蛹の夢:日常の歪み




















小鳥のさえずりで、僕はさわやかな朝を……迎えなかった。

頭がひどく重たい。

そして、いつもと違う目覚めの風景。

目を覚ますと、僕はリビングで寝ていた。

寝起きでしっかりしない頭を強引に覚醒させ、何故こんなことになったのかを思い出す。

「……そっか」

綾波だ。





昨日の夜、食事の後の出来事。

僕は綾波に風呂に入ることを勧めて、その間にお皿を洗っていた。

綾波は風呂から上がると、下着姿のままで歩き回った。

僕は目を伏せながら何故服を着ないのか聞くと、昔からそういう習慣だったらしくて。

でも冷静に考えてみると、綾波は寝巻きを持っていなかった。

だから僕は、綾波にパジャマを貸して。

「パジャマも、買いに行かないといけないね」

「……うん」

なんてやり取りを交わした。

お皿を洗い終わり、米を磨いで炊いて。

綾波に、洗面台の物置にある、まだ開けていない新しい歯ブラシを使ってくれと言って。

風呂に入ろうと思って、風呂場に行って。

直前に綾波が入っていたことを思い出して、何故か顔を赤くして、湯船につかった。

のぼせそうになりなりつつ風呂から上がると、綾波は椅子に座ってテレビを見ていた。

テレビでは、僕も好きなバラエティ番組をやっていて。

「綾波、この番組いつも見るの?」

「いえ、初めて」

綾波によると、あまりテレビは見たことがなかったらしい。

そういえば、綾波の家にテレビの姿はなかったような気がする。

本当に、どんな人生歩んできたんだ?

食い入るように見る綾波を見つめながら、思った。

そのバラエティー番組に、綾波は笑うことはなかったが。



時間は確実に過ぎていく。

番組は終わり、エンドテロップがテーマ曲と共に流れていた。

時計は、十一時前を示していた。

「綾波、まだ見る?」

「……もう、いいわ」

綾波はいつものように表情を変えずに言う。

リモコンでテレビの電源を切り、静かになった部屋で下を向いて少し考える。

──もう、寝るか?

綾波は今日退院したのだ。そんなに早くもないが、もう寝てもいい頃だろう。

でも、そうしたら、何処で寝る?

……綾波は、僕のベッドで寝る。

僕はここで毛布一枚で寝る。

これで、いいだろう。

「綾波は、明日どうする?」

視線を綾波に戻し、聞く。

「……どう、って?」

「学校に行ける?まだだったら、僕も休むけど」

肉体的には、問題ない。

ただ、精神的にどうなのか、僕には分からなかった。

そこは、綾波の判断に任せるしかなかった。

「……行くわ」

綾波は少し間を取って答えた。

「そっか、じゃあもう寝ないとね」

立ち上がり、自分の部屋に向う。

押し入れを開け、予備の毛布を取り出す。

一人暮らしの僕の家には、トウジとケンスケがよく泊まりに来る。

まあ、夜来て遊んで、僕は綾波の病院に行かなくてはならなかったから朝早く帰っていったけど。

だから、予備とはいっても結構使っていた。

リビングに戻り、毛布を床に下ろす。

「綾波は、とりあえず僕の部屋で寝てよ」

「……碇くんは?」

「僕はここで寝るよ」

「どうして?」

「えっ……ベッドは一つしかないし、それは綾波が使うだろ?だから」

「……碇くんのベッドを碇くんが使わないの?」

「……今日はね。でも、そうか……綾波はどうする?綾波の家にあるベッド、持って来る?」

僕がそう言うと、綾波は下を向いた。

そして、すごく弱気な声で、言った。

「あそこには、戻りたくない」

「え?」

「……」

綾波が何を訴えかけているのかは分からなかったが、多分古いのは使いたくないということだろう。

そう勝手に解釈する。

「じゃあ、ベッドも買わないといけないか」

なんだか、自分で思っている以上に、同居人が増えるってのは大変なのかも知れない。

綾波が使う部屋の問題はすぐに解決する。今、使っていない部屋があるからだ。

このアパートは父さんが勝手に手配したものだから、無駄に広い。

家賃ももちろん父さんが出しているが、何で自分の金銭的な負担を増やしてまでこんな広い部屋を借りているのだろうか?

ひょっとして、初めから、こうなることを予定していたのではないだろうか?

……まさか、ね。

「明日は早いし、綾波は今日退院して疲れてるでしょ?だから、もう寝ようよ」

そう言って、綾波を部屋まで連れて行って。

色々まずいものは片付けておいたし、大丈夫だろう。

綾波におやすみと言い、ドアを閉めた。





あの時点で、僕は七時間は眠れたはずなのに、何故こんなに眠たいのだろうか?

時計を見る。

六時半。

いつも、起きる時間だった。





あの後、僕は電気を消して床に寝そべって。

毛布を頭からかぶった。

僕も、精神的に疲れていたのだ。

色々なことがありすぎて、全てを忘れて眠りたい気分だった。

だが、眠れない。

隣の部屋にいる綾波のことが頭から離れない。

もう眠ったのだろうか?

物音一つ聞えてこないのが、逆に心配になってくる。

何度も寝返りをうち、体位を変えてみたりしたが、一向に眠くなる気配はなかった。



それを延々、四時間。

結局、睡眠時間は三時間。

疲労は、逆に溜まったような気がする。

重たい体に鞭うって立ち上がり、洗面台へ向う。

蛇口を捻り、流れ出る冷水をすくい、顔を洗う。

冷水は、少しは眠気とローテンションを回復させるのに役に立った。

……綾波は、まだ起こさなくていいよな。

ここから学校までは、普通に歩いてニ十分掛かるか掛からないか、といったところだったから、七時半に起こしても十分間に合うだろう。

それまでにしなくてはいけないこと。

朝食を作る。

これはいつもやっているから、一人分も二人分も変わらないだろう。

……昼飯は、どうする?

僕はパンでも良かったが、綾波はどうだろう。

今まで綾波は、弁当だったのだろうか?

僕が勝手に作ったりしたら、お節介ではないだろうか?

でも、そんなこと考え始めたらきりがなかった。

今日は仕方ないから、弁当を作ろう。

その後、どうするか聞いてみよう。



さっぱりした頭で居間へ行き、準備してある制服に身を通す。

その上からエプロンを着て、台所に向かい、冷蔵庫から冷凍食品を取り出す。

料理は気持ちが大切なのだ。

冷凍してあったか、なかったかは関係ないだろう、この際。

二人分を調理し、さあ弁当箱に詰め込もうと思った時。

僕はとんでもないことに気が付いた。



……うちに弁当箱、二つあったっけ?




















「……弁当箱一つしかないのに、二人分作っちゃったよ」

「そう」

朝日がまぶしい、学校への道。

僕の隣を歩く綾波。

結局、弁当箱は綾波に渡して、僕はコンビニで買ったパンを食べることになって。

残りは冷蔵庫に入れて僕の夕食にすることにした。

綾波は七時半、僕が起こしに行った時には、すでに起きていた。

ベッドから、何もない天井を見上げていた。

おはよう、と言うと身を起こして、戸惑いながらおはよう、と返してくれた。

準備した朝食を一緒に食べて、家を出たのは七時五十五分。

余裕で間に合う時間だった。

綾波の学校復帰一日目だったので色々心配したが、気にしすぎだったようで良かった。

……けど。

学校に近づくにつれ、段々と人々、主には同じ中学校の生徒の視線を感じるようになってきていた。

綾波は進級する直前に入院したので、今の一年生は綾波のことを知らないのだろう。

だから、興味本位で、変わった風貌の綾波を見る。

綾波はその視線に気付いていないのか無視しているのか、いつも通りの無表情で歩き続ける。

こっちに来て間もない頃、父さんに聞いたことがある。

綾波の髪と瞳の色について。

生まれ持ったそれは、美しいが同時に奇異の目にさらされる運命にあった。

綾波はそれについて全く気にしている様子はないけど。

まあ、本人が気にしてないのに、僕が気にしてもしかたがなかったけど。

「……」

「……」

沈黙。

僕は上手い話題を見つけることが出来ず、話すタイミングを失ってしまった。

こういう時、綾波から何か振ってくれれば、会話も弾むのに。

一人で歩くのに黙っているのは普通だけど、二人で歩くのに黙っているのはかなり辛い。

綾波はそれでもいいのかも知れないが、僕にはきつい。

必死になって、何か言う事を探す。

けど、思いつくのは、どれも下らないことばかり。

中学生にそんなに高尚な話題があるはずもないが、何を言っても綾波は乗ってこない。

僕の話し掛け方が悪いのだろうか?

もっと、綾波と話したいのに。

綾波のことをもっと知りたいのに。






角を曲がると、遠くに学校が見えた。










ホームルームが始まる五分前。

教室のドアを開け、僕に続いて綾波が入る。

皆の視線が集中するのを感じた。

「……綾波さん?」

「あの子が、綾波さん?」

そんな声がちらほら聞える。

そういえば綾波は二年生になって、今日が初めて学校に来た日になる。

だからクラスメイトと顔を合わせるのも初めてになる。

洞木さんは一年の時同じクラスだったから、例外だけど。

洞木さんは……いた。

こちらを見てびっくりした表情をしている。

「綾波さん?退院したの?」

立ち上がってこちらに小走りで近づいて来る。

綾波は、小さく頷く。

「良かった、三ヶ月も休んでたから心配したわ」

そう言って優しく笑う。

教室には、まだ空席が目立つ。

このクラスは席替えというものがないから、席順は出席番号順だ。

僕は出席番号三番、そして綾波は二番。

その前の席にはケンスケが座るが、まだ来ていなかった。

綾波は教室を見渡して、何かを考えているようだった。

洞木さんはすぐに理解して。

「ああ、綾波さんの席は、窓側の前から二番目の席よ。碇君の前の席……って」

洞木さんはそこでようやく僕の存在に気付いたのか、机を指差したままでこちらを向いた。

「どうしたの、碇君」

洞木さんが不審がるのも当然だった。

僕と綾波の関係を知らなければ、どうして僕が綾波の隣に突っ立っているか理解出来ないだろう。

「ありがとう洞木さん。さ、綾波、行こう?」

僕は丁寧に礼をして綾波を連れて席へ向う。

洞木さんは何がおこっているのか理解できていないような様子でこっちを見ていた。

後で、いや今説明した方がよかっただろうか?

……でも、綾波は、僕との関係を知られることを、どう思うだろうか?

「ねえ、綾波」

机の横に鞄を掛けて、綾波は椅子に座る。

「……なに?」

「……洞木さんに聞かれたら、僕と綾波が知り合いだってこと、言っていい?」

一緒に住んでいることは内緒にするから、と付け加えて、綾波の反応を待つ。

「かまわないわ」

表情を変えることなく、即答。

綾波は肘をついて窓の外を眺め始めた。

まあ、僕から進んで言う必要もないし、聞かれたら答える、これでいいだろう。

というか、こうやって普通に話している時点で、知り合いだってことは、洞木さんからしてみたら一目瞭然だろう。

それに、事情を分かってもらえたら、洞木さんは力になってくれると思う。

適当な言い訳を考えよう。

そんなことを考えていたら。

教室の後ろから、乱暴にドアが開く音が聞えた。

このドアの開け方は、恐らく、彼だ。

そのジャージ姿の少年は眼鏡の少年と会話しながら教室に入ってきた。

「それ、ほんまかいな?」

「マジだって。だってあの後……ん?」

「……ん?」

ケンスケが足を止めこちらを凝視し、トウジもそれにつられてこちらを見る。

五秒ほど静止して。

トウジは自分の席に荷物を置きに行き、ケンスケは席に座るためにこちらへ来る。

「おはようシンジ」

そう言うケンスケの視線は完全に綾波の方を向いている。

「おはよう」

ケンスケは自分の席について、鞄を下ろす。

それとほとんど同時に、ホームルームの開始のチャイムが鳴った。

外に出ていたクラスメイトも急いで入ってきて、自分の席に座る。

騒がしくなる教室。

しばらくしてクラスの担任が教室に入って来た。

手には出席簿とプリントの束を持っている。

そして、いつも空席のはずの席に、綾波が座っていることを確認して。

こちらへ歩み寄ってきた。

「話は、聞いています。三ヶ月の遅れは取り戻すのは厳しいと思いますが、頑張って追いついて下さい」

そう言って、優しい笑顔を残して教卓へ戻って行く。

「洞木さん、号令をお願いします」

先生は名指しで洞木さんを呼んだ。

このクラスに学級委員はもちろん男子もいるのだが、何故か挨拶など仕事は洞木さんがほとんどやっていた。

信頼されている証なのだろうか。

「姿勢!」

それほど大きい声ではなかったが、静まり返っていた教室に響き渡るには十分だった。

中には姿勢を正す人もいれば正さない人もいる。

僕は……その中間だろうか。

「礼!」

これも頭を下げる人もいれば少ししか下げない人もいる。

「おはようございます」

先生は下がっていた眼鏡を直しながら、ペンを持って出席簿を開く。

今日は欠席は一人もいないのでその作業はすぐに終わり、教室を見回して、口を開いた。

「……皆さんも既にお分かりの通り、今日から一緒に勉強する仲間が増えます」

僕は綾波を見る。

綾波は微動だにしない。

「綾波さんは入院していて、まだこのクラスのことを知らないと思いますし、勉強も分からないところがあるかと思います。だから、皆さんが色々教えてあげて下さい」

老教師はそう言うと、綾波に目を向けた。

「……一応、自己紹介、しますか?」

綾波は、少し考えて。

「いいです」

先生は、拍子抜けしたような表情をして。

「……そうですか。では、ホームルームを終わります」

そう言って、体を綾波の方から、クラスを正面から見据える位置に戻した。

「姿勢!礼!」

先生は軽く頭を下げて、すたすたと教室から出て行ってしまった。

はじかれたように騒がしくなるクラス。

だが、綾波のところへ来る人はいない。

洞木さんは、綾波の方をちらちらと気にしているようだが、友達が集まってきていたので動けないのだろうか。

しばらくすると、そっちに集中して、談笑し始めた。

「おはようさん、シンジ」

後ろから声を掛けられ、振り返るとトウジが立っていた。

「あ、おはようトウジ」

ケンスケも席から立ち上がって、僕達の方へやって来た。

「昨日のテレビ、見た?」

「せや、ワシら学校来る時にその話しとったんや」

トウジとケンスケの言う、テレビ番組とは、昨日の夜綾波と一緒に見たバラエティー番組のことだった。

「うん……見たよ。笑っちゃったよ」

トウジ達と会話するが、心は完全に綾波の方を向いていた。

相変わらず我関せず、といった感じで窓の外を眺めている。

色々な、複雑な感情が渦巻く。

……でも。

それは、トウジも一緒だった。

僕達の会話が途切れた瞬間を狙って。

「……そうや、自己紹介しようと思っとったんや」

そう、さも思い出したかのようなふりをして、綾波の目の前に歩み出て。

「ワシは、鈴原トウジや。綾波さん、これからよろしゅうな」

そう言って、笑顔で手を差し伸べる。

綾波は、はっとなって、トウジの方を見る。

差し出された右手は、綾波の右手を求めていた。



トウジは、真っ先に誰とでも仲良くなる人間だった。

その理由は、トウジ自身も、こっちの小学校に転校してきてなかなか上手くいかなかったことによる反動らしい。

変な日本語を話すトウジと、普通に接しようとしたのは、ケンスケだけだった。

そしてケンスケと仲良くやっているうちに、だんだんクラスにも馴染んでいけたのだそうだ。

だから、トウジは転校生に、誰よりも真っ先に話し掛ける。

綾波は転校生ではないが、ほとんどの人にとってはそれと同質の存在だろう。

……でも。

「うちのクラスの綾波っていう女子は、誰とも仲良くしようとしない」という噂が、クラス内で広まっていた。

いつまで経っても学校にやって来ない綾波に、先入観を持ってしまっていた。

そして、今さっきの、自己紹介を断ったという、目の前で起こった事実。

噂は本当だった、と確信させるには十分だったのだろう。

そんな中でも、トウジは積極的に、綾波とコンタクトしようとした。

かつての自分がだぶって見えたのか、そうではないのかは分からないが。

でも、そんなトウジを見ていると、何故か心が温かくなる。

そんなトウジの行動に、つられるようにケンスケも。

「俺は、相田ケンスケ。席が前だから、覚えてもらえるとうれしいな」

少し照れながら、言う。

僕は、そんな彼等と友達になれて、本当によかったと思う。

そもそも、僕が転校して来た時も、こんな感じで仲良くなったんだ。

あの時も、トウジは笑顔で手を差し伸べてくれて。

僕は戸惑いながら、その手を握り返した。

誰とでも仲良く出来るから、トウジには友達もたくさんいるし、男女問わずに好かれるんだろう。

僕は、その場の成り行きを微笑んで見ていた。

多分、皆も、興味を持ってこちらを見ていた。



──けど。

綾波は、一瞬トウジとケンスケの顔を交互に見て。

そして、何もなかったかのように、視線を外へ戻してしまった。



差し伸べられた手は、何を掴むこともなかった。





「……なんやぁ、機嫌悪かったんかいな?……ま、よろしゅうな」

トウジは手を下ろしてそのままポケットに突っ込んで、自分の席へ戻っていってしまった。

ケンスケもトウジが去ってしまったのと、綾波に無視されたかと思ったのだろう、ひどくオロオロしていて。

うやむやのまま、席に座った。



──まずい。



綾波は悪くない。

一部の人間を除き、他人と接することにまだ慣れていないのだ。

トウジは無視されたくらいで怒ったり、人を嫌いになったりはしない。

が、クラス中に良くない印象を与えてしまったのは確かだった。

クラスを、ぐるりと見回す。

いつも通り、賑やかではあるが、どこかぎこちない雰囲気を感じた。

そして、その雰囲気を作り出したのは。

綾波だ。







僕は、綾波に話し掛けることが出来なかった。
















いつもとほとんど変わらない授業。

唯一違うのは、綾波が僕の前に座っているということ。

綾波はディスプレイに視線を向けず、外ばかり眺めている。

……僕もディスプレイを見ずに綾波ばかり見ている。

いけない、と思い視線を戻すと、メール受信のランプが点灯していた。

送信者は、洞木さんだった。

思わず洞木さんの方を振り返ると、何か含んだ表情をしていた。

メールを開く。

そこには、一行のメッセージ。



[綾波さんと知り合いなの?]



……。

どう返信するか少し考えて、授業中なので音を立てないように打ち込む。



[うん。綾波が入院してた時に仲良くなったんだ]



シミュレーションしていた答え。

それは紛れもない事実だし、角が立たないように気をつけたつもりだった。

送信し、これで説明も大丈夫だろうと安心して気を緩める。

けど、頭の中には綾波関連のことでいっぱいだった。

……トウジとケンスケには、僕から謝るか?

「綾波は、まだ事故の後遺症で、他人と上手く付き合えないんだ」と。

トウジは笑って許してくれるだろうし、ケンスケも大丈夫だろう。

……でも、結果的には二人を無視した、という事実は、皆の記憶に残される。

……洞木さんが、綾波のことを理解してくれているから、助けてもらうのがいいかも知れない。

事情を説明すれば、皆も分かってくれるはずだ。

でも。



綾波は、皆と仲良くなりたいと思っているのだろうか?

他人との間に壁を作ってしまうのが、自分から望んだことだったとしたら。



僕が心配することは、綾波にとっては迷惑なのではないか?











授業は僕の心配事をよそに進んでいく。

午後になろうかとしている、太陽が真上に来る時間帯。

クーラーを経費節減で使用禁止している午前中は、死ぬほど暑い。

だから窓も扉も全開にしているから、外の音も全て聞えてくる。

窓の外には年中変わらない光景が広がっていた。

今は七月。セカンドインパクトがなくても夏だが、何故か蝉は毎年この時期によく鳴く。

校庭のあの大きな木にも雌を求める雄がいるのだろう、教室にまでその声は聞えてくる。

……一年中、よくやるよ。

季節の変化がなくなったせいで、かなりの蝉は飛び立つ時期を勘違いするらしい。

だから今鳴いている蝉は、本能的に今が夏だということを分かっているのだろう。

でも、たった二週間しか飛び回れない。

その二週間のために、それ以上の長い長い年月を土の中で生きる。

彼等は、生まれてきて幸せだったのだろうか?

暗い土の中で飛び立つことを夢見て、ひたすら耐えて。

やっと眩しい世界が広がったと思ったら、一瞬で燃え尽きる。

あくまでも今のは僕の主観だが、同時にこうも思う。

彼等は、果たして蝉として生まれたかったのだろうか、と。





視点の定まらないまま外を見ていた僕の視界に入ってきた、赤い光。

ランプの点滅に意識は急速に引き戻される。

また、メール?

洞木さんからだった。

まだ何かあるのか……?

恐る恐る展開する。



[どうして仲良くなったの?]



……色んな意味で、洞木さんはすごいと思う。

悪い言い方をすれば、ズケズケと平気で他人に踏み込んでくる、そんな感じ。

でも、その遠慮なく他人と接しようとする態度だったから、綾波とも普通に接することが出来たんだと思う。

でもなぁ。

これは、どう答えればいいだろうか?

しばらく画面とにらめっこをして捻り出した答えを、キーボードで入力する。



[僕が風邪ひいて、綾波が入院してた病院に診てもらいに行った時に出会]



そこまで入力して、バックスペースを押す。

……どうしよう?

本当のことは教えられない。ネルフの金髪のお姉さんに、口止めされているからだ。

なんでも、綾波の協力していた実験は相当重要らしくて、その情報が外に漏れると綾波の身が危ないとか。

そんなわけの分からないことにどうして中学生が関わっているのか聞いたが、答えてはくれなかった。

……だから、綾波がネルフと関わりがあるということは、誰にも言ってはならないことだった。

でも、そうしたら、どうすればいいのだろう?

嘘をつくのは構わないが、これは僕だけの問題ではない、綾波と僕の問題だ。

僕がついた嘘のせいで色々面倒なことになったりしたら、綾波に申し訳が立たない。



しばらく書いては消し、書いては消して適当な答えを考えたが、結局思いつかず。

逃げるしかなかった。



[また今度説明します]



送信し、反応を待つ。

このメールで綾波とのことを打ち明けて、理解を求めることも出来た。

けど、考えがまとまらないうちは、うかつに行動したくはなかった。





洞木さんはそれ以上メールを送ってくることはなかった。












授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。

昼休憩の時間になった。

それまで机に突っ伏して寝ていた生徒達も起き上がり、仲間で集まって弁当を広げている。

トウジとケンスケも二人で集まって僕のところへやって来た。

「シンジ、パン買いに行こうぜ」

僕とトウジとケンスケは、皆母親がいないので、普段は購買でパンを買っている。

だから、その誘いもいつも通りのものだった。

──けど。

綾波の方を見る。

何もない空間を見つめる、虚ろな赤い瞳。





──僕は。

「……ごめん、トウジ。ケンスケ。今日は、ちょっと無理」

「へっ?」

僕は立ち上がって。

「綾波、一緒に食べよう?」

綾波は僕に視線を向け、あっけにとられた表情をしている。

「……?」

「屋上でさ」

せかすように言って、僕は鞄からコンビニの袋を取り出す。

綾波は状況に混乱しているようで。

「弁当持って、行こう?」

そう言うと、慌てて鞄から弁当の袋を取り出した。

トウジとケンスケは開いた口が塞がっていない。

「……ごめん、後で説明するから」

「お……おお、そうか。ケンスケ、シンジは色々あるらしいけえ、二人で行こか」

「……う、うん」

そう言い、二人は気まずい笑顔を残して教室を出て行った。

「……ごめん」

その場からいなくなった友に向って、呟く。

クラス全員が固唾を飲んで、僕達を見ているのを感じた。

「……行こう」

振り返らず、歩き出す。

綾波も僕に続いた。












外に出ると、風が気持ちよく吹いていた。

でも太陽の日差しがかなり強く、皮膚がちりちりと痛い。

周りを見回すと、ニ、三組の生徒があちらこちらですでに食事をしていた。

僕は日陰を探し、そこへ移動する。

「綾波、ここらへんに座る?」

綾波は無言で頷く。

「……暑いね」

「……」

何も言わないが、額に浮かぶ汗が代弁していた。

僕は水筒を取り出して、まだかろうじて冷たいお茶をコップに注ぐ。

「はい、綾波」

そう言って綾波の目の前に差し出すと、戸惑った顔をして。

「……ありがとう」

そうかすかに呟いて、僕の手から受け取った。

「うわ、お腹空いたな。早く食べよう」

コンビニ袋の中からチョコチップパンを取り出す。

パンと言えばチョコチップ。これは僕の中での確定事項だった。

その経済的な価格にも関わらず、これがかなり美味しい。

絶対に栄養バランスは偏っているが、僕はいつもこのパンを買っていた。

「いただきます」

パンを口に頬張りながら、綾波を見る。

綾波は持ったまま弁当箱を凝視していた。

そして、慣れない手付きで弁当の蓋を開けて。

「……いただき、ます」

手に持った箸を動かし始める。

「……」

自分の作った弁当が美味しいか気になり、ちらちらと綾波の顔を覗いてしまう。

その表情に変化はないが、黙々と食べているので、口に合わないことはなかったのだろう。

だんだんと弁当の中身が減っていくことに嬉しくなって、自然と笑みがこぼれる。

けど、心の中は決して晴れやかではなかった。



「ねえ、綾波?」

綾波の弁当が空になる頃合を見計らって、切り出す。

「……なに?」

「うん……午前中のことなんだけどさ……」

「……」

「あの、トウジとケンスケ……話し掛けてきた男子がいたよね?」

綾波は弁当箱を片付けながら聞いている。

「あの……やっぱり、無視したのは良くないと、思うよ……」

「無視?」

「うん」

「……どうして?」

「えっ……だって、例えば僕が綾波のことを無視したら、いい感情は持たないでしょ?多分、彼等もそうだと思うよ」

「……分からない。そうなの?」

「うん……」

段々と声が小さくなるのと同時に顔も下を向く。



「……どうしたら、いいの?」

「え……?」

綾波の、消えてしまいそうな小さな声で、僕は顔を上げる。

「……私は、どうしたら、いいの……?」

その表情には、かすかに影が落ちていた。

僕は、少し考えて。

「……そうだ、綾波も自己紹介したらいいんじゃないかな?」

「自己紹介?」

「うん」

「……」

綾波は下を向いて、それ以上言葉を発することはなかった。

僕も話し掛けることをせずに、見守る。





静寂を打ち破ったのは、休憩の終わりを告げたチャイムだった。

「……戻ろうか」

ズボンについたほこりを払い落としながら立つと、綾波も無言のまま立ち上がった。


















トウジとケンスケは、ケンスケの席の近くに座って、会話しながらパンを食べていた。

僕達が教室に帰ってきたことに気付き、少し顔を背ける。

──綾波は。

立ち止まって。

一歩進んでは、止まって。

そして、考え込むように、下を向く。

それでも、確実に、距離は縮まっていた。

あと、一メートル。

それが、綾波と二人の距離。

トウジは、拳を握り締め何かを言おうとしている綾波に気付いて。

「お、何や、綾波?」

屈託のない笑顔で、綾波に話し掛ける。

綾波は。

トウジに話し掛けられた瞬間、体がビクンと動いて。

そして、言葉を紡ごうとする。

けれど。





「…………なんでも、ない」





そう呟いて、逃げるように自分の席へ座る。



「……そか」

トウジは、寂しそうな笑顔を浮かべた。













+続く+






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