「……分かったわ。言うわよ……」



少女は、頬を赤らめ。



「……私の夢は……」



僕から目をそらしながら。



「い、碇くんのお嫁さん、かな?」



恥ずかしそうに、小さな声で言った。


























蛹の夢:紅い螺旋




















「今日さ、学校で身体検査あったんだ。それでさ、去年から5センチも伸びてたんだ。嬉しかったよ」

片手に熊の人形を持っている少女に話し掛けるが、返事はない。

少女──綾波は、人形と人形を戦わせて遊んでいる。

「そういえば、僕綾波と同じクラスになってたんだよ。元気になったら、一緒に学校に行けるね」

綾波は、ちらっと僕のほうを見て、再び視線を人形へ戻す。

「綾波、子供のころは何処に住んでたの?僕は、東北の田舎にこの前まで住んでたんだよ」

「……私は、生まれた時から、ここにいたわ」

「えっ?……ずっと?」

綾波は答えない。

僕はそれ以上踏み込むことが出来ず、沈黙してしまった。

ふと目に入る、ブリキの人形。

それは、僕が小さい頃に母さんと一緒に遊んだものと良く似ていた。

「……綾波、今度さ、父さんに頼んで外に出ようよ。大分よくなったみたいだしさ。もうずっと出てないんだろ?」

「……外?」

「そう、外。綾波って、食事とかどうしてるの?街で何か美味しいもの食べようよ」

綾波は、興味を持ったのか、僕の顔をまじまじと見つめる。

最近、綾波は色んなことに興味を持ち始めた。

いや、興味を持ち直した、と言った方が適当だろう。

たとえば、僕がアメリカの話をすると、アメリカについて根掘り葉掘り尋ねてくる。

失った、記憶を取り戻すかのように。

記憶喪失。

それが、父さんから聞いた、綾波の原因。

綾波は父さんの組織、ネルフの何かの実験に参加していて。

実験中に大きな衝撃を受けて、記憶を失った。

そして、心を閉ざしてしまった。

僕が始めて綾波に出会ったときは、一番酷い時で。

綾波は、話すことも出来ず、ただ人形で一人遊びをしていた。

この、ジオフロントの病院の一室で。

初めてこの部屋に足を踏み入れた時には、びっくりした。

広い、幼稚園のような部屋に散乱する玩具。

そして、それらで独り言をつぶやきながら遊ぶ、綾波。

日にあたっていないのか、その肌は透けるように白くて。

びっくりしたと同時に、綺麗だと思った。







三ヶ月前、父さんから、手紙が来た。

僕をここ、第三新東京市に呼び出す内容のそれは、紙に殴り書きされていた。

目的は、綾波の心を癒すため。

父さんは、僕のことなど考えていなかった。

ただ、年齢が近く、都合のいい人物が僕だったから、僕を呼び出した。

僕は、父さんを見返すために、その仕事を引き受けた。

僕を捨てた、父さんを。

「何がいい?寿司とかどうかな?」

「寿司?」

「うん、寿司ってのはね、簡単に言うと握ったご飯の上に魚の切り身を乗っけたものなんだ」

「美味しいの?」

「うん。最近は滅多に行かないけど、僕は好きだよ」

「……そう」

そして、綾波は再び一人遊びを始めた。

僕は時計を見る。

「……もう時間だ。じゃあ、また明日来るからね」

六時、それが僕が綾波と会える限界。

綾波はこれから色々と検査され、そして眠りにつく。

それだけの毎日。

でも、最近は、僕と同伴なら中庭に出ていいことになって。

綾波は、その時間がすごく楽しいらしくて。

僕が病室を訪れると、中庭に連れて行くようにせがむ。

そして、地下に作られた偽者の自然の中で、遊ぶ。

綾波がベンチに座っていると、小鳥たちが寄ってくる。

綾波はそれを興味深そうに見て、そしていつのまにか自然に笑っている。

僕が今まで綾波の笑顔を見たのは、その時だけ。

感情がないのではない。

表現の仕方を忘れているだけ。

僕との会話の中で、綾波はだんだんと記憶と表情を取り戻している。

看護婦さんの話では、父さんの許可さえ下りれば、いつでも退院できるらしい。

僕は一人暮らしで、父さんと会うことは滅多にないから、そのうち会いに行くつもりだ。

父さんと、一緒に暮らしたくないわけではない。

本当は、分かり合いたい。

けど、僕と一緒にいたら、父さんも僕も傷ついてしまう。

だから、僕は三年前、母さんの墓から逃げ出したし、父さんも僕を追いかけなかったんだと思う。

別々にいる、それが僕達にとっては普通のことだったんだ。












学校から帰ると、すぐにネルフへ向う。

長い長いエレベーターを降りて、病院に向う。

それが、僕の日課。

はじめの頃こそ、綾波は僕のことを無視していたが、

根気良く接しているうちに、綾波は僕に心を開いて、一緒に遊んでくれるようになった。

ある日、学校で、綾波のことを聞いたことがある。

皆は綾波が入院して、学校に来ていないとしか知らされていなくて。

だから、僕と綾波のことは秘密だった。

綾波は、ちょっと静かな女の子だったらしくて。

髪や目の色が少し異質な雰囲気をかもし出してのが原因だったのかも知れないが、友達はあんまりいなくて。

でも、学級委員の洞木さんは、綾波に積極的に話し掛けていたらしくて。

それは学級委員としての義務だったのかもしれないが、綾波と交流があったのは、洞木さんだけだったらしい。

ショックを受けなかったと言えば、嘘になるだろう。

綾波に、友達がいなかったという事実。

洞木さんを除いて、話し掛けようとすらしなかったこと。

誰とも仲良くしないのが悪いと言っているのではない。

ただ、それは孤独で、辛いことだったのではないだろうか?

──僕が、学校でも力になれれば。

父さんとの約束は、綾波の心が癒えた時点で解消になるだろうけど、そんなことは関係ない。

乗りかかった船だ、最後までつきあってやるさ。







それから、数日。

僕は休みなしで綾波の病室を訪れた。

会いに行く度に綾波の回復を実感できるようになって、僕は安心と同時に、複雑な感情を抱いた。

このまま、綾波が回復してしまったら。

僕は綾波と会う口実を失ってしまう。

そんな、不思議な思いが渦巻く。



授業の終わるチャイムが鳴り、各々が帰り支度を始める。

「シンジ、またネルフか?俺ら帰りにゲーセン行くけど」

話し掛けてきたのは、眼鏡の少年、相田ケンスケ。

「……ごめん」

僕は本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

何回も誘われる度に、断って。

それでも誘ってくれる二人に、感謝している。

「シンジ、ほんまに休みの日も行っとるんかいな?」

ケンスケの後ろから、ジャージの鈴原トウジが身を乗り出して言った。

「うん、ごめん。休みがとれたら言うからさ。その時に誘ってよ」

「そっか」

僕は仲良くなったこの二人といつも一緒に行動している。

トウジは熱血、ケンスケはオタク。

妙なバランスの二人だが、小学校からの付き合いの二人は息が絶妙に合っていた。

それで、ここだけの話だが、洞木さんはトウジのことが好きらしい。

これは、記憶が戻りつつある綾波から得た情報。

何故綾波がそんなことを知っているのか(洞木さんが言うわけがない)、疑問だったが、

その話を聞いてから、僕は洞木さんを観察するようになった。

授業中、ちらりと洞木さんを見る。

案の定、トウジの方を見ていた。

綾波の言っていたことは、多分正解だった。

それで、僕は最近トウジに発破をかけている。

トウジは自分の道を突っ走っているから、恋愛に興味はなさそうだったけど。

中学二年生。

異性への興味が爆発する年頃。

でも、僕は転校してきたばかりだったし綾波のこともあったし、それどころではなかった。

自分の恋愛の話をせずに他人の話で盛り上がる、これほど面白いことはない。

初恋は経験済みだったが、次の恋はいつ来るのだろうか?

今、僕に好きな人はいない。

まあ、ちょっと気になる人は、いたけど。

「じゃ、また明日ね」

「おう」

「じゃあな、シンジ」

校門で手を振って別れる。

僕はバスでネルフに直行する。

放課後はトウジ達に遊びに誘われることもあったけど、いつも断ってばかりだった。

今は綾波のことがあるから断るが、そのうち付き合うつもりだ。

……僕は、この町のことを、まだ殆ど知らない。

引っ越してきた初めの頃に買い物に行ったくらいで、それ以外では、まだだった。

そのうち。

トウジとケンスケと、遊びに行こう。

それは、密かな決意だった。














「綾波、入るよ?」

毎回一応はドアをノックし、入る。

通い始めた頃に一回、綾波が着替えているときに入ってしまって。

綾波が返事しないのも、原因だったけど。

それからというもの、僕は恐る恐る部屋に入るようになった。

まあそれ以来防止できているから、いいんだけど。

今日も返事は、ない。

いつか、返事をしてくれる日が来るのだろうか?

そんなことを最近では、期待するようになっていた。



「また本?もう相当読んだんじゃない?」

綾波は最近、よく本を読むようになった。

一度、誰が持ってくるのか聞いたら、髭のおじさんという返事が返ってきた。

……。

綾波は備え付けの机に座り、食い入るように読む。

僕は鞄をドアのそばに立て掛け、綾波に近づく。

「アンデルセン童話?……僕も読んだよ、それ」

予備のパイプ椅子を持ってきて、そばに座る。

僕に気付いてはいるのだろうが……全く本から目を離さない。

こんな時もそうだが、綾波はたまに凄い集中力を発揮する。

人形で遊んでいる時も、僕が間に入らないと何時間でも一人で遊んでいた。

でも、このところは人形を触ることは少なくなっていた。

それだけ、回復しているということなのだろう。

しばらく本を読む姿を見ていると、綾波は急に本を閉じて。

僕の手をとって言った。

「外に、行きましょう」

綾波は強引に僕を引っ張る。

こんなことは、初めてだった。

「ま、待ってよ。分かったよ、行こう」

僕は立ち上がり、椅子をもとに戻してから、部屋を出た。

綾波の突然の行動にすこし混乱もしたが、喜びの方が大きくて。

僕は綾波に手を引っ張られて歩きながら、微笑んでいた。

綾波は、元々はどんな女の子だったのだろう?

洞木さんから聞いた綾波像は、あくまで他人の視点から見たもので。

今みたいに、少々強引にでも行動しようとする少女なのだろうか?

洞木さんの話では、綾波はとても静かな女の子だったらしいけど。

……。

まあ、そのうち分かるさ。











僕は綾波を連れて中庭まで来て、ベンチに座って綾波を見ていた。

綾波は咲き乱れるひまわりを一つ一つ見て回っている。

まだ、綾波はここまでしか外出が許されていなくて。

もう、出来ることはやり尽くした、といった感じだった。

それでも綾波は出来ることを探してきて、常に新しいことをやっている。

その点でも綾波はすごいと思う。

僕は、上を見上げた。

そこに青い空は、なかった。

綾波はもう三ヶ月も外の空気を吸っていない。

そして、同じ場所から、出ることも許されていない。

それがどんなに辛いことなのか、想像も出来ない。

胸が詰まりそうな想いにかられ、綾波の方を見る。

綾波はひまわりを見飽きたのか、こちらに向って歩いてきていて。

僕の隣に座ると、溜息をついた。

「どうかしたの?綾波」

綾波はコンクリートの空を見上げて言った。

「早く、外に出たい」

僕は、そう言う綾波の表情にびっくりした。

綾波は、泣きそうで泣きそうでない顔をしていて、とても心細そうだった。

「……そうだね。父さんの許可さえ下りれば、退院できるらしいし、今度話をしてみるよ」

僕がそう言うと、綾波は目を輝かせて。

「本当?」

と、いつもとほとんど同じ顔、けど、かすかに笑って言った。

「うん。じゃあ、今日の帰りがけに電話してみるよ」

「……ありがとう」



それは、僕が聞いた初めての、感謝の言葉。

「……どういたしまして」

僕は、それだけで嬉しかった。


















「あ、すいません、碇シンジですけど……はい、そうです。父と話がしたいんですけど……」

綾波と約束はしたものの。

やっぱり父さんと話をするのは、勇気が出なくて。

でもいつもは何を話していいのか分からなかったけど、今は言う事がある。

綾波のために、言うんだ。

少々お待ちください、と案内の女性が言い、しばらく待つと回線が入れ替わる音が聞えた。

「なんだ?」

「あ、父さん。綾波のことなんだけど……」

そう緊張して裏返りそうな声で言うと、父さんはしばらく考えて。

「……この電話では駄目だ。明日、病院に来る前に来い」

そう言って電話は切られた。

僕はそれからちょっとの間、立ち尽くしてしまった。

そして、胸をなでおろす。

何故携帯からでは駄目なのか分からなかったが、とにかく綾波の退院の話はできるようになった。

そして、綾波が学校に復帰できる日も、近いかもしれない。

自分のことではないのに、何故か胸がときめいた。










「失礼します……」

ドアをノックし、重いドアを開ける。

この部屋に入るのは、この街に来た最初の日以来だ。

父さんと会うのは、やはり心臓に悪い。

「久しぶりだね、シンジ君。レイは順調に回復しているかね?」

「はい。今日は、そのことで話を聞いてもらいに来たんですけど」

父さんの補佐役の、冬月さんが渋い笑顔で話し掛けてきた。

この人は、穏やかそうで、なんとなく好きな人だ。

そして、机に肘をついて、口元を隠すポーズで座っている、父さん。

この二人、絶対にバランス悪いよなあ……。

父さんは、重い口を開けた。

「言ってみろ」

「あ、うん。綾波は大分よくなってきてるしさ、もう退院してもいいと思うんだ。
それに、地上にも出た方がいいと思うし……」

父さんは沈黙して何かを考えているのだろうか。

「碇、どうする?」

冬月さんが僕の変わりに返答を促してくれる。

父さんはしばらく黙った後、衝撃の言葉を放った。





「分かった。シンジ、一緒に暮らせ」






「は?」

一瞬頭のネジが飛んだ。

「え、どういうこと?」

「言葉通りだ、レイと一緒に生活しろ」

「な、何でさ。綾波は親と一緒に生活するんじゃないの?」

「……お前は、レイの両親を見たことがあるのか?」

僕は、衝撃を受けた。

そうだった。確かに、僕は綾波の家族を見ていない。

もう三ヶ月も毎日通いつづけているのに、これはおかしい。

「……そうなの?」

「そうだ」

答えは明確に言ってはいないが、理解した。

「で、でもさ、なんで僕と?寮とか、一人暮らしとか、方法はあると思うけど。大体今まで住んでた家があるでしょ?」

「今のレイが、どんな状況にあるのか、お前が一番知っているはずだ」

……僕は、綾波は誰かと一緒に生活するのが当然だと思っていて。

そしてもちろん、それは綾波の家族で。

僕、という選択肢は考えてもみなかった。

でも、それと同時に、僕は気付いていたんだ。

綾波は僕以外の人には、未だに心を閉ざしていたことに。

「でも、なんで父さんがそんなこと決められるのさ?」

「……私は、亡くなったレイの両親から、レイのことを頼まれている。レイにとって私は親の代わりだからだ」

その言い方にカチンと来たが、黙っていることにした。

実の息子を放って、他人の子供の親になっていた?

もう、父さんには愛想を尽かしてしまった。

でも、それは綾波への嫉妬だったのかも知れない。

「シンジ、レイを守ってやってくれ」

でも、父さんの言う事は、一理あった。

今の綾波に、一人暮らしは危険すぎる。

……けど。

「父さんが綾波の親の代わりなら、父さんと一緒に暮らせばいいじゃないか?」

そう思うのも、当然だと思う。

「私は多忙でな。まともに家に帰ることも出来ないのが現状だ。……シンジ、お前を信頼しているから、言っているんだ」

なんて自分勝手な親だろう、と心の中で呟く。

なんで僕が父さんに信頼されないといけないんだ?

大体、父さんは僕のことを何も知りはしないのに、何故そんなことが言えるのだろう。

けど、不思議だったけど。

誰かに必要とされるのは、悪い気はしなかった。





「……分かったよ」

「そうか。手続きはこちらでやっておく、今すぐ病院に行け」

父さんは、そう言った瞬間、すごく優しい表情になっていたような気がした。

サングラスでその顔はよく見ることは出来なかったが。

綾波が、よくなるまで。

一緒に生活してみるのも、いいかも知れない。

そんなことを思った。

























「碇、レイは間に合うのか?」

「シンジ次第だ。シナリオ通りに進めば、あと一ヶ月でやって来る。それまでが、勝負だ」

「……本気で老人達を裏切るつもりか?」

「ああ」

「勝算はあるのか」

「……それも、シンジ次第だ。何よりもまず使徒に勝たなければ、人類に未来はない」

「……ユイ君は、許してくれるかな?」

「ユイはシンジの未来を残したくて、エヴァを作ったのだ。許してくれるさ」

























僕は、複雑な気持ちで胸がいっぱいだった。

綾波が退院できるのは嬉しいけれど、僕と一緒に暮らすってのは、どうなんだろう。

綾波は嫌がったりしないだろうか?

いや、普通、嫌がるだろう。

若い男女が、一つ屋根の下で生活する。

どうやって説明すればいいのか、分からなかった。

でも、結局どう言うか、決めることが出来ずに綾波の病室に辿り着いてしまって。

そのまんま言うしかなかった。



「綾波、来たよ」

ドアをノックし、綾波の反応を待つ。





「……碇くん?」





ドアの向こうから聞えてきた、綾波の声。



……初めて、呼んでくれた。

初めて、僕の名前を呼んでくれた。

そして、返事もしてくれた。

……嬉しくて、腰が抜けそうになった。

「……うん。入っていい?」

「……どうぞ」

綾波、最高だよ。

なんか、言う勇気が湧いてきた。

ドアを開ける手も、パワーがみなぎっている。

今の僕なら、いけるはずだ。





綾波は今日も本を読んでいた。

ただし、その視線は入ってきた僕に向けられている。

綾波は立ち上がり、僕に歩み寄る。

「……どうだった?」

僕は笑顔で答える。

「もちろん、オッケーだったよ。手続きは父さんがするから今すぐ退院していいって」

「本当?」

綾波は少し嬉しそうな顔になった。

それは僕しか気付かないくらいの、かすかな変化。

けど、僕には綾波が笑っているように感じた。

「それでさ、言いにくいんだけど……」






















それから三十分、僕と綾波は家に到着した。

家といっても、僕の家ではなく、綾波の家だ。

ネルフから僕の家までの直線上に、綾波の家があったから、

これから必要になりそうなもの、とりあえずは運べる衣服やパソコンなどを運び出そうと思って、寄ったまで。

綾波の家は、工事の音が響くマンションの中にあった。

そこは相当さびれていて、人の生活の気配も漂ってこない所だった。

そんな所に、綾波は一人で住んでいた。

生活感がまるでない、無機質な部屋で。

僕は呆然としながら部屋を眺めていると、綾波はクローゼットを開けて、制服を取り出した。

それをベッドに放り投げ、今度は物置の中から下着を取り出して、それらをまとめて黒いビニール袋の中につっこむ。

「あ、綾波?何してるの?」

「碇くんの家に運ぶ為に、荷物をまとめているの」

綾波は作業を続けながら言う。

「あのさ、なんでビニール袋なの?」

「……他に、入れるものがないから」

綾波は全てを袋に詰めると、口を硬く結んだ。

そして、僕の方を見た。

「……どうしたの?」

「これで、全部」

「?……私服とかは?」

「……ないわ」

僕は、衝撃を受けた。

年頃の女の子が、私服を一着も持っていないという事実に。

「だったらさ、普段はどうしてたの?」

「……制服を着てた」

「休みの日も?」

綾波は、首を縦に振る。

「……まあ、そういうこともあるよね。それで全部?」

「うん」

全然納得出来ないが、話を進めないわけにはいかなかった。

綾波は、やっぱり変わってるなあ……。

「じゃあ、行こうか」

学校で使うパソコンは、すでに玄関に置いてある。

それで、全部。

必要最低限。

そんな綾波の生活っぷりは、想像しただけでも色気がなかった。

こりゃあ、この先大変かもなぁ……。

そんなことを思った。

僕は意外と重いビニール袋を持ち上げ、綾波に言う。

「パソコンは、持ってくれるかな?」

綾波は頷いた。











三十分前。

綾波はこっちがびっくりするくらい、あっけなく了承して。

なんでかって聞いたら、一人でいてもつまらないって答えが返ってきた。

僕は安心されているのか、あるいは男として見られていないのか。

それはそれで複雑な思いだったけど。

いずれにしても、綾波は僕の提案を受け入れた。

あとで綾波の家に荷物取りに行かないといけない、その時はそんなことを思う余裕もなく。

「じゃ、じゃあ行こうか?」

そんな気の効かない言葉しか言う事が出来なかった。

でも、病院の服のまま退院って……。

綾波にそのことを聞いたら、かまわないって返された。

けっこう非常識だと思ったけど、後から考えたら仕方ないことだった。

誰が綾波の服を持ってくるのか。

持ってこられる人物は、この世には存在しなかった。





綾波の病室は十三階、一階の出口まではエレベーターを使って行く。

ボタンを押し、一階にあったエレベーターが上ってくるのを待っていると、一人の看護婦さんに声を掛けられた。

その人は、いつも綾波のお世話をしてくれていた人だった。

「えっと、これから綾波、退院するんですけど、服を持ってこれる人がいなくて。
今度返しますから、貸しといてもらえないでしょうか?」

僕は事情を説明し、いままでのお礼をすると、どうやら理解してくれたようで。

「ああ、そういうことなら。全然大丈夫よ」

笑って、綾波に「お大事に」と言ってくれて。

そして、僕に「お姫様を、大切にね」と。

僕は否定したが、彼女は笑って去っていった。

彼女が消えた先を、二人揃って眺めていた。

僕等は、そんな目で見られていたのだろうか?

実際のところ、僕は綾波に対して特筆すべき感情は持っていない。

……でも、初めは、仕事だと思って綾波のもとへ通っていたのに。

最近では、どうだったのだろうか?

綾波の顔を見るのが、楽しみだったのではなかったか?

まあ、確かに好きか嫌いかだったら、好きだけど。

でもそれは、あくまで人間同士の付き合いの「好き」で。

男女間の「好き」ではないことは確かだった。

……多分。









エレベーターから降り、病院の外に出たら、停まっていた黒い車の中からお兄さんが出てきて。

「碇シンジ様と綾波レイ様ですね。ご自宅までお送りいたします」

なんて言い出して。

車の中で知ったけど、その車は父さんが手配したもので。

長いモノレールを上り、地上に出た瞬間、綾波は窓を全開にして外を見た。

三ヶ月ぶりの地上は、何一つ変わっていなかったけど、綾波にとっては天国だったのかも知れない。

風を感じながら、綾波は雲の向こうを見つめていた。





そして、今に至る。

僕と綾波はマンションの前で待たせていた車に急いで乗り込む。

「すいません、待たせてしまって」

「いえ、これも仕事ですから」

黒服のお兄さんは僕等が乗り込んだのを確認すると、車を発進させた。

「あの、すいませんけど、途中でスーパーに寄ってくれませんか?」

「分かりました」

今、家に帰っても食事は準備出来ていない。

それに、今日は、綾波の退院日にもなった。

ささやかなパーティーを催そう。

綾波に喜んでもらえれば幸いだった。

……でも、今月はもう、生活費ぎりぎりだったんだよなぁ。

父さんから毎月振り込んでもらっている額では、パーティーどころか綾波の生活費も出せないだろう。

綾波は今までどうやって生活していたのだろうか?

それも、あとで聞いておかないといけないことだった。






















僕は買い物袋をぶら下げた両手で鍵を開ける。

今日は、一応得意料理のカレーを作ろうと思って、それの材料を買った。

この頃は食事はコンビニ弁当で済ましていたけど、これからは綾波がいるからそうもいかない。

それに、食事を作るのは好きだったし、誰かに食べてもらえるなら、それだけで嬉しい。

「どうぞ、綾波」

「……お邪魔します」

綾波は小さな声で、そう言うと恐る恐る足を踏み入れる。

「綾波、今日からここは、綾波の家なんだよ?」

立ち止まる綾波。どうしていいか分からない、といった顔をしている。

僕は待つ。

綾波の口から発せられる、その言葉を。

その時間はやけに長く感じられたが、実際は五秒程度だった。

「……ただ、いま」

「……お帰りなさい」

僕は笑顔で、新しい家族を受け入れた。

綾波はそう思っていないかも知れないけど、僕にとって綾波は、もう家族。

ただいまと言える相手がいる。

おかえりなさいと言える相手がいる。

家に帰っても真っ暗で、誰もいないこの部屋で生活していた僕にとって、それはまさに夢だった。




「綾波は、そこらへんでくつろいでてよ。すぐに作るからさ」

エプロンをつけた僕は台所に突っ立っている綾波に勧める。

いまだに病院の服を着ていた綾波は無言で椅子に座った。

「……綾波、今度さ、服買いに行こうよ。一着もなかったら、流石に不便だろうし」

「……分かったわ」

料理を開始した僕からは綾波は見えない。

「じゃあ、約束だよ?」

「うん」

玉ねぎをリズムよく刻む。

包丁さばきは今学校の家庭科でやっているのでまあまあ上手いと思う。

「そういえば綾波、食べれないものとかあるの?」

「……ないわ」

「そう。よかった」

まあ、カレーに入ってるもの位は聞かなくても食べられるよな、と思いつつ、料理はスムーズに進む。

綾波の視線が背中に突き刺さっているような気がした。

誰かの為に食事を作ったことはなかったのも原因かもしれないが、すごく緊張して。

このまま料理を続けたら、包丁で手を切ってしまいそうだったけど、今日はなんとか無事に終わった。

炊いてあったご飯を皿に乗せ、その上からルーをかける。

出来は……多分、おいしいと思う。

これで、綾波がおいしいって言ってくれたら、僕はもう満足だった。

綾波の前に皿とスプーン、水の入ったコップをそれらの傍に置く。

「口にあえばいいんだけど……どうぞ」

「……いただきます」

綾波は手にスプーンを取り、カレーをかき混ぜ始めた。

エプロンを外して席に座り、綾波の反応を見守る。

スプーンはゆっくりと口元に近付けられ、そして口の中へ入っていった。

「……どう?」

綾波は口の中の物を飲み込み、水に手を伸ばした。

「辛いけど、おいしい」

「本当?やった、嬉しいな」

心の底から湧きあがってくるその感情。

誰かにおいしいと言ってもらって、喜んでもらえる。

それは、生まれて初めてのことだったから。

「僕も食べようっと。いただきます」



やっぱり辛かったけど、綾波との食事は最高に楽しかった。

例えそれが、僕が一方的に話し掛け、綾波が聞き手にまわるものだったとしても。

一人じゃない。

それだけで僕は強くなれた気がした。




















明日は、学校だ。

皆、綾波を見てどんな反応をするだろうか?

一緒に登校すると、やばいかな?

そんなことばかり、考えていた。



まあ、なるようになるさ。









+続く+






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