろうか。

 そこまで考えて、愛人を堂々と妻に紹介するほど滑稽なことはないだろう、と僕は自嘲的な笑みを吹き出した。
 待てよ、ユイとはまだ、ただの知り合いじゃないか。これからそうなるんだって?だけどそれは小悪魔的な娼婦の甘い誘いに、人生に疲れた馬鹿で哀れな中年男が引っかかっただけかもしれないぜ。
 いざ俺がユイに触れようとしたとき、なに本気になってんの、馬鹿じゃないのと手のひらを返される想像をして僕はかすかに身震いする。

 新帝都大学の敷地に近づくにつれてそんな想像は頭の中から薄れていき、僕はキャンパス内の公園に近い遊歩道にS2000を停めた。
 僕が通っていた頃と景色や建物の姿は変わらないはずなのに、色彩というか、生気というか、ともかく印象がまったく違って見えた。変わってしまったのは僕の方なのか、もう乱痴気騒ぎをしてダラダラと遊んでいた学生時代とは違うんだからな。

 形而上生物学科の研究室は旧校舎の隅にあり、未だに旧世紀の趣きを感じさせる、木片にペンキを塗って手書きの字で研究科名が記された札が引き戸の上に掲げられていた。教室や廊下の床も、僕が小さい頃通っていた豊科の古い小学校のような歪んだ板敷きで、ところどころに木の節が疣のように盛り上がっていた。21世紀になってから増改築された新校舎は立派な大理石とリノリウムの床だったが、こちらはいかにも昔ながらの学び舎といった風情を残している。

 廊下を歩きながら教室の札を見上げていると、背後から声をかけられた。
 振り向くと時田シロウがまたあのグレーのスーツを着て、クリップボードを抱えて手を振りながらこちらに早足で歩いてくるところだった。

「思ったより早かったね、さて私の研究室はここだ、遠慮なく入りたまえ」

 そう言って時田シロウは僕を応接用の革ソファに座らせ、フレンチプレスでスターバックス・コーヒーを淹れていた。僕はその数分の間、ソファにゆっくりと身体を落ち着け、部屋の中を見渡した。棚には研究資料らしいたくさんの本やフォルダに入れられた書類が詰め込まれ、栞や見出しシールが所狭しと飛び出している。背のあるハードカバーのファイルに、おそらく彼の手書きだろう、第3新東京市やジオフロント、リニアレール路線図、兵装ビル配置図、などの覚えのある単語が並んでいるのが見てとれた。寝不足のせいではないだろう、本棚を見るのに目を細めている自分に気づいて、そういえば最近霞むようになった、去年医者に行ったときに白内障の疑いがあると言われたがたしかにそろそろヤバイだろうな、まあこれはどうしようもないことだ、そう思っていると時田が二つのコーヒーカップを持ってきてガラステーブルの上に置いた。

 ずいぶん調べているんですね、

「あれです、第3新東京関連の資料」

 僕が本棚を指し示すと時田シロウは一度見やってから脂の乗った老人特有の笑みを浮かべ、どっかりとソファに腰を下ろした。

「以前はわたしの他にも多くの企業や実業家、好事家たちが探索に参加していたのだが、しかし新箱根湾の海底に沈んでいるのは古い高層ビルやせいぜい大砲の弾とか鉄道のレールとかそういったものばかりだからね、金塊や宝石が沈んでいるわけではないんだ、そういう宝探し気取りの連中はすぐにいなくなったね。今のところ事業として本格的に調査活動を行っているのはわが日重共だけなのだよ」

 かつてのジェットアローンはさておき、たとえば深海や火山の中、放射能に汚染された土地、極寒の氷海、電磁嵐の荒れ狂う宇宙空間など、そういった人間の立ち入ることが難しい環境で活躍する作業機械すなわちロボット、その開発において日重共は現在でもトップの地位にある。

 自己紹介がまだでしたね。

「知っているよ、碇シンジ君、だろう?ご高名はかねがね伺っているよ」

 かつての科白を同時に口に出し、揃って笑い出す。
 最初に見たときはわからなかったのだがね、しかし改めて写真と見比べてみるとなるほどと思ったのだよ、お父上の面影がよく出ているねと時田は僕を見て言った。

「ほう、コモレビ・ミュージック・リージョンビジネス代表取締役、あのCMRBかね」

 僕が差し出した名刺をしげしげと眺めながら時田は呟いた。社名を図案化した、Cの字が青い三日月形の弧を描いているロゴが印刷された名刺が彼の手の中で上下に揺れ動く。

「ええ、学生時代の仲間たちと一緒に、クラブシーンを中心に洋楽の輸入配信や国内アーティストのプロデュースなどをやっています」

「なるほどね、いやうちのゼミの連中の学生パーティーでも、君のところの曲をよく使わせてもらっているようだよ、わたしは最近の流行りなどはあまりわからないが、なかなかの人気のようじゃないかね」

「おそれ入ります」

 湯気を立てているコーヒーを一口含み、時田は改めて話を始めた。

「あれからもう20年以上も経ってしまったし、君とこうして巡りあったのも何かの縁だとわたしは思うのだね、覚えているかい、日重共とあのロボットのことだ、あれはやはり当時としては画期的だったとわたしは今でも思っているのだ。考えてもみたまえ、あのサイズの機械が二本の足で歩くというのはそれだけで大変なことなのだよ。現代の技術をもってすればもっと堅牢に、敏捷に動くことのできるものも作れるのだがね、実際われわれはその技術を持っている、しかし作られないのはそういった機械の需要が無いからだね、実際のところはせいぜい7、8メートル程度の、そう戦車くらいの大きさのロボットだね、海底や未開地の探索などに使われるロボットだ、日重共の主力商品はそういった大型作業機械なのだよ」

 NERVにおいて、エヴァンゲリオンという巨人が当たり前のように動いている姿を日常的に見ていた僕にとっては、その当時は気に留める事も無かったがこうして改めて思い返してみるとそれがいかに異常なことだったのかということがよくわかる。それでも、24年という歳月は空想を現実のものにし、技術の進歩はかつて夢物語といわれた二足歩行ロボットを実用化にこぎつけ──実際多く製造されているのは兵器や作業機械としての用途に適した多脚型の重機だが──発表当時はNERV関係者の失笑を買ったジェットアローンも、今では立派にパフォーマンスを披露できるまでになっていた。

 当然ながら、エヴァをはじめとしたNERV関連の資料というものは公式には残されていないことになっている。

 時田はソファから立ち上がり、棚から一冊のファイルを取り出すとテーブルの上に開いて見せた。

「エヴァシリーズ、ですか」

 海底をソナースキャンで立体図面に起こしたものが描かれている。半分ほどが埋もれてしまっているが、僕の目にもはっきりとその物体が40メートルほどの人の形をしているのが見てとれた。
 じわりと染み出す、油がにじみ出るように風景を思い出す。
 あの赤い海、あの色が出たのはLCLと微生物の作用だったらしいが、あの海に浮かんでいたエヴァシリーズの残骸、それらは20年余を経た今でもあの海底に眠っている。

「われわれの調査によると、これらエヴァシリーズの機体はそのおよそ55パーセントほどが石化しているというのだ。主な構成素材たる炭素と珪素だね、これらが海水と反応して石のように、あるいは珊瑚のように固まっているのだよ。つまりは骨と機械と装甲板だけになってしまったということだね、肉などの部分は腐って散らばっていってしまったようだよ」

「しかしよくそこまで調べられましたね、政府などは何も?」

「そこは君、お約束と言う奴さ、われわれも真っ当な手段ばかりを選んではいられないからね」

 時田はかつてジェットアローン開発に従事していた頃のように不敵な輝きに満ちた笑みを浮かべ、膝に肘をついて身を乗り出してきた。

「ところでシンジ君、エヴァンゲリオンの機体重量はいくらだったか覚えているかね?」

「重さですか、たしか初号機がB型装備で1500トンほどだったかと思いますが、素体のみでは960トン」

「そうだ、おおよそ人間をそのまま大きくしたのと同じくらいの重量だね。しかし考えてみたまえ、象や鯨のように現在この地球上に生息している大型動物はどれもとても緩慢な動きをするだろう、鯨にいたっては水から出れば自分の体重でつぶれてしまうほどなのだ、巨大な質量を動かすというのはそれくらい大変なことなのだよ。大昔の恐竜、とくに竜脚類などは全長だけならエヴァに匹敵する大きさのものもいるが彼らはみな細身で、体重はせいぜい数十トンから100トン程度なのだ、これでも限界に近いといわれている。ちなみにジェットアローンは自重が約4700トンあるが、これは原子炉がかなり重量をとってしまうからだね、それを支えるために脚部は強固なトラス構造を何重にも連ねた、いわばバネの束のようになっているのだね。あの多関節型はそのためなのだよ。しかし翻って、エヴァンゲリオンは人体とほぼ同じ構造で、より敏捷な、すなわち強い負荷のかかる機動を行える。ちょっと見ればわかることだがこれは明らかに生物の限界を超えた動きなのだよ」

 そう言って時田はファイルをめくり、海底に沈んだエヴァシリーズの写真を開いて見せた。分厚い胸部装甲に覆いかぶさられるようにして、岩盤のような背骨が横たわっている。その横には、太古の恐竜の化石を思わせる太さと長さの上腕骨がカメラに迫っていた。

 数秒ほど眺めてある事実に気づく。
 機械部品はそれほど腐敗せずに残っているが、装甲以外の大きな部品がほとんど見当たらない。機体重量を支えるためのフレームや補強のようなものが一切無いのだ。つまりエヴァは素体の強度だけで自分の体重と、身にまとった装備の重量を支えていることになる。装甲は本当にただの鎧で、エヴァ自体の運動能力に寄与するものではない、むしろ枷となっている。リツコさんが言っていたように拘束具としてだ。

「われわれと同じ生物の構造では、このサイズの骨格では機動に伴う慣性力に耐えきれない。わかるかね?すなわちエヴァンゲリオンは、使徒もそうだが、肉体そのもの以外に重量を制御する術を持っているということになるのだ」

「つまりATフィールドだと?」

「そのとおり。そこでこれの出番というわけだよ」

 時田は人差し指でテーブルをつついた。

「冬月コウゾウNERV副司令、それに君の母上、碇ユイ博士が専攻していた形而上生物学だね」

 一口コーヒーを啜り、熱さが喉の奥を滑り落ちていく感覚を確かめながら僕は頷いた。

「おおまかに言ってしまえば生物の基本的な構造や生命活動そのものにATフィールドが深く関わっているということだよ。エヴァや使徒のような巨大な個体では、その力によって重力に対抗していることだね。われわれ人間や他の多くの動植物では、観測できるほど強い影響が出ないというわけだ」

「しかしそうなると、他の生命体との接点が無いそれらがどこからどうやって現れたのかという話になりますよね」

「うむ、そこでだよシンジ君。始祖民族説というのを聞いたことがあるかね」

「人類は進化の末に生まれたのではなく、どこか別の星からやってきた、そういうものですか」

「だいたいそんなところだ。これは多くの発掘調査でわかっているのだが、たしかに霊長類から類人猿への進化の過程は化石が出てくることでわかるのだが、ある時期を境にその進化の痕跡がぱったりと途絶え、そして突然に現在の人類が出現しているのだよ。それはおよそ1万2千年前のことだ」

 書店に並ぶオカルト科学本の類によく見られる説だが、エヴァや使徒の起源と合わせて考えてみるとむしろ自然な気もしてくる。
 人類補完計画の発動に伴って浮上したジオフロント、すなわち『黒き月』はそのまま墜落し全壊、現在の新箱根湾を作った。しかし黒き月が地球外に起源を持つものなら、あるいはそれによってこの星に人間がもたらされたと、そう考えることもできる。
 人間が他の生物と違い、自我を持っているのは魂があるからだと、生命体の作動原理に魂の存在を認めるのが形而上生物学でもある。照らし合わせれば、人類、使徒、これら魂を持つ生命体は過去のある時期に突然この星に現れたことになる。
 そこに人類以外の知性の存在を感じるなら、人類という種そのものになんらかのプログラムが仕込まれていたとしても不思議ではない。
 前世紀末、セカンドインパクト前後の頃にはこういった思想がブームを巻き起こし、数々の言説が飛び交ったという。またそれでなくても、世界各地の宗教や神話をあたればこれに類する伝承はよく見かけられる。

 若い頃や、そして歳をとって暇が出来た時など、そういった本を探して読むと僕は殊更にあの少年時代がまったくの別世界にいたのではないかという錯覚にとらわれていた。使徒と呼ばれる謎の巨大戦闘生命体が襲い来る、そしてそれを迎え撃つ巨大ロボット。さらに人類の起源に迫る伝説、死海文書、そして人類補完計画。秘密結社ゼーレが推進していたその計画が成功したのか失敗に終わったのか、わからないけれどもともかく西暦2039年の現在、人類は変わらずこの地球上に生き続けている。何十年も何百年も変わることなく、経済活動に明け暮れ次々と文化を生み出し、争い殺し合いながらも命をつなぎ続けている。僕もその中の一部分に過ぎない。
 24年前、人類補完計画が発動した時には一旦、この全地上からヒトという種の姿が消えた。すべては生命のスープに還元され、しかし、いつとはなしに人々はその原初の海から這い上がり、そして何事もなかったかのようにそれまでと変わらぬ日々の暮らしを続けている。
 僕はたしかに補完の最中の光景を覚えていた。しかし、他の人間たちはそうではない。ましてやそれ以降に生まれた人間などは補完の光景を見る事もかなわない。
 さらにいったい人類補完計画と言って、それによって何が変わったのかというと周囲を見渡してみてもその違いを見つけ出すことはできない。心の壁を取り払い、すなわちヒトをヒトたらしめているATフィールドを融合させることによって全人類をひとつの生命体へと寄せ集める。そのようなSF小説さながらのことをやってのけるくらい、ATフィールドというものは人知を超えた存在なのだ。しかし人類はまたそれぞれの個体に戻っていってしまったから、結果としては元通りになっただけだ。だが一時的にしろすべての魂もひとつになったのだからそれを記憶できない理由は無い。
 表面には見えてこないそういった部分で人類は確実に変化しているのかもしれないと、僕は何冊かの空想科学本をめくりながら思っていた。それらの著者も他の人間たちと同様に補完中の記憶は無い。しかし僕が出会った一条ユイのように、おぼろげながらも超感覚を備えた人間は確実に現れているらしく、そういった者たちに取材を試みた著者もいるようだった。あるいはユイをそんな人々に引き合わせ確かめるべきなのだろうかとも思ったが、あいにくと僕にはその方面のコネは無いしまた所詮彼らは出版商売なのだから本当にユイたちのことを調べようというのなら選択肢は除外されるだろう、と思考を打ち切る。

 ここから先はわたしの推測に過ぎないのだがね、

「アダムとリリス、すなわち最初にこの星にもたらされた地球外生命、それから生まれた使徒やエヴァや、われわれ人類も含めて、それらはみな精巧に作られた一種の機械ではないかとわたしは考えるのだ。言ってみればアダムとリリスが、端末機たる使徒を統括する母機、一種の統合戦略兵器システムではないのかとね」

 ふいに、それまで気にならなかった室内のかすかな騒音が耳を揺さぶりはじめる。この部屋の近くにおそらく空調の室外機か、水道のポンプがあってそれが廊下と天井と床に共鳴している。

「機械というと語弊があるが、それが金属でできていようが有機物だろうが仕組みとしては大差ない、事実使徒には明らかに機械的なパーツを持ったものもいただろう?」

「たしかに、生物がビームを撃ったりパイルバンカーを撃ったりはしませんね」

 ではATフィールドを持つのが使徒、エヴァも使徒から作られましたし人間も18番目の使徒と呼ばれたりしていますしね、使徒だけがATフィールドを持つのはそれがほかの生物とは異なる起源を持っているからだと。

 僕はコーヒーを一口飲み、緊張を押し潰すように喉を鳴らした。

「そうだ、おそらくは自然界にごくわずか存在していたATフィールドを効率よく利用する技術を手に入れ、それによって初めて使徒という存在を作り出すことができたとわたしは考えるのだ、もしわれわれ、すなわちわれわれ人類の元となったアダムやリリスを作ったのがどこかの異星人だとするなら、彼らにとってATフィールドとは高度技術文明を支える夢のエネルギーなのかもしれないね、かつてわれわれが原子力エネルギーを手に入れたときのように、もちろんスケールはだいぶ違うがね」

 まあ夢物語と思って忘れてくれても構わないがね、ただどうしても君にいちど言っておきたかったのだ、君は真実にもっとも近い人間のひとりだからね、理解もたやすいだろうと思ったのだよ。

 僕はあごに手をやり、ゆっくりと深くうなずいた。
 たしかにあの時以降、こんなに深くエヴァや使徒のことを考えてみたことはなかった。もう過ぎてしまったことだ、もう関係ない、今にしてみれば驚くほど頑なに忘れようとしていたのではないかと思わされる。
 僕が人の波に紛れ、多くの一般人に溶け込んで生きていこうとしていた時に、翻って時田シロウは情熱を失うことなく真実を追い続けてきたのだ。

 しかしそれもあくまでも生き方、考え方の違いであってどちらが正しいということはない、現に僕には僕の生活があり仕事があり、家族だっているし周囲の人間との係わり合いがある。それらをまったく振り払って生きていくことは少なくとも不可能ないし非常に難しい。

「日重共の調査活動は非公開なのですか?」

 ソファに背を埋めたままそう言うと、時田は20年ほど若返ったような生気のにじみ出る目をして僕を見据えてきた。

「興味を持ってくれたかね、だとしたらわたしとしても非常にうれしいよ。一般の見学は受け付けていないがね、まあ君一人と猫の鞄を乗せるくらいの余裕はうちの調査船にもあるよ」

「僕は猫は飼っていませんよ」

 機会があれば考えてみます、と言って僕はカップをコースターに置いた。

 それから時田はしばらく自分の仮説についての話を続け、僕はそれを黙って聞いていた。コーヒーを全部飲みきってしまって、喉が渇いてきたなと思い始める頃、南の空に昇った太陽が昼間の日差しを研究室に注いできた。
 僕は改めて時田に連絡先を確かめ、新帝都大学を後にした。

 家に戻る道すがら、僕はまたあの古本屋に寄ってみることにした。
 あの綾波澪のDVDがまだあるか、と思ったのだ。考えてみれば何も、違法AVに出演したとかいうわけではないのだし、ただ若年アイドルのひとり、それだけだろう、と頭の中で何度も繰り返して自分を納得させようとする。
 現物は前に見たときと変わらず、棚のいちばん下段にひっそりと並んでいた。腰をかがめて手を伸ばし、そっと棚からパッケージを取り出す。意外な軽さに手をとられ、展示してあるのは箱だけでレジで中身を渡してもらうのだと気づく。あの時は動揺してしまってまともに内容を見られず、逃げ出すように帰ってきていた。こうして改めて見てみる、ある程度は心の準備ができているから、そのつもりだから、だからなのか、胸の緊張がやけに心地いい。そうだ、こうやって嫉妬に駆られることが一種の快感なんだ。
 一条ユイ、いやこのDVDの中では綾波澪、彼女は白い砂浜に手をついて座り、胸元を開けたブラウスをやや風になびかせて笑顔をカメラに向けていた。
 最初に見たときは違和感があった、それはきっとあの時点ではまだユイの笑顔を見たことがなかったから、コンビニの駐車場で僕を不敵に誘う瞳をしていたから、だけどマナといっしょに聖霊の女子寮に行ったとき、僕はそこで初めてユイの笑顔を見た。だから今は納得できた、この少女は僕が知っている姿だと。

 裏面のリードに書かれていた、インタビュー収録という文字を見て僕はこのDVDを購入しようという決意が固まった。声を聞けばわかるだろう、と。
 僕はそのままパッケージをレジに持っていった。店員が奥の棚からディスクを探す間、僕はポケットの中で何度も手のひらの汗を拭った。こんなモノを買ってどうするんだ、いやアイドルのグッズを買うくらい別段珍しくも無いだろう、自分が想いを寄せている女がこんなモノに出演していた、かといってゆすりのネタになるわけも無い、いくつもの言葉の羅列が頭の中を駆け巡って、僕はぜんまい人形のようなぎこちない手つきで財布から代金を取り出していた。

 DVDの内容は特に変わったところも無い、海辺で戯れる少女の映像だった。
 潮風を浴びて笑顔を見せている少女、しかしそれはこの年代らしい眩しい笑顔、ではなく、冷ややかさすら感じさせるほどの凛とした表情だった。こんな夏の海より、月光の下が似合いそうな。そう、綾波のように、この少女に冠された名の由来となった女のように。
 ユイは着やせするたちなのだろうか、学校の制服ではわからなかった彼女の胸や腰のラインに僕は目を引き寄せられ、テレビの前で座り込んだ姿勢を何度か正した。
 波打ち際で時折見せる憂いを含んだ表情、僕はそれを目にするたびに何度となく胸を締め付けられた。それはまさしく綾波の表情そのもの、と言えるくらい似ている、というより同種の印象を叩きつけてくる。
 これで銀髪赤目なら本人だって言われてもわからないよな。
 DVDデッキのリモコンを操作しながら僕はそう呟いていた。
 髪の色はともかく、綾波の瞳が赤かったのは、あれはもともと色素が薄くて血の色がそのまま出てるんだと聞いたことがあったが僕は医学や生物学に詳しいわけではないしそんな事もあるんだろう、程度にしか思っていなかった。普通に日焼けはしていたからアルビノではない、使徒の遺伝子も混じっていろいろ操作をされていたというからその影響だろうと、今では理解できる。
 それなら、ユイやマナが不思議な幻影を見るのとはいったいどれくらいの違いがあるんだろうか。見た目でわからないだけで人間は、人類は確実に変化しつつある、綾波やユイやマナはその片鱗なのか、彼女たちに近づこうとしている僕はなんなのか。

 そんな僕の胸の内を見透かしたかのようにユイはカメラのレンズを鋭く射抜く。これを撮影したケンスケも同じ思いに貫かれただろうと、沸騰しそうな思考の影で冷静にそう分析する。
 ケンスケの投げかける言葉に時には微笑み、時には剣呑な表情を見せて、その境界線がかすかな違和感として、見る者すなわち僕に伝わってくる。どこかで認めたくはないと思っていたのか、僕はユイと綾波を重ねて見ていたのだと改めて認識させられた。彼女の顔から視線を逸らして身体だけを見れば、いや無意識にそうしてしまっている自分に嫌悪感を抱く。

 カメラ越しに会話しているユイと撮影者、すなわちケンスケの声を聞いているうちに、僕はひとつのことに気づいていた。
 それは綾波澪としての、この作品のタイトルを冠したキャラクター、そうキャラクターと、彼女、一条ユイ自身。その境界線の両側、少なくとも二種類の表情が、こんな限られた情報しか載せられないビデオディスクにさえ写し取られてしまっている。明るい夏の笑顔、冷たい月光の微笑み、それらが本のページをめくるように入れ替わっている。ユイと綾波の両人を知っている僕だからこそ、僕だけにしか気づかれない。他の人間がこれを見ても意識すらされないことだ。
 それはユイ自身が意思を持って入れ替えていると同時に、ケンスケもそれを引き出そうと様々な言葉や仕草を試している。映像に引き込まれながら、僕は改めてカメラマンとしてのケンスケの才能に感服していた。

 先日ファミレスでマナと話したとき彼女が言っていたこと、それはつまりこういうことだったんだ。

 ユイやマナが感じるという生き物、それは誰もが持ってる深層意識のようなものだから、相手がそれをどう扱っているかを想像してそうすれば相手の意識が感じ取れる。
 つまり、たまたま自分が似ていたであろう僕やケンスケの記憶の中の女を感じ取り、その姿を意識してか無意識にかはわからないけれども演じて見せていたというわけなんだ。だから僕に興味を持ったのかもしれない、それはさすがに期待しすぎだろうか?

 いっそのことこのまま彼女に心を奪われてしまえば楽になれるのだろうか、傍目から見れば奇異そのものでしかないな、年端もいかない少女に欲情する変態男だ。そうさ、俺はいかれてるんだよ。

 ひととおり内容を一覧して、僕はデッキからディスクを取り出して箱に戻し、ビデオ棚ではなく自分の作業机の引き出しにしまった。引き出しにはシンセサイザーのマニュアルや楽譜が詰め込まれているからその下に隠す。こんなものをアスカに見られたら何と言われるかわからない、ミライもそろそろ年頃だしあまりいかがわしいものを手の届くところに置いておくわけにもいかない、まあここには当分来ることはないだろうが、と思いながら引き出しを元に戻す。
 なんだったらユイたちを連れてきていっしょに観賞してみようか、いくらなんでもそれは趣味が悪すぎる、だいいち俺の車は二人乗りだから一人しか連れてこれない、そしたらマナが文句を言うだろう。そしてマナは寮の自分の部屋でひとり妄想するわけだ、俺とユイがいったい何をしているんだろうと、自分の目の届かないところで、スケベと軽蔑するか、それともからかいのネタにするだろうか。あるいはユイが持ち帰った稼ぎを半分よこせとせびるのだろうか。
 部屋の真ん中につっ立ったままくつくつと笑っている自分がどうにも居た堪れなくなって、僕はコルドンブルーの瓶を持ってきてグラスに注いだ。

 今夜、このDVDのことを訊いてみよう。
 唇の端からこぼれたアルコールの滴を手の甲で拭いながら僕は自分の意志を確かめる。ユイを目の前にして、竦んでしまって言いたいことを言いそびれてしまう、今更そんなことはないにしても、僕はたしかに彼女に惑わされている。その気持ちの正体も確かめたい。

 そして、いちばん肝心なこと。
 僕はユイとどうなりたいんだ?今心の中にある疑問をすべて解消できたならあとは用は無いのか。違う、僕はユイと付き合いたい、彼女に近づくことで僕の心を立ち直らせることができるなら、それにユイたちの見る夢の正体を突き止めようと思えばそんなに短期間では無理だろう。
 いろんな理由をつけてみたところで、僕がユイに会いたいと強く思っていることに変わりは無い。
 その思いがどこへ向かうのか、予想がつくだけに僕は躊躇ってしまう。

 だけど会わないわけにはいかないよな、今夜は約束したんだし。

 DVDデッキの電源を切り、僕は独白しつつテレビの主電源も落とした。

 電力を断たれたステレオスピーカーと液晶モニターが沈黙し、部屋を満たしていた電磁波のノイズが消える。
 静かな部屋の中で僕はじっとユイの姿を思い浮かべていた。

 こうやって想像する、想う、それだけでもう立派な不倫じゃないのか?ふと見渡せば、この部屋にはアスカに関連したものが無い。写真も、彼女の私物も何も。
 だけどユイの出演したDVDは誰にも見つからないようにしたうえでこの部屋に存在する。彼女の裸だって映っているさ。
 薄暗い部屋の中で僕は穏やかに微笑んでいた。

 電話が鳴っている。
 時間からしてたぶんアスカかミライのどちらかだろう。

 だけど僕はあえて出ず、今夜の支度を始めた。

 たっぷり一分ほどコールし続けて電話は切れ、部屋は再び静寂を取り戻した。閉めきったカーテンから薄暮の淡い青い光が漏れている。




+続く+




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