広大な面積の部屋、その中心には異様な形の紋様が、赤く浮き上がっている。 ぽつんと設置された執務机を拠り所に、両手を組んだ男と、その傍らに立つ長身の男の姿があった。 「──…諜報部の報告によるとファーストチルドレンが、 いつぞやの日重のサード奪還に関わっていたそうだ…」 「……」 長身の男が重々しい口調で口を開いた。 だが、机の男は変わらず沈黙を貫いている。 「どうする碇…? これではこの先、計画にも支障をきたしかねんぞ」 「… ──問題ない」 冬月が手にした報告書には、諜報部長たる加持リョウジの署名があった。 彼が此処本部に帰還してからというもの、日重への疑惑の数々が立て続けに白日の元に晒されている。 (──やはり、数多のプロを束ねる程の男は違うという事か) 初老の男はそう呟くと、 「──あれは幼少の頃からお前を見て育った所がある。 それゆえ話す口調といい、どこかお前に似たフシがあったが…」 それにしてもいささか独断が過ぎんか、と続けようとした冬月は、彼の眼下に居座る黒尽くめの男の表情を目の当たりにして、次の言葉を紡ぐ事を放棄した。 長身を窮屈に折りたたみ、両の手を組むその男のサングラス越しの眼には、明らかに狼狽と寂寥感が滲み出ていたからだ。 この男は、彼にとって総てと言える存在を亡くし…、以来、誰に縋る事をも自ら拒んで来た筈だ。 だが…、彼が創りし息子、そして少女は、彼が想定し得なかった行動を取り続け、遂には自らに背を向ける行為に至った。 この男──碇ゲンドウは明らかに傷付き、狼狽していたのだった。 (やはり、この男に斯様な大任は、さすがに荷が重すぎるか…──) 冬月は独りごちた。 #18 "「僕はただ、もう一度 綾波に逢いたかったんだ」" 蛍が、舞っていた。 幾つもの蛍が、雷鳴を宿した分厚い黒雲、血の色のように赤い海の広がるこの世界に舞っていた。 その下では、痩せ衰えた小さな人影が、何度も崩れ落ち──這いつくばっていた。 西暦2016年、3月05日。 A-801発令により、特務機関NERVは超法規的保護を破棄、戦略自衛隊による軍事介入を許した。 翌3月06日、人類補完計画がゼーレにより発動。 サードインパクトが発生…。 少年は、全てが終わりを告げた世界にただひとり、取り残された少年であった。 身も心も傷つき、疲れ果ててしまった少年。 彼の周囲には、彼が知る人、よくは知らない人、──好きだった人、嫌いだった人… 少年の知る限りの人々へ向けられた、数多の墓標が点在していた。 これらの人々はもう、見渡す限り広がる赤い海の一部となって、帰っては来ない。 少年は、もうすぐ尽きるであろう自身の命の灯火を、彼らの墓標を積み上げる事に費やそうと決めた。 何故かはよく分からない。 ただ、少年の胸の内には彼らに対する罪悪感、自分が勇気を振り絞らなかったばかりにこの事態を引き起こしたという自責の念が、重く帳を下ろしていた。 「………」 うす汚れた包帯を、身体のあちこちに巻いた少年はやがて、 やっと出来たばかりの、瓦礫を積み上げた墓標───それに崩れるように身を預けた。 黒く、分厚い雲に覆われた空を見上げた、少年の視界が滲む。 最後のひとつを積み上げる、その使命、その事実を拒む様に。 そう、その最後の墓標の主とは、彼がひょっとすると恋心に近い感情を抱いていた少女。 一緒になりたいと願った彼を守りたいが為に、自らの死を選んだひと──…… 宙を見据え、声にならない声で、少年は哀願するように喘いだ。 「…綾波… ──あいたい…よ… あやな…み…──!」 血と泥に汚れた少年──碇シンジの頬に、涙が伝う。 掠れた声で嗚咽する少年を、見守るように… 蛍が舞っていた。 『逢いたいの?』 彼の耳元で、不意に誰かの声が響いた。 「──?! え…ッ…」 何が起こったのか理解出来ないまま、周囲を見渡すシンジ。 これは…、初めて聞く声ではない。断じて。 『「あの子」に、逢いたいの?』 また、声がした。 しかも、先程とは全く真逆の方向から。 「だれ……な…の……──?」 シンジは狼狽しつつも、自分以外の誰かの声に必死に応えようとする。 だが、彼の周囲には人影らしきものは何処にもいない。 『ここにいるわ』 彼の視界に、白く光る物体──とても、とても小さな…── 蛍がいた。 「……きみ……が…──?」 『そう』 また別の方向から、蛍が来た。 ひとつ、また…ひとつ。 黒雲が立ち込め、薄暗く映るシンジを照らすように… 蛍たちが、シンジの周囲に集まっていた。 「君たちは……──?」 『わたしたちは、』 『かつて 綾波レイ …と呼ばれたもの』 『その、容れもの』 「!!」 シンジの脳裏に、かつて二人目の綾波レイを失った直後にリツコに見せられた、ターミナルドグマの映像が甦る。 リツコの手によって、次々と崩れゆく綾波レイたち。 それが今、彼の前に姿を変えて現れたというのか… 『わたしたちは、綾波レイの魂の容れもの』 『赤木博士に、壊されるまでは』 『でも、それぞれ少しだけ… 魂があった』 『だから、今はこうして あなたを見守ってる』 「そう…か… 君たちが…──ッ!!」 そこまで言い掛けて、シンジはハッと口をつぐむと、悲痛な表情に顔を歪めた。 「ごめん…──! あの時、僕は君たちを助けてあげられなかった…! なにも出来ないで… 震えて… い…た…… 本当に…、本当…に… ごめん───!!」 顔を覆い、眼を固く閉じて、悔恨に涙を滲ませる少年の傍らを…、蛍たちは優しく照らした。 『気にしないで』 『気にしないで』 『気にしないで…』 『それよりも』 『「あの子」に… 逢いたいの?』 頷くシンジ。 『ほんとうに?』 頷くシンジ。 『ほんとうに?』 何度も、何度も。 シンジは頷いた。 『…「逢わせる事」は出来るわ』 「!!」 レイの容れもの達の返答に、シンジは大きく眼を見張った。 「どう… すれば、──どうしたら、僕は綾波に逢えるの?!」 『「あの子」は…』 『自爆した「あの子」は』 『今はこの世界には、いないわ』 「え………」 『此処とは少し違う、別の世界』 『そこに「あの子」は迷い込んだ』 『…いえ、自らそう選んだ』 「どう…して……」 『「あの子」が死んだ事で、』 『あなたは心が壊れるくらい悲しんだ』 『あなたを傷付けてしまった…』 『そう、「あの子」は思ったの』 ゴボ…ン。 シンジの眼前に広がる赤い海、その波打ち際に突如、人影らしきものが浮かび上がった。 …それは、片方の腕と片方の下肢を失った、傷だらけの白いプラグスーツの少女──… 「綾波ぃ!?」 弾かれたように叫んだシンジは、赤い海に浮かぶ少女に夢中で駆け寄り、その身を抱き上げる。 だが、少女には…息がなかった。 「あ…ゃ… な…ッ」 『…「あの子」の身体よ』 『わたしたちの力では』 『そこまでしか救い上げられなかった』 『でも、この身体に「あの子」を入れれば…』 『「あの子」の魂を入れれば…』 「彼女は… 綾波は…」 ──生き、還るの…? 「──…それで、キミは"トリガー"と、このカプセルを携えて…、 この過去の世界にやって来たわけだ…」 うす暗い室内に、時田の声が響いた。 「……」 「以前いた世界を飛び出した、キミの想い人だった『二人目の綾波レイ』の魂── それは、巡りめぐって『この世界の綾波レイ』を仮の棲家とした」 「……」 シンジは、ただ…無言を貫いている。 「彼女と再会するには…『この世界の綾波レイ』を殺害し、 『二人目の綾波レイ』の魂を"トリガー"を利して採取。 然る後に、このカプセルの中の綾波レイに魂を吹き込む…」 無表情のまま語る時田。 その傍らには、かつて彼がシンジを日重に引き入れる際に使用した脅迫写真と全く同じ、二人目の綾波レイの身体が収められたカプセルがあった。 「それがシンジ君、キミの"目的"だったのではなかったかな?」 「…………」 沈黙のまま、俯くシンジ。 「私の目的に付き合ってくれた返礼として、 小型爆弾入りのぬいぐるみを、キミに届けさせたんだが… よもや当のキミが、綾波レイ殺害を放棄するとは思わなかったよ」 シンジがレイにぬいぐるみを届け、駅で彼女と別れた後に彼を待ち受けていたのは、忸怩たる表情を隠せないでいる時田の姿であった。 彼ら二人は、日重前線基地の地下室、二人目の綾波レイの身体が安置されている部屋に居た。 「…時田さん、──僕…は…」 シンジが声を発する。 だが、それは迷いと苦悩を露わにした、とても弱々しい響きであった。 暫しの沈黙。 やがて、時田は強張らせていた表情を緩めると、 「…分かっているとも。 目的の為とはいえ、元来キミは殺人など、とても出来るような人間じゃない」 「──ぼく…は…」 「…ましてや、性格が違うとはいえ、好きな娘と全く同じ姿だ… 躊躇するのも、仕方ないさ」 「ど…う… すれば…──いいんですか…ぁ…!」 堪えきれず、シンジの双眸から涙が溢れた。 時田はシンジの肩に手を置くと、諭すように続けた。 「…キミがこの世界に逆行を果たしてから、 どの様な感想を持ったかは判らんが…──私が思うにこの世界は、 我々がかつて生きていた世界とは、少し違うようだ」 「……?」 潤んだ瞳のまましゃくり上げるシンジ。 「…まず、使徒の存在だ。 キミも知っての通り、我々が逆行を果たしてから遭遇した使徒達。 ヤツらの襲来時期、襲来順…それらすべてが、全くのデタラメだ」 「…確かに、そうですね…」 「さらに、キミより更に以前に逆行していた私だから言えることかも知れないが… NERVを例にとっても然り、この世界の人々は、我々の居た世界の人々とは若干、 変容をきたした状態でいる…」 「…どういう…事ですか…?」 「分かり易い事例で言えば、この世界の綾波レイだ。 無口でクールですらあった筈の彼女が、この世界では傍若無人であり、 また、ネコのぬいぐるみを欲しがるほどに少女らしい一面を持っている」 「………」 「少しずつ…人々の配置が違っているのだよ…。 例えば」 不意に、地下室の出口が何者かの手によって開かれる。 「!!」 咄嗟にレイのカプセルの前に立ち、身構えるシンジ。 それを時田は微笑を以って制すと、 「構わん、入ってくれ」と、突然の闖入者に入室を促した。 時田とシンジ以外は、入ることが許されぬ、秘密裏の部屋に入って来たその者は…─── 「あら、お久しぶりね」 細身が魅力的な、理知的で美しい女性。 それは、マナとのデートの朝、日重の社員寮の階段でぶつかった、あの女性だった。 「紹介しよう。私の妻、ナオコだ。 ──旧姓は、『赤木ナオコ』」 「ええ───っ?!」 シンジの脳裏に、LCLで皆と溶け合った際に得た知識が駆け巡る。 赤木ナオコといえば、MAGIの基礎理論と本体を開発した、NERV技術本部長・赤木リツコの母である。 そして2010年、MAGIシステム完成後、彼女を揶揄した一人目の綾波レイを情動的に絞殺してしまい、自らも発令所から投身自殺を図った… その彼女が生きていて、しかも寄りによって時田と添い遂げているとは…! 「主人がいつも、迷惑掛けて御免なさいね」 呆然とするシンジに、済まなそうに控えめに微笑む彼女は、とても一人目のレイを絞殺したとは思えない。 「ちなみに、彼女は日重の誇る"頭脳集団"を取りまとめ、 作戦時のMAGIハッキングに絶大なる貢献を果たしてくれている…」 「"頭脳集団"って、あの先生だけじゃなかったんですか?!」 「爺さんひとりじゃ、"集団"は名乗れんだろ」 「……ぐっ、…確かに……」 「…それよりも、彼女が此処に居る事が重要なのだ。 ナオコが生きて此処に居るという事。それは…」 「綾波が… 一人目だと… いうこと…」 その頃、第3新東京市内にある、賃貸マンションの一室。 ゲンドウの用意した廃団地への入居を拒んだ綾波レイは、此処に自ら部屋を借りて、生活していた。 年頃の女の子の部屋にしてはやや無機質な感が拭えないが、それでもシンジ達が居た世界の綾波レイの部屋よりは、少女らしい内装を施してある。 ピンナップひとつない、あっさりした外観の部屋の端に木組みのベッドが置かれ、その上で下着にワイシャツ姿のレイが、傍らの白いネコのぬいぐるみを手に取っている。 「……碇、シンジ。…──か…」 少年より手渡されたぬいぐるみを抱き、少女はベッドに横たわる。 今夜からは、あれほど悲しかった海の夢を見ようとも、大丈夫。 夢の中で溺れている少年も、このぬいぐるみを真摯に手渡してくれた少年も、同じ碇シンジなのだから。 (今夜、ヤツと逢ったら…。 次はわざと助けずいじめてやろうか…? ふふ…) 抱きしめたぬいぐるみの傍らで、いつの間にか微笑みを浮かべていたレイは、嬉しそうにそう、つぶやいた。 +続く+ ココノです。 という訳でして、綾波さんの正体はいわゆる「一人目」でした。 本作の綾波さんの秘密については、初登場時から、読者の皆さんより最も多くの関心が寄せられていましたが、いかがでしたでしょうか。 さて、正体も明かした事ですし、久々の人物メモをば。 ◆Ultra_Violet 人物設定メモ◆ 【 綾波レイ 】 ・前作「夏へのトビラ」がエヴァFFにおいて割と普遍的な性格をしているのに対し、今回は全く違う綾波さんを描きたかったという事からキャラ造型が始まる。 ・性格はある意味本編のレイと似通っていて、目的の為なら残酷な事も平気で出来そうな感じ。大袈裟に言えば戦闘マシーン。 ・その一方で死亡による記憶をリセットされる事がなかった為、学習期間が長く、最低限の常識や年齢相応の少女らしい感性を持ち得ている(ぬいぐるみや、縞々パンツ等)。 ・各方面に衝撃を与えた軍人口調は、ゲンドウらの倣岸な受け答えを幼少の頃より見聞きしていたから。 ・ただ、ゲンドウらに縋って生きる訳ではなく、「自分は何者なのか」という、不安定な自分の自我探しを優先している。 ・普段は一人目の人格で生活しているが、彼女の身体に逃げ込んだ二人目の魂や記憶が、顔を覗かせることも… ・学園ではクールで大人びた態度で密かな人気。 ・読者の皆様からの感想も、この綾波さんには賛否両論。 ・もっとも、こちらとしては当初総スカンになるとすら思っていたので、ある程度受け入れて頂けたようで嬉しい。 ・これからは、シンジ君と綾波さんを軸に物語が加速していきますのでお楽しみに。 (第18話現在) ++ 作者に感想・メッセージを送ってやってください ++ こちらのページから ■BACK |