「綾波ってさ、将来何に成りたいかとか、そういうのって、ある?」



彼女は、少し考え込むような顔をして、それから、首を横に振った。



屋上には気持ちいい風が吹いていた。昼食をとり終えた僕達は、鉄柵の間から両足を下ろし、眼下にあるグラウンドを眺めていた。

ここから地面までは、30メートルくらいあるのだろうか、僕の位置の真下には人の気配はなかったが、もし人が居るときに上履きが落ちてしまったら問題になるんだろうな──とか思いつつ。やってはいけないことをしたくなるのが、心情というものだ、缶蹴りするように、前後に大きく、ぶらぶらと両足をばたつかせる。

そして、隣で綾波も、同じ動きをしている。細く白い足が、空を切る。その光景が、微笑ましく思えた。



「高校とかのことは?」

「私はここから離れられないから。市立高校に行くわ」

「ああ、そうか」

綾波には、パイロットの仕事がある。高校に入っても、まだそれが続いていたとしたら。ネルフへの距離を考えれば、一番近い、市内にある高校へ進むのは道理だった。

「碇くんは?」

「僕も、市立」

どうしてこんな会話をしているのかというと、今日、5時間目の授業が終わった後から、体育館で進路指導があるからだった。学年主任の教師がやるらしいが、進路指導という名前だけで退屈そうなのが分かる。クラスでも、「うぜー」「早退しようぜ」などの声が聞かれた。皆考えていることは同じなのだろう。
中学二年の、夏休みが明けてすぐだというのに、どうして何年も先のことを考えなければいけないのか。

そして、さらに来週には、保護者同伴での、三者面談が予定されている。恐らく、僕と綾波に限っては二者面談なのだろうけれど。今更親の顔して学校に来て欲しくもないし。



正直、ほとんどのことが面倒だった。



──ああ、次、数学じゃないか。



十数分後のことでさえ、宿題をやっていないという些細なことで憂鬱になれるのに。社会に出てからのことなんてこんな時期から考えている方がおかしい。絶対にそうだ。

まあ、前に出て解答するように指名されないことを祈るしかない。確立は高くないはずだ、僕は前回の授業に当てられたし、二回連続で当てるってことはないだろう。きっと大丈夫。





──ピピピ。



不意に。
午後の、ささやかな休息に終わりの時を告げる音が、広々した屋上に響き渡った。

「はい、分かりました。すぐに行きます」

ポケットから取り出した携帯に素早く対応し、通話を切ると綾波はすぐに立ち上がった。そして、僕に顔を向ける。

この状況と、その二つの目が言っていることは、もういい加減僕にも分かる。

「使徒?」

「ええ」

簡潔な一言だったが、それに綾波が込めたものは、とてつもなく重たい。

「先生には言っておくよ」

「ありがとう、じゃあ、行くから」

「行ってらっしゃい。頑張ってね」



いつものことのように、交わされた言葉。
急ぎ足にその場を立ち去る後姿が階段に消えていくのを見送ると、僕は遠くに見える、かつて市街地だった跡に目を向けた。

僕は、ここから見える景色が、ひそかに好きだった。
誰にも邪魔されずに、直射日光はきついけれど、綾波とのんびり出来る場所といえば、家以外ではここだけだったから。今日みたいに、食後に二人で、他愛もないことを話して過ごすことが多かったけれど。

その光景が破壊されていくことに、少し、寂しさを覚える。

ビルの瓦礫は道路を塞ぎ、登下校のルートも大回りにしなければならないほどに、今も街のいたる所が崩れ落ちている。それも、復旧作業のスピードを全く考えずに、使徒が次々に襲来するせいだった。



あれから。綾波は、四体の使徒を倒した。その為に、横須賀の海軍基地まで行って海からやって来た使徒を迎撃したり、その次の使徒は分裂する奴だったらしくて、1対2の戦いは苦戦を強いられたらしいけれど、なんとか倒して。その間に修学旅行があったのだけれど、綾波は使徒のことがあるから、一人でこっちに残ったり。
大した怪我もなく。順調に、綾波は勝利を収めてきた。

その点に関しては、良かったと思うけれど。
使徒が来る度に、思う。



綾波は、いつまで戦わなければならないのだろうか。



今、接近している使徒が、最後なのか。
次の使徒なのか。
来年まで続くのか。
十年後も、使徒は襲来し続けるのだろうか。

僕には、分からない。



ただ、僕は、戦いが終わり、綾波がパイロットという束縛から解放され、普通の女の子に戻れる日が来ることを、祈りつづけることしか出来ない。





──どうか、無事で。





僕達の敵の襲来を知らせる警報を耳にしながら、僕は屋上を後にした。




















蛹の夢:




















日々は、過ぎ去る。
季節は変わることはないが、八月と一月では七度くらい平均気温は変わる。「いつか」季節が戻ってきた時の為か、形式だけの祝日は残っていて、秋分の日を過ぎて、感覚的に涼しさを感じるようにはなったけれど。

「抹茶と……えと、ストロベリー、下さい」

「420円になります」

あらかじめ用意していた500円玉を手渡し、お釣りの80円を受け取る。そして、すぐに出来上がった、二つのアイスクリームを受け取る。

「ありがとうございました!」

レジ係、というか店員の人とは、すでに顔なじみだ。毎週のように、このアイスクリームショップに寄れば、それは顔も覚えるだろう。
威勢のいい声を背に受け、僕は店頭から離れた。

向うのは、当然、彼女の下。



「はい、綾波」

木の影で待っていた綾波に、抹茶の方を差し出す。



「ありがとう」

それを左手で受け取りそして、一口。

よく味わうようにして食べた後、一言。





「……おいしい」

「ほら、だから言ったじゃん。抹茶美味しいって」

「ええ、そうね」



勝ち誇ったように、大きな声を出してしまった。でも嬉しかったんだから仕方ない。

だって、綾波が、「抹茶アイスなんて食べられるわけがない」みたいなことを言うから。絶対に美味しい、食べたらハマるって説得して、今日食べさすことに成功したんだから。



自分で注文したストロベリーを口に含みながら。緑色したアイスをぱくつく綾波を見て、僕は口元が緩んでいた。







そう。僕達は、ここ最近、綾波がネルフに行かない日には、少し遠回りして、学校の帰りにアイスクリームショップに通っている。

クラスの女子が会話しているのを小耳に挟んだ店。使徒との戦いの息抜きになればいいなと思って、場所を確認して、綾波を誘ってみた。

綾波は、アイスをあまり食べたことがないらしくて。店頭でカタログを見ても、どれがどんな味をするのかも分からなかったみたいで。

取りあえず最初は、僕が綾波の分を頼んだけれど、それが美味しかったらしくて。

それ以降は、チョコだの、ストロベリーだの、キャラメルだの。自分で見て選んで、買うようになった。

ちなみにお気に入りは、コーヒーらしい。

……基準が全然分からないんですけど。










まあ、そんなこんなで。

"使徒との戦いの間の時間"を、僕達は、精一杯、生きることを選択した。

やっていることは、そこらへんの中学生と何ら変わりない。アイスを買い食いしたり、本屋で立ち読みしたり、休みの日に街まで行ったり。普通の中学生にとっては、確かに普通のことで。でも、僕達にしてみたら、手を伸ばした感じがするような、そんな日常。



楽しいように。笑って、今を生きていく為に。










そんな中。七体目の使徒を倒して、再び束の間の平和が戻ってきた、九月の下旬。

二学期の、中期テストが視界に入ってきた、憂鬱な日の出来事だった。










かたかたかたかた。



回し車の中で彼女はひたすら走る。名前はまだない。
先程から三十分ほどこうしているが、彼女は走り止む気配を見せることはなかった。
それを見ているだけでも僕の心は和んだ。

……和んだ、けれども。



隣に、足を崩して座って、僕と同じように彼女を見守る綾波は、申し訳なさそうな顔をしていた。

「伊吹さんが、ねえ」

ちらりと、隣を見やる。僕の目線に気付いた綾波は、上目遣いで。



「……だめ?」



そんな顔で、そんなことを言われたら、駄目なんて言えるわけがない。

「僕は、全然構わないんだけどさ……動物なんて、飼ったことないから」

上手く飼える自信なんて、全くない。それに、突然のことだったから、戸惑いもある。



「……ハムスターって、どうやって飼うの?」

一応、綾波に振ってみても、こうして一緒に戸惑っているんだから、知っているはずなかった。



……ハムスター、ねえ。



かたかたかたかた。

たまに休んで餌を口に含んだり水を飲んだりするが、基本的には走っている。
あまりの元気のよさに関心して、自分ならへばっているだろうな、と情けない感想を持った。





今日。
綾波は、ネルフのスタッフの一人である伊吹さんから、ハムスターを一匹、貰った。伊吹さんは、僕も一度、会ったことがある、前にネルフに行った時に、少し話をしたことがある。可愛らしい感じの女性だと記憶している。
要するに、伊吹さん宅で飼っていたハムスターに子供がたくさん出来て、困った伊吹さんは、ネルフスタッフに飼ってくれないかと聞いて回っていたそうだ。そして、綾波にも聞いてみたというわけらしい。

そして、綾波は、それに応じた、というわけだった。僕に何の相談も、なく。
それに関しては別に気にしていないけれど、伊吹さんが発端だとはいえ、綾波が能動的にハムスターを飼おうと僕に言ってきたことが、驚きでもあり、同時に、嬉しくもあった。



「ネットで調べてみようか。飼うのに必要な物も、街に行けば売ってるだろうしね」

カリカリと、ひまわりの種をかじる彼女を見ながら。
綾波は、目の色を変えた。

「いいの?」

「今更、飼えませんなんて言うのも無責任だし……綾波が決めたことなら、僕はいいよ、全然」

はじめから、僕は反対ではなかった。綾波にはそう見えていたのかも知れないが、それは、ひとえに「ちゃんと生き物を飼う」ことが出来るか不安だったからで。

「善は急げって言うし。明日、学校の帰りにでもさ、買いに行こうよ」



その言葉を聞くと、綾波は安心したように、口元に笑みを浮かべた。



「ありがとう、碇くん」





──ありがとう。

感謝の言葉。



綾波は、籠から彼女を取り出し、手の上に乗せ、その頭を撫でる。彼女は気持ち良いのか、身動き一つせずに綾波に身を任せていた。



その光景を見て、僕は思う。



“あれから”。綾波は、変わった。変わったように、思う。
具体的に、何処が変わったのかは、確かなことは分からない。けれど、感覚的に理解していた。
例えるなら。
あの、電話があった日を境にして、それまで存在した、自分と他人を隔てていた壁が、なくなったというか。少なくともその厚さは、薄くなったように感じる。
学校では、相変わらず綾波は綾波で、僕以外の人とは事務的にしか話をしないし、他人から見れば変わらないように見えるのかも知れないけれど。

僕には。

綾波が、“外”に向って、出ようとしているように、思えた。





「そういえば、そいつの名前、決まってないんだ?」

ふと気になった疑問を、口にする。

綾波は、こくりと頷く。

「……どう、する?」

「……」



部屋の空気が凍ったのを、感じた。



「うーん……」

「……」



言葉に詰まった。

そういえば、よく考えてみると、僕は今まで生きてきて、生き物に名前をつけるということを、したことがなかった。
母さんが死んでから先生の家に預けられて。世話になる身で、ペットを飼おうなんて言うことも出来ず。先生もペットを飼わない人だったから、僕は人間以外の生物と、まともに接したことがなかった。

綾波のことはよく知らないけれど、二人そろって考え込んでしまったあたり、僕と同じなのだろう。
ゲームで、キャラクターの名前を決めることはあっても、これは現実のことで。
簡単に名前を決めて、飽きたから途中で変えるなんてことは出来ない。そのことを綾波も理解しているからこそ、こうやって悩んでいるわけで。

慎重になってしまうのも、仕方ないことだった。

「……名前、ねえ」

僕達の視線は一点、綾波の手元の彼女に注がれていた。生後どのくらいなのかは分からないが、話に聞いただけで判断すると、彼女はまだ子供なのだろう。綾波の手の温もりを感じ、身を寄せる彼女に、少し、複雑な気分になる。

……張り合うような相手じゃあないのに。





「……思い浮かばないもんだね」

頭の中では、名前が次々と現れて、消えていく。

犬ならポチ、猫ならタマ、とか「決まり文句」みたいな名前もあるけれど、ハムスターのそれは聞いたことがない。

……女の子だから、花子とかでいいのだろうか?

自分で考えて、あまりのセンスのなさに、泣きそうになった。



「まあ、急かされてるわけじゃないし。ご飯、温め直すからさ、食べながら考えようよ」

「……そうね」



綾波は、彼女をそっと、籠の中に戻した。

そして彼女は、もぞもぞと藁の中を動き、餌入れのひまわりの種を頬張る。

その愛くるしい一連の動作を見届け、名残惜しくも思ったけれど、食事の用意の為に、その場を立った。





「伊吹さんはどんな名前つけてたか分かる?」

「聞いていないわ」

「そっか、参考になるかと思ったんだけどな」

「でも、猫の名前は聞いたことがあるわ」

「猫も飼ってるの!?」

「確か、ジジ、だった」

「……どこかで聞いたことがあるんだけど……」





結局、そんなことばかり話していて、その日は、彼女の名前は決まらなかったけれど。

僕達に、新しい家族が増えたことは、確かなことだった。



そして、思う。

いつ以来だろう、明日が来るのが、楽しみだと思えるようになったのは。

確かに、色々あったけれど。

こうして、どこにでもある日常を、綾波と一緒に過ごせることが、





なんと、幸せなことだろうか。
















+続く+







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