──体が、僕のものじゃなくなってるみたいだ。 とても重くて、色んな処が…痛い。 ──…。 ──水音がする。 ──僕は、行かなくちゃ NEON GENESIS EVANGELION The Door into Summer:03 目を覚ましたシンジは自分が今、何処に位置しているのか、どういう状況下に置かれているのか、すぐには判断しかねた。 顔を上げ、脳細胞が覚醒するまでの間、周囲を見渡してみても、うす闇に覆われたこの空間は、シンジを満足させる視覚的な情報を与えてはくれなかった。 ただ、徐々に取り戻してくる手足の感覚が、岩場の上に横たわっている感触、傍から聞こえる川のせせらぎが、どうやら自分はまだ山の中にいる事、そして逃亡はまだ続いているという事をシンジは悟った。 体を起こしてみる。 川上から時折吹き降ろされる、ひんやりとした風がシンジの身体にかかると、その途端に彼の身は一斉に悲鳴を上げた。 身体のあちこちに、擦り傷や切り傷を作っているようだ。 そしてなにより、意識がはっきりする程に、彼の前頭部を襲った激しい痛み。 震源地は、右眼だった。 いや、正しくは右眼が「あった」箇所であろうか。 戦自兵士があの時放った銃弾は、やはり模擬弾であった。 だが、撃たれ、転倒した際にシンジは地面に落ちていた木の枝、それも鋭利に尖った切り口の切っ先に右眼球を接触、潰してしまっていたのだ。 そして、ここより先は、彼の記憶には残されていないが、激しい痛みにのた打ち回る内に、山道より足を滑らせ、発砲した戦自兵の手に囚われるより早く、崖下に滑り落ちていったのである。 ──右眼…が…!! ──右眼が……開かない…?! ──痛い……!! 顔を両手で押さえ、なりふり構わず痛みに身をよじらせ、うめく。 暗がりの中、顔を覆った手の平の感触で、自分の右眼がどのような目に遭ったか 想像がついた。 そしてそれは、決して認めたくなどない種類の物であった。 更に、彼が気を失う直前の映像が、脳裏にフラッシュバックする。 背中を撃たれ、前方に吹き飛ばされる自分。 避ける事も許されない速度で、視界いっぱいに迫り来る、鋭く尖った枝の切っ先─── (うわぁぁああぁあぁああああぁぁ!!) シンジは、気も触れんばかりに叫び、逃げ出したかった。 ふと目線が、自分が今まで伏していた岩場に留まる。 白い岩場が、右眼から溢れた血糊で、水溜りを作っていた。 「ひ……っ!!」 シンジの背筋が、氷柱を突き立てられたように悪寒が走り、竦み上がる。 惨状は逆に、恐慌状態の境界線を踏み越え、加速しかけたシンジの心を寸での所で、踏み止まらせた。 とにかく、止血をしないといけない。 長いサバイバル生活で負った、腕の傷跡に巻いていた包帯を千切り、右眼があった場所に巻きつけると、シンジは不安に押し潰されそうな心に鞭をいれ、歩き始めた。 雲と木々に閉ざされた山中。 時折、川の水に反射する月光を頼りに、シンジはとぼとぼと歩を進めて行く。 彼の傍で、淡々とその流れを営み続けるこの小川の流れは、山の入り口付近では見つけることはなかった。 つまりは、この小川の流れに沿って歩いていけば、やがて入り口以外の、何らかの地点まで辿り着けるだろう。 それが、新横須賀市の近辺であれば嬉しいのだが。 その一方でシンジは、追っ手の来襲にも気を配っていた。 道無き山中に比べ、川は周囲が開けている。 という事は、追っ手の存在を物音なり影なりで掴むことが容易だが、その逆も真である。 今度、向こうに先に発見されれば、自分は捕われてしまうだろう。 シンジは、全神経を研ぎ澄ませた。 だが、幸運にも、シンジが川の流れに導かれて下山するまで、追っ手の発見も、来襲も無かった。 The Door into Summer #03 "Please." 周囲を注意深く見回し、金網の柵を乗り越えると、舗装された道路に降り立つ。 そして、祈るような気持ちでその住宅の塀に張られた緑のプレートを覗き込んだ。 彼の目に飛び込んで来たのは…、 『新横須賀市緑ヶ丘5丁目2-3-27』 という、白抜きの文字列… シンジは、身体の内側から溢れ出る、安堵感を隠そうともしなかった。 ──良かった…。本当に、よかった…!この街に、綾波がいる…! 昨晩、幾分出血を強いられた為、多少意識が霞がかった状態のシンジであったが、道沿いに設置されてあった朝焼けに照らされている古ぼけた公衆電話を認めると、即座に総合病院に電話し所在地を確認する。 電話に出た当直の男性は、息せき切って病院の所在を訊ねる少年の声に急患と間違いかけたが、シンジの有無を言わさぬ勢いに圧倒されるままに、病院の所在地を伝えた。 希望に胸躍らせ、街道に出たシンジは、総合病院目指して、一心に走り出した。 まだ人通りも車もまばらな街道を、少年の悲痛なまでに荒い呼吸と、タタッ、タタッという幾分変則的なリズムの足音が早朝の市街地に響く。 彼の脆弱な体力は、その限界をとっくに超えていた。 山中で転落した際に、痛打した片方の膝は、今にも抜けてしまいそうでたたらを踏み、呼吸は空気を取り入れる運動すら辛い。 それでも、シンジは休むことを嫌った。 立ち止まること、歩くことを嫌った。 傍目にはもう歩いているも同然の速度であるが、シンジは上がらない腕を懸命に振って、その連動で自らの脚を一歩、もう一歩と進めていく。 そして1時間あまり。 ついに、シンジは総合病院までたどり着いた。 だが、総合病院の前で屯うジープの列が、シンジを待ち構えていた。 言うまでもない。戦自の追っ手であった。 よくよく考えてみれば、当然の事であった。 総合病院を目指して施設を脱走したのだから、その総合病院で待ち伏せしておけば、自ずと獲物はやってくる。 指示したのは、飛騨であろう。 ジープのフロントガラスの向こうで、ニタニタとあの、嫌らしい笑みを顔に貼り付けている。 シンジは、体中の力が尽きて行くのを感じていた。 もうすぐレイに会える。会いたい。1秒でも早く。 その一心で、とっくに体力の限界を超えていてもなお、立ち止まる事、歩く事を拒否し、今にも飛び出しそうな心臓、笑った膝に鞭打って走り続けてきた彼の想いは報われることはなかった。 「捕まえろ」 飛騨の簡潔な指示の元、戦自の追っ手どもが、精根尽きた少年に殺到する。 シンジは慌てて引き返そうとするも捕らえられ、護送車に押し込まれる。 「やめ…てくださ…い!僕…を、綾波…に会わせ…て…くださぁ…いっ!」 泣き叫びながら訴えるシンジ。 しかし、その声も、満足に出ない。 腕を背中に捻られ、後部座席に突き飛ばされる。 顔から座席に突っ込んだシンジは、ビニールのシートを噛む。 そして間髪入れずに、戦自兵が彼の後を追って乗り込んで来た。 ドアが……閉まっていく。 「うあああっ!!」 瞬間、シンジは再び自分の腕を拘束せんと伸ばした戦自隊員の腕に、死に物狂いで噛みついた。 護送車の後部座席に、隊員の悲鳴と、少年が転がり落ちる音が響く。 「どうした?!」 「例の少年が、逃げ出しました!!」 ジープ上から、バックミラー越しに、少年を追って病院の敷地に突入する戦自隊員達の姿が写る。 「…もういい、行かせてやれ。」 彼等の行動を止めたのは、その飛騨だった。 「しかし…」 飛騨の隣でハンドルを握る隊員が、意外そうな表情を隠すのも忘れ、飛騨に問う。 必死の形相で走り、病院内に入るシンジ。 噛みつかんばかりの形相で、受付にレイの所在を確認している姿が遠目に見える。 今回の戦争の重要参考人となるチルドレンを射殺するわけにもいかず、そんなシンジの姿を遠巻きに見送る戦自隊員達。 当の飛騨は、部下達のそんな姿に、口元を笑みに歪ませてさえいる。 『まあいい…』 脱兎のごとく、病院の廊下を走るシンジ。 階段を飛ばして上がり、上階へと上り詰めて行く。 心臓が、体から離れそうだ。 彼の体力は、とっくの昔に限界に達している。 膝が笑い、踏ん張りが効かず、何度も崩れ落ちる。 だが、それでも走る。 『「チルドレン」は重要参考人、若しくはこの一連の虐殺の戦犯として、祭り上げねばならん』 集中治療室のドアを体当たりで破り、転がり込む。 そこに横たわっていたのは…。 間違う筈もない、綾波レイの姿。 少年が、愛しいとさえ想った、少女の姿。 「あや…な…み」 視界がぼやける。 涙が、あふれ出す。 ついに… やっと、綾波に逢えた。 『ここで、その最後のひとりを消すわけにはいかないからな。』 だが、彼女は、 動かない。 動いて、くれない。 いつものように、無表情で、こちらに顔を向けてはくれない。 可憐な唇は開くことも、そこから紡ぎ出される言葉が発せられる事もない。 憂いをたたえた、神秘的な赤い瞳を秘めた瞼も、もはや開いてはくれない。 雪のように白い肌。 ただ、ただ… 冷たい肌。 立ち尽くす来訪者の傍で、看護婦が驚いたように表情を強張らせている。 ゆっくりと、医師が、呟くように告げた。 「先程…息を引き取られました」 絶叫。 <続く> |