──僕は、さっきからしきりに、目の前の男の子をせかしていた。


「綾波が、いなくなるんだ。僕も、いなくなるんだ。──あと、1日も時間がない」

「だいじょうぶだよ」


──男の子は僕のほうを振り返って、言った。


「君は急いでるようだけど、君に出来ることは、そう多くない。
 そう、眠ることぐらいかな。──眠って──眠って──あともう1度、眠ること」


──でも男の子の顔は、この暗い部屋の扉が開いて、白い光を背にしてしまってるから見えないんだ。


「眠れば、君の求めていた世界が手に入るさ」


──男の子は、微笑んでるようだった。
    そして、その背中の向こう側から、足音が聞こえてきた。

──これも逆光でよくわからないけど、扉を開けたのはこの人だと思うし、
    この部屋に入って来たのも、この人だと思う。
    その人は、僕らよりも大人みたいだった。みんなの言葉遣いが、少し違う。


──みんな?

──そう、僕らは、この暗い部屋で、輪になって座っていた。
    そして今、扉が開いて、その人が入ってきたんだ。


「僕は…──、許してもらえるの?」


──僕の問いに、みんな微笑んでくれた。
    うれしい。
    涙で、みんなの姿がにじんだ。


──いや、それだけじゃない。この部屋全体が────揺れている。
    みんなの姿が、ピントがだんだんぼやけていく。


──みんな、砂になっていく。


砂になるのは、僕のはずなのに────




部屋の向こうで、扉が閉まる音がした。








かなりの時間、シンジは何が起こったか分からないでいた。

確か、自分はあの赤い海に浸されたNERV本部跡地にいたはずだった。
そして、あの地下室で激情に駆られるままに、未完成の『Door』に身を委ねた。
カプセル越しに、端末のモニターがオートパイロットのシグナルを明滅させて、それが青く光ったのを見た。

一瞬の空白の後、シンジの身体は、いやというほど、何か硬いものにぶつかった。
そして、何かが焼き焦げるような匂い、身を焦がされるような感覚がした。

その後、気が付けばシンジはここに立っていた。
そこにあるのは遥か頭上を覆い尽くしていた黒い雷雲、赤い海、瓦礫の街ではなく、抜けるような青い空に白い雲、そして特徴的な白いアーチの建物──

新箱根湯本駅が、崩れてもいない、昔のままの姿でシンジの目の前に、何事もなかったかのように佇んでいたのだ。

「僕…は…、ぼ…くは…」
目を見開き、周囲を何度も見渡しながら、シンジはうわごとのように呟く。

新箱根湯本駅の外観だけではない。
その傍のターミナルも、そこを通る車両も、今、駆動音を上げて走り去って行ったリニアも、総て、昔と変わらなかった。

「戻って…来れ…たの…?」
過去に、と続けようとした少年の片方しか存在しない瞳孔が、一気に開いた。
彼の視線の先に、人影を認めたからだ。

ターミナルの端で、ふたつの人影が、アスファルトに照りつける陽射しが造る陽炎に浮かび上がり、ゆらめきながら起立している。

反射的にシンジは、物陰に隠れた。

心臓が痛いほどに激しく動悸し、身体中から、汗が噴き出す。
なぜならシンジが目撃した人影ふたつは、彼の良く知る人物であったからだ。


彼の目の前に佇んでいるのは──


葛城ミサトと、碇シンジ。
まぎれもなく、彼らであった。






夏へのトビラ 第六話 「正しき道」

NEON GENESIS EVANGELION
The Door into Summer:06






──僕が……いる……。

アーチを支える支柱に、咄嗟に身を隠し、残った一方の眼で覗き込んだ片目の少年は、眼前に広がる光景に否応なく目を奪われていた。
隻眼の少年の視界の向こう側にいるふたり──葛城ミサトと、もうひとりの碇シンジは、改札の前で何事か言葉を交わしている。

彼らの傍には、NERVと白くマーキングされた黒塗りのセダン。
その光景に、片目のシンジは固唾を飲み、目を見張った。

「…アスカは、呆れて来ないでしょうね」
片目のシンジの視線の先に、ミサトと相対する、能面のように無表情の碇シンジがいる。

「…ええ、宜しく、とも言ってなかったわ」
ミサトが答えた。その口調は冷ややかではあるものの、何かをぐっと胸の内に抑えこんでいるのが分かった。

「彼女らしいです。安心しました」
自嘲気味に少年は応える。

「…わかってると思うけど…これから先。あなたの行動には、かなりの制限が付くから」
「はい」

「あ…」
「なに?」

「ひとつだけ教えてください。なぜ、トウジなんですか?フォースチルドレンは」

「…第四次選抜候補者は、総てあなたのクラスメートだったのよ。
 …私も、最近知ったわ。すべて仕組まれていた事だったの」
「みんなが…」
暫し呆然とするシンジ。


片目のシンジは、ここで全てを思い出した。

これは…第十三使徒バルディエルの後。
ダミープラグに操られた初号機が、友人・トウジの乗る四号機を殲滅した数日後の出来事であった。

父・碇ゲンドウとの確執が決定的となり、シンジはこれ以上のエヴァへの搭乗を拒否し、NERVを飛び出した。
そして、ミサトに見送られ、ここ新箱根湯本駅で特別列車に乗る寸前の場面を、『Door』に乗って未来よりやって来た片目のシンジが第三者として目撃しているのだった。

となると今この時は、2015年の12月22日。
そしてこの後間もなく、最強の第十四使徒・ゼルエルが襲来する。

だが、それを認識した隻眼のシンジの脳裏に、重大な問題が浮かび上がる。
彼が『Door』の端末にインプットした時間跳躍の到達予定日は、レイが自爆する前日の2016年2月10日。
にもかかわらず、彼が時間跳躍を果たしてやって来たのは、それよりも過去の2015年12月22日。

実に1ヶ月半もの、ずれが生じている。

隻眼のシンジにとって、このずれは致命的であった。
時間跳躍した者が、跳躍した先に留まれる期間は、平均40〜50日前後。
レイの自爆を食い止め、人類補完計画を阻止する為に、身の危険を押して過去に戻って来た片目のシンジであったが、補完計画はおろか下手をすればレイの自爆すらも止められぬまま消滅してしまうかも知れない。

隻眼の少年の首筋に、冷や汗が伝った。


「…本部までのパスコードと、あなたの部屋はそのままにしておくわ…」
「無駄ですよ。片付けておいてください」
ミサトの声を遮るようにして、シンジの硬い意思を込めた言葉が飛んだ。

そしてシンジは、息を吸い込むと、こう続けた。

「…僕はもう、エヴァには乗りません」
彼は、そう静かに告げると、改札の向こうへと消えていった。








片目のシンジは、ミサトを乗せたNERVの車が、ターミナルから去るのを待ってから走り出した。

もうすぐ、警報が鳴る。
あの使徒が、やってくる。

過去では、彼が初号機への搭乗を決意するまで時間が掛かった為、レイやアスカを傷付け、使徒にセントラルドグマへの侵入を許した。
出来るならば、今回はもっと早く初号機に乗り、使徒に対抗しなければならない。

だが、どうやってあの使徒に撃ち勝つ?

アスカは、あの使徒の前にバラバラにされた。
レイは、N2爆弾を携え、特攻を仕掛けたものの返り討ちにされた。

隻眼のシンジの脳裏に、あの恐怖が蘇りつつあった。

「う………」

片目の少年の駆けていくスピードが落ち、足が止まっていく。
どうすれば、自分はあの使徒に勝てるのだろうか。

彼が経験した過去では必死に闘う内に内臓電源が切れ、万事休すという所で初号機が覚醒し、結果的に殲滅出来た。
だが、その代償に自分はエヴァに取り込まれ、サルベージされるも失敗。
戻っては来れたが、どれもこれも二度とは繰り返せそうにない、文字通り奇跡の所業であった。

──ど…うすれ…ば…

「うっ…!」
片目のシンジの思考が袋小路に入ろうとした時、不意に右眼の激痛が彼を蝕んだ。

「くっ…ぅ、…う…」
立ち止まって、眼帯の上から右眼を抑え、うめく。
1日に、何度となく彼を襲うこの痛み。
今回のシンジは、左目でしか視認出来ないハンディ、そしてこの痛みも背負って闘わなければならない。

彼の意識が、混迷的な色合いを濃くしたその時だった。



警報が鳴り響いた。



『東海地方を中心に非常事態宣言が発令されました。
 住民の皆様は速やかに指定のシェルターへ避難して下さい。
 繰り返します。ただいま…』

片目を抑え、空を見上げた隻眼の少年が、呟いた。


「使徒だ…」







The Door into Summer
#06
"The Way That Should Be"







「総員、第1種戦闘配置、地対空迎撃戦用意」
『EMARGENCY』の文字が激しく明滅し、ジオフロントの中心が、世界を守護する最後の砦が緊張に包まれる。

それは、自らの存在を誇示するかのように、ゆっくりと舞い降りてきた。
胴長短足で、腕は極端に短い。
土偶のようなシルエットに不気味な笑みを貼り付けた、白い仮面のような顔を頭部に頂くそれは、降り注ぐ国連軍の対空砲火も無関係にゆったりとした速度で移動して行く。

「駒ケ岳防衛線突破されました!」
通信された情報を、青葉シゲルが伝えた次の瞬間だった。

使徒の眼が光り、瞬く。

次の瞬間、十字状の火柱が、市街地を抉る。
そう、その地盤の下にある、ジオフロント目掛けて…。

「第1番から18番装甲まで損壊!?」
上ずった青葉の声が発令所に響いた。

「18もある特殊装甲を、一瞬に…」
モニターに映る情報を認めた日向マコトの目が、驚愕に見開かれる。
その背後の扉が開き、新箱根湯本駅より戻ってきたミサトが、足早に発令所に入って来た。

「エヴァでの地上迎撃は間に合わないわ。弐号機をジオフロント内に配置───」
エントリープラグに飛び込む、赤い髪の少女の姿。すぐさまハッチが閉じ、アスカを乗せたプラグが回転しながら弐号機に挿入、固定される。

弐号機がリニアレールへ移動、火花と共に射出される。

「アスカには、目標がジオフロント内に侵入した瞬間を狙い撃ちさせて!」
矢継ぎ早に放つミサトの指示を、オペレーター達は次々と消化して行く。

「零号機の状況は?」
マヤの端末を覗き込むミサト。

「ATフィールド中和地点に配置されています」
マヤの報告に、背後のリツコがつけくわえる。

「まだ、前の戦闘で切断された左腕が、再生していないのよ」
第十三使徒・バルディエルに乗っ取られた四号機の、凄まじいばかりの攻撃がミサトの脳裏に甦った。

「戦闘には耐えられないか…」
唇を噛むミサト。

「…レイを初号機で出せ。」
その時、発令所の最上段から、低い声音が降って来た。

「ダミープラグをバックアップとして用意」
声の主は、NERV総司令碇ゲンドウであった。

「…はっ」
ミサトは強張った表情で応える。
前回の使徒戦で、ダミープラグの残忍とすら言える徹底的な攻撃は、既に周知の事となっている。

目標が倒れてもなお、身体を千切り、引き裂き、殴りつける、あの全身が総毛だつような残虐性。
相手が憎んでも憎みきれない父親の仇・使徒とはいえ、あの凄惨な光景が再び目の前に広がる可能性があるという事を、ミサトは心の片隅で嫌悪した。

宙に浮かぶ使徒の姿が、スクリーン上に映る。

その眼が、再び光る。
第3新東京市に、立て続けに四本の、火柱の十字架が立った。

「駄目です!あと一撃で、全ての装甲が突破されます!!」
"ALERT"と記された赤い文字がモニター上で踊る。青葉が叫ぶ。

ゼルエルの攻撃力は、これまで襲来した使徒達のそれを、はるかに凌駕するものだった。
この使徒に比肩する強力な攻撃力を持った第五使徒・ラミエルは、ジオフロントへの侵入を自身のドリルで試みたが、それでも特殊装甲の貫通にかなりの時間を要した。

その特殊装甲が、たった数発の光弾で、破壊されようとしていた。








その頃、片目のシンジは、NERV本部に到着していた。
ミサトの言う通り、パスコードはまだ使えていた。

時折、建物内に響く爆音の遠鳴りと振動が、使徒がこのジオフロントに侵入を果たす時が近いことを物語っていた。 数百メートルに渡って下階に伸びているエスカレーターを駆け、隻眼の少年はケイジを目指す。

もう、アスカは出撃しているかもしれない。
片目のシンジの胸中には、恐怖と焦燥感がせめぎあっていた。

あの使徒を倒す手立ては、未だ思いつかない。
かといって、前回のようにシェルターに逃げ込んで、むざむざアスカやレイが使徒に屠られるのを黙って見ているのか?

あの時、加持が告げた、ターミナルドグマのアダムと使徒が接触すれば世界は滅びる、という言葉は実際には有り得ない事を隻眼のシンジは渚カヲルとの遭遇で知っている。
だが、使徒がこの本部の最深部まで行き着く頃には、ここにいる皆の命は、路傍の草葉のように間違いなく無慈悲に踏み潰されているだろう。

「シンジくん?!シンジくんじゃないか!!」
ケイジへの通路を疾駆する隻眼の少年の後方で、不意に呼びとめる声がする。
そこには、手に消火器を抱えた整備班の青年が、驚いたように目を見開いていた。

「戻って来たのか…って、どうしたんだその眼?!」
整備班の青年は、片目のシンジの横を併走しながら語り掛ける。
無理もない。
総司令と衝突し、登録抹消され、NERVから去ったと伝え聞いていたサードチルドレンが、こうして戻って来たのもさることながら、わずか見ない内に華奢な彼の容姿は一段と痩せこけ、制服のワイシャツはボロボロにほつれ、汚れて、おまけに右眼には痛々しい眼帯と包帯を着けている。

「なんでもないです」
青年と同じタイミングでコーナーを曲がる。

「それより、アスカは…」
「さっき出撃したよ。 全く、使徒は来るし火事はあるしで、今日は厄日だよな」
青年が、愚痴めいた口調で叫ぶ。

「…火事?」
片目のシンジが、意外そうに顔を上げる。

「そうだよ。使徒が来るちょっと前かなぁ。ボヤ程度で済んだんだけどね」

あんな大騒ぎだったのに、知らなかったのか?
と言わんばかりに青年は首を傾げ、走る少年の横顔を見る。

その片目の少年は、訝しげな表情を浮かべていた。

過去の記憶を辿ってみると、ゼルエル襲来の直前は、彼はNERV本部にはおらず、本部付近の第6シェルターに身を潜めていた。
ゆえに、この火事があったという事自体も、知らなくて当然とはいえる。

だが…。

自分がサルベージされた後も、あの時、NERV本部で火事があったなどとは、伝え聞いた事も無かった。

「あ、もうこりゃいらないな」
2つ目のコーナーを隻眼の少年にやや遅れてパスした整備班の青年は、小脇に抱えていた消火器に視線を落とすと、躊躇なくポイっと通路の端に放った。
走り去る2人の遥か後方で、ガコン、という音が連続して響く。

青年の話いわく、今から数十分前に突然、本部内に警報が鳴り響いた。
だが、発令された警報は、使徒襲来を告げるそれではなく、火災警報だったという。

「総司令の執務室の奥から、急に煙が立ちこめたらしくてね。
 すぐ鎮火したんだけど…、あんな殺風景な所で、
 何で火の手が上がったのか誰もよく分からないんだ」


「え……」


「みんな消火しようと集まったんだけど、
 司令が"私と冬月がやる。いいから持ち場に戻れ"の一点張りでね。
 いつもの事だけどさ。で、しばらくしたら今度は使徒襲来の警報だよ。…って、あれ?」
冗談めかした口調で苦笑する青年が、片目のシンジの方に視線を移すと、そこに少年の姿はなかった。
少年は、急ブレーキをかけた青年の、はるか後方で立ち尽くしていた。
その顔は、蒼白だった。


──執務室の奥って、あの、隠し部屋があった場所じゃないか?!

──そこで火事が起きたってことは…


隻眼の少年の思考が加速して行く。

父・ゲンドウの執務室の奥。
そこには、彼がこの世界に来るための鍵である、『Door』が設置されている隠し部屋が存在する。
青年の証言から見て、今回の火事は、その隠し部屋から出火した可能性が高い。

その事から導かれる結論は…


──『Door』が、壊れた…。


思い当たる節はあった。
元々、一か八かで挑んでみた時間跳躍であったが、やはり『Door』が未完成であるが故か、指定した月日よりも大幅にずれこんだ過去に来てしまった。

そして、時間跳躍から意識を取り戻すまでの刹那、何かに焼かれるような感覚が身体を支配した覚えがある。 おそらく、未完成の『Door』に無理矢理、時間跳躍を強いたために、動力がオーバーフローし、熱暴走したのだろう。

結果、『Door』は隻眼の少年をこの過去に戻す事に成功したが、その代償として火を噴き、壊れたに違いない。

『Door』から出火した炎は、隠し部屋の資料を塵に変え、端末も焼き、隠し部屋全体を炎に包んで更に階段を上り詰めた所にある、ゲンドウの執務室をも燃え広げようとした。
そこを、火災警報機が皆に知らしたのであろう。

片目のシンジの身体を、えも言えぬ恐怖が支配して行く。
膝は震え、手に力が入らず、崩れ落ちそうになる。

そもそも、この危険な旅は、再び元の現代に戻ることが最前提で進められてきた。
というのも、リツコ・レポートにある通り、過去や未来に時間跳躍した被験者は、50日以内にもう一度『Door』を使って現代に戻らなければ、身体が崩壊してしまうからである。

その、頼みの綱である『Door』が、隻眼のシンジを過去に送りこむ際、暴走して火災を起こし、壊れてしまった。
装置を直そうにも、資料は全て火災を起こした『Door』のある、あの部屋に積んであった。
『Door』を制御する端末もだ。

例えリツコ達を説得して、装置の復旧を図ったとしても、何年もかけて研究を進められて開発された装置を、たかが数十日で資料もなしに再び構築できるはずもない。

片目の少年に残されたのは、この世界で40日後に消滅するという絶望のみであった。


──嘘…だ…。冗談…で…しょ…


恐怖に身震いするあまり、歯が触れて、カチカチと音を鳴らす。

逃れられぬ、絶対的な運命。
かつて、元居た世界で悲嘆に暮れ、自暴自棄になった片目の少年は、心の奥底でもう自分は消えてしまっても良いとすら考えていた。

だが、こうして目の前に厳然たる運命を突きつけられた彼は、ただただ、恐怖と絶望に身を凍らせるのみ。

月日のズレこそあったものの、うまく過去に戻って来れた。
確かに日数的に厳しいが、レイ自爆と補完計画の阻止を施した後、現代に再び戻れば、皆が、綾波レイが無事生きている世界が待っている。

そう希望を抱いて『Door』に身を投じた彼の精神のベクトルは、時間跳躍する前よりは、確実に前向きになっていた。
それだけに、この事態は彼の気力を、極限まで落とし込んでいた。


──僕は…。なん…の…ため…に…


取り返しのつかない思いに囚われ、整備班の青年の声も届かない。
だが、崩れ落ちそうになった片目のシンジの視界に、ある光景が飛び込んで来た。

ケイジで、零号機に搭乗しようとする、蒼い髪の少女の姿。

「あ…や……な……」
隻眼の少年の左眼が、見開かれる。

涙を流して、零号機の自爆レバーを引いたレイ。
その、淋しさに溢れた表情が、彼の脳裏に甦った。




次の瞬間、片目のシンジは走り出した。




片腕を無くした零号機の青い機体は、すでにレールの轟音と共にジオフロントの地表に射出されている。
レイは、特攻を仕掛ける気だ。
ステップを駆け上がり、冷却水のプールに起立している初号機の前に立つ。

「シンジ君?!」
「サードチルドレン、確認!?」
発令所のあちこちで、声が上がる。
身を乗り出したのは、ミサトだ。

「戻って来てくれたの…?!」
彼女の瞳が、一瞬潤む。
しかし、少年の右眼の辺りに施された包帯と眼帯を見て驚愕する。

「シンジ君!どうしたのその怪我?!」
「いいから!初号機を出して下さい!!」
隻眼の少年が叫ぶ。
彼は一刻も惜しいと言わんばかりに、初号機のエントリープラグに飛びこんだ。

「分かったわ!初号機、発進準備急いで!
 シンジ君!レイのパーソナルパターンをそのまま使うわ、いいわね?!」
ミサトが指示を飛ばす。
アスカの弐号機は、先程使徒の伸縮する鋭利な刃状の腕によって沈黙。
レイも、初号機とのシンクロが拒絶され、片腕を失った零号機で出撃したばかり。
ゲンドウがバックアップとして指示した、ダミープラグを初号機に適用しようとしていた矢先であった。

初号機を問題なく操れる、おそらく唯一の存在──碇シンジが復帰したのは、絶望へと傾きかけていた皆の精神の振り子を、一気に希望へと傾かせるに充分であった。

発令所が、俄かに活気付く。
それを打ち消したのが、発令所の最上部に居る男であった。


「…なぜ、此所にいる?」


スピーカーを通じて、冷徹な声音が響く。
発令所に居合わす人々の目が、一斉に最上部のゲンドウに向けられる。

「お前はもう、NERVの人間ではない筈だ」
組んだ両手の向こうから、ゲンドウの視線がモニター越しのプラグ内の片目の少年を射抜く。

(こんな時に…!)
抗議の声を上げようとしたミサト。

それを、プラグ内の声が制した。


「──僕は、初号機パイロット、碇シンジです」


静かな声だった。
少し俯いている為、プラグのシートに腰掛けている少年の表情は窺い知れない。

だが…
激昂も哀願もない、波紋一つない水面のような、穏やかな声だった。
暫しの沈黙が発令所を支配した後、

「…ミサトさん」
片目のシンジの言葉に弾かれるように、ミサトが声を上げた。

「初号機、発進!!」
リニアレールが轟音を発し、初号機がジオフロントに射出された。


レールに高速で引き上げられ、プラグ内の少年の身体に加重が掛かる。
そこへ、頭上から重い轟音と共に光が、天井から溢れてきた。

──まさか…────

「レイ!!」
双方向回線から、ミサト達の悲鳴が聞こえる。
レイが、N2爆弾で特攻を仕掛けた。
初号機が、地表に出たのはその直後だった。

爆煙と炎の中、赤く染まった地表に、2体の巨人が立っている。
ひとつは、白黒の身体。もうひとつは、両腕をなくした青い機体…──

使徒の腕が、零号機に伸びた。
とどめだ。

「レイ!!」
ミサトの悲痛な叫び。


突き刺す音。


そして、赤い血液が飛沫となって噴き上がり、身体の一部が宙を舞って、地表に叩きつけられる。
それは、紫の装甲を施した左手であった。

「シンジ君!?」
爆煙がようやく晴れると、メインモニターには、初号機が零号機を庇うようにして起立する姿が映し出されていた。

「綾波…」
サブモニターに映る、生きている綾波レイを見て、隻眼の少年は声を振り絞る。

やっと…──。
やっと、逢えた…

片目のシンジはモニターに映る少女の姿を、うるむ瞳に、にじむ視界に、懸命に焼き付ける。

「無茶しちゃ、だ…めだ…よ……」
微笑みと共に発せられた声はやがて掠れ、ボロボロになり、泣き声に変わって行く。
それでも、少年は懸命に、少女に微笑みかけた。

「いか…り…くん」

私が死んでも、代わりはいるもの。
そう呟いたレイは、N2爆弾を携えて使徒に特攻した。

だが、使徒のコアに爆弾を炸裂させる寸前で防がれてしまった。

覚悟したそのとき。
目の前に、碇シンジがいた。

左手を切り落され、右眼を眼帯で包んで、それでも優しく、とても優しく、彼は微笑みかけてくれた。

「あ……」
初号機の残ったもう一方の手が、零号機の頬にあてられる。



そして次の瞬間、初号機はゼルエルに向けて走り出した。











── あのまま、あの世界にとどまった方が良かったとしても。




ゼルエルの鋭利な腕が、初号機の右肩の装甲を破壊する。




── その先に何があるかわからなくても。




大腿部を、装甲の上から刺し貫く。




── …報われないとしても。




脇腹を薙いで装甲を飛ばし、素体を剥き出しにされる。




── たとえ僕が壊れてしまっても。




初号機の左腕が光線で吹き飛ばされる。






── 綾波、きみだけは幸せになってほしい。






頭部への、致命的な、一撃…。








幸せに────────









発令所に、弐号機に、そして零号機プラグ内の回線に、隻眼のシンジの絶叫が響いた。






「うあああぁあああああぁあぁぁぁあぁぁぁぁぁああぁぁぁぁぁ!!!」







<続く>






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