額に滲み出た汗の滴が、左の瞼の傍を通って、頬を滑り、首筋を伝う。

瞼が震えている。
口元も、無意識の内に僅かに振動を伝えている。

片目の少年は、彼の額に突きつけられた無機質な鋼の前に、身じろぎも出来ずにいた。


銃口。


彼の世界が滅んだあの日、彼を狙い、追い詰めたもの。
あの日、彼の周りの優しかった人、厳しかったひと、よくは知りえなかった人、全ての人間を壊していったもの。

それが今、彼を知る人、彼に優しくしてくれた人、加持の手によって、向けられている。

加持がこれまでの任務で、どれほど自らの手を汚して来たのかは、以前いた世界でLCLに溶けた際に、記憶として残っている。
普段の飄々とした物腰からは想像出来ないほどに、暗殺任務の際の加持は、冷徹にして無慈悲。

冷たい銃口を向ける加持の目からは、たとえ指一本でも動かそうものなら、何の躊躇いもなく片目のシンジの眉間を撃ち抜く、そんな意思が感じ取れた。

それを知っているが故に、片目の少年は、ひとことも発せなかった。
身動きひとつ、取れなかった。

たったの数十秒だろうか。
あるいは、数分だろうか。

鉛のように重い沈黙が、ふたりの周囲を支配していた。

隻眼の少年は、氷の手で心臓を鷲掴みにされたような感覚の前に、完全に我を失っていた。
ここで、自分の命運は尽きてしまうのか。
綾波を、助けられないまま…

そんな思いが頭の中をぐるぐると回る。
彼の目が見開かれたのは、それから数秒後であった。

「だが、その前に…」
加持の口がゆっくり開くと、銃口が下がる。

「君に聞いておきたい事がある。…個人的にね」
「……」

加持が拳銃を持つ手を、片目のシンジから逸らした事を受けて、彼は手足の緊張を少しだけ和らげて、小さく、息をついた。

「俺としては、君を消すという仕事よりも、むしろ君に興味があるもんでね…。
 そうあっさりと仕事を終える訳にはいかない」
拳銃を背広の胸ポケットに収め、代わりに煙草を一本取り出して、ゆっくりと火を点けると、加持は再び片目のシンジに向き合う。


「君は一体、何者なんだ?」






夏へのトビラ 第十四話 「欲しいものは、何ですか?(前編)」

NEON GENESIS EVANGELION
The Door into Summer:14






「どういう…ことでしょうか──」

「君は、何処から来た誰なのかってことさ」

震えの入った片目のシンジの声に、加持が答える。

「知っての通り──エヴァンゲリオンは、
 選抜されたチルドレンにのみ操縦することが可能な代物だ。
 なのに、サード・チルドレン碇シンジ以外の人物、つまりは君が、
 初号機を平気な顔で操って、しかもこの間の使徒戦では、
 アスカもレイちゃんも歯が立たなかった相手の殲滅に成功した──」

加持の言葉に、片目のシンジの表情がみるみる青ざめていく。

「君のデータをこっそり見せてもらったが…、
 DNAのひとかけらに至るまで、シンジ君と同じ──全くの、同一人物と来ている。
 つまり、この世に碇シンジという少年が、ふたり居るという事になるんだ」

言いつつ加持は、あちこちに破損が見受けられるベンチに腰掛ける。
その口から発せられる、まるで世間話のように何気ない言葉は果たして、着実に片目のシンジを追い詰めて行く。

「これらから推測される事は──そう多くない。
 そしてこれは、多分─当たってるんだろうが、
 君も、"あれ"に乗ってここにやって来たんじゃないかな」

「"あれ"って──」
茫然と立ち尽くす隻眼の少年に、加持は肩を竦めてみせる。

「──"D計画"」

加持は自身の推測の正否を確かめるまでもなかった。
片目のシンジの表情に、明らかに動揺の色が浮かんでいたからだ。

「…いつ、…知ったんですか…」
「これでも俺は、この組織の諜報部の端くれだからね…。一応の概要は掴んでいるさ」

「……」
片目のシンジは、今更ながらNERVという組織に対して、逃げ続けることなど出来ないという自身の認識を改めて再確認した。
そして、そこまで判っていながら、何故加持らが今のいままで、自分を始末しに来なかったのかという疑念がよぎる。

「まあ、俺がこの任務を受けたのは昨夜でね…。
 それまでは、失踪したシンジ君の見張り役を仰せつかっていた。
 …とはいえ、この事を知る人間は、ネルフに於いてもごく僅かだ。
 多分、普段君と接しているミサトあたりも知らないんじゃないかな」

「…」
「現時点では、俺は本気で君に消えてもらおうなんて思っちゃいない。
 …それより君は、何を知っていて、これから何をしようとしているのか、
 それが俺の一番知りたい所だ。…答えてはくれないかな」

「……」
沈黙が続いた。

肩を落とし、頭を垂れた隻眼の少年は、いつまでも続くかと思われた沈黙を、やっと、絞り出すような声を紡いで自ら破った。


「…加持さんが欲しいのは、…何ですか」


「……」

「…僕が欲しいのは、…僕が一番欲しいのは…僕の手には、届かないんです…」

片目のシンジの瞼に、昨夜、視界が潤む中、懸命に焼き付けた蒼髪の少女の寝顔が浮かぶ。
彼女に想ってもらえる資格も、時間さえも、自分にはない。

「…」

「僕を殺したいなら、それでも構いません。ただ…」
「…ただ?」

「その代わり、加持さんは…生きて下さい。何があっても、絶対に…」

「……」

「…加持さんがいないと、多くの人が、悲しみます。
 …辛い思いをします…。僕なんかがいなくなるよりも、ずっと…」

「…それが、…君の知る未来なのかい?」
加持は、全く表情を変えずに、同じ姿勢でベンチに腰掛けたまま訊いた。

「はい…」

数秒の間。
暫し躊躇した後、隻眼の少年は頷く。

「わかった」
加持は、すっかり短くなった煙草を足元に落とし、立ち上がると、


「碇司令達は、とっくに君の存在の矛盾に気づいている。…用心しても、し過ぎる事はないな」
ズボンの埃を両手で払いながら、加持は片目のシンジを残して、畑からゆっくりと去って行く。


「加持さん」


「…」

「加持さんが欲しいのは、真実なんじゃないんですか…?」

「…さあ、ね」


「父さんが…望む世界。加持さんが…知ろうとしている未来。
 それは…必ずしも皆が歓び合えるものなんかじゃ、ないんです…」


「…」



「絶対に…」








「総員、第一種戰闘配備」
「対空迎撃戦用意!」
警報音と共に緊迫感を伴ったアナウンスが、片目のシンジの居る筐にも響く。

片目のシンジは朝、加持と西瓜畑で逢うと、そのまま本部に留まり、自ら訓練を申し出た。
そして、初号機に搭乗したまま、使徒襲来に備えたのだ。


記憶によると、今回現れ出る使徒は、エヴァ弐号機が地表に現れるまで一切行動を起こそうとはしなかった。
さらに過去の歴史を辿ると、ミサトが出した零号機のバックアップという指示に激高したアスカが、レイに先駆けてリフトオフし、待ち受けていた使徒の精神攻撃に晒されたのだ。

…という事は、もし当初のミサトのプラン通り、零号機が弐号機より先に使徒の前に姿を現せば、レイが精神汚染の危機に瀕していたのではないか?

片目のシンジと出会ったばかりの、さながら無感情とさえ思えたレイならまだしも、この時期のレイは人間らしい感情を、心を手に入れつつある。

そんな中、彼女をアスカの代わりに使徒の精神攻撃に晒してしまえば、アスカ同様、心が壊されるという惨状は避けられないであろう。


片目のシンジは考える。


衛星軌道上から精神攻撃を加えて来る、第十五使徒アラエル。
奴を倒す唯一の手段、ロンギヌスの槍の必要性を、早急に皆に訴える手立てをどうしても思いつく事が出来なかった。

こうなったら、ロンギヌスの槍を使用する指示が下りるまで、時間を稼ぐしかない。

アスカを、あんな辛い目に遭わせる訳にはいかない。
綾波は…綾波だけは、何としてでも守りたい。


ならば、自分が行こう。


使徒の標的が、一番初めに地表に射出されたエヴァを狙うのなら、自分がアスカやレイの代わりに標的になればいい。

レイやアスカが非常召集を受けてNERVに到着するよりも先に、こうして初号機に乗り込んでおけば…、初号機凍結が成されていない今ならば、真っ先に初号機の出撃命令が下される筈だ。


「僕の心が壊されても…大丈夫。もうひとりの、僕がいるから…」

メインスクリーンに投影された、巨大な鳥を思わせる使徒の姿を見上げる発令所の面々を、モニター越しにぼんやりと見詰めながら、片目のシンジは呟いた。








「衛星軌道から離れませんね…」
「ここから一定距離を保っています」

青葉の声に呼応して、日向の報告が発令所に響く。

「降下接近の機会をうかがっているのかしら…。
 それとも、その必要もなくここを破壊できるのか」

彼らの背後でミサトが呟く。その視線は、先程からメインモニターに映る鳥の形をした発光体を睨みつけている。

「アスカと、レイは?」
「ファースト、機体共に順調。セカンドも起動可能。いけます」
振り向きもせずに発せられたミサトの問い、そしてマヤの報告が、片目のシンジの乗る初号機の回線にも届けられる。

「なん…だって?!」
片目のシンジの取り乱した声が、回線を通じて発令所に響く。

「…どうしたの、シンジ君」
「綾波が…、綾波が、もうここに来てるんですか?!」

「アスカもよ。もう、ふたりともエヴァに搭乗しているわ」
答えたのは、リツコであった。

「そん…な」
片目のシンジの胸の内に、さざ波が立つ。

使徒発見の警報が初めて発せられてから、まだ10分と経ってはいない。
通常、非常召集をかけて、チルドレンが学校やミサトの家から本部に到着するまで、早くとも20〜30分はかかる筈である。

それなのに、もうレイとアスカはそれぞれの機体に搭乗さえも済ませているという。

(使徒発見よりも早く、非常召集をかけてたっていうの…?)
片目の少年が唇を噛む。

そしてさらに片目のシンジを驚愕させたのは、サブモニターの映像を切り替えた先にあった、ロンギヌスの槍を手にして、リフトに向かって歩み行く、零号機の姿であった。








「…碇。果たしてこれで良かったのか」
「構わんさ。未来の為だ」

委員会の許可無くロンギヌスの槍を使用したとなると、一体どれほどの問題に発展するのか見当もつかない。 委員会、そしてゼーレへの反逆と取られる可能性が高い。

そして、他にも…

発令所の頂上部で、そんな冬月の懸念を、ゲンドウが刎ねつけた。




MAGIが衛星軌道上の使徒を発見するより早く、ゲンドウはオペレーターに命じて、片目のシンジ以外のチルドレン──レイ、アスカの携帯電話に非常召集のメールを打診していた。

まだ、警報も何も発令されていないNERV本部に違和感を感じながら発令所まで辿り着いた少女達に、ゲンドウは命じる。

「今回の戰闘は、弐号機が先行出撃し、次いで300秒後に零号機を後方援護に出す」
「レイ、ドグマに降りてロンギヌスの槍を使え──」




「エヴァ弐号機、発進します!」
リニアレール上の弐号機が、火花と共に射出される。

「ミサトさん!!」
轟音が辺りを包む中、片目のシンジの悲鳴にも近い声が回線に響く。

「どうして…!どうして、僕が先じゃないんですか?!」
「総司令の絶対命令なのよ…」

サブモニターに映る、いつになく焦燥を表情に露わにして食ってかかる片目の少年に対して、ミサトは目を伏せるよりなかった。

ここの所の、アスカの不調ぶりはこの発令所に居る者であるならば誰でも知っている。
当然、ゲンドウや冬月もそれを百も承知のはずである。

起動指数ギリギリのパイロットに課せられた役目。
それは、未来を知らないミサトであろうと、容易に想像できた。

司令達は、弐号機を、アスカを捨て駒にしようとしている。

どういった特徴を持ち、どういった攻撃を仕掛けてくるか常に見当のつかない使徒との戦いは、敵の情報を出来得る限り、早急に掴む事が重要とされる。

相手の攻撃方法を掴めたとしても、そこで初号機や零号機がその攻撃を食らって大破してしまっていては、反撃すらもままならない。

(碇司令たちは、やっぱりアスカを、囮程度にしか見ていないのね…)

前回、使徒かと思われた、未確認移動物体事件の記憶が甦る。

「弐号機、地表に出ます!」
マヤの声が響く。
その声に促されるままに、ミサトは視線を上に修正した。

(──がんばって、アスカ──)







The Door into Summer
#14
"Do you love me?"







雨が降り注いでいた。

兵装ビルの谷間に、赤い巨人が現れる。
弐号機は膝立ちの体勢を取ると、ライフルを構えた。

プラグ内のアスカの背後から、照準機付のバイザーが降りて来る。
それを装着した少女の視界に、光が三つ、浮かび上がった。

中央の光点が使徒、その周りで不規則な動きを取る2つの三角形。
その2点が徐々に中央の使徒に近付いて行く。


彼女を、弐号機を使徒の光が包んだのは、3つの光点が揃いかけたその時であった。




Hallelujah!
for the Lord God omnipotent reigneth...




「警報」のシグナルが激しく明滅する。
夕暮れと雨で、薄暗い市街地を、真昼のように照らす強烈な光。

だがその光は、兵装ビル等を吹き飛ばす事はなかった。
光に照らされる弐号機を見守る発令所にも、異常を感じた者はいない。

「敵の指向性兵器なの?!」
真昼の如く辺りを照らす光に、目を覆いながらミサトは叫んだ。

「いえ、熱エネルギー反応はなし!」
それでも、ミサトは異常を感じずにはいられなかった。
この、頭の中に直接、響いてくるような音は…

「オラトリオの『メサイア』…」
リツコが、耳を押さえ呻く。
彼女だけではない。この発令所に集う人々、あるいはケイジ内の他のチルドレンにも、その歌声は届いていた。




The kingdom of this world is become
the kingdom of our Lord and of his Christ...



「心理グラフが乱れています、精神汚染が始まります!」
振り向くマヤの声が、悲鳴混じりになっている。




Hallelujah.
Hallelujah.
Hallelujah...




「使徒の心理攻撃か…」
ミサトが、茫然と立ち尽くす。

更に───

「使徒が──!」
「きゃああああ?!」

青葉の声と、マヤの悲鳴が交錯する。
衛星軌道上に居た使徒が、急転直下、第3新東京市上空へと、降下し出したのだ。

「使徒、ジオフロント上空に接近! 高度300000、280000…!」
日向の上ずった声が、事態の最悪さを際立たせていた。

「なぜ─…どういうこと…!」
明らかに、狼狽の表情を露わにしたリツコが上空を見上げる。

もはや、兵装ビルの迎撃も間に合わない。
使徒は恐るべき速度で降下を果たし、既に肉眼でも確認が容易な地点まで達していた。

そして──

使徒は、ジオフロント上空で、その巨大な翼を広げ、静止する。
まるで、自らの巨躯を誇示するが如く。

神々しいばかりの黄金の光に包まれた、巨大な鳥が、無力な人類の頭上に降り立つ。
さながら、世界の終わりを見るようですらあった。






光と共に、ある意志が、アスカの中へと入り込もうとしていた。
それが何なのかは見当もつかないが、アスカはその身を固く抱き締めるようにして、その意志の侵入を拒もうとする。

だが、少女の必死の抵抗も実らず、それは容赦無く彼女の中に流れ込んで来た。

「いやあああああああああぁぁぁぁ!!」
アスカの悲鳴が、回線を通じて発令所に響いた。








アスカは、誰もいない、物音ひとつしない真っ暗な通路に立っている。

つい今しがた、この空間に訪れた筈である彼女は、その一方で、もう長い間この通路を歩いて来たような気もした。

周囲を見回す。
やはり、静寂と暗闇。

ただ、彼女はこの状況に対して、特に狼狽する事はなかった。
何故なら、彼女はずっと、この誰もいない、暗い通路を独り、歩いて来たのだから。

暗がりの通路をアスカは歩く。
いま迄と同じように、気を張り、懸命に強い振りをして。

ふと、通路の奥で、弱いながらもほのかな光を認めた。

何だろう。
爪先を、そちらへ向かわせる。

アスカが認めた光は、彼女との距離が狭まるにつれ、徐々にその度合いを強め、また、暖かな色彩を発している。

「…シンジ…」

その光の中心に居たのは、彼女がよく知る臆病で、自信が無くて、そして何より優しい少年の姿であった。

少女の姿を認めた少年は、優しく微笑む。
それを認めたアスカは、何故だか、声を上げて泣きたいという衝動に駆られた。

悔しかった。
認めるのが、たまらなく悔しかった。

自分がこれまで散々侮り、否定し続けてきた少年が、暗がりに閉ざされた、彼女の心に燈される唯一の暖かな光であるという事に気づいてしまったから。

否、既に彼女は気付いていた。

碇シンジが、ゼルエル戦の痛手を癒し、ミサトのマンションへ帰って来る前日に、彼女は自分の心の奥底に棲むこの感情の存在を知った。

その引き金となったのが、雨中の帰り道、車中でミサトが彼女に告げた、何気ない言葉──。


『アスカは、殆どお見舞いに行ってないから知らないと思うけどね、
 あの子…ずっと、シンちゃんの病室の前で、彼の意識が戻るのを待ってたのよ』


──ファーストが、訓練を中断してまで、シンジを看病している。
    ファーストが、シンジの事を気にしている…!


その事実を知らされた時、彼女の内で微妙な変化が起こった。
水面に小石を投げ入れたが如く、その動揺という波紋は彼女の心に広がり、そして──

その感情を、いやという程に、認識させられた。
自分が、あのつまらない男、シンジに想いを寄せている事を。
そして、彼の心を奪った綾波レイに、この上ない嫉妬の念を抱いている事に。

これまで、ずっと、当たり前のように自分の傍らに居るものと思っていた。
あんな情けない男を無視せず、相手をしてやっているのは、自分ぐらいのものだと思っていた。

だが、彼女がファーストと呼ぶ、蒼髪の少女の視線は、確かに黒髪の少年の方へと向けられていた。
そして、少年の持つ黒い瞳もまた、青い瞳を持つアスカではなく、赤い瞳の少女を求めていた。

学校であろうと、NERVの施設であろうと…
片目となって戻って来た少年と、ファーストと呼ぶ少女。二人は、絶えず互いの意識の下にお互いの存在を置いているのが、アスカには見て取れた。

許せなかった。

自分のものであったはずのシンジが、自分ではなく、よりによって人形のようなレイを見ている事が。
だから、シンジがマンションに戻って来て、彼女に何時にも増して優しく気遣ってくれても、彼女は頑ななまでに拒絶した。

家ではこれほどまでに気遣ってくれているのに、アスカが想う少年の心は、彼女ではなくレイを求めているからだ。

いつしか彼女は、以前にも増して、片目のシンジに辛く当たる様になっていた。
そうして、自分の気持ちに気付いて欲しかったのか。


──気付いて、ほしかった?


もうひとりの自我が、アスカの想いに歯止めをかける。


──あんな情けなくて、くだらないヤツに?


(そう…つまんないヤツよね、本当に…)
アスカは顔を上げ、彼女の前で、ほのかな暖かい光を発している少年と向き合う。


(…でも、アタシはそんなシンジが──…)


一歩、踏み出す。
吸い寄せられるようにシンジの胸に身を寄せ、抱き締める。

『アスカ…』
呼び掛けに、顔を上げて、すぐ真上にあるシンジの顔を見上げる。

彼の右眼には、何時の間にか、包帯と、眼帯が着けられていた。

『僕は…。右眼が…ないんだ…』
「────!!」

眼を見開き、硬直するアスカの目の前で、片目のシンジの頭部に巻きついている包帯が、するすると解けて、眼帯が剥がれ落ちる。

「ひっ…!」
『ねぇ…アスカは…──目の無い僕なんて、嫌いなんだよね?』

そこには、あの夕刻見た、片目のシンジの素顔。
右眼がえぐり取られていて、爛れ、赤黒く変色した皮膚。

『…気持ち悪いんだよね…?──そばに、来て欲しくないんだよね…?』
「そッ、それは──」

そんなことない、そう口に出掛かった所で、片目のシンジが微笑みながら遮る。

『嘘だよ…。
 じゃあ、あの時──どうして、僕に、あんな事言ったの──?
 グラスまで投げつけて──「来ないで」「来ないで」「来ないで」って──』

片目のシンジの微笑みが、凄絶な嘲りに大きく吊り上る。
アスカの視界いっぱいに広がる、片目のシンジの怒りと哀しみ、そして蔑みに歪む表情──



「いやあああああああぁぁぁあぁぁぁぁ!!」、








再び目を開けたアスカは、放課後の教室に独り佇んでいた。
立ち尽くす彼女の半身に、窓から洩れる夕陽が射す。

「夢。──か、、、」

まだ、心音は激しく鼓動を刻んでいる。
深呼吸を繰り返し、ひと心地ついた所で、アスカは不意に聴き覚えのある旋律が、微かに耳に届くのを感じた。

ピアノの微かな音で綴られたその旋律は、隣の校舎から聴こえて来るものらしい。
アスカは、引き寄せられるようにその音の発信地である、音楽室の扉の前に立つ。

ピアノの音は、止んでいた。
扉を開けるアスカの前にあった光景。

それは──

先程まで旋律を奏でていたであろう、一台の大きな黒塗りのグランドピアノ。
そして、先程のアスカと同様に、夕陽に照らされ、窓辺に立つふたつの影──

片目のシンジと、レイであった。

「!!──」
アスカは、声ひとつすらも、上げる事が出来なかった。

何故なら、寄り添って窓辺に立つ片目のシンジとレイは、互いの唇をたずさえ、口付けを交わしていたのだから…。

再び、ピアノの旋律が教室内に流れる。
立ち竦むアスカの傍で、前時代の遺物──アナログプレイヤーが、ゆっくりと作動している。

憂いを帯びて、それでいて優しい旋律。
彼女は、はっきりと思い出した。

(ショパンの…エチュード第3番…─)

──別れの曲…──

ピアノの向こうのふたりは、まだ口づけを解こうとしない。
互いがお互いの背をしっかりと抱き締め合い、離れようとはしない。

以前、ミサトと加持が抱き締め合う場面に遭遇したアスカは、「不潔」という言葉の元に二人を責めたが、眼前に居合わすシンジとレイの、沈み行く夕陽の淡い茜色に照らされ、互いを慈しみ合う姿は、まるで一枚の絵画のように自然で、美しかった。

長い口づけが終わり、レイの小さな唇から口を離すと、隻眼のシンジはゆっくりとアスカを振り返り見る。

「アスカは…片目の僕なんか…いらないんだね」

「碇くんは、碇くん…。私は、碇くんがいれば、何もいらない…」
片目のシンジの、薄い胸板に頬を寄せて、レイが口を開く。

「僕も…綾波がいれば、なにもいらない…」

「やめ…やめ…て…よ…」

頭の中が掻き回されるように、激しく痛む。
喉がカラカラに乾き、汗が噴き出しているにもかかわらず、身体の内は氷柱を突き立てられたように、とても冷たい。

「あ……あ…」

哀願さえ連想させる目で、ふたりを見詰めるアスカ。
よろめく彼女に、窓辺のふたりの声が重なる。

「だから、アスカなんて、いらない」
「弐号機パイロット、邪魔しないで」

「だから、アスカなんて、いらない」
「弐号機パイロット、邪魔しないで」

「アスカなんて、いらない」
「邪魔しないで」

「アスカなんて、いらない」
「邪魔しないで」

「いらない」
「邪魔しないで」

「いらない」
「いらないの」


……


「う…ぁ…あ…ぅ」
頭を抱え、喉を掻き毟り、悶えるアスカ。
想いを寄せる少年に、彼を奪った少女に、一番言っては欲しくない、一番恐れている言葉を投げつけられた…。

やがて、アスカはその場に蹲ると、数秒の後、立ち上がる。

「………」

その目には、捨てられる事に対する哀願ではなく、憎しみの色しか残ってはいなかった。








「弐号機パイロット、心理グラフ、限界!」
泣き出さんばかりの悲鳴で、マヤが叫ぶ。

「精神回路がズタズタにされているわ…これ以上の過負荷は危険過ぎる」
「アスカ!!」

ゲンドウに強制回収を提案すべく、振り向いたミサトの背後で、リニアレールが地表に到着した事を告げるアラームが鳴り響く。

レイの零号機が、地表に出た。
その手には、ロンギヌスの槍を携えて。

だが───

「?!」
レイが、発令所の人々が、そしてケイジ内のシンジも、驚きに目を見張った。

弐号機が…アスカが──立ち直ったのだ。

「さあ…──」
プラグ内で、紅い髪の少女が呟く。
その口元には、笑みさえも浮かんでいた。

「…邪魔者は──…排除──しないと。──ねえ?…ファースト」

プログナイフを引き抜くと、弐号機は身を躍らせ、突進して行く。


その目標は───



レイの乗る、零号機だった。








<続く>






<あとがき>

ご無沙汰しています。ココノです。
今回の使徒戦、というかアスカ精神崩壊のくだりは、きよきよさんの名作「the Foolish Gospelers」からヒントを得ています。

この夏へのトビラで、アスカ崩壊を描くに当たって、本編や貞本版、あるいは数多あるFFで表現されている通り、アスカ母が亡くなる例のシーンでも良かったのですが、あの展開は余りにもアスカが可哀相でしたし、書いててとても悲しくなりましたので、夏へのトビラでは、アスカ様嫉妬の巻という形を取らせていただきました。

これはこれでまた可哀相なんですが…(汗



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