心ごと身体を蝕んでくる圧倒的な重圧感が、荒れ狂う波濤のように襲いかかって来る。
上空に浮かぶ、正八面体の無慈悲なる神の使いを背に、使徒の少年は銀髪をゆらりともたげ…立ち上がった。

「この世界の辿る運命――『使徒が勝利し、滅ぼされる人類』。
 そこでゆっくりと見ているがいいさ。 ――シンジ君」

紅い瞳が炎を宿したかのように爛々と光を放つ。
薄く笑みを浮かべた渚ヒカルの姿は、シンジの知るフィフスの少年とは比べるべくもない、禍々しい空気を纏っていた。

「……く…ぅっ!」
シンジは、ヒカルの発する尋常ならぬ空気を前に本能的に危険を察し、距離を取ろうと咄嗟に身を翻したが…。

ミシ…ッ。

身体が大きな掌に掴まれて、握り潰されていくような重圧がシンジを襲った。

「ぐ……! がぁ…あ…っ!」
『トリガー』を使用した反動で蝕まれたシンジの体内に、更に圧力が加えられる。

「…ATフィールドには、こういう使い方もあるんだよ?… シンジ君。
 僕ら使徒を凌駕する程の領域を生み出せたキミも、『トリガー』を失った今は、あまりに脆い…」

手にした獲物を玩びながら、ヒカルが告げる。
周囲から均等に加えられる力が徐々に増していき、全身が軋み出していた。
肉と骨が発する悲痛な叫びが、身体中に響き渡っているかのようだ。

「…く…ッ、う…ぅ…っ、う…ッ」
シンジは暗転しかけた意識を奮い起こし、這いつくばってなお、ヒカルを睨みつけた。

「マ…ナ…を… よく…も…!!」
「五月蝿いな」

喉元から声を絞り出すシンジに、銀髪の使徒は冷たく見下ろすと、かざしたその手に紅い光を宿らせる。

「此処で死んでおくかい?」

「………―――!!」
黒い瞳に悔恨の涙をいっぱいに溢れさせたシンジが、瞼を閉じる。


その時だった。


轟音と共に瓦礫で埋め尽くされた地面が爆ぜ、強烈な風圧がシンジ達を襲った。

「なに…――――?!」 「うああぁぁあぁッ!!」

ヒカルが後方での衝撃に気を取られている間に、拘束が解けたシンジが爆風に吹き飛ばされる。
風圧に転がされて、半壊した建物のコンクリートの壁にその身を止めたシンジは、この爆風の正体を知る事となる。

『碇ッ! 貴様大丈夫か?!』

見上げた視界の向こうには、仰向けに転倒したゼルエルの姿と、ポジトロンライフルを構えた初号機の姿があった。

「あや…なみ…!」
『早く此処から離れろ! 二体が相手では何時までもたせられるかわからん!』

初号機頭部の外部スピーカーより、何時になく切羽詰ったレイの鋭い声が飛ぶ。
それに対し、銀髪の少年は冷たい視線をくれると、

「ふん。…とうとうキミは、彼女を殺せなかったようだね。
 なら、僕が葬ってあげるよ…――!」
ヒカルが、上空に浮かぶブルーの輝きを冷たく放つ巨大な移動物体を振り仰ぐと、縦横に張り巡らされたレール状の溝より、凶暴なるエネルギーの収束が開始される。

『――?!』
初号機内のレイが、息を呑む。
「やめろぉ――――!!」
シンジは…――えも言えぬ恐怖に打ち震え、叫んだ。






Ultra_Violet
#25 "INFORMATION HIGH"






―――シンジが、少し慌てた様子で顔を上げたのは、自分以外だれも居ないと思われたこの室内に於いて、聞き覚えのある声が彼を呼んだからだ。

怪訝そうな響きを持ったその声の主は、驚いて目を丸くしている少年を不思議そうな表情で見詰めていた。

綾波、レイであった。

「…貴様、なにを泣いている?」

学校内の図書室。
その奥に設けられた、こじんまりとしたスペース、その片隅にしゃがみ込んだシンジの姿があった。

「えっ、いや…、その…」
しどろもどろとなったシンジは顔を伏せると、手にしていた蔵書を慌てて閉じ、不意の来訪者である少女の視界からその本を隠匿せんと努めた。

「…何の本なんだ?碇。見せてみろ」

ニヤー…と、興味津々悪戯な表情で、シンジの手元を覗き込もうとするレイに対し、彼は頑ななまでに抵抗の意を示す。
少年の手に握られていたのは、小説よりもサイズがひと回り以上もある、厚い装丁の大判書であった。

「……なんだそれは?」
「みっ…見なくていいよ綾波!」
抵抗し続けるシンジの視線が、ある瞬間を境に止まった。

「…ってか、見えてるよ綾波!!」

両の手を腰に当て、上半身を屈ませてシンジの肩越しに蔵書を覗き込んでいたレイ。
その制服のブラウスの隙間から、年齢の割に豊満な胸元が、シンジの視界いっぱいに突きつけられていた。

「――…っ!」
胸元を押さえ、一瞬退いたレイであったが、

「…それがどうした? さあ見せろ碇」
「ちょっとは恥じらえぇぇ〜〜〜〜〜っ!!」





「――!!」
シンジが次に目を覚ましたその時、視界に飛び込んで来たのは、窓枠より差す茜色の光に彩られた無機質な空間であった。

(…ここ…は…?)
ゆっくりと頭をもたげた彼は、此処が何時の日かもその身を横たえた覚えのある、市内の病棟内の一室である事を認識した。

「病院…――」

呟き、自らがここにいる理由を探り始めた彼の耳に、病室の扉の開閉音が割り込んだ。
続いて、台車の車輪が床を滑り往く音が暫し続いたかと思うと、シンジの視界の片隅から蒼銀の髪の少女の姿がフレームインする。

「…気が、ついたか…――」
少女――綾波レイは静かにそう呟くと、制服であるジャンパースカートのポケットより手帳を取り出し、それを読み上げる。

「NERV、日重両機関より連名発令のスケジュールだ。
 綾波・碇両パイロットは、本日1730、各機関ケイジに集合。
 同1800、初号機、およびJA起動。別命あるまで待機…」

「……」
「…以上だ」

抑揚のない声でメモを読み上げるレイの傍らで、シンジが弾かれたように声を上げた。

「綾波! マナ…は…?!
 …あいつは…使徒は?!」

「…――!」
シンジのその言葉に、レイは一瞬、辛そうな表情を見せるが、

「…霧島…マナの遺体は… NERVが収容した…。
 使徒は…"ヤツ"は… 穿孔中だ」

何かを必死で抑え、搾り出すようなレイの震えた声音に、シンジは何故レイがかくも彼女らしくない、事務的な態度に出ていたかを理解した。

そして、今に至るまでの顛末を脳裏に甦らせる事が出来た…。





上空に浮遊する正八面体の使徒より、高密度のエネルギーが収束される。

シンジは絶叫する。
早く、はやくレイにこの使徒の特長を伝えねば。
その無慈悲なる圧倒的な砲撃の威力を教え、直ちに回避させねば…

また、大切なひとを失ってしまう……

少年が己の非力さ、無力さを心に刻みつつ悲痛な叫び声をあげる。

――だが。
初号機に撃ち倒されたゼルエルが、突如としてその鋭利な腕を伸ばした。
その先には、紫の鬼神ではなく…、ブルーに輝く巨大な移動物体があった。

「?!」
「な…にぃ!?」
『!?』

衝撃音が轟き、砕かれた破片が飛び散る。

「く……あッ!!」

ゼルエルの放った攻撃は上空のラミエルを狙い、辛くも回避運動を果たし直撃を避けたラミエルは、右辺部に損傷を負った。

「…………!!」
瓦礫の街に降り注ぐ、使徒の欠片。

建物の陰に隠れ、かろうじて身を守ったシンジの眼前に、吹き荒ぶ爆風に圧されて転がってきた、ペン状の物体があった。

「…っ! 『トリガー』!!」
脱兎の如く駆けたシンジは、ヒカルの手中にあった筈の『トリガー』を拾い上げる。

(一体… なにがあったんだ…?)
振り仰いだシンジの視線の先に、瓦礫の丘の頂で負傷した腕を押さえ、ゼルエルを睨みつけている、渚ヒカルの姿があった。

「…"力の天使"も、知能の方はさほどではないようだね…」
その口許を皮肉な笑みに歪めたヒカルは、立ち上がろうとするゼルエルに、こう告げた。

「…まあ、構わないか。どうせ早いか遅いかの違いでしかない…
 リリンを滅ぼし、この世界を手中にするのは十七ある使徒の、ただひとり…」
ヒカルの瞳が、紅の光を宿し…、爛々と燃えさかる。

「ゼルエル、キミか… 僕かだ」

上空をゆっくりと、右回りに転回を果たしたラミエル。
その加粒子砲は、定めし目標を初号機から、同胞であるはずのゼルエルに転換した…!





「…あの後、貴様をピックアップした私は、本部へと一旦帰投。
 再出撃を待ったが…――それは延期となった」

「ラミエ…いや、使徒達は、まだ生きているの?」
シンジの言葉に、レイは静かに肯いた。


ラミエルとゼルエル。
十七を数える使徒において、比類なき攻撃力を誇る両者の直接対決は、文字通り苛烈を極めた。

鈍重そうな外見とは裏腹に、行動は俊敏を極めるゼルエルが、肩下から伸びる帯状の腕を操り、次々と波状攻撃を繰り出す。
対するラミエルは、回避運動と強固なATフィールドを展開し、徹底した専守防衛に努めて"力の天使"より距離を取った。

機先を制したのは、必殺の武器の初速に勝るゼルエルであった。
充分に距離を取ったラミエルが、加粒子砲のチャージに移った所を、ゼルエルが頭蓋部からの光線を一閃、ラミエルの正八面体の頂点部を撃ち抜いたのだ。

鉄壁を誇る牙城を崩され、頂点部に甚大なる破損を被ったラミエルは黒煙を噴き上げ、急降下を余儀なくされる。
そこへさらに、距離を詰めてきたゼルエルの鋭利な右腕が伸びたが―――

咄嗟にラミエルは下部より、ジオフロント穿孔時に使用した巨大シールドを緊急射出。
捕えんと伸ばして来た相手の右腕を貫き、横倒しの状態でゼルエルを大地に釘付けにした。

地に這いつくばった格好で無残に足掻くゼルエルに対し、ラミエルはその直上までゆっくりと接近すると、加粒子砲の再充填を開始する…。

命乞いを愉しむかのような数秒の間の後、無慈悲なる一撃が、激しい光熱量と共に放出され、ゼルエルの胸部から下を一瞬にして溶解させた。

勝負あった。

だが、ラミエルは…――それを操る少年は…――此処で幕を引く意志を提示しなかった。

下部より伸びている巨大シールドをゼルエルの腕から引き抜くと、それを身動き取れぬゼルエルの頭部に再びあてがい…―――


穿孔した。


"力の使徒"の断末魔が、強羅の山間に響く。
それを見守るNERV及び、日重の人々は、スクリーン上で繰り広げられた惨劇に戦慄した。



「――あの八面体の使徒は、第3新東京市に侵攻、
 ゼロ・エリアに達した後、巨大シールドを展開している…」

「……」
シンジは無言のまま膝を抱え、病室の壁を見詰めている。

初号機の覚醒・暴走を以ってして、やっと止める事が出来た最強の使徒・ゼルエル。
それをいとも容易く屠ってみせたラミエル――いや、渚ヒカル。
彼の冷徹さ、そして残酷さは、シンジが対峙してきたどの使徒よりも優れ、それでいてどこか無機質というか、機械的であった使徒達が持ち合わせていなかった、狡猾さを兼ね備えている。

(確かに彼なら… この世界の人類を滅ぼしてしまうかも知れない…――)
唇を噛むシンジの意識を再び引き戻したのは、やや強引ともいえる、レイの行動だった。

「…とにかく、食事を持って来てやったから… 食え」
ずいっ、と眼前に食事が盛り付けられたプレートを突きつけられ、シンジは目を丸くした。

「うっ、…うん。 でも、今は」

「食え」

「いや、あの…」

「食えったら食え」

「その…」

「つべこべ云うな。 とっとと食え」


「はい…」


小さく返事し、俯いたシンジの視界に、ずいっと顔を近付けたレイは、

「…よし。 30分後に作戦会議。 …いいな」
と、今日初めて見せる微笑みを浮かべ…、病室より去って行った。






作戦会議は、NERV・日重。
二者間を繋ぐ通信回線を通じて行われた。

ゼルエル戦を顧ても判る通り、正八面体の使徒の持つ加粒子砲の威力は強力無比。
レイの初号機が展開するATフィールドでは、恐らくいとも容易に貫通されてしまうだろう。

やはり、使徒をも凌駕するATフィールドを展開可能な、シンジのJAに協力を請う以外に有効な防衛手段はない…。

「使徒のシールドがジオフロント、及びNERV本部への到達予測時間は、あと5時間54分」
「目標の加粒子砲、ATフィールドも共に健在。
 独12式自走臼砲、ダミーバルーン、即時排除されています」

「まさに空中要塞だな」
マヤ、そして日向の報告を受けた加持が、やれやれと肩を竦める。

「…ここはシンジ君に囮になって貰い、
 レイにポジトロンライフルで狙い撃ちさせるより、手はないわ」
不機嫌な空気を撒き散らしつつ、スクリーンの向こうのリツコが口を開いた。

念願の『トリガー』を手中にした筈が、回収を依頼したフォースチルドレンに土壇場で裏切られた上に姿を消され、おまけに獲物は再び持ち主であるシンジの胸元に戻っている。
彼女が憮然とした表情になるのも無理はなく、それ故かシンジに故意に困難な役割を差し向けている節さえ感じられる。

だがそれに、頑として抗したのが時田だった。
「承服しかねる!」

「時田さん……」

「赤木博士、シンジ君はまだ負傷療養中だ…、
 囮などとリスクの高い役割を、遂行し切れるとは思えませんな!」

「ですが、他に手はありまして? 時田部長」

「…ぐっ……」
珍しく抗弁に窮する時田に、背後のシンジが小声で囁いた。

(…時田さん、「ヤシマ作戦」はまだ挙がってないんですか…?)
(肝心の陽電子砲を置いてあった施設が、先にラミエルに潰されていたんだ…)
(えッ……!!)

シンジ達が元居た世界では、鉄壁を誇る空中要塞・ラミエルに対し、射程外からの長々距離射撃でコア一点の狙撃を敢行。
試作自走陽電子砲に日本中から集めた1億8000万kwものエネルギーを装填し、見事撃墜に成功した。
これが所謂「ヤシマ作戦」だったのだが…

その歴史を知る、撃墜された張本人・ラミエルは、この世界に於いて先ず戦略自衛隊つくば技術研究本部を襲撃し、世界に一丁しか存在しない試作自走陽電子砲を破壊したのだ。

これでヤシマ作戦は使えない。
残された道は、玉砕覚悟の決死行あるのみ。

「………」
「……」
「…………」

重く、沈み切った両陣営の空気。
それを破ったのは、これまでモニターの前で沈黙を守ってきた、葛城ミサトであった。

「――手は、あるわ」




ミサトが挙げた代案とは、数十あるバルーンダミーを使用しての、シンプルな電撃作戦だった。

「…目標は頂点部に甚大なる破損を負っています。MAGIに拠ると、
 使徒が加粒子砲を撃てる条件に、本体を縦横に走る溝にエネルギーが通り、
 収束するという特徴が見受けられます。従って――」

「本体上部には溝がない為、少なくとも真上には撃てない…――」
時田の呟きにミサトは肯くと、

「使徒はシールドをゼロエリア深く打ち込んでいる為、
 反転しての即時対空迎撃は不可能と見ます。
 そして、地上からバルーンダミー数十体をデコイ(囮)に使用し、
 加粒子砲を無駄撃ちさせている間に、シャトルで初号機・JAを上空から降下、
 超高々度からの電撃作戦を敢行します――」

その際も、使徒に目視されぬよう、シャトルの残骸を纏い、降下する。

「…同時に二体の使徒の襲来で、各施設に甚大な被害を受けたけど…
 二体の使徒同士の会戦で、私達は思いがけず様々な情報を得たわ。
 今度は、あの四角いヤツに私達に情報を与えたのは高くついたと思い知らせてやる番よ!」

凛とした表情で発令所内を見渡したミサトは、力強い口調で宣言した。






「急げ! NERVに遅れを取るなよ!」

日本重化学工業共同体、その前線基地。
彼らの、そして今となっては人類の希望たる巨大な鋼鉄の悪魔を乗せたトレーラーが、シャトルの待つ第3新東京国際空港へ出発せんとしていた。

自ら陣頭指揮に立った時田が拡声器片手にがなり立て、基地内は久方ぶりの活気を取り戻している。

「…なんか時田部長、急にテンション高くなりましたね」
「奥さんに、ネガティブすぎると折檻されたらしい」

などと機材運搬を補助しつつ無駄話な研究員達の脇を通り抜けた黒髪の少年は、大型トレーラーに乗せられたJAの姿を見て絶句した。

「なななななななななな!!」

「おや、どうしたシンジ君」

腕をぶんぶん振り回してこちらに駆けてきた少年に、時田は拡声器越しに声を掛けた。

「どうしたじゃないです!!」

顔を真っ赤にしたシンジが、憤怒の表情で叫んだ。

「なにJAにヒゲ付けてるんですか!!」

見ると、JAの頭部、人間で言えば口元の辺りに、黒くフサフサし、外側にはねた形状の、いかにも胡散臭い口ヒゲがたくわえられている。

「ああ…」

時田は感嘆をもらすと…、


「生えたんだ」

「うそつけ――――――ッ!!」


シンジは絶叫すると、うわごとのように何度もつぶやく。

「…絶対、ヒゲダンスさせるつもりだ! あんなに恥ずかしかったのに、
 やだってのに、絶対また、ヒゲダンスさせるつもりなんだこの人…!」

「初号機に頬ずりさせようと思ってな」

「そんなことしたら綾波に殺されます!!!」


「…ん?」

そして、ふとJAの胴部に目を遣るシンジ。
JAの胸部、左右ひとつずつに何故か空いてある穴を隠すかのように、不細工な合金板が覆われている…


「………」

「…」

「………」

「…」

「………」

「…」

「…時田さん、これ…」

「…」

「…まさか、 オ ッ パ イ ミ サ イ ル 付けようとして、
 失敗した跡じゃ…ありませんよね……?」

「………」

「…」

「………」

「…」

「………」

「…予算がなかったんだ」

「実行に移すな―――!!」






遥か眼下に広がる街並みが、夜の闇に沈殿している。
街を両断する早川も、商店街も、学校のある山沿いも、すべてが模型じみて見える。

住民総退避が発令され、人気を無くした第3新東京市上空を迂回するように、高度を上げていくシャトル群のひとつに、窓の外を覗き込む少年と、少女の姿があった。

キャビンの壁に設置された時計は、午後十時十五分を指している。
この数十分後に、この世界すべてを掛けた決戦が、執り行われようとしている。

ふたりの集中を乱さない為の配慮で、シンジとレイ以外誰もいないキャビンの中の空気は、恐慌も高揚もなく、驚くほど静かだった。


「…碇」

少年の傍らに佇む少女が、口を開いた。

「この間、貴様が学校の図書室で読んでいた本…。
 あれは何の本だったのだ?」

「…ああ…あれ、ね」
窓枠の向こうを見詰める少年の口許から、静かに苦笑する音が洩れる。

「絵本さ。 …もう、少ししか残ってない、母さんとの思い出の中に…、あの本があるんだ」
「…どんな話だ?」

レイの問い掛けにシンジは少し黙した後…、ゆっくりと口を開いた。


「…あるところに、幼稚園がありました。
 そこのうめ組の子供たちは、新聞紙を貼りあわせて、色を塗って…
 ロボットを作りました…」


新聞紙で出来たロボット、その名は『シンくん』。
うめ組の子供たちが話しかけたとたん、動き出した不思議なロボット。

世界一強いことにしたから、力は強いけれど、臆病で、
おまけに涙のつぶのビー玉を真ん中に入れたから、泣き虫。
泣くと濡れてふにゃふにゃになってしまいます。



「シンくんは、本当は強いけど…、他の園児とうまく溶け込めないんだ。
 引っ込み思案で、臆病で… でも、いつかは
 『つよい鉄のロボットになるんだ』という夢を持っている」


ある日シンくんは、うめ組の子供たちと、自分とでは
見た目が違っていることに気付きます。

さらに、子供たちには毎日夕方になると、お家に迎えに
お母さんたちが来てくれます。

シンくんには、迎えに来てくれるひとは、
だれもいませんでした。



「…子供たちが羨ましかったシンくんは、
 どんどん心が荒れていって…イヤな奴になってしまうんだ。
 それで、園児たちからも距離を置かれてしまった」


そんなある日、散歩中の子供たちの列に、
暴走したトラックが突っ込んできたのです。



「女の子をかばってトラックを止めたシンくんは、下敷きになってしまって…
 ぺっちゃんこになって死んでしまう。 …そんな話なんだ」

「……」

「…僕は、この話が嫌いだ」

「…そうなのか?」

「この話を読んでた母さんが、決まって最後のページで泣いてしまうから」

「……」

「母さんを泣かせちゃうこんな本なんて、嫌いだっ、て…
 子供心に思ったんだろうね…」

天井を見上げたシンジに対し、暫し沈黙を続けたレイが、再び言葉を発した。


「…碇。 私は貴様が嫌いだ」


「……えっ……」
思わず言葉を失い、呆気に取られた表情の少年を他所に、レイは淡々と言葉を紡いでいく。

「ウジウジしたところが嫌いだ。
 泣き虫なところが嫌いだ。
 のろまなところが嫌いだ。
 暗い性格が嫌いだ」

「あの… えっと…」

「貧相な体格も物足りなくて嫌いだ。
 柔らかいその髪が嫌いだ。
 長い睫毛が嫌いだ。
 明らかに筋力不足で嫌いだ」

「……綾…波……」

「沈んだ顔が嫌いだ。
 いつも困ってるようで嫌いだ。
 お人好しで嫌いだ。
 ムッツリスケベで嫌いだ」

「………」

「二人目を追って、わざわざこの世界に来る貴様が嫌いだ。
 だのに霧島マナを振り切れなかった貴様が嫌いだ。
 挙句、二人目に去られてしまった時など殴ってやりたかったほど嫌いだ。
 …大っ嫌いだ」

「……」

とうとう俯いてしまった傍らの少年を、横目でちらと見たレイは、口許にあの悪戯な笑みを一瞬浮かべ…、彼の方に向き直った。


「…でも、」


「それらの事など、全く瑣末なことと思えてしまう程に…
 悔しいが私は、優しい貴様の事が、――…好きだ」


「…綾波…!」

時間だ、とこちらを振り向かず格納庫へと続くドアの方へと歩み行くレイの背に、シンジの声が響いた。

「綾波! …やっぱり…、リツコさんの言う通り、JAを盾にする案でいこう」

「…正気か? 貴様、もうATフィールドは張ってはいけない筈では…」

問い詰めるレイに対しシンジは、静かに頷く。

「…大丈夫。僕は、きっと…生き残るから。
 だから、綾波にも絶対…無茶して欲しくないんだ」

「きさ… ―――ッ!」
何か言いたげに、瑞々しい唇を上下させかけたレイであったが、それをシンジは人差し指を充てることによって、制した。

「…〜〜〜」

頬を染めたレイはそっぽを向き、暫し黙した後…

「碇、…これが終わったら… 私にも『ねこさん』の新しいの、買えよ。
 それと、パフェも食わせろ。 私は、二人目よりも多く平らげてやる。
 あと、それと、あの…」

言いつつも顔が真っ赤になって、瞳に涙をためていくレイを、シンジはこらえ切れずに……抱き締めた。




六機からなるシャトル群から、脱出用の機体が射出され、その数十秒後にシャトルが遠隔爆破される。

高度3000メートルから飛来する巨大な破片が、無人の第3新東京市に降り注ぐ。
その中に、紫の鬼神と、鋼鉄の巨人がその身を隠した荷台が存在する。

依然、ジオフロント目掛けて穿孔中のラミエルは、遥か上空での異変を早速感知し、頂部を除く溝から、数十もの微量の光弾を射出し、落下したシャトルの破片群を撃ち落としに掛かる。

しかし、その命中精度はやはり主武装たる加粒子砲に比べると、半減以下に落とし込んでいる。

「おいでなすった!」
「援護射撃及び、バルーンダミー急いで!」

叫ぶ青葉の後方で、ミサトが指示を送る。

『シンジ君、レイ!使徒に検知される恐れがあるから、
 ATフィールドはギリギリまで展開しないで!』

「「了解!」」

降下を続ける二機の眼下から、光の帯が立て続けに沸き上がり、すぐ側をかすめていく。

右から、左から、背後から前から、シャトルの破片が撃ち抜かれ、爆発する轟音が響く。

次は自分達の潜む、この荷台かも知れない。

シンジは胸に掛けた『トリガー』に幾度も手を掛けようとするが、踏みとどまる。

「ぐう…うぅう…っ!」

「く…ぅ… ふぅっ…!!」

遥か地上より発せられる、使徒の強烈なる圧力に耐えつつ、2人のチルドレンが降下する。

初号機を模したダミーバルーンが次々と打ち出され、その度に使徒の加粒子砲が火を噴く。

「もっとだ! もっとダミーを出せ!
 目標の予測の付かない所へ! 目標が放っておけない距離で!!」

「兵装ビル、稼働率3%低下!」

「12式自走臼砲、引き続き前へ!!」

「目標のATフィールド、強度8%低下!」

ラミエルを遠巻きに囲むようにして設置された砲台が火を放つ、火を噴く。

子供達がやって来る、その時まで。

彼らは使徒から上空への注意を奪おうと、愚直なまでの抵抗を続ける。

少しでも、上空への砲火が止む様に。

ひとつでも、悪魔の砲弾が子供達ではなく、こちらを向いてくれるように。

噴き上がる、光の帯。

使徒が、子供達を、人類の希望を打ち砕かんと放つ、光の砲弾。

シンジ達の潜むシャトルの破片をかすめる。

ひとつ、またひとつと。

(僕は…、運命に立ち向かわないと、いけない)

『あと十六秒で射程圏内に入ります!』

(綾波を守るため、時田さん達、みんなの未来のため、
 そして… 救えなかった… 二人目の綾波と、マナのため!!)


少年は雄叫びを上げた。

「うああぁぁぁああぁぁああぁぁああぁぁあぁぁ―――!!」







使徒に攻撃を加え続ける都市の様子を仰ぎ見る、ひとつの影があった。

「その程度では、僕の分身を止められはしない。
 さぁ…。 いくよ、リリン。 新たなる世界の…礎になってくれ」

頭に包帯を巻き、独りごちた渚ヒカルは、第壱中学校の裏手、NERV本部へと続くゲートに向かって踵を返した。





+続く+




++あとがき++

ココノです。

書いてたら1話に収まり切れなかった…orz

次で最終話になります。




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こちらのページから


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