──幾粒もの水滴が、僕の頭に降りかかってる。 僕は目を瞑り、雨音にも似たそれを、受けとめている。 ──不思議だった。 ──さっきまで、あんなにつらかったのに。 悲しかったのに… ──元居た世界にはもう、僕の知っている綾波はいなかった。 だから、いつまで経っても僕はくじけたままだった。 ──…でも、ここには、綾波がいる。 ──僕を心配してくれる、綾波がいる… NEON GENESIS EVANGELION The Door into Summer:13 少し汚れたタイルに、熱を帯びた水滴が跳ね返っていた。 錆の混じったノズル。 そこから、彼は先程まで浴び続けていた、雨の冷たさとは違った、温もりある水滴の束に身を任せていた。 バスルームには、片目の少年が、雨に打たれ続けて冷え切った体に熱いシャワーを浴びせている。 アスカに醜い素顔を見られ、コンフォート17マンションを飛び出した片目のシンジは、打ちひしがれながら雨の街中を彷徨い、綾波レイと出逢った。 「いかり…くん?」 少し、驚いたような表情で、雨に打たれ続けている隻眼の少年を見つめる、少女の少し見開かれた目。 「あや…な…み…」 振り向く片目の少年は、思い出したように患部である右目のあった辺りを手で隠す。 その手には、雨で濡れた包帯の冷たく、重い感触が伝わる。 彼女にだけは、見られたくない。 右目を失い、醜い傷痕だけが残された、自分の情けない素顔だけは… 彼の素顔をその手で暴いたアスカは、これまで彼に見せたこともない恐怖と嫌悪の眼差しで、近寄らないでとさえ言い放った。 もし、レイに自分の素顔を見られたら、彼女も… そうは思いたくない。 そうであってほしくない。 思いを巡らせる毎に、片目の少年の胸の内は、張り裂けんばかりに痛んだ。 「……」 かぶりを振り、その場から離れようとする片目のシンジ。 ズキン。 また、右眼の跡が疼いた。 「…くっ…」 立ち止まる片目のシンジ。 眼の裏をじわじわ圧迫される様な鈍痛から、幾つもの針で刺し通されるような激痛へ。 1日に数度、彼を襲うこの試練に、彼は堪らず片目を押さえて苦悶の声を洩らす。 ──なにもこんな時に。 彼は、自身に課せられたハンディを恨んだ。 素顔は勿論のこと、彼はこうして神経痛に苦しむ姿を、想いを寄せる蒼髪の少女にだけは、見せたくなかった。 日常生活やNERV、学校でレイと時間を共にする機会は多い。 それゆえ、彼女が傍にいるにもかかわらず眼が痛む事は、これまでにも無かった訳ではない。 彼は神経痛の波が襲って来るその度に、レイの視界から離れ、目を伏せて、ひたすら理不尽な痛みの波をやり過ごしていた。 だが、今日の痛みは、その場から動けない程に彼の痛覚を、殊更に激しく炙っていた。 「う……」 唇を噛み締め、痛みに耐える片目のシンジ。 降り注ぐ雨が一段と強まり、大粒の雨が彼の黒髪を濡らし、顔を覆う手の間からこぼれ、頬を伝う。 だが突然、彼の全身を包んでいた、降り注ぐ雨の感覚が止まった。 「…?」 顔を上げる隻眼の少年。 視界の端に、傘が見える。 彼のすぐ傍に、…レイが立っていた。 「……」 雨に打たれ続ける片目のシンジに、そっと持っていた傘を渡すと、一瞬心配そうな表情を浮かべたレイは、そのまま立ち去ろうとする。 「…あっ、待ってよ、綾波…!」 我に返った片目のシンジは、ますます勢いを増す雨の中、歩みゆくレイの後を追った。 「…シャワー、浴びたら?」 鍵の掛かっていない、彼女の住む公団の扉を開けると、レイは片目の少年に告げた。 いつもながらの、素っ気ない言葉。 しかし、片目のシンジに傘を手渡した時の、あの心配そうな瞳と同じく、彼女の声には、片目の少年を思い遣る気持ちが、端々ににじみ出ていた。 「…うん。ありがと…」 頷いて、レイの部屋に足を踏み入れる片目のシンジ。 この部屋の中に入るのは、彼にとっては半年振りになるのであろうか。 レイの部屋は、幾分掃除が行き届いているものの、やはり壁紙ひとつない、殺風景な空間であった。 「……」 その空間を横切って、奥にあるバスルームへ歩みを進める隻眼のシンジであったが、そこであることに気づく。 「…しまった…。着替え…」 荷物も持たず、体ひとつでマンションから飛び出して来た身である。 当然、着替えのようなものは持ち合わせていない。 着替えを取りに、アスカの居るマンションへ帰るわけにも当然いかず、かといって、シャワーを浴びた後、ずぶぬれとなったワイシャツと制服ズボンを再び身に着けるのもためらわれる。 途方に暮れる片目のシンジ。 「碇君…これ」 そこへレイが、畳まれた白いワイシャツを差し出した。 「あ…ありが…と…。でもこれ、綾波の制服のじゃ…」 頬を赤らめながら、片目のシンジが胸中に浮かんだ懸念を、蒼髪の少女に伝える。 「制服とは、ちがうわ」 「そ、そっか…。ありがとう」 ワイシャツを受け取った片目のシンジに、さらにレイが、 「碇君…ズボン」 と、箪笥から取り出してきた、赤色のジャージを差し出す。 「え、いや、それは…」 「気にしないで」 心配げな瞳で、上目遣いに片目のシンジを見上げるレイ。 「は、…はい…。…ごめん…」 常夏という気候条件もあってか、トウジという例外を除いては、片目のシンジら生徒が体操着の上から、更にジャージを着込んで体育の授業を受けるのは稀である。 長い間、箪笥の中で眠っていたのであろうと心の中で折り合いを付け、彼はジャージを受け取った。 「碇君」 「は、はい…」 今度こそバスルームに行こうとした片目のシンジを、三たびレイが呼び止めた。 「…ブルマ」 「だめ!それはだめーっ!!」 先日の体育の授業でも身に着けていたであろうそれを、差し出そうとするレイを必死に制すると、片目のシンジは慌てて脱衣所へと逃げ込んだ。 「…心配してくれてるんだろうけどなー…」 シャワーが降り注ぐ中、このバスルームに入るまでの出来事を思い返しながら、片目のシンジは錆びた蛇口を絞った。 「…シャワーありがと、綾波。服、洗って返すから…」 着替えを済ませて、バスタオルで髪を拭きつつ脱衣所から出ると、レイは台所に立っていた。 ホットプレートの上には白いポットが置かれ、その横では、見覚えのある紅茶缶と、マグカップが湯気を立てている。 (紅茶…か) 隻眼の少年の脳裏に、過去の記憶がよぎる。 (そういえば、こうして綾波といっしょに、紅茶を飲んだことがあったっけ…) 母・碇ユイの命日を迎える少し前、彼は溜まったプリントを、このレイの部屋まで届けに行った事があった。 シンジを部屋に招きいれ、たどたどしい手つきで紅茶を煎れるレイ。 ポットに触れたレイが、火傷を負う。 シンジは、火傷を放っておこうとするレイを叱り、その手を掴んで水道水に浸して、冷やすよう導いたのだ。 「…はい」 出来上がったばかりの紅茶を手渡すレイ。 「ありがと…」 マグカップを受け取り、レイの心遣いを感じた片目のシンジは、いつものようにぎこちなく微笑んだ。 その瞬間。 (あ…) 片目のシンジは、目を見張った。 彼が微笑んだのを見たレイは、頬をほのかに染めて、嬉しそうに微笑んだからだ。 彼女の部屋に来るまでの間、レイはひとことも、片目のシンジに事情を訊こうとはしなかった。 なぜ、傘も持たずにあんな所をうろついていたのか? なぜ、片目を押さえて辛そうにしていたのか? なぜ、…泣いていたのか。 そう、彼女が片目のシンジを認めたとき、彼は涙を流しているように見えた。 雨が降りしきっていて、泣いているかどうか分からないはずなのに、レイには、はっきりと彼が涙を流してるのが見えたのだ。 それは、自分に見せてくれた涙とは違う、とても、つらそうな涙だった。 その涙が、彼女の問いかけようとする気持ちを、押し留めていた。 レイが、片目のシンジと雨の街道で出逢ったのは、実は偶然ではなかった。 NERVから部屋に戻ってきたレイは、ベッドに腰掛けて、雨が降り出した街並みを眺めていた。 三人目の適格者たる、碇シンジという少年と出逢い、そして共に過ごす時間を重ねるにつれ、彼女はこうして窓辺に座り、物思いにふける事が多くなっていた。 彼女の胸の内に、知らない間に住みついた少年が、やがて眼帯と包帯を着けるようになった辺りからは、彼女の物想いは毎日のように続いた。 そして今日も、片目の少年の事を想いながら窓の外を眺めていた彼女の視界に、思いも寄らぬ光景が飛び込んで来たのだ。 「…いかり…くん?」 レイの住む廃公団の前の道路を、背中を丸め、傘も差さずに歩く、か細い少年の姿。 それは、彼女がつい今まで想いをめぐらせていた少年と、あまりにも似ていた。 おそるおそる公団の1階まで降りて確かめると、その少年はやはり碇シンジであった。 ただ、その少年は涙を流していた。 とても、とても、悲しそうに俯いて…。 だから片目のシンジが、紅茶を渡され微笑んだのを見たレイは、心の底から嬉しかったのだ… The Door into Summer #13 "A Small Departure" 蛍光灯の淡い光に照らされた、片目のシンジの細く、華奢な背中。 レイは半分ほど紅茶の残ったマグカップを両手で持ち、スープ皿を洗っている目の前の少年の背中を、頬をほのかに染めて見つめていた。 片目のシンジは、シャワーのお礼にと、レイにあり合わせの材料で野菜シチューを作り、その後片付けをしていたところであった。 NERVでも学校でも、彼女の赤い瞳はいつしか、この片目の少年ばかりを追うようになっていた。 真正面から、彼と見詰め合う勇気は、残念ながら今の彼女にはない。 だからいつも見詰めるのは、片目のシンジの女性のような華奢な背中。 その背中を見るだけでも、レイの胸は高鳴り、頭の中が真っ白になって、この背中にすがりつきたい、思い切り抱きしめたいという衝動に激しく駆られてしまう。 それは、今も変わらなかった。 「……」 高鳴る心音。 胸にいっぱいに広がる、甘美な衝動──── 腰掛けていたベッドの端から立ち上がり、キッチンへ。 自分で自分が制御できぬままに、片目のシンジの背中に、無意識の内に引き寄せられる。 レイの身体の内から… 彼の温もりにふれたいと、声の無い、切ない声があふれ出す。 (いか…り……く…ん…) 乱れる呼吸。 白い手が、伸びて行く… 「…どうしたの?」 目の前の背中が振り向いて、片目の少年の優しい表情が、視界に飛び込んでくる。 「…っ!?…なんでもっ、…ないわ…」 突然の事に驚き、顔を真っ赤に染めて俯くレイ。 そんなレイの様子に少し首を傾げてから、片目のシンジはスープ皿をきれいに拭き終わると、申し訳なさそうに口を開いた。 「あの…、綾波…。実は、お願いがあるんだけど…」 「…なに」 俯いたまま、レイが応える。 「実は…」 一拍おいて、数秒後。 片目のシンジは意を決すると、 「しばらく…家には戻れそうにないんだ…。だから、その…、、、 綾波の部屋に、少しの間でいいから、…置いてほしいんだ…」 搾り出すように、片目のシンジは言葉を紡いだ。 アスカに素顔を見られた以上、コンフォート17マンションへは戻りにくい。 かといって、NERVに居住区に住みつこうにも、いつ過去のシンジが本部に戻ってくるか分からない。 事の成り行きとはいえ、レイの部屋に招かれたのを僥倖として、片目のシンジはレイ自爆の運命の日まで、この部屋に居れれば、自分が消滅する直前までレイを守れる…。そう考えたのだ。 だが、その一方で、ある懸念が片目のシンジの脳裏に浮かんでいた。 ───夜は、どうするのか、という事だ。 「あッ、その、えと、夜は僕、外に出て寝るからっ、…その、心配しなくていいから!」 しどろもどろに慌てて付け足す。 事情が事情とはいえ、14歳ともなれば、女の子の部屋に泊めてくれと頼むという事が、いかにオオゴトであり、相手を困らせる事であるかは十分に知っている。 例え相手が、彼に裸を見られても平然としていた過去を持つレイであっても、だ。 片目のシンジは、我が事ながら無茶な頼みごとをしていると、言葉を紡ぐ毎に自覚して行き、顔が徐々に真っ赤に染まって行く。 レイは、やはり驚きを隠せない表情で、暫し沈黙した後、 「だめ…」 …と、つぶやいた。 やっぱり…──── 肩を落とす片目のシンジ。 (とりあえず、今夜は遅いから野宿して、トウジかケンスケの家に居候しようか。 学校という手もあるけど、夜の学校なんて使徒より怖いもんなぁ…) うなだれ、これからの身の振り方に思考を巡らせる横で、レイが続けた。 「だめ…。外で寝たら、風邪ひくわ…」 「────…え?」 片目のシンジは、レイのベッドに腰掛けて、レイが就寝前のシャワーから上がって来るのを待たされていた。 既に電気は消され、窓から洩れる月明かりが、ぽつんとベッドに座っている彼を照らすのみ。 片目の少年は、極度の緊張にその身を強張らせていた。 (ど…どど、…どうしたらいいのさ…) 彼としては、毛布でも貸してもらって、部屋の外で寝るつもりだった。 元居た世界では、戰自に拾われるまでは、そうやって廃墟の街での夜を過ごしてきた。 だが、頑としてレイがそれを許さなかった。 いかに片目のシンジが大丈夫と説き伏せようとしても、 「…だめ」 の一点張りと、彼の身を案じる上目遣いの真摯な瞳で見詰められ、最後には片目の少年が陥落する事となったのだ。 (僕って…ほんとに流されちゃうんだよなぁ…) うなだれ、溜息をつく片目のシンジ。 そこへ、アコーディオンカーテンが開く音が無機質な室内に響くと、レイがシャワーから戻ってきた。 透き通るという表現がしっくり来るレイの肌が、シャワーを浴びて少し上気したように染まっている。 キッチンに立ち、コップに水を汲んで、ひと口。 あざやかな蒼い髪が濡れて、白いうなじがあらわになっている。 片目のシンジは、すっかり目を奪われてしまっていた。 だが、石鹸の香りと共にこちらにやって来たレイは、寝着ではなく、シャワーを浴びる前と同じく制服を着ている。 「綾波?」 「…なに」 「綾波って、夜寝るときも、制服着てるの?」 ううん、と首を横に振って、 「いつも寝るときに着てるのは…碇君が着てるから」 と、片目のシンジが身にまとっているワイシャツを指差した。 「あ…わ…あわわ…!?」 茹で上がったように顔を真っ赤にさせて、うろたえる片目のシンジ。 (こっ…、こここっ、これを毎晩、綾波が着て…!) そういえば以前、レイと紅茶を飲んだ時、寝起きのレイはワイシャツ1枚で訪ねて来た片目のシンジを出迎えた。 (このワイシャツが、そうだったのか…!) パニック寸前の片目のシンジの傍に、レイが腰を降ろす。 「碇くん…」 ぽつり、レイが口を開いた。 「…まだ、悲しい?」 言いつつ、レイは今日何度か目の、心配げな瞳を片目の少年に向ける。 彼女の脳裏に、涙を流しながら、悲痛な表情で歩く、片目のシンジの姿が甦る。 だが、片目の少年は優しく笑って見せると、 「…大丈夫だよ。……ありがと」 と、気遣ってくれたレイに礼を述べた。 「うん…」 少し安心したのか、小さく頷くレイ。 片目のシンジは思う。 レイが、自分を思い遣る時は、いつもこのような切ない瞳をしている。 だがそれは、彼が気がついていないだけで、彼自身にも言えた事であった。 ふたりとも、大切な人が苦しむくらいなら、自分が苦しい目に遭った方がいい、と考える向きがある。 自分は、幸せになれる自信がない。 だから、せめて自分の想う人は、苦しみや悲しむ事無く、幸せになって欲しい。 そうする事でしか、相手に対する思いを表現する事が出来なかったから。 もっと素直に、自らの想いを伝えれば、行動に移せば良いはずなのに… それが、頭の中では判っていてもふたりは、自分は別だ、うまく行く筈がないと頑なに信じてしまっている。 自分の気持ちが、相手に伝わる。 自分が想っている相手に、想ってもらえる。 そんな瞬間がこの先の自分に、もたらされる事なんて考えられなかった。 僕に限って。 そんなこと、ありはしない。 片目のシンジは、殊更にそういった思いにとらわれていた。 ──僕には、もうあと数日しか、生きられる時間がない。 もしここで、綾波に想いを受け入れてもらえたとしても、数日後には僕は消えてしまう。 彼女だって…、悲しむはずだ。 ──なら、僕は綾波を守って、その上で、未来で綾波と結ばれるであろう、 汐浦ヒロシに後を任せるのが一番良い筈だ…。 いつの間にか、彼の肩に身を預けて、小さく寝息を立てている少女を見詰めながら、少年はひとりごちる。 …だが。 だがしかし。 この、レイの幸せそうな寝顔が瞼に焼き付くほどに、片目のシンジの中で、云い様のない思いが沸き立ってくる。 どんなに言い繕っても、所詮、自分がやっている事は、当の本人には何の見返りもない、道化である。 命を投げ打ってまでして闘った自分の後からノコノコやって来て、レイと一緒になる汐浦ヒロシとやらの幸せの為の、露払いでしかない。 彼女が幸せになってくれるのなら、それでもいい。 でも───… 片目のシンジは、彼に身を預けて寝息を立てている少女に、視線をおとす。 奪いたい。 嫌われてもいい、無理やりにでも、綾波を抱いて、奪ってしまいたい。 どうせ、自分はあと数日で消滅するんだ。 最後に、彼女の温もりを心の底から感じて、死にたい。 …それすらも、許されないのだろうか? 彼の心が、加速し始めたその時だった。 「い…かり…くん」 突然、傍らのレイが彼を呼ぶ。 「はは、はい?!」 「ずっと…い…しょに…いて…欲し…い…」 そのまま、レイは再び寝息を立て始める。 …寝言だったようだ。 「……」 片目のシンジは首を垂れ、その眼には、涙を溜めていた。 彼は、嬉しかった。 レイが、自分に此処に居て欲しいと、 ずっと、居て欲しいと、言ってくれた。 今にも彼女を奪わんとしていた、こんな卑怯で最低な自分を、必要としてくれた。 そして、彼は何よりも悲しかった。 悔しかった。 綾波が自分を此処に居て欲しいと言ってくれたのに、 必要としてくれているのに、 それが分かったのに… あと数日で、自分は死んでしまうという事が。 片目のシンジは、その晩一睡もせずに、彼の肩にその身を預けて眠る少女の可憐な寝顔を見つめ、空のように蒼い髪を優しく、撫でていた。 眠る時間さえ惜しむように、いつまでも、いつまでも… 朝がやって来た。 記憶によれば、今日は衛星軌道上に未確認移動物体が検知されるはず。 即ち、使徒が現れるという事だ。 片目のシンジは、レイの眠るベッドに座ったまま、朝を迎えた。 彼は、レイが目を覚ますまで彼女の傍に居ると、起き出したレイの頬に手を当てて、先に学校に行っておくと告げて、一足先に部屋から出た。 そして彼は、その足でジオフロントに向かう。 理由は、彼の携帯電話にあった。 明け方に届いた、一通のEメール。 そこには、「話がしたい。あの場所で待つ 加持」とあった。 「…──加持さん」 「よお、来たなシンジ君」 ジオフロントの片隅の、西瓜畑。 そこに、片目のシンジを呼び出した男が居た。 加持リョウジ。 特務機関ネルフ特殊監査部、日本政府内務省調査部、そして秘密結社ゼーレに属するエージェント。 三つの顔を持つ三重スパイ。 「また、ここに居られてたんですね」 錆びた鉄の枠に支えられたベンチに腰掛けた加持を認めた片目のシンジは、鷹揚に片手を挙げて笑う青年から、少し離れた位置に立っている。 彼と過去の世界において、この畑で出会った事は2度。 1度目は、トウジが4人目の適任者に任命される前日。 2度目は…運命のゼルエル戦の最中。 しかし、この世界においては、2度目はなかった。 「まあね。アルバイトがバレて以来、めっきり仕事が減ってしまってね」 「また…何か危険な事、されてるんですか…」 留守電のテープに吹き込まれた、加持の遺言。 泣き崩れるミサトの姿が、声が、片目のシンジの脳裏に甦る。 だが、片目のシンジの記憶に因れば、確か第十五使徒アラエルが襲来する頃には、加持は何者かの手によって、既に抹殺されていたはず。 なのに、こうして生きて、自分と会おうとしているとは… 歴史がまたひとつ、覆ったというのか。 しかし、先程の加持の発言から察するに、彼はまだ彼の身に危険を晒す事を止めてはいない。 単に、来たるべき運命が、ほんの少し先送りになったのかも知れない。 レイもさることながら、出来ることなら、加持にも死なないでいて欲しい。 彼の運命を、止める術はあるのか…─── 「…まぁ、仕事もないわけじゃないんだけどな」 無精髭の伸びた顎をさすりながら、苦笑交じりに加持が告げる。 「はあ…」 「たとえば…そうだな」 「君を消す事、かな」 立ち上がる加持の手には、拳銃が握られ、そしてその銃口は、片目のシンジの額にぴたりと当てられていた。 <続く> |