は、ね、を、ひ、ろ、げ、て────と、び、た、い。

き、み、は──





声にならない声で呟いたその言葉は、ドアを越えた通路から響いてくる革靴の音にかき消された。
ごぽごぽと、液体で満たされたカプセルの中に気泡が立つ。そこから数メートルも離れていない、椅子に少女は宙を見詰めながら座っていた。
手には、携帯電話を握り締めて。



かちゃり。
ゆっくりと、他の誰にも気付かれないように開けられたドア。そして近付いて来る、段々と大きくなる足音の方に、少女は視線を向けた。

「……今回だけだからな、もう俺でもこれ以上余計なことをすればここに来られなくなるかも知れないからな」

そう言い、顎に無精髭を生やした男は、少女に歩み寄り一枚の紙切れを差し出した。それを、震える手で受け取る。

「……ありがとう、加持さん」

いいって、でも、これで最後だからな。加持と呼ばれた男は、念を押すように言った。

「分かってるわ」

そう、気丈に笑顔を作るが、少女の顔は苦痛によって歪められていた。

──時間がない。加持は腕時計に目をやり、そう思った。

少女がカプセルから出てから、もう五分は経っている。
医者には、二十分が限界で、それ以上外に出ていると生命が危ないだろう、と言われていた。その証拠に、少女の額には汗の玉が浮かんでいた。
一秒でも早くカプセルに戻さねば。しかし少女は、なかなかボタンを押そうとはしない。
戸惑いなのか、五ヶ月ぶりにカプセルから出た少女にとってそれすらも苦痛なのか分からなかったが、加持は焦っていた。

「アスカ、電話、しないのか?」

「……するわよ」

急かすように言われた言葉にそう返すと、少女は加持から手渡された紙を見やり、そこに書かれている10桁の数字を、ゆっくりと押す。
一つずつ、ディスプレイに表示されていく数字。それらが横一列に揃うと、少女は発信を、押した。



一瞬の、間。
そして、少女は息を飲んだ。





──ただ今、留守にしております。用件のある方は、ピーという発信音の後にメッセージをどうぞ──



構えていた体の緊張が、一気に解き放たれたのを、少女は感じた。
それは、ある意味では安堵だったのか。まだ、面と向って会話をする勇気が足りなかったのか。

それは、少女にしか知る術はなかった。

「……留守みたい。今あっち、何時頃なの?」

「そうだな、あっちは今、八時くらいか?学校行ってるんじゃないかな」

「……そうよね、レイは、学校に行ってるの、よね……」

俯く瞳。遥か異国の地で、普通の中学生としての日々を送れているであろう少女のことに思いを馳せ、そしてこの自分の現実と比べてみる。
日光も届かない暗い地下の部屋に押し込められて、意識が戻るのは一日に数時間だけ、会う人は限られている、食事もまともなものは食べられない。そして、薬漬けの日々。

──もう、昔のような日々は、自分にはない。
今も、これからも──こうして自分は、ここで腐ってしまうのだろうか。

他の皆が、辿ったように。



「どうする?今日は、止めとくか?」

「……ううん、今日言うんだ。今日じゃないと……もう、言えないかも知れないから」

今、言わなければ。自分には"次"はないかも知れないから。
その言葉の意味は、加持には分かっていた。その少女の覚悟に、加持は自分に何も出来ないことを恨み、そして強く強く、唇を噛み締めた。





深く、深呼吸をして。

少女は、緊張した声で、言葉を紡ぎ出した。

























 















































通話時間は、二分にも満たなかった。そして少女の声が絶えた今、部屋の中にあるのは冷たい沈黙、だけだった。カプセルから断続的に聞える気泡が立つ音、そんな微かな音さえ、今は聞えてくる一番大きな音であった。
しかしその短い時間は、少女にとって永遠のようでもあり、一瞬のうちに過ぎ去ってしまったようにも思えた。それまで伝えたくても伝えられなかった言葉を言い終え、彼女には不思議な安堵感があった。自分に出来ることは全てやった。これからどんなことが自分に起ころうとも、後悔はない。そんな思いだった。
そして、残った疲労感。頭に、先程から鋭い痛みが走っていた。心臓は異常な程速く鼓動し、汗が止まらない。そんな様子を見て、加持は、再び手元の時計に目をやった。

通話が切れた後も、しばらく耳に当てていた携帯電話を、少女はゆっくりと下ろし──加持の方に顔を向けた。



「……加持さん、ありがと」

「もう、いいのか?」

「うん……大丈夫」

「……そうか」



そう言い、加持に携帯電話を返す手は小さく、やせ細っていた。顔も青白く、骨ばっていてまるで死人のようであった。
──そんなことない、そんなことを考えてはいけない。加持は考えを打ち消すように頭を大きく左右に振り、少女の肩に手を添える。

「人が来るかも知れない。早くカプセルに戻ろう、な」

そう言い、椅子に座っている少女を抱き抱える。一瞬、突然浮き上がった体の感覚と、加持の行動に驚いた少女だったが、ゆっくりとその手を加持の体に回した。
びっくりするくらい軽い体は、もっと強く抱き締めれば粉々になってしまいそうだ。加持は腕の中の少女の、冷たい体温を感じながら、そう思った。




















「……ねえ、加持さん」

「……なんだ?」

「私、もうここ、飽きちゃった。早く外に出たいな」

「……」

「日本には何時行けるのかな。スケジュール通りだと、もうすぐ行けるんだよね……」

「……」

「早く日本に行って、レイと一緒に戦いたいな。今までの訓練が無駄になっちゃうから……早く……行きたいな……」

「大丈夫だって。アスカはすぐに元気になる、そうだろ?すぐに行けるさ」

「……うん、そうだよね……」

「それに、一番悪かった時よりも、大分元気になってるじゃないか。だから、大丈夫だよ」

少女の目を、見ることはなく。










「……加持さん、レイは大丈夫だよね。私や皆みたいには、ならないよね……?」





「……そうだな、きっとレイちゃんは大丈夫だよ」

その言葉に"絶対"という裏付けなど、なかった。






















蛹の夢:終わりの始まり



















遠くで大きな音がした。テレビを見ながら洗濯物を畳んでいた僕は作業を中断して、ちらりとカーテンを開け、窓の外を見る。

一旦止まっていた雨も、再び勢いを増していた。ベランダの植物には恵みの雨になるのか、逆にずぶ濡れになってしまうのかは分からないが、僕は綾波の帰りが心配だった。

ジオフロントから家まで、途中までバスで、後は徒歩で綾波は帰ってくる。最寄のバス停からここまで距離的にはそこまで遠いわけでもないが、こんな天気だと、いつも綾波が携帯している折り畳み傘程度では濡れてしまうだろう。

その点は、ネルフ本部で大きい傘を貸してもらうか、誰かに送ってもらえば解決するのだが、これまでも雨が降っても綾波はそんなことをしなかったから、きっと今日もしないだろう。

心配のし過ぎかな──と思いつつ、開いたままだったカーテンを閉める。

七時半。綾波が帰ってくるまで、あと少し。

この天気を考えて少し早めに帰ってくるかも知れないが、食事もすでにテーブルに運んであるし、体が冷えてるだろうから風呂も沸かしておいたし。

とりあえずは、この目の前にある洗濯物を片付ければ、今日の僕の仕事は終わりだった。










眩い、光。

そしてまた、大きい音が、今度は光と音の間隔が開かずに響いた。きっと、山か何処かに落ちたのだろう。

この街の電力関係は、全て一つの所で管理されているらしく、めったなことでは、いや絶対と言っていいくらいに停電は起きないらしいから、安心はしているものの。

一応、テーブルの上にはロウソクとかライトとかを用意しているが、それらを使わなくて済むことを願うだけだった。










「……ただいま」

「あ、お帰り、綾波」

ドアの開く音と、小さなその声に反応して、僕は腰を上げ玄関まで出迎えに行く。

やっぱり少し早い帰宅になった綾波は、玄関前で濡れた折り畳み傘を振り、水気を切ってからそれを傘立てにそっと立てかけた。

「雨、どう?」

「……かなり、激しいわ」

それは、靴を脱いだ綾波の靴下と、スカートに飛び散った雨の跡を見ればすぐに分かった。

「寒かった?濡れてるみたいだから、先に風呂沸いてるから、入っちゃえば?」

「ええ、そうするわ」

そう言いつつ部屋に上がった綾波は、水分を含んだ靴下のせいで床まで濡れるのを気にしてか、爪先立ち気味に、手に持った鞄を置きに自分の部屋まで行き、それからパジャマを抱えて戻って来た。そして僕を横切り、バスルームへと向った。



僕は、それを無言のまま見詰めていた。










梅雨の時期はとっくに通り越していたが、最近よく雨が降る。

この前の、二度目の使徒は人的な被害を与えなかったらしいけれど、かわりに市街地で激しく戦闘したから、街の中心部には今も瓦礫が転がっている。

次の使徒に備えてか、大急ぎで復旧が行われているけれどこの雨では、遅れが生じてしまうのではないか──そんな、考える必要もないことも、一人で居る時はよく考えてしまう。



「──それでは、明日の降水確率です──」

つけっぱなしだったテレビから聞えて来た、アナウンサーの声。

また、明日も雨だ。明日は土曜日だから、一日中家に居る僕は構わなかったけれど、綾波はネルフで訓練がある。

今日みたいに、窓から外を見ても、遠くがぼやけるくらい酷い天気にならなければいいのに、なんて思いつつ。

そして同時に、この雨に、全ての山積している問題が流されてしまえばいいのに──と適いもしない夢物語を、カーテンの隙間から見える風景を見ながら描いた。



トウジの妹さんのことも。綾波が命をかけて戦わなければいけない、この現実も。

全て、夢だったらいいのに。



自分でも、馬鹿なことを考えているということは分かっていた。クリスマスの夜に現れるサンタクロースよりも子供じみた考えだ、分かっていた。

けれど、そうでも思わないと。現実逃避気味にならないと、やっていけない部分も、確かにあった。



──ただでさえ、そうなのに。

更にもう一つ、嫌な予感のする事柄が増えてしまった、どうするんだこれ──なんて思いながら、小さく、溜息を吐きながら目を向けた白い電話機。ただ重くそこに存在しているだけのはずなのに、僕の目には異様に大きく圧迫して来ているように見えた。





"アスカ"。





結局、あの綾波への留守電を、僕は最後まで聞いてしまって。

途中から、「なんか深刻な話だから、僕は聞かないほうがいいんじゃないか?」との思いもあったけれど、僕は受話器を耳から離すことが出来なかった。

電話の内容から、"アスカさん"はネルフの関係者で綾波と親しかった人で、何らかの理由で随分長い間綾波と連絡が取れなかった、ぐらいのことを推測したものの。

その背景を全く知らない僕に、その原因や理由といった部分は分かるはずがなかった。



けれど。そのどこか尋常じゃない、"強い気持ち"──それは、僕にも感じ取ることは出来た。そして、それが綾波にとって、非常に重たいウェイトを占めている事柄である、ということも。

言い辛いけれど、言わないといけないよなぁ──綾波が風呂から上がったら言おうか、或いは晩御飯を食べて、落ち着いてから言うか──そんなことを、一点に電話機を見詰めて、考えていた。




がらり。

そんな時に、不意に聞えて来た、バスルームの引き戸の開く音。

止まっていた目を通路に向けると、しばらくするとタオルドライしたばかりなのだろう、まだ少し湿っぽい髪をいじりながら綾波は現れた。

「あ、早かったね?」

「……シャワーだから」

せっかく沸かしたのだから、ゆっくりして欲しいとも思ったけれど。

綾波は冷蔵庫を開き、作って置いてある麦茶を取り出すと、コップに注いで一気に飲み干した。

火照った体に吸収される水分──額に浮かび上がっていた汗の玉が、ゆっくりと重力に従い、頬を伝った。それをパジャマの袖でぐいと拭う。



テレビの音と、かすかに聞える雨の音が耳に触る。

何かを考えるように、持ったコップを見詰める綾波を、僕も見詰める。頭が重いような不思議な感覚に襲われていたが、別に眠たくもないし意識ははっきりとしていた。

これは、知っている。緊張しているんだ。僕がこれから綾波に言うことに対して。

──悪い予感。

なんの根拠もない、けれど"アスカ"さんのことは綾波は知らない方がいいんじゃないか──そんな気がしていた。けれど言わないわけにもいかず、僕はタイミングを見計らう。



そして。綾波が一息つくのを見計らって、僕は言葉を発した。



「あ、そうそう」

ふと、思い出したように、さり気なく。

綾波は空のコップを手に持ったまま、僕の方を振り向いた。

「……何?」

「なんか綾波に、留守電が入ってたけど」

「……私、に?」

「うん」

綾波自身も、身に覚えがない、という顔をしていた。冷蔵庫を閉め、コップを洗い場に置き、改めて僕を見据える。

「……誰から?」

口の中が渇いて来た、後で僕もお茶を飲もう──なんて、思ったり。

唾で粘つく口を開け、僕はその名前を告げた。



「なんか、アスカさんとかいう人から」




















「……ア、ス……カ?」



背筋に、寒気が走った。

──悪い予感が、当たってしまった?

その綾波の反応に、一瞬そう思い巡らせたけれど、もう遅かった。

その名前を聞いた瞬間、綾波の表情は…──凍りついた。僕は、心臓が急に鼓動を早めたのを、感じた。



「え……うん、アスカって、言ってたけど……あ、綾波?」

声をかけても、反応はない。

いつになく、綾波の様子に異変が起こっていた。目は完全に泳いでいる、そして、かすかに手が震えている、ように見えた。

なにか、おかしい。

普通じゃ、ない。



しばらく呆然としていた綾波は、止まっているかのようにゆっくりと顔を電話機の方に向けた。

ふらつくように。

僕に目もくれず、ひどくおぼつかない足取りで歩いた、電話機までの距離。そして、虚ろな瞳で凝視する、「留守電アリ」のアイコン。

そして受話器を震える手に取り──





再生ボタンを、押した。






















「……レイ?……えっと、久しぶり。アスカです……今まで、連絡出来なくて、ごめんね」



その声が、受話器から流れた瞬間、びくりと震えた体。

そして、受話器を握る右手に、力が入ったのを、感じた。

「あの後、すぐに連絡しようと思ったんだけど……隔離されちゃって。今もまだ絶対安静みたいなんだけど、無理言って電話させて貰っています。初めはメールにしようかと思ったんだけど……でも、あんまり自由に出来る時間ないから、それに直接声、聞きたかったから、電話したんだけど、残念です」



僕は一度、一通り聞いた内容なのに。

視線を向けた先の、綾波の今にも泣き出しそうな横顔──



そして。



「……あの時は……ごめんなさい。ひどいこと言って……出来るなら、すぐに謝りたかった、けど……本当に、ごめんなさい」



何度も。言い足りないかのように繰り返す、彼女の「ごめんなさい」という言葉を聞きながら。

綾波の噛み締められた唇から、僅かに血が出始めていた。



「あの時は……私も突然のことで、恐怖とか、焦りとかで頭がいっぱいで……言い訳にしかならないのは分かってる、けど……ごめんなさい」

歯と歯が奥の方で擦れ合う、鈍い音。小刻みに震える、体。

電話の向こうの少女はそんな綾波の様子に関係なく、言葉を続ける。

「あのすぐ後に、接続実験で暴走したって聞いたから……ずっと、心配してた。けど、もう大丈夫なんでしょ?使徒、もう二体倒したらしいじゃない。それなら大丈夫よね、これからも、そんな感じでパーッとやっつけちゃってよ、ね……」



──私の分も、代わりに。

彼女は、ほとんど聞えないくらいの大きさで、その言葉を付け足した。



「……私の、メールアドレスは、昔のままです。今、パソコン手元にないけど……私のことを許してくれるのなら、連絡、下さい。待ってます……じゃ、レイ、頑張ってね」










そして通話が途切れる、ブツッという音が、受話器から流れ──静寂だけが、残った。





心臓の音が、大きい。奇妙な緊張感がそこで切れたのか、突然耳がよくなり、聞えていなかった様々な音まで、耳に入ってくる。

窓の外の雨の音や、時計の針が回る音。

そして、綾波の心臓の音も、地面を伝って聞えたような、気がした。



綾波はノイズの流れているだけの受話器を、スローモーションをかけたような動きで下ろしても、しばらくの間、呆然と立ち尽くしていた。

「……綾波?」

何故か、小声になってしまったけれど。

綾波は僕の声に、ふと我に返ったように、顔をゆっくりと回して、僕の目を見た。



「……聞いた、の?」

「え?」

「……碇くんは、これを、聞いたの?」

「え、まあ……聞いた、けど」

その質問の意図を理解する間もなく、とっさに正直に答えてしまう。

そして、僕の言葉を確認すると、綾波は小さく、そう、と言い、俯いてしまった。



気まずい空気が、部屋に流れているのを、感じた。

「え、聞いちゃまずかった、かな……ごめん」

綾波は、何も言わない。パジャマの袖を強く握り締め、歯を食いしばったまま。

しかし、綾波はしばらくすると、突然無言のまま歩き出した。

「あ、綾波?」

椅子に座っていた僕の横を通り過ぎる瞬間に見た、綾波の表情。何処か、決意を固めたような、それでいて今にも崩れてしまそうな…──そしてそのまま、綾波は通路へと向った。

僕を、振り返ることなく。

一歩ずつ進む足。そっちにはバスルームと玄関しかない、綾波が何をしたいのか理解する間もなく。

姿はそのまま通路の陰に消え、静かな足音は、僕から離れていった。

「綾波?」

突然、言葉に出来ない感情が湧き上がってくるのを、感じた。

僕が椅子を立ち、行方を確認する為に通路に身を乗り出した、その直後。



玄関のドアが閉まった音が、大きく聞えた。



















「綾波!!ちょ、何処行くんだよ!待って!!」

視界が悪い。僕は何度も転びそうになりながら、訳も分からないまま全力で走る綾波の後ろ姿を追いかけていた。

本当に、何が何だか分からない。けれど、先程から感じていた悪い予感は、いまだに続いていた。

パジャマのまま、体が雨に打たれるのを構わないでマンションを飛び出した綾波が何処に向っているのか。

そんなことを考える暇もなく、けれど一向に僕と綾波の距離は縮まらない。帰宅部の僕と、ネルフで肉体的にも鍛えている綾波とは、体力が比較にならない。

情けなさも覚えながら──右手に差した傘と、左手に持った綾波の分を落とさないように必死だった。

「綾波!ちょっと、ま、待って!!止まって!!か、傘くらい持って行けよ!」

地面の水溜りを豪快に踏んでしまい、ズボンがひどいことになった。けれど、僕の声も虚しく、綾波は立ち止まらない。



原因は、あの電話にあるんだろう、けれど。

今はそんなことを考えても仕方がない、そうこうしているうちに僕と綾波の距離は、段々と離れていた。

──クソッ!

はちきれそうになっている心臓と、悲鳴を上げている両足に、悪態を吐く。こんなことになるのなら、体育の授業、もっと真面目に受けておくべきだった──

後悔先に立たず、まさにその通りだった。





僕の無言の追走劇は、終わる気配を見せない。

歩道橋を駆け上がり、自転車とぶつかりそうになったりしながら、家からはどんどん離れていく。時折すれ違う人に奇異の視線を投げかけられたが、もう羞恥心も吹き飛んでいた。差していた傘も閉じ、全力で走ることに専念した。

それでも、綾波に追いつくことはなかった。

もう、名前を呼ぶことも苦しい。声にならない声が、呼吸をする度にヒューヒューと情けない音を立てる。

限界を感じ、何度も立ち止まろうとしたけれど、その度に頭をよぎる、悪い予感。

──このまま僕が追いかけなかったら、綾波は遠い何処かへ消えてしまうのではないか──その思いに駆られ、足を無理やり動かす。



けれど。

次第に、走るコースを頭の中で思い描くと、見えてきた一つの目的地が、あった。この先にあるもの、それは僕の記憶が正しければ、あそこしかない。



──綾波の、マンション。





意識が朦朧として来て、へとへともとっくに通り越していた状態で、カーブを曲がる。

そのままのスピードでカーブに突入してしまったので、うっかり転びそうになったけれど、手をつき辛うじて逃れ、再び走り出そう──そう思って前を向いた目に突然飛び込んできた光があった。あまりの眩さに、一瞬目を細める。今まで街灯だけの暗い道を走って来たせいもあるからか異様に明るく感じたが、次第に目が慣れてくると状況を理解出来た。



それは、行き交う車の、ライト。

帰宅ラッシュの時間なのか、交通量の多い十字路が、目の前にある。

そして見えた、赤信号──綾波は、両手を膝に当て、肩で息をしながら、信号の手前で立ち止まっていた。

今が、チャンスだ。

急いで、信号が変わる前に追いつく為に。

僕は最後の力を振り絞って、綾波の元へと歩み寄る。



ばしゃばしゃと音が立つ。足元の水溜りを避ける気力は、もうない。足の疲労は限界で、歩くのがやっとだった。コンバースのスニーカーは中までびっしょりだ。これじゃあ、もし月曜日までに渇かなかったら、靴が濡れたままで学校に行かないといけない……そんなことを考える体力も余裕も残されていない。次に綾波が走り出したら、もう僕は追いつけないだろう。

次第に近付く、僕と綾波の距離。一歩足を進める度に立つ音音に反応したのか、視界の片隅に入ったのか──綾波は顔を、ゆっくりとこちらに向けた。

けれど、手を伸ばせば届きそうな距離に達すると…──綾波は、僕から目を、逸らした。



「……何やってんだよ、綾波……ほら、傘……」

綾波の突飛な行動は、今はどうでもよかった。

そんな寒い格好で、風邪を引いてしまう。パジャマはずぶ濡れで肌に張り付いている。

もう今更傘なんて差しても、効果なんてないのだろうけれど……僕は、故意に顔を背けている綾波の肩を、掴んだ。



その瞬間。










「離してッ!!」




















車のクラクションが、あちこちから聞えていた。雨のせいで渋滞になっているのだろう、目の前の車の列の、いらついたドライバーが乱暴に押すクラクションは馬鹿みたいに聞えた。

僕も、同じだ。僕も馬鹿だ。ひどくやるせない気分が急に襲ってきた。

手を振りほどかれた勢いで、僕はへなへなとその場に座り込んでしまった。なんで僕はこんな所でこんなことをしているんだろう。

見上げた綾波の顔は、雨に濡れてぐしゃぐしゃだった。

「……ごめん、なさい」

か細い声。

綾波は、寒いからか……ひどく怯えたように体を震わせながら、僕から一歩、後ずさった。



綾波に、拒絶された。

いや、きっと、脊髄反射だったのだろう。追いかけて来た僕が、突然肩を掴んだのだから、びっくりしても仕方がない……そう信じないと、情けなくて自分の意味が分からなくて、泣いてしまいそうだった。

「……どうしたって、いうんだよ……なんでなんだよ、綾波……」

綾波は、答えない。

へなへなと、傘を杖代わりにして立ち上がり、左手に持っていた綾波の分を、目の前に差し出す。

「……とりあえず傘、差してよ。風邪ひいちゃうからさ……」



ヒステリックにクラクションが鳴り響く。

信号が、青に変わった。けれど、もう綾波は、走り出そうとはしなかった。

おずおずと、僕が差し出したそれを受け取り、開く。もともとピンク色をしていた傘も、闇に溶け込んで色彩を失ってしまっていた。





「……付いて行くよ、一緒に、行こう」





無言のまま。

綾波の濡れた前髪を伝って大きな雫が落ち、地面に波紋を作った。













+続く+






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