NERV特殊監査部長・加持リョウジの執務室は、その肩書きにそぐわない程に簡素で、それでいて最も彼に相応しい立地条件を兼ね備えていた。

NERV本部、セントラルドグマ第4層。
作戦局第一分析室に程近い、階段の陰に隠れるようにして、その部屋は存在していた。

彼が、このような人目に付き難い場所を自らの根城としたのは、彼の帯びる任務柄とも云えるが、それ以外にも彼はこの隠者の如き空間を楽しんでいる節があった。
周囲の壁に溶け込んで、一見しただけではそこに存在している事すらも判別し難いような、くすんだ色彩に染まった扉。

惣流・アスカ・ラングレーが、その幾分錆びたドアノブを捻ったのは、彼らの不思議な友人である片目の少年が目を覚ましてから、ひと晩経った翌日の朝であった。

「…ありがとう。来てくれたんだね」

扉を開けた彼らを待ち受けていたのは、質素な事務椅子から半身を向けた蒼髪の少女と、その傍らの机に身を寄せて佇んでいる、片目の少年の姿であった。

蒼髪の綾波レイが向かっていたノート端末のデスクトップ。
その片隅には、規則的な数字の羅列──カレンダーが表示されている。

カレンダーは、2月12日を告げていた。

それは同時に、2人目のレイが自爆によって命を失うという悲しい運命を回避して、ひと晩が経過したという事を示していた。

過去に、片目のシンジが喩えようもない悲嘆に暮れたこの日。
彼の中で止まったままであった2月12日が、新たな意味を携えて、走り出す事を告げていた。






夏へのトビラ 最終話 「空のゆりかご」

NEON GENESIS EVANGELION
The Door into Summer:Final






「あのさァ…」
扉枠をくぐったアスカと過去のシンジが、どちらからともなく胸中にある疑問を、目の前の隻眼の少年に向けた。

「どうしてまた、加持さんの部屋なわけ?」



第十六使徒殲滅後、病院に搬送された片目のシンジが、目を覚ますまでの数時間。
NERV本部は、未曾有の混迷を極めていた。

使徒自爆の渦中に置かれながらも、奇跡的に無傷のまま回収された初号機エントリープラグ。
その最中、負傷した副司令の処置もさることながら、暴走した初号機に暴行を受け、重傷を負ったはずの総司令・碇ゲンドウが、行方不明となっていたのだ。

指揮系統を失ったNERVであったが、赤木リツコ博士の迅速な指示・対応により、夜半過ぎには混乱状態から一応の沈静化を見ることとなる。

その冷静なる手際に発令所に集う人々は目を見張ったが、さらに一同を驚かせたのが、片目の初号機パイロットへの処遇であった。

使徒殲滅に奮迅の活躍を見せたとはいえ、依然、片目のシンジの存在はゲンドウが指摘した通り、様々な矛盾と危険性を孕んでいる。
彼を排斥したゲンドウに追従するというスタンスを取るかのように思われたリツコであったが、彼女は隻眼の少年を厚く保護するよう命じたのだった。

そして、負傷中の副司令も、リツコの指示に反対の意向を示さなかった。

総司令が行方不明となった現在に於いて、片目のシンジを早急に処分しようとする動きは、NERV本部内からは立ち消えた。

であるにも拘らず、隻眼の少年はアスカ達を招くのに、隠者の棲家の如きこの部屋を選んだのだ。



「うん…。加持さんがこの部屋を使ってもいい、って言ってくれたんだ。
 それに、これから話す事のほとんどは、秘密にしていてほしい事ばかりだから…」

「…そう…」 「……わかったわ」
「…ん。じゃあ、何から話そうか…」

部屋の片隅に用意していた丸椅子をアスカと過去のシンジに勧めると、片目のシンジは寄り添うレイの傍らで、静かに語り始めた。

「…まず僕は、父さんが言っていたように、今とは違う世界──
 つまり、半年後の未来から『Door』に乗って来たんだ。
 綾波を助けたかったから…。そして…父さんの人類補完計画を止めたかったから」

アスカ達の表情が強張った。
時間を自由に行き来する装置の実験開発が進められていた事は、昨日のゲンドウの発言により、アスカ達にも知られる事となった。

だが、実際に片目のシンジの口から未来からやって来たという証言が伝えられると、それは少なくない衝撃と共にアスカ達の内に響いた。

「人類補完計画って…?」
「…なんていうか…。僕たち人類を一度全員殺して、魂だけの状態にして…、
 ただひとつの魂のカタマリにするんだ…。
 そうすれば、誰もかれもひとつにしてしまえば、争いだって、起きなくなる…」

愕然とした表情のアスカ達が叫ぶ。

「それって…」
「人類が、滅ぶって事じゃないの?!」

頷いた片目のシンジは、自身が辿ってきた歴史を回想する。

「それだけじゃないんだ…
 僕がいた世界では、トウジは僕に傷付けられて、片足を失った。
 アスカは使徒の精神攻撃に、ココロをもっと酷く壊されてしまった。
 加持さんは… 殺されてしまった。
 そのあと…
 戰自の攻撃と人類補完計画で皆、死んでしまった」

「……!!」
絶句するアスカ達。

経験した過去を語る事とは、すなわち彼にとって心に深く刻まれた傷をひとつ、またひとつとなぞって行く事と同義だ。
言葉が紡がれていく毎に、片目の少年から表情が消えていく。

それでも彼は、あの運命の日をぽつり、ぽつりと語り始めた。

「三週間後…、この本部が、襲われたんだ…、
 最初は…MAGIが…襲われて…
 そのあと…戰自が…銃を持った人たちが来て…
 次々と…みんな…殺されていったんだ…
 ミサトさんも…
 アスカも…
 みんな…、みんな…。

 殺された……

 僕は……

 ぼくは、何もできなかった
 ただ、ただ、泣いて、震えていたんだ…

 僕の、所為だ…
 何もしようとしなかった、僕のせいなんだ…!」


「……」


静寂が帳のように、室内を支配している。
彼らの目の前に居るのは、少女を守るべく必死に運命と戦ったパイロットの姿ではなく、肩を落として己の惰弱さを悔やむ、心の弱さを露わにした少年だった。

「碇くん…」

爪を食い込ませて、膝頭を掴む隻眼のシンジの手の甲には、いつしかレイの手のひらが重ねられていた。

暫しあって落ち着きを取り戻した片目の少年は、蒼白となった表情のまま、なおも言葉を、彼が経験した辛い未来を紡ぎ続ける。

赤い海に取り残された、孤独な彼の姿。
戰自に拾われ、虐待まがいの追求、戦犯としての人生。
汐浦ヒロシという見知らぬ男と暮らす、綾波レイの笑顔。

そして…。

失意と絶望の果てに辿り着いた先は、「Door」であった。

「『Door』に乗ってやって来たのは、2つ前の使徒戦の直前だったんだ。
 本当は、2016年の2月10日、一昨日に時間跳躍するはずだったんだけど…」

そこから先は、みんな知っての通りだよ、と告げる片目の少年に、アスカが問う。

「でもさ、アンタのいう通りだとすると…、
 ファーストったら、皆んな滅んだ後も生き延びて、
 未来で汐浦ヒロシって男と幸せに暮らしてるんでしょ?
 …こう言っちゃなんだけど、アンタがあんな目に遭ってまで
 ファーストを助けようとする必要、あるわけ?」

「それは…」
言い淀む片目のシンジ。

彼が、この過去の世界に危険を冒してやって来た本当の理由。
それは、2人目のレイを自爆から救うことであったのだ。
だが、それを話せば、自然とターミナルドグマでの出来事、そして、レイの真実についても触れなければならない…。

彼らにはまだ、話すわけにはいかない。
片目のシンジは、そう考えていた。

だが、彼の傍らの少女が、思いがけず口を開いた。

「…それは多分、代わりの私だと思うわ」

(…綾波?!)
「…どういう事?」

「…ターミナルドグマには、私と同じ姿カタチをした容れ者が何人も居るの。
 コピーされた"魂"さえ入れれば、『私』自体はいくら死んでも構わなかった。
 …本来なら私は昨日、碇司令が言っていたように…、使徒と一緒に自爆して死んでいたのかも知れない」

「え……」
「ファースト、アンタ…」

「あ、綾波…」

あまりの告白に呆然とするアスカ達の傍らで、狼狽した片目のシンジがレイを止めようと働きかけるが、彼女はそれをじっと見詰める事により制した。

"もう、大丈夫だから"
と。

「人類補完計画が実行されれば…、私は全てを無に帰すための引き金にならないといけない。
 そのためには、どうあっても今の私のカタチは失われる事になるわ」

再びアスカ達に向き合ったレイは、淡々とこれから自らに起こり得る運命を語った。
彼女がいつ補完計画に於ける自らの役割を悟ったのかは不明であるが、片目のシンジが発動された補完計画の後の世界からやって来たというからには、リリスに還った自分の姿を目撃している筈だ。

綾波レイの真実を、知っているはずだ。


──それでも。

──彼は、私のような存在の為に、この世界に来てくれた。

レイは、それがとても嬉しかった。

「…まぁ、いいわ」
ややあって、アスカが髪をかきあげ、背筋を伸ばして言った。

「いくら代わりがいるったって、
 アタシ達とこれまで一緒に戦ってきた綾波レイって子は、
 アンタひとりしかいないんだから。
 …シンジだって、このファーストを守りたかったんでしょ?」

「うん」
「なら、良かったじゃない…。
 …それからさ、司令やアンタが言ってた"汐浦ヒロシ"って男、結局の所、なんなの?
 未来の世界じゃ、そいつとファーストが恋人同士だったんでしょ?…一体、どんな物好きよ」

「……」

アスカのさり気ない毒舌に、そっぽを向いて拗ねるレイ。
彼女の頭を撫でつつ、片目のシンジが困ったように答える。

「…実は僕も、どんな人かは知らないんだ。…でも、もうすぐ分かると思うよ」
「正体がわかるっていうの?」

頷いた彼は、アスカ達の背後に当たる扉を目で追った。

「この部屋で僕と会う予定なんだけど…」

彼がそう言い終わるより早く、錆の入ったドアノブが回り出す音が室内に響いた。


──まさか。


軋んだ、耳障りな音を立ててドアが開く。
少年達の驚愕を隠し切れない視線が、一斉に開いた先に注がれる。



そこに立っていたのは──伊吹マヤであった。







The Door into Summer
FINAL
"A Cradle of Sky"







「…マヤちゃんが未来から…? …君じゃなくて?」
加持リョウジの驚いた声が、裸電球の薄明かりに照らされた、この隠し部屋に響く。

「そう。私は過去も未来も、『Door』みたく危険な代物のお世話にはなっていないわ」

加持とミサトが呆然としている様子が、彼らを背にしている状態でもリツコは手に取るように判って、少し可笑しくなった。

事の真相を教えるとの伝言を受け取ったミサトらは、総司令の執務室の奥、『Door』が設置されている隠し部屋で(この時代の)伊吹マヤと共に作業に取り組む伝言の主・リツコの姿を認めた。

手を休めることなく『Door』と向き合う彼女の口から告げられたのは、未来からこの過去の世界へやって来たのはリツコではなく、伊吹マヤであるという、彼らの思いもよらなかった証言であった。

「さらに言うとね、初号機のダミープラグにウィルスを混ぜたのも、
 ニセ使徒事件も"未来から来たマヤ"がやった事なの。
 …まぁ、ニセ使徒事件は私も協力したから、あの子が単独で行ったのはウィルスを混ぜた程度ね」

「…という事は、リッちゃんやマヤちゃんは…」
「そうね、"汐浦ヒロシ"は、私とマヤが正体という事になるわね」

「でも、どうしてマヤちゃんはそんな事を…」

「さぁ…ね。未来に不満でも、あったんじゃなくて?」








「未来を、変えたいと思ったの」
ぽつりとマヤが告げた。

「あの時、人類補完計画が実行されて、私も一度は皆と同じようにLCLに溶け合ったわ。
 …でも、その際に先輩が余りにも酷い最期を迎えていた事を知ったの」

最後までゲンドウの愛を得る事無く、あまつさえ彼に射殺されるという、敬愛する赤木リツコ博士の無残な運命。
それを知ったマヤは、片目のシンジと同様にLCLに溶け続ける事を拒み、荒涼とした現世に戻って来た。

そして、廃墟となったNERV本部跡地で『Door』の扉を開いたのだ。
彼女は、あのような運命をリツコが辿るのならば、そして、それを止める事が出来るのならばと思い立ち、『Door』の起動ボタンを押した。

片目のシンジが瓦礫の街で『Door』を発見する、わずか数日前の事だった。

「2015年12月18日。これが、私の指定した跳躍予定日よ。
 つまり…。フォースチルドレンの男の子が起動実験をする直前の日ね。
 その日の深夜、プラントに忍び込んだ私は、ダミープラグにウィルスを混入したの」

赤木リツコの有能な助手である伊吹マヤは、ダミープラグの開発に関わっていた。
ゆえに、トウジが片足を失った事、シンジの悲痛に満ちた絶叫、己を責め続けた姿は、彼女の心の底に重い帳となって沈み込んでいた。

ダミープラグの使用は、どう足掻いても止められはしない。
それでもせめて、4人目の適任者を、シンジを救いたかった…。

彼女もまた、この時間跳躍の旅を、贖罪の旅と捉えているようであった。

「…私は、この世界に元々いた私に会って事情を話して、
 時々、交代で発令所に出させてもらえるように協力を頼んだの。
 先輩に未来を伝えて、碇司令からどうか一線を引いて下さる様お願いする事と、  碇司令の人類補完計画の妨害ね。
そしてそこへ、私と同じように未来から、シンジ君がやって来たの──」

早朝の発令所に現れた片目の少年は、未来からやって来たマヤに、とある人物のデータ検索を依頼する。

その名は、"汐浦ヒロシ"──

「…本当の事を言うと、汐浦ヒロシという職員は、MAGIの職員名簿には記録されてなかったわ。
 ──でも、これは使えるかも知れないって思ったの。
 丁度、事故になったD計画の人体実験の被験者は、頭文字が"S"だったし。
 それで、私の代わりに人類補完計画を妨害する謎の人物として、彼の名前を拝借する事にしたの」

「…じゃ、じゃあ、あの時、僕にくれたハードコピーは…」
「勿論、私の創作物よ」

唖然とする片目のシンジに、マヤの声が響く。

「…でも、まさかその時は、
 シンジ君も『Door』に乗って未来から来ていたなんて知らなかったし、
 碇司令たちがシンジ君のことを汐浦ヒロシにしてしまうなんて、
 予想もしてなかったんだけどね…」

ゲンドウの確信犯とはいえ、片目のシンジにあらぬ疑いをかける遠因を作ったとして、マヤは申し訳なさそうに俯いた。

「…リツコさんが、父さん達に未来を教えたって言ってましたよね?あれは…」
「先輩は、シンジ君が『Door』を使ってこの世界に来た事には、
 かなり早い段階から気付かれていたの」

マヤが片目のシンジがこの過去の世界にやって来ている事に気付いたのは、MAGIに記録された、過去のシンジを監視する諜報部の報告を盗み見したからであった。

リツコが隻眼の少年の正体を暴き、排斥しない様に説得する必要を感じた彼女は急遽、メールを送付し、彼女が見た未来を余すところなく伝えて、その上で彼女に協力するよう懇願した。

暫し困惑を隠せなかったリツコであったが、やがてマヤの申し出を受ける事となる。


だが…───







「アンタは、それでも碇司令の側に付くことを辞めなかったのね」
ミサトの問いかけに、リツコは僅かに頷いた。

「どうしてかしらね…。
 あの子から、あの人の望む補完計画の結果を知って…、
 焦っていたのかしらね…
 このままでは、私は本当に、あの人からほんの一瞥も貰えないまま、
 終わってしまうと思ったから…」

「だから、未来の事も、…片目のシンジ君の事も全て話したのかい」

「本当に…。どうかしていたのかしらね…。
 もう、とっくの昔にどうすることも出来なくなっていた筈なのに」

マヤの妨害工作を手伝う一方で、リツコはゲンドウらに未来の情報を提供していた。

その中には、人類補完計画実行の際の戦闘、ゲンドウの手により射殺されるリツコ、リリスに還るレイ、そして、そのレイに拒まれ、初号機に食い殺されてしまうゲンドウの末路も含まれていた。

だが、未来を教える事によって、補完計画実行を翻意してくれれば、というリツコの内なる願いは成就せず、逆にゲンドウの補完計画に対する執着を、狂気の次元にまで至らしめる結果となったのだ。






「そういえばシンジ」

語り通しだったマヤがお茶を飲んで小休止する間、いつの間にか丸椅子から、ちゃっかり背もたれ付きの事務椅子に乗り換えていたアスカが、シート部を回転させて隻眼のシンジの方へ向き直った。

「ん?」
「昨日、初号機が暴走して、司令を殴ったじゃない?
 あれはさすがに驚いたけど…もっと驚いたのが、
 初号機がトドメ刺そうとするのをアンタ止めたでしょ?…どうしてかなと思って」

「ああ…アレは」

──初号機が暴走し、発令所の奥にいるゲンドウに攻撃を加えたあの瞬間。

彼は、ATフィールドを通じて、ゲンドウの右掌に棲むアダムに、一瞬であるが接触を果たしていた。

アダムから発せられた意志の波が、プラグ内の片目のシンジの脳裏に流れ込む。
それは、ゲンドウがアダムを我が身に取り入れる直前の情景を、映し出していた。




「…気持ちの整理は、着いたか」
冬月の抑揚のない声が、冷気の立ち込める執務室の壁に溶けていく。

ゲンドウは、未来を知るというリツコより、二人目のレイが心を持ち、それを密かに受け継いだ三人目のレイの裏切りによって、彼の思い描いてた補完計画は土壇場で失敗。
意識下でユイとの再会を果たすものの、直後に初号機に殺されるという未来を聞き、この上ない衝撃を受けていた。

2週間、出張と称して本部から離れたゲンドウ。

束の間の逃避の内に彼が導き出した結論とは、リツコの願いとは裏腹に、これより一切の妨害を許さず自身の補完計画遂行に邁進する。
そして、計画を妨害する者がいようものなら、全力を上げてそれを排除する…
という物だった。

そこに、この補完計画を妨げようとする者、"S"、そして片目のシンジが現れた。
この片目の少年は、本当に未来よりやって来た実の息子なのかも知れない。

だが、自分の計画──ユイと再会する──を妨害するものは、敵と見なさねばならない。

再び、冬月が問う。

「お前に、それが出来るのか?
 あの、片目の少年を──実の息子を、消す事になるのだぞ」

「──構わん」

──それに、補完直前で記憶が甦った、シンジを想う心を持ったレイが自分を裏切るというのならば、そうなる前に「取り替える」までだ。

代わりなら、いくらでもある。

「…思えば、レイをシンジと引き会わせたのは間違いだったな。
 今在るレイを第16使徒戦で自爆させた後、三人目のレイには、
 より無機質な「魂」のバックアップを用意させる」

「…狂気の沙汰だな」

「ああ。…狂うさ 冬月。狂ってみせるさ──…ユイに、逢う為ならばな」
口元を笑みに歪めるゲンドウ。

──まずは、あの片目の少年からだ。
    "S"に対する見せしめの為にも、病院内で暗殺などという事はせず、奴を想うレイと共に消してやる。


──そうだ、私の計画を妨げるものは、ユイとの再会を妨げる奴は、縊り殺してやる──




「……」
誰も言葉が出せなかった。

ただ、ユイに逢いたいという、自身の願いに魅入られ、取りつかれたかのようなゲンドウの悲しいまでの狂気。
それがアダムを通じて知った片目のシンジは、ああまで必死に初号機を、母を制止したのだ。

「…僕は今も、父さんのやってる事は正しいとは思えない…。
 でも、もし、僕が父さんと同じように、大切な人を失くしたら…
 そして、その人と再び逢える手段があるとわかったなら──。
 僕だって、正直どうするかわからないんだ…」

だが、そのゲンドウも重傷の体で、数名の子飼いの保安局員と共に姿を消した。
そして、ターミナルドグマのダミープラントから、魂を埋め込まれたレイの容れ者が一体、消失している事を、片目のシンジ達はマヤの口から聞かされる。


ゲンドウは、あくまで補完計画の遂行を諦めてはいない。








「これから後の事なんだけど」
過去のシンジが口を開いた。

「この本部が攻撃される前に、あと何回、使徒は攻めて来るの?」

「あと…。ひとりだけになるわ」
複雑な表情でマヤが答えた。

恐らく、隻眼のシンジと同じ情景が、脳裏に浮かんでいるのだろう。
赤い瞳の、フィフスの少年の姿を──。

「ひとり?」

「うん…。最後の使徒は、僕らとそう変わらない…人間の男の子なんだ。
 そして…。綾波を失って酷く悲しんでいた僕を救ってくれたんだ」

ぽつ、ぽつと言葉を紡ぐ隻眼のシンジ。

「でも…僕は…彼を… カヲル君を…。殺さなきゃいけなかった
 殺さないと…人類が滅びると思っていたから…
 本当は、補完計画によって人は滅びるのに…」

片目のシンジの言葉に、アスカ達が再び沈黙する。
この、自分の傍らにいる碇シンジと、わずか半年余りしか生きている時間は違わないのに、この片目の碇シンジは、なんと辛い運命を経て来たのだろうか。

アスカは、俯き、やっとの思いで言葉を紡いでいる隻眼の少年の悲しげな横顔を見詰めながら、独りごちた。

「だから、皆がカヲル君に会ったら、戦わずに共に生きていけるよう、説得して欲しいんだ」

片目のシンジは、皆に訴える。

必ずしも、渚カヲルと人類は殺し合わなくとも、共に生きる道はある筈だと。
彼も、決して死すべき存在、死んでいい存在などではない。

了承するアスカ達。
だが、ふと彼女の胸にひっかかるものがあった。

「…ねぇ、『説得してほしい』って…。アンタは、説得に加わらないの?」
「それは無理なんだ…。僕がこの世界にやって来て、活動できる時間はもう残り少ないから」

「え……?」
「なによ…それ」
「碇くん… それ、聞いてないわ」


──しまった…。


明らかに失策したという表情を隠せずにいる片目のシンジに、チルドレンの追求の声が飛ぶ。

「いや、その、えーと…。大したことじゃないんだ、その…」
「…『Door』の被験者は、粒子分解の副作用で、40〜50日までに元の時代に戻らないと、身体が崩壊しちゃうのよ」

真実を語る訳にもいかず、答えあぐねている隻眼のシンジの横で、マヤが答えた。

衝撃のあまり硬直する一同。
そして、片目のシンジはアスカらの集中砲火を浴びた。

「…大した事あり過ぎ!!」
「ちょっとアンタ、こんな事してていいの?!」
「碇くん…!」

「う、うん…。ごめん…でも、もう、覚悟してるから」

レイ達の反応にしどろもどろになりながらも、隻眼のシンジは努めて落ち着いた口調で答える。

『Door』が故障している以上、彼に消滅の運命から逃れる術はない。
ここで胸の内に渦巻く、狂おしいほどの消滅への恐怖を露わにしても、レイ達に心配をかけるばかりである事を彼は知っている。

彼は、周囲には自分は未来に戻った事にして、何処か誰の目にも付かない所でひとり静かに消滅するつもりでいたのだ。

レイが両の瞳に涙を溜めて、今にも泣き出さんばかりの表情で彼を見詰めている…。

(ど、どうしよう…)
こちらも泣きそうになる。

だが、意外そうな表情で問う者がいた。

「え…。シンジ君、どうして未来に戻らないの?」
「どうしてって…マヤさん、『Door』壊れてるんじゃ」

「ううん、もう直ってるわよ」




「……へ?」




「碇司令には半分しか直ってないって言ってたけど…、
 あれは昨日のように、『Door』を悪用された時用のウソなの」

実はマヤは、リツコと『Door』の修理をゲンドウ達が留守の時に大急ぎで進めていたという。

「…私がこの時代に移って来てすぐに『Door』が火事を起こした事があったんだけど、  幸いにも動力部が駄目になった程度で、肝心のチップ等は殆ど無事で済んだのよ」

元来『Door』は作動時に電力を瞬間的に大量消費するので、筐体内の温度が上がりやすく、火事を引き起こしやすい性質の物であった。
それゆえ、防火対策は設計の段階から念入りに施されていたのだ。

マヤの言葉に、片目の少年の思考が真っ白になる。

「じゃ…、それで僕はあの時、無事に過去まで行けたんだ…。は…は…」
「ええ。…それに私だって未来に帰りたいですもの。必死になって直したわ」

「そ…。それはそうです…ね…。あは…はは…」
体中の力が抜けていく。
それは、喩えようもない安堵の脱力であった。





「それはともかくとして」
マヤが、いつになく深刻な表情を示した。

「まだサードインパクトは回避できるかは確定してはいないけど…。
 私達は、明らかに歴史を変えてしまったわ。
 レイちゃんは生き残ってくれたし、此処にいるシンジ君はもう、
 未来で辛い目に遭ってこの時代に時間跳躍するという事は、ありえないと思うの」

「そうですね…」

「恐らく、私達が帰る未来は全てが覆った後の世界──。
 私達が望んだ未来に近いものだと思うわ。
 でも、心配事がひとつあって…──」

「帰った先の未来で、僕らはどうなるのか──ですか…」
隻眼のシンジが、胸中に浮かんだ懸念を口にする。

彼らは、悲し過ぎる未来を変えるべく、この過去の時代に跳んだ。
しかし、歴史を変えてしまった以上、以降この時代の碇シンジと伊吹マヤが彼らと同じく『Door』で過去に跳ぶ事は無いであろう。

ゆえに、片目のシンジとマヤが本来帰るはずだった、悲しい未来は失われてしまった。

「そうね…。恐らく、私達は別の未来に戻る事になると思うわ。
 此処にいる誰もが変わらず、そのまま生き続ける、
 それでいて私達の知る悲しい未来とは違う未来へ、ね」

「タイムパラドクスね…」
アスカが呟く。 その隣では過去のシンジが、ちんぷんかんぷんといった様子で首を傾げている。

「そこでは、時間の迷子の私達を拒絶するのか…
 それとも、この過去に来たのと同じように変貌した未来は私達を受け入れてくれるのか──
 こればっかりは、やってみなくちゃわからない事なの。
 なにせ、こんなの他に例のない、初めての事だものね」

「……」

片目の少年達は、答えを見付ける事が出来なかった。

果たして彼らは、無事、彼らが望んだ未来に戻ることが出来るのか、それとも、時間の因果の鎖により、未来に戻る事を拒まれるのか──


「…そろそろ整備も終わった頃でしょうし、私は先に未来に戻るわね。
 再チャージに数時間かかるでしょうから、シンジ君、悪いけどその間待っておいてね」

マヤはそう伝え残すと、この部屋から去っていった。








片目のシンジは、通い慣れたチルドレン専用の控室にいた。

ほんの数十分前に、伊吹マヤは『Door』を再びくぐっていった。
そして、あと数時間後には、自分もあの『Door』のカプセルの中に再びその身を収め、未来へ帰還できるという。

「……」

思えば、色々な事があった。
自分はいつも悩み、絶望に押し潰されそうになり、泣いてばかりいたように思える。

だが、こんなに弱く、情けない自分でも…
レイを自爆から、救う事が出来た。

後は、アスカ達が、自分が居ない時にレイを守ってくれればいい。
ゲンドウが2人目のレイから離れた今、彼女が補完計画に利用される可能性は格段に低くなっただろう。

──出来うる限りの事はした。 後悔なんて、ない──

あと数時間で戻れるものの、彼は自身の身体が、徐々に熱を失っている事に気付いていた。

消滅の時は、すぐ傍まで来ている。
だが、不思議と、このまま消滅しても構わないとさえ思えるほどに、彼の胸の内は穏やかだった。

不意に、控室の扉が開いた。
そこには、レイの姿があった。

「碇くん…──」

「綾波…」
どこか思い詰めた表情のレイは、足早に片目の少年の方へ歩み寄ると、ぽふっと彼の胸に抱きついた。

「行ってしまう…の…?──」

「うん…」
彼女の問いかけに、ゆっくりと頷く。

レイは、片目のシンジから離れようとしない。
ただ、ひたすらに彼の薄い胸板に顔を埋めている。

ふと、彼のワイシャツの胸の辺りが、濡れている事に気付いた。
それは、彼の胸に身を預け、白いワイシャツを握ったまま、小刻みに肩を震わせている、眼下の少女によるものであった。


レイが、泣いている。

──綾波が、泣いてくれている。

──僕なんかの、ために。


熱を失いつつあった彼の胸板。
そこに、少女の涙の暖かさが染みて、再び熱を取り戻していく。

「あ…やな…み…」

掠れた声で、片目のシンジは眼下の少女に語り掛ける。

「僕…は…。
 弱くて…。情けなく…て…。
 右眼だっ…て、…ないのに…。
 なの…に… 綾波…は…」

ぼやける視界の中、唇を噛み締め、涙を懸命に堪える。
最後くらい、涙を見せずに伝えたかった。

暫しの間の後、片目の少年は、精一杯の笑みで少女に告げた。

「こんな、醜い僕を、想ってくれて、…ありがとう」

「……」

隻眼の少年の言葉に対し、レイはゆっくりと彼の耳に両手を伸ばすと、かつて右眼のあった部位を覆っている眼帯を外し、頭部に巻いている包帯を緩めた。

「あ……」

シュルッという音と共に包帯が床に落ちると、その下には、無残にえぐれた醜い傷跡が露となる。

反射的に手で醜い素顔を隠そうとする少年を優しく制すると、
レイは微笑み…、
その傷跡に、──キスをした。


(あ……)


「私は…碇君と…ひとつに、なりたい。
 私を守ってくれた…やさしい、片目のあなたと、ひとつになりたい」


(あぁ…、 あ…)


片目のシンジの眼から、堪え切れず涙があふれ出す。

少年は、少女の身体を強く、抱き締める。
泣きじゃくりながら、嗚咽しながら。


遂に、互いの想いが結ばれた。








『Door』が、重厚な唸りを上げて、起動する。
カプセルの中には、片目の少年が微笑んで佇んでいる。

「いろいろ、本当にありがとう」
「こっちは頑張るから、安心して未来に戻ってね」

彼の視界に映るは、仲間たちの手を振る姿。

「碇くん…!」

そして、想いが通じ合えた、いとおしい少女。

駆動音が加速し、室内に轟音が響き渡る。
振動は床を伝わって彼らの身を小刻みに震わせる。

その時、レイがカプセルの方へと駆け寄った。

「碇くん!」
「綾波…?!」

「碇くん、私…、迎えにいくから…!
 …補完計画が実行されても、未来が変わっても、いつまでも…待ってる!」

カプセルに両手をつけたレイは、必死に筐の中の片目の少年に語りかける。

「うん…。うん!」
カプセルの内側に両の掌を当てて、懸命に頷く片目のシンジ。

「未来でもう一度逢えたら──そうしたら、私と──」





いっしょになって、くれますか…?





片目のシンジはその言葉に涙しながら、それでも喜びに力強く答えていた。

「もちろんだよ、綾波…! それこそ、僕の望みなんだ。
 僕は、綾波を幸せにしたくて、この世界にやってきたんだ…!」

「いい、シンジ君…。行くわよ──2016年の06月03日へ」

リツコの声と共に、光に包まれた彼の身体が、未来へと転送された。








──これで4度目の時間旅行だけど、不思議と今回は悲しい夢を見る事はなかった。
    この跳躍の果てに、僕に──歴史を変えた者に、世界からの審判が下る。

──綾波、きっと寂しがってるだろうな…。
    どうしても、どうしても、もう一度綾波に逢いたい。


──だから僕は、時間を駆ける。
    時間を駆ける。

──時が、僕の周りをすごい勢いで駆け巡る。


──もうすぐだ、


──もうすぐだ。──








片目のシンジが再び眼を覚ましたのは、彼が身を横たえていた砂の感触と、その耳に飛び込んでくる波の音に反応したからであった。

覚醒しきっていない頭をもたげて、周囲を見渡した片目の少年は、視界に飛び込んできた光景に、愕然とさせられた。

うず高く積もる、瓦礫。
廃墟の街。

彼が元居た世界と寸分変わらぬ荒れ果て様であった。
そして、彼の傍には、波が打ち寄せる砂浜が存在する。


──まさか…


あれ程までに手を尽くしても、それでも、サードインパクトという運命は変える事は出来なかったのか。
NERVの人々は死滅してしまったのだろうか。

となると、レイも─……

彼の思考が、絶望的なベクトルに急速に向かいかけたその時、かすかに人の声を聞いたような気がした。
その声は、瓦礫の山の向こうから聞こえてくる。

そう、その声の主は、間違える筈もなく──

「碇くん!」

綾波レイ、彼女であった…!
こちらに向けて駆け寄ってくる少女の姿を認めた片目の少年は、少女の名を叫びながら、駆け出した。

「いかり…くん!」

涙を浮かべ、いっぱいの笑顔でレイが飛びついてくる。

世界は滅びていなかった!

「おかえりなさい、碇くん!」

レイを強く、抱き止めた片目のシンジは目を瞑って、やがてその閉じたまぶたから涙をあふれさせると、自分を信じて待っていてくれた少女に、涙にかすれた声でこう告げた。





「ただいま…、あやなみ…!」










<エピローグ>






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