壊れ始めた世界。

壊れ始めた日常。



僕にはどうすることも出来ない現実。




















蛹の夢:人の業




















全ての景色がモノクロになり、動きが止まって見えた。

音も、空気を伝わらない、絶対的静寂。

自分の鼓動しか感じられなかった。

隣でトウジが何かを言っていたようだったけど、それが頭に届いて来ることはない。

少女が乗せられた救急車が発進し、点灯したライトの光が見えなくなるまでそれを目で追う。



おかしい。

辻褄が合わなかった。

あの時、先生は確かに、綾波から連絡があったと言っていた。

だから、綾波がこんな所に居て、救急車で運ばれなければいけないような事態になることは、考えられなかった。

けれど。

あの少女は、間違いなく綾波だった。




















「──これに懲りたなら、もう二度とシェルターから出ないことね」

「……」

助手席に座る僕に、葛城さんは笑顔で話し掛ける。

「……殴られたのを気にしているのなら、謝るわ。あの人達はちょっと気に入らなかったらすぐ暴力に走るから」

窓ガラスに反射された自分の左頬は、赤く膨れ上がっていた。

それを見る度に、あの男の怒りで真っ赤になった顔と飛んできた右手の動きが、スローモーションで蘇る。

けれど。

「……そんなのじゃ、ありませんよ」

「そう?……ま、元気出してよ」

僕は、会話に乗らずに窓の外ばかりを眺めていた。

遠くに見える街にはすでに明かりが戻っており、先程見た街とは雰囲気がかけ離れていた。

そして、どうして今自分が、葛城さんの車に乗っているのかを思い出す。



──あれから。

呆然と立ち尽くしていた僕は、後ろから聞えてきた声で、我に返った。

振り向くと、そこには防護服を着た男が二人立っていて。

彼等が慌てて呼び寄せたネルフの車に乗せられて、ジオフロントのネルフ本部まで連れて来られて。

二時間に渡って、怖そうな黒服の男にがみがみと説教を食らった。

その時も、男の言っていることは全く頭に入らなかった。

その態度が、僕が更生する気がないと取られてしまったのだろう。

僕は、男に全力で殴られた。

今は痛みは引いたが、腫れは一向に治る気配を見せない。

殴られた瞬間の痛みを感じることで、現実の世界に戻って来られたというのもあったが、それでもまだ綾波のことを考えていた。

そして、説教が終わり、三人でとぼとぼと出口に向いて歩いて。

帰り道が逆方向なので、ゲートの前で気まずいまま二人と別れた。

「じゃあ、また明日な」と、ケンスケは言ってくれたけど、僕は曖昧にそれに答えることしか出来なかった。

トウジもトウジで何か考え込んでいる様子だったし、ケンスケにはすごく不快な思いをさせてしまったと思う。

歩き出した二人の姿が見えなくなるまで、僕はゲートの前で佇んでいた。

帰り道への一歩が踏み出せない。

何をしていいのか、分からなかったから。

家に帰っても、きっと綾波は、居ないから。

しばらくそこで、僕は石段に腰掛けて、頭の中を整理しようとした。

一つは、綾波だ。

どうしてあんな所に居て、そして救急車で運ばれなくてはいけない事態になったのかは、僕には分からない。

けれど、他のことは、予想出来る。

綾波があそこに居た理由に、ネルフが関わっているということ。

……そして、僕に言おうとしなかった、実験とも。

考え過ぎかも知れなかったが、決して良い予感はしなかった。

今、何処に居るのだろうか。

救急車で運ばれたということは、恐らく何処かの病院に居るはずだった。

大丈夫なのだろうか?

今すぐにでも会いに行きたかったけど、どうしていいのか分からない。

心配すれば心配するほど空回りして余計に心が掻き毟られる。

この綾波の行方が分からないという状況を打破する方法が、分からなかった。

そして、もう一つ。

僕の心に引っかかっていたことは、トウジの妹さんのことだった。

無事に、家に帰ることが出来たのだろうか?

トウジと、家族と再会することが出来たのだろうか?

僕に出来ることはなかったけれど、心配せずにはいられなかった。



そうやって、同じことをうじうじと考え回していていた僕は、突然の眩しさに手の平で顔を隠し、何が起こったのかを理解しようとする。

少しの間は眩しすぎて何も見えなかったが、目を細めているうちに何かが僕に近付いて来ているのが分かった。

左手から現れた青い車が減速し僕の目の前で停まり、その中に見覚えのある顔が、一つ。

「シンジ君?何してるの、こんな所で」

それが、葛城さんだった。

車から降りて、四ヶ月ぶりに僕の顔を見た葛城さんは、いつにも増して笑顔で声を掛けて来た。

「……どうかしたの?」

「……別に」

僕の顔を覗き込むように見て、言う。

もう十二時を回っていただろうか、そんな時間に一人でゲートの前で座っていた僕を不審に思ったのだろう。

葛城さんは少し首を捻ったが、すぐに元の笑顔に戻って。

「……ま、いいわ。私は家に帰るけど、途中までなら乗っけて行けるけど?」

「……」

言葉に詰まり、葛城さんから顔を背けてしまう。

帰って、何をするって言うんだろう。

綾波の帰りを、待つのか?

急に襲って来る、孤独感。

世界に自分しかいない感覚。



けれど、断る確かな理由も、僕にはなかった。



僕は、空っぽだった。





















「それで、どうしてシェルターから出たりしたの?」

先に見える信号が赤に変わるのを確認した葛城さんは、車のスピードを落とした。

ゆっくりと減速し、歩道のラインぎりぎりで停車する。

「……友達の妹が、行方不明になって。それで、捜しに」

トウジの心配そうな表情がリフレインし、胸が締め付けられそうになる。

「それで、見つかったの?妹さんは」

「……まだ、だと思います」

葛城さんはバックミラーを一瞬見たが、すぐに信号に視線を戻した。

「……そう」

それは、何かを含んだ表情だった。

葛城さんに気付かれないように、横目で後部座席を見る。

そこには、仕事の資料のようなものが、山積みされてあるだけだった。

葛城さんは深く溜息をつき、ハンドルにもたれ掛かるようにして、俯いた。

「あー、もう本当に今日は忙しかったわ」

僕に対して言っているのか、独り言なのか一瞬考え、僕はそれを無視することにした。

この人と居ると、何故か疲れる。

僕がネルフを見学して回った時もそうだった。

僕に付き添ってくれた葛城さんは、必要以上に親しみを込めて接してきた。

その時はそこまで感じなかったけれど、今は誰とも話したくない、そんな気分だったから鬱陶しくさえ感じられた。

「明日も朝早いし……ま、仕事柄仕方ないけどね」

僕の反応を待ったが返ってこなかったのを気にする様子はなく、続けた。





「でも、今日はレイも頑張ってくれたし。明日にも退院出来るそうだし、本当に良かったわ」





「……!」



声にならない、声。

クーラーの掛かった車内なのにも関わらず、背中から汗が噴出したような感覚。

綾波の名前、それを他人の口から聞いただけで、何か得体の知れない物が胸の中で暴れ始める。



今まで、葛城さんが綾波の行方を知っているという確証は、なかった。

それは僕が葛城さんの仕事が何であるかを知らなかったし、それが綾波と関わりがあるかが分からなかったから。

だから、聞くことが出来なかった。

けれど。



──葛城さんは、綾波のことを知っている?



「ん?どうかしたの?」

「綾波が頑張ったって……退院出来るって、どういうことですか」

喉に唾が引っかかって気持ち悪さを感じる。

「……今、綾波が何処に居るか、知ってるんですか?」

僕の顔は、きっとおかしいことになっていたのだろう。

葛城さんは不審そうな顔をした。

「……ええ、勿論知ってるけど」

「何処ですか!?教えて下さい!!」

思わず声を張り上げて叫んでしまうが、そんなことを気にしている余裕はなかった。

身を乗り出して葛城さんの瞳を凝視する。

「……ちょ、ちょっとシンジ君」

葛城さんは、顔を歪ませて、自分の右肩に視線をやった。

「……あ」

瞬間的に身を仰け反らせる。

僕は、自分で気付かないうちに、ものすごい力で葛城さんの肩を掴んでいた。

「……すいません、つい」

「い、いいのよ。気にしないで」

呼吸を整えるように、深く息を吸い、吐く。

あまりにも動転しすぎて。

鏡に映った自分の険しい表情を見て、それを元に戻そうとするが、なかなか上手くいかない。

葛城さんは、右手で肩を摩った。

「え、シンジ君、知らないの?私はてっきり知ってるものかと……」

後ろの車がクラクションをけたたましく鳴らす。

信号はとっくの昔に青になっていたけれど。

葛城さんはそれを全く気にする様子はなかった。

「……綾波は、何処に居るんですか……?」





葛城さんは、後部座席に置いてあったバッグを漁って、携帯電話を取り出した。



































「ちょっとリツコ、どういうことよ?……あんたまさか、まだ話してなかったの?」

「……ええ」

ジオフロントに引き返して、電話で呼び寄せた赤木さんは、疲れきった顔をしていた。

手には数冊のバインダー。

帰宅するつもりだったのだろうか、服装はいつもの白衣とは違う、ラフなものになっていた。

「……いつか言おうとは思ったんだけど」

「自分から言うって言ったのは誰よ?これで傷付くのは、レイなのよ」

「……分かってるわ。シンジ君、案内するわ。着いて来て」

そう言い、僕を見ようとせずに歩き始める。

赤木さんは僕がいつも使っていた……綾波が入院していた病院へ直行のエスカレーターに乗り、僕と葛城さんもそれに続く。

そして躊躇うかのように何度も僕を見ては視線を落とすという動作を繰り返し……口を開いた。



「シンジ君、今までレイのことを話さなくて、ごめんなさい」

「……そんなの、どうでもいいですよ。どうして綾波があんな所に居たんですか」

「……レイを、見たの?」

「シェルターから抜け出した時に。何か変な物の中から救出されるのを」

「……それなら、話は早いわ」



「レイはね、エヴァ……あのロボットに乗って、使徒と呼ばれる敵と戦っているの」








一瞬の静寂。

「……僕は真面目に話をしているんですけど」

「本当よ」

赤木さんの目は揺らがない。

「そんなこと信じられるわけないじゃないですか」

「信じるも信じないも貴方の勝手だけど、事実なの」



どうして、この人はこんなふざけたことを、真剣に言えるのだろう。

在り得る筈がなかった。

ロボットに、敵?

……それのパイロットが、綾波?



「証拠が欲しいのなら、私の権限で戦闘の映像を見せることも出来るわ」

「……いいですよ、そんなの」

「……まあ、信じろっていう方が無茶よね」

葛城さんが後ろで溜息を吐きながら言った。



信じられない。

信じたくない。

「……それに、使徒って何なんですか。兵器の名前ですか?」

「だから、見てもらえれば分かるわ。写真ならここにあるわ」

そう言って赤木さんは、一冊のバインダーを開き、ページをパラパラと捲る。

そして、あるページで手の動きは止まった。

「こっちのがレイが乗っていたエヴァよ。そして反対のが、使徒」

僕の目の前に差し出し、嫌でも目の中にそれは入ってきた。

その写真には、ロングショットで相対する黄色い巨人と、黒の異形の姿があった。

そして、そのエヴァと言うロボットは、僕が見たモノと同じだった。

「これで、信じてくれたかしら」

「……」

馬鹿げている。

アニメや特撮でない限り、こんなこと在り得ない。

でも。

綾波があれに乗っていたのは、間違いなく事実だった。








エスカレーターは頂点に達し、視界の奥には病院が入る。

「……部屋を教えてください。一人で行きます」

「……前と同じ、十三階の部屋よ。あそこはレイ専用だから」

「分かりました。葛城さん、わざわざ退き返させてすみませんでした」

「え、ええ……いいのよ」

「正面からは入られないから、裏に回って。私の名前、使っていいから」

「ありがとうございました。それでは」

軽く頭を下げ、病院に向って早歩きで進む。

「シンジ君!!」

赤木さんの声に足を止めるが、決して振り返りはしない。

「……レイに伝えてくれないかしら?……あなた一人に頼ることしか出来ない大人を許して、って」

「言いませんよ。自分で言ったらどうですか?」

僕は、逃げるように走り出した。




















深夜の病院は冷たく、そして静かだった。

僕の足音だけが空間に響き渡り、寝ている病人を起こしてはいけないと忍び足で進む。

一ヶ月前まで毎日これを繰り返していた自分は、道化だったのだろうか?

父さんに呼び出されて。

綾波が心を開くように、一生懸命接して。

一緒に暮らすようになって。

綾波が、ネルフの実験を再開して。

そして、再びこの先の病室に、向っている。

混乱。

その言葉が相応しかった。

何を信じればいいのか?

この目の前にあるドアの先に、綾波は居る。

僕は、どんな顔で綾波と会えばいいのだろうか。

無事を祝う、笑顔?

それとも、悲しみ?

そんな器用なことが出来るわけがなかったし、どれも本心ではなかった。

もっと、色々な想いが入り混じった、言葉では言い表せない感情。

ただ、これだけは、確かだった。

"安心"。










本来ならノックをしないといけなかったが、音を立ててはいけないと思い、躊躇いつつもドアノブに力を入れる。

「……綾波、入るよ」

小声で言うが返事はない。

ゆっくりと引いたつもりのドアでも、きしきしと静かな病棟に響き渡る。

部屋の中に一歩、踏み込んだ。




















ベッドで安らかな寝息を立てている少女。

ドアのすぐ横に立て掛けてあったパイプ椅子を手に取って、ベッドの傍に腰掛ける。

カーテンの隙間から差し込む月明かりに映し出された綾波の顔は、いつも通りだった。

頭に痛々しく血が滲んでいる包帯が巻かれてあることを、除けば。

急に戻ってきた、頬の疼きと切れた口腔内の血の味。

けれど、そんなことはもうどうでも良かった。

包帯が巻かれた左手に、そっと自分の右手を重ねる。

ふれた瞬間、僕の手に伝わってくる、綾波の体温。

それは、悲しい程に冷たかった。










零れ落ちた"それ"は飛び散り、シーツに染みを作った。


















+続く+







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