かねてから、そういう話はまことしやかにささやかれていた。総司令とファーストチルドレンが週に一度ほど食事を共にしている、と。
「司令が言ってくるの、食事をしよう、って」
 いつものように実験が終了して、ブリーフィングルームで待機していたところ。惣流アスカに問い詰められるとあけすけに彼女は言った。「そんなこと知ってどうするの?」という疑問符を匂わせる言い方だった。
「で、あんたトコトコついてくわけ?」
「命令だから」
「それが命令? 誘われてるだけじゃない、それって」
「命令よ。命令だからわたしは従っているだけ」
「確かめたの? 命令なのかどうか」
 双方の意見を取り持つように、シンジが言った。
「あの人がわたしに口を開く時は、いつも命令なの。わたしのこと、見てないもの」
 司令がどう思っているかはともかく、それがレイの答えだった。
 とかく、この二人の関係を言い表すのは困難だった。司令の寵愛を一身に受けるファーストチルドレン、綾波レイ。親子に例えるなら実の息子をほったらかす司令の人格を疑ってしまうし、恋人というのなら十四の少女に手を出す司令の趣味を疑ってしまう。
 一方のレイを評して、アスカは「人形みたいね」とこぼした。司令の命令ならば何でも聞く、生きた人形。そこには司令の歓心を独り占めにするレイに対するやっかみも含まれているのかもしれないが、レイが他人にそういうイメージを抱かれても仕方ない振る舞いをしているのもまた事実だった。
「どういう関係なの? 父さんと綾波って」
 強面の司令にバカ正直に尋ねたってまともに答えちゃくれないのは分かりきっている。そこでシンジはレイに訊いてみた。
「司令とパイロット。それだけよ」
 レイの答弁は必要最低限で、上っ面な印象が強い。
「でも司令はアンタのことお気に入りじゃない。どうしてかしら? アンタがなんでも命令聞くから?」
 嫉妬と軽蔑をない交ぜにしてアスカは言う。
「知らないわ。わたしはあの人じゃないもの」
「でもアンタ、なんでも聞くんでしょ?」
「ええ」
「それじゃもし『死ね』って言われたらどうするわけ? 死ぬの?」
「ええ」
 顔を引き締めてレイが言った。これからエヴァに乗り込んで出撃するような、凛とした顔だった。
「そんなに信頼してるの? 自分の命よりも大切なくらい?」
 目の前の少女が自分以外の男を盲信している。それはあまり良い気分のするものではないが、相手の男が自分の父親であることがことさらシンジを複雑にさせる。
「あの司令のどこがそんなに信頼できるのよ」アスカが続いた。
「違うわ。そんなに――」
 レイが言いかけたところでブリーフィングルームにリツコとマヤが現れた。先の実験の結果を報告しだし、子供たちの会話は打ちとめられた。
 最後にレイがなんて言おうとしたのか、よく分からない。ああ言えばこう言う、屁理屈をこねてるだけのようなレイを鵜呑みにすると肝心な部分を誤解しそうだから、シンジは「関係ない」と思おうとした。
 父さんと綾波がどうだろうと、僕には関係ないや――と。




cherry girl






 ゆったりとした角速度で観覧車は回転していた。ゴンドラが上昇するにつれ地面を歩く人影が小さくなってゆき、雲が近くなる。空が広がってゆくにつれ現実から乖離してゆくような思いに囚われるが、それは途中から差し込んできた夕日のせいかもしれない。
 遠くのビルから影が伸びていた。観覧車乗り場はすっぽりその影に包まれていたが、60度ほど回転するとゴンドラは影から脱出し、沈みかけた太陽をさえぎるものは何もなくなる。町をオレンジ色に染めて、流れる雲をオレンジ色に染めて、ゴンドラ内をオレンジ色に染めて、綾波レイをオレンジ色に染める。夕焼けが赤いのはどうしてなのか科学的に説明することはできるけど、なぜ人はその色に心を揺り動かされるのか、シンジが知りたいとすればそちらの方だ。
 あるいは、目の前にいるレイが影響しているのだろうか。ゴンドラの揺れは大きく、シートの座りごこちは良くはない。そしてレイは無表情で、そこに腰かけていた。
 今朝はもっと希望に溢れていた。9時49分、モノレールを降りた瞬間の暑さを鮮明に覚えている。電光掲示板の温度計によれば気温はすでに三十度を越えていた。朝から三十度を越えるのは常夏の町でも珍しい。
 日曜の朝、駅前のバスターミナルは人が多かった。車の通りも多く、街路樹が繁り、その向こうに白い観覧車が見えた。「これからあそこまで行くんだ」と思うと、徐々に胸が高鳴っていった。何かが始まろうとしている期待感がシンジの胸に広がって、そこに待っていたのはシンジに期待感を抱かせるような人だった。
 レイは早朝に実験があって、ネルフからの直行だった。柱のそばに立ち、薄い文庫本を読みながらシンジを待っていた。いつもと変わらずレイは制服姿で、シンジはTシャツと色落ちしたジーンズ。ミサトとアスカに見立ててもらったファッションは浮わっついた感じがする。制服の少女と、私服の少年。その取り合わせがむずかゆくて、シンジは落ち着きがなかった。
「ゴメン、待った?」
「今来たところよ」
 マンガやドラマの中で恋人同士がこんなやり取りを交わすシーンがある。それを意識してしまうと、背中のあたりから気持ち悪い汗が出てきた。いつか、そんな関係になれるかもしれない。ならないかもしれないが、未来の事は誰にも分からない。頭の中から出て行かない範囲内では、どんな妄想だって無限に広がってゆく。それが少年という年頃だった。

 そもそもありきたりな話だった。ミサトが持ち帰った遊園地の無料招待券をシンジが押し付けられた、それだけのことだ。
「なんか知らないけど私のところに回ってきちゃって」
 その二枚のチケットは、町の郊外にある遊園地が営業として大量に配ったうちの一部だった。
 第三新東京市の政治は、実質的にはネルフが所有するスーパーコンピューターMAGIが取り仕切っている。そのためこの町で商売をしている者、始めようとする者は、時としてネルフに「営業」に来る。実質的な行政権がネルフに属していたとしても、表向きは選挙で当選した市長が民主主義に則って市政を執行していることになっているから、誰からも違法な営業活動と糾弾される筋合いはない。
「あたしはいらないから。よければあんたたち行ってらっしゃいよ」部屋で着替えながらミサトが言った。
「いらないんですか? 加持さんと行けばいいじゃないですか」シンジはミサトに出すおつゆを温めていた。
「あんたバカ? ミサトの歳で遊園地なんて行けッこないじゃん」アスカはリビングでTVゲームに興じていた。
「ちょっとアスカ、そういうことは思ってても言うモンじゃないわ」もうすぐ三十に届くミサトは、冷蔵庫から缶ビールを取り出すとコップに注がずにそのまま飲みだした。
「とにかくあたしパス、そこつまんないもん」シューティングゲームは一対四十ほどの激しい局面を迎え、アスカは画面に意識を集中させていた。
「この前なんかジェットコースター待ってる途中で帰って来ちゃったんですよ、アスカ」ミサトにおつゆを出すと、シンジはエプロンを脱いで几帳面にたたんだ。
「うるさいわね、あんたこそファーストでも誘って行ってきなさいよ」アスカの機体は雨のように激しい敵機の弾撃をかいくぐりながら貧弱なビームで応戦していた。
「そうね、シンちゃんいいチャンスじゃない?」早くも二本目の缶に手を伸ばし、ミサトは上機嫌だった。
 というわけで、話が決まった時点ではシンジの意思はそれほど重要な論点ではなかった。なにも行動しなかったら女連中の圧力がうっとうしいし、なら誘うだけ誘ってみよう、そう思っただけだった。自分がレイのことが好きなのかどうか、考え出すと面倒なことになりそうだから考えないようにしていた。

 遊園地に行こう、その目的を綾波レイに説き聞かすのは一仕事だった。
「わたしが?」
「うん、僕と、なんだけど」
「なぜ?」
「なんでって、ミサトさんからチケット、って、いや、もらったからってわけじゃなくて」
「なにをしに行くの?」
「えっと、なんだろ、ジェットコースターとか観覧車に乗ったりとか、あと、絶叫マシン、フリーフォールっていうのかな、お化け屋敷もあって……」
「なんのためにそこに行くの?」
 つまるところ、遊園地というのは平穏な日常を送っている人間がほんのちょっとの非日常に浸るための施設なのだ。そのため普段から非日常的な日常を送っているレイには何ら刺激にならない。ジェットコースターよりもエヴァで全力疾走した方が速いし、観覧車よりもVTOLのほうが乗り心地もよく、見晴らしもいい。フリーフォールよりもプラグの緊急射出の方がはるかに危険だ。化け物なんて使徒で見慣れている。
「だけど綾波、このごろ実験でつまってるって聞いたから、ホラ、気晴らしにはちょうどいいんじゃないかなって」
「わたしはいい」
 単純に遊園地に行きたいとは思わなかったから、レイは自分の真情を淡々と述べた。それを「あなたとは行きたくない」という意味に取ったシンジはがっくり肩を落とした。
「二号機パイロットは?」
 レイはただ遊園地という空間を楽しめるのは自分よりも何かと騒々しいあの人ではないかと思って、ストレートに言った。人間関係という視点が希薄なレイは、遊園地に出かけるにおいて「誰と一緒に行くか」が大切だ、という発想に欠けていた。それを「あの女と一緒に行けば?」と受け取ったシンジは、とっさに大それたセリフを口にした。
「でも、綾波と行きたいんだ。僕は」
 少し間を置いてから、レイは返事をした。
「なら、行きましょ」
 来週の日曜日、朝十時に駅前で待ち合わせ。それが二人の取り決めた予定のすべてだった。
 シンジは女の子と一緒に出かけるということも、一緒に遊ぶということもよく分かっていなかった。けれどそれでもミサトとアスカから冷やかし混じりにレクチャーを受け、嫌われないための最低限のマナーは身につけたつもりだった。清潔感のあるファッションや身のこなしについて、食事のタイミングと店の選び方、相手を楽しませる会話を心がけること、注意するべき女の子の表情や仕草、等々。「面倒くさいもんですね」とこぼしながらも、シンジは女性陣のアドバイスを真摯に受け止めていた。
 だからきっとレイも楽しんでくれるとシンジなりに思っていた。まさか最後まで顔色を変えないでいるなんて予想の斜め上を行っていた。
「その、つまんなかった、かな?」
「どうして?」
「だってぜんぜん嬉しそうな顔してないし」
 嬉しそうな顔どころか、この日レイは一度も顔色を変えなかった。ジェットコースターに乗ってもお化け屋敷に入ってもフリーフォールで落下しても、ティーカップで回ってもメリーゴーラウンドのお馬さんに乗っても、ゴーカートで飛ばしても、レイは無表情だった。怒ってすらいなかった。ただ純粋に目の前のアトラクションに価値を見出せない、どうして人が自分のしていることを面白がるのか理解ができない、そんな顔をしていた。
「なにかいけないことした? 僕」
「なぜそういうことを訊くの?」
「今日は楽しんでもらえたかなって」
「あなたはどうなの?」
「僕は、綾波と一緒にいるだけで楽しかったけど」
「ならいいじゃない」
「わたしと遊園地に行きたいと言ったのはあなたであって、そしてあなたは望みどおりわたしと遊園地に来た。なのになぜ冴えない顔をしているの?」レイの瞳はそんなことを問いかけてきた。望みがかなった今シンジがレイの顔色を気にする必要もないはずだ、と。
「でも、僕はもっと綾波に楽しんでもらいたかった」

 出かけにミサトから「朝帰りはダメよん」と茶化された時、どうしてそんなことをわざわざ言われなければならないのかよく分からなかった。それを言うミサトがどこかいやらしい顔になっているのはなぜか、自分はどういう風にからかわれているのか、などなど。
「なに言ってんですか、そんな遅くなるわけないじゃないですか」
 いたって真面目に返事をするシンジに、ミサトの方が対応に窮していた。缶ビールを口に当てながら視線が泳いでいた。
「お子ちゃまには分かんないのよ」
 アスカは家でよくゲームをしている。特に最近のお気に入りはシューティングゲームだ。
 シューティングゲームでは機体のオプションが重要なカギになる。ビームの威力を上げたり、より強力なシールドを纏ったり、高威力のボムを手に入れたりすることで自機のスペックを上げながらステージクリアを目指す。逆に言えばその上がったスペックを元にステージの難易度が設定されているから、オプションを取らないとクリアがままならない場合もままある。
 アスカは時に、そのオプションをあえて一つも取らないでプレイをすることがあった。わざと自機のスペックを上げないことでゲームの難易度を自主的に上げ、クリアした際の達成感をより高いものにする。俗に言う「縛りプレイ」だ。
 ミサトが人をからかうのが好きで、ビールが好きなように。アスカがTVゲームが好きなように。綾波レイにも好きなものがあるのだろうか。レイはただ窓の外を眺めていた。日が傾いてオレンジ色に染まった町並みを、何の感慨もなさそうに見下ろしていた。
「綾波、やっぱり、こういうところは好きじゃなかった?」
 ゴンドラで向かい合って座りながら、シンジは尋ねた。
「最初に言ったわ、わたしはいい、って」
「そうだけど、それじゃ綾波、綾波の好きなことって、なに?」
「どうしてそれを知りたいの?」
「知りたいんだ、綾波のこと、もっと、いろいろ」
 いつになくシンジは積極的で、情熱的になっていた。半分はおそらく意地で、もう半分はよく分からない。
「どんなことしてるとき楽しくなるのかな、とか」
「どんな話をするのが好きなのかな、とか」
「好きな食べ物って何だろう、とか」
「休日は何してるんだろう、とか」
「どんな本を読んでるのかな、とか」
「歌とか音楽とか聴くのかな、とか」
「映画とか観るのかな、とか」
「授業中よく外を見てるけど、なにを見てるのかな、とか」
「その時なにを思ってるのかな、とか」
 口を開けば、言いたいことがすらすら出てきた。レイは膝をそろえて座り、スカートの裾を左手で抑えていた。
「……誰と一緒にいたいって思ってるんだろう、とか」
 レイはシンジの言った意味がよく分かってなさそうにしていた。それでもシンジは、レイを待った。なにしろシンジだってあんまり分かってないのだ。だから分からないなら分からないでもいい、レイの言葉を聞きたかった。
 夕陽に染まる視界。この温かなオレンジ色を見ていると、自分の中から何かが壊れてゆきそうな疼きを感じる。レイは無表情のままシンジの瞳をじっと覗き込んでいた。
 観覧車がてっぺんに近づいたあたりで、携帯が鳴った。
「はい」
 シンジになにも言わずに、レイが電話に出た。
「はい、これからですか? 問題ありません、はい――」
 レイは電話に忙しくて、取り残されたシンジは外に目を向けた。夕焼け色の町が眼下に広がっている。だんだんと家々に明かりが灯ってゆく。一瞬だけ、ほんの一瞬だけだったけど、「死のうかな」とシンジは思った。「こっから飛び降りたらどうなんだろ」と。
「碇君、お腹すいた?」
 電話を終えて、レイが言った。
「少しは……どうして?」
「食事、行きましょ」
 観覧車はゆったりとした角速度で回転していた。



「ねぇ、綾波、綾波は死ぬのが怖くないの?」
「怖い? 分からないわ」
「どうして」
「思ったこと、ないから」



 レイの言った「食事」とは高級ホテルでのフレンチだった。市の中心にほど近い二十五階建てビルの最上階、格式ばったフランス料理のレストラン。制服姿のレイはいいけれど、Tシャツとジーンズ姿のシンジは場違いである印象が否めない。
 レイがギャルソンに名前を告げると奥の個室に通された。白を基調とした内装の部屋で、床には足が沈むほど柔らかい絨毯が敷き詰められている。燭台にはろうそくの明かりが灯り、炎がゆらゆら揺れている。壁の一面がガラス張りになって、窓際ではネルフ総司令が直立して夜の町を一望していた。
「レイ、どういうことだ」
 ガラスに映ったシンジを見て、司令が言った。低く、どすの利いた声だった。
「今日は初号機パイロットと予定があると報告したはずですが」
 威圧的な司令に対しても、レイは物怖じしない。
「司令と初号機パイロットは親子と聞いております。ですので一緒に食事を取るのかと思いました。違いましたか?」
「いや、問題ない」
 司令が二言三言告げると、ギャルソンは恭しく一礼した。上得意の注文なら一人分のコースを追加するくらいたやすいことだ。
 三人が等間隔になるよう丸テーブルについて、やがて料理が運ばれてきた。アミューズに海老のマリネ、スープはオニオン、前菜として鴨のテリーヌ無花果ソースがけ、魚料理は舌平目のシャンパン蒸し、デザートはアプリコットのタルトで、コーヒー付き。肉嫌いなレイのためかメインは魚料理だけで、けれどレイは鴨のテリーヌを残さず食べていた。
 父親を前にシンジは緊張していたが、味は絶品だった。和やかで賑やかな食卓の方が食事もおいしく感じるという話を聞いたことはあるけれど、それを跳ねのけるほどの味だった。食事中ほとんど会話がなくても、テーブルマナーが分からず「ナイフは外側から使え」と司令に注意されて肝を冷やしても、おいしいものはおいしい。
 そういう食事を週に一度、父親が綾波レイと共にしている。話でしか聞いてない事柄を実際に目の当たりにするのはやはり衝撃的で、少なからず心がさざめき立つが、主眼は「父親が」にあるのか「綾波レイと」にあるのか。どっちもゼロではないけれど、その比重はあいまいだ。
「よく二人で食事してるんだってね」
 タルトを食べ終わってシンジが言った。
「それを知ってどうする? お前には関係ない」
 司令の言い方は断定的すぎで、言い返しようがない。
「レイ、調子はどうだ?」
 それでいて司令は、レイに対しては柔らかくなる。
「問題ありません」
「そうか、ならばいい」
 今さら父親に期待したってしょうがない。でも、だったらなんでこんな落ち着かないんだ?――シンジは七回くらい思ってみた。なんでこの人たちと食事してるんだ、どうして僕が緊張するんだ、などなど。
 頭がゴチャゴチャしてくる。
「うらやましいの?」
 レイはテーブルナフキンで口元を拭っていた。
「なにが?」
「司令と食事するの」
「レイ、余計なことは言わなくていい」
「はい」
 シンジは母親といたころのことを覚えていなくて、母親が亡くなってすぐ父親と別れた。記憶に残っている限りにおいて、父親との食事は初めてだった。父親が自分のためにお金を出してくれるのを見るのも初めてだった。会計では司令がギャルソンに黒いカードを渡していたから、現金ではなかったけども。
 黒塗りのリムジンで司令は帰っていった。司令はレイも乗るよう手振りで示したけれど、レイは「今日は初号機パイロットと予定がありますから」と袖にしていた。それが「選ばれた」なのか「同情された」なのか。無表情のレイからは読み取りようがない。
「従わなくてよかったの? 父さんが送っていくって……」
「なにも言われなかったもの」
「じゃあもし『乗れ』って言われたら」
「乗ったでしょうね」
 二人黙ったまま駅まで歩いて、モノレールに乗った。満員に近いモノレールに揺られ、会話もないまま三駅で降りた。
 そこから帰路は別々になる。そこで別れるのが当然だと思うから、レイは「それじゃ」と言った。モノレールに乗っている間ずっと「なんで父さんと一緒に行かなかったんだ?」と思っていたシンジは「待って」と言った。
「もう少し、綾波と話がしたい」
 夜は人を大胆にさせる。
「どうして?」
「理由が無くちゃダメなの?」
「理由は無いの?」
「そんなの、分かんないよ……」
「ならそう言えばいいじゃない」
 レイはすたすたと歩き出した。歩き出して、数秒後に立ち止まった。振り返って動かないシンジを見て「来ないの?」と言った。
「どこへ?」
「話したいんでしょ?」
「ウン……」
「わたしの家、他に人いないから」
 途中でレイはコンビニに寄った。「切らしてるから」と1.5リットルの紅茶のペットボトルを一本買った。レイはこの店の常連で、いつも同じペットボトルの紅茶を買う。そういう客は店員の覚えもいいから、レイが男を連れているのにレジ係は驚いた顔をしていた。
「今日は僕の知らない綾波ばっかりだ」
 コンビニを出るとシンジが言った。遊園地でも顔色一つ変えないこと、レイの生活圏、高級レストランでの父親との逢瀬、そして――
「知らないって、なに?」
 横顔に向けられた視線に気づいて、レイが言った。
「思い出してたんだ。綾波、お肉食べてたなぁって。鴨の……なんだっけ?」
「テリーヌ」
「嫌いだと思ってた、お肉」
「ええ、嫌いよ」
「でも食べてた」
「命令だから」
 レイは最低でも1.5キログラム以上はあるビニール袋を提げている。シンジは「僕が持つよ」とその荷を奪った。ほとんど力ずくだった。レイは空いた手を名残惜しそうに見つめていたけれど、やがて何事もなかったように足を進めた。
「ビックリしたよ、ホントに綾波が父さんと食事してるなんて」
 レイは答えず、早足で進んでゆく。
「それも週に一度も、でしょ。僕は、覚えている限り今日が初めてだから、父さんと食事したの。どうして綾波とはそんなに食事するんだろ」
 歩みを進めてゆくと、人気も少なくなってゆく。壊れかけた街灯がジィジィ音を立てている。立ち並ぶ集合住宅群は明かり一つ点いていない。どの部屋も真っ暗な、廃墟と化した団地。
「前も楽しそうに話してたよね。綾波。父さんと」
 歳相応の少女らしく司令と談笑する彼女の姿を思い出す。それがいつのことだったか、正確な日付は覚えていない。
「あなたの目にはそう見えただけよ」
 あけすけにレイは言った。団地の一つに入り暗い階段を上っていった。エレベーターは動かないから、階段で上る以外に四階まで行ける道はない。
 階段を上ってゆくと、ちょうどシンジは目の前にレイの尻が来る。階段という形態の通路における構造上の問題だから、別にシンジの責任じゃないけれど。
「綾波は、楽しい? 父さんといると」
 揺れ動くレイのスカートから目をそらしてシンジが言った。レイは早足で上っていった。
 四階まで上って、廊下の端から二つ目の部屋。カギのかかってないドアはたやすく開く。
「それ」
 シンジの提げたビニール袋を指して、レイが言った。
「あ、ごめん」
 紅茶のペットボトルを手渡して シンジはきびすを返した。なぜだか分からないが、自分はもう帰るものだと決め付けていた。
「上がらないの?」
 その背中にレイが声をかけた。
「話、したいんでしょ?」
 流されやすい自分の性格がつくづくイヤになる。
 するりとドアに消えたレイに続いて、シンジも「おじゃまします」と続いた。ゴミの散らかった、色彩のない部屋。ミサトやアスカの部屋にあるような女の匂いがこの部屋には存在しない。床にはうっすら埃が積もり、シンジはスリッパを履かされて室内を移動する。病院に設置されているような金属色のパイプベッドに腰かけるよう、レイが指示した。
「待ってて」
 買ってきたペットボトルのぬるい紅茶をシンジに出すと、レイはバスルームに消えていった。外から帰ってきたらシャワーを浴びるのがレイの習慣で、それは男を連れ込んだ時でも変わらないらしい。やがて水音が響きだした。
 少し足を伸ばせば届く距離に、生まれたままの姿の彼女がいる。始めてこの部屋を訪れた時もそうだった。おかげで裸のレイを押し倒して、胸を押し潰してしまった。シンジは罪悪感にかられたが、ただの事故だからか、それとも無頓着なのか、はたまたそういうシチュエーションに慣れているからか、レイはそちらの方面で問い詰めたり意識した素振りをしたりはしなかった。ただあの日レイは「父親を信頼していないシンジ」に対して手を上げた。
 五分もしないでレイはシャワーから上がった。さすがにシンジがいるのを知っているから裸で出てきたりはしなかったけども、また制服を着込んでいた。
「どうして他の服は着ないの?」
「いつ呼び出されるか分からないもの。あなたみたいな服では入れない場所もあるでしょ」
「それも『命令』で?」
「ええ」
 今までは上辺だけ聞いていたから、レイは司令に絶対的に服従しているようにも取れた。でも注意深く耳を傾けてみると、最初から自分の意思に何の価値も置いていないだけのようにも思えた。司令がそう命令すれば、恐らくレイは自ら命を絶つだろう。でもそれは自分の命をかけるほど司令に忠実という意味ではなく、『その程度』の命令なんていくらでも聞けるだけなのだ。
 もしかしたら「命令を聞く」よりも「命令を聞いてあげている」の方がニュアンスは近いのかもしれない。細かいことかもしれないけれど、重要な違いだ。
「どうして僕をぶったの?」
 自分の紅茶をコップに注ぐと、レイもベッドに腰かけた。シンジからは1メートルほど距離を置いている。「あなたの近くは嫌」というサインではなく。あんまり近寄ったら話しにくいという実際的な理由からだ。
「恨み言を言いたいわけじゃないんだ。謝れとか、そういうことじゃない。ただ分からないんだ。だって綾波、父さんとは『命令に従ってるだけ』なんだろ? そんなに信頼してるわけじゃないみたいなこと言ってたろ? なのになんで、僕が『父さんを信頼してない』って言ったら怒ったの? 綾波、怒ってたよね。あんな顔して」
「いつの話?」
「ずっと前……僕がこっちに来てすぐの頃。ヘンなビーム出してくる、ピラミッド二つくっつけたみたいな形の使徒を二人で倒した頃」
「……思い出したわ、それを訊きにきたの?」
「そういう訳じゃないけど」
「信頼してないからよ。お父さんのこと」
 レイは質問の答えだけをさらっと言った。紅茶を口にし、その白い喉がうごめいていた。
「それじゃ、綾波は信頼してるの?」
「なぜ? わたしと司令は親子じゃないでしょ」
 まだ濡れているレイの髪から、しずくがボタッとこぼれた。シーツを濡らして、シミを作る。窓の外から月の光が差し込み、そのシミを照らす。外は熱帯夜だというのに部屋の中はひんやりとしていた。
「ねぇ綾波、綾波の両親ってどんな人?」
「いないわ」
「もう死んじゃったの?」
「いいえ、いないの。そういうことになってるの。経歴上」
 凛とした綾波レイの横顔は、見ていて肌寒くなるほど平然としていた。何の表情も見せず、レイはなにもかもに平然としすぎていて、それが時に「平然とする以外に選択肢を持たない貧相さ」を表わしているようで、レイは決して自分の貧相さに気づくことはない。
 同居人のアスカがよくプレイするシューティングゲームがあった。それは十八のステージから成り立っていて、ステージが進むごとに難易度が上がる。五ステージあたりからかなり難しくなり、先のステージに進むほど取得できるオプションの数も少なくなるため、より強いビームやシールドのオプションを初期ステージで漏らさず確実に取っていかなければクリアはままならない。もちろん『縛りプレイ』では行き詰まりがちになる。敵機の激しい弾撃をかいくぐりつつ貧弱なビームとシールドで応戦するのは、相当にプレイのしにくい、骨の折れる局面だった。
 それと同じような欠落を、綾波レイに感じる。成長してゆく上で大切なプロセスを何一つとして経験しないまま、時間だけが過ぎ去ってしまった寂寞とした感じ。レイは例えるなら一つもオプションが取れていないまま先のステージまで進んでしまった機体を操るプレイヤーであり、けれどプレイヤーの素の能力が高いせいで、オプションの無い機体でもクリアするだけはなんとかできてしまう。だから自分を囲んでいるなにか寂寞としたものに、レイは気づけない。最初からその状態が普通で自然で当たり前だったから、レイは「もしかしたら私は他の人に比べて難しいやり方をしているのかもしれない」という仮定に立つことができない。その可能性に気づけなくて、オプションを備えた際の強さや便利さを知らなくて分からなくて、ただ平然としたレイの顔だけが残る。
 だからエヴァに乗り込むときのレイの横顔は切なくて、痛ましく見える。まさか使徒を撃ち殺せば新しいオプションを落としてくれると期待しているわけでもないだろうに。
「話、それで終わり?」
 たまに見せる喜怒哀楽が、他の可能性もありえたレイの姿を思い起こさせる。それと並行して見せる平然とした顔が、自分の無力さを思い知らされる。結局僕はこの人に何もできないんだと自覚させられてしまいそうで。
「綾波は、何が好き?」
 平然としたレイの横顔が痛ましくて、シンジの中に潜む何かにその痛ましさが突き刺さる。
「何をしているとき楽しい? どうすればもっと笑ってくれるの? 僕は何ができる? 何をしたら喜んでくれる? ねぇ、教えてよ、ねえ!」
「何もしなくていいわ、困ってないもの」
「それじゃ嫌なんだ!! 綾波の力になりたいんだ、なにかしたいんだ。綾波には笑っていて欲しいんだ!」
 わずかに残った紅茶を一気に飲み干し、シンジはコップを両手で握り締めた。
 最初から諦めていた。だから自分の感情を打ち消そうとした。でもそれじゃイヤだと思った。「好きだ」と言いたい! そう強く思って勝手に盛り上がってるシンジに、レイは冷たい視線を投げかけた。
「あなた、なにがしたいの?」
「綾波と一緒にいたい」
「一緒にいるわ。今」
「そうじゃなくて! 好きなんだ! 綾波のことが」
「ええ、それで何がしたいの?」
 レイはシンジの心理の大体を分かって、なのにレイにはシンジの心がまったく伝わらない。
 何がしたいと言われても、シンジには答えられない。レイにどうなって欲しいかが分からない。レイがどうなれば幸せになるのかが分からない。今だって幸せかと問われれば幸せだと答えそうな気がする。それが「満ち足りている」ではなくて「これ以上満ち足りようがない」に聞こえそうな気がして、そんなときシンジは何もできない。
「綾波が喜んでくれれば、僕はそれでいいんだ」
「自分勝手ね」
 レイは冷たい。
「あなたがわたしを好きだと言うなら、その点であなたは嬉しい思いをしている。勝手に好きになって楽しんで、一人で浮かれてる。それ以上なにがしたいの?」
「嬉しいってなんだよ……こんなに」
「だってあなた、わたしと一緒にいるだけで楽しいんでしょ。そう言ったわ」
「そうだけど、でも」
「好いた人間ばかりが楽しんで、その上、人に押し付けがましい態度を取る。それが自分勝手でないと言うの?」
 口には出さないが、レイは怒っている。それが隣りに座ってるシンジにもひしひしと伝わってきて、シンジは目を伏せた。
「それじゃ、綾波は好きな人いないの? その人のことを考えたりとか……」
「ええ。わたしには、そういうの無いもの」
 レイの言葉は「好きな人はいない」ではなく「人を好きになることはない」であるように、シンジには聞こえた。
 他の男が好きならまだ諦めようもある。けれど「恋をすることはない」が答えでは、シンジだってどうすれば良いか分からない。もし「どうやったら人を好きになれるの?」と言われたって、「人は普通に生きてたら誰かを好きになったりするものじゃないのか?」という答え方しかできない。そしてレイは明らかに「普通じゃない」生き方をしている。
「あなたばかりが恋をして浮かれて、それはあなたの勝手だけど、どうして私が付きあわされなくちゃならないの?」
 レイの言っていることは、つまるところそれに尽きる。恋をした人間はたとえ恋に破れても、恋をしたという思い出だけは残る。その思い出を元に成長してゆくこともできる。だけど恋をされただけの人間には、そこから成長してゆけるだけの思い出も残らない。ただ他人に感情をぶつけられて消耗するだけ。そのうえ下手をしたら「モテて羨ましい」とまで言われてしまう。他人に何を言われたってレイは構わなかったけれど、いい面の皮であることに違いはない。
「どうして私を好きになったの? それであなたは何をしたいの?」
 シンジはうなだれたまま何も答えない。レイはシンジが分からないから、恐らく一般的であろう見解を述べた。
「わたしを抱きたいの?」
「違うよ! そんなんじゃないよ!!」
「なら――」
 何かを言いかけたところで、レイは何を言おうとしたのか忘れてしまった。
 見てはならないものを見た、そんな気がした。
「泣いて、るの?」
 レイの目の前で、シンジが涙を流していた。拭いもせず、頬を伝ってシーツに涙がポタポタとこぼれていた。
 人は目から水を流す、それはレイも情報として知っていた。けれど実際に目の当たりにするのは初めてだった。きっと自分のために泣いているのだと、レイは感じ取った。シンジの感情が昂ぶっていることも分かった。ただどうしてシンジが昂ぶっているのかだけが、分からなかった。
「間違ってたらごめんなさい」
 分からなかったから、レイはそう前置きした。
「わたしに、あなたのことを好きになって欲しいの?」
 シンジは嗚咽を漏らした、それが答えだった。
 信じられないような目付きを、レイはしていた。「わたしがあなたのことを好きになっても、あなたは何の特にもならないのに、どうしてそんなものを求めるの?」レイの赤い瞳はそう言っているようだった。
 その赤い瞳から、涙がこぼれた。
 大粒の涙が、ぽろっとこぼれた。
 悲しくて仕方がなかった。
「好きになって欲しい」なんと単純で、そして無意味な願いだろう。自分には誰かを好きになったりするような人間らしい感情は欠けているレイは思っていたから、決して叶えられない願いを持ったシンジが切なかった。そのために涙を流すシンジが哀れで、だからレイもシンジのためだけに涙を流した。
 どうしてわたしは人を好きになれないんだろう、シンジの頭をそっと撫で、柔らかい髪を指先で梳く。誰かのことを好きになりたいとレイも願った。シンジのことを好きになりたい、なってあげたい。どうにかしてシンジに応えてあげたい、そう思った。どうすればシンジを好きになることができるか想像もできなかった。「こんなにもわたしを思ってくれてる人に対して、わたしは何も返すことができない」それが悲しくて、涙は止めどがなかった。

 レイは一人でいることに慣れすぎてしまっていた。人のぬくもりを欲しないわけではないけれど、積極的に求めるわけでもない。薄ら寒い一人の部屋に安住し慣れすぎてしまった今では、他人のいる世界がどうしても魅力的に映らない。どうせ人間ではないのだから、他人なんてものを求める意義も見出せない。だったら慣れ親しんだ一人の世界にいたいと思う。一人の世界での生き方だけは誰よりも知っているから。
 けれど、やっぱりシンジに応えたかった。
 ベッドの端で、シンジは泣きながら寝入っていた。涙の跡が月明かりに浮かんでいた。涙の跡は塩気がする。熱くて、血の通った人間であることを証明する味だ。
 人はそうして恋をしてゆく。だからわたしもいつか人間になれるかもしれない。最初に人外という重い十字架を背負ってしまったレイは、微笑みを浮かべたシンジの寝顔にそっと触れた。この人がどこまで受け止めてくれるか分からないけれど、もっと人間になってゆきたい、と。

 翌朝、太陽が昇るのとほぼ同時に、シンジはレイの部屋を出た。
「朝帰りになっちゃったな」
 出かけにミサトにからかわれたときは何とも思ってなかった語句が、一晩経てば違う意味を持っていた。恥ずかしいけれど、そういうのは嫌いじゃなかった。
 帰り際、レイは「さよなら」と言った。「また明日」正確には「今日」になってしまったけれど、そんな意味を込めてシンジのほほに手を寄せた。
「いつかきっと、自然にあなたを好きになれるようになります」その手のぬくもりが言っている気がして、シンジもその手に手を重ねた。
「いつかきっと、あなたに自然な笑顔を向けられるようになります」ぎこちない微笑みが言っている気がして、シンジもまた微笑を返した。
「だからどうか、それまで待っていて下さい」それにイエスと答えるように、シンジはそっとレイの手を握り締めた。
 今はまだ、それが精一杯だった。

 朝焼けは夕焼けとは違う色をしていた。通る空気の厚さが同じなら同じオレンジ色になるはずなのに、朝の空は輝いて見えた。静かな町の中で目覚まし代わりのスズメの声が聞こえてきた。コンビニの前では仕入れのトラックが止まり、店員とドライバーが話しこんでいた。シンジを見つけると夜勤の店員は変な顔をした。きっと変な想像でもしたのだろう。
 シンジはなんだか嬉しくて、この時間をもうちょっと長く楽しもうと、ゆっくりと女二人の待つマンションに向かって歩いた。こんな時間までなにをしていたのかしつこく問い詰められるに違いない。その場面を思い浮かべてシンジは苦笑いした。「あの二人、うるさいからな」と思うと、とてもこの日の出来事全部を正直に告げる気にはなれない。それにレイと二人だけの秘密を作りたかった。
「いっそのこと、僕があの部屋に住めればいいんだけど」やかましい女二人とレイの笑顔を交互に思い浮かべたら、当然の結論が出てきた。いろいろ問題はあるからすぐには実現しないだろうが、四年後くらいに実現していたら、それはとても素敵なことだ。
 だからシンジは、ゆっくりと考えを巡らせていた。「ひとまず何て言おうかな」と。










          おわり








あとがき

コモレビ。ではお初にお目にかかります、らいむと申します。
本来ならサイト開設一周年記念の贈り物の予定だったんですが……今いつだ(^^;

そんな作品ですが、楽しんでいただけたら何よりです。






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