──全部、

──同じだった。

──いつも、皆と通ったバス停も、木々の間から差し込んでくる陽射しも、学校に続く坂道も、そこを上りきったら視界に入ってくる丘の上の風景も。

──全部、あの頃と同じだった。


──僕は今、学校への道を歩いてる。






夏へのトビラ 第八話 「まえぶれ」

NEON GENESIS EVANGELION
The Door into Summer:08






片目のシンジが入院していたジオフロント内の病院から、即日退院することを申し出たのは、彼が意識を取り戻した晩の事であった。

後遺症の確認等、1日掛けての精密検査プログラムを用意していた医師団から、何を言っているんだと大目玉を食らった彼であったが、それでも翌朝、病院の受付の窓に忍び寄ると、

「ごめんなさい。 304号室碇」
という、簡潔にして明瞭過ぎる報告文を貼り付けて病院を後にし、その足でNERV本部へと向かった。

朝のNERV本部は病院の静寂とは相反するように、出勤する職員たちの慌しい影が幾重にも交錯し、活気と喧騒に包まれていた。
その中、隻眼の少年はひとり、やや思い詰めた面持ちで、持ち場へと急ぐ人々に紛れて、本部入り口に備え付けられているゲートをくぐった。

自分が3週間近くも意識を失っていたと昨晩、医師から聞かされた時、片目の少年は驚愕すると同時に、全身から冷や汗が噴き出るのを感じた。

彼は、元来この世界にいる筈の無い、言わばイレギュラーな存在である。

この世界には、元々過去の彼──碇シンジが存在しており、歴史上では、彼はゼルエルと闘う為にNERV本部に戻り、そしてゼルエルを倒した代償に初号機に取り込まれた。

だが、片目のシンジというイレギュラーな因子が、過去のシンジがNERVに戻るより早く、初号機に搭乗──使徒を殲滅させてしまったのだ。
隻眼の初号機パイロットが病院のベッドで眠りつづけている間に、NERVにはもう既に、過去の碇シンジが戻って来ているはず。

となると、今の自分の立場は非常に危うい。

本来ならば、彼はNERVになど寄らず、早々にこのジオフロントから立ち去るべきであった。
だが、隻眼の少年には意識を取り戻した昨日の夕刻からずっと、拭い切れない違和感があった。

「…どうして、僕はまだ、生きてるんだろう」

そしてそれは、こうも言える。

「…どうして、僕はまだ、生かされてるんだろう」

片目のシンジは事情を知らぬ周囲の人間からすれば、前触れも無く突然姿を現したサードチルドレン・碇シンジに瓜二つの少年、しかもこの少年もエヴァを操縦できるという、およそ常人の感覚では理解できない得体の知れぬ存在である。

過去のシンジがNERVに復帰した瞬間に、隻眼の初号機パイロットの存在の矛盾に気付いたNERVによって、機密漏洩の防止の為、医療事故を装って片目のシンジを亡き者にする事など造作も無い筈。

また、生かしておくにしても、病院に監禁させておいたり、厳重に監視をつける等、何らかの措置は成されて然るべきである。

なのに、サードインパクト後も何となく所持していた、この赤いIDカードはNERVの表玄関であるゲートを容易く通過できるし、NERV直属の病院もいとも簡単に出ることが出来た。

この違和感。

その正体を確かめに、彼はNERV本部に赴いたのだった。

正直、疑問を解明するという探究心よりも、捕えられ、処分されてしまうのではないかという恐怖心、このまま、レイ自爆の時まで何処かで身を潜めておいた方が良いのではないかという考えが先に立つ。

一晩中悩み、最後まで躊躇したのだが、それでも最終的に本部のゲートをくぐる勇気を彼に持たせたのは、NERVを相手に逃げ切れる筈も無いという、ある種の諦観めいたものがあったからだ。

発令所の扉が開くと、片目のシンジにとって、懐かしい景色が彼を待っていた。

向かって奥には、メインスクリーン。その手前には、幾つもの端末と、オペレーター達がその身を預けるシート群が、始業時刻に合わせて来る主たちを待って整然と並んでいる。
だが、その中には、もう既に座席に着いて、端末を立ち上げている者もいた。

伊吹マヤだった。

「あ、あのー…」
隻眼の少年が、おずおずと声を発する。
背後からの意外な声色に一瞬、驚いたように肩をすくみ上げると、伊吹マヤは背後の、今はまだ病院に居る筈の少年の姿を認めた。

「シンジ君?!どうしたの、もう起きてていいの?!」
振り返ったマヤは、目を丸くして素っ頓狂な声を上げた。

「あ、いえ、あの…もう、大丈夫です」
その勢いにあてられつつも片目のシンジが応える。だがマヤは立ち上がると腰に手を当てて、さらに強い口調で眼前の片目の少年にまくし立てる。

「大丈夫なわけないでしょ?!
 シンジ君、すっごく長い間、意識戻らなくて、みんな心配してたんだから!
 …いい、今から病院に連絡取るから、ちゃんと検査してもらうのよ」
「いえ、あの、それより、ちょっと、いくつか聞きたい事が…」
「黙〜り〜な〜さいっ!」

はい…

マヤの剣幕にすっかり気圧されながらも、片目のシンジは心の奥で安堵した。
この伊吹マヤという女性は、発令所オペレーターという職務上、他の職員達よりも隻眼のシンジと比較的接点が多かった事から、それなりに人柄は把握してあった。

彼女の人柄──純粋で優しく、生真面目な物腰からも察するように、彼女は嘘をつくのがそれ程得意な女性ではない。

もし、過去のシンジが既にNERVに復帰した後ならば、マヤの隻眼の少年に対する反応は明らかに緊張を含んだ、ぎこちないものになる筈であろうし、場合によっては早くここから逃げてと忠告するかも知れない。
だがマヤは、彼の姿を見るなり、もう起き出して大丈夫なのかと、本気で片目のシンジの身を案じ、無茶をした彼を叱ったのだ。

マヤの剣幕を目の当たりにして、隻眼のシンジは昨夜から抱いていた疑惑が、確信に変わったのを感じた。

すなわち、過去のシンジはまだ、NERVに復帰しておらず、彼らの中での碇シンジとは、依然として片目のシンジただひとりなのだ。

(でも────)

本気で病院に電話しようとするマヤを止めながら、片目のシンジの脳裏に新たな疑問が沸き上がっていた。


──それじゃ、この時代の僕は、どこに行ってしまったんだろう…










山の中腹に建てられた、第三新東京市立第壱中学校は、NERVの第20番ゲートの付近にある。
片目のシンジは、ミサトらとの共同生活の場であった、コンフォート17マンションに一旦戻って鞄を持ち出すと、かつての学び舎へと向かった。

朝の喧騒を忘れた玄関をくぐり、下駄箱に自分の名前を確認した時、隻眼のシンジは訳も無い安堵感に、嘆息した。

陽はもう既に高く、校舎内は3限目を終えたばかりの休憩時間に入っている。
階段を上る隻眼の少年の容貌に、振り返る生徒たちの視線が集まって、やや早足になりながら、ついに2年A組の教室の前に辿り着いた。

「……」
片目のシンジは、扉に手を掛けると、そのまましばらく躊躇し固まった。
だが、瞼を閉じ、息を吸い込むと数秒後、意を決したように手に力を込める。

「……!」

教室の扉を開けた隻眼の少年に、一斉に投げ掛けられる友人の視線。

休み時間の教室内の弛緩した空気が、急変したのが手に取るように分かる。
誰しもが、久々に姿を現したクラスメート、その痛々しい眼帯を着けた変容ぶりに戸惑い、息を呑んでいた。

片目のシンジは、逃げ出したい気持ちを抑えて、教室内に一歩、足を踏み入れる。
次の瞬間、懐かしい声が飛び込んできた。

「シンジ!シンジじゃないか!」
声の主は、相田ケンスケであった。

「どうしたんだお前、その目!?」
彼の重要な日課である、デジカメを磨く事をいとも簡単に放棄したケンスケが、隻眼のクラスメートの元へ駆けて来る。

「あ、…うん、ちょっと、…その……。物もらいだよ、ただの」
暫し言いよどんだ後、その場を言い繕う。
考えてみれば、ケンスケ達に会えば、目の心配をされるのは分かり切っていた事だった。
人と付き合うのは相変わらず苦手な自分であるが、それでも自分を心配してくれる友人がいる。

サードインパクト後の、飛騨を始めとする人々に寄ってたかって脆弱な心を切り刻まれるような日々を長く送っていた彼にとって、自分の身を案じてくれる友人と再会できた事に、彼は思わず胸を、そして瞼を熱くした。

「…お前、なに泣いてんの?」
ふと気が付くと、ケンスケが怪訝そうに覗き込んでいる。
また、涙ぐんでしまっていたようだ。

「な…、何でもないよ。それより、洞木さんは?」
かぶりを振った彼は、学級委員長との面会を求めた。

ヒカリを探す傍ら、隻眼の少年の視線は、彼に深く関係した人々のそれぞれの机を追う。

綾波レイは…来ていないようだ。
アスカも、今朝彼がマンションに帰って来た時に、彼女の部屋のドアが閉ざされたままだった事から、恐らくまだ自分の部屋に居るのだろう。

「あ、いたいた。おーい、委員長」
主の居ないアスカの机を見ている隻眼の少年の横で、ケンスケの声が響いた。







片目のシンジは、ヒカリを伴って、屋上へと続く通路を歩いていた。

屋上に到達するまでの数分間。
その間、先を往く少年の口からは、ひとことも言葉が発せられることは無かった。
ヒカリも、再会した際の彼の思い詰めた表情を目の当たりにした所為か、黙って片目の少年の後を付いて行く。

彼が、病院を抜け出してまで学校に来たがったのは、ヒカリに会う為、そしてトウジを傷つけた事を彼女に打ち明ける為であった。

四号機が使徒に乗っ取られたため、そして、ダミーシステムによる所業ではあるものの、自分はトウジを傷付けた。

そして、トウジを助けることが出来なかった。

トウジの乗るエントリープラグを握り潰して、やっとダミープラグが活動を停止するも、病院で再会したトウジは片脚を失っていた。
少年は、友人を傷付けた事、初号機を止められなかった自身を、これ以上なく責めた。

──僕の、所為だ。

意識を取り戻し、自分がまだ生きていることを知った彼は、過去では有耶無耶になってしまっていた、ヒカリに会う事を望んだ。

彼女に会って、トウジの事を謝りたかったのだ。
到底、許される事ではないと、分かっていながらも…。

階段を上り、非常扉を開けると、隻眼の少年の沈痛な胸の内とは裏腹の、清々しいまでの青空が広がっていた。







The Door into Summer
#08
"Kind Friends"







人気のない屋上。
既に、4限目が開始されている校舎内は、休憩時間の喧騒から、落ち着きを取り戻している。

「どうしたの、碇君…みんな心配し」
「洞木さん」
口を開いた少女を、片目の少年が制する。

立ち尽くすふたり。
ややあって、少年の方が続けた。

「トウジの…事…なんだけ…ど」
ビクッと、ヒカリの肩が震えた。

「その…あ…の…」
声が震える。
少年の脳裏に、四号機を縊り殺さんと振り下ろされる、初号機の拳の映像がよぎる。

その瞬間、片目のシンジの瞼から堪らず、涙が滲む。

「…僕は…ぼ…くは…」

視界が、涙に覆われる。
自責の念の波に飲み込まれる。

「トウジを…傷付けてしまった…」

──泣いちゃいけない。
しっかり、洞木さんを見て、言うんだ。

爪が食い込み、血が滲む程に、拳を固く握り締める。

「……え」
ヒカリの表情が、青ざめる。
彼女は、まだトウジが片脚を失った事実を、知らされてはいないのか。

「トウジが…エヴァのパイロット…になったんだけ…ど…」
「……」

「そのエヴァが…その…暴走…し…て…。それで…僕…が…」

「……」

「あやまったって…許して…もらえることじゃ…ないと思うんだ」

「……」

「でも、…でも…その…」

自分の気持ちが、うまく口に出来ないもどかしさ。
だが、ヒカリは怒りに身を任せるでもなく、悲しみに身を捩る訳でもなく、ただただ、呆然としている。

「それで…トウジは…、トウ…ジ…は…」

片目のシンジは、次の言葉を紡ぐのに、ありったけの勇気を振り絞り、ありったけの力を込めて、涙を止めようと抗った。


「…片脚を、…失って…しまった…んだ…!」


血が出るほどに、唇を噛み締める。
涙が、零れ落ちる。
自分の口から発する事によって、自らがしでかした所業を再認識する。

だが、ヒカリは何もしないままに、立ち尽くしていた。
それが逆に、隻眼のシンジの心を大いに締め付けた。

ヒカリに、殴られると思っていた。
無力な自分を精一杯なじり、罵倒されるだろうと覚悟していた。

むしろ、その方が楽だった。

──どうして、僕を殴らないの?
どうして、僕を憎んでくれないの?

片目のシンジの心に、焦燥感にも似た感情が沸き上がる。

辛い。
彼女の穏やかな佇まいが、とても、とても…辛い。

「どうして…」
堪え切れず、片目のシンジが、そう言いかけたその時だった。








「おぅ、なんやセンセ、学校来てたんかいな」








「鈴原…」
ヒカリの呟きに、思わず片目の少年は振り返った。

「……え?」
屋上と校舎とを繋ぐ非常扉の向こうから、いつもの紺のジャージに身を包んだ鈴原トウジが、ふたりの元へ歩み寄って来ている…。

しかもその足取りは、とても、軽かった。

「おわ、なんやなんやセンセ、これが世に言う、修羅場っちゅうヤツか?」
「…鈴原!何言ってんのよ!」
すっとぼけたトウジに、ヒカリの怒声が被さる。

いつもの光景───。
だが、片目のシンジは、現実とはとても思えなかった。

「ト、トウジ、足…」
左眼を見開き、口をパクパクさせながら、やっとの事で言葉を搾り出す。

「あ?ワシの足がどないかしたんか?」
泰然自若としたトウジが、怪訝そうに首をかしげる。

「え、いや、でも、トウジ…こないだ、僕がトウジの足を…」
「ああ、アレはお互い災難やったな。でも、最後の最後で、ワシはシンジに助けてもろたがな」

「へ?」

「なんやシンジ、覚えてへんのか?」

トウジの話によると、ダミープラグに操られた初号機が、トウジの乗る四号機のエントリープラグを握り潰したところで、初号機の動作に異常が来し、そのまま活動を停止したという。
ゆえに、最後の最後で力が抜けた状態でプラグを握られた為、隔壁が割れた程度で済み、トウジの身体には特に外傷はなかったというのだ。

「え…」

ぽかーん、と、口を開けたまま、硬直する片目のシンジの脳裏に、今朝の発令所での会話がよぎる。









「──ところで、トウジは、あれから…」
マヤとの会話がひと通り済んだ後、片目のシンジは意を決すると、トウジの事を尋ねた。
果たせるかな、途端にマヤの表情が曇った。

「フォースの男の子ね。彼は…」
「あの子なら、辛い目に遭わせてしまったわね…」
マヤが答えようとした所を、出勤してきた葛城ミサトが背後から答えた。

(やっぱり…そうか)
片目のシンジの胸中に、暗い影が落ちた。

「可哀想にね…あの子。助かったけど、もう、立ち直れないかもね。男として…」
目を伏せ、ややオーバーな素振りで、頭を左右に振るミサトの映像が、屋上でヒカリとトウジの前で呆然とする片目のシンジの脳裏によぎった。









「──ちょ、ちょっと待ってよ、ミサトさんに聞いたら、トウジはもう立ち直れないかもって…」
「…はあ?」
その言葉に、キョトンとしていたトウジであったが、やがて、何かを思い出したのか、

ガバッ。

「わっ、ちょ、ちょっと?!」
トウジはやにわに、片目のシンジの頭に腕を回してヘッドロックの体勢を取ると、ヒカリに背を向けてその場を離れる。

「…ええか、この事は、いいんちょにだけは、言うんやないぞ」
「う、うん…」

トウジの話には続きがあった。

初号機が完全に動作を停止したところで、トウジの乗るプラグが回収されたのだが、その作業中、発令所への回線が生きていることが分かった。

『トウジ君!トウジ君!』

意識を取り戻しつつあるトウジに、必死に呼びかけるマヤの声。
それに、救護班に抱えられたトウジが応えた。

「お、お姉さん、…わ、ワシ…、ワシ…」

『トウジ君?!』

















「…ちびってもうた…」

















「……」
思い切り笑いたいのだが、笑ってしまっていいのかどうか分からない、どうにも神妙かつ微妙な表情の片目のシンジに、

「ええか!これ教えたん、センセとケンスケだけやからなっ!いいんちょにバラしたら、しばくぞっ!」
顔を真っ赤にして、トウジが凄んだ。
だが、当の片目のシンジには、その言葉は半分も届いておらず、

”やられた。”

という文字と、してやったりの表情で舌を出すミサトの顔が、彼の頭の中をぐるぐると駆け回っていた。
しばらく放心状態であった片目のシンジだが、やがて、

「ぷっ、くく…」
たまらず、吹き出す。

「ああっ、センセ、笑うたぁどういうこっちゃねん!
 …だあぁっ、いいんちょ!こっち来るなっちゅーねん!何でもないわ!」

「ごめん、ごめん」
片目のシンジは、トウジに頭を抱えられている状態で親友に詫びると共に、彼にそっと耳打ちした。

「じゃあ、ここだけの話だけど、実は僕も初めてエヴァ乗った時…」
「…ん、…んん?…おおぉ!!
 ほーか、ほーか、センセも仲間やってんな!よっしゃ、さすがはワシの親友やぁ!
 …だーかーら!いいんちょは、関係ないっちゅーねん!これは男と男の会話なんじゃっ」

「という、トウジのイヤーンなお話でしたとさ」

スパーン!!

何時の間にか傍にいたケンスケの側頭部を、トウジが脱いだ上履きでぶっ叩く音が屋上にこだまする。


少年たちの笑い声が、屋上高く、空に溶けて行く。

片目のシンジの眼に、安堵の涙が滲む。
彼は、いつ以来だろうか、自分でも見当がつかない程久々に、心の底から声を上げて、笑った。








「…ご苦労様。レイ、あがっていいわよ」
起伏の感じられない、リツコの声がスピーカーを通じてレイの乗る函に響くと、彼女の周囲が暗転する。
彼女たちが見守るMAGIの端末には、ファーストチルドレン・綾波レイのシンクロテストの結果が次々と算出され始める。

「ブランクがあった割には、まずまずって所じゃない?」
白衣の美女の傍らの、妙齢の女性が語りかけた。

「…そうね」
リツコは、モニターに目を遣ったまま、レイに指示を出したと同様、起伏の無い返事を寄越す。

「…リツコぉ、アンタここんとこずっと、そんな調子じゃなーい?疲れてんなら、休むのも仕事の内よ」
ミサトは、遂に辛抱し切れなくなったか、かねてから懸念していた事を口にした。
葛城ミサトが、友人・赤木リツコの様子がおかしいと気付いたのは、ここ2週間ほどだろうか。

元々、必要以上の事は話さない、女性にしては寡黙の部類に入るであろうリツコだが、その口数が更に減って、また、時折何か別のことを思案している風でもあった。

今日も、レイのシンクロテスト中も、グラフを注視しているように見えて、その実ミサトやマヤの語り掛けや質問に、要領を得ない生返事を繰り返すのみ。
このように、全く集中を欠いたリツコは、10年来の付き合いである、ミサトの記憶の中でもそうはなかった。



数分後、綾波レイはシャワールームに居た。
程良い熱をはらんだ無数の水滴が、少女の白く、透き通るような肌に付着したLCLを勢いよく洗い落としていく。

白い手の平が、その瑞々しい二の腕を擦り、LCLを落としていく間にも、レイの視線は、先程から目の前の白を基調としたタイルを見詰めたまま、動かなかった。



今朝「約束」通り、NERV本部に姿を現したレイを待っていたのは、ミサトのニマニマとした顔だった。

「レイ〜、ごめんねぇ。もうちょっとシンちゃんを引き留めてたら会えたんだけどねぇ」
聞けば、昨日意識を取り戻したばかりのシンジが、精密検査も受けずに病院を抜け出して、つい先程までここ発令所に来ていたというのだ。

「シンちゃん、どうしても学校に行きたいんだって言ってたわよ?愛しのレイちゃんに会う為かな〜?」
人をからかうネタを掴んだ時のミサトは、誰にも止められない。
ここ最近においての、彼女の一番の被害者たるシンジはレイの事でからかうと、いつも分かりやすい程に顔を真っ赤にさせて俯く。
今朝も、トウジの安否をマヤに訊いていた片目のシンジを、毎日お見舞いに来ていたレイの事で、さんざからかったばかりだった。

羞恥に耳まで真っ赤にした隻眼の少年に、ほうぼうの体で逃げられると、そこへ続いてやって来たのがレイだった。
ミサトは、からかわれた時のレイが、一体どのような反応を示すのか見てみたいという好奇心に勝てず、シンジをからかうのと同じ手口を試したのだが、

「…テストを、始めたいのですが」
という、いつもの無表情なレイがそこに居るだけであった。


──どうして、言えなかったの。


ノズルから噴出される、熱い迸りが蒼い髪に降りかかる。
レイは、数分もの間、この頭上からシャワーに打たれている体勢のまま、立ち尽くしていた。

ミサトから、片目のシンジとすれ違いで逢えなかった事を聞かされた瞬間、レイの胸の内に、ある感覚が湧き上がってきた事は確かだ。
だが、彼女はそれを決して表に出すことなく、長い間中断していた自身の訓練の再開を望む事を告げた。

自分は、決して間違ってはいない。
間違っては、いないはずなのに────


「意外だったわね」


不意に、扉一枚隔てた向こうから、声が響いた。

「今のあなたなら、『約束』なんて放り出して、シンジ君の元に、行きたがるんじゃないかと思っていたけど」
声が反射して、少しくぐもった声質になってはいるものの、その声は紛れも無く赤木リツコのものであった。

「…」
依然、レイはシャワーを頭上から浴びている状態のまま、動かない。

「全く、あなたがシンジ君の意識が戻るまで、訓練はキャンセルさせて欲しいなんて言い出した時は、司令も私も驚いたわよ」
リツコは、湯気の立ち込めた扉の向こうで、立ち尽くしているレイの後姿を冷ややかに見ている。

「ここ3週間、ずっとシンジ君の看病をしていたそうね?
 そんなにシンジ君に御執心なら、約束など守らないで学校にでも行けば良かったのよ」
「…」
ただ、シャワーが流れる音のみが、扉の向こうから聞こえてくる。

「シンジ君の看病もしたいし、申し出を認めてくれた司令にも良い顔したいって所かしら?全くあなたは…───」

バタン!

不意に扉が開いた。
中から俯いたレイが、リツコの前を横切って、脱衣所へと足早に歩いていく。
その横顔をちらりと見たリツコは、特に彼女を止めるでも無く、その場に留まった。








(確かに…大人気なかったわね)

「外出中」という文字の下に、ネコのイラストが入ったプレートが飾られた扉の向こうで、リツコは先程のシャワー室でのレイに投げかけた言葉の数々を思い返していた。

レイは、ゲンドウの判断により、外界との接触を出来うる限り絶っていた為、彼女の生涯で一番顔を向き合わせていたゲンドウを信頼し、縋るのは仕方の無いことだとリツコは理解していた。

そして、ゲンドウの他に、いや、それ以上に彼女を心配し、守ろうとした碇シンジにレイが惹かれていくのも、自然な事だと判っている。

ならば、自分の先程のレイに対する、八つ当たりのような態度は、どうか。

あの時、シャワー室ですれ違ったレイの横顔は、濡れた髪によって殆ど窺い知れなかったが、それでも明らかに悲しみの色を浮かべていた。
自分がレイをなじった所で、あの男が自分を見てくれる訳でもないと言うのに…。

「嫉妬…。不様ね」
リツコは呟く。
そして、彼女の思考は、ここ数週間彼女を煩わせている、あの少年の事項についてシフトして行く。

サードチルドレン・碇シンジ。

司令との確執でNERVを飛び出した少年は、最強の使徒襲来のその時、彼らの前に帰って来た。
だが、その少年の衣服は汚れてほつれ、右眼には、薄汚れた包帯と眼帯が巻き付けられていた。

碇シンジがNERVの登録を抹消され、里親の元へ帰されたのは、使徒襲来の日の午前中だった。
それから数時間後、使徒の姿が確認され、ジオフロントに侵入を許したのは1400を回った頃。
この半日にも満たない、僅かな時間の間に、彼に何が起こったのか?

それだけではない。

使徒を殲滅後、彼は病院に搬送されたが、軽度の栄養失調、数日前の測定値を大幅に下回る筋力低下、体重の減少、諸々の診断がなされ、元の健康状態へ戻る為には、数週間の入院を必要とした。

そして何より、あの右眼の怪我である。
薄汚れた包帯と眼帯の下に、本来あるべき眼球は抉り取られていて、雑菌にまみれた醜い傷跡が残されていた。
しかも、その傷跡は、ほんの数時間で出来たものではなく、少なくとも傷を負って数ヶ月は経過しているとの診断が下されたのだ。


「まさか、あの子…」

リツコの脳裏に、何度も浮かんできては、打ち消している、あの、執務室の奥の情景がよぎる。
その時、リツコの目の前の端末が、一通のメールの着信を告げていた。







<続く>










<あとがき>

今回のトウジの話ですが、従来の雰囲気とは違い、ややコメディ調にしました。
ここまでずっと、やや重い感じで進めて来ましたものですので、こういった展開を挟むのは少し抵抗ありましたが、それでも、トウジは大まかな原案の段階から、真っ先に助けるつもりでいましたし、陰惨一直線だった本編第拾七話以降とはまた別のベクトルを行くように、片目のシンジ君が過去に行って、少しずつ書き換えられつつある歴史を表現する一環として、あと、ボケツッコミが似合う関西人トウジならば、許せる範囲だろうと判断し、コメディ調採用に踏み切りました。

惜しむらくは、もうちょっとマシなエピソードを思い付ければ、良かったのですが…

あと、感想、励ましのメール、皆様ありがとうございます。
某巨大掲示板のLRSスレでも、生暖かく見守っていただき、大変感謝しております。
皆様の鑑賞に耐え得るレベルの文・内容には、なかなか程遠いかと思いますが、このFFが終わる頃には、少しでもレベルアップしていれば、と思っております。

では、また次回お会いしましょう…



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