──もうすぐ、アイツが帰って来る。

──グズでノロマで、バカなシンジが。

惣流・アスカ・ラングレーは、枕元の時計の秒針が進む毎に、何とも形容し難い、複雑な感覚が胸に去来するのを感じていた。

時計の針は、午後6時を差そうとしていた。



朝、ミサトがNERVに出勤した数時間後に、玄関のドアが再び開く音をアスカは聞いた。
一瞬、泥棒かと思い身構えたが、控え目なその足音は、彼女の良く知るリズムの足音だった。

「…帰って来たんだ…。アイツ」

彼女の同居人である碇シンジは、今朝方病院を抜け出し、NERV本部へ寄った後、ここコンフォート17マンションの彼の家へと鞄を取りに戻ったのだ。

「あ、久しぶり、ペンペン」
閉ざされた部屋のドアの向こうで、この家の人ならぬ同居人と再会の挨拶を交わしたシンジの足音は、アスカの居る部屋の前で一旦歩みを止めたが、しばらくするとまた気ぜわしく動き出した。

しばらく室内を往復する音がして、結局、玄関のドアが再び閉まる音が聞こえたのは、シンジがこの家に戻ってから、ゆうに30分は経ってからであろうか。
ドアが閉まり、シンジの足音がしなくなって、アスカは何故かホッと息を漏らした。

「…ったく、なんだってんのよ、あのバカ」
口篭もりながら、のろのろと起き出すアスカ。
部屋のドアを開け、リビングへと出る。
机には、ラップをかけられた、皿いっぱいのチャーハンと、メモが添えられていた。

『ただいまアスカ。チャーハン作ったから、レンジで暖めて食べてね』

「…バカ」

レンジで暖めてと、シンジが書き残したチャーハンは、つい先程、出来上がったばかりの温度を保っていた。
アスカの記憶では確か、ジャーの中の昨日のご飯の残りは、せいぜいひとり分しか残っていなかったはず。

「…人に食べろって言っときながら、自分は食べてないじゃないのよ」
ポツリ、呟くと、アスカはもう一度繰り返した。


「バカシンジ…」






夏へのトビラ 第九話 「汐浦ヒロシ」

NEON GENESIS EVANGELION
The Door into Summer:09






片目の少年は、頬杖をつきながら、緩やかな振動に震える窓枠の向こうをぼんやりと見つめていた。
学校で友人たちと嬉しくも意外な再会を果たした片目のシンジは、夕暮れの迫る街をバスに揺られ、NERV本部へと向かっていた。

茜色に染まる市街地、手を取り合って上り坂を歩いていく親子の姿をぼんやり眺めながら、彼は昼間訪れた学校での出来事を、思い返していた。

トウジが無事だったことは望外の幸運であったが、その一方で、隻眼の少年の胸中に一抹の疑念が残った事は否めなかった。

──僕がこの、過去の世界に戻って来て…、これで3度目だ

ひとつは、ゼルエル戦後、初号機に取りこまれなかったこと。
ひとつは、NERVに戻って来るべき、この時代のシンジが未だ行方知れずということ。
そしてもうひとつは、トウジが片足を失わず、ほぼ無傷で生き残ったこと。

片目のシンジが、この世界にやって来てから、既に3つも、彼の知る歴史とは違う点が発覚している。
少年が不気味に思ったのは、これら全て、彼の起こした行動の外での出来事であることだった。

時間旅行者である彼という、イレギュラーな存在が、この世界に現れた影響なのであろうか。
それとも…

彼の思考が混迷の色を見せ始めた所で、バスは緩やかにその振動を止めた。

彼は一旦、思考を終了せねばならなかった。
終点である、ジオフロントへの入り口に到着したからだ。








「はい、これとこれ…あと、これね」
片目のシンジを学校から再びNERVに呼び戻した張本人――伊吹マヤが、約束の時間ぎりぎりにロビーに現れた少年を待ち受けていた。

「ありがとうございます。助かります」
隻眼のシンジが病院に置いていってしまっていた着替えやDATプレイヤー等、マヤが彼に渡した物はどれも他愛のない、平凡な代物ばかりであった。

ただ一点を、除いては。

「あの…やっぱり、苦労しましたか?」
「まあ…ね。痕跡を残さないようにするのは、ちょっと大変だったけど」
「すいません…」
いいのよ、と笑ってからマヤは、

「でももう、こんな事は引き受けないわよ?
 …そうそう、あと、ひと段落ついたら、必ず病院で精密検査受けてね」
「…はい」
少年の表情に、苦笑が浮かぶ。

「ダメよ、ちゃんと検査受けなきゃ。約束でしょ?
 それに、レイちゃんも、アスカちゃんも心配してたんだから…。
 ちゃんと、彼女たちにも挨拶しないと、ね」

「はい…」
「そういえば、昼にアスカちゃんがこっちに来ていたと思うんだけど…。すれ違わなかった?」
「いえ、別に…」

しばらく話した後、レイのシンクロテストが残っているからと、マヤはエレベーター前で隻眼のシンジと別れた。

(こんなに心配してくれてるマヤさんには悪いけど…、)
片目のシンジには、病院へ戻る気も、精密検査を受けるつもりも、全く無かった。

彼が、『Door』をくぐって、この過去の世界に舞い戻ってきた日付は、2015年12月22日。
だが、『Door』の資料を読む限り、時間跳躍者の活動限界は、40日〜50日あまり。
レイ自爆の運命の日、第十六使徒戦の2016年2月11日まで、この身体が果たして持ってくれるのか…。

そして、第十六使徒の前にも、大きな運命の波が、彼らを翻弄せんと待ち構えている。

第十五使徒、アラエル。
衛星軌道上に突如現れ、アスカを壊したあの使徒は、レイ自爆の6日前──2016年2月5日に襲来する。

現在の日付は、2015年1月16日。
片目のシンジがゼルエル戦の痛手から立ち直るのに、3週間余りの思いがけない期間のロスを要した。

次の使徒戦まで、あと2週間余り。
彼に残された時間は、あまりにも少なかった。










──私は、泣くという行為が、わからなかった。
    涙というものが、どうすれば流れるのか、わからなかった。
    また、どんな時に流せばいいのかも、わからなかった

突然の来訪者が、彼女の居るシャワー室から無言で立ち去るまで、少女は、濡れた身体のまま脱衣所の片隅で立ち尽くしていた。

──でも、今の私は、"泣きたい"のかも知れない───

少女の脳裏に、涙を流して微笑んでくれた、あの少年の姿が浮かび上がる。

──"彼"なら、知っているのかも知れない。

──今なら、泣いてもいいという事を、教えてくれるかも知れない───

少女──綾波レイは、鏡に映った自分の顔を見た。

「いかりくん…」

彼女は、心の底から少年に会いたいと思った。
会って、声を上げて泣き、すがりつきたい。

そう思えるほどに、彼女は傷付いていた。








緩やかな振動と排気音が、片目の少年の周囲を再び、取り巻いていた。
往路で見た、窓枠の外の風景は、すっかり夜の佇まいを見せている。

片目のシンジは、マヤと別れた後、ジオフロントゲート発第3新東京市行のバスに揺られていた。
隻眼の少年以外、誰も乗り合わせていない車内で、彼はやっと、わざわざ夕刻にNERVに再び戻った理由ともいうべき品を開封する。

今朝、片目のシンジが発令所でマヤと話した時に、いくつかの質問と頼み事をしていた。
病院での忘れ物は、事のついでに過ぎず、彼が最も知りたかった事。
それは、マヤ達でしか、調べ得ない事柄であった。

"汐浦ヒロシのデータ"

着替えの制服のズボンのポケットに、それはあった。

『汐浦ヒロシ1986年生まれ。
ゲヒルン時代からの職員。退職年不明。
ゲヒルン以前の経歴、その他顔写真等も無し。或いは抹消済』

マヤが書いたとおぼしきメモと、汐浦ヒロシの名が表示されたデータ画面のハードコピーが、着替えのズボンのポケットに、小さく折り畳んで詰められていた。

片目のシンジは、未来のレイと暮らす男──汐浦ヒロシが、NERVの職員、あるいはNERVに関係する者ではないかとの予想を立てていた。
学校においても、シンジやアスカ辺りとしか言葉を交わさなかったレイの交友関係からして、NERV関連以外の人物と親しくするイメージが余り湧かなかったからである。

彼は朝、マヤに汐浦ヒロシという人物の職員データが、MAGIの機密データベースに入っていないかと密かに持ちかけた。
何故なら、彼レベルの職員の持つIDカードでは、一般以外の職員のデータベースの閲覧に制限が掛かるからである。

実は今朝、隻眼のシンジは発令所でマヤに会う前に、資料室の端末を使って汐浦ヒロシを検索してみたのだが、案の定レベル不足に拠る照会エラーが表示された。
マヤは、リツコ程ではないもののMAGIに精通しているし、片目のシンジよりも上位レベルのIDカードを所有している。

検索を依頼するには、もってこいの人物である。

だが、生真面目を絵に描いたようなマヤに、こういった個人情報の検索を頼むのは、ある種の賭けであったが、マヤは片目のシンジが精密検査を大人しく受けるなら、という条件付きで引き受けてくれた。

かくして彼は、汐浦ヒロシがNERV関係者ではないかという想像の裏付けが取れ、この謎多き人物の輪郭の一端に触れることに成功した。

だが、それは、文字での情報の上に成り立っていた、あやふやな未来の綾波レイの同居人の存在にリアリティを加える結果となってしまった。

"汐浦ヒロシ"は、実在する。

その事実が、片目のシンジの胸中に、重く圧し掛かっていた。







The Door into Summer
#09
"Seeing Again"







シャワーを終えた後、再び発令所を訪れたレイは、シンクロテスト後のミーティングが、リツコの体調不良によりキャンセルされた事を知る。

せっかく上がって来てくれたのにごめんね、とすまなそうに話すマヤに、いつもの調子で素っ気無く答えたレイであったが、内心、安堵している自分に気付いた。

「レイごめんねぇ。リツコ、いきなり疲れたから横になるって言い出しちゃってね…。
 今日はもう、あがっていいわよん」
ミサトは、相変わらずの様子で片手を立てて、ゴメンねのポーズを取っている。

「…問題ありません」
だがそれよりも、レイは彼女の背後にある端末の隅に小さく明滅している、時刻表示の方に視線が行っていた。

19:24。

(もう、とっくに学校から、三佐の家に帰っている頃ね…)
レイの胸の内が、じわりと痛んだ。

でも、それは仕方のない事。
"彼"こと碇シンジは、自分とは住む場所も、そして更に生きるべき世界も違っている。

脱衣所の鏡に映った、自分の顔。
それは、人間の持つ容姿となんら変わらない。

だが、彼女を構成する過程で、シンジ達とレイとでは、決定的な違いが存在する。

──私は、碇君とは、違っている──

認めなければいけないのに、認めたくない、受け入れたくない現実。

──私が、普通の人間なら。

──弐号機パイロットや、葛城三佐、伊吹二尉のようなら、碇君は──

レイは発令所を後にすると、誰も彼女の帰りを待っていてはくれない、あの廃公団の部屋へと続く、長いエスカレーターを上り始めた。

本部のゲートをくぐり、バス停へと向かう。
地上はもう、すっかり夜の帳が下りていた。

次のバスには、あと20分はある。
レイはすっかり暗くなった周囲に、ぽつんと光を放っているバス停のベンチへと向かった。

ベンチには、先客が居た。

白いワイシャツに、黒い髪。
その髪に所々隠れるように、白い包帯が頭部に巻かれている。

──え…。

レイは、見覚えのある後姿を目の当たりにして、心臓が跳ね上がった。

「…あっ、あや、綾波…っ?!」
顔を上げた片目の少年も、こちらに歩いて来る少女の姿を認めると、少し声をひっくり返らせながら、こちらも目を丸くして、立ち尽くしているレイを見上げていた。

「いか…り…くん」

ベンチから見上げている片目のシンジからは、街灯を背にしたレイの表情は、逆光となって見えないが、少女の頬は、ほのかに朱に染まっていた。






「今、シンクロテスト終わったんだ…?」
隻眼のシンジとレイ以外、誰もいないバス停のベンチ。
片目の少年は、彼より少し離れた位置に腰掛けた少女に、視線を送る事無く語り掛ける。

「碇君は…?」
「あ、うん…。僕も、本部にさっきまで用があったから…」
彼の云う事は、半分真実であるが、もう半分は方便であった。

『レイちゃんのシンクロテストが、残っているの』

数十分前、帰りのバスの車中の人となっていた片目のシンジだが、マヤとの別れ際に彼女が残した言葉が、不意に思い出されたのだ。

片目の少年は、最寄の停留所に降りた後、ジオフロント入り口の始発点まで走り、数台の無人のバスを、このベンチに座って見送った所であった。

「そう。…」
レイが、呟くように返答を返す。
片目のシンジと、このバス停で出くわした直後よりは、幾分頬の火照りは取れた筈である。
だが、依然として、彼女は泣いて縋りたいという衝動にすら駆られた、この片目の少年の方を向くことは、出来なかった。

シャワー室では、泣きたいほどに逢う事を欲したのに、いざシンジに会うと、何も出来なくなってしまう。

昨日だってそうだ。
あれほど、シンジが意識を取り戻すのを待っていたのに、彼と再会出来て、嬉しいはずなのに…
隻眼の少年から、逃げるように去って行ってしまった。

レイは、自分で自分の心が解らなくなっていた。

(私は…わた…し…は…)

「…な…み、…なみ」
遠くで、シンジの声がする。

「…?」
顔を上げた、レイの視界いっぱいに、

「綾波、バス…来たよ」
隻眼のシンジの、レイの表情を覗き込む、やや心配げな顔があった。

(あ…)

レイの眼が、思わず見開かれる。
続いて、これまで懸命に抑えつけてきた、内なる衝動が箍が外れたように、溢れ出した。
心音が激しく鳴り響き、先程までほんのりと朱が混じっていた、透き通るような白い頬が、一気に赤く染まる。

(いけない…。また…顔が…)

顔が紅くなった所を、彼に見られたくない。
なぜか、そんな感情が働き、俯こうとするも、頭の中が真っ白になっている為、命令がうまく伝達されない。

「大丈夫?…立てる?」
片目のシンジは、そんなレイの内なるパニックに気付く事もなく、ただ、具合が悪いのかと心配げな言葉を送っている。

「う、うん…」
頬を染めて、こくり。
うなずくレイの仕草は、恥じらいを帯びていて、いつになく、少女らしかった。

(あ……)
それを見た、片目の少年の動きが止まった。
隻眼のシンジは、辛抱強くレイを待ってみたものの、その実、これからどう彼女に接すれば良いのか測りかねていた。

彼が病院で意識を取り戻したとき、彼の一番傍にはレイがいた。
だが、その彼女は彼の無事を確認すると、足早に去って行ってしまった。

片目のシンジは、過去においても、レイとは心を通じ合わせている感覚があったのだが、昨晩の彼女の反応を目の当たりにして、少し臆病になっていた。

──自惚れちゃだめだ。

──綾波が昨日、僕の病室の前に居たのだって、他に誰か、大切な人のお見舞いのついでだったのかも知れない。

元いた世界で、市役所の登記係の男が指し示した、「綾波レイ」の同居人、"汐浦ヒロシ"。彼の名前が、脳裏にちらつく。

(こんな僕が、彼女を守りたいと言ったところで、彼女にとっては、大きなお世話でしかないのかも知れないから…)

自分が、他人に想ってもらえる感じがわからない。
愛してもらえる、自信も無い。

これが片目のシンジと、レイが共に持ち合わせている感覚。
未知なる感覚への、幾ばくかの憧れと、深刻なる恐れ。

(それでも…)

「行こ、綾波…」
乗車口のステップを上がった所で、片目の少年は振り返り、少女を見る。
先程のレイの反応を見る限り、彼女は、自分に悪感情を抱いてはいない事は、確認できたような気がした。

何故なら、ステップの下でこちらを見上げているレイの口元には、照れたような微笑みが広がっていたから───

車内の一番奥の座席に、並んで腰掛けた少年と少女は、走行中ずっと、何も言葉を交わすことは無かった。

だが、隣りあったふたりの、シートに置かれた手の端。
お互いの小指が、バスの振動の度に、わずかに触れあっていた。


今のふたりには、それで、十分であった。








「…じゃあ、また明日、綾波」
レイの住む公団の前でバスを降りたふたりは、いつしか彼女の部屋の前まで来ていた。

──まだ、あの部屋に住んでるのか…

片目のシンジの、胸の内が痛んだ。

「…」

レイは、半分開いた扉の前で、無言で突っ立ったままであった。
ミサトやアスカの待つ、我が家へ帰るべく、踵を返しかけた片目のシンジであったが、

「…あ、」
思い出したように、レイの方を向き直り、そして、表情に緊張の色をありありと浮かべながら、こう告げた。

「あ、あのさ…。綾波、こんな人…知らない?」
ポケットに突っ込んでいた、紙切れをレイに広げて見せる。
そこには、”汐浦ヒロシ”の空欄だらけのデータベースのハードコピーがプリントされていた。

「…」
(汐…浦…ヒロ…シ)

しばらく、”汐浦ヒロシ”の文字を見詰めていたレイであったが、

「…知らないわ…」

ぽつり、呟く。

「…そっか。…ご、ごめんね、いきなりこんな事聞いちゃって」
「気にしないで」
レイは、なぜか安堵の溜息を洩らしている片目のシンジを眺めていたが、それも長くは続かず、片目の少年は、再び「また明日」と彼女に告げると、エレベーターへと向かって行った。

少女は、少年の細い背中が視界から完全に消えるまで、そして消えた後も、しばらく彼が去った方向を見つめていた。








「…ったく、あのバカ、いつまでほっつき歩いてンのよ!?」
リビングの掛け時計の短針が9時を過ぎても、彼女の同居人は一向に帰ってくる気配を見せなかった。
惣流・アスカ・ラングレーは、夕方、彼女の同居人・碇シンジとの久々の対面を、若干の緊張を持って待ち受けていたのだが、いつまで経っても帰って来ない事態に完全に切れてしまっていた。

(…ちょっとは、イイトコあんじゃないと、見直しかけてたアタシがバカだったわ)

朝、片目のシンジが用意してくれたチャーハンを、昼時を待たずして平らげたアスカは、レトルト三昧の日々から久々に、シンジの手料理にありつけると思っていたのを見事に外された格好だった。

──それ以外にも。

アスカは、きっかけを心の何処かで欲しがっていた。

エリート中のエリートとして、NERV本部に乗り込んで来たアスカが、彼女が常日頃バカにしている少年よりも、エヴァでの実績において遅れを取り始めている。

そしてそれは、彼女のプライドを大きく傷付けた。

ゆえに彼女は、ことさらシンジに辛く当たり、周囲にも彼女の前でシンジの話をするのはタブーという暗黙の了解が出来上がるまで、徹底して彼の存在を否定した。

だが、隻眼のシンジが病院にいる間、彼女の中で微妙な変化が起こりつつあった。

きっかけは昨日。
雨の車中、ミサトにシンジを毎日見舞う、レイの事を聞かされた時。

今日は非番で自宅待機であったアスカが、片目のシンジが学校へ行った後、NERV本部を訪ね、日向らに頼んで、前回の使徒戦の記録VTRを見せて貰った。

戦闘不能の零号機をかばって、ゼルエルの攻撃を受け続ける初号機。

涙に掠れた、隻眼のシンジの、レイを気遣う声…

絶叫。

そして遂には、暴走した初号機が、使徒を八つ裂きにする。

それは、ただ初号機が暴走しただけという事実に留まらない、何か片目の少年のレイを守りたいという、執念がもたらした結果のように思える。
VTRを見せてくれた日向達は、そう異口同音に半月前の激戦の感想を述べていた。

それは、口や顔にこそ出さなかったものの、アスカも感じた事であった。

そして、その感覚はやがて、言い知れぬ危機感へと変わって行くのを、彼女はその時知り得なかった。



玄関のドアのロックが、解除される。
一拍置いて、おずおずとドアが開く音がする。


間違いない。


だかだかだか。


「とおぉぉぉーりゃあああぁぁぁぁぁ〜〜っ!!」
バスケットシューズを脱ごうとした隻眼の少年の顔面に、思い切り助走を付けたアスカ渾身の枕アタックが炸裂する。

「ぁわあぁぁっ!」

「このっ、バカっ、シンジっ、どんだけ、待ったとっ、思ってんのよぉぉーっ?!」

ぼふっ、ぼふっ、ぼふっ、ぼふっ、ぼふっ。

十数分後、台所でしくしくと泣きながら、アスカの夜食を作っている片目のシンジの姿があった。








薄暗い室内に、3つの影があった。

ひとつは、女性。
もうひとつは、椅子に腰掛けて、両手を組んで正面の女性の影を見据えている。
そして、もうひとつは、その傍らに起立していた。

「…それが、君の知る未来だと云うのか…?」
長い沈黙を破って、椅子に居る影が、女性の影に語り掛ける。

「…ええ」
女性の影が、被りを振った。

「ですが、此処に来たのは私だけではありません」

「奴が、来ている…とでも、云うのかね?」
椅子影の傍らの、長身の影が問う。その手には、プリントアウトされた紙を携えている。

「…分かりません。…」
しばらくの沈黙の後、女性の影が顔を上げる。

「…ですが、これら一連の事態は、私の知る歴史の流れからは、いささか逸脱しています」

「…そうか。わかった」
椅子の影が、そのままの態勢で言った。

「…歴史の修正は…、成さねばならんな」



女性の影が彼らの元から去り、暫くのち。

「…碇、あの、片目の少年…。どうするつもりだ?」
椅子の影の傍らの、影が口を開いた。

「手駒が使い物にならん以上、暫し利用はさせて貰う。…だが、」
碇と呼ばれた影が、続ける。


「駒が戻って来た時には…修正せんとな」


その手には、コンフォート17マンションとは全く違うアパートの部屋に入ろうとしている、もうひとりの碇シンジの姿が収められた写真があった。






<続く>








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