鉄筋に何かが打ち付けられる音が、街の中心部から離れた病院までも聞えてくる。
そして、開いた窓から入ってくる風が少女のしなやかな髪を揺らした。



第三新東京市立病院、513号室。
少年は、少女の憂いを帯びた横顔を、パイプ椅子に座って眺めていた。



「林檎、食いたい?」

「あ、うん」

少年は窓辺のベッドで、寝返りを打つことも出来ない自身の妹に笑顔を浮かべると、籠の中の林檎を一掴みし、手際よく皮を剥く。
しゃりしゃりと皮が削げ落ちる度に、少女は兄の献身的な優しさを、肌で感じた。

──初めは、あんなに下手糞だったのに。

何度も皮を剥く途中にナイフで指を切っていた兄の姿は、そこにはもうなかった。
すっかり慣れた手付きで、作業を開始してからすぐに球形から一口サイズになった林檎が、綺麗に小皿に配置されるのを見ながら、少女は思った。

「はい、どうぞ」

「ありがとう」

ジャージの少年の差し出した皿を受け取り、少女はそれを一切れ、口に入れる。
甘酸っぱい風味が、口腔内に広がった。






「……昨日、また怪獣が来たらしいね」

「みたいやな。午後からの授業がつぶれたから、ラッキーやったけどな」

「……また、あのロボットが戦ったのかな」

「……どうなんやろうな」



少女は、夕日が差し込む窓から、街の景色を見渡した。
沈み行く太陽は悲しい色で、世界を照らす。その眩しさに少年は、一瞬目を細めた。





窓の外では、先日の使徒襲来による被害の復旧作業が、連日連夜行われている風景が広がっている。
崩れ落ちたビルの再建や、道路に飛び散った瓦礫の撤去などは一日二日で終わるはずもなく、一度目の時の傷跡も癒えないままでの、二度目の迎撃戦であった。
今回は、正式な発表はないが、怪我人は居なかったらしい。前回の教訓を活かして、避難もスムーズに行われた、と少年は何処かで聞いたのが記憶に残っていた。

けれど、今回のことは、少年にとっては関係なかった。
目の前に、両足にギブスをはめた少女が居る。その事実は、彼の心に深い影を落としていた。



「……あのさ、お兄ちゃん」

「……ん?」

「この前、言ってたよね?あのロボットのパイロット、お兄ちゃんの知り合いかも知れないって」

「……ああ」

「うん、……きっと、お兄ちゃんのことだから、その人のこと、私のせいで怒ってるんじゃないかなって、思って」

「……」



少年の口が、閉じる。
半分正解で、半分外れのような指摘に、どう答えればいいのか分からなかった。

少女はそんな彼を横目に話を続ける。

「……きっと、その人も、好きでロボットに乗ってるんじゃないんだと思う。あんな怖い怪獣なんかと、絶対に戦いたい人なんていないと思う。……なにか、理由があるんだよ、だから、私のことはいいから、怒らないで」

「でも、ナツミはそれでええんか?怪我したのは、敵のせいやのうて……あのロボットのせいやろ」

「そうだけど、でも、あのロボットは、味方だよ?」


少女の目は、強く少年を見据える。
その眼光に威圧されたのか、少年は、再びそこで言葉に詰まった。
それは、彼自身にもよく分かっていた。あのロボットが、そしてクラスメイトの少女が搭乗して戦わなかったら、妹だけでなく、自分達も怪我どころではなく死んでいたであろうことを。

けれど、だからこそ。
避難し遅れた妹が、急場しのぎで隠れていたビルに突っ込んできたのは──敵ではなく、味方であるロボットであったから。
その感情のやり場を少年は見つけることが出来ないでいた。



そこで、二人の会話は途切れてしまった。
窓の外の太陽はビルの群れの向こうに消え、暗闇が世界を覆いかけていた。



















「……ほんま、どうすりゃあええんや……」

誰も居ない家。
少年は、鞄を部屋の隅に投げ置き、ベッドに倒れ込むように横になった。

頭の中では、先程の妹の言葉が反復され続けていた。
あのロボットは、味方──そう言った少女のその時の顔が、鮮明に思い浮かぶ。

「そんなことは分かっとるんや……」

独り言のように、そして自分に言い聞かせるように呟く。
そして、妹が、自分のために兄が誰かを憎むことを望むはずがないことも、彼にはよく分かっていた。

けれど。
そんな簡単に物事を割り切ることが彼には出来ないから、葛藤しているのであった。





──本当は、ずっと、綾波とは仲良くしたいと、思っていた。



あの時。握手を求めて、無視された時から……他の人とは違う、特別な感情を少女に対して抱いていたことに、少年は気付いていた。
どこか、自分を世界から隔絶して、壁で覆っているような雰囲気。
自分は寂しくなんかない、一人でも生きられる、と強がっていて、しかし誰かに助けて欲しい、と一方で思っているような、感情をも押し殺した顔をしていた。彼には、少女がそう見えていた。
それが、小学校三年の時、転校してきた直後の自分と重なり合って見えていたから。
誰にも受け入れてもらえない。孤独で寂しい日々を送っていた経験があるからこそ、少女にはそんな目にあって欲しくなかった。

けれど。



もう一度、拳を握り締め、呟く。

「どうすりゃあええんや……」



それは、悲痛な魂の叫びだった。




















CDをコンポに挿入し、ヘッドフォンから流れてくる音の洪水に埋もれる。少年は大の字に寝そべると、天井を見上げた。
それまで気がつかなかったけれど、よく見てみると白い天井には小さな染みがいくつもあった。それは、大阪から引っ越してきてからの六年間の生活の証だった。
鼓膜がびりびりと、バスドラムの音に合わせて振動する。目を瞑ると、世界に自分しか居なくなったような、宇宙に浮かんで上下感覚を失ったような感覚が手の先にまで伝わった。



 キミは気付いてるの?
 
 絶望に揺れる船が 
 
 少しずつ滑り出して
 
 起死回生の海へ──





「……起死回生の海へ……か」

自分も、そうでありたいと、心から思った。




















蛹の夢:世界の終わり




















+続く+







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