──ねえ、一緒に遊ぼ?
母親と思われる女性の服を強く握る、男の子。
そして、指し伸ばされる、女の子の手。
その手の力を緩め、戸惑いながら。
──うん!
女の子の手を取り、一緒に駆け出した。
その後姿を見守る、ブランコに揺られた男女のシルエット。
男の子は女の子に連れられ、十人くらいの集団の中に入り、楽しそうに一緒に遊んでいる。
夕焼が綺麗だった。
長く伸びた子供達の影は、どこまでも続いていくような気がした。
暗転。
「シンジ君、起きて。こんな所で寝ていたら風邪引くわよ」
「……ん……」
軽く揺さぶられる体の振動で、重たい目蓋を持ち上げる。
気だるさが体中に充満している。
夏とはいえ、毛布もなしで体を丸めて寝ていたのがいけなかったのはすぐに分かった。
重たい体に鞭打ってその身を起こし、僕の肩を揺らす女性を正面から見る。
「あ、赤木さん……」
「目、覚めた?」
「あ、はい」
長椅子で眠っていた僕の目の前に、赤木さんが普通の服装で立っていた。
頭を振って眠気を吹き飛ばそうとするが、なかなか覚醒してくれない。
今何時だろう、と思い休憩所の時計を見ると、七時半を過ぎた頃だった。
辺りを見回すと、朝食が入ったカートを押して歩いている看護士があちらこちらに見えた。
まったく、と腰に手を当て溜息を吐いて、赤木さんは続けた。
「こんな所で眠らなくても、病院に言えばちゃんとした部屋で眠れたのに」
「そうなんですか」
昨日の夜、綾波の部屋を出た僕は、急に睡魔に襲われて。
とにかく何処か体を横に出来る場所を捜して、そしてここに辿り着いた。
病院に入院したこともないし、こんな形で来たこともなかったから知らなかったのは当然だ。
でも、見回りの人とかに不審者だと思われなかっただけ、ましだろう。
それよりも、命に関わるほど緊急な用でもないのに深夜に訪れたほうがよっぽど非常識だったらしいけど。
僕にとっては重大なことだった、と自分に言い聞かせた。
「……じゃ、私はレイの所に寄って行くわ。これ、渡しに来たの」
僕に分かるように右手に持った大きめの紙袋を持ち上げて。
「学校の制服よ。着替えがなかったら困るだろうから……それじゃあね、シンジ君」
「あ、あの、赤木さん!」
僕に背を向け、綾波の病室へ向おうとした赤木さんは、僕の声に反応して身を翻した。
「……どうかしたの?」
「あの……昨日は、失礼なこと言って、すみませんでした」
自己嫌悪。
昨日、別れる時に自分の苛立ちや負の感情を、赤木さんにぶつけてしまったことを僕はずっと悔やんでいた。
「……急に、色んなことを言われて、すごく混乱していて……本当にすみませんでした」
俯き、そう言った僕を、赤木さんは苦笑して。
「ああ、いいのよ。言われても仕方がなかったわ」
「……すみませんでした」
深く頭を下げ、もう一度同じ言葉を繰り返す。
「……顔を上げて。言えなかった私が悪かったんだから」
ほら、しゃきっとして?レイにそんな顔見られたくないでしょう?
僕の肩に手を置き、声をかけてくれた赤木さんは、くすりと笑った。
「シンジ君、レイのこと、どう思う?」
「え……どう、って?」
「ロボットのパイロットだったこと、どんな風に受け止めた?」
「……驚きました。まだ信じたくありません……けど、本当のことなんですよね」
「レイのこと、そのことで嫌いになった?」
「なっ!なるわけないじゃないですか!」
思わず大声を出してしまい、ここが病院だったことを思い出して慌てて口を手で閉じた。
赤木さんはそんな僕の動きを見て、また微笑み、
「良かった。レイ、そのことをずっと悩んでいたみたいなの。
自分がロボットのエヴァだってことをシンジ君が知ったら、今まで通りに付き合っていけるかどうか、心配だったみたい」
「……」
「本当は、レイが実験を再開した頃に言おうと思っていたの。でも、言えなかった。
レイが言って欲しくない、って顔をいつもしてたから……シンジ君に心配して欲しくなかったんだと思うわ。
レイは、優しい子だから……優しすぎて、自分の気持ちを上手く伝えることが出来ないの。それは分かってあげて欲しい」
「……」
「だから、今もすごく悩んでいると思うわ。どんな顔でシンジ君と会えばいいかってね」
「……僕も、綾波に何を言えばいいのか分かりません」
赤木さんは身動き一つせずに僕を見守っていた。
「……ずっと言われたことが頭のなかでぐるぐる回ってるんです。
……綾波のこととか、ロボットのこととか、敵のこととか……不安で、どうしようもないんです」
「……」
「僕に、何が出来るんだろう、って。綾波に対して出来ることかあるのかな……って、ずっと考えちゃって」
「……そう」
「赤木さん……どうして。どうして、綾波なんですか……?」
その声は、ほとんど泣き声だった。
どうしようもない現実から、目を背けたくなる。
けれど、そんなこと出来るわけなかった。
「教えてください……僕は、どうしたらいいんですか……?」
「簡単なことよ」
「えっ?」
顔を上げた僕に、赤木さんは優しい目で、
「レイの……心の支えになってあげて」
そう、答えた。
蛹の夢:斑の片羽
学校さぼっちゃったな、と窓から遠くに見える倒壊したビルの群を見ながらつぶやいてみた。
いや、そもそも今日、学校はあるのだろうか。
学校も倒壊しているのではないだろうか?
家に連絡入ってても……もうどうしようもないよなぁ。
トウジの妹さん、いくらなんでも見つかってるよな。
家に着いたら電話してみようか?
──そんなことも考えていたけれど、本当は綾波に話し掛けるタイミングを伺っていた。
天気と同様に、心は決して晴れてはいなかった。
「ご乗車ありがとうございました、次は○○、○○です」
運転手のマイクを伝った声がやけに大きく響いた。
ジオフロント前から乗ったバスは車の少ない道路を順調に進んでいる。
次の次で降りなきゃ、と手に持ったバスカードの残金を確認して、ふっと隣に座る綾波を見る。
頭に巻かれた、今さっき取り替えられたばかりの真新しい白い包帯。
かなり目立つので自然と目が行ってしまう。
「それ……大丈夫なの?」
「……うん」
「……良かった」
綾波は手の中に替えの包帯と塗り薬の入った紙袋が納まっていた。
二針縫った頭からはもう血は出ていなかったけど、少し痛むのか、時々顔を強張らせて。
その辛そうな綾波の表情を見る度に、自分も怪我をしたような錯覚を引き起こす。
ひどく不格好に巻かれた包帯を気にしながら、綾波は窓から見える湿っぽい空を見上げた。
午前十時、朝の出勤時間のピークを過ぎたバスの中はがらがらで、乗客は僕達を入れても五人。
一番後ろの席に座っている三人組の老婦人が楽しそうに会話する声が聞える。
エンジン音に邪魔されているせいかも知れないがそれは日本語には聞えず、不気味な呪文のように耳の中でこだました。
──なんか、話し掛け辛いなぁ。
赤木さんについて綾波の病室を訪れた時から、話し掛け辛い雰囲気はあった。
ベッドで何もすることなく寝ていた綾波は、部屋に入ってきた僕の顔を見た瞬間、僕から目を逸らした。
それはほんの一瞬だったけど、それで綾波の心境がなんとなく分かった。
"気まずさ"。
それが言葉を介さなくても、表情や仕草で受け取ることが出来た。
もっとも、僕もそれは感じていたけれど。
赤木さんは綾波に挨拶をした後、単刀直入に僕に真実を告げたことを、綾波に伝えた。
綾波は覚悟をしていたのか、「そうですか」と赤木さんの目を見て、言った。
それから、こんな状況が続いている。
綾波が退院の手続きをしている時も、バスを待っている時も、そんなに会話をすることはなかった。
互いを気にしながら、何かを言いたいのにそれが言葉にならない。
言いたいことを素直に言うことが出来なかった。
「……碇くんも、それ、大丈夫なの……?」
左頬は腫れと痛みは引いたものの、まだ赤の色がうっすらと残っている。
綾波は伏せ目がちに僕を見て言った。
「あ、これ?大丈夫だよ。家に帰ったら氷水でも当ててみるよ」
そう言って、手の平で頬をふれてみる。
殴られた箇所はまだ少し、熱を持っていた。
これもついでに治療してもらえばよかったかな、と少し後悔したり。
でも、綾波と一緒に無事に家に帰られるだけでも、僕は嬉しかった。
たとえそれが束の間の平和だったとしても。
綾波が隣に座っている、たったそれだけで、僕には十分だった。
「……ん?」
隣からものすごい視線を感じて、振り返ってみる。
そこでは、物思いに耽っていて油断していた僕の横顔を、綾波はまじまじと見詰めていた。
赤く変色してる以外にも何かおかしいことが起こっていたのかと思って、鏡に映る自分を見てみるが、特に変化はない。
「……あ、綾波、どうかしたの?」
塵でもついていたのだろうか、そんな心配もしたりしたけど。
綾波は真剣な目で僕を見て言った。
「どうして、殴られたりしたの」
びっくりしたのが顔に表れてないだろうか、心配だった。
殴られたと言った覚えはないのにどうして分かったのだろうか。
「えっ、これ、転んで出来たんだけど」
とりあえず、綾波が心配しないような嘘を吐いてみる。
けれど。
「……嘘。分かるもの」
綾波はますますその目を光らせ、口を尖らせた。
「……ごめん」
頬を掻きながら、敵わないな、と心の中で呟く。
綾波は相変わらず、理由を教えろ、というオーラを目から発していた。
嘘は通じない。
……本当のことを言うしかなかった。
「……昨日、シェルターから抜け出したんだ。それが見つかって、怒られて」
──昨日の葛城さんとのやり取りと同じだな。
そう、自嘲っぽく葛城さんの顔を思い出してみた。
「……どうしてシェルターから出たりしたの?」
「えっ?」
突然口調を強めた綾波に驚き、間抜けな声を出してしまったことを後悔する間もなく。
恐る恐る、綾波の目を見て、自分がしでかしたことの重さを理解した。
……やっぱり。
僕は今まで一回も綾波のその姿は見たことがないけど、それは直感で分かった。
「あ、綾波?」
「……外に居たら危険だから、避難しなくてはいけないのに。分かっていたはず」
その瞳に威圧され、飲み込んだ唾が音を立てた。
……綾波は表情こそ変えてはいないものの、絶対に怒っていた。
「うん……でも」
「でも、じゃない」
言い訳もさせて貰えず、僕はそれ以上反論することが出来なかった。
普段見せないだけにその表情には迫力が満ち溢れている。
しかし、綾波は。
「……死んだりしたら、どうするの」
そう言うと急に先程までの勢いが消え、その表情もどこか寂しげなものに変わってしょんぼりとしてしまった。
「あ、えっ……、あの」
どうしていいのか、迷った。
綾波は今僕が下手なことを言ったら泣いてしまってもおかしくない、そんな横顔をしていた。
「え……と、あの……ごめんなさい」
そう、呟くようにして言うことしか出来ない。
「……分かってくれたなら、いい」
しどろもどろに謝る僕を見て、綾波はやっぱり寂しげに言った。
「……碇くんが居なくなったら、私は……」
「え?」
「……なんでもない」
「……?……ごめん」
綾波はつーんと僕から顔を背けて、再び窓の外に視線を向けてしまった。
──やっちゃったな……。
嵐が過ぎ去ったかのように綾波も僕も黙り込んでしまい、時間だけが流れる。
本当にどうしよう。
こんな喧嘩した後のような状況に立たされるのも、綾波が怒ったのも初めてだったから、どうするべきなのか全く分からなかった。
もっと謝るべきか?
でも、綾波に対して悪いことをしたわけでもないのに。
そもそも、どうして綾波はあんなに怒ってしまったのだろうか?
……僕のことを、本気で心配してくれたから?
そうなのだろうか。
でも、もしそうだったら、怒られたのに複雑だけど、すごく嬉しかった。
誰かに心配してもらえる。
もし父さんだったら、さっきの綾波のように感情を表に出して怒ったりはしなかっただろう。
「生きていたのか。よかったな」
そんなことしか言ってくれないに違いない。
綾波をちらっと見てみる。
やっぱり窓の外を見ていたけど、僕が見たのに気付いたのか、こちらに振り返って。
二人の目が、合った。
"ありがとう"。
その感謝の言葉を掛けようと、勇気を振り絞った。
「「あ、あの」」
「……えっ?」
「……」
同時に声を出した僕達は、目をぱちくりさせ、二人して顔を見合わせた。
「……碇くん、どうぞ」
「……いや、綾波から言ってよ」
「……そんなに大したことじゃないから」
「僕のことこそ大したことじゃないよ……綾波からどうぞ」
「……分かった」
「……私も、ごめんなさい」
「え?」
「……黙ってたこと」
「……うん。いいんだ、もう」
「……次は、○○。○○です。お降りのお客様は……」
風を切るように流れていく景色はすでに、よく見る風景に変わっていた。
「……結局、その使徒ってのは、何なの?」
バスから降りて、家までの距離。
僕達は、まだ気まずさを拭い去れないままだった。
話し掛けるのにも戸惑うし、綾波のことを考えると何をしていいのか分からなくなる。
けれど、先程よりは大分、普通の状態に近付いている。
だから、思い切って口を開いた。
もう、互いに隠し事をして、気を使いながら生きていくのは嫌だったから。
そして、綾波の直面している現実の重みを、少しでも共有したかったから。
……それくらいしか、僕には出来なかった。
隣に並んで歩く彼女はやはり少し迷ったようだったけど、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いて。
「使徒は、人類の敵。そしてサードインパクトを起こす為にここにやって来る。そう聞かされているわ」
「サードインパクト?……セカンドインパクトの次、ってこと?」
「ええ。セカンドインパクトは、使徒が起こしたものだから」
「えっ!?……でも授業では、隕石が落ちたからって言ってたけど」
「それは、人々の不安を煽らない為。国家レベルでの情報統制が成されているから」
「……そうだったんだ」
何故か笑ってしまいたい気分になった。
──もう、どんなことを聞かされても驚かないな。
そんな訳のわからない自信がみなぎっていた。
「でも、なんでここ……第三新東京に?」
「……知らない。けど、それが分かっていたから迎撃都市を建造することが出来た」
「そっか。そうだよね……」
地上に点在していた軍事施設を思い浮かべ、そうだったのか、と納得した。
確かにあれだけの設備を揃えるには、一年や二年じゃとても間に合わない。
この街はもう十年前くらいから作られ始めたらしいから、少なくともそれ以前から使徒の襲来を予測していたことになる。
どうしてそんなことが可能だったのか僕には分からない。
けど。
「……でも、やっぱり心配だよ。正直、綾波にはもうあれに乗って欲しくない」
それが、本心。
もう、綾波に傷付くのを見るのは嫌だった。
「……ネルフがサポートしてくれるから……私は、大丈夫」
そう言うが、綾波はまったく大丈夫そうな顔をしていなかった。
まるで、その小さな背中に全ての責任を背負ったような──そんな表情。
「でも……綾波は、それでいいの?兵隊でも大人でもないのに、自分が怪我してまで戦わされないといけないなんて……」
「仕方ないの。もう、エヴァに乗られるのは私だけだから」
"もう"。
それが意味することを、僕は理解することが出来なかった。
そして、どうして綾波が、悲しそうに俯いてしまったのかを。
そして、少し間を置いて顔を上げた綾波は。
「……皆に生きていて欲しいから……碇くんに、生きていて欲しいから。私は、エヴァに乗るわ」
そう、力強く決意を秘めた目で、言った。
見上げた空は、真っ黒い雲に覆われていた。
何か背中に冷たい雫が落ちたような、そんな寒さを感じた。
「雨、降りそうだね……」
「……そうね」
「……早く帰ろっか」
「……うん」
急に吹いた冷たい風が僕達を包み、綾波の髪がなびいた。
ぐしゃぐしゃになった髪を手で抑え、綾波は不器用に口の端を上げて、笑った。
+続く+
◆FUKIさんへの感想・メッセージはこちらのページから◆
■BACK
|