──朝、目を覚ますと僕は、辺りを見渡して、
この部屋と、そして、ミサトさんとアスカの居るこの家に住んでいるんだという事を確認する。

──少し前までは、またこの部屋で暮らせるなんて、夢にも思わなかったから。

──今も、心のどこかで、こう思ってるんだ。
    夢から覚めると、また元の世界の、暗くて…誰も居ない僕の部屋に戻ってしまってるんじゃないかって。


──だから僕は、朝が怖いんだ。


──夢から覚めるのが、怖いんだ。





片目のシンジの朝は早い。

元々、過去にミサトの家に同居していた頃から、家事をこなすために早起きを心がけていたが、今回の彼はそれより20分も早く起床していた。

部屋のドアノブをおそるおそる回して、誰もまだ起き出していないことを確認すると、彼はなるべく音を立てないように洗面所へと向かう。
そして、洗面所のドアを慎重に閉めると、彼は頭に巻いてある包帯と、眼帯を取り替える作業に移った。

洗顔用のフォームを手の平に取り、手早く洗顔を済ませる。
普段ならこの瞬間は、目の前の鏡はなるべく見ないようにしている。

えぐり取られた右目の痕跡が、石鹸に染みて、いまだに痛む。

「……」
顔を上げた片目のシンジは、鏡に映った痛々しい自分の素顔をしばし見詰めた。
瞼があった箇所には、ズタズタにされた赤黒い皮膚片があるのみの、醜い素顔。

「……」
夢見心地になりそうな所を、いつも現実に引き戻してくれるのは、この素顔であった。

(こんな…醜い僕なんかが、誰かに想ってもらえるわけなんてない…)

隻眼の少年は悲しげに俯くと、ひとりごちる。


(幸せに、なれるはずなんて…)






夏へのトビラ 第十話 「夢の終わり」

NEON GENESIS EVANGELION
The Door into Summer:10






解体作業の騒音が、遠鳴りに聞こえるこの窓の向こうも、陽が落ちた今は、壁の空調の稼動音だけが、この部屋に響く唯一の音となる。

綾波レイは、寝着である、少し丈の大きいワイシャツに身を包み、ベッドに腰掛けている。
その手には今日、彼女のクラスメートから手渡された品があった。



「──あ、あのさ、綾波」
昼下がりの教室。いつもの様に窓際に座り、文庫本を読んでいたレイに、少しおずおずとした様子で語りかける聞きなれない声があった。

「…なに」
以前に比べて、幾分雰囲気が柔らかくなったとはいえ、それでもレイは同年代の普通の女の子に比べれば、まだまだ近寄り難い空気を身に纏っている。
そしてその空気そのままに、視線は文庫本に落としたまま、レイの声が、語りかけた声の主に突きつけられる。

その声に一瞬、怯んだ彼だが、

「ちょっと、渡したい物があるんだ」

少しだけ、視線を上げたレイの視界に、クラスメートである相田ケンスケの姿がフレームインする。

(この人、知ってる。相田君…。碇君と…仲良くしてる)

「…なに」
「これなんだけどさ。よかったら」
そういって差し出された物は、簡素な木製の写真立てに収められた、一枚の写真であった。

そこには、窓際の自分の席に座るレイの傍らに、照れた様子で語りかけている片目のシンジが、そして、顔を上げてそれに答えている彼女の姿が収められていた。

写真の中で隻眼の少年を見つめるレイの表情には、僅かながら微笑みが浮かんでいた。
午後の日差しに暖かく照らされたそれは、とても自然で、初々しくもあり、見ている者を優しい心持ちにさせてくれる写真であった。

「……」

レイは、その写真を手に取り、無言のまま見詰めている。

これは先日、休憩時間中にNERVの訓練日程を確かめていた二人の姿を、ケンスケが冷やかし半分に盗み撮りした時の物であった。
果たせるかな、シャッター音に気付いた片目のシンジに真っ赤な顔をされて、彼は追い掛け回される事となった訳だが…

出来上がった写真自体は悪くないし、何よりレイの微笑みという、レア中のレアを撮れたケンスケは、片目のシンジの部分をパソコンで編集し、微笑む綾波レイ単体の生写真として男子生徒たちに売り出して、わずか2日でひと月分以上の売上を得るに至った。

それに気を良くしたケンスケは、被写体である隻眼のシンジとレイ、二人に額付きでプレゼントしようと思い立ったのだ。
これはケンスケのせめてもの感謝の意であり、いい雰囲気になりつつあるふたりに喜んで貰えれば、それで良かった。

そして、その効果は予想以上にあったようである。

「………」

レイは先程からずっと、視線を写真に固定したまま動こうとしない。

「あ、綾波…?」
おーい、と、手を振ってみるケンスケだが、レイはそれに反応すらしない。
ただ、その頬には、うっすらと赤みが差していた。

「…ま、いいや」
喜んでくれてるみたいだし、と呟いて、ケンスケは予鈴の鳴る中、自分の席へと戻っていった。

(…変われば変わるもんだねぇ…。あの、綾波が…)






レイは家に戻ってからも、彼女と片目のシンジが収められているこの写真を、ずっと見詰めていた。

彼女が弐号機パイロットと呼ぶ少女──惣流・アスカ・ラングレーは、この写真に写っている片目の少年の事を、笑うのがヘタな奴だと言った事があった。

それに対して、彼女が三佐と呼ぶ女性──葛城ミサトは、彼があまりにも傷つきやすい心を持っているが故に、そしてこれまでも、誰かと交わる度に傷ついて来たから、ぎこちない笑みしか出来ないんだと寂しげに呟いた事がある。

それは当たっていると、レイは思った。
確かに、この写真の中の、眼帯を着けた碇シンジは、照れながらも、どこかぎこちない笑みをしている。

だが彼女は、このぎこちない笑みが好きだった。

この笑みの向こうに、はじめて笑いかけてくれた、あの月の夜を思い出すから。
自分を気遣い、心配し、泣いてさえしてくれた、優しい、あの微笑みを想起させられるから。

「碇君…」

まるで、本物の片目のシンジがそこに居るかのように、そっと、彼の名を呼んだレイは、写真立てをベッドの脇のチェストに置く。

もう、睡眠を取らなければならない時間だ。
明日も、学校へ行くのだから。

「……?」

ふと見ると、チェストの最下段が少し開いている。
普段は、この段は使用してはいない。

レイは何の気なしに、チェストの一番下段を開いてみた。
長い間、放置してあった事もあって、埃が幾分溜まっているその奥に、薄汚れた布片があるのをレイは認めた。

「……?」

拾いあげてみる。
それは、小さな髪飾りのような代物で、赤いゴムに布切れを貼り合わせて、白いネコの顔を形どった布細工が付いていた。

「ネコちゃん…」

無意識のうちに、レイは呟いていた。
そして、自分がその言葉を発したと自覚すると同時に、彼女の脳裏に電流のような感覚がよぎった。


夜の闇。
猫の鳴き声。
小さな手。

…そして、それを包む、大きな手────


「あ……」

目を見開き、手を口に当てたレイは、全てを思い出していた。


「…まさ…か…」







The Door into Summer
#10
"Sign"







「……」
「……」
「……」
テーブルの中央に据えられた、サラダボウルを囲む三人は、今日も沈黙のまま、食事を終えようとしていた。
もう、彼らは1週間以上も、このような無言の晩餐を続けていた。

隻眼のシンジが戻って来て以来、葛城邸の家事全般の秩序は劇的なる回復を見せたが、彼らを包む重苦しい空気には無力であった。

発信源は、紅い髪を持つ少女。
そしてそれは、主に隻眼の少年に向けてであった。

『碇シンジ』がこの家に戻って来た時、彼女はこの片目の少年に対して、幾分柔らかな反応を示した。
片目のシンジは、今度こそはアスカに疎外感を与えまいと、ここ一週間あまり、家に居る間は彼女の我侭に付き合うように心掛けていた。

だが、それも束の間、日を追う毎に、少女の態度には刺々しさが再び、顔を覗かせる。

片目のシンジは、どうして良いか判断がつかなくなっていた。
前回に比べて、かなりアスカに気を配ったつもりであった。
だが、彼がいかに話し掛けようと、心を砕こうと、アスカは日に日に態度を硬化させていく一方であったのだ。

片目のシンジは、このままではいけないという焦燥感と、また自分はアスカが傷付くのを指をくわえて見ている事になるのかという無力感にさいなまれていた。

だが、彼の力ではどうする事もできなかった。

今夜も、無言のままに夕食の時間が過ぎていく。
もう、彼らにはこのような晩餐が当たり前のようになっていた。

「……」
また今日も、無言のままにアスカが席を立つ。

「アス…」
おずおずと、声を掛けようとした片目の少年を、鋭く睨む少女の視線。

「…」
片目のシンジは、黙って少女が部屋に戻っていくのを、目で追うよりなかった。

「はぁ…」
また今日も、駄目だった。
嘆息する少年に、向かいのミサトが、肩をすくめる。

「…相変わらずね、アスカ」
「ええ…」

アスカのシンクロテストの成績が、日を増すごとに下降の一途を辿っている。
それと比例するように、アスカに情緒不安定な傾向が見られると、ミサトはリツコに耳打ちされていた。

「やっぱり、僕ってダメですね…」
自嘲気味に笑い、目を伏せる片目のシンジ。

元来、彼は口数が多い方でもなく、話術が巧みでもなく、ましてや異性の感情の機微を掴むに長けている訳でもない。
たとえ人生をやり直せたとしても、彼が14年間の人生で培ってきたパーソナリティというものは、そう意のままに変えられるものでもない。

片目のシンジは、何時の間にか、アスカと向き合う事に挫けかけている自分を見つけていた。

ただ、レイとの関係は前回に比べ、良い兆候が認められているのが救いであった。
特に、学校の帰り道、ケンスケからレイとの写真を渡された際に、レイにこの写真を渡したときの様子を聞かされた時は、涙ぐむ程に喜んだ。

最悪、アスカとはこのままでも構わない、レイとの関係が良好であれば…。
そんな気持ちに抗うことなく、埋没しかけているのを彼は止める事が出来なくなっていた。

「…ところでさ、シンちゃん」
ミサトが、缶ビールのプルトップを引き上げながら、何気なく訊いた。

「右眼、どうしたの?」
不意打ちのような格好で、突然眼の事を触れられ、隻眼のシンジは表情に動揺の色を露にした。

「!…」

ややあって、

「…転んだんです」
確かに嘘は言ってない。
元居た世界で、彼は戰自の銃撃に遭って、転倒した拍子に右眼を負傷したのだから。

「でも、じきに治りますから」

なるべく、にこやかに。
なるべく、取るに足りない事であるかの様に。

ぎこちなく微笑んで、片目のシンジは席を立とうとする。
過去の僕と入れ替われば、ねと、心の中で付け加えながら。

「治るわけないでしょ!?」
ミサトの強く、言い放った声が、片目の少年をその場に縛り付けた。

「……見たんですか…?」

暫しの沈黙の後、微笑みの消えた、緊張した口元から、片目のシンジがやっとの思いで言葉を絞り出す。

「当たり前じゃない。…もっとも、レイやアスカにはまだ話してないけど」
「それは…助かります」
今、この時点で自分が右目を失くしている事を、レイやアスカに知られると、来たるべき時、この時代のシンジと入れ替わるときに矛盾が生じてしまう。
ミサトが、もうひとりの自分の存在を知っているのかどうかは判らないが、これ以上、この眼帯の下のことを知る者は、増やさないようにしなければならない。

「ミサトさ───」
振り向いて、ミサトに語り掛けようとした隻眼のシンジに、彼女の言葉が待ち受けていた。

「…眼、痛むんでしょ?」
ビクッ、と肩が震える。

「…ええ」

「時々、特に用もないのに台所に立つなと思ったら、私たちに隠れて右目押さえて辛そうな顔してるんだもん。…わかるわよ」

「やっぱり、病院に戻って──」「いえ、行きません」
ミサトの声を遮る。
彼女の知る碇シンジには、ついぞ見られなかった、とても強い意志を込めた言葉だった。


──僕には、時間がないんだ。だから、手遅れになる前に、出来る限りのことをしておきたい。

──これ以上、立ち止まっている余裕なんて、ないんだ。


次の使徒襲来まで、あと一週間を切っていた。
使徒・アラエルへの対応策は、はっきりしている。ロンギヌスの槍を使用し、奴の精神攻撃が始まる前に撃墜してしまえばいいのだ。

だが、どう思案しても、皆にロンギヌスの槍の必要性を自然に訴える方法が浮かばなかった。
初号機の凍結はなされてはいないという、歴史と食い違う点が有利に働いている為、今回は片目のシンジの出撃も許されるだろうが、それでも、パレットライフルの射程程度では衛星軌道上の使徒には到底届くまい。

かといって、それで手をこまねいていては、奴の精神攻撃の餌食となるだけだ。

あの精神を汚され、再起不能寸前まで追い込まれたアスカの姿が、脳裏にオーバーラップする。
今回もまた、すっかり嫌われてしまったとはいえ、あんなアスカの姿はもう、見たくはない。

そして勿論、あんな目にレイを遭わせたくはない。


(どうすれば────)








気が付けば、片目のシンジは学校の校庭にいた。
思えば、家と学校とNERVを往復するいつもの生活に復帰してから、次の使徒戦の事ばかり彼は考えていた。

どうすれば、使徒の精神攻撃から、アスカを救えるのか。
そして、それを切り抜けられたとしても、最も大切で、最も難しい関門、レイ自爆阻止が待ち受けている…。

「なんやセンセ、今日はせっかく女子との合同やのに、元気ないのぉ」
「まったくだぜ、普段制服に包まれた、女子のふとももやあれやそれが拝める、絶好の機会だってのにな」

「あ。……そうだね、うん…」
生返事を繰り返す片目のシンジの横で、トウジとケンスケが、ダメだこりゃ、という表情で顔を見合わせている。

「…おい、見てみ。女子のおでましやで」
予鈴が鳴るのを合図に、校舎からクラスメートの女子生徒が、おしゃべりに興じつつ、トウジら男子生徒がたむろしているグラウンドに歩いてくる。

「うへ…。惣流、今日は見学かよー」
片目のシンジらの前方に集っている男子生徒の一団の、期待はずれといった風の声が示す通り、女子生徒たちの集団の中に制服姿のアスカの浮かない表情があった。

そして、その集団からさらに離れて、ひとり歩く体操着のレイの姿があった。

「おおっ、惣流は残念だったけど、綾波のブルマ姿もなかなか…」
「さすが、学年屈指の美少女だけあるよなー」
「俺、今日学校に来た元取ったかも…!」

「…」
好き勝手な物言いと共に歓声を上げる他の男子生徒達を、無言で見つめる片目のシンジ。
アスカが、男子生徒たちに人気なのは当然として、レイも実はその儚げな容姿で、アスカに負けず劣らず男子生徒の間で隠れた人気を集めているのを、片目のシンジは以前居た世界の頃から知っていた。

当のレイは全く気にも留めないであろうが、片目のシンジとしては、彼女が他の男達に好意を向けられ、また、邪な視線に晒されているのは、やはり気持ちのいい事ではない。

そして、もしもこの中から、レイの心を少しでも掴む者が出て来たら…
自分は、その人には勝てないだろう。

などという、根拠のない悲観に駆られる事も、二度や三度ではなかった。

「……」

レイの話題で盛り上がる男子生徒どもとは対照的に、表情を曇らせ俯き、所在無げに立ち尽くす片目のシンジの姿を見て、隣のトウジとケンスケが苦笑いする。

「もう少し、自信持ったらええねん」

これが、トウジらが片目のシンジにふた言目には口を突いて出てしまう、おなじみの文句であった。

「ええかシンジ、お前はわしらを命懸けで守ってくれとる、
 人に胸張って威張れるような事やっとるねんで。
 もっともっと、えらそーにふんぞり返ってて丁度ええぐらいや」

バルディエル戦以後、チルドレンを登録抹消されたトウジは、たった数日ながら片目のシンジたちと同じ痛みと恐怖を知り、その一方で彼らに託された十字架の重さを理解している。

並みの神経では耐えられそうもない、敗れれば世界が滅ぶ人類最後の砦という重圧と、死への恐怖。
それでもなお、他人を気遣える、気を遣い過ぎる片目のシンジの優しさを、トウジらは心配していた。

(オレの綾波に手を出す奴は、初号機で家を踏み潰すぞ、って言えるぐらい傲慢なヤツになっても、いいんだけどねぇ…)
汎用人型決戰兵器を操る、今やNERVのエースパイロットである彼が、なんでこんなに気が弱く、自分に自信を持てないんだろうと、ケンスケは不思議に思えてならなかった。

「…ま、その辺りがシンジの良い所なのかも知れないけど、ね」
ケンスケはトウジと顔を見合わせると、分かりやすいまでにしょぼくれている片目のシンジを嘆息交じりに見守る。

だが、レイの方へ再び視線を戻した片目のシンジの動きが一瞬、止まった。
レイが、片目のシンジの姿を見つけると、しばらく逡巡したのち、彼の方を見詰めながら、控え目に唇を動かす。
彼女の唇は、間違いなく「いかりくん」と、彼の名を呼んでいた。

レイが他の女子達から少し遅れて、男子の一群の方へ歩み出した時、片目のシンジは彼女の元へ、おずおずと小走りで駆けて行く。

「お?お?センセ、意外と…」
「ああ、いつになく、積極的だな」
両手を組んで、ケンスケが呟く。
眼鏡が光るその姿は、とある組織の総司令に酷似していた。

レイの元へ駆け寄った片目のシンジのその顔は、隠しようのない嬉しさと照れで、真っ赤であった。
一方、片目の少年がこちらに駆けて来るのを認めた蒼髪の少女は、その場に立ち止まって、少年の到着をどこか嬉しそうな様子で待っている。

「…変わったよなぁ」
「ほんま、変わったな。綾波は」
感慨深げに、ケンスケとトウジが呟く。

彼らの知る綾波レイというクラスメートは、無口で無表情、そして、人との接触に何の価値も見いだしてはいないかのような節があった。
まるで、誰も傍に居なくても何の問題はないと言わんばかりに。

それは、彼女の居るクラスに碇シンジという少年が転入してから後も続いたが、ここ数週間の間で、彼女のクラスメート達は、レイのまとう空気が徐々に変わりつつあるのを察知していた。

駆けて来る片目のシンジを待つレイは、相変わらず無表情であったが、その目は少年の姿を、あの写真と同じ様に柔らかいまなざしで迎えている。
だが、彼女の元へ辿り着いた片目の少年は、言葉を紡ぐ少女の前で、何故か硬直していた。

「────碇君」
「ど、どうしたの?綾波」

「私、汐浦ヒロシという男の人……知っているかもしれない」



「え……?」



…レイの話では、彼女がまだ10歳前後の頃。
ひとりぼっちだった彼女の元へ現れて、彼女が疲れて眠るまで、遊んでくれた大人がいた。

”帽子のおじさん”と幼きレイに呼ばれていた、NERVの職員の事を、幼き少女は慕っていた。

「…碇君、帽子のおじさんの事、探しているの?」
「……」

「…?」

「……」

「…碇君?」

小首を傾げ、硬直している片目のシンジの顔を覗き込むレイに、やっと我に戻った少年は、慌てて取り繕う。

「あ、ああ、あはは…。そう、僕も探してるんだ、汐浦さん。綾波の知ってる人だったなんて、びっくりしたなぁ」
乾いた笑いに顔を引き攣らせながら、後ずさりして行く片目のシンジ。

その顔は、蒼白であった。








"それ"が訪れたのは、1500m持久走も後半に差し掛かった所だった。

片目のシンジは、トラックの緩やかなカーブに入った所で、不意に、倒れた。
最初は、どちらかといえば運動音痴なクラスメートの失敗劇に、生徒たちの間からは笑い声が起こったが、やがて、彼がピクリとも動かないでいる事に気付くと、一瞬にして沈黙に包まれた。

倒れた片目のシンジは、呼吸をしていなかった。

我に返った体育教師が、慌てて駆け寄る頃には、少年は意識を回復し、平静を取り戻していた。
わずか数秒足らずの出来事であった。

だが、それが意味するもの。
それを片目のシンジは、知っていた。

いや、改めて思い知らされたという方が正しいであろう。



自分には、あと少しの時間しか、残されていないという事を。






<続く>







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