少年は、透明なカプセルの中で目を覚ました。 薄暗い室内は思ったより奥行きが広いものの、見渡す限り少年の周囲には誰も居らず、気泡が立つコポコポという音がするだけ。 あと数度この眠りを繰り返した後に、少年は自らに与えられた役割を行使する時が訪れるのを知っている。 透明な液体に満たされた、この無機質なカプセルの内側に再び戻された少年は外界での思い出、そしてその際に受けた何とも形容しがたい感覚を、思い起こすのだった。 ゼーレの老人達の切り札であり、彼等のシナリオの要たる少年の胸中のベクトルは、いつだって役割の完遂に向けられており、それは決してぶれる事はない。 だが…――― あの時、あの地で受けた感覚、それを思い起こすと彼の心にさざ波が立つのを抑えられなかった。 それは、生まれて初めてといっていい、理解しがたい体験。 少年は、ゆっくりと目を見開く。 銀色の髪が、揺らめいた。 NEON GENESIS EVANGELION February the Fifth is Too Late:09 "MY LOVER" 夜が明けて、第二藤枝でユウジ一家と別れた僕と綾波は、レンタカーで再び京都への道を走り始めた。 昨夜遅くに彼等のホームタウンに到着した関係で、僕らは店が開く夜明けまで待たなければいけなかった。 ユウジ宅にある車輌はこのライトバンのみで、僕らに車を貸してあげれる余裕はない。 もう少し預金を引っ張り出しておけば、あるいは彼等家族を納得させられるだけの額を提示できたのかもしれないけど、今から更に預金を引き出そうものなら、たちまちにNervに嗅ぎ付けられてしまうだろう。 かといって、他所の家に忍び込んで車泥棒を働く訳にもいかない…。 結局、ユウジのお父さん名義で車を借りる事で納得してもらった。 車を返すときは、…まぁ、京都の営業所に朝早くに置いておけばいいと思う。多分。 セカンド・インパクトでほとんどの土地が水没したこの近辺は、再開発でかろうじて組み上げられた高架道路の他には、かつて山地だったはずの土地が残っているのみで、あとはすべて海水に浸かっている。 僕が選んだ、どこにでもある取り立てて特徴のないオートマチック仕様の普通乗用車が高架道路を西へ向かって走っている。 野暮ったいクリーム色の塗装を施された、セカンドインパクト以前より昔からあるという古めかしい車種。 ところどころに崩れかかった柱や建物の屋上部が水面から顔をのぞかせている風景を横目に、綾波は助手席で頬杖をついて無言でいる。 昨夜眼を覚ました綾波は僕の姿を見るや泣き出してしまって、僕をオロオロさせたけど、僕が日向さんと彼女をNervから連れ出した顛末を聞くと、途端に黙り込んでしまった。 僕は何か、彼女を怒らせるようなことでも言ってしまったんだろうか? …いや、それにしては綾波のまとっている空気は、彼女が怒っているときのそれではない。 元より儚げで神秘的なイメージを持っている彼女のことだから、僕はあまり深く彼女の沈黙に対して詮索しないでおいた。 いつか彼女が押し黙った訳を教えてくれる時が来るだろう、と…。 その時は、そんな能天気な考えでいたんだ。 僕は、備え付けのAMラジオの電源を入れてみた。 まだアナウンサーが「おはようございます」との挨拶を番組の冒頭に入れる時間だ。 「2月3日、時刻は午前9時を回りました。9時のxxxニュースです―――」 低い、アナウンサーの落ち着いた声に一瞬、身を硬くする。 もしかして、僕らの事が報道沙汰になってしまっているかも知れないからだ。 だけど、使徒の襲来にあれほど報道管制を敷き詰め、一般人たちに隠し通そうとしたNervのする事だ。 僕らの逃避行だってきっと、秘密裏の内に処理したいに違いない。 しかして僕の懸念は杞憂に終わる。 ラジオのアナウンサーは車で逃走中の汎用人型決戦兵器のパイロットふたりの動向など一言も触れず、与えられた持ち時間を消費するにとどめた。 「……京都に行って、」 やや安堵した僕に、不意に助手席から疑問の声が投げかけられる。 「どうするの?」 綾波だった。 彼女は窓から僕の方へと視線を向け直すと、疑問と不安をないまぜにしたようなトーンで(少なくとも僕には、そう聞こえた)口を開いた。 …綾波がいぶかしがるのももっともだ。 僕だって、あの晩に日向さんとの別れ際に『京都に行け』と告げられ、このノート型端末を与えられたのみ。 具体的には京都の何処に行って、誰に会えばいいのか…全く知らない。分からないんだ。 僕は正直に、そう話した。 だけど、綾波は僕とはまた違う意味で不安を感じていたんだ。 しばしの沈黙。 そして…… 「――…あの組織から、Nervから逃げ切れるなんて思えない」 小さな唇から、独り言のような吐露。 淡々と言葉を紡いでいるように聞こえるけど、彼女の赤い眼はひどく怯えているように感じられた。 そういえば、綾波は生まれてからNervという囲いの内側にずっと過ごしていたような事を言っていたように思う。 だからNerv本部内やエヴァに関することなら、何でも知ってる先生というかお姉さん的な振る舞いを見せてくれるんだけど、ジオフロントより離れた世界―――デパートとかゲーセンとか―――にはとても疎いところがあるんだ。 言うまでもなく僕らチルドレンには専属の監視役が付けられていて、彼等は僕らが何処に行こうと執念深く、知らない間に追跡してくる。 エヴァにでも乗って逃げない限り、彼等から逃げおおせる事なんて、ちょっと想像できないのが実情だ。 小さい頃からNervという組織を見てきた綾波にとって、そこから脱走する事がどんなに恐ろしく、かつ困難な事かを分かっている。だからこその発言だった。 「………」 僕の悪いところだ…。 綾波に対して、元気付けるような事を何か言えないか焦ってる内に、時間だけが過ぎていく。 無言の空気が車内を支配する。 ハンドルを握るぼくの眉間に皺が寄っていく。 「……………にぃ」 ふと、綾波の膝の上で丸まっていたねこさんが、業を煮やしたようにひと声あげると、彼女の定位置から離れて、後部座席へと移動した。 「あ………」 ねこさんを追って、綾波が手を伸ばす。 伸ばした手が、ギアに置いていた僕の手に触れる。 ……こ、これ…だ! ……多分……。 ぎゅっ。 僕は…、綾波の白い手をつかむと優しく、そしてできるだけ強く握った。 「! ……」 綾波は一瞬、驚いたような表情を浮かべた後、何も言わずにゆっくりと…俯いた。 どうしようもなく激しくなった胸の動悸がある程度のラインに落ち着くまで、かなりの時間がかかった。 こうして綾波の手に触れたのは、Nerv本部で庭園を見つけた、あの時以来だっけ…。 そう思うと、僕の胸になんともいえない感情が湧き上がった。 流されるままにNervを飛び出した僕だけれど、その代わりにこの瞬間を得られるなら、それだけで……。 僕は僕が下した決断を、悔いることはない。 心の底から、そう思えた。 その時だった。 後部座席に置いていたノート型端末が、メールの着信を告げていた。 第3新東京市郊外にある総合病院。 その入院棟の片隅に、ある男が伏せっていた。 男は、数ヶ月前の作戦時に負った傷でジオフロントの医療棟より半月ほど前に移されて来た。 腹と胸に銃創を負っており、一時は生死の境を彷徨ったそうだ。 ある程度回復したところを見計らって、彼はこの病院に移されて来たらしい。 何故なら、ジオフロントの医療施設では賄い切れぬほどの怪我人が先の使徒戦で出たそうで、弾き出されてしまったのだ。 男は、少し風変わりな患者だった。 個室である自らの病室に篭り、外部の者の必要以上の入室を神経質なまでに拒んだ。 かと思えば、検診のため訪問した医師に、もぬけのからの寒々とした病室を見せた事など一度や二度ではない。 とにかく、他人に顔を覚えられるのを極端に嫌っていた。 だが彼は2月2日の夜、忽然と病棟より姿を消した。 看護士の証言によると男は、その日の夕刻に訪ねて来たNerv関係者を名乗る男と面会していた。 彼のたずさわる業務に何らかの問題が発生したらしい。 傷の癒えぬまま彼はこの建物より去る事を余儀なくされたのだろう。 カルテによると彼の名は、八ツ目。 Nerv諜報部に所属し、七尾や九頭と同じくチルドレンの身辺監視を担っていた男であった。 +続く+ ++ 作者に感想・メッセージを送ってやってください ++ こちらのページから ■BACK |