碇ゲンドウ司令と冬月副司令の二人が発令所に現れ、眼下のオペレーター達に視線を遣る。

「状況は?」
一歩進み出た冬月が、現状の確認を促す。

「使徒とおぼしき物体は、現在、八丈島近海を進行中!」
張り詰めた口調で青葉が告げた。
メインモニターには、八丈島近海の海図が張り出され、その上をゆっくりと移動する、"status:UNKNOWN"と表示された、緑色の三角印が描かれている。

他方では、MAGIから幾筋も伸びるキーボードに囲まれた、赤木リツコが顔を上げた。

「マヤ、目標のパターン解析はまだ?」
「はい、30秒後に終了します」
伊吹マヤの適度な緊張を伴った、凛とした声が響く。

「おいでなすったわね…」
発令所に入って来た葛城ミサトが、中央に大きく張り巡らされたモニターを見上げた。
MAGIが未確認の熱反応を八丈島近海に感知したのは、アスカのシンクロテストが終了した、通常業務の終了間際であった。


"BLOOD TYPE-BLUE"

マヤの端末に、物体の波長パターン解析の結果が映し出された。





夏へのトビラ 第十二話 「危機、せまる」

NEON GENESIS EVANGELION
The Door into Summer:12






「目標の物体の波長パターン、青!」
「やはり使徒か…」
呟くミサト。
これまでのパターンから、使徒はほぼ1ヶ月に1回のペースで現れている。
史上最強の使徒・ゼルエルが襲来したのは40日ほど前であるから、この法則はまたしても立証されたことになる。

だが、

「やはりそうか」
「ああ。…しかし、早過ぎるな」
というゲンドウらの声を、ミサトは耳に留めたような気がした。

「…え?」
ミサトが彼らの方へ振り向こうとするが、そこをオペレーターの声が遮った。

「メイン、出ます!」

発令所に集う人々の視線が、メインモニターに注がれる。
常に使徒の襲来を受けて立つ立場の彼らからすれば、使徒の判別と認定、そしてその形状や動作の情報は、出来うる限り早急に得る事が、対策と殲滅への重要な足掛かりとなる。

作戦本部長という重責を担うミサトにとっては、ここからの時間がより重要な意味を持つ。

パターン青というマヤの報告を耳にしたその瞬間から、メインモニターを見上げる彼女の瞳に険しい色が浮かび上がっていた。
それは、単に人類を滅亡から守るという使命感よりも、肉親の仇を討ちたいという衝動から来るものであるという事は、ここにいるごく限られた人々しか知る由はない。

画面が一瞬、暗転し、続いて航空映像に切り替わる。


だが、スクリーンに展開されたのは、使徒の禍禍しい姿ではなく、穏やかな波が広がる八丈島近海の風景があるのみであった。



「目標、ロスト…」
青葉が、呆然と震える声で告げる。


その直後だった。

「八丈島近海の物と同様の物体、検知!」
マヤの叫び声が飛ぶ。

「目標は、どこ?!」
ミサトがメインモニターから視線を振る。

「駒ケ岳です!」

メインモニターに、駒ケ岳の地表図が瞬時に表示され、先程と同様のステータスを持つ三角形が、ゆっくりと第三新東京市の方角に向けて移動している。

「瞬間移動でも、出来るというの…?」
メインを見上げるリツコが、愕然とした様子で呟いた。

「とにかく、駒ケ岳の映像を出して!相手のパターンは?」
「パターン解析でました、目標のパターン、青から…オレンジ!?」
モニターよりの情報を読み上げるマヤの声が、驚愕に上ずった。

「使徒じゃないって云うの…」
「さっきは青だったじゃないのよ?!じゃあ、なんなのよ、あれ?!」
リツコの呟きに、ミサトが怒鳴る。

「駒ケ岳の映像は?!」
「通信衛星の座標適合、あと7秒で完了します!」
悲鳴に近い声が、発令所内を行き交う。
それを、ゲンドウと冬月が静かに見下ろしている。

「駒ケ岳の映像、出ます!」
オペレーターが叫んだ瞬間、駒ケ岳の地表図から、またしても三角形が消失した。

「目標、消失!?」
「どうなってんだ、畜生!」
冷静さを欠いた、悲鳴と怒号に等しき声が飛び交う。


「──葛城三佐」
ゲンドウの声が響いたのは、その時であった。

「はい!?」

「弐号機パイロットはまだ構内に居た筈だな?」
「それは──」
ミサトの返答と丁度同時に、アスカが発令所に飛び込んで来る。
彼女はシンクロテスト後のシャワー室から警報を聞き、発令所に直行していた。

「ミサト、使徒なの?!」

「ですが、アスカはまだ──」
ちらりとアスカを見やるミサト。

アスカのここ数週間のシンクロ率の落ち込み様は酷く、今日も起動指数ギリギリのパーセンテージしか挙げることはできなかった。

彼女の精神状態を鑑みたミサトが、ここ最近はシンジ・レイ達と同時にシンクロテストは行わず、アスカだけ彼らとは時間をずらしてテストを受けさせるよう取りはからっていたのだ。

「かまわん、搭乗させろ」
だが、冷徹な響きを持ったゲンドウの声が降ってくる。

「しかし──」
「的程度の働きは出来るはずだ」

「なッ────」
ミサトの表情が瞬時に強張り、抗議の声を上げかける。

アスカが処置不能のスランプに陥っているのは、ここに居る誰もが知っている。
そして、極端なシンクロ率の低下により、来日時に見せた、華麗な演舞を見るような芸術的な戰闘も最早期待できない事も分かっている。

だが、彼女はエヴァに乗ることに、自分の総てを捧げてきたのだ。
そんなアスカに対して、ゲンドウが言い放った言葉はあまりにも厳しく、冷徹であった。

ミサトがアスカを見る。
そのアスカの顔は───蒼白だった。


「目標、確認!」
青葉の声が響く。

「場所は?!」
ミサトが叫ぶ。
アスカは、発令所から黙って去っていた。

「場所は───」
手元のモニターを凝視しながら、青葉が震える声で告げる。



「ジオフロント……。ここの、上です」



メインモニターに地表図が表示される。
そこには、NERV本部と重なるように、"status:UNKNOWN"と表示されたオレンジ色の三角形が、貼りついていた。

「いやあああああぁぁぁぁぁ!」
絹を裂くようなマヤの悲鳴が響く。

彼女だけではない。
発令所に集う人々が、恐怖に堪え切れず、恐慌状態に陥っていた。

リツコは、表情を凍りつかせ、ミサトも声が出ない。
弐号機の発進準備すら完了していない状態での、正体不明の物体の強襲。

誰もが、万事休すと覚悟した。


だが、その時。



「消えた────…」



地表図に表示された、正体不明のオブジェクトが、忽然と消失してしまったのだ。



「何処に…」
「ちょっとこれ、どういう…」
わけが判らず、辺りを見渡すミサトの目の前のプリンタが、突如唸りを上げて動作を始める。

発令所の人々が、予期せぬタイミングでの動作音に驚き、そして注視する。
一瞬にして沈黙が支配した発令所に、プリンタの動作音だけが、重々しく響く。

プリントアウトされた用紙に刻まれていたのは────



"ドウダ__タノシカッタカ__?___S__ヨリ"



「奴の、仕業か…」
呆然と立ち尽くす発令所の人々を眼下に、冬月が呟く。


「…」

ゲンドウは、無言のままであった。







The Door into Summer
#12
"So Cruel"







──数日経った。あの日以来、僕の身体が凍りつくような感覚が、2日に1度は、やって来ている。
    それと共に、僕自身の歯車が、徐々におかしくなって来ているのを感じている。

──僕に残された時間は、あと、どのくらいなんだろうか
    僕は、綾波を救うまで、生きていられるのだろうか…



「シンジ君、最近どうしたの?!身体の調子でも悪いの?」
「…すいません」

初号機を降りた片目のシンジは、不安げな表情で迎えたミサトに、頭を垂れた。
その傍らでは、レイがどこか元気なく彼を見つめている。

ゼルエル戦から復帰して以来、上り調子を続けていた片目のシンジのシンクロ率が異変を示したのは、ここ数日の事であった。

これまでは70%台前半を継続して維持していたシンクロ率が、ある日を境に50%台まで急落し、続いて起動指数を僅かに超える所まで失速したかと思えば、次の日は70%台にまで回復した。

そして今日また、起動可能なラインに逼迫するほどに、シンクロ率を落とし込んでいたのだ。

一週間ほど前、学校で起こった身体崩壊への予兆───心肺機能の一時的な停止が、彼に暗い影を落としていることは彼自身がよく解っている。
そして、自身の命が残り僅かで、レイを守り切る事が、果たしてこの自分に出来るのか。それまで、この命が持ってくれるのかという、とてつもなく重い不安。

さらに、次の使徒が衛星軌道上に現れるのは、明日に迫っているというのに、彼は未だに何の有効な手立てを考え付けないでいた。

数日前は、自暴自棄になる寸前でケンスケに救われたが、悩みは消えた訳ではない。
苦しむ彼に、右目の痛みが非情にも追い討ちをかける。

とても、エヴァの訓練に集中できる状態ではなかった。


そして、片目のシンジはテスト中、薄々ながら気付いていた。

初号機が、自分の存在に、疑問を抱いているという事に…








「シンジ、一体どういうつもりよ」

氷のような、冷徹な声音が、テストを終えて帰宅した片目のシンジを待ち受けていた。
玄関を開け、リビングに入って来た片目のシンジを、腕を組んだアスカが見下ろしている。

「アンタの、ここんところのシンクロ率…見せてもらったわよ。
 …アンタ、ふざけてんの?!」

アスカは憤っていた。
自分のシンクロ率が未曾有の不調にある中、彼女がこれまでずっと侮り続けてきたシンジが、好調時の彼女を超えるようなシンクロ率を叩き出していた。

シンジにシンクロ率・対使徒戦実績共に後塵を拝す事を、彼女のプライドが受け入れられず、行き場のない感情が暴発しそうになっていた。

それでも、一旦はある事情から、感情の矛を収めることが出来たのだが、そこへ今回の彼のシンクロ率の乱降下である。

突如、不調に陥ったり、また次の日は好成績を叩き出したりというシンジのシンクロ率。
それが、司令に時間稼ぎ程度にしか見られていない、当て馬のような扱いさえも受けて、ズタズタにされた彼女のプライドを更に刺激した。

「アタシがエヴァとシンクロできない所まで来てるの知ってて、バカにしてるの?!
 当てつけのつもり?!調子ん乗らないでよ!!」

目に涙すら滲ませながら、アスカが叫ぶ。
アスカは、必死に押さえつけていた彼女のプライドを、鼻で笑われたかのような屈辱感に囚われていた。

まるで、かけっこで足の遅いアスカを一気に抜き去った後で、片目のシンジがペースを落として、必死に走る彼女をへらへらとあざ笑っているかのように思えたのだ。

悪化の一途をたどる片目のシンジの体調の事も、彼を待ち受ける悲しい運命など知る由もないアスカは、無言で立ち尽くす片目の少年を、徹底的になじり、責めた。

片目のシンジは、ただ、黙って立ち尽くしていた。

「アンタ…、なんで、黙ってるのよ」
「…」
「なんか言ったらどうなのよ?!」

手元にあった、ソファーのクッションを投げつける。
やや、頭を垂れている片目の少年の胸に当たる。

「ふざけないで…ふざけないでよ…!」
うわ言のように呟くと、アスカは片目のシンジに掴みかかった。
片目の少年の胸倉をつかみ、引きずり倒すと、頬を平手で張りつける。

「なんか言ったら…なんか言ったらどうなのよ?!
 ざまあみろとか、チルドレンやめちゃえとか、
 言いたい事、いっぱい、あるんでしょ?!」

何度も、何度も片目のシンジの頬を平手で打つ。
それでも、片目のシンジは抵抗もせず、ずっと無言でアスカの激情を受け止めている。

それが、アスカの怒りに油を注ぎ、叩く手の力が強くなる。
感情が、押し戻せないところまで到達する。

「アンタなんか…、アンタなんかに、アタシの気持ちなんて、わからないわよ!
 エヴァに乗れないアタシの気持ちなんて…わかりっこないのよ!!
 ふざけないで…ふざけないでよっ!」

馬乗りになって、片目のシンジを平手で殴り続けるアスカ。
口の中を切り、唇の端に血が滲んでも、片目のシンジはそれに抗おうとはしない。
ただ、悲しげな眼で、時折、アスカを見上げるのみ。


アスカの手が、不意に止まった。


数秒の間。
そしてアスカは、がっくりと頭を垂れると、


「もう…死にたい…。消えて…なくなり…たい…」


と、呟いた。
その瞬間だった。




パァン!




乾いた音が、リビングに響いた。

アスカは、訳が解らず、ただ、打たれた頬を抑えた。
片目のシンジが、アスカの頬を叩いたのを自覚するまで、数秒を要した。

「死にたいだとか…」

片目のシンジが、はじめて口を開く。

「死にたいだとか、消えたいとか、簡単に言うなよ!そんな…簡単に言うなよ!!」
アスカの下になっている片目のシンジが、叫ぶ。

「アスカは…アスカには、まだ、これからがあるじゃないか?!
 まだ…生きれるじゃない…か……ぅ…っ…」

叫ぶ片目の少年の眼から涙がこぼれる。

「…エヴァが、…すべて…なんかじゃ、ないんだ…!
 アスカは、生きれば、幸せになれるチャンスなんて…いっぱい、あるんだ!
 …なのに、…なの…に、なんで…、そんな事…言うのさ…」

それ以上、言葉が出ず、片目のシンジは泣きじゃくる。

過去を知る片目のシンジには、現在のアスカの心情と、彼女が負った屈辱は充分に理解できていた。
だから、彼女の気が済むまで、自分を恨んでくれればいいと思っていた。
自分を恨むことで、殴りつけることで、少しでも彼女の気が晴れてくれればいいとさえ思っていた。

それは、過去に戻ることによって、もう一度アスカを向き合うチャンスが与えられたにも拘らず、彼女の心が荒んで行くのを食い止めることが出来なかった、無力な自分への罰と考えていたからだ。

だが、余命ある彼女が洩らした、世を儚む言葉。
それが、片目のシンジの、幸せになれず、もうすぐ惨めに消えるしかない、彼の残酷な運命の前に傷付いた心をいたく刺激したのだ。

「うっ…うぅ…っ、うっ、うっ…」

アスカを想う涙か、それとも、自身の悲しい運命への慟哭か。
手で顔を抑え、声を上げて泣きじゃくる片目のシンジ。

その姿をしばし呆気にとられて見ていたアスカだが、

「……っ!」
やにわに片目のシンジの身体を組み伏せると、再び平手を見舞う。

「うるさい!うるさい!うるさい!
 アンタなんかが、アタシに意見していいと思ってるの?!
 アタシにビンタして、いいと思ってるの?!」

バシッ、バシッ、バシッ

再び馬乗りになったアスカが、少年の頬を叩き続ける。
そして、彼の頭に巻いてある包帯と、右目を覆っている眼帯に手をかけた。

「なによ!こんなもの着けて…!」
必死に止めようとする片目のシンジの手を振り払い、包帯を、白い眼帯を強引に引き剥がした。


バッ…!


「!!」

剥がされた眼帯の下、少年の右眼はなく、瞼だった皮膚片は赤黒く変色していて、ズタズタになっていた。

「ひっ……?!」
「…!」
片目のシンジは、必死に患部を隠そうとするが、もう遅い。

「………」
蒼ざめた顔で、こちらを見るアスカの瞳には、これまで見た事の無いような、驚愕と怖れの色がありありと浮かんでいた。


アスカに、見られてしまった


「アスカ…」
片手で顔を覆って、アスカの方へ無意識の内に一歩、歩み寄る片目のシンジ。

「やっ…やだ!来ないで!」

彼に浴びせられたのは、先程の叱責の声よりも、遥かに少年の胸をえぐる言葉だった。

「アス…」
「来ないでよ!……気持ち悪い!!」

恐怖に顔を引き攣らせ、台所まで後ずさりしたアスカが、手にしたマグカップを片目の少年に投げつける。
足元でカップが砕け散る音。

「来ないで!来ないで!来ないで!」
次々と、グラスやカップが、片目の少年に投げつけられる。

ガシャン、ガシャン、ガシャッ

「……」
アスカが片目のシンジに物を投げつける度に、彼のただれた頬を、涙がひとつ、またひとつ伝った。

「アスカ……」

片目のシンジは、とても、とても悲しげに俯くと、そのまま玄関へ向かい、扉を開けて…、その向こうへと消えていった。








外は、いつの間にか雨が降っていた。

どれぐらい歩いたであろうか。
片目のシンジは、すっかりずぶぬれになった自分の身体も厭わず、ただ、歩き続けていた。

何も手に取らず、マンションから飛び出した彼の制服のワイシャツが、雨に打たれて重くなっている。
だが、彼にそれを厭う気はなかった。

彼の胸中は、あの、崩壊した後の世界に居た頃の彼のように、ズタズタになっていた。
降りが段々と強くなる。

「……」
土砂降りの曇天を見上げる片目のシンジ。

右目を隠すため、頭に巻いた包帯。
それが、雨で皮膚に張り付く。

「……碇君…?…」

不意に、声が聞こえた。


飛沫を上げて雨が降り注ぐ車道の向こう側に、傘の花が一輪、咲いていた。
その花弁の下には、彼のよく知る少女の姿があった。




「…あ…や…なみ…?」









<続く>







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