見上げた空から落ちてくる、体験したことのない白い物体。そして僕は、笑顔になり、遠くから微笑んでこちらを見ている両親に、手を振った。

これは、雪だ。幼い頃、日本で唯一雪の降る、北海道へ母さんと父さんと一緒に旅行をしに行った時の、思い出。

簡単なつくりのそりに、父さんの前に乗って滑った。それをベンチに座って、微笑んで見ている母さん。

母さんが死ぬ前の、最後の冬のことだった。ちょうど仕事の都合がつき、テレビでしか見たことのない雪を見たい、と僕が言ったのを、父さんが適えてくれた。



家族三人での、最後の思い出だった。

その年の四月に母さんは突然倒れた。確か、家で食事をとっていた時だ。食事の手を動かしながら、僕と父さんは一緒に、テレビアニメを観ていた。それを行儀が悪い、と母さんに注意されたんだ。

そしてそのすぐ後に、母さんは血を吐いた。

僕はあまりにも突然のことで何が起こったのか理解が出来なかった。いつも冷静沈着な父さんがひどく慌てて、何度も母さんの名前を叫んでいたのが、強く印象に残っている。父さんは何処かに電話をして、しばらくすると聞えて来た救急車の音。そして担架に乗せられて何処かへ運ばれた母さんの姿を次に見たのは、病院の遺体安置室だった。



冷たく、悲しい"物体"が、そこにあった。
もう、抱き締めてくれることも、優しい言葉を言ってくれることもない。

もう、母さんはそこには居なかった。










そして──夢は、終わった。





不快なほどに、蝉の大合唱が窓の外から聞えていた。
汗ばんだシャツの気持ち悪さを感じながら、ひどく重たい目蓋を開け、ここが自分の部屋であることを確認する。
午後三時。
枕下の時計の針が示していた時間は、いつもの僕からすればとんでもない寝坊であったが、幸いにして今日は土曜日、いくら寝ていても誰にも文句は言われない日ではあったが。
布団をはね退け、足をもつれそうにさせながら、急ぎ足で部屋を出る。
僕の不安が的中していなければいいのに、心の中で何度もそう念じながら向った綾波の部屋。

「綾波」

ニ度、三度とノックを繰り返しても、返事はない。

「……入るよ」

悪い予想というものは、いつも当たる。
数センチ開いたドアから見える綾波の部屋には、やはりもう、綾波は居なかった。

はぁ。
深く、溜息を吐く。
やっぱり行っちゃったか、頭を掻きながら、力なく開けたドアを閉める。昨日あんなことがあったっていうのに、綾波は今日も、ネルフに行ったのだろう。
色々と心配ではあったけれど、逆に、いつも通りにネルフへ行けたということから、極端に塞ぎ込んだりはしていないということを間接的に知ることが出来て、安心した部分もあったけれど。



それでも、頭の片隅から、昨晩のことが消えることはなかった。





昨日。
はらわたの飛び出たテディベアを抱き締め、子供のように泣きじゃくる綾波に、僕はどうすることも出来ずに居た。
僕自身も雨に濡れ、部屋の寒さもあって急激な体温の低下を感じていたが、「風邪ひくから帰ろうよ」なんて言うことも出来るはずもなく、ただ震える綾波の背中を見つめていた。
体感で二十分ほどだっただろうか、ひとしきり泣いた綾波は、テディベアを抱き抱えたままゆっくりと立ち上がると、僕を振り返らずに言った。

「ごめんなさい」、と。



はっきりしていることなど、何もない。
昨日、あれだけ冷静で感情を滅多に表に出すことのない綾波が取り乱し、涙を流したのは、ほぼ間違いなく"アスカ"という人物が関係しているのだろう。
けれど。僕には彼女と綾波との間に何があったのかは分からないし、知る術もない。
勿論、知りたいという欲求はあった。彼女と綾波の関係を知れば、僕にも何か出来るかも知れない、重荷を外してあげられるのではないか、そう思うけれど。
どうすることも出来ない。きっと、彼女のことは、綾波にとって誰にも触れられたくない聖域のようなことなのだろうから。





ダイニングに向うと、テーブルの上に、小さな書置きが、一枚。

「起きてこないようなので、先に行きます。朝食は冷蔵庫の中に入っています、温めて食べて下さい」

見慣れた端麗な文字で書かれた文章の末尾には、小さく、「昨日は、ごめんなさい」、と、綴られていた。






綾波。

もう、胸が締め付けられるようになって、どうにもならない。





僕は、どうすればいい?




















蛹の夢:優しき鬱




















ゆったりとたゆたう液体に体を預け、少女は闇の中で目を閉じた。
肺に入り込んでくるL.C.Lは、いつになっても気分のいいものではない。全てを吐き出してしまいたい衝動にいつも駆られるが、意味のないことを理解していた。少しの間の我慢だ、すぐに何も感じなくなる──そう自分に言い聞かせる。実際、時間の経過と共に不快感は薄れる為、苦しく感じるのは短時間だった。
そして体がL.C.Lに慣れて来た頃に、感じるようになるプラグスーツ越しの液体の温かさ。

──これは、きっと、お母さんの温かさだ。

人から生まれることのなかった少女は、矛盾を感じながらも、そう思った。



そして、安らぎを、覚えた。










「レイ、少し調子、落としたわね」

ディスプレイに表示される、常に上下するグラフに目を向け、作戦部長葛城ミサトは呟く。

「ここのところ、順調に伸びていたのにね、やっぱり、昨日の件でしょうね」

傍らでオペレーターに指示を出しながら、赤木リツコは表情を変えることなく言う。

「諜報部は一体何をやっていたの、雨の中に飛び出したりしてレイになにかあったら、どうするつもりなの」

「どうせ私達への当てつけでしょう。下らない子供みたいなことをするわ」

「まったく……」

ミサトは安定しないグラフから目を、レイの顔が映されるモニターに移す。瞳を閉じ、集中した表情。一見するといつものレイが、そこには居た。



「レイ、もう上がっていいわ。今日は終わりにしましょう」

これ以上続けても、好結果は望めない。
シンクロテストに先立ち、前日の影響を考えて健康診断をした結果、軽い風邪の症状と精神的な疲労を呈していたレイの体調のことを考えての決断でもあった。
幸い、全てのタイムスケジュールが記されているとされる死海文書に記された、第五の使徒の襲来にはまだ、若干の猶予がある。
今は、先のことを考え、大局的に動く必要がある。少しでもリスクのある道は避けなければならないのは、リツコは誰よりも理解していた。

なおさら、パイロットはもう、レイしか残されていないのだから。



エントリープラグ内の電気が消え、オレンジ色の世界が、レイを包み込む。

──今日も、終わった。

レイの口から、気泡が零れた。






































白い。

白く、何もない世界。

レイは、何もない空を見上げていた。

ベンチに腰掛け、コンクリートの塊の空を、見上げていた。

世界の、終わり。

何も感じない、死んだ世界。



──そう、確かに。
生きる意味を見出せなかったあの頃の私は、この世界を、そのように感じていたのかも知れない。
それでも。
アスカと、出会って。
やっと、生きる意味を、見出すことが出来た。
生きることが楽しい、明日が来るのが待ち遠しいと、思えるようになった。










──レイ、聞いてよ、シンクロ率がまた上がったの!



嬉しそうに。



──あーあ、私も本部がよかったなぁ。ねえ、日本に行ったら、案内してよね。とりあえず、富士山!



アスカが、笑う。



──日本って、飛び級出来ないんだっけ?レイも一緒にこっちで大学に行かない?中学校なんてつまんないでしょ?



時折、冗談ぽく。



──私達だけ、生き残っちゃったね……。どうしてみんな、死んじゃうのかな……。



涙も、あった。















──もう、二度と顔を見せないで!大っ嫌い!





それが、最後だった。
アスカはもう、笑ってくれない。

その瞬間に、私は生きる意味を、失った。

私の、せいだ。
全て、私のせいだ。
サキちゃんもマイちゃんも、コウタくんが死んだのも、私のせいだ。
サキちゃんが生きていれば、今年で14歳になる。マイちゃんもコウタくんも14歳になる、当然だ、生まれた年が同じなのだから。
もし、生きていれば。一緒に学校にも通っていただろう、ファッションの話で盛り上がったり、恋愛の相談でもしていたかも知れない。

けれど、そんなのは、夢物語だ。

どうして私だけが生き残ったのだろう。どうして、今となりに皆は居ない?皆と私と、何が違ったのだろう?
そして、──どうして私は、アスカを傷つけてしまったのだろう。

生まれてこなかったら、よかったのに。
何も感じることのないまま、消滅してしまったほうが、よかった。
こんなに、悲しむのなら。
こんなに、苦しむのなら。

生きる意味など、ない。





けれど。



──碇くんに出会えたから、私は、生きる意味をもう一度見つけることができ、この世界に縋ることを許された。

他人の為の、人生。生まれた時からそう決まっていた運命。
それまでは、全人類という、途方もない不特定多数が守るべき対象だった。それは実感を伴わない、極めて曖昧な存在。見たこともないような人間の為にまで、どうして戦わなければならないのか。何度もそう思った。
しかし、今は、明確な、守るべき対象が、居る。
それは、自身の存在意義を保持出来ることと等位であった。





携帯電話を、ポケットから取り出す。
そして、今朝、家を出る前に確認しておいた番号を、押す。



「お掛けになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめになって、お掛け直し下さい──」



──アスカ。
当然といえば当然だった、アスカの状況は詳しくは知らないが、電話など掛けることを医師が許可するわけはない。当然、形跡が残らないようにして、電話を掛けてきたのだろう。
使い捨ての、番号。掛け直してくることを想定していなかったのは、自身のメールアドレスにメールを送るように言っていたことからも伺えた。

けれど。

メールを送っても、恐らく、それが読まれることは、ない。
レイは、それを、感じていた。

涙は、底をつくことは、ない。
何度も泣いて、何度も後悔したはずなのに、次から次へと、感情と共に溢れ出してくる。

それを、手の甲で拭う。



命。

儚く、簡単に終わってしまう、自分という形の器。

──私にどれだけ時間が残されているのかは分からない、一年かも知れないし、五十年かも知れない。もしかしたら、明日には終わるかも知れない。それは突然訪れ、そして全てを奪ってしまう。
それが訪れるまでに、全てを終わらすことは、出来るのだろうか。
もう、誰も使徒のせいで悲しまない、世界を作ることが、私に残された時間で、出来るのだろうか──





誰も、その問いに答えることは、出来ない。
しかし、ベンチから立ち上がり、ジオフロントを去ったレイの表情には、確かな決意が刻まれてた。




















一人で居る部屋は、寒気すら感じるほどに空虚だ、コンポから流れ出る音に耳を傾けながら僕はそう思った。



 キミは気付いてるの?
 
 絶望に揺れる船が 
 
 少しずつ滑り出して
 
 起死回生の海へ──



good mornig good news──「いい朝に、いい知らせ」──そうタイトルを冠せられた曲。前にトウジに貸してもらったCDから、MDに録音しておいた物を引っ張り出して聞いてみる。
トウジは、よくこの歌を、口ずさんでいた。微妙に音程を外していても、気にすることなく歌っていた。

それは、希望の歌だった。





思えば。
僕は、綾波のことを、ほとんど知らない。
こっちに引っ越してきて、入院中だった綾波と出会って。
だんだん記憶や、人間らしさを取り戻してきた綾波と、一緒に暮らすようになって。
使徒が、襲来して。
戦って。
傷付いて。
たくさんのことが、この四ヶ月の間に起こった。

けれど。
綾波は、自分のことを、決して話そうとは、しなかった。
死んだご両親のことや、自分が子供の頃の話は、断片的に他人の口から語られているだけで、それは綾波が能動的に語ったものではなかった。
そして、"アスカ"という女の子の、ことも。



僕は、身を起こし、リビングへと向った。





「……レイ?……えっと、久しぶり。アスカです……今まで、連絡出来なくて、ごめんね」



記憶媒体に残されている、彼女の声。
綾波が家に居るときには、さすがに大きな顔をして聞くことは出来ないが、こうして、ネルフへ行っているときなどには、心の中で「綾波、ごめん」と呟きながら、もう一度聞いてみようという気になれる。
再生される彼女の声は、あの時と全く変わることはない。得られる情報も、何一つ増えることはなかった。
けれど、聞く回数を重ねる度に、その印象は変わってくる。

そこにあるのは、悲しみ。
絶望。
謝罪の念。
恐怖。
言葉では表現できない、数々の感情が入り混じっている彼女の言葉は、何も知らない僕の胸にすら、突き刺さるようだった。



何度も、僕はそれを繰り返し、聞いた。
僕が知らない、真実を言葉から汲み取るように。



それの再生が、四度目に入った、その時だった。



がちゃり。



僕は、急いで耳から受話器を外し、下ろした。玄関から聞えて来たそれは、鍵が開く音。つまり、綾波が帰ってきたことを意味していた。
まだいつもの帰ってくる時間までたっぷりと余裕がある、そんな気持ちでこっそりと留守電を聞いていた僕の心臓は飛び跳ね、それを落ち着け、証拠を隠滅するようにその場を離れ、綾波を迎え入れる為に、玄関へと向う。

けれど、足は重りがついたみたいに重く、そっちへ進むことを拒否しているようだった。

正直。
考えはまとまってはいるものの……昨日の今日だ。綾波の顔を、正面からしっかりと見ることの出来る勇気は、あまり、ない。

また、昨日のように。
肩にかけた手を振り解かれてしまわれるように、拒絶されてしまったら。

その恐怖──綾波との関係が、破壊されてしまうことへの恐怖が、僕の頭だけでなく体も支配していた。

けれど、きっと、それは綾波も同じなんだ。
自然に振舞うのが、一番いい──そう、思うし、そう心がけようとも、思う。





僕が玄関に着いた時にはすでに綾波は靴を脱ぎ、玄関から通路へと上がって、僕が居るリビング側へと向っていた。

僕の足は、そこで止まり──その瞬間目と目が、合った。
綾波は、僕を真っ直ぐに見据えていた。

「……おかえり」

「……ただいま」

やはり、ぎこちなさは隠せない。
普通に接しようとしても、どうしても頭には昨日のことがこびり付いていて離れない。

今日は、早かったね。荷物、持とうか?──そんなのでいいのだろうか?どんな言葉をかければいいのかも分からず、僕は固まってしまった。
その間にも、綾波は荷物を片手に持ったまま、リビング側へと進んでいた。
そして、僕まで、あと数歩というところで。



その歩みを、止めた。



「碇くん」

「は、はい」



僕は俯き気味だった顔を上げ、綾波に視線を向ける。

そこあったのは、淀みのない、真っ直ぐな視線。
それが、僕の両眼を射抜いていた。



少しの静寂と、間を置いて。





「昨日は、ごめんなさい」





そう言って、綾波は、小さく、僕に向って、頭を下げた。

「あ、綾波」

「心配かけさせてしまって……本当に、ごめんなさい」



予想外。
こんなことを、綾波がいきなり言うなんて、頭の片隅にもなかったことで。それは、綾波が謝罪なんかしない、冷徹な性格だとか、そういう意味ではなく──ただ単純に、考えつかなかっただけで。

「あ、ああ、いいよそんなに気にしなくても」

そう、答えるのが、やっとだった。





「それから」

綾波は、僕の発言に、間髪入れずにその言葉で続けた。

そして、再び、言葉を生む間があった後に。










「……ありがとう」




















顔を上げた、綾波は、笑顔だった。

悲しみや、怒りや、そういった感情を全て包み込んで。

綾波は、泣きそうな顔をして、笑っていた。










「私は、もう、大丈夫だから。……ありがとう、碇くん」




















確かに。

綾波が、何を指して「ありがとう」と言ったのかとか、理解が及ばなかった部分も、確かに、ある。
けれど。
もう、そんなことは、あまり気にはならなかった。

だって、僕の前に、綾波が、居たから。

アスカという少女のことや、昨日、綾波のマンションで回収した、DVDや破壊されたテディベアのことも、どうでもよくなっていた。
それは、綾波だけの、秘密。
僕が知る必要のない、ことだから。
僕は、何も知らなくて、いい。



その、笑顔で。
滅多に見せることのない顔だったけれど、それを見て。

ただ、そこに綾波が居る、ということで、僕は救われるんだ。



そう、思った。




















+つづく+






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