Track 2. 『ボレロ・ラプソディー』キング・アンド・クイーン





 夢を見た。
 空を駆ける光の白蛇が初号機の腕に絡み付き、その牙を僕の喉笛に突き刺す。もう片方の頭は、森の中に押し倒された零号機の腹に深く食い込んでいる。

 綾波。

 僕は叫んだつもりだったが、声は僕の口から飛び出す前にその白蛇にすべて飲み込まれてしまった。僕の声が、僕の叫びがそいつを通して零号機の、綾波の身体に直接送り込まれているのがわかった。

 空の色が激しく反転し、目が見えなくなる。黒く、重油を眼窩に流し込まれたかのように眼球に圧力を受けて周囲を認識できなくなり、それでも僕は何かを求めて手を伸ばしていた。何かを、何かを。どうしようもなく欲しくて、やりきれないほどに切ない。戦いの興奮とは違う、身体が沸騰して溶けていきそうだ。あの第拾四使徒のときのように。
 それが人間の純粋な、それゆえに汚れた感情だと気づいた時、瞬間、蛇の、光る紐状の使徒の身体が中央から断ち切られたように真っ二つになってはじけ飛んだ。
 赤い壁が収束し爆発する。コアを失った使徒の身体は蒸気になって消えていった。

 噛み千切られたプラグスーツの喉に手をやると、血がうっすらとLCLに溶けて広がっていくのがわかった。

「綾波…」

 カーテン越しの柔らかい日差しが蒸れた毛布を抱きすくめ、庭でセミが盛んに鳴いているのが聞こえる。
 忘れもしない。だけど時を経るごとに抽象化され、おぼろげにあやふやになっていく記憶。24年前のあの日。あの日、僕はいったい何を失ったんだろう?
 夢の中で使徒に侵食されかけた喉に手を当てる。
 何も無い、はず。何も無いはずだ。

 時計を見ると既に昼過ぎだった。体内時計が狂ってしまっているのかもしれない。それとも最近酒に弱くなったのだろうかと、血管を握りつぶしたような頭痛を手で押さえながらベッドから降りる。

 気が変わらないうちに部屋の片付けを済ませてしまおうと、僕は音楽CDやらレコードやらがぎっしり詰め込まれた棚をひとつずつ、中身をすべて出してそれを全部アーティストごとにまとめなおし、五十音順に並べていくという作業を続けた。今日はこれだけで一日が終わってしまうかと思うと、なおさらに没頭してしまう。どうせすることがないのだから同じだろう、また夜遊びでもするのか。

 レコードを一枚ずつ手にとっているうちにふと思い出して、キング&クイーンの『ボレロ・ラプソディー』をテーブルの上に置いた。
 それから、MDに録音してあったバックアップをデッキに入れて再生する。今使っているヤマハの5.1chセットも買ってきた当初はアスカに呆れられたが別荘の自分の部屋に移してからは何も言われていない。

 女性ヴォーカルの軽い歌声が頭の奥によみがえり、同時に気だるい夏の記憶も共に戻ってくる。
 もう昔のことだ、たしか15、6の頃だったか、その頃の僕は学校にも行かず施設にも戻らず、女の部屋でだらだらと遊び暮らしていた。何をするでもない、ちょっとしたままごとみたいにドラッグを食ってぐったり眠るかぼんやり音楽を聴いているか、泥か腐葉土かあるいは宇宙食みたいなジャンクフードをただ口に詰め込んでいるか、そんな風景を包み込んでいた雑音、淀んだ空気の中で壊れたラジオみたいにはしゃぎ歌っていた一曲がこれだ。
 絨毯敷きの床に寝転がると低音のビートが身体を揺さぶって、一日中蒸し暑かった第2東京辺縁の雑居ビルを思い出す。部屋の中は汗の酸っぱい臭いと香水のきつい匂いが混じって漂い、常に食べ物や生ゴミや使用済みの生理用品やらが腐っていた。そんな部屋に住む女たちはみな田舎から出てきたいつもツッパっている女ばかりで誰もが取り付かれたような目をしてセックスに拘っていた。他に満足できる希望や幸福なんて無く、ただ目的の見えない未来に追い立てられるようにして錯覚の充実感とか刹那の快楽を求めていたんだと、そしてそれは復興への希望その裏返しだったんだと、今になって気づいてもどうしようもない、いや、気づかない振りをしていたかった、と僕は思いながら起き上がる。
 まどろっこしい名前ばかりついた女たちは一様に厚い化粧とどれも似たようなファッションに凝っていて僕はただソレをじっと眺めていた。そうやって身体を弄くりまわすしか生き甲斐が無いように感じられた女と飽きることなくセックスに明け暮れていた自分が何か得体の知れない生き物にそうさせられているような気がして、僕は思わず腹の辺りを手でさすった。もしかしたらあの使徒の欠片が、今もまだ僕の腹の中でうごめいているのではないか?どんどん大きくなって、今に僕の身体を食い破って飛び出してくるのではないか。胸に大穴を開けて鮮血を噴いている僕。這いずり出てくる血に塗れた白蛇。古いSF映画で見たような光景が、装甲の隙間から生白い肉塊をあふれ出させた零号機の姿と重なる。想像しながら、僕は恐怖と同時に何かを期待するような快感を覚えていた。
 ダメだ、やっぱり頭が疲れているんだろうな。持ち上げた手に力が入らず、だらりと床に落として硬い木の音と共に軽い痛みを覚える。痛みを感じるってことはまだ大丈夫だ、いつだったか、何を食ってそうなったかは忘れたが指の関節が外れても痛みが無くて気づかなかったことがあった。もう一度手を顔の前にかざし、右手から順番に指折り数えてすべての指がちゃんとくっついていることを確かめる。右側、左側と目と耳を手で覆い、ちゃんと見えている聞こえていることを確かめる。大丈夫。僕はまだ大丈夫だ。
 糞尿の匂いが漂ってくるのは近所の農家が畑に肥やしを撒いているのか、それとも台所に出しっぱなしだった肉が腐っているのかわからなくて、僕はあの頃から変わってないな、と思う。
 女たちは様々な音楽を部屋に流し、割れるようなエレキギターの音や何をしゃべってるのかわからないラップ調の男のがなり声、乾いたドラムの音、安っぽいシンセサイザーの音が絡まりあうようなこともなくただ汚泥を押し流す排水溝のようにごちゃ混ぜのかたまりになって僕の耳に届き、僕はそういう音楽を聴くごとに脳が壊れていくような気がしていた。それも仕事をするようになってからは気にならなくなってしまっていたが、今はまた不快になってきて、比較的新しめのインディーズバンドやロックのレコードは全部二つに割ってゴミ箱に投げ入れた。その中には僕が仕事をしたバンドのものもあったが躊躇いは無かった。小さなゴミ箱はすぐいっぱいになって、晩飯を食べに行くついでに大きなゴミ箱を買ってこよう、と郊外に建っているホームセンターの場所を思い浮かべる。

 曲が最後まで流れて、僕は起き上がってリモコンを操作し再び曲の頭から再生した。自動リピートではなく、いちいち自分で操作することで僕は自分の意識というものを確かめている。
 飽きることなくお喋りを続ける女のようにループ再生される『ボレロ・ラプソディー』を聴きながら、そういえばCDではどれに収録されていたかな、と僕は再び棚を探す。
 またあの少女に聞かせてやりたくなった。
 会えるかどうかはわからないけれど、だ。そもそも名前を聞いただけで、どこの学校に通っているのか、いつもどこにいるのかなんてことはわからない。だけどなんとなく、僕が会いたいと思ったときには会えるような気がして、僕はS2000のカーステレオに持ってきたキング&クイーンのアルバム『シーズン』を挿し込んで家を出た。
 子供が生まれてから必要になると思ってもう一台ミニバンを買ってあったがそれは専らアスカが使っている。こっちは自分の趣味だ。

 空を覆う黒い夕暮れの中、ゆったりと車を走らせる。
 ファミレスで食べようかとも思ったが、僕はちょっと足を伸ばしてまたあのコンビニで弁当を買うことにした。昨夜あの少女、一条ユイと会ったあのコンビニで。また居るのだろうか、いつもあそこを通るのだろうか、そもそも僕のことを覚えているのだろうか、とも思ったが、やがて見えてきたファミリーマートの店内に、スクールバックを肩に提げて『CanCam』を立ち読みしている白いセーラーの姿を見つけて僕は思わずつばを飲み込んだ。

「やあ、暑くないかい」

 暗がりに身を隠すように少女は僕を見た。
 僕は軽く目を合わせてから自分の買い物をする。その間彼女はずっと外で待ち、また昨夜と同じくS2000のボディに腰掛けていた。

「ここにはよく来るのかい?」

「うんまあね、私んちからいちばん近いから。つっても、家にはあんまり帰らないんだけどね」

 そう言われて僕は、彼女がどこかの金持ちの親父と腕を組んでホテルにしけこむ想像をしてしまって思わず目を背け、仕草をごまかすようにそうか、と言った。

「そんないい子ちゃんに見えた?」

 ユイは腕を顔の前にかざして空を仰いだ。
 夜の生暖かい風がさらさらの髪をかすかに揺らしている。

 知ってる、私立聖霊学習院って、あの丘の上にある。
 へえ聖霊の子だったんだ、いやたまに見かけるけどね、そうか。

「寮入ってる友達んトコにいつも泊まってるの」

 なるほど、と僕は頷き、それ以上突っ込んで訊くのもまずい気がして車に乗り込んだ。
 言ってしまえば家出少女、だろうか。にもかかわらず僕に驚きが少なかったのはたぶん、自分も似たようなものだったから。第3新東京市に来て初めてまともに街を歩いて回ったのはあの案山子のような姿をした使徒との戦いのあと、だった。ちょうど今日みたいな、不気味なほどに綺麗な夕焼け空だった。最初はオールナイトの映画館で夜を明かし、翌日は友人、そう友人だな、そいつのテントに泊まった。

「今日はまた違う曲なんだね」

「興味がわいたとしたら嬉しいな。どれも僕が若い頃に流行った曲でね。といってもその頃で既にリバイバルみたいなもんだったんだけど。今は恥ずかしいよ、こうやって窓開けて流しながら走ってたらさ」

「あははははっ、そうそう恥ずかしいって。
その友達がこういうの詳しくてさ、あれから訊いてみたんだよ」

 会話している内容には意味が感じられなくて、ただ、僕と彼女がこうして言葉を交わしているということそのものが重要だった。
 僕は何をやってるんだろう、こんなくだらない話をしたくてここに来たワケじゃない、だけど何を話せばいいんだ?この曲をユイに聴かせたくて、それで、どうするんだ?感想をもらいたいのか、どうなんだ。
 僕が聴いてる曲をユイも聴いて、つまり、離れた場所に居る二人が同じことをして同じものを見聞きして、そうすることで何かつながりのようなものが生まれるんじゃないかと考えている。
 僕はディスクを取り出してケースに入れ、ユイに差し出した。

「あげるよ、他にも何曲か入ってるから部屋でじっくり聴くといい」

「えーいいの、こういうのって今は貴重なんじゃない」

「いいよ、バックアップも取ってあるし。それにこれっきりもう会わない、ってワケじゃないだろうしね」

 ユイはふふ、と含み笑いをしてドアに腕をつき、僕を見た。
 笑顔の向こうに一瞬だけ、蒼い髪の少女を思い出す。
 何やってんだ、僕は。さっきから僕は何をやっているんだろう。自分より20以上も年下の女の子にここまで翻弄されて、いや、子供だからこそか?彼女を見るたびに、自分はもう後戻りができないくらい長く生き過ぎてしまった、つまり彼女を対等な視線で見ることが出来なくなったということを思い知らされて悔しくなる。

 それじゃまた。

 次に会う約束をしようと、思っていたが僕はとうとうそれを口に出すことができなかった。それじゃまた、というユイの言葉が、自分はすべてお見通しなんだ、だからまたチャンスをくれてやる、そう言っているように聞こえて僕は彼女の顔を見ることができずにただ愛想笑いをしてユイを見送った。

 渦巻く焦燥と後悔そして自己嫌悪が、ユイの姿を借りて繰り返される。地べたに跪いた僕の頭を彼女のヒールが踏みつけている。

 僕は彼女の狙い通りになってしまったのだろうか?そんなわけはない、と何度も自分を確かめようとする。そのたびに僕の中の何か、僕とは別の意志を持った何かがいるような感覚が拭おうとしても拭いきれず、さらにはっきりとしたものに変わっていった。今朝見た夢のせいなのか?気持ち悪いわけではない、不快というわけでもないが、ともかく焦燥感が大きくなっていって、僕は家に帰ってすぐに抗不安薬を飲んだ。それからずっと『ボレロ・ラプソディー』をかけ続け、一曲が終わるごとにリモコンを手にとって巻き戻し操作をする他はただずっと部屋の中をうろうろ歩き回ったりソファに座ったり立ち上がったりをくり返した。
 薬の効き目が現れて酔ったように意識が蕩けてくると、そこでようやく、ユイも今頃これを聴いているんだろうな、と思い浮かべることができた。彼女の部屋というのはどんなだろう、やっぱり年頃の女の子だからこじゃれているんだろうか、やわらかい暖色系のカーペットが敷いてあって、枕は大きくて柔らかい、そう、部屋には大きな鏡があるんだ。その前に化粧台があって香水やクリームの小さな瓶がいくつも並んでいて、そこでユイは毎日の身だしなみを整えるんだ、僕が見たことのあるあの姿になる。
 それなら僕の見たことのない彼女の姿は何なんだろう?
 ユイはもしかしたら僕の全く知らない姿をした女で、僕が見るときだけあの姿になって、黒いおかっぱ髪をした少女の姿になって現れるのではないか?
 そうだ、ユイだ。彼女と出会ったから、またあの日のことを思い出したんだ。そうだろう。だから今までわからなかった。僕を果てしない絶望に落とし込んでいたのは僕の中に居る僕じゃない何か。鏡に写し取った綾波を彼女自身を壊したあの使徒を。だから僕は俺は、彼女の姿に綾波を見たんだ。
 もう一度会いたい、会わなきゃいけないな、僕の不安の正体を確かめるには彼女に会うことが必要だ。

 もう深夜零時を回る頃だったが、眠れない。眠剤を飲もうかとも思ったがなぜか気が進まなかった。
 僕は古本屋で時間を潰すことにした。どうにも気持ちが晴れないとき、ここで古い漫画を読んで没頭する。すこしでもユイの事を頭から消しておきたかった、だけど、絵柄を読み取れない、筋書きがわからない、一冊百円とかで売られている文庫本の小説を手にとってパラパラとめくりながら、目に飛び込んでくる文字や単語の向こうに彼女の影が見えてきて僕は何度も本を棚から取り出しては戻す。店員が僕のことを不審な目で見ているような気がして僕は一箇所に留まっていることができず、ぐるぐると店内を往復した。
 もう薬が切れてきたのか、これはいつになく酷いなと思いながら、何度目かにその棚の前を通り過ぎた時に、すれ違った老人が僕に話しかけてきた。

「人間の記憶というものについて考えてみたことがあるかね?」

 驚いて振り向く。
 老人は僕と同じくらいに背が高く、高級そうな匂いのする明るいグレーのスーツを着こなして、すっかり白髪になってはいるが精悍さを失っていない七三分けの髪をきっちりとセットしていた。

 失礼、君と会うのは初めてだったかな、そう前置きしてから老人は早口にしかしはっきりと、不思議な話を僕にし始めた。

「記憶というものはたいてい、自分が見聞きしたことを覚えているものだ。だが時に、見た事も聞いた事もないような事柄を思い出してしまうことがあるだろう。一般に既視感とか言われるものだな、または夢の中ではそういった光景によく出くわすだろう、夢は自分の脳が作り出しているものだが、その中で明らかに自分が見た事もない場所に出てしまうことがあるだろう?わたしはもうこんな歳で夢を見ることなどめったにないが、若い知り合い連中に訊くといろいろ面白いことがわかるわけだよ。あ、若い知り合いというのはだね、わたしは第2東京の大学で講義をひとつ持っているんだが、そこの学生たちなんだ。知っているかね、彼らが生まれたのは、つまり今20代前半の若者たちが生まれたのはサードインパクトが起きた頃なんだ、その頃に生まれた子供たちだがね、これが話してみると実に興味深いんだ、彼らはインパクト以前の光景を夢に見ると言うんだよ、もちろん彼らが生まれる前のことをね。わたしが講義をさせてもらってるのは形而上生物学科といってね、わかりやすく言えばそういった超自然現象を研究するところなんだよ、わたしの専門はそれとはまた違うんだがね。サードインパクトは実に衝撃的な出来事ではあったから、あるいはそれを親などから伝え聞いて頭の中でイメージを組み立てていったのではないかと、普通なら考えたいところだがそれだけでは納得しきれないほどに彼らの話には共通点があるんだ、それはなんだと思うかね?想いなんだ、漢字では相に心と書く方だね、彼らはその夢の中であるひとつの想いを感じるんだそうだ、それは恋心のようにも、親子の愛情のようにも、感じ方はそれぞれだが皆、暖かでそれでいて黒い泥か油の様に深くて底が見えないと言うのだよ。知っているかね、そう先月も雑誌で話題になっていたが、政府が行った全国調査で、とくに20代より若い子供たちの精神的な、そう感覚と言った方がわかりやすいね、つまり我々のようなインパクト以前に生まれた者たちとは明らかに違う感覚、すなわち精神構造を持っているそうなんだよ、彼らはね」

 そこまでの話を聞いて僕は話の大意をつかめなくなり、それでもいくつか気になる単語を聞き取って老人に訊き返した。

「サードインパクトですか、僕もその頃は第3、あそこに近いあたりに住んでいたんですよ。ちょうど15になったばかりの頃でしたか」

 僕の反応で老人はいくらか緊張を解いたようだった。

「実は今日ある人と会う約束をしていてね、その人に話そうと思っていたことなんだが君を見かけてなにか思うところがあったのだろうね。君はどことなく、我々とも、先ほど話した若者たちとも違う気がするよ」

 それでようやくユイのことを思い出した。
 彼女もまた、インパクト以降の生まれだ。この老人が話したように不思議な夢を見て、今までの人間たちとは違う感覚、まだ人類が存在を知らない新たな超感覚を備えているのだろうか、そう思うとすこしだけ彼女に会おうとするための不安が和らぐような気がした。
 僕は彼女を、たとえば女として、対等な人間として見ることが怖いのだろうか。自分とは違う、人間、同じ人間だけれど違う、あるいは研究対象のような、彼女と話すことがたとえばフラスコに試薬を滴下して反応を確かめるような、そういう研究として接することで僕は不安を和らげているのではないか、それが人間に対する態度だろうか、違うただ怖いだけだ、だから傷つかないで済む方法を模索しているんだと、そして歳をとればこういった葛藤などせずに自然に身についた習慣としてそうやって他人との距離をとっていくんだと、今まで意識せずにいられたことを意識してしまって僕は自分の精神が子供に戻ってしまったのではないかと思った。

 老人は僕に名前と住所それに電話番号だけが書かれた名刺を渡した。職業が書かれておらずあっけないくらいにシンプルな名刺に対して勘繰った仕草を見せる僕に老人は、いやなに、堅苦しい肩書きは嫌いでね、それにもう引退して名誉職みたいなものだし、今は自分の趣味に打ち込むことにしているんだよ、と表情を綻ばせた。若い時分にはそういう、出世とかそんな類の欲が盛んだった頃もあったが今は変わった、こうやって穏やかな日常を続けることが幸せだと、ようやく思えるようになってきたんだよ。
 ただそれも人に何かを認めさせたい、認められたい、自分をわかってもらいたいという気持ち、若い気持ちの表れなんだろうと僕は思って、僕もずいぶん老け込んでしまったなあと軽くため息をつく。
 穏やかか?僕が。
 店内にまばらに散らばっている他の客たちがマネキンか人形のように見えて仕方が無い。彼らはなんだ、人、人間、人間すなわち人と人との間、それは空気か距離か。ならあの人形はなんだ?人の形をしたものに、人間、距離、心の距離、それを感じられるだろうか。

「つまり、自分が経験したことのないはずの記憶を、偶然で済ませるには多すぎるほどの人間たちが共有していると」

 つぶやくように吐き出した僕の言葉に老人は満足そうに頷き、では時間だから、と言って店を出て行った。
 僕はポケットから携帯を出して時間を確かめ、この店に来てからまだ一時間も経っていないことに深く肩を落とした。

 それからなにげなく、DVDのコーナーに足を向けた。
 露出の高い水着に飾られたアイドルのDVDが積み上げられている様子が生肉を吊るしている食肉工場のようで、その中でふと、U−15専門の棚ができていたのが目に留まった。15歳以下の熟れきらない少女たちがこぞって笑顔を大写しにしている。
 三段積みの棚のいちばん右下にそのパッケージはあって、僕は再び心臓を鷲掴みにされた。

 タイトルは無かった。ただその女優の、女優と言うには語弊があるか、彼女のおそらく芸名だろう、そう思いたい、そんな名前がオレンジ色の字で背景の蒼い空に浮かび上がっていた。『綾波 澪』。

 そのパッケージを見て初めて僕は、動かしがたい事実を付きつけられた。

 違うのは髪と瞳の色だけ。
 ブラウスの裾をはだけて白い下着を覗かせていた少女の姿は、まぎれもないあの家出少女だった。





+続く+




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