「…ンジ…ん…、シ…ジ…く…」

深く、沈み込んでいた意識の遠くで、何事か呼びかける声音が、
低く、重い響きを伴って脳裏の水面を波打たせている。

「シ…ジく…ん」

どうやら、声の主は自分の事を呼んでいる様だ。
少年は、鉛の沼の如くこの身体を捉えて離さない、この重いまどろみから どうにかして自らを引き上げようと、苦心する。 彼を呼ぶ声のする彼方へと―――

「シンジ君?」

やっとの思いで剋目したシンジを待ち受けていたのは、会議用の長テーブルを囲むようにして着席している、日重の面々の怪訝そうな表情達であった。

「はッ…――」
少年は、人々の奇異なる視線の集中砲火に耐え切れず、自身の置かれた立場が把握出来ないままに、素っ頓狂な声で生返事を寄越した。

「はい?!」

「いや一応、報告中なのだがな、シンジ君…」
いやに冷静な口調は、テーブルの一番奥に陣取った日重の責任者たる男、時田だった。

「え…っ、あ… すいませ…ん」
シンジは今になってやっと、事態を把握した。
現在彼がその身を置いているのは、日重の前線基地内の一室。
マナと共に、週末恒例の定例報告会に出席していたのだった。

「その… ちょっと、ボーっとしていました…すいません」
顔を真っ赤に紅潮させた少年は、四方の人々に謝罪の言葉を口にするが、

「…シンジぃ、ちょっとどころじゃなくって、思いっきり突っ伏して寝てたよ?」
「ほ、ホント? 僕、そんなに寝てたの?!」
「え〜、自分でもわかんないのぉ? シンジ疲れすぎ! …寝不足なの?」
傍らのマナが、少年の肩を軽く叩きながら、混ぜっ返すような表情を向ける。

それに対して、同席していた開発員のひとりである中年職員が、
「おいおいマナちゃん、その責任は君にあったりするんじゃないかい?」
「「どーしてですかっ?!」」
からかい半分の声と共に、室内に微かな笑いが広がり、シンジとマナは顔を更に赤くさせて俯いた。



シンジとマナが定例報告の場から去った後。
議事録をまとめていた進行担当の職員が、作業の手を休めてふと、時田に語り掛けた。

「…霞村副部長、今日も欠席でしたね…」

それに対し時田は、構わんさと告げると、
「彼女もここの所、機体の修復作業で多忙だったからな。…たまには休ませてやれ」

そして机に向き直ると、手元にあった数枚の紙に眼を遣った。

(…そうか…。 やはり、もう駄目なのかも――知れんな…)

報告文書の下に隠してあった、数枚の紙片。
それは、「碇シンジ」の名前が刻まれた、医局発行のカルテであった。


「かくて、世界は定められし筋書きのままに――…か」


時田は夕闇せまる会議室の、洩れる陽に紅く染まった窓枠に向き直ると、その眼を伏せた。






Ultra_Violet
#22 "Memory"






翌日。
シンジはレイと、新吉祥寺へと続くリニアの車内にいた。

昨日の朝の教室でレイは、シンジに買い物に付き合うよう要請するという意外な行動に出た。
彼女が所望する「この間の報酬の新バージョン」とは、以前彼女に贈った、ネコのぬいぐるみの新製品に相違ない。
レイの申し出を戸惑いつつも受諾したシンジは、彼女と共に休日午前の車中の人となったのだった。

リニアは、彼らと同じく繁華街を目指して移動する人々でやや混雑していた。
列車の織り成す、緩やかな振動。足元より吹き付けてくる冷房が、少年の短パンの裾を揺らし、窓枠より差し込む暖かな陽光を赤いTシャツの背に受けながらも、シンジはえも言えぬ緊張に表情を強張らせて、レイと隣り合った座席にその身を置いている。

「……」
一方、傍らのレイは、いつになく口数が少ない。
普段の彼女ならば、緊張しているシンジをネタに、目的地に着くまでさんざ冷やかしの言葉を、あの悪戯な笑顔と共に容赦なく投げ掛ける筈である。
…やはり、この間のことを自分同様、気にしているのだろうか…。
シンジの胸中には、そのような忸怩たる思いが、引きも切らずに渦を巻いていた。


新吉祥寺に着いたふたりは、車内と同じく微妙な距離を保ちながら、目的地であるデパートへと続く大通りへと歩みを進める。
シンジは何気なく周囲の店のショーウィンドウを物色していたが、その内に彼の視線が、傍らの少女に釘付けとなった。
「……」
白い半袖のブラウスに、モノトーンで配色されたチェックのスカートというこの日のレイの服装は、普段着を持たず、常に制服を着用していた印象を強く持っているシンジにとって、ひどく新鮮に映った。
「…どうした?」
「う、ううん、なんでも…」
思わず見惚れてしまっていた事を彼女に悟られぬよう、シンジは通りの反対側に視線を慌てて移した。

使徒の襲来により、周辺住民の段階的な疎開が始まったものの、まだまだ繁華街における休日の大通りは盛況を保っている。
時刻はまもなく正午を迎えようという頃合であり、通りを往く人々を強い日差しが容赦なく照りつけている。

「暑いな…」
額ににじむ汗を拭いつつ、シンジは一向にペースアップしない、デパートへと続く人々の流れに辟易した表情を浮かべていた。

ふと、再び傍らのレイに視線を向ける。
レイは彼の数歩分後ろで、その歩みを止めていた。

「…綾波、どうしたの?」
店先の前で立ち止まり、ウィンドウを見つめているレイの姿に既視感を覚えたシンジだったが、彼女のその視線は果たして、ファンシー雑貨店のそれではなく、こじんまりとしたカフェに向けられていた。

「……?」
数歩戻って、レイの隣でカフェのショーウィンドウを一緒に覗き込むシンジ。
そこには、コーヒーやジュースといった定番メニューのウィンドウサンプルが手狭なショーケースに窮屈そうに並べられていて、その上段にはストロベリーやヨーグルトといった、パフェのサンプルが列挙されている。
…どうやらこの店は、パフェ類にも力を入れている様だ。

そして一際異彩を放つのが、ケースの端に貼り付けられていた"特大チョコレートパフェ"の、
"挑戦者求む"やら、"死んでも知らんぞ"なる刺激的な文字列が並んだポップであった。
これはよくある、制限時間内に平らげれば無料といった、アトラクション的なメニューなのであろう。
レイは、先ほどからその"死んでも知らんぞ"の方を一心に見詰めている…。

「…綾波」
まさか、という声を喉奥に呑み込みつつ、シンジは傍らの少女に訊いた。
「食べるの…――?」

こくん。

レイは当然、とばかりに肯くと、背を向けて足早に店内に入っていってしまった。


「――ご注文はお決まりですか?
 …はい、アイスコーヒーと… 特大チョコパフェですね。
 6番、アイスワン、『バケツパフェ』ワンです〜」

10分後、シンジ達の元へ、店員が口走った通りの、バケツいっぱいに食材が林立している恐ろしいばかりに巨大な代物が、ゴトリという重い音と、確かな振動をテーブルに伝えて届けられた。

ビールのピッチャーをひと回り大きくしたような、透明なバケツの隅々までに、アイスクリームやヨーグルト、チョコシロップや各種フルーツ、コーンフレークらがふんだんに敷き詰められ、その上部にはひときわ大きなアイスの山脈がそびえ立ち、外堀をチョコシロップやフルーツの切り身が取り囲んで、更にはポッキーが降り注ぐ槍のように突き刺さっている。

「………」
あまりの絵面の強烈さに、シロップ瓶を手にしたまま言葉を失ってしまうシンジ。一方のレイは、

「殲滅する」
その言葉と共に、妙に柄の長いスプーンを手にして、襲来せしめた巨大な相手に、嬉々とした様子で格闘しだした。

シンジは、眼前に置かれたアイスコーヒーの氷が溶けるのも気付かない程に、唖然とした様子でレイの食べっぷりを見詰めている。
レイは、一気に流し込むような食べ方をせず、ゆったりと一定のリズムで少量ずつ口に運んでいる。
何かのテレビ番組で見掛けた事があったが、大食いする際にはその方が負担は少ないらしい。

(これは、ひょっとして…――)



――20分後。
シンジの目の前に、バケツが置かれていた。

「…碇。 食え」

「3分の1も減ってないじゃないか!?」
シンジは自分でも驚くほどに凄まじい勢いで、向かい合った少女に渾身のツッコミをくれていた。

一定のペースで順調にバケツパフェを消費していたレイであったが、バケツにそびえ立つ氷山の上部とその周囲の刺客どもを平らげたあたりから目に見えてペースダウンし、本丸である中枢部の巨大アイスに差し掛かった所でおもむろにスプーンを置くと、ずいっと目の前の少年にバケツを押し付けたのだ。

これなら、普通のチョコレートパフェで十分に事足りたのでは?という意識が少年の脳裏を廻りだしたその時、レイは悪戯な笑みを浮かべると…

「…ほら、食べさせてやるから」
と、手にしていたスプーンでアイスの氷山をすくい、シンジの口元へと持っていったのだ。

(あ、ああ、あああああああああああああああああああああああああ〜〜…っ)

シンジの思考が瞬く間にショートし、顔の表面が火を点けられたように燃え盛っているのが判る。

「どうした? ほれ」
ゆっくりとした口調で、レイは先程まで使用していたスプーン上のアイスを、赤面かつ硬直している少年の口に運び、食べさせた。

白濁する思考、パニック寸前の少年は羞恥と喜びのせめぎ合いの中、ひとつの内なる叫びが、激しく鼓動を伝える胸中を駆け巡っていた。
(こここ、これじゃ、これじゃ…)


「…これじゃ、恋人同士…じゃない…」

目深にかぶったハットの下から、搾り出すようなつぶやきが洩れた。
栗色の髪が、深くかぶったハットの裾からのぞいている。
その髪と同じく、ブラウンの瞳を曇らせた少女が、カフェの外の電柱に身を寄せ、中の様子を窺っている。

少女は、シンジが朝、自らの部屋を出てここに至るまでずっと、彼らの後を少し離れた地点より見守り続けていた。
休日の街に連れ立って出掛けた二人を人知れず尾行する、こんな真似をするのは、良くない事であるのは彼女は充分に理解していた。
それでも…――
彼らの後を追わずには、いられなかったのだ。

だが、悲しさと切なさ、焦燥に震える少女の肩に、突如として何者かの声が掛けられた。

「そうだね」

「!?」
振り返った少女の背後に、制服姿の銀髪の少年が微笑みを浮かべつつ起立していた。

「…やはり彼らが気になるかい? …霧島マナさん」
「あなた… 誰?!」
警戒に身構えるマナに、銀髪の少年は笑みを絶やさず、

「僕は…、シンジ君の味方さ。
 そして、綾波レイの同僚ということになるのかな」
「…NERVの…人ね?」

「そうなるね。 …僕は『渚ヒカル』。
 出来る事なら、彼らの後は追わない方が良い」
「…!!
 ――放っておいてください…!」

「そうかい…。ならばこの先…。
 僕はキミに再会を約束しないといけない事になるね。
 そして――。キミの心を救う事になる」
「結構です!」

銀髪の少年を突き飛ばしたマナは、駅前へと駆け戻る。
それを見守った彼は、視線を巡らせ、店内のシンジ達に微笑を送ると、

「今の僕にしてあげられる事なんて、ごく僅かだ。
 残された時間、限られた逢瀬――。大切にするんだよ、シンジ君」






結局、シンジもバケツパフェの圧倒的な物量の前に屈し、残すところバケツおよそ半分を以ってして、ふたりはカフェを後にした。

シンジは必ずしも満腹に至った訳ではないが、それ以上にレイとの、いわゆる「あ〜ん」行為がバケツを平らげるまで延々と続行するのを恐れたからだ。

(あんなところ誰かに見られたら 僕…)
いま思い出しても、顔が熱くなっていくのが手に取るように自覚できる。
シンジは、傍らのレイに赤面しているのを悟られぬよう小さく咳払いをすると、目指すデパートへの道を再び辿り始めた。


シンジが二週間ほど前に、あのネコのぬいぐるみを買い求めたのは、この街の中央部に建つ、デパートの玩具コーナーの一角であった。

時田より手渡された、爆弾入りのぬいぐるみを引き裂き、廃棄したシンジは代用品を求めて、この新吉祥寺に急行した。
だが以前、制服姿のレイが見詰めていたウィンドウを備え持つファンシー雑貨店では、既に件のぬいぐるみは売り切れており、焦燥に駆られたシンジが街中を駆けずり回って、やっと見つけたのが、今彼らが足を踏み入れたデパートの子供用品フロアだったのだ。


「で…っ、でかい…」
ぬいぐるみ売り場に陳列されていた、「新製品」と銘打たれたポップを傍らに従えたそれは、前回買い求めたそれよりも更にひと回り大きな、白いネコのぬいぐるみであった。

「身長/約1m(等身大)、だって…。
 なにそれ…」
思わずつぶやいてしまったシンジであったが、レイは気に留める様子も無く、早速展示台に鎮座まします新バージョンのそれを抱き上げている。

店員の説明によると、新バージョンというのは、使用された素材がより肌に心地良いものになり、さらに等身大にスケールアップで、3種類の表情からお選びいただけて以下省略。
無下に断ることも出来ず、ひとまず店員の説明をやり過ごしたシンジの肩を、何か柔らかいものがノックした。

「ニャニャニャ」
かえりみたシンジの後ろに立っていたのは、ネコのぬいぐるみを抱き、その腕を持ってシンジの肩を楽しそうに叩いている、レイの悪戯な笑顔であった。

「…なんだよ綾波、いきなり…」
面食らった表情のシンジが、にまー…と笑うレイに付き合いきれない様子で告げると、

「何だもなにも、この子はこういう風に喋るのだ。
 そうだな、例えば…。
 碇シンジは、すけべニャ〜
 ム ッ ツ リ すけべニャ〜」

などとぬいぐるみの陰に隠れて声色を使い、好き放題レイが言いまくる。
「あっ、綾波ぃー!」
顔を真っ赤に染めたシンジが止めさせようとするも、レイは聞き入れず、やれパンチラを見られただの、寝ているところへ部屋に入って来られただのと吹聴して回る始末。
シンジは、真剣に今日、彼女の買い物に付き合ったことを後悔し始めた。


ぬいぐるみを購入したその後も、ショッピングモールを歩いたり、併設された観覧車に乗ったりと、気がつけばふたりは、出発直後とは打って変わって、打ち解けた空気に包まれていた。

「…綾波、お待たせ。 …あや…なみ?」
帰り道、立ち寄ったゲームセンターの内にあるトイレから用を足して出て来たシンジは、そこで待っているはずの少女が見当たらないことに気付いた。

「綾波… あやなみ…!」
言い知れぬ胸騒ぎが不意にシンジの胸を締め付け、それと共に押し潰される様な感覚が少年の身体を支配し、シンジは不安に彩られた口調を隠せず、やや広めの店内を探し歩いた。

「綾波!」

「――何だ、碇シンジ。 …私は此処にいるぞ」

必死な表情で店外に出たシンジを待ち受けていたのは、穏やかな微笑を浮かべたレイだった。
「あや…なみ… よかった…」
だから、店内に居ろと怒るはずだったシンジは、全身を包む安堵感とレイの微笑みに勝てず、その場にへたり込むよりなかったのだ。






夕暮れ時。
空が赤く染め抜かれ、やがて来る夜の闇に備える頃、シンジ達はレイのマンション近くの公園のベンチに佇んでいた。

何故か…。レイは部屋には帰りたがらない様子だった。

基本的には、碇シンジという少年は無口な部類に入る。
であるが故に、会話を求めようとする相手にはおしなべて、どこか苦手意識を持っているのだが、今日のレイには、例えこのまま会話が全く無かったとしても支障ない。
そういった確信にも似た感覚が、彼にはあった。

「……」
ベンチの背もたれに身を任せ、夕闇迫る空を見上げるシンジ。

「碇、シンジ」

そこへ彼の傍らから、ネコのぬいぐるみの白い頭がやにわに飛び出してきた。
シンジが視線を巡らすと、ぬいぐるみを抱え、腹話術の真似事をしているレイの姿が目に入った。

(また僕…ぬいぐるみで遊ばれちゃうのか)
心の中で苦笑するシンジ。レイの持つ白いネコが、少し緊張した声色で彼に問い掛けた。

「…霧島さんとは、うまくいってるのかニャ?」
「そんなんじゃ…ないってば」
「本当かニャ〜…?」

レイの白いネコが、疑問そうに小首を傾げてみせる。
それを見たシンジは苦笑し、言いよどみつつもこう告げた。

「僕なんかに構ってくれてる…彼女の気持ちはとても…
 嬉しいんだ。でも…僕には…とても…その…」

そう、彼の目的は、彼が逆行した真の目的とは、マナと結ばれる為では…ない。

「…じゃあ、綾波レイたんは?」
再び、レイのネコが問うた。

「…どっちの…さ?」
「……」

暫しの沈黙の後、

「二人目」

「………」
「…………」
「………」
「…………」

意を決したように、身を強張らせると、シンジは…
うめくように、言葉を絞り出した。

「ごめん…」

「……」

「いつか言ってたように…
 綾波は… 二人目の綾波は…
 僕が、一番…逢いたかったひとなん…だ…」

「………」

「僕が… 此処に来る以前に…
 綾波に…二人目の彼女に…
 とても、とても…近い感じを持ってたんだ。
 うまく…言えないんだけど…
 僕の…失くした半身のような…そんな感覚を、持ってたんだ」

「………」

「綾波なら…分かってくれる。
 他の誰に拒絶されたとしても… 綾波なら…
 そう、綾波なら… ずっと、そばにいてくれる…
 そばに…いて…ほしい… いつの間にか…そう、
 思ってたんだ…」

「………」

「僕は…弱いから、 ダメな奴だから…
 あの頃は、生きるのがとても…辛かった
 目の前は…真っ暗だった」

「………」

「でも…
 彼女となら… 綾波となら…
 互いを支えあって… 生きていける。
 どんなに暗い道でも、綾波となら…歩いていける。
 そう、心の底から、思えたんだ…」

「………」

「ものすごく…勝手で、迷惑な言い草だけど…
 綾波のそばが… 綾波そのものが…
 僕の、世界でたったひとつの
 居場所だったんだと…思う…」

「………」

「好きだって… ことなんだと… 思う」


「………」

「………」

「………」

「…綾波?」

「………」

「あの…あやなみ…?」
押し黙ってしまった少女が心配になり、シンジは思い切って少女の方へと振り向いた。

「……っ、……ぅっ、……うぅ……っ!」

レイは…ぬいぐるみを抱き締め、唇を噛んで…、
両の紅い瞳いっぱいに大粒の涙を溜め、泣き出しそうになるのを懸命に堪えていた。

「…わかった…」

「……」

「貴様の…気持ち…は…わかっ…た…」

「…ごめん… その… 本当に…。ごめん…」

「だが… このままでは私の気が…収まらない…。
 碇… 碇シンジ、謝るなら…、態度で示して…くれ」

「た、態度って…」

困惑するシンジの問いに、レイはゆっくりと…瞳を閉じてみせた。
それが意味する事は、いかなシンジであろうと、気付かぬはずはなかった。
レイは、彼にキスして貰う事を、望んでいる…。

「!! なッ…! 駄目だよ、綾波…」
レイの行動が意味するところを理解したシンジは、弾かれたように声を上げた。
だが…

「一度…。一度でいいから…
 貴方と…こうしていたかったの…だ」
レイのその言葉に、シンジの意志はグラリと揺れた。

「〜〜〜〜〜…!」

目を瞑り、両の手を握り締めて、シンジは身を震わせる。
そこへレイの、彼女がいつもシンジをからかう時の声色が聞こえてきた…。


「出来ない、のか?」


「!!」

レイがそう告げた次の瞬間、シンジはレイの身体をやにわに引き寄せると…、
強く…、強く、彼女の唇に吸いついていた。

「…っ!! …!、…!、……っ!!」
蒼銀の髪をかき抱き、精一杯の力を込め、少年は少女の唇を夢中でむさぼっていく。

レイは、少年の取った、彼らしからぬ強引な行動に驚きを隠せず、赤い瞳を見開いて動揺を露わにしていたが、自らの身は少年のか細い腕の中にあり、彼が行っている行動は彼女が欲した、くちづけに値するものだという事を認識すると…、次第に身体の強張りを解いていった。

だが、シンジの取った次の行動は、レイの動揺を再び極限まで高めるものであった。

「んふっ!?」
「……! ……!!」」
シンジの舌が、レイの口中に入り込んだのだ。
少女の上下に割られた口径部。その内に、少年の舌が、ある明確な意思を持って侵入を果たした。

「!!」
レイの身体が、波打つようにビクンッと跳ねた。
シンジの舌が、彼女の舌に絡みついたのだ。

「んッ!んうぅ…っ、ふぅっ、んっ、んん…ん!」
赤い瞳に涙をにじませながら、訳も分からずレイが喘ぐ。
だが、シンジは舌を絡ませる事を、止めはしない。

あの時、世界が滅んだ日。
彼の家族を演じてくれた女性が、最期に少年に贈ったもの。

――「大人のキス」…。

それを、シンジはレイに施していた。

これまでも、そして今日も。
この世界の「綾波レイ」は、事ある毎に自分をからかって来た。

勿論、そんな彼女の事は好きだ。
だが、これまでのささやかな返礼、お仕置きのつもりで彼は、衝動的にレイの唇を貪ったのだった。
しかし、今のシンジの脳裏には極限まで爆発的に高められたテンションが支配し、まるで、苛めるように、ひたすらにレイの唇を奪っていく事に集中を費やしている。

シンジの舌がレイの舌に絡みつく、ピチャピチャという音が口中より洩れ聞こえると、レイは更に羞恥が全身を駆け巡り、顔や頬を問わず、全身の肌を桜色に染めた。

「んッ、んうぅ…、んふっ、んん…っ、ん…」
レイの喉が、幾度も鳴る。
ひとしきりレイの口中を蹂躙したシンジは、外気を取り入れるため、レイの口唇から唇を、舌を離す。
すると、幾筋もの唾液の糸がふたりの舌先から引かれ、レイはそれに瞳を潤ませて魅入っている。

それも束の間だった。

「…ひぅッ?!」
再び、シンジの唇がレイの口唇に襲いかかったのだ。

またしても、強くシンジに唇を吸われ、レイは抱いていたネコのぬいぐるみを取り落とし、更に大きく、全身をビクンっと波打たせた。

「あ… ぁ… あぁ… あ…」
身体ごと、浮き上がるようなこの感覚。
それに否応なしに呑み込まれ、レイは彼にしがみつく事しか出来なかった。

――彼は、私の求めるそれより、遥かに許容量を逸脱した行為を与えている。
彼と私は、いけない事をしている。

一度昇り詰めた余韻の中、白濁した意識の中で、少女は少年を制する術を探った。
だが、それでいてぬくもりに満ちた腕と胸に抱きすくめられ、彼が与えてくれる彼の匂い、彼のぬくもりが、喩えようも無く、ただ、ただ、幸せで―――
レイは忽ち、考える事が出来なくなる。

少女の身体が、続けざまにビクン、ビクンと大きく震える。
頭の中が白くなって何も考えることが出来ず、渾身の力でシンジにしがみついていた。

幾度となく、唇を奪い続けていたシンジの自我が、時間の経過と共に落ち着きを取り戻し…
やがて、彼は自身がレイに対してどのような行為を繰り返していたかを、自覚する瞬間が訪れた。

「…――え…っ、あ、あ…綾波?!
 そッ、その、あの… ごめん! ごめんなさいっ!!」

彼の腕の中で、恍惚とした表情で半分意識を失っているレイの姿を認めたシンジは、半泣き顔で彼女に謝罪を繰り返した。

だが、レイは――赤い瞳を涙でいっぱいにしながら、シンジの薄い胸に顔を埋めると…
もう一度、今度は彼女から…シンジと唇を、重ね合わせた。






我に返ったシンジが、あまりの刺激に気を失ってしまったレイを、慌てて彼女の部屋に運んで介抱し、自宅である日重の社員用マンションへと帰って来たのは、夜半を過ぎた頃であった。

ふと、彼は短パンツのポケットに、小型のカメラのような代物が入っている事に気付いた。
「…なんだろ、コレ…」
手の平にすっぽりと収まる程度の大きさのそれは、側面に見覚えのあるロゴマークが貼り付けてあるのをシンジは認めた。

「これって…。"グラビィ"…?」
いつぞや、トウジらクラスメート達とゲームセンターに行った際に話題に上がった、小型のビデオ撮影筐体の存在が、シンジの脳裏に浮かんだ。

『撮ったら、こんぐらいのちっこい箱が出て来よるから、
 後で撮った内容を見れるっちゅう寸法や』

トウジの言葉がリフレインする。
もしかすると、これは誰かの撮影済みの物かも知れない…

「……」
暫しの逡巡の後、意を決したシンジは側面のボタンに指先を押し込んだ。
すると、グラビィが起動し、数センチ四方のレンズから光が発する。

どうやらこれは、小型のプロジェクターの役目を果たしているようだ。
壁に人影らしきものと、本体より女性の音声が洩れ聞こえる。
『…と、これでいいのかしら』

「……」
部屋の電気を消したシンジの眼前に現れたのは、白いブラウス、モノトーンのチェックのスカートの、蒼銀の髪を持つ少女の姿だった…。

「あやなみ…」

『…碇くん、いま… どうしていますか。
 もう、家に帰って、これを見てるの…かな』

両腕に、白いネコのぬいぐるみを抱いたレイが、はにかみつつカメラの前で話し掛けている。
レイはどうやら、シンジがゲームセンターに用を足しに行った際に、これを撮ったと思われるが…

ふと、シンジは映像の中のレイが纏っている雰囲気が、普段と違うことに気が付いた。
「…え…っ? あや…な…み…?」

映像の中のレイは、いつもの悪戯な笑みを浮かべるわけでもなく、かといってトレードマークである、軍人を思わせるような口調でもない。

「いったい… どう…し…て…」
シンジの困惑を他所に、映像の中のレイは、穏やかに微笑むと、

『…こんな形でしか、伝えられなくて… ごめんなさい。
 私は… あなたが探し続けてくれた、"二人目"の私 …です
 でも…、この世界の私の話し方って、難しいから…
 とっくにあなたは…気付いているかも知れない』

「!!」
シンジの頭の中が真っ白になり、えも言えぬ衝撃が駆け巡る。
口の中はカラカラに渇き、声無き声が喉奥より搾り出される。

『私は… あの時、あなたの心を傷つけてしまって…
 もう、あなたを辛い目に遭わせたくない、
 逢ってはいけないと思って… この世界に逃げ込んだの。
 そして…、何年も…この世界の私に潜んでいたわ』

「あや…な… 綾…波…!」
シンジは、愕然とした表情で、二人目のレイの姿を見詰めている。

『でも』

『本当は… それでも本当は… あなたに… 碇くんに…逢いたかった。
 あなたが…私の知っている「碇くん」だと知ったとき、とても… 嬉しかった。
 …だけど、私は…この世界の私の気持ちを…知ってしまった』

「……!」
シンジの脳裏に、あの時の悲しい情景が…甦る。

"私を見ろ! 碇シンジ!!"
シンジに対し、真摯な想いを抱いていた、この世界の綾波レイの涙。
彼女の意識下に潜んでいた二人目のレイは、彼女の悲しみを汲み取り…、決意させた。

『これ以上、私が居たら… 存在したら…
 この世界の私も、そしてあなたも…また傷つけてしまう』

寂しそうに… とても… 寂しそうに。
微笑みをたたえていたレイの表情が曇り、堪えきれずに…俯いた。
そして… やっと、顔を上げると――出来うる限りの、明るく、晴れやかな表情で…
レイはシンジに感謝の言葉を告げた。

『碇くん… 私を見つけに来てくれて… ありがとう…。
 本当に、ほんとう…に… 嬉しかった…
 今日のことは… 私の記憶の中で一番、大切な…思い…出に…しま…す…』

レイの声が…みるみる涙声にかすれていく。
それでも… レイは最後に、にっこりと微笑むと、

『この映像をあなたが観る頃には… 私はもう、此処にはいない。
 でも私はずっと…、彼女とあなたの幸せを、応援している』

シンジの視界が、何も見えなくなる程に、滲んだ。


『いつまでも、いつまでも… 見守っている――』


「そん…な…、 そ…ん… な…事っ…て…!」
喉が詰まり、押し留めようも無い激流が、込み上げる。
二人目のレイは、彼があれ程までに再び逢う事を望んだ少女は、この世界の綾波レイのため、シンジの為に…今日を最後に彼の前から、姿を消す事を示唆したのだ。

慣れない話し言葉を駆使して、この世界の綾波レイを演じ、パフェを食べさせ、 ぬいぐるみでシンジとじゃれて…――レイは、残されたただ、今日という一日を、精一杯…シンジと過ごす事を望んだのだった。
だから、苛めるように唇を重ねられた時、彼女は涙を流して、喜んでさえいた…。

(どう…して…、ど…う…して…!)

「あや…な…み…――!!」

呼吸も出来ないほど、息も継げない程に嗚咽が体を突き上げ、突っ伏する。
シンジは、激しく慟哭する。嗚咽に身を震わせながら、泣きじゃくった。

「…っ、うぅっ…!、うああぁあぁああぁあああぁああああぁぁぁ――っ…!」



その声を、シンジの部屋のドア越しに悲痛な面持ちで聞いている、マナの姿があった。






+続く+





++あとがき++

もし、今回の内容で表現が不快に感じられたら、ごめんなさい。
ちなみに、今話のシンジ君と綾波さんの服装は、貞本版コミック7巻のカラーイラストから参考にさせていただきました。




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こちらのページから


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