ゆるやかな丘を、少女は傍らの同行者に歩調を合わせてゆっくりと歩いていた。
ところどころに立ち並ぶ木々が作る日陰を選んで歩くものの、風はあまりなく、少し蒸し暑い。

同行者の予期せぬ単独行につられるままに付いていった彼女であったが、なにせ相手が相手なので、寄り道されたり抱いて歩いたりの繰り返しとなり、元居た地点に戻るまで少々時間が掛かってしまった。

それでも、少女の同行者は奔放にコースを取っているようで、その実、決して彼女から離れ過ぎないようにしていたし、少女もまた同行者の意向を損ねる事無く、受け入れている節があった。

思い出したように風が吹き過ぎた。
坂の上を見上げた少女の髪を僅かに揺らしていく。

ふと、少女は丘の向こう──空のどこやらが、間遠に光っているのを認めた。

見上げた少女のその髪は蒼く、またその瞳は紅かった。






「遠雷」






街外れにあるその建物は、遷都されたばかりでどこか浮ついた街並みの喧噪を逃れて、静かで落ち着いた佇まいを見せていた。

時折吹く風が路傍の緑樹たちを揺らし、葉擦れの音を立てる。
少し離れたところからは、先程と変わらず遠雷が鳴っていた。

門をくぐって一息つくと、白衣姿の女性が玄関から姿を現すのが目に入った。
ただ、その女性は少女が最初に連想した、痩身で金色に髪を染め上げた女性とは違っていた。

「あら、おかえりなさい」

ひと雨来そうだし、迎えに行こうかなと思っていた所だったの、と親しげに微笑むその人は、数日前からこの家の主の厄介になっているという。

彼女の名は、"赤木マヤ"。

数日前に、荒廃した第3新東京市・ジオフロント跡地より「発見」されたというこの女性は、ぎこちなく会釈する少女の姿を、穏やかな微笑みで見守っている。

「さ、先輩がお待ちかねよ」

マヤは少女とその同行者に告げると、元来た玄関へと彼女たちを招き入れた。




「久しぶりね、レイ」

読んでいた書類から顔を上げた赤木リツコは、マヤと共にやってきた少女──綾波レイを認めると、その身をキャビネットからデスクの方へと向かわせた。

簡素なスチール製のデスクに身を置く、かつてのNERV技術部長は、来訪した少女を殊の外穏やかな表情で迎えた。

「はい──」
対するレイも傍目には無表情ながら、かつての彼女からは想像し難い、柔らかな物腰で応じている。

それを目の当たりにしたマヤは、感動にも似た衝動を胸に覚えていた。

かつてリツコは、彼女が愛した男・碇ゲンドウの寵愛を受けてきたこの少女に対し、情というには程遠い、極めて無機質な態度で接し続けた。

人との関わりに何の価値も見出さず、ひたすらに任務遂行に邁進する。
以前のレイの人格は、やはりリツコら周囲の環境に拠る所が大きいであろう。

ゲンドウが過去に失い、取り戻さんと執着した亡き妻の面影に対する、自身の無力感。
それは嫉妬という衝動となって、生れ落ちて間もないレイにぶつけられた。

しかし彼女が愛した男はあの日、LCLに溶けて以来、彼女の元へ還ってはいない。

サードインパクト後、若くして第一線から退いたリツコは、今も研究機関として現存するNERVで彼女の代わりに多忙の日々を送る伊吹マヤを支えている。

わざわざ郊外の一軒家を研究所に選び、隠者の如き生活に入っていたそんなリツコが2ヶ月ほど前、この家にある人物を招いた。

その人物の名は、綾波レイであった。




「あなたも、第4新東京市に移ったんですって?」
「…はい」
キッチンワゴンに2つ揃えられた、簡素なマグカップに熱い液体が注ぎ込まれる様を、少女の紅い瞳がじっと見詰めていた。

4月も半ばのある日。
第4新東京市に移住した綾波レイは、赤木リツコ博士からの招待を受けた。
サードインパクト後、消息を絶っていたリツコと久々に再会したレイは、彼女の纏う空気がNERV時代よりも穏やかになっている事に気付かされた。

リツコはレイにコーヒーを勧めながら、幾分痩せた表情を悪戯っぽい笑みに綻ばせた。

「"彼"との約束の為?」
「はい」

悪意の無い、微量のからかいが含まれたリツコの微笑み。
その問いに果たしてレイは、真摯な表情で答えてみせた。

「──そこまで信じて待ってるんだから、…彼も幸せよね」
肩をひそめて微笑んでみせたリツコは、思い出したように視線を窓の外へと遣った。

「そうそう──、今日あなたを呼んだのはね、会わせたい子がいるからよ」






「──…?」
リツコが庭木の陰から拾い上げてきたそれを見た時、レイはきょとんとした表情を隠せずにいた。

「あら、覚えてなくて? あなたが小さい頃、よく遊んでいた子よ」
「みぃ」
小柄ながらも白い毛並みが特徴的なその小動物は、眼前のレイの姿を見るや嬉しそうにひと声、鳴いた。

「あ……」
紅い、両の瞳が見開かれ、口に手を当てて驚きの表情を示す。

「ねこさん…」
レイの掠れたその声と共に、白い猫はリツコから蒼髪の少女の足元へと駆け寄り、抱き上げるのをせがんだ。

「この子の方も、あなたの事を覚えていた様ね」
信じられないといった表情のままに、夢中で白い猫を抱き上げるレイを見て、リツコは目を細めた。

(感情の発露、表現が進んでいる──。やはりレイには、この子が必要ね)

「レイ、しばらくこの子の面倒を見てやってくれない…?
 どうせ彼が戻って来るまでは、独り住まいなんでしょう」

リツコの突然の申し出に、やや驚いた様子のレイであったが、
やがて、肯くと…。

「──はい…」
リツコにはこれまで向けた事の無かった、とても穏やかな…微笑みを浮かべてみせた。








「イ・ヤ・よ」

胸を反らし、腕組みの赤い髪の少女は、かつての上司の女性と蒼い髪の少女の前で、仁王立ちを決めつつそう言い放った。

「ア、アスカ、そんな断り方しなくても…」
少女の傍らでは、彼女と想いを寄せ合う少年──もうひとりの碇シンジが、うろたえながら彼女に注意を与えている。

「うっさいわね、嫌なの、イ・ヤ!」
ぷいとそっぽを向いてしまったアスカに、ミサトが意外といった表情で尋ねた。

「えっ、そうなの…? アスカ、彼と再会するの、すごく楽しみにしてたじゃない」

6月2日の晩だった。
リツコ宅を訪れた後、レイとねこさんは葛城邸に立ち寄った。

彼女を笑顔で迎えたミサトは、片目の少年の帰還を翌日に控え、彼を迎えに行く旅の行程を確認すべく、夕食後のリビングにアスカらを集めた。
だが、開口一番アスカは、彼を迎えに行く面子から降りると言い出したのだ。

数日前、片目の少年と同様に『Door』で逆行を果たした伊吹マヤが、無事この世界に辿り着いていた。
これにより、ミサト達が祈る思いでいた片目の初号機パイロット生還の可能性は、ほぼ確実となった。

(その事をレイと同じぐらい喜んでたのは、アスカなのに──)

アスカの喜び様を知るミサトは、紅い髪の少女の突然の変貌に戸惑いを隠せないでいた。
彼女の傍では、ねこさんを膝に乗せたレイが唇を「え……」という形にさせたまま、ぽかんとしている。

「アタシは、行かないッたら行かないの! シンジ、アンタも行かないでいいわよ」
「えぇっ、どうしてさ、僕──」
思わず抗弁の声を上げかけたシンジを、よく整えられた眉の吊り上げひとつで黙らせると、

「大体、アタシ達まで出払ったら、誰がアレの監視するっていうのよ?」
「アレって…?」
「え?ああレイ、それはこっちの話よん」

その頃、アレと称された人物──三人目の綾波レイは、夕食を摂った後、ひと足先に幸せな眠りに就いていた…。
──アスカですら自制している、シンジのベッドの中に潜り込んで。

数時間後に、葛城邸に確実に起きるであろう時限式の修羅場の件はさておき、食い下がるミサト達にアスカは遂に、じれったいとばかりに捲くし立てた。

「そもそも、今回の主役はファーストと片目のアイツでしょう?
 アタシ達やミサトが側にいたら、折角の再会の邪魔にしかならないわよ!
 ミサイルか何かにファーストくくりつけて、第3新東京市方面にぶっ放した方がマシってもんね」

「あ……」
ようやく、アスカの意図をミサト達は理解した。
ミサイル云々は別として、彼女なりにレイ達に気を利かせていたのだ。








翌日。
綾波レイは、ジオフロント跡地にいた。

かつて空一面を覆っていた分厚い雲は去り、序々に晴れ間が見えて来ている。
車で来れる範囲の地点で降車したレイは、数ヶ月ぶりに訪れた、かつての故郷というべき場所をひとり、見上げている。

LCLに浸された、瓦礫の山を踏みしめ歩く少女の姿。

その手には、布を貼り合わせて作られた、少しほつれた髪飾りが握られていた。
歩みを進める彼女の胸中には、昨日のリツコの姿、そして言葉があった。




「この子は…。まだ返して貰わなくても構わないわ」
白い猫の背を撫でながら、リツコが告げた。

「いいのですか?」
レイの問いに肯いたリツコは、

「今考えてみると、ね…。不思議なものね。
 当時、自分の進めていた研究の成果を完成前に目撃しているなんて…」

「…?」
怪訝そうなレイに、いいのよ、と告げると、


「恐らく…彼もその子の事、──よく知っていると思うわ」




彼に宜しくね、と微笑んだリツコの姿。
脳裏にかすかに残る、幼き日の記憶。

そう、幼い彼女が唯一、心を許せた、向き合ってくれた只ひとりの大人──

「『帽子の…おじさん』…──」

そっと、呟く。
もはやあの頃の記憶は、幼少より度重なる実験の影響により、霞みの向こうに在る。

だが、それでも──

あの時、幼い彼女が見上げた、ぎこちなくも暖かい大人の微笑みは、彼女がよく知る少年のそれと何ら変わることは無かった。


思い出したように風が吹き過ぎた。
積み上げられた瓦礫の丘を見上げた少女の髪を僅かに揺らしていく。

ふと、少女は丘の向こう──空のどこやらが、間遠に光っているのを認めた。
『Door』を駆り、時間跳躍を終える瞬間、時として雷にも似た現象が起こるとマヤが言っていた。

少女は走り出す。

手に、白い猫を形取った髪飾りを携えて。

あの時、幼い自分に此れを渡してくれたあの人との、再会の約束を果たすために。

そして───

自分を守ってくれた…心から愛しい、
やさしい、片目の少年と一緒になるために。



「…碇くん…──!!」

瓦礫の丘を越えた向こうで待つ、片目のシンジの胸にレイは涙を浮かべ、いっぱいの笑顔で飛び込んだ。





(了)





++あとがき++

ご無沙汰しております、ココノです。

「Ultra_Violet」の草案が浮かぶより以前に、構想にあった「夏へのトビラ」の外伝。
やっとこさ、脱稿に漕ぎつけました。

「夏へのトビラ」本編では語られなかった、
レイが「帽子のおじさん=片目のシンジ」と気付く、
レイ、ねこさんとの再会、そしてリツコとの和解。
帰ってきた逆行マヤ、勝手に赤木姓を名乗る(笑 
など、細かいエピソードの補完として書いたつもりですが、いかがでしょうか。
(苦戦しつつ書き上げたもので、いずれまた、少しずつ書き足し修正を人知れず行うとは思いますが…)

さて、表題に「extra take 1」とありまして、1と番号を振っている事からも御察し頂けるかとおもいますが、機を見てまた、こういった作品を出せればと考えております。

二次小説で、しかも拙い内容ながらも「夏へのトビラ」の登場人物たちに、思い入れを持ってしまったんでしょうね…。(UVの登場人物たちもかなり好きですが)
今度はかなり軽めの作品になるかと思います。UVともども、気長にお待ち下さいね。

それでは、次の更新でお会いしましょう…



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