──軋んだ音を立てて、この部屋の扉が開く。


──少し油を差した方がいい。この扉を開けるたびにそう思いながらも、扉を開けて中に入った途端、それを忘れてしまうものだ。


──僕は、この薄暗い部屋に帰ってきた。


「ただいま」僕は、独りごちる。


──でも、この部屋には、僕の呼びかけに応える人も、ましてや、僕の帰りを待ってる人なんて、いない。


──なぜって、この部屋には、僕以外には、だれも住んでいないから。



──だれも、いないから。






夏へのトビラ 第十一話 「くるおしい心」

NEON GENESIS EVANGELION
The Door into Summer:10






24時間営業大安売りが宣伝文句の、スーパーのロゴが印刷されたビニール袋が、床に無造作に放り出される音が室内に響くと、続いて運動靴を脱ぎ散らし、黒髪の少年が現時点での「我が家」に帰ってきた。

洗いかけの食器類、テーブルに飾りつけてある、すでにしおれて、頭を垂れている睡蓮の花、そして、花瓶。
玄関を通過した先にあるダイニングは、元の所有者が事の直前まで営んでいたままの生活の名残が在った。

シンジは、床にぺたりと座り込んで、玄関に置かれたビニール袋の開け口からのぞく即席ラーメン等の群れにしばし目を遣ったかと思うと、立てた両膝の間に顔を埋め、静かに息をついた。

片目のシンジが「Door」の力によってやって来た、この過去の世界に、元より存在していた碇シンジ──過去のシンジ──はNERVから、父・ゲンドウから決別した後、第3新東京市より少し離れたこの強羅近辺に身を置いていた。

先の使徒の来襲で、避難した住民の復帰の目処が立っていない今、浮浪者すらも寄り付かないこの街の公団の一室に、彼は身を潜ませる。

ガスこそ出ないものの、幸い電気と水道はまだ供給を打ち切られてはいなかった。

彼は、数日に1回の買出しに新箱根湯本に出る他は、ほとんどの時間をこの薄暗い部屋で膝を抱え、まんじりともせずに過ごしていた。

NERVを飛び出した後、彼が第3新東京市に来るまでの世界──叔父夫婦の元へは、彼は戻るつもりはなかった。
しかし、その一方で彼には、叔父夫婦以外の身寄りはなかった。

NERVのIDカードに記録された預金を頼りに、何処にも行き場所のないまま、しばし放浪した彼がこの住処に辿り着いたのは、あのゼルエル襲来から5日後の事であった。



NERVと、父・ゲンドウと決別したあの日、駅でミサトと別れ、特別列車に乗ろうとした彼を、不意に警報が包んだ。

「使徒だ…」

彼は呟き、いくつかの逡巡と、身を裂くような葛藤を乗り越え、ジオフロントまで辿り着いた。

そこで、彼が見たもの。
それは、最強の使徒に打ちのめされる、かつての仲間達の姿であった。

アスカは惨敗し、レイも倒れた。

それを目の当たりにした彼の胸中に、皆を守りたい、守らなくては、という確固たる意思がかつてない程の激流となって湧き上がる。

だが、NERV本部へと走りかけた彼が、続いて目の当たりにしたのは、N2爆弾の爆煙の向こうで零号機を守って起立している、エヴァ初号機の姿であった。

「どうして…?!」
目を見開いて、予想だにしなかった事態に驚愕するシンジ。

初号機唯一のパイロットである、シンジ以外の何者かが、初号機を操っている。
あるいは、ダミープラグが正常に動作したのか?

しかし、先のバルディエル戦で見せた残酷とも言える攻め手からすれば、闘争本能の塊たるダミープラグが傷ついた零号機を守るなど、およそ想像がつかない。

レイの乗る零号機を庇って使徒の攻撃を受け続ける初号機だが、零号機のプラグが排出されると同時に、何者かが駆る初号機はそこから総毛立つような逆襲を展開する。

獣のような雄叫びを上げ、使徒を蹂躙する初号機。
暴走した初号機の戦いぶりを、初めて傍らから目の当たりにしたシンジは戦慄する。

そして、使徒が完全に沈黙する頃には、シンジは元来た駅への道へと、踵を返したのであった。


──NERVから出て行っても、心のどこかで、僕が必要とされる時が来るんじゃないかと思ってた。

──でもあの時、僕はもうNERVには、完全に必要ない人間だということを知ったんだ。


「誰にも…」
呟き、シンジは薄暗い室内から視線を外し、モノクロームの世界に埋没していく。

その時だった。

ブルルルルルルルルルルル。

シンジのズボンのポケットから、緩やかな振動が彼の太腿に伝わった。








「お願いだから、届いてよ…」

デスクトップ型の端末のキーボードから指を離した片目のシンジが、モニタに写る、不安と焦燥の混じった自身の表情を視界に捉えながら呟いた。


相田ケンスケが片目の友人に相談を持ちかけられたのは、日曜を翌日に控えた午前の事であった。
曰く、Eメールを送りたい人がいるんだけど、端末を貸してくれないか、と。

Eメールの受送信程度なら、学校で使用しているノート型のそれでも充分に事足りるはずである。ケンスケが何気なしにその旨を指摘すると、何故か彼はそれを拒んだ。

今度のゲーセン代おごりを見返りとして、半ば強引に友人を説き伏せた片目のシンジは、ケンスケの部屋で、彼が使用している端末を使って、メールを送信し終えた所であった。

(まったく、どこの誰にメールしてるんだか…)

部屋の外に締め出されたケンスケが、やや不服そうな面持ちで立っている。

片目のシンジは、内容はおろか、誰にメールを出すのかさえも、口を割らなかった。
ケンスケの立場からすれば、幾分納得のいかぬ話であるが、片目のシンジの立場から言えば、仕方のない事であった。

何故なら、片目のシンジがメールを出そうとした相手は、他ならぬ、もう一人の自分自身であったからだ。


この世界の何処かに必ず居る、この時代の自分自身、碇シンジ。
NERVを飛び出したまま、ようとして知れない彼の行方であるが、片目のシンジには、彼しか知りえない心当たりがあった。

シンジが第3新東京市に移り住む前は、叔父夫婦の元に居たのだが、実はその時、監視の意味合いで携帯電話を持たされていた。

だが、料金は叔父夫婦持ちであるにも関わらず、特に電話やメールのやりとりをする相手が居ない当時のシンジにとって、その携帯電話は無用の長物に過ぎなかった。

──もし、それをまだ、もうひとりの僕が持っていたとしたら──

まだ、過去のシンジが所有しているかも知れない携帯電話に、一か八かメールを送り、過去の自分自身とコンタクトを取ろうとしているのだ。

故にケンスケには、メールを打っている間は部屋の外に出て貰う事にした。
もっとも彼に、この世界にもう一人いる碇シンジに、メールするのだなどと説明しても、信じては貰えないであろうが…。


片目のシンジが学校の端末を使用せずに、わざわざ友人の個人の端末を使ってメールを出した理由。

それは、片目のシンジたちの在籍するクラスは、適格者候補ばかりが集められていた事からも分かるように、学校はNERVにかなり深く関与していると見ていい。
そんな学校の端末で、人に見られてはならないメールを打てば、MAGIの網に引っ掛かるかも知れない。

その点、日夜、軍事情報を集めようと躍起になっているケンスケの持つ端末には、発信元が特定し難い、匿名性の高い状態でネットワークに接続出来る為の工夫が施されてある為、まだ安全であろうと踏んだのだ。

片目のシンジとしては、出来うる限り誰にも感づかれる事無く、いつか戻ってくるであろう、この時代のシンジと、うまくすり替わらなければならない。
この世に碇シンジが二人居るという事がひとたび周囲に知れれば、無用の混乱を招く事は避けられないからだ。

そして、もうひとつ、彼の胸中に渦巻いている事柄があった。
昨日、体育の授業前に、レイが片目のシンジに告げた、汐浦ヒロシを知っているかもしれない、という発言。

これで、2人目のレイは、未来の世界で汐浦ヒロシと共に暮らすであろう事が、片目のシンジの中でこの上無い衝撃と共に確定づけられた。

まだ全く裏づけは取れてはいないが、そんな有無を言わせない運命の存在を、片目のシンジは本能で実感したからだ。
となると、もうひとり、未来の病院で亡くなったレイは3人目になるのか?


それとも…


とはいえ、こんな自分に心を開いてくれつつあるレイが、数ヶ月先の未来では彼以外の男の手に渡ってしまう…

その事が、片目の少年の心を、激しくかき乱していた。

そして、傷心の彼に追い討ちをかけるかのように起こった、心肺機能の一時的な停止。
これは恐らく、「Door」を使用した者を例外なく襲う、崩壊の予兆であろう。
昨日は数秒で済んだが、これから先、自分の最期の時が近付くにつれ、心肺機能の停止時間は更に長くなるかも知れない。

片目のシンジは、今、はっきりと、やがて来る自分の死というものを、実感していた。
彼が泣くほどに大切に想った少女は、見知らぬ男に取られ、自分はもうすぐ、ひとり寂しく砂となる。

悔しい。
こんな事があっていいのか。

彼は、何かをしていない事には、気が狂いそうだった。
悔恨に泣き、喚いて処構わず当り散らしたくなるのを必死に押さえ、彼は受信フォルダの更新ボタンをクリックした。







The Door into Summer
#10
"ORIGIN"







シンジは、我が目を疑った。
彼のポケットの中で、緩やかに振動を伝えているのは、叔父夫婦から貰った、あの携帯電話だったからである。

思わず、携帯電話のディスプレイに目を遣る。
そこには、”着信メール 1件”の文字が躍っていた。

(この携帯のメールアドレスを知ってるなんて、僕ぐらいしか居ないはずなのに…)

購入時に店員に促され、契約書に書かされた、彼個人のメールアドレス。
これは、全くメールを使用せず、また、誰にもアドレスを知らせなかった為、結果的にシンジ本人しかアドレスを知らない。

"きみは、碇シンジ君ですか?"

届いたメールには、こう書かれていた。

差出人のアドレスは、誰もが登録できる、ありふれたフリーメールのドメインであった。
薄気味の悪さを覚えつつも、過去のシンジはボタンに指を滑らせる。

片目のシンジの目の前のモニターに、チャイムの効果音とともに、メッセージが浮かび上がった。

──You've got mail

片目の少年は、椅子から身を乗り出して、目を見張った。

『きみ、誰なの?』

これが、返信されて来たメールの内容であった。

片目のシンジは安堵した。
もし、過去のシンジが持っている携帯電話が、既に解約されているならば、このメールアドレスも既に無効となっている筈である。

それが、こうして返事が帰って来る事ということは、過去のシンジが片目のシンジのメールを見、返信している可能性が、非常に高い。
片目のシンジは、一心にキーボードに指を走らせた。


"僕は、君の力になりたい者です。元気ですか?"

『NERVの人?』

"うん。僕らは、きみの力が必要なんです"

『そんなの、いらないはずじゃないか』

"そんなことないよ"

『だって、僕の他に、初号機を動かせる人がいるじゃないか』


片目のシンジの手が、止まる。
彼はやはり、過去に片目のシンジがそうしたように、ゼルエル襲来の際、NERV本部へと戻って来ていたのだ。
そこへ、続けざまにメールが着信する。


『もうみんな、僕の事なんていらないんだ』

"そんなことないよ"

『うそだ』

"きみが居ないと、みんなを救えないんだ"

『きみが初号機に乗って、戦えばいいじゃないか。
 使徒と戦う恐さを知らないくせに、偉そうな事言わないでよ』

"そんなこと、言ってないじゃないか"

『もう、僕はいやだ。
 僕はもう、NERVとは、父さんとは無関係なんだ。
 きみが戦って、父さんのために死んだらいい』

「………!」

キィを押す、片目のシンジの手が震える。
その表情には、明らかなる怒りと、苛立ちの色が浮かび上がっていた。

過去のシンジは、彼の復帰を望む送信者の、くるおしい心を知るはずもなく、ただ拗ねたような言葉ばかりを吐いている。


『もういい』


突っぱねるような、過去のシンジからのメールが届くと、片目のシンジの感情が遂に抑え切れない地点に達した。


バン!


堪らず、机を殴りつける片目のシンジ。

「なんだ?!シンジ、どうしたってんだ」
突然の音に、慌てて室内に入ってきたケンスケに、

「うるさい!!」

かつて、ケンスケが見た事の無い様な形相で、片目の少年がこっちを睨み付けて叫んだ。

「うるさいって、お前…」
呆然とするケンスケの顔を見て、ようやく我に返った片目のシンジが、

「ご…っ、ごめん!」
消え入りそうな声で詫びると、彼は足早に部屋から去って行った。

「シンジ…」

残されたケンスケが、すれ違うさまの友人の表情を思い出しつつ、立ち尽くしていた。








リニアが、2度目の桃原台駅を通過しようとしていた。

片目のシンジは、ケンスケの家から、逃げるように飛び出した後、環状第7号線の車内に居た。
もう、陽はとっくに暮れ、窓の外は夜の闇に塗り潰されている。

隻眼の少年は、唇を噛み締め、バラバラになりそうな自身の心に、何とかして折り合いを付けようと努力していた。

この、過去の世界へ戻る道を選んだのは、他でもない、自分自身である。
そもそも、満足に動くかどうか判らない「Door」で、五体満足で時間跳躍できたこと自体、奇跡のような物である。
そして、自分は、何よりも、何としてでもレイを助けたい。
あのまま、未来の世界で孤独に最期を迎えるよりは、レイを守る為に最期まで運命に抗った方が、遥かに納得行く人生だとは思わないか?

数時間かかって、やっとそう考える事が出来た隻眼のシンジは、ようやく自身の心を落ち着かせると、ポケットから携帯電話を取り出してメールを打ち始めた。

送信先は、ケンスケの携帯電話であった。


”ケンスケ、さっきは、本当にごめん。
 自分でも気持ちをコントロールできなくなっちゃってて…
 せっかくパソコン貸してもらったのにひどい事したよね…
 許してもらえないと思うけど、本当に、ごめん”


自分の我侭を快く聞いてくれたケンスケに対して、自分が行った事。

彼を心配して飛び込んで来たケンスケに、暴言を叩きつけ、当り散らしてしまった。
傲慢にも程がある振る舞いに、片目のシンジはケンスケに対して申し訳ないという気持ちでいっぱいだった。

(多分…、許してはくれないだろうな…)


箱根町駅から、二子山駅へ。
リニアのスピードが緩やかなものにシフトしていった時、片目のシンジの携帯が鳴った。




”わかってるって(・∀・)
 色々つらいだろうけど、がんばれよ。
 またヒマできたら、ゲーセン行こうぜ”








…。



みるみる、視界がぼやけていく。
唇を噛み締め、堪えようとしても、堰を切ったようにあふれてくるそれを、留める事が出来なかった。
片手で顔を覆うも、その手の隙間から、雫が零れ落ちる。

涙が、とまらない。

「ぅ…っ、く、…ぅ…う、うぅ…う、ぁ…ぅ」
友人からの返信を見た片目のシンジは、口元を押さえ、嗚咽を漏らす。


ケンスケが、片目の少年の真実を知っているとは思えない。
だが、片目のシンジは、自身の孤独な苦悩と、自分がやっている事は何の意味もない、愚かな道化に過ぎないという悔恨に、心の底から傷付いていた。

それが、ケンスケのメールで、救われたような思いがしたのだ。

(ごめん…ごめんなさい…)

リニアの車中の片隅で、片目の少年が声を上げて泣いている。

(明日…がんばるから、明日からまた…がんばるから…!)

他の乗客が不思議そうに見守る中、涙に暮れながら、それでも片目の少年は時折、携帯電話のボタンを、たどたどしい手付きで押そうとする。

(今日だけは…、泣かせて…)

片目のシンジがケンスケに返信しようとして、結局泣き崩れてしまい、出せなかったメール。
それには、

”ありがとう”

という文字が、刻まれていた。








「…それで、構わんのだな?碇」
彼の傍らの冬月が、もう一度尋ねた。

「…ああ。構わんさ。加持は、こちらに戻してやれ」
碇と呼ばれた男が、応えた。

彼の懐刀と言える年老いた男が、この部屋から去るのを認めると、碇ゲンドウは、冬月が来る前と同じ様に再び視線を宙にやった。

彼の手元にあるは、一枚のプリントアウトされた用紙。
そこには、彼がついぞ思いを廻らせていた原因が記載されていた。


”モドッテ__キタゾ___S__ヨリ”


彼が、この紙を赤木リツコから受け取ったのは、10日ほど以前のことであった。
深夜、当直に当たっていた日向の目の前で、プリントアウトされたというこの紙には、ゲヒルン時代の用紙にタイプされた文字が不気味に踊っていた。

発信元は、NERV本部・資料室のファクシミリ。

だが、何者かが発信作業を行った前後の時間には、資料室の防犯カメラに、何らかの工作が加えられ、発信者を割り出す事が出来なかった。


そして昨日。
同様の手口で再び、"S"からの送信があった。


”イカリ__ケイカク__ツブシテヤル___S__ヨリ”


『"S"だと…?』

彼らには、心当たりがあった。
数年前のあの日、彼らの実験道具として『Door』の向こうに姿を消したあの男。

『まさかな…』

戻って来れるわけなど、ない。
だが、彼の脳裏には、まざまざと、あの日の出来事が甦っていた。



『Door』のカプセル内に立ち、うつむいたあの男の整備帽の鍔の下から見える、恐ろしい程に不気味な笑み。
生死を賭けた実験に、不敵な笑みを浮かべたあの男は、果たして時間の彼方へと消えて行った。


実験は、失敗だった。


リツコが記した『Door』のレポートにある、最初で最後の人体実験の被験者、"S"。
彼の名は、忘れなかった。


──地獄から舞い戻って、私の計画を邪魔するとでも云うのか──

「"汐浦、ヒロシ"。貴様か───」




その時だった。

ゲンドウの頭上のスピーカーから、警告音が鳴り響く。
次いで、彼の机の傍らの端末が唸りを上げ、レーダーに未確認の熱反応が検出された事を告げていた。

「使徒だと…!?馬鹿な」



一方、環状線を降りた片目のシンジも、彼の携帯に飛び込んできた、司令部からの非常召集に思わず空を見上げ、つぶやいた。


「使徒?! そんな…。早過ぎる!」







<続く>











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