──どうして…

──どうして、こんな…

──ごめん、ごめ…ん…よ…。


──綾波…!!


「うわああぁあぁああぁあああぁああああぁぁぁっ!!」

レイの横たわるベッドに縋り付き、半狂乱になって号泣するシンジ。
恐らく、レイの命の灯火が消えるその時まで、手を尽くしてくれていたのであろう、医師とその助手たる看護婦が、号泣するシンジの姿を悄然と見守っている。

だが、その時も長くは続かなかった。

踏み荒らす、という表現が似つかわしい、幾つもの軍靴が荒荒しく早朝の院内の廊下を闊歩する音が、背後から聞こえてきたかと思うと、シンジたちの居る集中治療室のドアが乱暴に開け放たれる。

飛騨だ。

彼と、彼の部下が、レイの眠るベッドに縋り付いて号泣するシンジを発見すると、何の躊躇いもなく引き剥がし、連行して行く。

「いやだっ、離してよっ、綾波っ、綾波ぃ──────っ!!!」
泣き叫んで抵抗するシンジ。

看護婦、医者が戦自兵どもの蛮行を止めようとするも、簡単に排除される。

「心配しなくとも、すぐにこの餓鬼の元に連れてってやるさ。もうじき行われる裁判でな」

シンジは両脇を抱えられ、引き摺られて行く。
壊れかかった眼を向いて、最後までレイの名を叫びながら…






夏へのトビラ 第四話 「遠い呼び声」

NEON GENESIS EVANGELION
The Door into Summer:04






数週間後、第3新東京市における戦自とNERVとの間で起きた内戦、そしてサード・インパクトの公判が異例の速さで行われた。

今回の戦自介入の正当性、そしてサードインパクトのスケープゴートを世間に知らしめたいという政府の判断ゆえの物であったが、第「4」新東京市に身柄を移されたシンジは、飛騨や政府の思惑とは逆に、懲役3年執行猶予5年保護観察付きという、情状の判決を受ける。

被告人たるシンジは、今回のインパクトの首謀者足り得る材料に乏しく、首謀者のひとり・碇ゲンドウの息子でありながらも、一介のパイロットの域を脱していないとの判断からであった。

だが、シンジの気は晴れることはなかった。

判決は出たものの、戦自や政府の監視下に置かれている事に変わりなく、毎日のようにNERV、そして人類補完計画についての取り調べが続く。

彼らの追求は多岐に渡り、NERV内部や人類補完計画はもとより、父・ゲンドウのNERV運営の際に起こした様々な疑惑、背任行為まで、搾り出すように少年から情報を求めた。

周知の通り、シンジと父・ゲンドウの接点は薄く、シンジは第3新東京市に移り住むまで、自分の父親の職務内容さえ知りえなかった。

だが、政府の追及の手は、そんなシンジの家庭事情など、考慮に入れる筈もない。
齢14の、お世辞にも気丈とはいえない繊細な精神を踏み荒らす、罵倒まがいの叱責の日々。

いつしか少年は、第3新東京市に来る前と同様に、自分の内に篭り、固く殻を閉ざしてしまっていた。








6月も半ばになろうとしていた。
シンジは今日も政府直属機関の男どもに、叱責まがいの取調べを受け、無反応でやり過ごした帰りであった。

赤い路面電車が通る昼下がりの街並みは、人通りも多く、雑踏でごった返していた。
その風景の中にぽつんと歩きながら、シンジは今日は休日なんだなと、ぼんやり思った。

信号を待つ人々。
皆、手に手に買い物の袋、あるいは家族、恋人の手をつなぎ、楽しそうな表情を浮かべている。

シンジは、その風景にひどく憧れた事があった。
ただ今は…、もう自分には叶えられない、許されるはずもない夢であるということを自覚していた。

寄り添う恋人たち。

──彼らのように、僕の傍に綾波がいてくれれば…

シンジはそれを、頭を振って打ち消した。

──もし、綾波が生きていてくれても、僕のこんな状態を見れば、きっと遠ざかれてしまうに違いない。

シンジのやつれ、痩せこけた頬。
落ち窪んだ左眼の隣──右眼には、今も眼帯と包帯が巻かれていた。
彼の右眼には、もう、光が戻ってくることはなかった。

あの日、レイの亡骸を前に、引き摺り戻された難民施設。
そのお粗末な設備では、彼に義眼を与えることも出来ず、また、彼はそれを断った。
手当てが大幅に遅れた事もあって、彼の右眼があった場所には、醜い傷跡が残された。

さらに、眼の痛覚を司る三叉神経が、ズタズタになっていた。
その結果、彼には常時ではないものの、頭の内側から針で刺されるような神経の痛みに付き纏われる事となった。
だが、シンジは、あとどのくらいあるのか知らないが、自分の残りの人生を、あえてこのまま生きる事を選択した。

──もう、それでいいと思う。
    僕には、それがお似合いなんだと思う。

何もかもが、悲しかった。




信号を渡り、大通りに出る。
政府からあてがわれたアパートは、この大通りを横切らなければ到達できないからである。

いつにも増して、通りは買い物客で溢れていた。
シンジは、なるべく人の密集していない場所を選んで渡ろうとしたが、それでも時々、立ち止まって人の波をやり過ごさなければいけなかった。

その時、薄暗い空から、雨の滴がひとつ、またひとつと、街行く人々に降り落ちて来た。

「雨か…」

雑踏の中立ち止まり、曇天を見上げるシンジ。
その痩せこけた頬に、水滴が落ちる。


──そういえば、空を見たのは、いつ以来だろう。


あの日、意識を取り戻して見上げた空は、黒くて厚い雲に覆われていた。
そして今日見上げた空も、濁った色彩をはらんで雨を落としている。

彼の記憶の中の、ありし日のNERV、仲間達と見た第3新東京市の青い空は、もはや思い出せない程遠くにあった。

元より華奢なシンジであったが、ここ数ヶ月で更にやつれた。
足取りもおぼつかない調子で人いきれを泳いで、やっと大通りの半分まで到達する。

大通りの向こう岸が見える。

レンガの敷き詰められた、向こう岸の歩道を行き交う人々。
デパートの紙袋を下げた、黒い髪、茶色い髪…たまに、金色の髪。

紙袋を抱えて歩く少女の横顔。
その少女の髪は、あの日あの時、仲間達と見た空を思わせるほど、蒼かった。


「………え?」


シャギーの入った、ショートの蒼い髪、透き通るような白い肌、紅い瞳。
少女の姿が眼に映り、脳に到達して次の判断を決定する段階で、シンジの思考は停止した。

「……」

白いワンピースに身を包み、口元に微笑みをたたえながら、紙袋を抱えて歩く少女は、パン屋の角を曲がっていった。

「ちょ、ちょっと…!待っ…」

大通りの向こう岸で見た光景を、頭で理解するのに多大な時間を要した。
雑踏の真中にひとり立ち止まり、しばし呆然としていたシンジであったが、やがて、弾かれたように人込みをかき分け、少女を見かけたパン屋の角まで到達する。

だが、もうそこに蒼い髪の少女の姿はなかった。







The Door into Summer
#04
"Remaining Trace"







その晩、シンジはアパートに帰り着くと、何時からともなく窓際に座り込んで窓の外を眺めていた。

政府がシンジにあてがった住居。
それは可笑しいほどに、かつての綾波の部屋に似て、殺風景だった。

ミサトやアスカと同居していた頃のシンジは、主夫もかくやと云う程に家事をこなし、インテリアにも少しは気を配っていたものだが、今の彼には自身の部屋の内装になど、これっぽっちの関心も沸かなかった。
必要最低限の家事しかせず、あとはベッドに横たわり、モノクロームの世界に身を沈めていく。
その風景は、かつてのレイが住んでいたあの部屋と、大差なかった。

窓際に設置されたベッド。
その上で膝を抱え、窓の向こうに浮かぶ月を見上げる。
時刻はもう、深夜になっているのかも知れない。でも、それはどうでも良かった。

シンジは今日あった出来事を、自分の中で整理をつける事ができなかった。

…綾波レイは、ひと月程前に自分に看取られる事無く、…この世を去ってしまった。
あの、紙袋を抱えた少女が、レイである筈はないのだ。

では、他人の空似か?

それにしては、偶然が過ぎる。
レイの、あの空色の髪、透き通るような白い肌、アルビノの赤い瞳は特別な産物だ。

だが、あの紙袋を抱えて歩く少女も、見たのは横顔だけだが、レイと全く同じ髪、肌、瞳をしていた。

彼女と全く同じ条件を持った、別人の少女がシンジの目の前に現れた?
俄かには信じられない。

あるいは、シンジが初めて第3新東京市を訪れた時に見た、蒼い髪の少女の幻。
それをまた、第4新東京市で目の当たりにしたというのか?

そこまで考えて、ふと、シンジは考えるのを止めた。


──僕には、綾波に会わせる顔がない…。


自分はレイと溶け合わずに、傷付け合っても皆のいる世界へ戻る事を選択したような奴だ。
その顔も、今では眼帯と包帯で隠さねばならぬほど、醜い傷跡がついている。
右眼のあった辺りから時折来る神経痛に苦しむ様も、出来れば見せたくはない。

自分はもう、あの頃の碇シンジではない。

──ただ…

ただ、あの少女が誰なのか。
それだけは、確かめたい。

仮に彼女が綾波レイだったとしても、そうでなかったとしても。
彼女に接触はしないでおこう。

自分が関わると、彼女を傷付けてしまうかも知れないから。
遠くから、彼女の無事を喜ぶのが、彼女の為なのかも知れないから。








翌日。
シンジは政府の取り調べを無断で放り出して、朝から第4新東京市役所に来ていた。
綾波レイという名前の女性がこの街にいないか。問い合わせてみる為だ。

始業間際で、まだ眠そうな登記窓口の男は、わずか数月前に遷都された、この都市がまだ『新甲府市』と名乗っていた時代からの職員であった。

「はあ、『綾波レイ』という14歳の女の子が、
 ここ数ヶ月の内に第4新東京市に移って来ていないかを調べたいんだな」

頷くシンジ。

「ならあんた、そこの端末を使った方が早いよ」
不精髭を蓄えた職員の顎が、窓口から少し離れたスペースに設置されてある、いささか型の古い検索端末を指した。
だが、端末には長蛇の列が並んでいた。

「端末。………」
端末を、じっ、と見つめるシンジ。

「………」
「………………」
「………」
次いで、職員の顔を見る。

「………………早い?」
「………」
「………………」
「………」
「………………………」

「…やれやれ、分かったよ、検索すりゃいいんだろ?ちょっと、そこで待っててくれよ」
負けたよ、とばかりに手をひらひらさせて、男はやっと、自分の端末のキーボードに指を走らせる。
お役所っていうのは、どこもこうなのかな、とシンジが思いを巡らせかけた所を、職員の声が遮った。

「ああ、いるね。4月の16日に越して来てるな」

マウスのクリック音をBGMに、顔の向きは画面のままで、職員が続ける。
ゆえに、シンジが驚きに目を見開いている表情は、多分見えていない。

「ショートカットの蒼い髪、赤い目…。
 あんたの言ってた通りだな。じゃあ、見せても構わんか。ほらよ、顔写真だ」
言いつつ、職員が指し示すモニターには、シンジの良く知るあの、綾波レイの顔写真があった。

やはり、、、、幻ではなかった。
この街に、綾波レイは存在していた。

シンジの胸中に、昨日よりも確かな、久々に湧き上がる、希望という甘美な感覚がこみ上げていた。

あの少女は、やはり綾波レイだったのだ!!

こうなってしまうと昨夜決めた、たとえあの少女が綾波だったとしても接触はしないでおこうという誓いも、湧き上がる、留める事の出来ない想いの前に色褪せてしまう。

自分は、こんなにも無気力で、何も出来なくて、眼帯がないと外も出歩けないような奴になってしまった。
それでも、彼女に逢う事によって、少しでも…
前向きになれるかも知れない。

正直言って今の状態で、彼女に再会するのは怖い。
自分の姿を見て、拒絶されるかも知れないからだ。

それでも彼女が、けして癒されることのない淋しさを胸に秘め、以前のように独りで生きているのなら。

今度こそ…

自分が、レイの支えになりたい。

なってみたい。


──それが、、、

──許されるのなら、、、、

──彼女に、綾波に、、、


「ただね…。あんた、この子の友達?」
走り出す想いを、職員は再び遮った。

「はい?ま、まぁ…そうです」
「言っていいのか悪いのかっつったら、悪いんだろうけど…」
顎に手を当て、考え込むような仕草をしながら、職員が呟くように告げる。

「はぁ」





「この子、年齢不祥の男と一緒に暮らしてるよ」












市役所から出たシンジは、未だに頭がぐらぐらとするのを抑えられなかった。

登記職員のおかげで綾波レイという少女が、この街に確かに住んでいる事は確認できた。
だが、それと同時に「汐浦ヒロシ」という、顔写真はおろか名前以外のデータすら無い、見知らぬ男と一緒に暮らしていることも判明したのだ。

力なく歩くシンジの胸中に、これまでに何度か味わってきた、何とも形容し難い感情がずっしりと帳を下ろしていた。

これが、喪失感というものなのであろう。

そう、考えてみれば、なにも綾波レイは自分だけに心を開いていた訳ではあるまい。
レイがシンジに出会って間もない頃、ケイジ内で父・ゲンドウの言葉に微笑むレイの姿を、シンジは目撃した事があった。

自分や父の他に頼れる存在が、一緒に暮らせる存在があっても不思議ではない。

しかし、今回の衝撃は一段とシンジの胸中にいたく染みた。

彼女に一緒に暮らす男性が居る事について、自分が傷つく理由も権利もないはずだ。
「遠くから、綾波の無事を喜ぶのが良いのかも知れない」と言ったのは、他でもない、シンジ自身なのだから。

それなのに、

それなのに、、、、


そして疑問。


ではこの間、病院で亡くなった綾波レイは、一体誰であったのだろうか?
新横須賀市総合病院の集中治療室のベッドに横たわる綾波レイ、そして、第4新東京市に住む、綾波レイ。

彼女達が同一人物である筈はない。

シンジは思いを巡らせ、数ヶ月前の記憶を揺り起こす。
かつて、レイが自分を庇って自爆した後、3人目を自称するレイがシンジの前に現れた。
その事と同じで、彼女たちも何人目かの綾波レイなのであろうか。

だが、しかし───

あのターミナルドグマでレイのコピー達は、赤木リツコの手によってすべて葬られたのではないか?

それとも、どちらの綾波レイも全くの同姓同名、他人の空似だったのか?
シンジの思考は混濁していった。

でも、どのみち、レイはシンジの見知らぬ男と暮らしている。
そこに自分の入り込む余地などない。

何よりあの時見た、微笑みを口元にたたえた少女の横顔が、今の彼女は幸せの最中である事を物語っていた。
今のレイに自分の存在など、居場所など、皆無であろう事は明白だった。










シンジは、爆心地───第3新東京市にいた。
埃に汚れた包帯の下の右眼は、完全にその機能を失っている。
いまだ、廃墟と化しているかつてのジオフロントは、数週間前と変わらず人ひとりおらず、この世の果ての様相を呈していた。


──ぼくはまた、此処に来てしまった。

──もう、ぼくの居場所は何処にも…なくなってしまったから。


あれほどまでに彼らを照らしつけていた、じりじりとした陽射しが、まるで押し黙るかのように鳴りを潜めていた。

雷鳴を宿した、分厚く黒い天井。
その、今にも落ちてきそうな雲海の下、眼下には変わらず赤い海が広がっていた。

彼が振り向く先、その対角線遥か向こうに、先程まで乗り合わせて来た政府のヘリが無言のままにその存在を誇示している。
それを力なく一瞥する彼の、すっかり汚れてしまった制服のワイシャツ。
その袖を時折吹く風が、揺らしていった。

碇シンジは、この荒涼とした空間に帰って来ていた。

彼の内を支配しているのは、
自責の念、
無力感、
喪失感、
刃の切っ先のような、容赦ない痛み。

そして、ここに戻って来れたら、もう、すべてを終える事ができるかも知れないという、悲しい希望であった。

シンジは自分の存在をこの世から消すことに、何の抵抗も抱かなくなっていた。

レイを失い、収監され、厳しい取り調べ。裁判、判決…。
そして、思いがけず再会したレイは、既に彼女の幸せを掴んでいた。

──僕は、いったい何をやってるんだろう。
    こんな目に遭いたくて、僕はこの世界に戻って来た訳じゃないのに…。

シンジが選び、戻った世界が与えたこれらの仕打ちは、彼からついに表情を奪い去った。
片目の少年に監視を置くに済ませた政府は、彼がこの地に戻ってくる事に対して、特に反対を示さなかった。

『野垂れ死にしなければいい、こちらが望む情報を得るまでは』
それが彼らの思惑だった。

さまようシンジの足は、いつしか再びゲンドウの隠し部屋の前で止まる。


そこには、数週間前と同じく、端末と妙な機械と、リツコ・リポートがあった。





<続く>





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