──どうして私は、碇くんに、あんなことを。



電灯が灯ったり消えたりしている、コンクリート剥き出しの階段を、一歩ずつ進む。濡れた靴が段を踏む度に、静かな空間に不快な音を生んだ。
無言で、俯いたまま歩いた道も、残り僅かの距離を残すのみだった。とっさに払い退けた手の、暖かさはもう感じない。一歩後ろを、心配そうにしながら付いて来る少年とはあれから、口を利いていない。気まずさの残る中、自分から会話を持ちかけることに慣れていない少女は何とか口火を切ろうとしたが、結局それは適わなかった。何か、言わなければ。今、行動を起こさなければ。自分の焦りの所為で、もしも、彼を傷つけてしまったのならば、あの時と同じになってしまうのではないか──その気持ちも、上手く言葉にすることが出来なかった。

分かっていた筈なのに。"あの時"、世界で唯一の親友を失って気付いた筈なのに。

──私は、また同じ過ちを繰り返してしまった。

彼が、傷付くのが怖かった。自分の咎や汚さを知られることが、怖かった。──どんなに、自分が最低な人間であるか、知られることが怖かった。

──だから、拒絶した?自分から彼を傷付ければ、彼に嫌われる時が来ても納得が行くからだろうか?

胸の、突き刺さるような痛み。あの時にも感じた、大切な人を傷つけてしまった罪悪感。けれど、あの時とは何かが違う。少女は濡れたパジャマの上から胸を押さえ、その原因を探るが、明確な答えは出ない。



ただ。
一つだけ分かる、その要因。



──きっと、これが"好き"、という感情なのだろう。
好きな人に、嫌われることが怖かった、それが最大の要因であることは、少女にも容易に理解出来た。


ずっと、何か自分の奥に、得体の知れない感情が潜んでいることに、少女は気付いていた。いつからかは分からない、けれど確かに芽生えた感情──それまで、一度も味わったことのない、胸が締め付けられるような気持ち。
自分のことを、ちゃんとした一人の人間として見てくれている。夜遅く、訓練から帰ってくると、温かく「ただいま」と迎えてくれる。
一人で、このマンションで暮らしていた時には思い描くことすら適わなかった、夢の代。感じることの出来なかった、他人の温かさが、そこにはあった。



それが、永遠に続くと思い込んでしまっていた。
いつか崩壊してしまうということに、目を背けて。










泣き出してしまいそうになる目頭を押さえて。
そして今、目の前にある、「402」の表札。ポストには、ここを去った時と同じ、ダイレクトメールの山が出来ていた。それを尻目に、右手でドアノブを掴み、力を込めて回す。
金属の錆びが擦れる音がし、鍵のかかっていない重たいドアは、ゆっくりと開いた。
雨雲の隙間から差し込む月光が、カーテンのない窓から入り込んでいるリビングに続く無機質な通路のタイルには、埃の層が薄く形成されていた。進む度に生まれる足跡が、自分達の後ろに出来ていく様は、今は奇妙あるように感じる。その感覚を振り払うかのように少女は深く呼吸をし、それまでの道程を踏みしめるように、ゆっくりと部屋へと進み、あの時から何も変わっていない光景を見回す。中学校に上がってからの、わずか一年間しか暮らしていない部屋。そして、ここを出てから一ヶ月強しか経っていないが、ひどく懐かしく思えた。そして少女は、裸のベッドの傍に自己主張することなく存在する、木で出来ている着色もされていないチェストに視線を向けた。なんのことはない、何処にでも在る普通のものであったが、まるで何重にも鍵を掛けられた金庫のように、重苦しく少女の瞳に映る。
そして、記憶を辿る。自分が"あの時"、とった行動の結果が、この中に在る。そしてまた、"彼女"への罪もここに集約されていることを、少女は躊躇うように一歩ずつ距離を詰めながら思った。

──どうして、私は忘れていたのだろう、否、忘れてたのだろうか。思い出していない振りをしていただけなのではないのだろうか?

記憶喪失。エヴァの起動実験中の事故──そう資料には記録されているであろう事件を経て、"彼女"との思い出──今となっては、夢のような時間、もう戻ってこない自分自身によって破壊された日々、その証しが、ここにはある。
息を呑まなければ張り裂けてしまいそうな緊張感の中、震える指先を取っ手に掛け、恐る恐る開ける。音もなく開いたそこには、ダンボール箱が、ガムテープで何重にも固められた状態で置かれてあった。短く整えられた爪を使い、封印を一つずつ外していく。しかし焦りと感情の昂ぶりに、手の動きは速くなることを止めることは出来ない。次第に乱暴に、力を使って無理やりに作業は続けられた。

そして最後のテープを、勢いよく引き剥がした。




















そこには、ディスプレイが粉々に砕けた、一台のノートパソコンと、乱雑に並べられたDVD−Rのケース。

──そして、腕がなく、腹から綿が飛び出している、テディベアが、一体。




















少女は、泣いた。
失ってしまったものの、あまりの大きさに溢れる涙を堪えることは出来なかった。

その細い両腕に、思い出の詰まった、縫いぐるみを抱き締めて。




















蛹の夢:終わりの始まり




















「弐号機の生体部品を送れだと?」

「ええ、零号機の素体再生に遅れが生じているとのことです」

巨大な空洞に、男の声が木霊する。額に深く皺が寄った白衣の男は、部下の報告を受けると眼前にある紅い巨人を一瞥した。
特務機関ネルフドイツ第三支部、第一格納庫。毎日の定期検査を欠かさない男は、傷一つない装甲に目を向け、手の平を強く握り締める。
最後に、この巨人が動いたのは、どれくらい前だっただろうか。もう4ヶ月経つ。そして、セカンドチルドレンの病状が回復しているという話は、一向に入ってこない。搭乗者不在のままよりは、唯一稼動している日本で使われる方が、こいつにとっても本望だろう。
男は自嘲的に口元を歪ませ、若い部下へと視線を戻した。

「構わん、どうせこっちに置いてあっても、もう動かすことはないのだからな。ついでに倉庫にある装甲板も全部送りつけてやれ」

「では、すぐにでも手配をさせます」

「ああ、宜しく」

小さく敬礼をし、早足に去っていく部下を、目を細めながら男は見詰める。

──自分も若い頃はああだったものだ、こうして世界を守るという使命を胸に、来るべき時を迎えようとしていた。どんなに絶望的だと思えても、僅かな希望を頼りに足を動かすことが出来た。



「……結局は、全て無意味だったがな」

男は紅い巨人の目を見据え、一人ごちた。










同時刻、ベルリン郊外の公園。

太陽が気持ちよく大地を照らしていた。こんな日には、庭で昼寝でもしたいものだ、と男は眠たくなる頭を、あくびで覚醒させながら思った。
加持リョウジは、走り回る子供達を和やかに見守りながら、ベンチに腰を掛けその時を待っていた。

──これから受け取るモノが、今後の局面を大きく左右することになる。

かねてから、碇ゲンドウが人類補完委員会と対立しているという噂は、情報網を広げている人間には伝わっていた。委員会は、表向きにはネルフに出資し、世界を守る組織のパトロンとして動いている、しかし、その真の目的は誰にも分かってはいない。
そして、加持もまた、委員会、そしてその裏に存在するゼーレを疑っている者の一人であった。人類の半数と、自身の肉親を失わせたセカンドインパクトの謎、エヴァンゲリオンと呼ばれる、現在の人類には到底作ることの出来ないであろうオーバーテクノロジーの兵器、そして、使徒。
それらの真実を自らの手で明らかにする為に、加持は日本政府内務省、ネルフ、そしてゼーレに三重スパイとして潜入していた。

そして、これから落ち合う相手も、ゼーレにスパイとして潜入している人物の一人であった。

──恐らく、ゼーレは全てお見通しなのだろう、その上で、俺達は踊らされているのだろう。
それでもいいさ、そんなことは初めからわかっていたはずだ、真実に近付く為に俺はどんなことでもする、命さえも省みない。そうすることで、セカンドインパクト後に死んでいった、仲間、そして弟に、許しを得ることが出来る、そんな気がしていた。



「待たせたな」

下に落とした視線を、声の発する方へと向ける。そこには、何処にでも居そうなラフな格好をした青年が、右手にスーツケースを携え立っていた。全然変わってないな、加持は大学時代からの付き合いである友人に対して、そう思った。

「久しぶり」

「二年前ぶり、か。隣、いいか?」

「ああ」

加持がそう言い終わる前に、男はすでに腰を下ろしていた。旧知の仲とはいえ、加持は苦笑し、そして男の持つスーツケースに目を向けた。ただのスーツケースに見える、しかし加持は手に汗が滲んでいることを感じていた。
この中に、自分の求める真実の一端がある。そう思うだけで、体の震えを止めることは出来なかった。

「加持、分かっているとは思うが」

隣に座る加持を尻目に男は、ゆっくりと話し出した。

「俺は、ゼーレには歯向かうことは出来ない、お前の力になることも出来ない、分かるだろう、俺には家族があるんだ」

加持は、小さく頷く。

「ミネルヴァは三歳になったんだ、言葉もどんどん話すようになっている。お前が見た時にはまだ歩けなかったけど、もう走り回っているんだ、放っておけば車にでも跳ねられそうで一秒も目を離せないんだ」

「奥さん、元気かい?」

「勿論だ、そうだ、聞いてくれよ、二人目が出来たんだ。今五ヶ月だ、お腹も少し大きくなってきている。それで、先日産婦人科で超音波で見てもらったんだ、どうだったと思う?」

「男の子か?」

「そうなんだよ、嬉しくて俺はもう泣いてしまいそうになったよ、大学の頃から言っていただろう、初めは女の子で二人目は男の子がいいって。夢がかなったよ」

「そうか、おめでとう、今度お祝いに何か持って行くよ」

「ああ、ありがとう、加持、お前もはやく結婚すればいい、家族ってのはいいぞ、帰る場所が出来るんだからな」

「……考えとくよ」



──そういえば、そんなことを最近、考えたことはなかった、もう随分家族というものを欲しいと思ったこともなかった。

一瞬脳裏をかすめた、大学時代に付き合っていた女、今は日本で、特務機関ネルフ戦術作戦部長として腕を振るっている女。しかし、その考えはすぐに掻き消された。

──もう終わった恋だ、もしもあのまま続いていたらなんて考えても無意味だ。忘れろ、そうした方が二人にとってもいい、一度そう納得したはずだ。それに俺には、彼女を幸せに出来ない、そうする権利もない、俺は幸せになってはいけない人間なんだ。





一気に話をした男は、少し息を切らせていた。大きく息を吸い、吐く。加持はその間も、男の傍らにあるスーツケースから視線を動かすことはなかった。
男は、その視線にずっと気付いていた。呼吸を整え、そして再び、口を開く。

「……ゼーレの連中の手の上で踊らされていると分かっていても、お前はやるのだろう」

「ああ」

「友人として、言うよ。『生きて帰ってこい』。あんまり下手なことは、するな」

そして、その手に抱えたスーツケースを持ち上げ、加持の足元に、音を立てずに置く。

「何故ゼーレがこいつを日本へと持ち込ませようとしているのかは知らない、しかしこいつは確かにアダムだ、生きている」

加持はそれを手にとり、静かに膝の上に乗せる。こんなにも軽い物が、アダムだというのか。
背中を、気持ち悪い汗が流れた。加持は小さく身震いをし、そして男の顔を見た。

「ありがとう、色々と」

「何もしてないぞ、気持ち悪い奴だな……じゃあな、確かに渡したからな、俺は行くよ」

「ああ、ご苦労様」










公園に、爽やかな風が吹いた。地面に落ちた木の葉は舞い、子供達はそれを見て楽しそうに笑う。

加持は、胸ポケットから煙草を取り出し、口に咥える。火をつけるライターは、セカンドインパクト直後にスラムで拾ったものだ。
あの頃は、こんなものでも食料と交換出来た、結局これは気に入って交換しなかったが、まさか十数年も使うとは思ってもいなかったな。



吐き出した白い煙は、青い空に浮かぶ雲と相まって、美しく見えた。













+続く+






◆FUKIさんへの感想・メッセージはこちらのページから◆


■BACK